「真相2013年」―序の1・日本のフィクサーの如くにさせられた経緯①(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):下書

「真相2013年」―序の1・日本のフィクサーの如くにさせられた経緯①(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):下書。


2020/11/25 2:00 下書掲載 23:58追記作業開始

2020/11/26 1:43 追記

 


(2020/11/25追記箇所)

【日本のフィクサーME・パート2全体での登場人物】(敬称略)

2013年は激動の年であった。韓国では朴槿恵氏が登場し、アメリカのみか中国も大きな関心を彼女にもった。そして、韓国が中国に接近かという現象も見られ出す。日韓関係では、安倍氏と仲が良いはずの朴槿恵氏が、対日強硬な対応をとるが、私には彼女の演技か、本気か一切分からなかった。この両氏とミスター・オバマとの関係よりも、朴槿恵氏と安倍晋三氏は、幼い頃から仲が良いはずである。岸信介が、朴正熙が暗殺されたときに、朴正熙氏の娘(朴槿恵氏と妹)を岸家の養女にしようとした話は実話と思う。こうしたトリックから日韓関係は奇妙な症状を見せ出すことになる。

また、安倍氏の対中国政策はナショナリズムからくる中国挑発外交に思えた。私から見て、対中安倍挑発外交が下火に成るのは2014年春のオバマ大統領訪日の頃からである。だが、2013年はそうではなかった。いつ、偶発から中国との小競り合いがあるか不明の如くにみえた。その最中に、私が訪中をすることになる。また、2012年の尖閣国有化問題で対日感情が激しかったときである。その最中の訪中である。更に、訪中直前に、麻生氏の靖国参拝というおまけつきであった。

 ちなみに、私は総理の靖国参拝に反対していた。小泉純一郎氏のときも反対した。そのときの模様は拙著『日本のフィクサーME(下巻)』(Kindle、KOBO各百円、海外では$1)を参照してもらいたい。それでも、小泉氏の靖国参拝と安倍氏の靖国参拝では、本質というか、内容が違っているように思えた。どう違うかは、嘘を5~10%いれた日本のフィクサーMEシリーズで書こう。

ともかく、安倍氏の靖国参拝というよりも対中挑発外交は2014年春のオバマ大統領来日、2016年8月3日の(親中・親韓派の)二階俊博氏の幹事長就任でかなり陰をひそめかける。前者の話は「日本のフィクサーME・パート3」で、後者の話は「日本のフィクサーME・パート4」追記で記そう。そして、トランプ大統領登場と同時に、日中接近の必要性がでてくるに及び、習近平国家主席来日の機運が高まるなど、当時には考えられない状況となっている。その話は「日本のフィクサーME・パート5」か「日本のフィクサーME・パート6」で記そう。可能ならばパート6をもって同シリーズを打ちきりたいと願っている。パート6は2020年11月3日か、2021年1月21日までのどちらかを終了時点としている。

 私は、尖閣問題で、自衛隊どころか、米軍も一人たりとて死ぬことは問題が多いと考えている。守るも何も、無人島で、海底油田が意味をもたなくなれば無価値に近い島で…。勿論、中国の軍人が一人たりとて、尖閣問題で死ぬことは意味のない死と考えている。ではこの問題をどう解決するかは、今回の「真相2013年」を徐々に公開したり、「日本のフィクサーME・パート2」などを書いたりしていけば分かるであろう。

なお、訪中目的の一つには、この尖閣問題沈静化の役割があったようである。同時に、私の方も鑑真和上の足跡のみか、世界連邦樹立への道を開く目的もあった。世界連邦が起動に乗り出せば、その間の私の動きを掲載した書物は爆発的にヒットし、老後破綻とは縁遠い将来となるであろうなども考えることもあった。詳細は「真相2013年」を読んでいけば輪郭はみえてくるであろう。

また、私の訪韓目的の一つも、人が聞けば驚くことを考えていた。当然極秘である。それを訪韓の箇所で詳細に解説をする。なお、この計画は訪韓前に途中で断念することになる。だが、成功していれば、日韓関係の改善に大きな意味をもったと思っている。成功していれば、日韓関係改善の上で、コストパフォーマンスが高い仕事となったであろう。

