「2013年の真相」№19・第3章:第2節・李明博大統領生誕地を訪ねての旅📣💁正式公開

「2013年の真相」№19・第3章平和と差別なき世界を求めて:第2節・李明博大統領生誕地を訪ねての旅

(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣💁正式公開


【更新履歴】

2021/05/06 16:15 枠のみ掲載。

2021/05/06 21:00頃下書開始

2021/05/07 2:12 γ(写真)を追記し、正式公開(ただし、誤字・脱字などは後に修正もあります) 2:21📷一枚追加と微修正。2:24微修正

2021/05/07 17:26 若干の追記。20:25 日本の防衛に関する見解を追加。

 

 


2013年の真相―№19
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)

全体目次は下記。今回は2章第6節。

№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする


2013年の真相・目次


β(上に本体・原則小学館に送付したまま)




第2節・李明博大統領生誕地を訪ねての旅


私は、韓国では、(我が心の友)盧武鉉支持派であり、李明博大統領とは選挙で言えば相対立する立場にあったかもしれない。その私が、二〇一三年四月に李明博大統領生誕地を訪ねることになる。その経緯を解説する前に、私とコリアン(KOREAN)との過去のかかわりについて記すことにする。

【📷李明博元大統領】李明博(イ・ミョンバク)第17代、在任期間 2008~2013年:📷=jijicomより

https://www.jiji.com/jc/d4?p=krp131-jpp12348137&d=d4_bbb
李明博(イ・ミョンバク)第17代、在任期間2008~2013年 大阪府出身。1965年高麗大経営学科卒。現代建設に入社…


私は高校時代から、差別なき社会に強く関心を持っている。高校一年生のとき(一九六八年)、柔道部とは別に、差別などを研究するサークルを作った。後には部落問題研究部にも併行して所属し、高校時代から全国各地の集会に参加していた。まだ沖縄が日本に返還されていないときであり、在日コリアン差別もかなり根強く残っており、部落解放同盟も分裂していないときであった。

六八年とはキング牧師が暗殺された年である。アメリカでは、公民権運動進展の中で、ジム・クロウ法(Jim Crow law。一八七六年から一九六四年にかけて存在したアメリカ合衆国南部の州法で黒人・有色人種差別法)が廃止されつつあったものの、黒人差別が激しく残っており、オリンピックで黒人選手が表彰台の上で右手をたかだかとあげ、メダルを剥奪されていた頃である。南アフリカではアパルトヘイト時代である。


―☆☆ウィキペディアより引用☆☆―
1968年メキシコシティオリンピック……男子200メートル競走……、アメリカ人選手で19秒83の世界記録で優勝したトミー・スミス、オーストラリア人で20秒06の記録で2位のピーター・ノーマン、20秒10で3位につけたアメリカ人ジョン・カーロスのメダリスト3人はメダル授与のため表彰台に向かった。

2人のアフリカ系アメリカ人選手は黒人の貧困を象徴するため、シューズを履かず黒いソックスを履いてメダルを受け取った。さらにスミスは黒人のプライドを象徴する黒いスカーフを首に纏い、カーロスはクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体によるリンチを受けた人々を祈念するためロザリオを身につけていた。一方でノーマンも他の2人に同調、3人で「人権を求めるオリンピック・プロジェクト……」のバッチを着用した。……そしてアメリカ国歌が演奏され、星条旗掲揚されている間中、スミスとカーロスは、目線を下に外し、頭を垂れ、高々と握り拳を突き上げた。会場の観客からはブーイングが巻き起こり、このときの様子は世界中のニュースで取り上げられた。

【📷―2オリンピックでの抗議パフォーマンス📷はWikipediaより)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9


後にスミスは「もし私が勝利しただけなら、私はアメリカ黒人ではなく、ひとりのアメリカ人であるのです。しかし、もし仮に私が何か悪いことをすれば、たちまち皆は私をニグロであると言い放つでしょう。私たちは黒人であり、黒人であることに誇りを持っている。アメリカ黒人は(将来)私たちが今夜したことが何だったのかを理解することになるでしょう。」とこのときのことを語っている。

