「2013年の真相」№20・第3節コリアタウンから広島平和公園まで ・📢💁正式公開

「2013年の真相」№20・第3章平和と差別なき世界を求めて:第3節コリアタウンから広島平和公園まで

・📢(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣💁(正式公開)


【更新履歴】

2021/05/18 11:34 下書公開

2021/05/18 19:52 γの写真貼り付け作業

2021/05/18 20:38 αの2021年追記をして、正式公開開始(ただし、誤字・脱字はこの後も修正することがあります。)20:47微修正


2013年の真相―№20
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)

全体目次は下記。今回は3章第3節。

№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする


2013年の真相・目次


β(上に本体・原則小学館に送付したまま):γの写真は本日(2021/05/18)夜までには挿入




第2節・第3節・コリアタウンから広島平和公園まで


二〇一三年四月九日、李明博大統領生誕地から、自転車で宿に帰る途中に、百済という地名を見た。そこで、今度は百済という地名の地で、フィールドワークをすることにした。ここは阿倍野区で、近鉄今川駅から少し南に下った地である。しかし、ホームページで調べると、ここよりもフィールドワークに向いた地があった。それが今回のコリアタウン(生野区の旧猪飼野地区)である。

なお、コリアタウンへのフィールドワークは六月三十日である。十二時二十分前桃谷駅に着き、そこから歩き、コリアタウンには迷うことなく十二時四十分頃に着いた。方向音痴の私が迷わなかった理由は、途中でお神輿が出迎えてくれたからである。遠方からお神輿(みこし)の音を聞き、そちらに向かい、お神輿の出てきた方角に行くとコリアタウンに着けた。このときの模様を同じく旅行管理から抜粋する。


―☆☆拙著「旅行管理」より抜粋☆☆―
 桃谷駅前の本通東商店街は、相次ぐ店の閉鎖でゴーストタウン化していた。駅前にも拘わらず。橋下大阪市長、松井一郎大阪府知事は、政治ゲームに熱中し、こうしたゴーストタウンに対して見て見ぬ振りをしているとしか思えない。……。

【📷閑古鳥なく商店街】(写真はすべて一度クリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大)

ただし、下記商店街は行きがけに撮り損なったため、帰りがけに撮っている。そこで時間はコリアタウンとは逆となる。

桃谷駅前:2013/06/30: 13:17: 📷№13-040-051_DSC_3800


 本通り商店街を抜け、かなり歩くと、コリアタウンがあった。地の利が悪いにも拘わらず、大層賑わっていた。方向音痴の私が道を間違わぬようにとの思いからか、神輿が繰り出されていた。その音を頼りに歩くとコリアタウンに着いた。時間帯から考えれば、南京町以上の賑わいがあった。広さも神戸の南京町を上回っていた。

【📷神輿】

コリアタウンの入口:2013/06/30: 12:35: 📷№13-039-006_DSC_3989


 思うに、これからの社会は、コリアタウンに限らず、胸をはり、文化を誇り、活気に満ちた姿が望ましい。そして、この地が、在日コリアの人、在日コリアンであったが日本国籍をとった人、彼らを含めて日本人の観光客、欧米の観光客で盛り上がる地となることを願っている。同時にもうそうなりつつある。とにかく、コリアタウンは活気に満ち、活力に満ち溢れていた。ちょうど、シンガポールのチャイナタウンの如しになりつつあった。
 いずれソウルに安重根と伊藤博文の足跡を求めていくことになる。その前段階として、この地を訪れた次第である。……

 なお、私がコリアタウンに足を運んでから、間もなく、NHKがコリアタウン特集を行った。番組名は、戦後プロジェクト「日本人は何を目指してきたか・『猪飼野』」(二〇一三・七・二七)である。だから、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑だけが平和公園の外に何故あるのか」と私が疑問を投げかけた文書を記した後で、公園内に移されたのは偶然ではないであろう。……
 ―☆☆引用終了☆☆―


こうしてコリアタウンを十三時五十分頃に後にした。コリアタウンのあちこちで、「まいどおおきに」とか「ありがとう」……などの声が飛び交っていた。勿論、お客さん相手に言ったのであろうが、コリアタウンを歩いたときの余りの気持ち良さから、私に向かって言っているのか、と勘違いしそうなくらいに気持ちが良かった。コリアタウンを歩くとき、暑くて汗だらけになったにも拘わらず、大変気持ちの良い旅となった。今でもコリアタウンの活気とすがすがしさを思い出す次第である。

【📷コリアタウンの賑わい】

コリアタウン:2013/06/30: 12:44: 📷№13-039-012_DSC_3995

コリアタウン:2013/06/30: 12:41: 📷№13-040-003


コリアタウンのフィールドワークの後で旅行記に、今後の課題として、「……②広島原爆犠牲者慰霊碑の内、韓国の慰霊碑のみが平和公園の外にあったため、それを指摘した。その数年後に韓国の慰霊碑も平和公園内に入ったと聞いたため、その確認作業を行う。③安重根と伊藤博文の足跡を辿りながら、ソウルの記念碑に行く。④河野談話について資料集めを行う(英日文で)。……」と記していた。

まず②の機会が即座にやってきた。と言うのも、大学時代の親友の墓参りに行くことになったからである。序章・第1節で書いたEM君である。二〇一一年末に喪中の葉書を奥さんからもらい、即、行かねばならなかったが、私の母の危篤続きと、死亡が重なり延び延びとなっていた。だが、後藤先生も御一緒されるとなり、二〇一三年夏に行くことが決まった。ただし、諸事情で恩師一行とは別に、私はその後で行くことになった。しかし、彼の家は、岩城島と言う、相当交通が不便な所にあった。おまけに、我が家も主要バス路線の廃止続きで、陸の孤島にある。我が家への最終バスが岡山発一七時台であることを考えて、二泊三日となった。そして、この旅のついでに広島平和公園に行くことにした。

 なお、この旅の三日間の予定と旅の課題は次の通りである。
一日目(十月六日)、広島平和記念館と厳島神社に行く。
二日目、広島平和公園を再訪し、そこからバスで因島へ行き、因島から船で友人の墓参りに岩城島に行き、その島から船で今治に行く。今治から西条に出て別の友人に作品(DVD)を預ける。これは、我が家が火事になっても、過去書いた作品が紛失することを防ぐために、主要作品をDVDに焼き、友人に預ける必要があったからである。
三日目は、もし可能ならば、別子銅山跡に行く。目的は「旅に心を求めて―科学と人間』をいつか記すためである。鉱山は労災の典型例である。人の命と鉱山資源を得る必要性の整合性を問うことにあった。私が、この炭鉱を訪れた後、NHK教育テレビが『三池炭鉱を抱きしめる女たち~戦後最大の炭鉱事故から50年~』という番組を二〇一三年十一月三十日に放送した。やはり、炭鉱事故で、今尚、一酸化炭素の後遺症で苦しんでいる人達がいた。水俣病同様に救済は未だに十分されていなかった。この問題は、今回のテーマを外れるため、ここまでとする。

広島には、更に、三つの目的があった。その内二点を記す。
A・韓国人原爆慰霊碑が平和公園内に移されたのは、まず、私の原稿が原因と思われる。そこで、韓国人原爆犠牲者慰霊碑が現在どこにあるかを確認すること。
B・平和記念館で、記帳用紙にオバマ大統領宛文書を英文で記述し、オバマに、広島・長崎の原爆投下の是非は棚上げし、まず一度広島か長崎への来訪依頼すること。
次に、AとBの解説を行う。
Aについては、拙著『旅に心を求めて―教材編』第13章「教師と子の像の前に立ち尽

くす。授業を求め広島へ」という教材の中で、何枚もの写真を挿入していた。その中に韓国人原爆犠牲者慰霊碑の写真があった。私が一九九五年四月三日に撮影したものである。その写真の下側に、「何故か、この碑のみ平和公園の外にたたずむ」と書いておいた。同時に口頭でも、授業で疑問を何度か呈した。この教材を大学校の授業では九七年度まで使用していた。その後も予備校で時折使用した。やがて、この像は九九年に平和公園内に移動された。私の原稿との因果関係を知る由はないが、二〇一三年に限定しても、私がコリアタウンに行けば即、NHKがコリアタウン特集番組を組み、私が別子銅山で炭鉱労働被害者と科学の問題を問えば、NHKが即三池炭鉱事故の特集番組を組んでいる以上、偶然ではないと思われる。二〇一三年以外もほぼすべてそうなのだから。

ともかく、原爆犠牲者慰霊碑が本当に平和公園内に移動されているか・どうか、移動されているとすればどういう場所に移動されているかを確かめる義務感のような物も感じていた。

【📷韓国人原爆犠牲者慰霊碑・昔の位置】

韓国人原爆犠牲者慰霊碑:1995年撮影📷№95-040-05A-f


平和公園に行くと、確かに韓国人原爆犠牲者慰霊碑は平和公園内に移動されていた。この慰霊碑の写真も相当な枚数を撮った。このときの広島平和公園訪問で気になることが一つあった。それは北朝鮮の原爆犠牲者慰霊碑が余りに小さく、私の靴か帽子程度の大きさだったことである。北朝鮮には北朝鮮の方針があるため、私が口を挟むことはできない。ただし、当時、広島には約十万人と言われるコリアから来た人達がいた。自分の意思で来た人、やむを得ず来た人、だまされてきた人、強制連行で来た人……などがいたことを強調しておく。

【📷北朝鮮原爆犠牲者慰霊碑】

北朝鮮原爆慰霊碑:2014/09/02 13:54 :📷№14-032-099→2013年に撮り損なったので2014年出直して撮影


碑文の裏面には「碑文(裏面)日本語訳。悠久な歴史を通じて、わが韓民族は他民族のものをむさぼろうとしなかったし、他民族を侵略しようとはしませんでした。(中略)しかし、5千年の長い民族の歴史を通じて、ここにまつった2万余位の霊が受けたような、悲しくも痛ましいことはかつてありませんでした。韓民族が国のない悲しみを骨の髄まで味わったものが、この太平洋戦争を通してであり、その中でも頂点をなしたのが原爆投下の悲劇でありました。……」と記されている。
数万人のコリア(韓国・北朝鮮)の人達の怨念がここに眠る。

 ―☆☆『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』(二〇一三年一〇月一一日){Yahoo!ブログ)}より抜粋―
 …平和公園区域外の本川橋西詰にあったこの碑を、公園内に移設して欲しいという要望がだされるとともに、朝鮮が南北に分断されている現状のなか、移設は新しい統一碑にしようという願いも熱いものでしたが、1999年に元のままの形で現在の位置に移されました。

 原爆は日本人だけでなく、朝鮮(韓国)をはじめ、アジア各地から来日していた「南方留学生」、アメリカ人捕虜、ドイツ人神父などの命も奪いました。
 参考。韓国人慰霊碑の移転についての当時の慰霊碑建立委員長の話。(87・11)「私は公園の外にあることは恥辱だとは思っていない。なぜなら、あそこはイウ公という韓国の宮さん(=皇族)が被爆した後、助けられた場所だからだ。しかし、一般の人が、公園の外にあるので、差別されていると言う。多くの被爆した犠牲者の碑が公園内にあるから、私も中のほうがいいと思う。」
(注)イウ公殿下は日本の皇族の一人に列せられ、被爆当時は第二総軍の教育参謀・陸軍中佐であった。
 ―☆☆引用終了(一部誤字を私が訂正)☆☆―

【📷韓国人原爆犠牲者慰霊碑・1999年頃以降の位置】

韓国人原爆犠牲者慰霊碑:2014年9月2日13時34分: 📷№14-032-064_DSC_8696_01

 広島平和公園の後、宮島に行かなければならない。急がなければならない。何故、宮島か。いずれ、『旅に心を求めて』か『生命への畏敬』シリーズで原爆問題特集予定だからである。読者に熱心に読んで貰うには、人を引きつける幾つもの写真を挿入しなければならない。そのためには優れた写真を撮らなければならない。それが、私がカメラを開始した理由である。そして、広島の問題をクローズアップするには、その周辺の観光地である宮島の写真も撮って置いた方がよい。同時に掲載すれば、宮島の美とともに存在していた広島が廃墟と化したときの悲惨さをクローズアップできるからである。

そこで大急ぎであった。尤も、この日のスケジュール全体が過酷を極めていた。朝から振り返ろう。午前六時起床、七時二十分・我が家発、七時三十七分・バス発、九時十五分・岡山市着である。この後、バスカード換金手続や従兄弟宛文書送付作業でかなり歩き汗だらけとなる。九時五十七分・JR岡山発(金欠のため)鈍行で、福山と糸崎で乗り換え、十二時四十六分・広島駅着である。その後、市営電車経由で広島原爆ドームに十三時二十七分に着く。平和公園と記念館を大急ぎで見て回る。

朝、林檎を食べただけであるが、昼食をとる時間はない。それどころか、平和公園では(この日は夏並みの暑さで)汗だらけとなるが、飲物を買いに行く時間すらなかった。カメラ二台を始め、機材八キロ等の荷物合計十キロ以上を担ぎ、猛スピードで歩き回っていた。記念館の中はストロボ・フラッシュ禁止と三脚禁止を条件に撮影許可が出たため、記念館内でも同様に過酷な状態にあった。展示品を丁寧に見たり、写したりする時間はなかった。尤も、時間があっても全てを受け入れるのは難しい。だから、売店で地図を買うときに、はっきりと言った。「私の頭脳では一度に全部は受け入れられません。また来ます。……、何回も来て、大体大半を受け入れることができます」、と。記念館備付けの記帳ノートにも「また来ます」と記している。入場料は五十円であり、岡山駅から鈍行で広島までは二千円台なのだから。

それでも、途中、原爆被災者女性の人形に引きつけられ、この人形だけは何があっても今回撮ると決めた。その人形の写真だけで二十枚以上撮った。私の機材と技術では時には八分の一秒でも手振れをせずに写すことができる。ただし、それはホールディング条件があるときである。この日はこの人形の周りに人が多く、難しい。それでも、ほぼ真っ暗な中で、気合も気迫も入れ、十分の一秒を基準に撮り、何枚かは決めることができた。

【📷広島平和記念資料館内の展示】

広島平和記念館内:2013年10月6日14:04:📷№13-055-064


こうして、十四時九分に記念館を出て、平和公園内の像を撮影する。十五時十分平和公園市電駅発、十六時十分頃宮島行きフェリー乗り場着、十六時二十八分・宮島着である。速歩で進み、宮島の鳥居を十六時四十八分頃から写し始め、撮影終了が十七時五十六分であった。真っ暗になりかけていた。この間、数百枚写し続け、息つく暇もなかった。飲物もお預けである。

【📷宮島】

宮島:2013/10/6 17:28 :📷№13-057-140-v_DSC_4779


勿論、宮島観光どころか厳島神社の中にすら入れなかった。もうくたくたであった。だが、帰りがけに振り向くと、何と、鳥居がライトアップされていた。もうぐったりであるが、根性である。再度鳥居が写せる位置に戻る。フィールドワークのときはいつもこうである。十八時十分ライトアップされた鳥居撮影再開、十八時四十五分撮影終了。三脚なしではもう無理である。助かった。この後、最初にしたのは自動販売機で飲物を買ったことである。一口飲むと生き返った。この日は暑く、食事どころか飲物を買うとき間もなく脱水作用を起こしていた。

【📷宮島】

宮島:2013/10/6 18:14 :📷№13-057-204_DSC_4843


こうして宮島を後にし、夜の平和公園に戻る。二十時六分・原爆ドーム着、原爆の子の像や教師の子の像を撮り、ホテルに着いたときは二十一時を過ぎていた。その後、最初にしたのは、食堂探しであった。朝から林檎一つしか食べていないのだから。だが食堂が分からず、コンビニで軽食を買い、ホテルで食べ、大ざっぱなカメラ機材の手入れをしていたと思ったら、いつの間にか寝ており、気づくと朝であった。

二日目以降も同様の強行軍であった。なお、二日目の朝、広島公園を歩き回り、原爆慰霊塔に合掌したことは言うまでもない。初日は、秒単位の行動であり、慰霊碑を拝むことは翌日に持ち越されていた課題であった。拝むよりも、現実の世に平和をもたらす行動が先だと思ったからである。

【翌日の平和公園】

広島平和公園:2013/10/07 10:41 : 📷№13-058-031_DSC_4933

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浜田隆政写真物語・広島(動画のリンク切れが多いため、今年の夏には修復願望)
http://takachan1.xsrv.jp/index.html
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こうした慌ただしい中で、前日、平和記念館を出る直前に、平和記念館に備え付けてあるノートに、オバマ大統領宛メッセージを英語で記帳した。ただし、家を出る前も写真に絡む挑発に対する長い文書を書いていたせいで、一部ミスがある。ミスがあるがミスのまま当時書いた記帳内容を記す。


 Mr. U.S. President Obama.
  I hope that you do come to Hiroshima or Nagasaki, in order to see and know the miserable devastation of an atomic bomb by all means, leaving the issue of right and wrong of the atomic bombing on the peaceful table.
  We Japanese pray you might be the messenger for the great peace of mind.
  May the world be peace!
  From Takamasa Hamada   
  October 6, 2013.

広島平和記念館のノートに記帳した英文の下書きは、当時、近所に絡めた写真関連のつまらぬ文書書きがやまず、わずか三分程度で一気に作成していたものである。そこで、ミスをしていた。ミス部分を日本語にすれば「原爆投下の是非は平和のテーブルに棚上げして」としてしまった。本来は「広島・長崎への原爆投下の是非は平和のテーブルに棚上げして」であった。これからの原爆投下は誤りである。ただ、一九四五年に関しては米国内で論争が激しいため、オバマ大統領が広島・長崎に行くには棚上げしか当面は方法はない。当時、書きたかった内容を日本語で記載しておく。


「合衆国大統領オバマ様へ。
 広島・長崎への原爆投下の是非は平和のテーブルの上に棚上げし、原爆投下の悲惨さを、是非、その目で見て、知っていただきたいのです。そのためには大統領が広島か長崎に是が非でもおいでいただくことを、私は希望しております。
 我々、日本人はあなたが(世界の人々の)大いなる心の安らぎへの伝令者となることを願っております。
 世界が平和になりますように!
浜田隆政から。  
 二〇一三年十月六日」

【📷広島平和記念資料館オバマ大統領訪問→長崎原爆資料館展示】

長崎原爆資料館:2016/11/23  16:11 :📷№16-036-370


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浜田隆政写真物語・長崎(動画のリンク切れがあるため、今年の夏には修復願望)
http://h-takamasa.com/tamashi/program11.html
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(α・2012年追記)→2021/05/18 20:35頃記述


今回は超多忙なため、オバマ大統領広島訪問についてのみ追記する。

ケネディ (Caroline Bouvier Kennedy)アメリカ合衆国駐日大使(当時の肩書き)は「私がオバマ大統領に広島行きを勧めたことがある。ただし、それが主因かどうかは不明である」と言った。
ミスター・オバマの妹のマヤ・ストロ (Maya Soetoro-Ng)さんは、「私も兄に言ったことがあるのよ…」と。
ケリー(John Forbes Kerry)国務長官(当時の肩書き)は「私も広島行きを勧めた」と言っていた。

よって、私の上記の原稿の関係での広島行き…は…である。
ただし、下記にも広島か長崎行きを勧めていたことがある。
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【政経主張―第1回】
『オバマ来日で、オバマ大統領へ。更に、日本外務省に告ぐ』
         by 浜田隆政(TAKAMASA HAMADA)
http://takahama-chan.sakura.ne.jp/politics/custom13.html
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など、関連文書はいくつかある。
しかし、私の母が言うには、「近所か親戚か忘れたが、小さな子が『オバマ様、広島か長崎へ是非行ってください』と願っていたのでその願いがかなったのではないか」という。▽
キャロラインケネディ、マヤストロ、ケリー、私、更にその小さい子とで言い合いすれば、小さな子に誰も勝てないであろう。泣かれると困るので。

ただ言えることは、昔、蓮舫さんがこの件で安倍晋三氏を絶賛したようであるが、どうも、それは違っていると思うのであるが。
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民進党の蓮舫代表代行は27日のツイッターで、オバマ米大統領の広島訪問に関し、「オバマ大統領の広島訪問、そしてスピーチ、被爆者の方と話される姿。この歴史的な声明を実現された安倍内閣の外交は高く高く評価します」と投稿し、安倍晋三首相を絶賛した。
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民進・蓮舫代表代行が“まさか”の安倍外交大絶賛 「安倍内閣の外交は高く高く評価します」
産経ニュース2016.5.28 07:59
https://www.sankei.com/politics/news/160527/plt1605270064-n1.html
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もう少し正確に記そう。
私の母は2012年に死亡したため、墓参りにいったときに、母がそういった気がしたというだけのことである。しかし、ここから派生し、2016年長崎に行くときには11・22が効き、あわや宿無し野宿の危険が…。この話は「日本のフィクサーME・パート4」で記そう。
ただ言えることは、現役大統領の広島行きの決断はミスター・オバマ自身が最終的にしたのであるが、大勢の人がそれを賛美していたということだけが唯一の事実である。