「2013年の真相」№2―序の2・日本のフィクサーの如くにさせられた経緯②(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当)

このエントリーをはてなブックマークに追加

「2013年の真相」№2―序の2・日本のフィクサーの如くにさせられた経緯②(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):正式公開


2020/12/04 14:52掲載 (β)本体のみ。後日、(α)の2020年追記・解説、(γ)の写真や動画挿入予定。

2020/12/05 15:50 16:01 写真と早稲田大学マップ挿入。

2020/12/06 2:54 📷と動画を挿入

2020/12/06 21:04整理

2020/12/07 00:01正式公開  2020/12/07 2:17少し追記

 

 


 

(📷は一度クリックでPC大、二度クリックで巨大)

早稲田大学

2013年の真相―№2
α(一番上に2020年追記)
β(真ん中本体・原則小学館に送付したまま)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)
2020/12/04 14:10時点はβのみ。後でαとγを掲載予定。
全体目次は下記。今回は序章の第一節の続きと第二節の前半部分。

2013年の真相・目次



α(一番上に2020年追記)

 本文βで登場する、スポーツ選手へのメッセージ類の一部は下記である。
 また、早大大学院時代の知人類に関して、法学研究科の方の名を出しているが、政治学研究科の知人名も迷惑にならぬ範囲でだせればと思う。政治学研究科でも、知人類が現在早大教授として活躍しているようである。さらに政治学研究科でお世話になった知人類には、無名の人の方も多く、迷惑を警戒して名をだしていない。
 なお、大学院時代の恩師・内田満先生のゼミ出身者として、大学院では寺島実郎氏、学部では江川昭子氏などがいたことは後に知った。

 

【関連ブログ】登場人物に関連する私のブログ

①🥋女子柔道と🏓福原愛

夢か-16 ロンドンオリンピック女子柔道での、私の言動の言い訳(14年再録)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1503

夢か-16 ロンドンオリンピック女子柔道での、私の言動の言い訳(14年再録)

(福原愛ちゃんについては下記に各種メッセージを送付した目次ページあり)

●総合案内所・祝い・追悼の言葉

祝い・追悼の言葉

祝い・追悼の言葉

http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?page_id=18499

また、上記のロンドンオリンピックの時の逸話にカンする頃の🏓卓球女子三人組は一番下にビデオ収録(YouTube)あり。

②💣室伏広治

親愛なる室伏君へのメッセージ(祝辞―結婚おめでとう)。

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1259

夢か―9。親愛なる室伏君へのメッセージ(祝辞―結婚おめでとう)。

16-005・夢か現(うつつ)か―32『親愛なる室伏広治君へ届けの手紙』

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=4690

Blog16-005・夢か現(うつつ)か―32『親愛なる室伏広治君へ届けの手紙』

夢か現(うつつ)か33回・最終回「親愛なる室伏広治君へ届けの手紙からスポーツ選手への手紙」

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=4722

Blog16-006・夢か現(うつつ)か33回・最終回「親愛なる室伏広治君へ届けの手紙からスポーツ選手への手紙」

③🤼女子レスリング

Blog15-080:夢か-23:女子レスリング(15年前書きと14年再録)

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1819

Blog15-080:夢か-23:女子レスリング(15年前書きと14年再録)

 



β(真ん中本体・原則小学館に送付したまま):本文↓



一見話がそれるようなことを長々と記すのは、私の本意に外れ、日本のフィクサーに祭りあげられた後、政界・財界のみならず、スポーツ界・芸能界・芸術会等々でも、多くの諮問を受けたため、そこで私が動かした内容の情報公開をする予備作業も兼ねているからである。関連する事項を先に数例だけ記しておく。

日本柔道界は、私が小学校六年の東京オリンピックのとき、無差別級で神永昭夫がヘーシング(一九三四~二〇一〇年)に袈裟固めで敗れた。そこで、一九八センチの長身であったへーシンクに負けない体の大きい選手の育成を強化したときがあった。

一躍脚光を浴びたのが一九六センチの長身をもつ坂口征二である。坂口はその後プロレスラーに転向した。坂口がプロレスラーに転向したときから、スポーツ新聞のみか、アメリカのプロレス雑誌などで注目をしていた。坂口が結婚したときも覚えているし、日本のプロレス雑誌に幼児二人と写っている写真も覚えている。そのときの幼児が俳優の坂口憲二君である。

同様に、この頃、ハンマー投げの「アジアの鉄人」と呼ばれていた室伏重信選手にも注目をしていた。恐らく、一九六六年か七〇年のバンコクアジア大会の頃である。後に彼は四十歳(一九八四年)でアジア記録を樹立する。