国際オリンピック委員会(IOC)は……スミスとカーロスをアメリカ・ナショナルチームから除名、オリンピック村から追放する命令を下した。……スミスとカーロスは出場停止となり、オリンピックから追放される……。……スミスとカーロスは、事件後長い間アメリカスポーツ界から事実上追放され、さらに彼らの示威行為に対する批判に晒された。……家族にも脅迫文が何通も届けられた。
―☆☆引用終了☆☆――

《【引用解説】斜線の箇所を英語原文に照らし、同時に二〇一四年二月七日にカーロスのインタビューを聞いた後で、私が翻訳すれば以下となる。
「もし、私が勝利して金メダルでも取れば、黒人かどうかではなく、お前はアメリカ人なんだよ、となる。しかし、もし私が何か悪いことをすれば、お前は所詮二グロなんだと言われる。」
韓国が日本の植民地時代に、韓国出身の選手が金メダルを取れば、お前は日本人なんだよ、となる。何か不始末をすれば、お前は所詮コリアンなんだ、と言われる。こうした意味である。ブラックパワーソリュートは、最近のサッカー選手・朴鍾佑よりも、一九三六年ベルリンオリンピック時の孫基禎(ソン・ギジョン、一九一二~二〇〇二年)の事例に近いと、私は思うのだが。》


この頃頻繁に、全国各地から集まった高校生部落問題研究集会などに泊まりがけで参加をしていた。こうした集会には、当時、沖縄からパスポートをとり、ドルを円に換金して参加してきた仲間や、アフリカ系アメリカ人と日本人との間で生まれた人なども参加していた。部落解放同盟も後の全解連(現在の地域連)との分裂をしておらず、差別に反対する多くの高校仲間がいた。在日コリアンの仲間も参加していた。

なお、私自身の立場を明確にしておく。私は、国家は、部落差別、障害者差別、母子家庭、父子家庭、在日コリアン差別……に関わりなく、弱者から、困窮度の高い人から順番に救済や助成をすべきという立場をとっている。インフラ整備も、日本全体のインフラが遅れている所から、公平に順番に整備していくべきと考えている。同時に、後者はガラス張りとし、役場で入札の経路や金の使途のすべてを誰でも簡単に見られるように公開すべきである。勿論、これは、インフラ整備のみではなく、役所の支出は、弱者の個人情報保護以外は、すべてガラス張り全面公開をすべきと主張している。

二〇一一年の東北地方太平洋沖地震に関しても同様の立場であった。東北大地震被災者に優先的に対応するのではなく、北海道から沖縄県までの地震・台風・津波などで、困窮度が高く救済の必要性の高い順番に、公平に救済すべきという見解を持っている。インフラ整備も同様である。このことは東北大地震直後から言っている。

ただし、地震被害ではなく、原子力被害は別問題であり、これは原則として救済ではなく、電力会社及び国家の被害者に対する逸失利益への損害賠償でしかなく、全額、即座に賠償しなければならない。逸失利益の賠償は国家による救済とは次元が異なる。分かり易く言えば、役場の車が公務中に通行人を轢けば治療費を賠償しなければならないが、これは市役所による助成金や救済措置とは無関係である。


李明博大統領生誕地訪問の話に戻す。
私は盧武鉉支持派であり、李明博大統領支持派ではなかった。というよりも、『日本のフィクサーME』に記したように、盧武鉉は我が友である。少なくとも、心の友であった。

【📷―3・盧武鉉元大統領】盧武鉉(ノ・ムヒョン)第16代、在任期間 2003~2008年:📷=jijicomより

イラク北部アルビルを電撃的に訪問し、駐留する韓国軍部隊を激励する盧武鉉大統領(中央)。安全確保のため現地滞在時間はわず…

https://www.jiji.com/jc/d4?p=krp131-jpp05411320&d=d4_bbb

だが、李明博大統領が退任前に竹島に急に行ったり、日本の天皇批判をしたりしたことが気になっていた。当初、彼の行動は、大統領を退任した後で、不正の暴露・逮捕から逃れるために強力なインパクトをつくり、次期大統領に貸しをつくることが第一の目的と分析していた。次に、彼が大統領になったころ、日本の天皇と会談した際に、おじきをしたことが韓国で批判されたため、それを払拭するためのパフォーマンスと理解していた。

その理由を更に調べていく内に、彼が大阪市平野区加美南三丁目で生まれたことが分かった。四歳の頃までいた。当然、彼の両親は在日コリアン差別を体験したであろう。彼もそうした差別を体験した記憶を持っている可能性がある。彼が生まれた頃は、今では考えられぬほどの在日コリアン差別があった頃である。

李明博大統領の取った行動の是非は兎も角として、背後に在日コリアン差別が潜在的・健在的にあった可能性があることだけは日本国民が知っておいた方が良いと考えた。
それが公平・公正というものである。私は、盧武鉉を心の友としていても、公平さの観点から、彼の生誕地に一度足を運び、日本国民の注意を喚起する必要性があると考えた。そのためには、通常の交通手段で行くよりも、自転車か徒歩で行く方が効果的である。そこで旅行記に記したように、宿を難波界隈にとり、そこから自転車で彼の生誕地に行った。

日本国民のかなりの人間が、天皇に失礼な発言をした人を庇うのか、と言うであろう。そこで、私の天皇に関する立場を明確にしておく。『同書』より該当箇所を引用する。


―☆☆『日本のフィクサーME』第3章より引用☆☆―
……「僕が政経で言うことは枠(民主主義の土俵)と論理なんだ。
論理について言えば、僕は憲法九条死守派なんだ。今の政治力学で憲法九条を残すためには日本国憲法をそのまま残すことが不可欠だ。日本国憲法をそのまま残すということは、憲法一条もそのまま残すということだ。
要するに、憲法九条を尊重するということは憲法一条も尊重しなければならないという論理になる。憲法一条は日本国憲法の最初にある条文だ。憲法を守ると言いながら一条を尊重しないというのでは、これでは偽善となる」……

「日本国憲法は押し付けと言われているけど、憲法二十五条は社会党が提出した条文なんだ。同時に憲法九条も、実は、マッカーサーではなく日本人が発案したものなのだ。小林直樹氏の研究によれば、幣原喜重郎が天皇を憲法に残すために、憲法九条を思いついたというんだ。

つまりね、当時ギャロップ世論調査に見られたように、天皇を憲法に残すどころか、天皇は戦犯であるという意見が世界では半数以上を占めていた。そうした状況下で、天皇を憲法に残すために、憲法九条を考え出したそうだ。

幣原喜重郎がマッカーサーにその案を述べたときにマッカーサーは痛く感動したそうだ。要するに、憲法九条と憲法一条はセットで作られたんだ。その経緯から言っても、憲法九条は憲法一条とセットというか、人によれば好一対で考えないと駄目なんだ。そして、この二つをセットにしている限り、憲法九条はちょっとやそっとでは改正できないというのが僕の考えなんだ」

【📷―4・マッカーサー】(写真はWikipediaより)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC

Douglas MacArthur smoking his corncob pipe.jpg

それを聞いて、明神君が、安堵の表情を浮かべ、「だったらサー、憲法九条が改正若しくは改悪されたら、憲法一条反対派に戻るの」と、尋ねてきた。

「僕自身は憲法一条は白紙としておくよ。それらは将来の国民が決めることだと思う。ただ僕が生きている間は憲法一条は残ると思う。だけれど、今は『もし』ではなく、憲法九条を含めて憲法全体を守ることしか考えていないんだ。

それと、大昔、学生時代に天皇制に反対といったって、それは戦前の天皇制を指しているんだ。今でも戦前の天皇制には反対だ。極端に言えば今の北朝鮮と同じ・・・。戦後の天皇制についても大学時代は確かに懐疑的だった。それでも、懐疑的とは天皇を廃止し一国民にせよではなく、段階論の立場だったけれどね。

段階論というのはね、憲法一条を改正するならば、その前に天皇を国宝とか無形文化財とし、天皇を敬重している人は無形文化財・国宝天皇を幾らでも崇めたらよい、そしてそうした時期が長期続いた後で憲法一条問題を遠い将来の国民が考えればよいという考えなんだ。
第一、その方が天皇も収入は増えるし、自由に使用できる私的なお金も今とは比較にならない。おまけに行事も相当減ると同時に選択できる。結婚の自由や、学問の自由も確保できるし、通常の人同様に街も散策できるし、『ローマの休日』のアン王女の如く思いもしなくてすむし、誰にとってもよいと学生時代には思ったときはあった。尤も、そのときでさえ、それらを決めるのは日本国民全体であり、現実問題としては将来の国民が決めることだと考えていたけれどね。しかも、こうした考えは大学時代、つまり今から四十年近く前のことだ。

もう一回言うけれど、今は憲法九条を絶対に守らなければならないと考え、同時に憲法そのものも守らなければならないと考えている以上、憲法一条も尊重するという一貫した方針なんだ」
―☆☆引用終了☆☆―


右記以外でも、天皇の公務負担問題などで幾つもの提言もしていたが、あるとき、報道ステーション・サンデーという番組に、櫻井よしこ氏が登場し、私に向かって、一礼をして言った。
「天皇を巡る問題では、一切、発言を自粛していただけませんか」、と。
余りに丁寧に言われたため、私も同意し、それ以降は天皇問題について言及を一切していない。そのときの模様は長野智子に聞けば知っているであろう。しかし、天皇の公務負担軽減などで、櫻井氏が動いているようには見えぬため、人道的配慮から再度発言すべきかどうかで迷っている。

本題に戻る。
李明博元大統領が天皇に対して、侮辱的発言ともとれる発言をしたことが是か非かは各人で議論すればよい。しかし、李明博大統領が日本で在日コリアン差別を受けていたと思われる事実だけは、事実として知っておくことが望ましい。それが、公正というものだと思い、李明博大統領の生誕地に目立つ形で自転車で行った。

更に、今調べていると、李明博大統領の態度の変化が起こってくるのは二〇一一年末からである。
私が『日本のフィクサーME』を執筆したのが二〇一一年初頭からであり、五月頃に某出版社へ小説という形でカモフラージュして送付し、同年十一月にも別の出版社に手直しをして送付していた。後者の直後から、李明博大統領の変化が起こっただけに、尚更、公正・公平さを貫く必要性があった。なお、李明博大統領{イ・ミョンバク。一九四一~。第一七代大統領。一九四五年までの日本での通名は月山明博(つきやま・あきひろ)}の言動と行動に関する動きを以下掲載する。


―☆☆ウィキペディア『李明博』より抜粋☆☆―
……2008年2月25日の韓国大統領就任式での演説で言及した順番は、アメリカ・日本・中国・ロシア・中央アジアだった。韓国大統領に就任すると、それまで滞っていた日韓間のシャトル外交を復活させた。韓国大統領就任後の2008年4月に訪日すると、天皇皇后両陛下との会見時に韓国訪問を招請した。……

2010年3月26日に起きた韓国哨戒艦沈没事件では日本政府は韓国を強力に支持している。
2010年9月10日にロシアのヤロスラブリで鳩山由紀夫前首相(菅内閣時)と会談したときに「日韓両国は地球上で最も良好な2国間関係を築ける」と発言している。
2011年10月、韓国での日韓首脳会談においてウォン急落が懸念される韓国を支援してほしいと野田佳彦首相に要請、これを受けて日本の民主党政権は通貨交換協定を130億ドルから700億ドルに拡大。
2011年12月、訪日して日韓首脳会談で野田首相に「慰安婦問題について韓国の求める誠意を示さない限り、同年に駐韓日本大使館正面に建立された13歳の少女慰安婦と称する像の他にさらなる銅像の建立がなされる。」と述べて、同問題の解決を強く求めた。

【📷―5・野田佳彦元首相】(写真は野田佳彦氏のホームページから)

http://www.nodayoshi.gr.jp/

政治への決意

……
2012年8月10日、独島(竹島)に上陸し韓国領であると改めて発言し、初めて独島に上陸した韓国大統領となった。それまでの大統領は誰も上陸しなかった。
2012年8月13日、日本政府は韓国への700億ドル(5兆5千億円)におよぶ資金支援枠の大幅な拡大は李明博大統領の竹島上陸がなされても見直さない旨を発表する。
2012年8月14日、今上天皇について「日王」と呼称した上で、「日王が痛惜の念などという単語ひとつを言いに来るのなら、訪韓の必要はない。日王は韓国に来たければ、韓国の独立運動家が全てこの世を去る前に、心から謝罪(「ひざまずいて謝らなければならない」と表現)せよ。」と謝罪を要求する発言を行った。
2012年8月15日、光復節(日本での終戦記念日)祝辞で「日本軍慰安婦被害者問題は人類の普遍的価値と正しい歴史に反する行為」であると述べた。日本政府は李明博大統領の天皇謝罪要求について謝罪と撤回を要求したが、金星煥外交通商相は大統領と同様の見解を示すとともに昭和天皇の戦争責任を主張した。日本政府は駐韓大使の一時的な帰国措置を取った。
……
2012年8月24日、キム・イルセン兵務庁長は韓国国会で、8月10日のロンドンオリンピックにおける男子サッカー日韓戦で勝利後に「独島は韓国の領土である」と記載されたプラカードを掲げた朴鍾佑の兵役免除を認めることを明らかにし、「勇気のある奇特な選手だ」と行為を評価した。
―☆☆抜粋終了☆☆―


次に、李明博大統領生誕地訪問のフィールドワークの模様を簡単に記す。この旅は二〇一三年四月九日で、コースは、ホテル(大国町)~天王寺~故長姉の居住跡地~平野区(李明博大統領生誕地)~難波宮~大塩平八郎最期の地である。


写真の記録を見ると、ホテルを午前八時過ぎに出て、九時頃天王寺界隈に到着する。その道中、「くまの街道」を経て、私の亡き姉が住んでいた住居跡を撮影(十時二十五分)した後は、一気に李明博大統領生誕地へと向かう。

【難波界隈を出発して、天王寺付近に着く】(午前9時21分):📷はクリックでPC大、二度クリックで巨大

天王寺付近:📷№13-016-006

【亡き姉が住んでいたアパート付近のお寺にて(東住吉区:田辺)】(午前10時1分頃、姉のすまい跡には午前10時25分頃つく)

13-016-039:(亡き姉アパート付近の)法楽寺


空は快晴であったが、花は散りかけており、しかも道中、花粉症のため参る。十一時五十一分、加美南三丁目の標識を撮る。十一時五十五分頃、李明博大統領生誕地の近くと思われる公園で、ベンチに座り三十分ほど、彼の幼少の頃に思いを馳せる。

【📷平野区への道中】(午前10時58分)

平野区への道中:📷№13-017-014

【📷加美南三丁目】加美南三丁目の標識を見る(午前11時50分)

加美南三丁目の標識を見る:📷№13-017-025

【📷加美南三丁目付近の公園のベンチ】(12時16分)

同公園:📷№13-017-047


十二時三十分頃、この公園を去り、次の目的地に向かう。食事もとらず、自転車をこぎ続けたが次の目的地・難波宮に着いたのは十四時三十分であった。ここで休憩をし、更に次の目的地・大塩平八郎終焉の地に向かう。

【📷難波宮跡】(15時42分)

→飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代の宮殿、日本の首都であり都城。

難波宮跡:📷№13-018-053


十六時二十三分に到着した。距離は大したことはないが、何しろ、全て大阪の街中である。歩道が狭い所で歩行者が大勢いたり、歩行者の進路妨害となったりするときは、当然、自転車を降りて押すことになる。時間は相当食う。こうして、自転車をこぎ続け、ホテルに戻ったのは十七時頃であった。では、そのときの模様を旅行管理より抜粋する。

【📷大塩平八郎終焉の地】(16時23分)

大塩 平八郎(おおしお へいはちろう:1793~1837)は、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力。大塩平八郎の乱を起こした。

大塩平八郎終焉の地:📷№13-018-056

 

大塩平八郎終焉の地:📷№13-018-059



―☆☆拙著「旅行管理」より抜粋☆☆―
……彼の政策の是非はともかくとして、自然と足が彼の生誕地へ向いた。私が彼の生誕地へ自転車で行くことにより、彼の行動の是非はともかくとして、彼が日本で生まれ、在日コリアン差別を経験していた可能性があることを、多くの日本人が知っておいた方が良いと思ったからである。少なくとも、彼の両親は在日コリアン差別を体験していることは間違いないであろう。そこで、今回のフィールドワークの一番重要な課題が彼の生誕地へ行くことであった。

平野区加美南三丁目は、撮った写真を見れば分かるように、何の変哲もない地である。観光名所もなければ、在日コリアン差別の跡が随所に残っている訳でもないし、スラム街でもない。通常の日本の街にすぎない。

【📷加美南三丁目付近の公園】(12時6分)

加美南三丁目:📷№13-017-034-1


されど、このフィールドワークにおいて心は充実していた。何もない所であったが想いはあった。そして、近くの公園で一時間以上、李明博大統領の幼少の頃の姿を想像した。このフィールドワークには大きな目的と使命があった。フィールドワークとはきれいな地を見たり、美味しい食事をしたりすることではない。

【📷加美南三丁目付近の公園】(12時25分)

同公園:📷№13-017-059


前日、津山城に行ったためか、花粉症の症状が酷く、更に疲れてこの日はどこにも行く気はなくなっていた。しかし、次姉宛にフィールドワークの候補地を手紙で送付していたため、無理をしてでも行かなければならなくなっていた。勿論、行って良かったと思っている。姉に手紙を出していたのが幸いした。そうでなければ花粉症に苦しみ、疲れているときに、景観が悪く、空気の悪い大阪の街を、自転車で長距離を行く気力は起こらなかったであろう。

……自転車はドーミイン難波(ホテル)でレンタルした。……このホテルを選んだ唯一の理由が、ホテルが自転車のレンタルをしていることであった。なお、ホテルはマンションを改築した物でユニークではあったが、何となく監獄に入っているような感じがした。されど、若い職員に、やる気を感じ大変好感を持った。特に……外国人スタッフから責任感と意欲を感じ、チャレンジ精神を持つことの重要性を再確認した。
客の内、かなり韓国などの外国人がいた。……

【📷ドーミイン難波】(17時に戻る)🚴お世話になりました。

ドーミインホテル大国町:難波近く:📷№13-018-068


※なお、帰路に近松門左衛門の墓があったが、自転車を置く所がなく行けなかった。また、百済という地名の場所があり、次回大阪に行ったときに立ち寄る予定である。
―☆☆抜粋終了☆☆―


雑談ではあるが、先のホテルの感想は予約したホームページに記載しなかった。理由は、このホテルには自転車を無料で借りたので感謝した。しかし、他方で、チェックイン時に、部屋に入ると他のお客さんが脱いだ服が放置されていたり、トイレの水がかすかではあるが漏っていたりした。お客さん同士での情報交流サイトに記述するときには嘘は書けない。全てを書かなければならない。
自転車目当ての客ならば喜んでいくであろうが、自転車と無縁の客は、服問題やトイレ故障問題を読むと足が遠のくであろう。そこで、一切何も書かないことにした。この原稿を書いている今、このホテルは廃業し、別の場所に新しいホテルができたと知った。良き運命が待っていますように!




第3節・コリアタウンから広島平和公園まで(以降、次回へ)


γ(上記に関連写真添付作業)

2021/05/07 2:08 上記に挿入



α(2021年追記)

少しのみ追記。

カメラは上記のフィールドワークを紹介するため、開始したものである。この原稿を本にするときには、私が撮った写真以外は、著作権・版権で大変ややこしいと思われる。こうしたややこしさから脱却するために、カメラを開始したのである。カメラは明確な商売道具であり、またインタネット・電子書籍を通じて起業を目指していたが、仕事に繋がることには、想像を絶する妨害がある。その一貫で村…での写真残酷物語を仕組まれたのであろう。

 仕事道具は私的に使用してはならないが、世の教訓である。

大きな追記。

日韓ワールドカップ共同開催(2002年)韓流ブームと日韓が近づきかけていた。ところが、今日の日韓関係悪化へと軸が変わったのが、今回の2011年12月の従軍慰安婦問題2012年8月の竹島(独島)問題同月の天皇関連発言からである。ここから流れが変わったように思う。日本における韓流ブームがほとんど止むのも、2012年8月頃だと思う。

(2021/05/07 20:16追記)
日本の安全保障に関する考え方は、徐々に変化し、現時点ではこう考えている。
世界連邦と世界統一軍樹立抜きでは世界の安全は保障できない。
そして、それが樹立可能となったときには、世界統一軍が国籍離脱を前提とするならば、日本からも迂回で(日本国籍を離脱した上で)参加することが可能であろう、と。その場合には、日本からの実質参加でも憲法9条自体が存続していても問題がない。
そのときには、日本国内に残っている自衛隊は国土保全を中心とした部隊となるであろう。憲法9条との矛盾は一切なくなり、ワイマール憲法が生存権を打ち出したように、憲法9条は平和的生存権を打ち出した歴史的文書となるであろう。