こうして、私もこの激動の波に飲み込まれた。そして、私の行動が世界に何らかの影響を与えたかもしれない。そこで、2013年訪中、訪韓を中心に2014年初頭に「日本の真相・2013年」を記した。

この原稿「真相2013年」を本文では原則としてそのまま掲載する。解説部分は本文の上に掲載する。ただし、本文にも一部追記をしているが、それらは追記と明示し、本文は誤字脱字の修正以外はしない状態で公開する予定でいる。

この原稿は出版社に送付している関係で、数週間後には削除する予定でいる。出版の有無が判明するのが、恐らく12月末頃のため、掲載も数回に留める。小学館などではHP等への掲載したものは対象外となっているからである。ただし、同社では三分の二以上新しい内容があれば可能となっており、12月末までの公開部分を三分の一以下に留めなければならないからである。予定とすれば、本年末までに二十分の一程度の掲載となる。二十分の一程度といっても原稿が長いため、かなりの分量となる。

なお、目次だけを見て、橋下徹君との関係を誤解しないでいただきたい。誰かの小細工で双方、もしくはどちらかの勘違い程度だった可能性が高いからである。詳細は本文と該当日の追記を読んでいただきたい。

なお、この原稿は雇用能力開発機構との交渉の立会人となっていただいた新免昌和氏にも2014年頃手渡しているのみか、2014年に集英社へ、2020年には小学館に送付している。そこで、私の方での改ざんは不可能である。

【国内】
小渕恵三

早大大学院政治学研究科先輩。
私の大学院時代恩師の知人 救済依頼文書を2000年4月3日に送付。正にその日に小渕総理緊急入院。私が会談した気がなくても、ここから政経に私の言動が一部いかされたような気配がでてくる。だが、まだ本気にしていなかった頃である。

小泉純一郎

2004年に救済依頼文書送付。それが縁でテレビを通じて何かと会話をする。一部意見を聞かれたようにも思えた。

菅直人

2010年救済依頼文書送付。それが縁でテレビを通じて何かと会話をする。しかし、1970年代後半に市川房枝氏にインタビューに行き、一対一で会談をしたことがある。その頃、市川房枝さんの選挙参謀が菅直人氏であったように思う。
なお、菅直人氏と温家宝氏の間に入ったのが国際舞台へのデビューであったかもしれない。

野田佳彦

菅直人氏との関係で一部アドバイスをしたような気になっていた。ちなみに、野田氏は私が早大政治学研究科在籍時代、アルバイトで学生の試験監督をしたが、その頃の政経学部の学生が野田佳彦氏や大塚耕平氏であった。なお、法学部でも同様の試験監督のバイトをしたが、その頃の学生が岸田文雄氏や稲田氏である。

安倍晋三

今回は詳細な記載を略す。ただし、今回テーマの2013年頃から事実上安倍内閣がスタートするが、彼が最初に行ったことの一つが、日本のフィクサーMEのボン対策、即ち、私の対策であったかもしれない。安倍晋三氏の奥さんが私の故郷・美作市に登場してくるのが2013年である。

河野洋平 福田康夫 岸田文雄 仙谷由人 岡田克也 土井たか子 福島瑞穂 不破哲三 志位 橋下徹 小池百合子 筑紫哲也 田原総一郎

【海外】
オバマ
ミスター・オバマが大統領になった2009年は私は村の組合長、更に老母をかかえて政治どころではなかった。そこで、ミスターオバマとの接触はまだほとんどなかった。
母が死ぬまで入退院、危篤…であり、母が死亡したのが2012年11月27日であった。そして、今回紹介する2013年が始まる。
私とミスターオバマの本格的接触の開始が、この原稿の前半部分の訪中からであったかもしれない。