彼が、テレビに出るときは大抵見ていた。室伏選手の子供さんが広治君である。室伏重信選手を知った頃は、彼は未婚だったと思う。

こうしたことを記すのは、二〇一二年のロンドンオリンピックのときに、謀略の臭いを感じたからである。私に対して、スポーツ・映画・芸能……等々多方面から、見学依頼のような物がある。時には天皇陛下並みの数である。
他にも、家事洗濯、畑の草取り・大きな家の掃除、田舎でのおかしなつきあい、再就職活動、作品作成、研究等々があり、全てに対応していたならば私は御陀仏となる。
そこで、オリンピックは一切見ないことにしていた。ただし、室伏選手と腐れ縁を感じていた女子レスリングだけは例外とした。ところが、ロンドンオリンピックのときは、この両者においておかしな雰囲気が醸し出された。誰かの陰謀かの如くに。

例えば、室伏選手の試合は見る予定でいたが、諸事情で新聞は一切取っていないため、試合がある日は分かるが、テレビではいつ放映されるかは分からない。デジタルテレビの番組表で調べたが放映時間は分からなかった。

ある日、疲労困憊で寝室ではなくテレビのある部屋で、布団も敷かず、知らぬ内にテレビを付けっぱなしで寝ていた。やがて、偶然目が覚めた。すると室伏君が出ていた。目は覚めても寝ているのか起きているのか分からぬ状態のため、そのときに私がどう反応したかは覚えていない。それが原因ではなかろうが、彼とは後におかしな雰囲気となった感じである。

ただ、それでも、彼がIOC理事選のときに不正があったという疑惑に対しては、いろいろと発言し、スポーツ仲裁裁判所が出した「(彼は)JOCの犠牲者であり……不誠実ゆえのものではない」というコメントは見届けておいた。
オリンピックの金メダル獲得のことは人は意外と早く忘れるが、不祥事と言われると、記録のみか、人の記憶に汚点として長く残るからである。時には噂として将来一人歩きする危険もある。それが徹底的にこの問題で戦うように言った理由である。


スポーツ界ではおかしな三つのことがあった。

第一が、挑発のためか、本当に催眠で言わされたのかは不明であるが、余分な一言のため最後まで見させられた。これは女子柔道と卓球の福原愛でやられた。

第二が、誰かが私に絡めて出鱈目をスポーツ選手に言い、彼らを私に対して怒らせ、そのエネルギーで躍進させるという迷惑千万なやり方の犠牲になることである。代表例が野球WBCの(私が一貫して好青年としか思っていなかった)原監督などである。同オリンピックでは男性競泳人である。

第三が、私には原因不明で、選手などが奇妙な態度を取り、私と軋轢を持たせるという陰謀型である。これが同オリンピックでの室伏君であり、女子レスリングなどである。私の影響力を少しでもなくすために、誰かが陰謀で選手や有名人と私との絆を破壊するための画策をしたのかと思うことが多い。
これには、私の政治的動きを封じる形で悪用されだした部分もあるかもしれない。詳細は、『日本のフィクサー〝ME〟』パート二で記す。こちらは堪(たま)った物ではない。


なお、こうした二世選手の中には、一九七〇年頃テレビで応援していたアニマル浜口(日本の元プロレスラー)の娘・浜口京子がいる。私が注目をしていた選手が結婚をし、その二世が同じ道を歩めば、最初から注目をするのは自然のことである。ただ、先の坂口憲二君は芸能界に進んだので見る機会がなかった。何故ならば、私は芸能界には興味がないからである。同様に、私はアントニオ猪木(元プロレスラー、参議院議員)のフアンであったが、猪木の子供・猪木寛子も芸能界に進んだので注目を止めた。

ところで、この猪木氏が昨年(二〇一三年)北朝鮮を訪問し、張氏成沢(チャン・ソンテク)氏と会談を行った。他方、私は張氏とは全く無縁であるが、私がソウルに行く前に、金正恩(キム・ジョンウン。金正日の三男。朝鮮労働党第一書記)と張氏の間で軋轢が生じ、私の中国での言動が誤解されていたら困るため、今回のソウル訪問では当初予定の一つであった板門店行きを中止した経緯がある。私がソウルから戻った翌日(十二月十二日)、張氏が処刑されたというニュースが世界を流れた。

