「2013年の真相」№23・第4章ソウルへの旅・第2節・ソウル会談・1日目―ホテルにて(上) ・:💁(正式公開開始)

「2013年の真相」№23・第4章ソウルへの旅・第2節・ソウル会談・1日目―ホテルにて(上)

・📢(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):💁(正式公開)


【更新履歴】

2021/06/18 13:45 下書掲載開始と14:00公開

2021/06/18 23:12 わずかな2021年追記をして正式公開(遅延や追記を十分かけなかった理由はα箇所参照):23:39 写真一枚追加。

 


2013年の真相―№23
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)=2014年初頭の文書(後の追記は追記時期明記)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)

全体目次は下記。今回は4章第2節(上)。

№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする


2013年の真相・目次


β(上に本体・原則2014年初頭小学館に送付したまま):γの写真とα)2021年追記は本日(2021/06/18)少し時間がかかりますが6月18日までには挿入




第4章ソウルへの旅・第2節・ソウル会談・1日目―ホテルにて


こうして、ホテルに戻ってきて、TVを通じての会談となる。
だが、後で考えると、このときに、私が言ったことは韓国政府には届いていなかったか、一部しか届いていなかったかもしれない。それは、このホテルのメモ用紙に東京連絡所と記載があり、後に調べると、このホテルの客の九十パーセントが日本人と言われており、受付の人も韓国の人か日本人か不明だったからである。
韓国の人か日本人かは顔からは見分けがつかない。会話は全て英語でしたため、相手の母国語は分からない。おまけに現地係員がこのホテルに案内してきたとき、「ここのホテルの人は日本語でも英語でも大丈夫ですよ」と言っていた。このホテルは通常のホテルには見えず、日本の連れ込み旅館を連想するような物であった。そうしたホテルで、韓国の人ならば、日本語、英語が堪能な人がいるのであろうか。

ともかく、私は中国のホテルでの夜の会談と同様に、会談を行った。
ただし、朴大統領がテレビに出ているときは会談は避けた。同時に、中国のときと異なり、会談は短い時間で打ち切った。ホテルでテレビをつけると、五度か六度以上朴大統領を見たが、そのときに会談を避けた理由は次の問題のためであった。
安重根記念碑を目指して、雨の中を三時間以上歩き、ズボンは濡れていた。よってホテルの中では下半身はパンツ一枚である。当然、ホテルに備付けのパジャマなどはあるだろうと思い、ズボンの着替えは持参してこなかった。だがこのホテルには、日本のホテルに通常備えられているパジャマやガウンや寝間着類は一切なかった。そこで、女性大統領との対面でパンツ一枚ではまずいので、朴大統領がTVに何度出ても面と向かっての会談はしなかった。ただし、朴大統領が出ていないときにTVをつけてか、TVを消した状態かは覚えていないが、次の話をした。主たる内容は以下の物である。

【写真】機材も濡れて干す。服も濡れて干す。よって私はパンツ一枚。(黒いのが下着とセーターとズボン。全て黒で統一)

ソウルのホテル内:📷№13-073-119


 重要事項を語る前に、まず三つか四つほどのことを言った。

第一に、自分の立場を明確にした。
私は韓国の大統領の中で盧武鉉と一番仲が良かったこと。さらに、大学院時代の同時期に一緒した姜尚中氏は(想像では)金大中と親しかったかもしれないこと。よって朴大統領のライバルと仲が良かったとなる。
しかし、私は党派中立・宗派中立を唱えている。実際、盧武鉉の最大ライバルであった、李明博前大統領の生誕地に行ったこともある。そして彼の天皇批判・竹島(独島)強攻策の潜在的動機と考えられる事項を内外にアピールした。
彼の行動を支持してはいないが、その背景にあるものを日本も韓国も無視しているように思えたため、私にはそれが耐えられなかった。よって、朴大統領と完全に考えが一致しなくても、幾つもの事項で共通点があると考えている。その共通点だけを今回は強調したい。そして、私の生存中に、戦争というもの自体への終止符を打つため、新国際秩序構築の解説をしたい。

第二が、余談ではあるが、大木金太郎一人をとっても、私は朴大統領とも接点がある。今回、大木金太郎(キム・イル)と私と一緒に写った写真を持参してきた。彼とは、私が十六歳の頃(一九六八年)、今から四十五年前に一緒に写真を撮っている。
大木金太郎は言うまでもなく、朴大統領のお父さんのお気に入りのプロレスラーであったため、恐らく現・朴大統領も私と同年代の頃、大木金太郎と記念写真などを撮ったことがあるのではないかと想像している。
【写真】大木金太郎氏と私。

1968年(私が高校一年の時)

考えれば、もう一つ言ったことがある。アメリカの「デモクラシーナウ」という番組を見ていると、オバマ批判が多かった。そこで、その番組の司会者へ次のことを言った。「Mr. Obama may have a lot of problems, but to my regret, he is a friend of mine. (オバマ氏は多くの問題を持っているかもしれない。しかし、彼は私の友である)」、と。《【二〇二〇年追記】英文部分は二〇一三年発言の情報公開であり、現在は評価は違っている。》

また、韓国内での私の行動は韓国のルールに従う。翌日、再度安重根記念館に行くが、撮影は不可欠の事項である。しかし、万一、韓国のルールで撮影禁止となっていれば、私は決して屋内を撮ることはない。わざわざ日本から、そのために来たとしても。韓国内では韓国のルールに従い行動することを、先に宣言しておく。
以下、演説をぶった。その内容を過剰書きすれば、次の項目からなる。その前に大木金太郎について、若い読者は知らないと思うため、簡単に次の文章を引用しておく。

 ―☆☆「東洋経済日報2011年12月9日」のHPから☆☆―
 ……プロレスが人気絶頂だった1960年代から70年代にかけて、韓日両国で人気を博したプロレスラーがいた。金一さん(1929~2006、日本名・大木金太郎)である。得意技の「原爆頭突き」で白人レスラーを次々と倒す姿に見入った記憶がある。また韓国出身と聞いて、何となく親近感を覚えたものだ。

 その金一さんの記念体育館が、出身地である韓国全羅南道高興郡の居金島に建設され17日にオープンする。総工費46億ウォン(約3億円)は有志や故郷の人々が集めた。

 金さんは同胞の英雄・力道山に憧れて58年、密航船で玄界灘を渡って弟子入りした。27歳だった。59年に入管法違反で逮捕されるが、力道山が身元引受人となって釈放され、日本プロレスに入門した。「お前は韓国出身だから頭突き技を身に付けろ」といわれ、首の骨にひびが入るほど頭突きを練習したという。当時対戦したレスラーは今も「あの頭突きは本当に痛かった」と振り返っている。

 金さんは韓国出身を堂々と語った。愛称はパッチギ・キング(頭突き王)で、朴大統領夫妻もファンだった。金さんの願いは故郷の人たちが人並みに生活できることだった。68年、村に電気を入れてほしいと大統領にお願いして実現させた。

 そして、金一さんのもう一つの願いが韓日友好だった。「一番近い国なのに、お互いのことをわかっていない。わかりあえば必ず親しくなれる」と語っていた。その願いが通じ、韓日交流が文化、芸術、スポーツとも飛躍的に伸びたことを、晩年とても喜んでいたという。

 居金島には16日、本土を結ぶ全長2・3キロの大橋が開通する。村では道路の開通と記念体育館建設をきっかけに、金一ブランドの農産品の販売なども行い、国内だけでなく日本からの観光客も呼び込みたいとしている。韓日両国で愛されたレスラーは、亡くなった後も村の発展と韓日交流に貢献している。
 ―☆☆引用終了☆☆―


私がホテルで話した内容(会談内容)の項目は以下の通りである。
①竹島(独島)問題についての提言(盧武鉉政権のときの提言を再度言う)、
②従軍慰安婦問題、
③新国際政治秩序と新国際経済秩序について各国に提言している内容、
④李明博前大統領の竹島上陸と天皇批判に関する私の解釈、それと関連して本年自転車で李明博前大統領生誕地に行った理由、
⑤野田佳彦、菅直人、福田康夫など各総理大臣と私の関係について、
⑥北朝鮮問題への提言、
⑦米中会談への経緯、
⑧靖国参拝について、
⑨何故、私は安重根の記念碑を拝みに来たのか、である。

この内、③⑥⑦は中国で言ったことと同一のため第1章を、④は第3章と同一内容のため同章を、⑤は序章と同一内容のため序章を、⑨は本章第3節を参照していただきたい。ここでは①②⑧のみ解説する。


①竹島問題についての提言(盧武鉉政権時の提言を再度言う)。
内容は「日本のフィクサー〝ME〟」に記載した通りである。その一部のみ抜粋する。なお、この(小説の形態をとった)原稿の中に、当時の温家宝・菅直人両首相の間に入り尖閣列島問題でおこなった提言内容も書いている。この提言後に、中国船が尖閣沖から一気に引き上げた。また、この原稿と、石原氏が東京都として尖閣を買おうとした行動とは無関係ではないかもしれない。そのいわくつきの原稿から竹島(独島)問題についての私の提言を抜粋する。


―☆☆拙著『日本のフィクサーME』より引用☆☆―
……「家に監禁されているため、良く分からないけれど、僕の直感では韓国で最も優れていた大統領は盧武鉉と思っていた。米国ならばオバマ大統領となる。勿論、彼らが絶対的に良いとは言っていないよ。相対的に戦後政治の中で良いと言っているだけだ。盧武鉉大統領とは、確か、二〇〇三年頃に筑紫哲也氏の『NEWS 23』でご対面させられたのだ。双方感じる所があったと思うよ。

だけれど盧武鉉大統領時代に、彼の人気が凋落し、そのときに彼の行動や発言が国民から見れば屁っ放り腰に見えたのだろう。特に北朝鮮問題での太陽政策への不信が募っていたときだったから。そこで、竹島問題を踏み絵にさせられたと推測しているのだ。その結果、まず僕に竹島問題への見解を述べさせ、彼が翌日にそれへの反論するという手はずになっていたと思っているんだ」
「どういう提言をしたの」と、結論を聞きたくて、布袋さんが横から口を挟んできた。
「では、結論をいうよ。ただし、結論の前に前提条件が幾つもあるのだけれど、それは後で話すことにするよ」と、言いながら、当時竹島問題について大急ぎでまとめた提言メモを我が変人仲間達に見せた。


 ―★★★ボン・ドクトリン「竹島編」★★★―
【主文】竹島は、百年に亘り帰属権問題は棚上げし、管理のみは百年間に限定し韓国に委ねる。ただし、その間の竹島の活用においては建物を建て、そこで日韓青年の交流の場を年数回設けるものに限定する。即ち、日韓友好の島とし、管理権のみは百年のみ韓国に委ね、どちらの国に帰属するかは百年後に協議するものとする。また、竹島周辺の排他経済水域は認めず、別途日韓漁業協定・条約でその取扱いを決めるものとする。


 【理由】

1・歴史的な帰属権の確認
竹島の帰属権問題は社会常識上は判定不可能である。竹島の面積はわずか〇・二三平方キロメートルであり、島というよりは単なる岩の塊が地上に出ているだけである。水もなければ、田畑もない。こうした地に、遣隋使・遣唐使に見られる如く当時の小舟で命懸けで、この土地を利用しようと考えていく人間がいたとは思えない。鑑真和上が日本に来たときの苦難を思い起こせばよい。そうした時代が長く続き、そのときに日本・コリアン両国の支配者がかような島(岩)を自国のものにしようとしたとは考えられない。
依って、近世までは竹島がどちらの国に帰属していたかを調べること自体に意味がない。偶然、どこかの国の船が難破し、この島に住民が辿り着いたとしてすら、そのような物は帰属権問題とは無関係である。要するに、事実上、どちらかの国に帰属している島とは江戸時代までは考えられない。

【写真・竹島】(著作権問題から私が自分で撮る必要がある。さらに、私の感性で撮る必要もある。今回は、著作権上、正々堂々とするため日本外務省の写真を掲載。日本外務省クレームがついたならば消去予定。Wikipediaの今回の写真は著作権上、「言及が必要」コメントあり、私のHPに言及という意味が、撮影者に使用許可連絡をせよという意味か不明で使用できず。勿論、韓国外務省が許可すれば韓国経由の写真でもよい。)

※写真はクリックで拡大

竹島(日本・外務省のHPから):韓国名独島



2・条約上の問題
自然法に照らして、領土に関する条約の有効性は以下の前提の下にある。
A・条約が軍事的な脅しで締結されたのではなく、双方対等な理性に基づき結ばれていること。
B・戦争や軍事力で奪った土地ではないこと。AとBの視点から判定すれば、戦前に締結された竹島に関する条約は無効と考えるべきである。

 具体的には、日本が竹島の領有権を主張したのは一九〇五年であるが、その前年の第一次日韓協約により、韓国政府は日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなっていた。
要するに、一九〇五年に日本政府が閣議で竹島と命名し島根県隠岐島司の所管とした、その前年の(軍事的威嚇で締結されたとしか思えない)第一次日韓協約を分析すると、対等な形で竹島が日本の領土となったとは認められない。日本の歴史の土台にある、道理というものに反しており、竹島の領有権を一九〇五年に求めることはできない。
しかし、韓国の領土ということもできない。自然法という道理からは、竹島はどこの国の領土かは不明としか言えない。


3・竹島の価値
あるTV局は、竹島の資産価値自体は約二千万円台であると、二〇〇九年頃に報道していた。この額は田舎の我が家の建築費よりも安い。だが、遠方の島に過ぎず、田畑もなく、下水道、水もない岩のため、こうした島に右記ほどの価値すらないと判断するのが常識である。もし国がプレゼントしなければ電気・ガス・郵便物その他全て機能不全の島である。……


4・韓国に管理を委ねる理由
竹島問題は、本来国際司法裁判所などで帰属権を争うべきである。
しかし、日本にとって竹島は排他経済水域問題を除きメリットはない。経済利益上は、韓国も同一である。
しかし、韓国の場合には、竹島は日本に侵略されたシンボルの島である。謂わば、日本の広島・長崎に該当する地である。両者の心情を考慮すると、日本にすれば国際司法裁判所が竹島を韓国の所有物と裁定を出しても困ることはない。それどころか既に紹介した如く、官僚の一部は竹島を秘密裏に爆破し海に沈められたら、と陰で言ったことはインタネット等で良く語られていることである。経済的には竹島問題があることにより、それに従事する職員の人件費等で損失のみがある島である。
他方、韓国も基本は同じであるが、先の日本の広島・長崎に該当する地のため、国際司法裁判所が万一日本に帰属権を認めれば、韓国内での暴動その他へと繋がる危険がある。そうした危険性を考えると、韓国が国際司法裁判所にこの問題を付託するのを躊躇うことにはやむを得ない側面がある。同時にそうした状況(韓国内での反日暴動)は韓国のみならず、日本にとっても大きなマイナスでしかない。

また、日本がコリアを侵略し、長期に亘り屈辱の想いを彼らに押し付けた事実がある。強制連行、従軍慰安婦問題、日本に併合しながらコリアン差別を容認したこと、……これらの日本の人道に関する罪を振り返ると、領土問題は百年間棚上げするとしても、その百年間は韓国に管理を委ねるのが妥当と思われる。
但し、日本国民の理解を得るためには、領土の帰属権自体は棚上げすると同時に、島の活用方法は日韓友好目的に限定することを提言するものである。望むらくは、韓国が百年に亘りこの島を管理している間に、この島の施設で、日本・韓国・北朝鮮の若者が政治論議ではなく、ただ単に卓球・その他のスポーツ交流などを通じて、友として汗を流せる島にすることを願っている。


5・将来
両国は、百年の棚上げ期間を設けることにより、両国のナショナリズムが大きく減少するよう努力しなければならない。戦争の惨禍は風化させてはならないが、感情的な怒り、その集合体である偏屈なナショナリズムはなくさなければならない。なくなった時点で、日韓双方が領土問題を冷静に協議することが望ましい、と世の理性は語っている。

同時に、この百年の間に国際海洋法条約も含める国際法全体を見直し、新たな時代に対応できる条約を国連中心に締結する必要がある。
そのときに、排他経済水域を拡大するために、全く人が住めぬ、しかも本土から遠方の単なる岩などを無理矢理島に見せる詐欺行為などを排除しなければならない。さらに、本土から遠方にある、しかも人が長期住んでいなかった地は、原則として国連管轄下に置くと同時に、その島周辺の排他経済水域は二百海里ではなく十二海里程度に縮める必要もある。
これらは単なる、私の思いつきにすぎないが、理性は常識にかなった排他経済水域、遠方にある無人島の問題を処理するよう世界に求めている。

それを促進するためには、捕る漁業から育てる漁業への転換、エネルギーの中心は無尽蔵にあり、かつ紛争の原因とならぬ自然エネルギー中心の世界へと転換を図る必要がある。これらの一部が百年後に実現していれば、〇・二三平方キロメートルの島の帰属権争いは、高校生に任せてすら解決する単純な事項となるであろうし、そうなるよう努力しなければならない。それが百年間棚上げする理由である。科学の進歩と、偏狭なナショナリズムが沈下する期間、それが当面百年である。
【参考資料】竹島周辺の排他経済水域に関しては、既に日韓漁業協定で竹島がないものとした両国の中間線を基準に、排他的経済水域内に暫定水域が設定されており、この海域において双方の漁獲が制限付きで認められている。

―★★★ボン・ドクトリン「竹島編」終了★★★―


【α】2021年追記(2021/06/18 記述)


本日、ビックカメラとの問題(わずか二千円程度の話)で振り回され、2021年追記は不可能となる。下記参照。偶然今日なのか。今日の原稿にあわせてかは不明。
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T21-006(トラブルではないかもしれぬが)25のつく日の破損連続参考記述。
http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=36339
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しかし、一言だけ記す。
私の竹島・独島問題提言への追記。
領土問題自体百年棚上げ・その間韓国が管理・使用目的は日韓朝友好の島限定案で、もし、百年後も揉(も)めたならば更に百年この提言を延長、それでも揉めたならば更に百年延期とすればよい。

時間がとれれば、菅直人・温家宝両氏の間に入ったときの言動をまとめて、あらたな提言も書くかもしれない。現時点では未定。