習近平

今回テーマの2013年から中国の国家主席となる。

プーチン

ミスター・プーチンが2012年に大統領に返り咲き、この原稿のテーマ2013年の国際舞台で随所にその存在をみせだす。

温家宝
「日本のフィクサーME」(パート1該当)で…経緯は記している。(Kindle、KOBO各百円、1$で発売中)。

朴槿恵 2013年から登場となる。


本文(2014年初頭に掲載したもの):目次の右端の数字は原稿時のときのページ。今回は序章の1(1節)方向音痴の私(その一)の半分程度である。なお、一頁が約1600字である。


【目次】

表紙 一
目次 二

序章・ 方向音痴の私―日本のフィクサーにさせられた経緯 三
1・方向音痴の私(その一) 三
2・方向音痴の私(その二) 七

第1章・MR・習近平、プリーズ―中国への旅(中国会談全貌)     一三
1・訳ありツアー 一三
2・中国への旅の真の目的 一六
3・中国の旅 一七
4・中国首脳部との会談―歴史は夜作られる 二三
5・歴史的会談への序幕 二五

第2章・帰国後の嵐の中で 三四
1・帰国後の嵐の前兆 三四
2・橋下徹君の従軍慰安婦攻撃 三六
3・橋下切りまでの苦悩と決断 三九
4・橋下発言の問題点 四二
5・公正と正義 四八
6・私の行動を妨害した黒幕は誰か 五〇

第3章・平和と差別なき世界を求めて 五二
1・残された日々の中で 五二
2・李明博大統領生誕地を訪ねての旅 五四
3・コリアタウンから広島平和公園まで 六〇

第4章・ソウルへの旅 六六
1・ソウルへ―アニョハセヨ
2・ソウル会談・一日目―ホテルにて 七二
3・ソウル会談・二日目―安重根記念館内にて 七九
4・帰国後の暴風 八六

 


序章・方向音痴の私―日本のフィクサーにさせられた経緯

二〇一三年十二月九日一八時五十六分。気づくと、私はソウルタワーの前にいた。ソウルタワーに行く予定などはなかったのだが。何故、私がタワーの前にいるのか?しかも、雨が降る中、薄着で、十キロ近いカメラ機材を持って。勿論、ソウルタワー撮影は無理である。暗い上に、タワーは雨で霞んでいるのだから。
実は、私は安重根(日本語読み「あん じゅうこん」、ハングル語読み「アン・ジュングン」。一八七九~一九一〇年)の記念碑を目指していた。ところが、南大門公園に入ったとは思うのであるが、地図を見ても道が分からなくなった。途方に暮れていたら、青い光が見えてきた。雨で霞んで青い霧の塊の如くに。自棄のやん八で、その方角に行くと、ソウルタワーの前にいたのである。タワーの前とは言っても、第4章に記す如く山の上である。
寒いので、即、帰路に就いた。やがて、三つ角に出くわした。もう毒を食わば皿迄の心境で、来た道とは違う道の方へ、敢えて進んだ。すると、安重根記念碑が突如見えた。降りしきる雨の中、記念碑の前で、帽子を取り、傘も置き、バックも置き、合掌する。その後で、記念碑を写し続けた。枚数は二十五枚である。翌日撮影した枚数は四十六枚であり、実にこの記念碑だけで七十一枚写したことになる。
だが、道を変えて偶然にも安重根記念碑に辿りついたツケは高くついた。と言うのも、今度はホテルまでの道が分からなくなった。通行人に何度道を尋ねたであろうか。ハングル語はできないため、英語で尋ねた。英語はソウルでは余り通用しなかったが、ホテル名を言ったので、現地の人もホテルが分からないのであろうと察して教えてくれた。特に、交番の警察官は親切であった。しかし、それを上回る方向音痴ときている。おまけに持参している地図がハングル語で書かれていたため、幾ら地図と照合しても分からない。また、ホテルが裏路地の分かり難い所にあったため尚更であった。

第1節・方向音痴の私(その一)
因みに、どの程度の方向音痴かを大学時代と大学院時代の二例で紹介しておく。この二例は、今回の原稿全体像の紹介を兼ねた作業のため、方向音痴同様に、話が道に迷うことをお断りしておく。

まずは大学時代の話である。大学は風光明媚な関西学院大学で世話になった。方向音痴の私は、用意周到に様々な地図を購入し、それらを持参して西宮に行った。だが、油断があった。最初に住んだ下宿は大学の敷地内と言ってもよい場所にあった。地名は仁川五ケ山町であるが、その中でも関学に一番近い場所であった。(この近くの駅が仁川[にがわ]駅であり、ソウルに行ったときの空港が仁川[インチョン]国際空港である。)そして、大学まで何度か行き来し、これならば簡単に分かると思った。そこで、授業初日には地図を持参せずに登校した。帰りは、大学構内にあったランバス記念館が珍しく、記念館に立ち寄った。すると、いつもと違う方向に行ったため、帰り道が分からなくなった。通常ならば、数分で帰られる下宿に一時間経っても帰られなくなった。しかも、番地は覚えていない。下宿の名を言っても、ぐるぐると違う所を行ったり来たりしたため、知らぬ人ばかりである。どうしたものかと思いあぐねた。
やがて、色が黒く、人相が余り良くない人物に出会った。しかし、もはや誰かれとなく尋ねるしか術はなかった。その人物に尋ねると、彼はこう言った。「それは僕の下宿と同じです。では僕が連れて帰ってあげましょう」、と。こうして無事下宿に帰った次第である。この日も、雨が降っていた。安重根記念碑の前と同様に。なお、彼はEM君と言い、後に下宿、バイト先、クラブ(婦人問題研究部)、ゼミと全て同一となり、私の親友となった。残念ながら数年前に他界し、多忙とトラブルまみれであった私は、昨年(二〇一三年)十月に漸く、彼の実家に行き、彼の遺影を拝んできた。なお、このときにオバマ大統領宛のメッセージを、広島平和記念館内に備え付けてあるノートに記述してきた(第3章参照)。多分、そのメッセージはオバマ大統領にも届いているであろう。その根拠は『日本のフィクサー〝ME〟』に記したが、今回も後に少しだけ記すことにする。
ところで大学時代に、EM君のことを、ある友人がこう言ったことがある。
「EMさんは顔がボボ・ブラジルに似ているね」、と。
ボボ・ブラジルのことを全く知らないEM君は、よく分からないが兎も角、二枚目の俳優と似ていると想像し、こう答えたと聞いた。
「そうかなあ。僕、ボボ・ブラジルに似ているのかな」
と、最初はとまどったものの、最後は慢心に笑みを浮かべて、そう答えたそうである。
ボボ・ブラジルとは、一世を風靡したアメリカの黒人プロレスラーである。本名はボボ・ブラジルではない。しかし、彼が活躍していた頃は黒人差別が激しかった時代である。そこで、黒人差別が存在しないブラジルに憧れて、リング・ネームをボボ・ブラジルとしたそうである。現在、アフリカ以外で、黒人差別が存在しない国の代表例がブラジルとキューバと聞いたことがある。なお、ブラジルに関しては面白い話がある。ブッシュ第四三代米国大統領(任期二〇〇一~〇九年)が、ある会合でカルドーゾ・ブラジル大統領に次のような質問をしたことがあった(二〇〇一年)。
「ところで、ブラジルにも黒人がいるのかね」
世界覇権をもくろんでいたブッシュともあろうものがという側面と、ブラジルには黒人差別がないことの証しでもある。
このボボ・ブラジルというプロレスラーは頭突きの名手であった。ジャイアント馬場と戦ったときにも、この頭突きで馬場を倒したことがある。私が中学生の頃、世界で一番強いプロレスラーはボボ・ブラジルではないかと思ったくらいである。そして、このボボブラジルに頭突き合戦を挑んだのがプロレスラー・大木金太郎(一九二九~二〇〇六年)である。頭突き世界一決定戦として戦った。もっとも、ボボ・ブラジルの頭突きは上からたたきつけてくるのに対して、大木金太郎の頭突きは横からたたきつけていた。
大木金太郎の話をしたのは今回の原稿と関係があるからである。私は中国には後に述べるように幾つものパイプを持っている。アメリカにも幾つかのパイプがある可能性が高い。だが、今回訪問した韓国には、そうしたパイプはなく、朴政権との唯一のパイプが大木金太郎だったのである。大木金太郎は韓国生まれのプロレスラーであり、本名はキム・イルである。大木金太郎ことキム・イルは(北)朝鮮出身の力道山に憧れ、その門をたたくため、日本に来た。日本で活躍した後、アメリカで幾つかの世界チャンピオンベルトを獲得した。今でこそ、プロレスの地位は低いが、当時は現在乱立しているプロ・ボクシングよりは価値が高かったかもしれない。ブラッシー事件までは、読売新聞など日本を代表する大手新聞の大半がプロレスをスポーツ欄で取り扱っていた。
当然、大木金太郎の母国である韓国では、当時の朴正煕大統領{パク・チョンヒ、一九一七~一九七九年、第五~九代大統領[在任一九六三 ~一九七九年]。朴槿惠大統領の父}が大木を高く評価し、何度も会っていた。当時、大木は〝韓国の英雄〟と称されていた。朴大統領の娘である朴槿惠大統領も、大木との記念撮影等はしていたと思われる。他方、格闘技に熱狂していた私も、実家近くの岡山県津山市の大会で大木と並んで記念撮影を何枚かしていた。高校一年生のことである。一九六八年頃の話である。

私と朴槿惠大統領との線は、大木金太郎(キム・イル)しかなかった。そこで、ソウル行きに際しては、大木金太郎と私が並んで写っている写真を大きく引き伸ばして持参した。その効果があったかどうかは、現時点では分からない。ただ、ホテルに案内してくれた、旅行会社の女性も朴と言ったが、彼女がその写真を見たときに、何故か私に対して気の毒そうな顔をしたという謎がある。また、私の日程表で三日目午前五時ホテル発を見たときも同様であった。
なお、私がプロレスに熱中したのは小学校六年(一九六四年)の終わり頃からである。格闘技に熱中したため、柔道か、レスリングか、空手か、いずれかの格闘技に専念したくてうずうずしていたが、中学校にはいずれのクラブもなく、高校に入学すると柔道部だけがあったので入部した。柔道の練習は厳しかったが、格闘技が好きであり、充実感が溢れ、家でも自主トレに励んでいた。ただ、おかしなマインドコントロール(催眠としか思えない形)で、「受験勉強があるだろ、しかも社会科学系のサークルにも所属しているだろう」型で退部となった。因みに、柔道部では体罰などは当時はなかった。私が退部するときでも親切そのものであった。
「お前、柔道部を辞めるならば、記念になるように、今日は通常の練習後に特別に練習をつけてやろう。よい思い出になると思うよ」と言う具合であった。
当然、私は投げられたり、絞められたり、関節を決められたり、相当やられることを覚悟した。そうした最後の練習が長時間に及ぶと想像され、特別練習に入った後、私は一つの奇策を思いついた。「へばる前に相当へばった振りをすれば、その後のしごきは三十分か一時間程度であろう」、と。そこで、頃を見計らって、まだ余力十分であったが、徐々にへばった振りを開始しかけた。すると、先輩が即座に言った。
「よし、ここまでにしておこう。これで終わり」、と。
私は喜びよりも呆気に取られた。
「え、もうこれでおしまいなの」
思えば、先輩の何人かが練習のときによく言っていた。
「お前な、試合のときはそれでよい。しかし、今は練習だろ。少し手加減をするということを思いつかないのか」
田舎の受験校の柔道部とはこうしたものである。

(今回の文章をもう少し掲載するか、今回は個々までとするか検討中)

今回は以上。



当初記述構想などのメモは以下である。

日本のフィクサーME・パート2・第二回(メモ掲載中)

○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=28658

日本のフィクサーME・パート2・第二回(メモ掲載中)

 

 

2020年11月25日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA