「2013年の真相」№22・第4章ソウルへの旅・第1節・ソウルへ―アニョハセヨ(下)
・📢(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣💁(正式公開):
【更新履歴】
2021/06/08 12:15 β部分 を掲載。α(2021年追記)部分とγ部分(写真掲載)は本日中には掲載予定。
2021/06/08 13:19 β部分に重要箇所を掲載し忘れていたため追加 14:04微修正
2021/06/08 20:53 γ部分(写真部分)追加終了。
2021/06/08 22:52 α部分を付け加え正式公開 (ただし、誤字脱字類は後で直す場合があります。)
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2013年の真相―№22
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)=2014年初頭の文書(後の追記は追記時期明記)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)
全体目次は下記。今回は3章第3節。
№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする
β(上に本体・原則2014年初頭小学館に送付したまま):γの写真とα)2021年追記は本日(2021/06/8)少し時間がかかりますが6月8日までには挿入
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第4章ソウルへの旅・第1節・ソウルへ―アニョハセヨ(下)
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当初は、うまくいけばソウル一日目に安重根記念館・記念碑に行き、二日目は板門店・三八度線行きを予定していたが、右記(2)の理由で中止と考えて出発した。なお、帰国した翌日の十二月十二日に、張成沢(チャンソンテク)氏は処刑された。
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私は、中国で、北朝鮮問題は北朝鮮を開放経済へ舵を取るように誘導するしかないと言っていた。そして張氏は開放・改革経済に関心があったようであるが、私とは無関係の人物でしかない。また、「金正恩を排除し、(時には暗殺し)、彼の兄と置き換えようとする動きがある」ことは中国で話している。しかし、それは(米韓は元より)中国も既に知っていたことと考えている。同時に、私は「そうした暗殺などによる政権交代による方法は、現代では時代遅れであり、そうした行為には賛成できない」と明言している。
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張氏がクーデターを企てたという説もあるが、右記の如く、私とは無関係である。ただ、この言動を中国でしたときに、その数日後に北朝鮮が中国に特使を送ったことは既に記した。同時に、突如北朝鮮が、中国以外でも会談のテーブルにつく意思があると急変した。なお、日本のTVに向かい、中国でこのクーデター計画の噂を話したと言うと、福島瑞穂(当時の社民党委員長)が、「(また)余分なことを言って」とややふてくされていた。まだその頃は張事件のことなど誰も思いもよらなかった。
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《【二〇二〇年追記】張成沢の件は日本のテレビ等で聞いた噂であり、私自身は何も知らない。誤解かデマが飛んだのかもしれない。公式ブログ「日本のフィクサー〝ME〟続編メモ(六)・国際緊張緩和のための情報公開・中国から韓国へ:2・訪中」等参照。これが後に米朝首脳会談へ。》
(この追記部分は二〇二〇年後半であるが、最後のリンクを2021/06/08添付する)
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2017/11/8
六―1
国際緊張緩和のための情報公開・中国から韓国へ:1・訪韓
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=16754
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2017/11/13
六―2
国際緊張緩和のための情報公開・中国から韓国へ:2・訪中と北朝鮮問題
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=16824
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2017/11/17
六―3 国際緊張緩和のための情報公開・中国から韓国へ:3-1・米中橋渡しを目指して(1)
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=16889
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ソウルへ旅立つ日がやってきた。
時間帯の関係で前日は大阪泊となる。十二月八日に家を出る。
市による挑発のため、市営バスが利用できずに大変であった。我が家から片道六キロ離れた駅まで自転車で行き、駅に自転車を置き、次に駅から約二キロを歩いて高速バス停留所まで行った。帰りも同様であった。ただ軽武装のため、さほど苦にはならなかった。
カメラ類以外はパンツ二枚、下着一枚と靴下二足、それと韓国ガイド本一冊のみである。小さいリュックに簡単に入った。後は何も持って行かなかった。
帰りも何一つ買わずに同様であった。ただし、商売道具のカメラの方はカメラ二台、レンズ五本、ストロボ一つ、多種のフィルターと中武装であり、八キロ程度の重量となった。尤も、これはソウルではなくても、大阪などに買物に行くときでも持参する装備である。重装備のときには七キロある三脚などが加わり、二、三十キロになる。
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翌朝・二〇一三年十二月九日午前七時前起床。八時にホテルを出る。天気は曇りとも晴れとも言い難い日であった。梅田から関空まではリムジンを利用した。空にはまだらな雲が浮かび、太陽が幻想的な形で存在していた。リムジンは午前九時十五分に関空に着いた。それから諸手続をして、午前十一時五十分、飛行機は関空を発った。中国のときは全日空であったが、今度は大韓航空機である。大阪を発ったとき、空には幾分青さがあった。ところが機内放送ではソウルは雨という。まさかと思ったが、到着すると本当に雨であった。
【写真・雲】→写真は一度クリックでパソコン画面、二度クリックで巨大。
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ソウル空港には十三時五十五分頃に着いた。到着し、即、途方にくれた。出発前に、旅行社から「迎えの人は出口で待っています。出口は電光掲示板を見れば分かります」と聞いていた。しかし、仁川空港につくと、電子版には阪急ツアーなどは何も掲載されていなかった。全て手荷物のため、どこから出てよいか分からなくなった。出口は関空と異なり幾つもある。適当な出口から出たものの、迎えの人は誰もいない。尋ねると出口はA~Gまで八つほどあるとのことであった。関空は二つである。しかも、このA~Gまでの距離が長い。五百メートル以上あるのではとさえ思えた。ともかく出口を順番に見ていった。
【写真・仁川空港は第節で紹介】
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しかし、阪急と書いた幟や用紙を持っている人は見当たらない。勿論、私と同一のバッジをしている日本人もいない。既述の如く、このツアーへの参加者は私一人なのだから。辛うじて、英語と日本語のどちらかが〝空港では〟通用した。〝空港では〟の強調を覚えておいてほしい。あちこちを探し回り、ようやく某ツアーという幟の下に小さく阪急と書かれた紙を見つけた。おいてけぼりを食うのではと不安であったが、それは杞憂とは無縁の物であった。
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私が係員に言った。
「遅れてすみません。両替はどこでしたらよいですか」
「空港でされても良いですよ」
「集合場所に来るのが遅れたので、そんな時間ありますか」
「じゅ~う~ぶん、ありますよ」
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実際、両替後も他の客を待つのにかなりの時間がかかった。私のツアーは私一人のため、他のツアーの案内人の所に、私がおまけで放り込まれていたようである。
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大きな空港に出口が八つほどあり、しかもどの出口にもツアーの標識を持った人がおらず、更にツアーの参加者が私一人と分かると、英語圏でない場所では言葉が通じるかどうか、と不安がよぎるものである。そしてその不安は後に的中した。
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ともかく、こうしてマイクロバスの送迎車に乗った。七人ほど乗っていたが、私以外は同一のホテルに泊まる別のツアー客であった。ホテルへの道中、十五時四十分頃免税店に立ち寄る。宝石類等が並んでいたが、猫に小判、豚に真珠であり、私にはゴミ捨て場に来たような感じがした。ここでの一時間近い時間を潰すのに苦労した。外へ出て、景色を見たが、雨が降っており、面倒で仕方なかった。こうして十七時過ぎに、ようやくホテルに着いた。
【写真・免税店界隈】
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ホテルは裏路地にあり、連れ込みホテルかという雰囲気であった。しかし、ホテルの従業員に、熱心さというか真面目さを感じたため、このホテルの悪口を書くことはない。ただ、裏路地を入った所で分かり難い場所にあった。おまけに、似た裏路地が周辺には山ほどあった。なお、現地係員が、私にこのホテルの小さい地図を渡してきた。そこには英語と日本語とハングル語で、「私をこのホテルまで連れて行ってください」と書かれていた。要するに、私が迷子になったときに、その紙を見た人に「私をこのホテルまで連れていってあげてください」との依頼文である。
【写真・ホテル界隈】
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ホテルに着くと、私は安重根記念碑に行くのに焦っていたため、即、ホテルを出た。そして、序章に書いたように、安重根記念館のすぐ近くのホテルにも拘わらず、南大門公園で迷子となり、どこがどこか分からず、青い幻想的光の方向へ向かっていった。十七時過ぎにホテルを出て、道を何度も間違え、行っては戻りを繰り返した。十七時五十八分にソウル駅を遠方から見た。やがて、再度青い光が見え、これに釣られて歩く。光のふもとに着いたときには十八時五十六分となっていた。この光は安重根記念碑とは無縁のソウルタワーであった。雨と靄で近づいてさえはっきりと見えない状況であった。
【写真・青い光】
青い光付近で
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雨が降っていたが、行きは登り道中のため、汗が出てきた。そのくらいに速歩であった。ちなみに、道中、安重根記念碑への道を聞こうにも誰一人として見かけなかった。頂上のソウルタワー付近では、何人かの人がいた。みんなよく雨の中を登り、大したものだと思っていると、モノレールがあり、それで上ったり・下ったりしていた。しかし、私はモノレールに乗ると、来た道が分からなくなるため、歩いて下山することにした。十九時五分のことである。
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今度は下山のため、また標高もあり、寒いというようなものではなかった。寒さのため、またも速歩で降りることにした。ゆっくり降りると寒くて風邪をひくと思ったからである。体を温めるためである。階段が濡れており、万一転ぶと携帯電話類を未だに所有していない私には危険であった。勿論、帰りも誰一人、人はいなかった。
【写真・帰路。日本のフィクサーME使用の写真を撮る】
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帰りに道が二股の箇所に出た。今度は思い切ってきた道と違う道を通ってみた。すると、何と、安重根の記念碑が見えた。時計を見ると十九時二十三分であった。ここで写真を二十五枚ほど連続で撮った。雨の中、レンズを取っ替え引っ替えての撮影のため大変であった。手はかじかんで動き難いため尚更であった。
なお、写真を撮る前に、雨ではあったが、帽子をとり、傘を遠方におき、記念碑に合掌した。安重根に関しては十分に調べずに来た。だから安重根のことは詳しく知らない。だが、十六歳の頃から様々な高校生集会に参加し、在日コリアン差別の話も聞いていた。そこで、強制連行や、様々な理不尽な思いに怒り狂い、それでも耐え、その内に戦争に巻き込まれ、死亡した人達の魂に合掌したのである。
【写真・安重根記念碑】
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だが、これで終わりではなかった。今度はホテルへの帰り道が分からなくなった。
【写真・カメラのピントが合わない。いなおり後で加工前提に撮影】
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何とか見たことがある場所に出たが、裏路地に入る似たような道は山ほどあった。途中、交番があったので英語で道を尋ねた。ただし、それよりも、現地係員の女性が渡してくれた小地図が役に立ったかもしれない。現地の交番の警察官は大変丁寧な人であった。(翌日、この交番の記念撮影に行ったくらいである。)
しかし、それでも道が分からず、付近にいた若い女性グループに英語で道を聞くと、案内してくれた。距離は聞いた所から十メートル程度であった。ハングル語で「カムサハムニダ」(ありがとう)と言おうとしたが、羅列が回らず、若い女性の失笑を買った。二十時五分、やっとホテルが見え、安堵した。
【写真・ホテル着】
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道を間違えうろうろした時間はわずか三時間程度であった。方向音痴の私にすれば上出来であった。だが、寒いソウルで、雨の中、山一つ登り、更に言葉が通じないため苦労した。英語では大半通じず、出かけに貰った地図をみせて辛うじて何とかなったのである。食事はコンビニでパンなどを購入し、それですますことにした。このソウル滞在の二泊三日で、現地で使用した全費用が日本円で二千円代であり、万一、缶ビールを購入していなければ千円台で収まっていた。
【写真・ホテル内】
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【α】2021年追記(2021/06/08 22:51記述)
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