なお、小泉純一郎氏(第八七~八九代内閣総理大臣)との腐れ縁については拙著『日本のフィクサー〝ME〟』で記した。よって、彼の子供・進次郎君には大変興味を持ち、同時に大変危惧している。危惧とは、小泉純一郎氏は鷹派(改憲派)であり、私は鳩派(護憲派)であり、ライバル関係にある。その上で息があった所もある。
言わば、上杉謙信(一五三〇~一五七八年。越後国の戦国大名)と武田信玄(一五二一~一五七三年。甲斐国の戦国大名)の関係の如しである。進治郎君が将来大変な大物になったとき、ルールに基づき論争をする羽目となるかもしれないことを危惧している。だが、それがあって初めて民主主義社会ともいえる。そうなったときには双方、ルールの上で紳士的な論争ができることを願っている。


方向音痴の私は、この序章だけは、方向音痴(道に迷ったとき)そのものの文章を記している。しかし、これには訳がある。いずれ、読者はその訳に気づくであろう。



第2節・方向音痴の私(その二)

早稲田大学


次は早大大学院を巡る方向音痴の話である。これは、私が日本のフィクサーに仕立てられた経緯を紹介する作業も兼用している。

私は大学を卒業し、教師をしばらくした後で、大学院に進学した。学校は早稲田大学(以下早大と略す)である。しかも、私が進学した早大大学院政治学研究科は、早大の校舎の中でも一号館となっており、大熊講堂と道を挟んだ真向かいにある。もし、本校に正門があれば、その正門の一番近くの校舎である。よって、早大の中で一番分かり易い場所にあった。しかも、早大は学生数の割には本部キャンパスは狭い。これでは迷子になる人間はいないであろう。おまけに、私は、早大の中でも、一号館と図書館だけを往復する人間なのだから。図書館も一号館のすぐ前にあった。

早稲田大学マップ

 

全体は下記PDF

http://www.waseda.jp/wnfs/access/waseda-campus-map.pdf

早大一号館:(写真クリックでPC大、二度クリックで巨大)

右端が早大一号館・政治学研究科

普通に撮れば以下。

一号館・私が通っていた政治学研究科の所在地

2017年には政治学研究科は三号館に移動していたようである。

早大3号館


ともかく、これだけの条件を与えられたならば迷子になるはずはないと思った。雑司ヶ谷の下宿から早大までの道を今度は完全に覚えたので大丈夫である。実際、大学院時代は大丈夫に近かった。
なお、大学院当時は、交通手段は大抵自転車であった。国会図書館に行くにも、秋葉原に行くにも、神田の古本屋街に行くにも、家庭教師で中野や、塾のある大塚に行くにも、定期的に温水プールに行くにも、研究会で東大に行くときにも、ほとんどすべて自転車であった。大学時代の反省から今度は迷子にならなかった。

私が住んでいた最初の下宿の裏にある雑司が谷墓地・夏目漱石の墓


だが、大学院を一九八〇年に修了し、女子高校の教師、駿台予備学校講師を経て、専任確約で招聘(しょうへい)された旧労働省所管・雇用能力開発機構運営の大学校講師時代に、想像を絶する(賃金支払遅延・事実上の賃金不払)労基法違反・(数十万円の損失を与えられた)契約違反・不法行為の嵐に十年以上巻き込まれた。

どのくらいひどかったかは拙著『恐るべき労基違法違反』、『閉じた窓にも日は昇る』等に掲載している。高度経済成長期以降の日本でこれほど酷い事例はないと言える被害であった。こうした行為が長く続くと、脳をやられる。司令塔・脳がやられ、自律神経もやられ、それらはやがて内蔵の弱点箇所を探して攻めてくる。そこで、十二指腸潰瘍を患い、大吐血三度、五度入院の羽目となった。

「機構」に対して損害賠償と慰謝料を請求するために、弁護士に相談することにした。ただ、昔、不法行為被害に遭(あ)ったときに、某弁護士に相談すると全く役に立たなかったため、今度は知人の弁護士に限定した。
真っ先に浮かんできたのが、大学院時代の友人である神田高君である。(『日本のフィクサー〝ME〟』の中でも、彼をモデルとした人物を登場させているが、『同書』の中での、彼との会話等は大半フィクションである。この原稿の中の会話は事実である。また、私は『同書』中でボンと称している。)彼と東京法律事務所(後に独立し、みたか法律事務所を経営)で相談した翌日、久々に早大に行くことにした。目的は大熊講堂界隈の撮影である。

大塚の安宿から、池袋を通り、地下鉄東西線の西早稲田駅で下車した。ところが、西早稲田駅から早大に行こうと思っても、さっぱり分からないのである。最初から道を聞けばよかったのだが、聞けば恥と考え、相当歩いた。だが大隈講堂は見えない。ついに、恥を忍んで、道行く人に「大隈講堂の方角はどちらですか」とか、「早稲田大学はどちらの方角ですか」と何度聞いたであろうか。

大学院を修了したのは一九八〇年であるが、研究会その他の関係で一九八一年まで早大の図書館通いをしていた。おまけに早大に最後に来たのが一九八九年末である。早大に名目上三年、事実上四年通い、更に大学院修了後も相当来ていたため、まさか何度も利用した地下鉄西早稲田駅から早大に行く道が分からないとは思いもしなかった。そこで、当然、早大界隈の地図は持参していない。

この第2節を通して、私が日本のフィクサーになる過程を記す前に、私が不当な賠償額を得ようとしたのではないことを証明するには、相談した弁護士の解説をするだけで十分であろう。と言うのも、第1章に記した中国の旅では、真珠店に入るときに、私が「猫に小判、豚に真珠」と言うと、Y氏が「そんなことを言っても誰も笑わないよ」と意味ありげに言っていたため、念のために記しておく。

私は政治学研究科に所属していたが、それとは別にサークルで法学研究科の一部の諸君と研究会を週一度行っていた(私は、このサークル内では諸事情で、ペンネームを使っていたため、サークルのメンバーは私の本名を知らないかもしれない)。

早稲田大学法学部方面から


そのメンバーの中には水島朝穂君(早大大学院教授)、衆議院特定機密保護法案参考人質疑で発言した田島康彦君(上智大学大学院教授)、鮎京正訓さん(名古屋大学大学院教授)などがいた。私がこの研究会に所属していた頃は神田君はまだいなかった。ただ、私が親戚付き合いに等しい関係を持っていた孔雀という飲み屋のママさんと神田君のお父さんが親しく、その関係で私も神田君、彼の妹さん・お母さんとも知り合いとなった。当時、神田君は司法試験浪人中であったが、突如、翌年から早大大学院法学研究科に入学し、先のサークルのメンバーとなった。(★肩書きは全て二〇一四年時点。)

先に名を出した諸君は、私が神田君に相談したと聞けば、即座に、私が不当な賠償額を要求したのではないと思うであろう。神田君は、得意分野はフランチャイズ関連であるが、(立派であるが)沖縄基地訴訟など金にならない仕事を多く持っている。当時の、神田君との一時間に及んだ会談内容を簡単に記す。神田君は、私の言うことを一時間ほどメモを取り、最後にこう言った。

「浜田さんさー。もうその話はそこまでにして飲みに行こうよ。いい店を知っているんだよ。僕がお金を出すからさー。それからさー、そちらの方は浜田さん、自分で訴訟をやりなさいよ。弁護士に委任すると言っても弁護士も当てにならないよ。それに法律扶助協会が紹介する弁護士でも、どんな人がつくか分からないから、自分でやった方がいいよ。
ともかくさー、その話はそこまでにして、飲みにいこうよ。労働省系大学校を辞められただけ良かったではない」
「ともかく、本日の相談料だけでも支払いたい。けじめの問題もあるから」
「いいよ。いらないよ。では、これから飲みにいこうよ。それとさー、浜田さんさー、大学院生が教師に体当たりするようになったのだって」

恰(あたか)も、私が岡山の大学校で学生から体当たりされたのを知っており、その学生が本当の学生ではなく、どこかの(教員を目指している)大学院生だと言わんばかりであった

なお、二〇一〇年に、今度こそ、雇用能力開発機構との決着をつけようと、当時の菅直人総理大臣を始め政府幹部に、また主要政党党首に、厚生労働省に、立会人・新免昌和前美作市議会議員に、更に神田君にも長い文書を送付した。知らない人は、そのときの神田君の態度を薄情と誤解するかもしれない。それに関しては、『日本のフィクサーME・パート二』で解説を行う予定である。ただし、『日本のフィクサーME』シリーズは、一部は事実であるが、一部は故意(目くらましのため)にフィクションを入れて仕上げていることを先にお断りしておく。今回の原稿の方は、私には事実としか思えない事項しか書いていない。


さて、この節の本題に入る。即ち、私が日本のフィクサーとなった経緯である。詳細は『日本のフィクサー〝ME〟』などに記述しているため、今回は簡単に三つの仮説を記す。



(上記の逸話の頃の福原愛ちゃん)

卓球 福原愛 平野早矢香とダブルスを組むと耳が痛い

2020年12月7日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA