「2013年の真相」№25・第4章ソウルへの旅・第3節・ソウル会談・二日目―安重根記念館内にて(上) :💁(正式公開)

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「2013年の真相」№25・第4章ソウルへの旅・第3節・ソウル会談・二日目―安重根記念館内にて(上)

・📢(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):💁正式公開


【更新履歴】

2021/06/25 10:44 下書掲載開始(下書段階で公開)

2021/06/27 16:03 写真追加と2021年追記文の一部を追加

2021/06/27 23:45修正と追記。一応完成も、明日・誤字脱字のチェックをして正式公開

2021/06/28 12:56 大幅追記と追記部分の修正を行い、正式公開。本文βは誤字も含めて修正はしていない。13:09 風俗論追加

2021/07/08 13:55📷添付 文書添付は2021/07/07も下書公開はしておらず。

2021/07/08 16:53正式公開 17:16一番下に追記

 


2013年の真相―№25
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)=2014年初頭の文書(後の追記は追記時期明記)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)

全体目次は下記。今回は4章第3節(上)。

№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする


2013年の真相・目次


β(上に本体・原則2014年初頭小学館に送付したまま):γの写真とα)2021年追記は本日


第3節・ソウル会談・二日目―安重根記念館内にて

 ソウル二日目(十二月十日)は、前日の疲れから午前八時過ぎまで寝てしまった。貴重な時間のため、安重根記念館へと急がねばならない。しかし、その前にカメラの手入れなどをしなければならない。そこで、ホテルを出たのは実に午前十時頃となっていた。南大門公園に着いたのは十時四十三分頃であるが、安重根記念碑にたどり着いたのは十一時一分であった。
【📷】安重根記念館がある公園への入口(📷は一度クリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大)

安重根記念館の下:2013年12月10日10時59分→📷№13-073-135


ここで、安重根の記念碑だけで四十六枚撮影をした。前日とあわせると、安重根記念碑だけで七十一枚写したことになる。この日は太陽と安重根を並べて写す試みをした。
私は写真は記録媒体と同時に芸術であると考えている。その二つを上手く使い分けて撮影している。そこで芸術狙いとして、記念碑と真昼の太陽との併行撮影を試みた。
他方、記録撮影としては順光で六枚ほど写した。勿論、後者は全部決まっている。が、勝負は前者である。前者は七十一枚撮った中で、ずば抜けたのが一枚あれば良いという撮り方である。しかし、その一枚が大変なのである。なお前日の、夜の雨の中の写真では、フィルターに雨がつき、それが臨場感を出し、面白いのが撮れた。この日の太陽と安重根撮影は、今後のレタッチ技術次第でどうなるかが分かるであろう。

【📷・安重根記念碑・芸術狙い】(この時は結果がついて来ず)

安重根記念碑:2013年12月10日10日→📷№13-073-155

安重根記念館の下:2013年12月10日→📷№13-073-148

安重根記念館の下:2013年12月10日10時59分→📷№13-073-154


【📷・安重根記念碑・記録型撮影】

安重根記念碑:2013年12月10日11時22分→📷№13-073-167

安重根記念碑:2013年12月10日→📷№13-074-025-1


なおこの日、安重根記念碑界隈には、軍服を着た青年が数十人いた。私が、到着すると、暫くして彼らはどこかに姿を消した。
【📷安重根記念館】(記念館内は撮影禁止とのことで、館内に客は零人であったし、見張りもいなかったりしたが、一枚も撮影しなかった。不思議なことには帰国後にみると、日本人観光客がHPで館内を撮影している写真にでくわした謎もある。)

安重根記念館:2013年12月10日12時18分→📷№13-073-175

安重根記念館入口:2013年12月10日12時15分→📷№13-074-047

 

 

安重根記念碑を撮影した後、安重根記念館に入った。最初は受付には誰もいなかった。館内にも誰もいなかった。暫くして、受付の人が一人だけやってきた。英語で「Am I allowed to take a picture here?」(私はここで写真を撮ってもかまわないでしょうか)と言おうかと思ったが、通じないと困るので、やむを得ず「Can I take a picture here?」(ここで写真を撮ってもよいの)とラフな英語で尋ねた。こうした場面では、客が多くないときは、Canは使わない方が良いのであるが。せいぜいMayにしておいた方がよい。何故ならば、外国人の私にも入場料無料なのであるから。金を支払ってタクシーに乗るのとでは訳が違う。英語の解説はここまでとする。

館内に入ると一階から三階まで、私以外誰一人いなかった。また、工事中なのか、記念館は囲いみたいな物で覆われており、外と遮断されていた。おまけに、軍隊らしき人物が周りに潜んでいた。また周辺でも、私が記念館界隈に来てから去るまでの間に、見た人は掃除の小父さんを除けば僅か数人であった。
ここで、昨日、ホテルの中で言ったことを言えば良かったのであるが、昨日ホテルで言ったことは全て韓国政府に通じたと考えていたため、竹島(独島)問題を始めとして、肝心なことは言わなかった。
もし、昨日のホテルを日本が経営していたり、経営に参加していたりしたならば、全く韓国政府に通じていなかった可能性があった。あるいは、都合の良い部分だけを韓国政府に流し、都合の悪い部分はカットされていた危険性があった。
しかし、それに気づいたのは帰国してからである。今、考えれば、記念館の中ならば、何を言っても日本政府は関与できない。また、記念館の中ならば、喋ったことを韓国政府が全て聞いても盗聴ともならない。おまけに、誰一人客がいないため、他人の妨害にもならないという絶好の機会を逃してしまった。さらに、外には軍隊がいたり、彼ら以外の人がいなかったりしたため、日本からの妨害者も入ることはできないという絶好の条件だったのであるが。

【📷安重根記念館】(囲まれた姿と周辺風景)

安重根記念館:2013年12月10日12時18分→📷№13-073-176

安重根記念館周辺:2013年12月10日→📷№13-073-171

 

この館内で、私が語ったのは、菅官房長官のハルピンに安重根記念碑をつくることを批判したことへの反論程度である。確実に覚えている菅官房長官への反論を以下掲載する。その前に菅官房長官談話を紹介する。


―☆☆「アサヒコム二〇一三年一一月一九日」より☆☆―
……朝鮮の独立運動家、安重根(アンジュングン)が中国・ハルビン駅で伊藤博文を暗殺した現場を示す碑を設置する動きについて、菅義偉官房長官は19日の記者会見で、「我が国は安重根は犯罪者と韓国政府に伝えてきている。このような動きは日韓関係のためにはならない」と述べ、強い不快感を示した。
碑の設置は韓国の朴槿恵(パククネ)大統領が6月、中国の習近平(シーチンピン)国家主席との首脳会談で提案した。朴氏は18日、中国政府で外交を担当する楊潔●(ヤンチエチー、●は竹かんむりに褫のつくり)国務委員と会談し「両国の協力でうまく進んでいる」と述べた。
安倍晋三首相は7月のテレビ出演で、碑設置の動きについて「伊藤博文は初代の日本の総理大臣だ。(首相の地元の)長州にとっても尊敬されている偉大な人物だ。お互いにしっかりと尊重しあうべきだ」と述べていた。
―☆☆引用終了☆☆―


これに関して、館内で次のことを言った。

今回の訪韓前に膨大な妨害があり、残念ながら安重根に関しての資料を十分読めなかった。だが、何故、安重根の記念碑・記念館に私が固執したかの解説を簡単に行う。
伊藤博文の暗殺者を拝みに来たのではない。日本が行った昔のコリアン差別、日本侵略への怒りを知るために来たのである。差別政策があった以上、戦前、韓国への卑劣な形での侵略があったのは事実としか思えない。そして、コリアン差別以外の幾つもの差別が日本にはあり、そうした差別への怒りを共有するために来たのである。

また、安重根をどうみるかは後に調べてから記すが、アルカイダ型ではなく、日本の赤穂浪士型に近いかもしれない。また、アルカイダ型の最たるテロは、日本が行った真珠湾攻撃の方であり、九・一一事件の比ではなかったはずである。(ただし、真珠湾攻撃の謎はある。これが、アメリカのモンロー主義からの脱却への道となったため、泳がせ説も一応述べておいた。)ちなみに、私自身は非暴力派であるが、先の理由で安重根の記念碑に合掌したのである。

同時に、伊藤博文も過去に他人を暗殺した疑惑があることを紹介した。少なくとも確か黒田清隆(一八四〇~一九〇〇。薩摩藩士・陸軍軍人。第二代総理大臣)は自分の妻を殺害し、罪にとわれていない。
「黒田は……泥酔して家に帰った。かれには酔うと暴れる酒癖がある。夫人の出迎えがおそいとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、いきなり夫人を切り殺したのだと伝えられた。……・・・夫人の実家はこの暴挙に怒ったらしいが、黒田の地位が地位だけに泣き寝入りさせられた。しかし、このニュースは巷間にもれ、『団々珍聞(まるまるちんぷん)』が痛烈な一ページ大の風刺画を掲げてスッパぬいた。警視庁はすぐに処罰したが、口から口へとひろがる世間にふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。」《{色川大吉『日本の歴史・21』(中公文庫)、一九七四年、一三頁}。
尚、一四頁には「大久保内閣……腹心の大警視川路利良に検視を命じ……」て「他殺の形跡などない」で幕引きが図られている。だが、黒田の盟友・大久保の腹心を使っての検視が公正であろうか。当然、検視は公正な人物ですべきであった。なお、伊藤博文が某人物の暗殺に関与したかどうかは、今は調査前で不明である。同時に、安重根がそれを信じていたかどうかも、調査前で不明である。》

だが、伊藤博文とか黒田清隆の墓や記念碑には、人は堂々と拝みに行く。新選組とて同様である。では何故、安重根記念碑を参拝することにこれほど妨害があったのか。なお、テロ行為は、安重根以上に、戦前日本の軍部などが幾つも行っているのが史実と、私は解釈している。同時にヒトラーの戦争犯罪はまだ風化していないため、ヒトラーの墓に公職者が参るのは問題が多い。日本も同様である。


さらに、中国国内に誰の記念碑をつくるかは中国政府の問題であり、菅官房長官の言動は内政干渉の疑惑がある。次の一言も言うべきかどうか迷い、結果として言わなかった。

それは、安重根の記念碑が韓国以外で確実にあるのは日本である。日本には、私が知っているだけでも二箇所ある。よって、安重根を記念する物が日本にあり、日本につくるのは自由、されど中国がつくると抗議若しくは遺憾の言動を、官房長官談話(日本の声明文)として出すとは出鱈目となる。これを安重根記念館内で言わなかったのは、日本にある安重根を記念している施設に対して、日本政府が弾圧を加えるのを避けるためであった。

第一、日本に耳塚{京都市東山区、豊国神社門前にある史跡で鼻塚とも呼ばれる。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、一五九二年~一五九八年)のうち、慶長の役で戦功の証しとして討ち取った朝鮮・明国人の耳や鼻をはなそぎし持ち帰ったものを葬った塚}を観光名所として設置していて、何を言うかともなる。耳塚の観光化の是非は論じないが、安重根の記念碑はそれとは比較にならぬくらいに、現在の日本にとって問題のないものである。

【📷耳塚】(いつか撮影予定)フィルムカメラで撮ったものを掲載。後日、デジタルで取り直しが必要となっている。

耳塚:1995年4月20日16時27分頃→📷№95-050-00A

耳塚:1995年4月20日16時27分頃→📷№95-050-01A

▽(下記は上記の管理者・方広寺の鐘〈徳川家康の例のこじつけ…で有名な鐘〉)

上記の管理者・方広寺の鐘(こじつけで有名な話の鐘):1995年4月20日16時21分頃→📷№95-049-E

 


官房長官の言っていることは思想の前に論理矛盾が多すぎた。ちなみに、私は後日伊藤博文について、何も調べずに彼の記念碑の撮影に行く予定である。伊藤博文と安重根について調べるのはその後とする。なお、伊藤博文の像には合掌は二重の意味でしない。

一つは伊藤博文についてまだ調べていないこと。(安重根記念碑の場合には日本の侵略に苦しみ、死亡した、全てのコリアンの魂に合掌したのである。)
二つ目は、安重根と異なり伊藤博文の場合には墓がある。万一、調査し、伊藤博文も合掌に値すると感じれば碑ではなく墓に合掌するであろう。安重根には墓がないのである。

【📷・伊藤博文像(2014年撮影)】(伊藤博文関係の📷は「日本のフィクサー ME・パート3」〈2014~15年該当〉で登場予定。)

安重根記念館(山口県光市):2013年4月3日15時23分→📷№14-014-176



あと館内で言ったことは、何故、小中学生を研修授業で安重根記念館に連れてこないのか。彼の行動が正しいかどうかではなく、当時、コリアンがどういう状況に置かれていたかを学ばせるべきではないか。それが本当の授業ではなかろうか。
韓国は日本の真似をして「Cram School」(詰め込み教育)が激しすぎると聞いている。「More than cleverness, we need kindness and gentleness」「More than machinery, we need humanity」(私達は単なる知恵よりも思いやりと優しさの方を必要としています。機械よりも、人間性を必要としているのです)と言うチャップリンの『独裁者』の一節の視点からの問題点のみではなく、こうした教育から歴史を動かす発明は生まれてこないであろう。

さらに、モハメド・アリについて語った。彼は、オリンピックで金メダルを取った。オリンピックで金メダルを取ると、母国で英雄扱いされる。しかし、アリがアメリカに帰り、食堂に行くと、「ホワイトオンリー」と言われ、店を追い出された。怒ったアリが、金メダルをオハイオ川に投げ捨ててしまったという。恐らく、私がこの話をしたのは、(私は自宅監禁されているため、現在のことは分からないが、昔は存在していた)在日コリアン差別に対して、韓国の関心が薄いことを指摘した後で言ったのだと思う。詰め込み教育よりは本当の教育を、という視点から言った可能性が高い。

アリと言えば、ベトナム戦争に際して、彼が「恨みもない人間を殺しに行くことはできない」と言って、徴兵を拒否した話をしたかどうかは覚えていない。しかし、韓国を含む各国の徴兵制度自体についてはその国の問題であり、内政不干渉の原則より、どの国も口を出すべきではない。
ただ、私が提唱しかけている新国際秩序では、世界の安全は国連型世界組織の下におく世界統一軍で守るべきであり、世界の治安は現在の平和維持軍に該当する物で保持すべきであり、世界の紛争の予防はユニセフや国連難民高等弁務官などが発展した組織で行うべきものと考えている。それが実現したときに、徴兵問題は論じるかもしれない。
現時点では徴兵制度の是非は一切言うつもりはないし、記念館内でもその点は一切コメントしていない。

ただし、韓国のベトナム戦争出兵に関しては館内ではなく、我が家で昔語ったことがある。その後に、韓国政府(金大中・盧武鉉)がベトナムにとベトナム民間人虐殺への謝罪をしたことは既述の通りである。
その他いろいろ喋ったであろうが良く覚えていない。前日のホテルで重要な会談は終わったと考えていたからである。

【📷】

安重根記念館:2013年12月10日11時26分→📷№13-074-026-t

安重根記念館:2013年12月10日11時26分→📷№13-074-030-t

安重根記念館外からの遠望:2013年12月10日12時32分→📷№13-074-042


α(2021年追記)2021/07/08 16:52 記述


今回は超多忙なため、ごく一部のみ追記する。
①安重根記念館付近には、軍隊が取り巻いていた。
②安重根記念館は写真の如(ごと)く、囲いで覆われていた。
③同記念館に滞在中に、誰一人としてはいってこなかった。
④外の記念碑周辺も人はいないか、玉に通っても、相似の小父さんらしき人が間に入っていた。
⑤同記念館の中では、撮影禁止と言われたため、一枚も撮らなかった。
人がいないので撮影してもバレないが、ルール重視で一枚も撮らなかった。


帰国後、北朝鮮の動き(私とは無関係な張成沢・チャンソンテク処刑から…)、国内でも何か不審な動きが強まったため(姉などは伊藤博文の名はださないが、それらしきを暗示して…に早くいかないと大変なことになると言っていた)、伊藤博文関連(山口県光市と萩市)のフィールドワークを2014年に前倒しし、2014年春に行うことになる。
安重根記念碑訪問から4か月目に伊藤博文記念碑と記念館訪問となる。それらの経緯は『日本のフィクサーME・パート3』で紹介する。ちなみに、行くと翌年萩が世界遺産となった。
本来は電子書籍の関係で2014年が野麦峠、2015年以降が光市・萩市予定でいた。

(2021/07/08 17:08追記)
山口二郎氏だったと思うが、私のことを「嫌韓派と思っていた」に近いことを昔言ったような記憶がある。全くの逆であることはもはや誰もが知っているであろう。
それでは、誰が嘘を言ったのであろうか。
真逆のことを。
高校時代は部落研活動で、当時は米国施政下の沖縄から来た青年や、在日コリアの仲間と夜を徹していたのに…。

真逆のデマを誰かが組織的に言っていた疑惑がある。
真逆のため思いもせず、十年以上分からなかった。
例えば「戸籍…」の強調などもそうであった。
私は戸籍は差別の温床になるため、戸籍廃止論者であり、他人の戸籍を調べるのは犯罪と主張している人間である。そこで、20年程度意味不明であった。真逆だから思いもしなかった。

もっとも、最近では親米派でもあるし、親中派でもあるし、新独派でもあるし、新加派…でもある…と党派中立にふさわしい心情になっている。