(🚧)駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校・能開大等と一本の線が)

(🚧)駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大と一本の線が)


駿台真相編-6は2024/06/19 と2024/10/03 23:52 追記にメモを貼り付けていたが、ほぼ全面的に構成、内容をかえて、ここに掲載する。

以前のメモは下書きとして暫く掲載したままとして、数ヶ月後には下書き保存に回す。以前のメモのアドレスは以下である。

●https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=44135

2024/10/25 23:17から新下書きを開始

2024/11/06 21:17からMemo追加。途中で何故か、消去させられて、再度貼り付け作業

 


(序)全体の概要

(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係

(2)駿台CM作戦―事件第二部の開始―相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

――駿台真相編1986年度の話題提供が女性から多忙へとシフト

(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦

(4)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について


(序)全体の概要

駿台事件の本質は、🎬映画説グループの視聴率稼ぎと駿台経営陣の大CM作戦が本質と何度も書いた。
私は、自分の生き甲斐を「授業の演出・プレゼンテーション」においていた。だが、それでは駿台CMにならぬということで、女性陣を絡めたのであろう。女性陣といっても、1983年入社京都校講師室係🚺四人組に限定してではあった。

しかしながら、🚺問題といっても、下記の如く、デート所が外で合ったこともない。会話も人前での僅かな時間でしかない。
そうした状況では🚺問題でいつまでも話題提供にはならぬということで、1986年からは契約違犯による授業破壊工作が行われる。契約違犯による多教科誘導に起因する超多忙さ、その中で授業を守るための私の行動とをテーマにしようとしたのであろう。

この実証をするのが駿台真相編6の課題である。
なお、この時期では更なる超多忙と精神的追いつめを狙って、今度は催眠で岡山の予備校🚺2人が絡められる。駿台と全く同様の手口であった。
催眠熱の度合いは駿台よりも岡山の方が強かった。

だが、岡山の方は1年で終わり、終わった後は一切催眠での解説強要も、催眠類で思い出しをさせられることもない。
3~4行、催眠で熱をあげさせられ参ったで終わりである。他方、駿台の方は膨大な時間何度も催眠での思い出しと、催眠独り言を強要された。それも40年近くである。
この違いはどこから来るのであろうか。

おまけに、🛵おじょう(タナカ)や、岡山の女性と異なり、駿台🚺は美人だったからなどとこじつけもはなはなだしくやられ、卑劣なことには催眠で、駿台🚺四人組への怒りや不愉快さを緩和するという汚い手もうたれた。
なぜ、そこまで駿台🚺四人組を擁護というよりも、ヤクザの因縁型で押しつけるのであろうか。

容姿は全てではないが、容姿ですら嘘の印象操作が多い。可能ならば岡山の予備校職員の写真を掲載できないかと思っている。見れば解説の必要性はなくなる。
肖像権といっても、人権の濫用と公共の福祉の制限があり、彼女らがそれに違犯した以上、生活防衛上公開は許されるのではないかと考えている。
そして、これらの職場での出来事は因果関係があり、その繋がり型を事実に即して解説していくのもこの(6)のテーマである。

なお、駿台CM作戦は、この超多忙さだけではまた人は飽きるということで駿台真相編(7)から刑事犯罪被害の連続となる。

同時に、恋愛詐欺とか各種工作類は犯罪である。被害も、業務妨害や健康被害にまで及んでいく。通常らば経営陣から依頼されても、私ならば何億円もらっても断る。それでは彼女がら何故引き受けたのか。

ここから、☠(謎のXグループ)の存在や、人間違いを連想する。要するにZ…に怨念があって、その恨みをはらすために、駿台CMに協力したのではないかという疑惑である。この点は、岡山の予備校職員との対比で明白になるであろう。

最後に、女性が異常に強調されるが、それは人待ちがいに関連しているのであろうか。
あるいは、差別をにおわされることが最近多いが、これも人間違いに起因しているのであろうか。
また、🎬…では幼児・児童が強調されるが、私は本来は子供好きではあったが、その種の趣味は全くない。それでは、何故、長姉や父などの🎬映画…にからめるか、印象操作をしようとしたのであろうか。
話題提供のためであろうか、それともZ…の人間違いを助長するためだったのであろうか。

こうして、次回の駿台真相編7でその問題を検討することにする。



(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係

 

序・私(浜田隆政)の父=浜田耕治(学校教師)

A・浜田耕治―(ベネッセ前身の福武書店創始者)福武哲彦=父の岡山師範1年後輩(当時は同一時期に寮生活と思われる)。

B・福武哲彦→岡山の予備校・岡山進研予備校も経営→名誉校長・尾野作次郎

C・尾野作次郎→真備高校(現・岡山明誠学院)の経営母体であった当時(真備学園)理事

D・(ベネッセ)福武哲彦氏🤝(駿台)山﨑春之氏の疑惑→後に哲彦氏の息子・福武総一郎氏時代に駿台ベネッセ提携模試

E・途中絡んだ(灘高校を目標としていた)岡山中学・高校の校長・桐山氏=昔、真備高校の非常勤講師、更に同校解任後に、先の(ベネッセ経営の)岡山進研予備校校長に就任。

F・(ここだけ仮説段階)私をポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)の専任にする画策をした嶋坂先生(元京都外大教授・甲南大学講師、奈良女子大学講師…:彼の父が京都外大学長を歴任)が映画説と関係していたことは明白になりつある。嶋坂―🎬映画説―駿台だけなのか、嶋坂―駿台なのかを今調査中。図式化すれば、能開大中国―嶋坂先生―駿台となる。

特に、ベネッセと駿台、駿台と(労働省所管)ポリテクカレッジ岡山(能開大中国)の関係が重要な項目となる。

ここでは上記A~Fの相関関係図だけを記述し、(3)で犯罪・犯人隠蔽政策の仮説を展開する。簡単に言えば、駿台の責任逃れの工作である。1983年駿台京都校講師室係🚺女性四人組登場前から、既に、私の駿台放逐とその際の駿台の責任逃れや賠償責任逃れか賠償額の縮小工作がなされていたということである。

これらを徐々に証明していく。

Aについて。

当時、岡山師範本科第一部の学生は百人前後。全寮制であった。同じ寮で生活していたため、先輩・後輩としての付き合いはあったと思われる。それが証拠に、大変小規模な岡山の予備校(校長除き職員数4~5名、後に7~8名)の職場に、もはや大企業となっていた、福武哲彦氏が忘年回や新年会に何度も来ることはなかろうし、当時の職員も不思議がっていた。現在、ベネッセの写真は1万6千人程度である。

更に、宴会が終わった後で、福武哲彦社長がスナックなどに行く際に、職員に耳打ちをして私の方を指指して「あの先生も連れてこい」と言っていた。二次会に指名をうけた教師は私とあと一人いたか・どうかであった。そこでレミーマルタンかヘネシーを飲まして頂いた。数度あった。

ちなみに、ベネッセの労基法違犯で、私との関係がおかしくなったころ、福島保君が2007年にベネッセの社長となる。福島君と私は同じ林野高校卒業である。当時の生徒数は一学年普通科180名、家政科90名の合計270名であるが、私は理科系にいた関係で同じクラスに二度閉じ込められ、福島君と同一クラスになることはなかった。それでも、双方ともに顔も名前も知っている。

それに対して、父の場合には一学年90人程度のみならず、全寮制のため、福武哲彦氏と生活を共にしており、当然知っていたと思われる。ちなみに、福島君が社長になったことも、ベネッセの子会社ラーンズが私に実質的労基法違犯や各種違法行為・嫌がらせ行為を何度もしたことなどから、ベネッセ経営に支障が来さないための人事という側面もあったかもしれない。というのも、他でよく見られる現象だからである。

彼の力もあったであろうが、全く無関係の確率は極めてすくない。

ベネッセ・ラーンズの労基法違犯については後にどこかで触れる。大変高くついたであろう。ベネッセ経営不振となった本質の可能性が高い。ベネッセ子会社ラーンズは世界のMr. Hamadaのみならず、無料でベネッセ系列予備校の建て直しに奮闘(1985年度等の有名講師のブッキング)した後で、私に恩を仇で返したのであるから、私ではないが誰かが怒ったのであろう。

子会社に私に害を加える動機がないため、駿台時代の謎のXグループか、駿台の教員が駿台ベネッセ模試を作成しており、その取扱をベネッセ子会社・ラーンズがしていたため、何かちょっかいをかけたのかもしれない。

私が駿台で講師をしていた頃に、私よりも後に入り、当時若手であった、英語の桜井博之君の名をラーンズが送付してきた模試類で見た覚えもある。桜井君が関与していたとは言っていない。ただ名を見たと書いただけである。

ちなみに、下記の同窓会名簿は1982年に作成されている。1982年とは、私が駿台の教壇に立った年である。これも偶然ではないかもしれない。
余談な話ではあるが、父の上に名があるベル・串田(ベル くしだ、1913年11月20日 – 1994年12月2日)氏は日本の洋画家として知られている人物である。

もっとも、父の交友関係よりは、私の交友関係はレベルが違っており、私の交友関係や各種線は福武哲彦氏や息子の総一郎氏ですら、無名に近い存在でしかない。山﨑春之氏ももはや同様である。「日本のフィクサーME」シリーズなどでわかってきたであろう。
それが駿台事件の本質のもう一つの側面である。私=浜田隆政活用の駿台CM作戦や各種利権である。ニュージランドに移住した福武総一郎氏もニュージランドの地でいずれ分かってくるようになるであろう。

ちなみに、岡山の予備校で、駿台女性四人組と同様の事件が相似形で起こる。福武哲彦氏が生きていれば無理であった。その関係の如く、岡山の予備校での女性を絡めた事件の直前に福武哲彦氏が亡くなり、息子の総一郎氏が社長となった。

なお、私と福武書店(現・ベネッセ)が蜜月のときには、福武書店は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。岡山本社、東京本社建設…と。
私が福武書店と関係を持った異はまだ本格的なビルディングは一つも所有していなかった。岡山の廃校を利用していた。だがその後、もの凄い勢いで成長路線を遂げた。私に危害を加えるまでは…の話である。

 

【資料】上が浜田耕治(私の父)岡山師範昭和9年本科第一部卒業

岡山師範-浜田耕治-1Mm

 

【資料2】下が福武哲彦(ベネッセの前身福武書店創始者)岡山師範昭和10年本科第一部卒業

出典

『岡山師範(男子)卒業生名簿』(編集・同作成委員会)、昭和57年3月20日発行。

製作:福武哲彦。株式会社福武書店

BとCは今回の原稿では時間の関係で省く。Dについても、提携前から、(駿台の東京の職員から接待に何度か誘われ、進研模試の話をきかれたり…と)私には心当たりがあるが、今回は略すかもしれない。FとGは(3)で触れよう。

全体の仮説を先に記す。

仮説の本質は🎬映画・テレビ説と、🏢利権の融合、更に人待ちがいを絡めた話題提供にある。それを遂行するための手段は各種工作と催眠類の使用であった。

現時点では、🎬映画説の関係者に、私の父や姉(長姉)などが絡んでいるようである。いずれも死亡となっているが。

仮説では、ちちなどの🎬映画説グループが、🏢企業・法人などに話をもちかけて、私を人身売買若しくは話題提供というエゴで奴隷状態においた疑惑である。

具体的な図式は以下のようになる。

父が、父の後輩であった福武哲彦氏(福武書店・現在のベネッセ創始者)と何等かの相談をした疑惑である。同時に、大学院博士糧まで進む予定でいた私に対して、バイト三昧で疲れたことなどを利用して、催眠類でしきりに、高校教壇に立つにように私の脳をコントロールした疑惑がある。

時期は1981年3月である。もう、教員の公募などはどこもしていない時期である。同時に、私の方は既に家庭教師の予約だけで3人以上を抱えており、また家庭教師や塾などでの責任もあった。辞めるとしても早めに言う義務もあった。

ところが、催眠類で、突如学校の教壇に立ちたいと思い、採用試験類はない時期にも拘わらず、出身地・岡山の幾つかの学校に採用してくれるように手紙を送付した。送付した学校は福武書店経営の岡山進研予備校、真備高校(女子高校)、そして倉敷英数学館であった。いずれも、「それでは来てくれ」と返答があった。そこで大急ぎで岡山県に戻ることになる。

岡山進研予備校は経営者が先の福武哲彦氏である。その予備校の名誉校長・尾野作次郎氏が、真備高校の理事をしていたと後で知った。

尾野作次郎氏でインタネット検索をすると、{尾野作次郎・友野澄雄著『口述の教育史―一教育者八十年の回想 (1983年) 』福武書店、1983年1月1日}という本がでてきた。
真備高校で、最初に揉める原因(話題提供の素)をつくられたのが友野先生である。この話は既に★で記した。ただし、真備高校の友野先生は上記の人物ではなく、名前は違っている。だが、映画説類でこうした謎かけが随所ででてくるため記しておいた。

そして真備高校では当時放映されていたテレビの学園ドラマと類似形態で様々なことが起こったことも既に記した。
こうして、🎬―父―福武哲彦―尾野作次郎―真備高校というラインもあったようである。

更に、福武哲彦氏を通してか別ルートかは不明であるが、駿台甲府高校経営者駿台とも話をつけたようである。ただし、駿台甲府高校の採用試験に合格したが、駿台予備学校にまわされた経緯がある。駿台の方も既に述べた如く、全国展開前に大CMをしたくてその話に飛びついたのであろう。更に、小学校―中学校―高校―大学―大学院という縦のラインをつるくためにも、また海外進出をするためにも大CMを必要としていたように思われる。場合によれば、駿台理事長・山﨑晴之氏が同じ受験産業ということで、どこかで知り合いとなっていた福武哲彦氏を通しての商談であったのかもしれない。

それが証拠に、後に駿台とベネッセ(旧福武書店)は模試作成で提携をしている。

ただし、🎬映画説グループは1箇所に私を閉じ込めると話題提供にならぬため、駿台から一定の時期に私を放逐する計画を最初から練っていた可能性が高い。

私の生き甲斐は学校革命、即ち、学校のドラマならばテーマは授業におくにあった。そこで授業の模索を終始していた。野口英世が黄熱病の研究をするようなものである。
だが、彼らのシナリオは違っていたようである。

各種の形で学校を舞台とした映画かテレビ類の構想があったようである。
結論から言えば、一年のみは女子高校で模索する姿を、次の一~二年は東大合格者年1500名以上であった駿台予備学校の教壇で模索する姿を考えていたようである。

だが、授業が軌道に乗ると視聴者が飽きるし、駿台の方もマイナーな政経の授業ではCM効果が低いということで、無理矢理女性を絡めたようである。それも後に記すように、何か目的を持っていた女性四人組限定で絡めたようである。(おそらく人間違いを悪用して…)

しかし、それでは視聴率は二年が限界と考えたのか、1986年度からは超多忙な日々へ、1987年度は業務妨害・刑事犯罪であえぐ姿をテーマにしていたようである。

当然、これは大犯罪である。両親が許可したと言っても大犯罪である。そうでなければ、戦前に親が子供を身売りしたのは問題がないとなる。
人身売買、奴隷労働、強制労働、契約外労働、賃金不払い労働に該当する大犯罪である。


そこで、駿台の方もその逃げ道を作ったように思われる。

それがポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)である。ここ数年疑っているのは、この学校は駿台経営者が計画的に私をこの学校に誘導した疑惑である。なお、ポリテクカレッジ岡山は労働省所管の大学校であった。だが、この学校で激しい労基法違反・契約違反攻撃に遭い続けた。

映画・テレビ類とすれば、労働省所管の大学校で労基法違反、契約違反のオンパレードとなれば、視聴率稼ぎで大変好都合である。
そこで、倉敷にあるこの労働省系大学校での労基法違反で苦しむというシグナルとして、倉敷英数学館という予備校の教壇にも立たせたのではなかろうか。
というのは、この倉敷英数学館は賃金遅延の常習だったからである。
倉敷で労基法違反被害にいずれ遭うというシグナルであろう。

同時に、この予備校で嶋坂先生と出会うことになる。嶋坂先生は京大・京大大学院で博士号を取得して、京都外大・甲南大学、奈良女子大学などで教壇にたっていたそうである。彼の父が京都外大の学長にもなっている。彼は湯川秀樹博士にも習ったと言っていた。
ポリテクカレッジ岡山の箇所で記しているが、彼が執拗に、私にポリテクカレッジ岡山の教壇に立つ話を聞きに行ってくれとポリテクカレッジ岡山に私が行くように仕向けた人物である。

嶋坂先生は、駿台の藤村先生同様に、連帯保証人となり、その尻拭いで京都外大教授を辞めて、奥さんの実家・岡山に来て伊沢という奥さんの名字を使用していた。連帯保証人…で藤村先生を示唆し、名字が幾つかあるということで駿台で政経を担当していた前田先生(別名杜先生)を示唆していた。
まず、映画説グループの人間と思われるが、駿台との関係もある可能性がある。というのも、ポリテクカレッジ岡山に専任前提と騙されて教壇に立ったが、この学校で「山﨑」という名が妙に強調されていたからである。

こうして、私の父・浜田耕治―福武哲彦(ベネッセ)―岡山進研学院―真備高校、ベネッセ(旧福武書店)―駿台、駿台―ポリテクカレッジ岡山という関係がなりたっていく。

更に、専任詐欺を隠蔽するため、途中で岡山中学・高校校長の桐山先生が絡んでくる。手口は全くポリテクカレッジ岡山と同一であった。その話は後で記す。

ちなみに、この桐山先生は昔真備高校で非常勤講師をしていたそうである。更に、岡山中学・高校で専任条件で1984年に(1985年度から専任ということで)私を招聘されたが、私が行く気がなく、断ろうとするや、私が断ってはまずいといわんばかりに、桐山先生が先手を打たれて、同校を辞め、福武書店(現・ベネッセ)経営の先の岡山進研予備校の校長になられた。{なお、岡山中学・高校とは、時期は違うが、NHKの井上あさひなどが卒業している学校である。私が教壇に立っていれば彼女の担任になっていたかもしれない。これを読んで井上あさひが言うかもしれない。「残念だわ」と。こんなとき、真面目な文章では冗談はやめておこう。}

駿台での業務妨害・刑事犯罪で私を放逐した責任―ポリテクカレッジ岡山での専任詐欺…を恰も岡山中学・高校の専任の話で隠蔽するがごとく形と成っている。

こうして職場群はすべて繋がりを持つと同時に、各種犯罪やその他の工作もつながりをもつことになる。

 

 

 

(2)駿台CM作戦―事件第二部の開始―相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

――駿台真相編1986年度の話題提供が女性から多忙へとシフト

ところが、催眠や工作で無理矢理女性問題らしく思わされる。
岡山の予備校でも、ある日、突然、女性職員タキザワさんに激しい熱を催眠で受け付けられる。ところが、ある日、突然に、その熱がタキザワさんからヨシダさんに変化する。
何でだろう?

ちなみに、タキザワさんは、駿台女性と琴なり、新年会・忘年会も同一、職場でも多少会話をしている。それも1981年~86年までである。
容姿も美形である。
職員のほぼ全男性が彼女に関心を持っていた。

ただし、私は理系の人間であり、各種シミュレーションをする。
確かに、魅惑的であるが、性格が私とはあうまい。私はのんびりとした女性とか、穏健な女性が良い。言い合いとか、小うるさいのは叶わない…ということで距離を置こうとした女性である。
近づけば、駿台とは異なり、まず熱をあげると分析をして距離をおいていた。
彼女も距離をおいていた。(多分、野暮なのは🆖。私はもっと良いのが良いであろうか)。
こうして長くみていても、双方、良好となっていた。

しかし、油断をすれば熱でもあげたら危険と警戒をし、職場の誰かと上手く結婚でもすればよいのにと本気で思っていた女性である。
1985年3月まで駿台女性、及び🛵おじょう(タナカ)が一瞬にして、1986年度前半に彼女に熱である。当然、催眠である。

ちなみに、駿台でもよくぼやいていた。
「福﨑伍郎君という二枚目で地理的教師がいるのだから、そちらで騒げ」と。
本当に独り言でぼやいたときもある。

なお、このタキザワさんとは、駿台女性の件を何度か相談したことがある。彼女が言っていた。「先生、いまどきの若い女性は授業が良いとか…で憧れる職員などいないですよ」と。然りである。
さらに、不思議なのは、ある日の午前中は彼女への熱であった。所が、昼からはヨシダさんに熱が移動しているのである。過去にも前例がある。高校部落研究部後輩のミズシマさんへの熱が数分でフナダさんに異動したことが。駿台も同じである。水俣で出会った子を思っていたら、高校生コースの子と西山の視線があい、火花がちったように思えた瞬間に西山熱が。催眠である。無茶な。


こうして、1986年度は先の殺人的なスケジュールの上に、はるかに駿台時代以上の女性熱を催眠で起こされた。なお、ヨシダさんという女性は良く知らないが、生き方が違うとしか思えなかった女性である。容姿は本田美奈子に似ていた。
可能ならば、両者の写真を掲載しよう。肖像権の関係で加工して掲載してもよい。ただし、彼女らも催眠を悪用して、事実上、私に危害を加えたとなっているため、肖像権は主張できない。憲法が保護する人権は公共の福祉の制限と濫用してはならないと定めており、それに抵触している場合には肖像権などは主張できない。

万一、写真をはれたならば、駿台女性は美人…は嘘も嘘と誰でも即座に分かる。美人かどうかはどうでも良いが、卑怯な形で、そうした特別扱いは卑劣である。
ともかく、写真をみれば、容姿のみでは駿台女性を思うことはないことは即座に分かろう。
限度を超えたならばうぬぼれか、自己のプライドで人を犠牲とか、…悪質と人は思うであろう。

ちなみに、この両者への熱は駿台時代以上であった。しかし、違いがある。彼女らが1987年度からベネッセ本社に異動するや即座に脳裏から消えた。更に、後にも催眠類で延々と思い出さされたり、独り言を言わされたり、何かを書かされたりすることは一切ない。
それでは、何故、駿台女性について延々と催眠をかけられたり、言わされたりし続けるのであろうか。矛盾というものではない。
「駿台女性は美人だったから」は写真をみれば分かるが普通である。岡山の女性との比較はやめておくが見れば分かる。きたない。催眠をつかって、文書を書く直前に印象をよく思わされたり、美形だから…の印象操作を他人をつかってやすらすとは…。
それ以上にしつこい。

何故、(催眠熱とはいえども)熱を本格的にあげた岡山の女性についてはその後は一切問われず、(催眠熱でも)一人しかあげておらず、更に、駿台外では会っていない駿台女性を優遇するのか。平等に反するし、事実に反するといつも怒っている。

写真を全部掲載できれば…何もかも分かる。
なお、岡山の予備校女性への熱は、私の父の後輩であったベネッセ創始者・福武哲彦氏が死亡した(1915年 – 1986年4月26日)後で起こされている。さすがに催眠熱のため、福武氏もスナックなどで共にしたため気が引けたのであろうか。ただし、この死亡も事実か否かは不明である。

なお、催眠の証拠の一つとして、ヨシダさん等が福武書店(ベネッセ)に異動したときには息子の福武総一郎氏が恋でもしたかと思わされる始末であった。彼が福武総一郎氏福武 總一郎(ふくたけ そういちろう、1945年12月14日 – )には副社長であった1984年か85年頃に事務長か校長かどちらかから何かの席で紹介されたと思う。彼が40歳前後のときであり、私も彼も若いときであった。

こうして、多数教科担当(東大合格者毎年1500名の職場での政経・日本史、大学校での英語)、岡山市、倉敷市、大阪、美作と飛び回り、更に駿台、ベネッセとものすごい模試を抱えた上に、幾つもの妨害、更にには女性二人に熱という状況で、始めて教える日本史…での苦闘を物語としたようである。
なお、岡山の女性職員とも、デートも何もしたことはない。これまた駿台職員と同様である。

なお、1983年頃~87年度は異常に女性が登場したと以前書いたが間違いであった。映画説の関係からか、昔から膨大な女性は登場していた。違いは、駿台講師時代は、女性が歌舞伎役者型で私に気があるのかと思わされたり、そのような芝居をしたりした上に、催眠がきつかっただけである。
大学時代でもものすごい女性が登場したが、全く覚えていないし、女性問題などは一切なかった。その上、大学時代などは何度も、今考えればデートもしている。だが、全く女性などは登場しなかったと錯覚をしていた。

デートとは、私が決死の覚悟で誘っていくものと思っていたからであろうか。大学時代のは、「泳ぎに行こう」「大阪城に行こう」「奈良に行こう」…と誘われたので行ったのであり、デートではなかった思っていた。何にもいるような。駿台講師時代は、一度も駿台外ではあっていない。真逆であった。

次から次へどんどんと女性登場は駿台時代も関学時代も別の時代も同様であるが、トラブルなどは一切なかった。駿台のみが歌舞伎役者とか多様な形や完璧な好きな振り演技のため目立ったのであろう。他は自然のため何とも思っていなかった。30年以上経ってから、「あれはデート」かと思った次第である。
あらゆる意味で駿台は狂っていたというよりも、駿台CMエゴ丸出しであった。若しくは後に記す謀略・工作のため、延々と理屈づけをしたのであろう。

なお、岡山の予備校女性は福武哲彦氏に依頼されて工作を開始したのならば、駿台女性は山﨑春之氏に依頼されての猿芝居と分析される。もし、岡山の予備校女性が全貌を語れれば、芋づる式に駿台女性の工作も判明しよう。
しかし、私は授業に行ったのであり、駿台女性とドタバタ劇をするために駿台に行ったのではない。駿台が絡んでいる以上、当然、契約外労働、強制労働…となり、その分の賃金も代価も支払われていないとなる。

駿台で、女性陣が登場した話は駿台真相編5-1~5-8で記した。何度も書いたように、1~2年ならばともかく、それ以上となると視聴者は飽きる。視聴者が飽きれば、🎬映画説グループのみではなく、駿台もCM効果がなくなる。

そこで、京都校から大阪校に異動した1986年度は人間の限界を超えるかもしれないという超多忙な日々に見舞われることになる。

第一、私を見て分からぬのだろうか。貴君らは正に裸の王様である。
昨日(2024/11/06)Mr.トランプが大統領に当選した。彼は私を見て即座に分からぬのだろうか。
私の容姿や雰囲気が女性に騒がれたり、騒がれたいと思ったりするタイプかどうか分からぬのだろうか。

ちなみに、私の家が檀家となっているお寺の住職の嫁さんは簡単に即座に言った。「見たから分かります」と。
我が友・Mr.Obamaですら、勘違いを…することがあるとすれば、小学校の子供のごとく、物事は単純に考えた方がよいときもあることを勧める。

視聴者諸君はいずれ、「おかしい」と思い出す。そこで女性陣はもう終わりとして、次の話題提供として、仕組まれていたのが、各種契約違反と、各種罠を利用しての限界を超える超多忙な日々の中での授業への葛藤であった。

「一九八六年に駿台大阪校に異動する羽目となった。同時に、日本史も兼ねることになり、多忙の限界を超えてくる。駿台大阪校で政経と日本史を週四日、岡山市の予備校でも政経と日本史を週二日、倉敷市玉島の岡短で英語を週一日担当し、それに何本もの駿台模試作成、進研模試のチェック、短大の(前期・後期・再試・追試)試験問題作成・採点などである。こうして毎週、実家・美作、岡山市、倉敷市玉島、大阪と飛び回り、その上で数年に及ぶ大きな障害となる大阪でのトラブルと岡山でも女子職員に絡めた揺さぶりに見舞われる。」{拙著『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle、KOBO各百円)参照)

「その上に、次に、一教科当たりの教材研究不足などを利用しての心理的揺さぶりが開始された。まず、心理的揺さぶりがしやすいように、初めて担当した日本史も、政経講師などが一番不得手な所のみを担当させられた。当時、駿台では日本史は古代~近世と近現代史に分割されていた。政経と相当重複する近現代史などは担当から一切外された。現代史などは駿台日本史講師陣よりも政経専門家の私の方が詳しいことは常識である。実際、『日本の歴史26・よみがえる日本』(中公文庫、一九七四年)は歴史学者ではなく政治学者・鑞山(ろうやま)政道(まさみち)氏が執筆されていた。だが、現代史などの箇所は一切担当できず、先土器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代……江戸時代までの担当となる。
更(さら)には、日本史のテキストか私の参考書類かは忘れたが授業直前に誤記述版に置き換(か)えられ、後に元に戻された疑惑がある。(この件は私の勘違いか、事実とすれば奇異すぎて現時点でも被害断定記述はできない。)その他でも、授業でミスするような策略がなされていたとしか思えないことが多々あった。
同時に、『日本史初めて教師』としての心理的揺さぶり言動や、生徒にその趣旨の宣伝をしたことを暗に私に知らせる形での揺さぶりもなされた。」(同上書参照)

さらに、その逆の手も打たれていた。
「 他方では、八六年度の生徒のアンケート(学校で集計された表・統計ではなく、生徒の自筆で記入された用紙類)を読むと、白々(しらじら)しさを超越したベタ褒(ほ)めに近い内容の記述がかなりあった。白々(しらじらじら)過(す)ぎてまともには見ていない。恐らく、学校が保存しているアンケート結果とは相違しているであろう。私が日本史を途中で止(や)めないようにするための誘導か、あるいは、私が担当していた日本史受講者の大半はX1の指揮下にあるという脅しであろう。」(同上書参照)

その上で、女性問題?を絡められた。「ちょっと Just  待って Moment」。それ何。女性問題。

女性問題と言えば、我が家界隈でも20年近く女性問題が。Z家の👴(老婆)から始まり…後は書くまい。

女性問題など、私にある訳がなかろう。アホかとなる。(ただし、正確な女性問題とは、被害者がいることを指す。だが、私はそうした高尚な次元抜きであるわけなかろう。人を見るにはその人の親友を見ればわかる。私の親友の代表人である、柔道・空手両有段者、それも両方初段🤣…を見れば分かろう)。

 

 

 

第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)

 

第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)

だが今考えると、これは私を多忙にし自滅させるための第二の刺(し)客(かく)であった。では、何故(なぜ)私を自滅させようとしたのかは、第一の刺(し)客(かく)に関係があると一定期間は思わされた。後(のち)に一連の流れから判断すると、多忙にさせるために何が何でも日本史を持たせる策略と日本史を止(や)めさせない手が打たれていた。
 実は、私と関西地区最高責任者・大滝部長との間で政経のみで三年間は生活保障するという確約が存在していたのである。ところが、日本史を持たせるため、この確約違反がなされた。しかも巧妙というよりも狡(こう)猾(かつ)な手段で。
 確約に関して紹介する。それは、岡山県の(灘高校を目標としていた)学校から専任教諭としての誘いを受けたときに、駿台のH係長にこの件を相談して、駿台から引き留められた際の確約である。
 H係長から「他の予備校に行くなら引(ひ)き留(と)めますが、(通常の)学校機関の専任ならばじっくり検討された方が良いですよ。何故(なぜ)ならば、駿台の場合には万一優秀な人材が入り続けたならば永久保障とは言えないですから……ともかく、……駿台の教壇に引き続き立つ意思がおありならば……大滝部長に連絡いたします……。大滝部長は浜田先生を助専任(専任前提の講師)にしてもよい、したいという腹はありますので、引(ひ)き留(と)められた場合には(責任問題などから)部長の方からは切り出せないので、先生の方から助専任の件を切り出された方がよいと思います。……、そのときに(重要なことは)言葉だけでなく一筆書いてもらっておいた方が良いですよ……大滝部長は若くして部長になったような人ですから……」などと部長がいないときにアドバイスを受けた。その後の会談で、引き留めは大滝部長と後に加われた故(こ)KW先生(生物担当講師で後の京都校校長)により行われた。このときの会談は以下のものであった。
 大滝部長の引き留め時の言動は、「駿台は先生を必要としています。……もし、駿台におられるならば三年間は(賃金等)保障します。三年後については、先生が授業に一生懸命取り組んでいるかどうかは不明のため、三年後になってみないと何とも言えません……また年齢については英語のKD先生などは七〇歳を超えても活躍されているでしょう」であった。
 同席していたKW先生からは、大滝部長の前で「私立中学や高校では、専門が政経でも何を持たされるか不明であり、そういう意味で、政経だけに専念したいならば、駿台が良いのではないか。駿台なら、政経のみで生活できるので駿台に在籍するということでどうか」という形で引き留められた。要するに、KW先生の言動も合わせると、政経一本で三年間生活保障するということで双方合意した。逆に言えば、他校では、マイナー教科・政経では複数教科持たされる危険があるが、駿台では政経のみで、最低でも三年間は生活保障するという条件を提示する、と明言されたのである。丁(てい)寧(ねい)に授業したいと考えていた私には、これが殺し文句となったといってもよい。
 会談の後で、H係長が私に「先生、あれで良いのですか」と心配して一言(ひとこと)言った。私が助専任の件を切り出さなかった理由は、先の学校から招(しょう)聘(へい)されかけたことのみ話し、本命としていた専任確約のある岡短の話をしなかったためである。一筆を取らなかったのは、会談時に大滝部長以外にKW先生やH係長がいたので大丈夫と油断したからである。なお、その場か後日か忘れたが、念のために「入試難易度問題などで政経受講者が減ったならばどうするか」を聞くと、H係長から「そうした場合には、授業分割をしてでも、賃金保障はする」という趣旨の解説を受けていた。
 要するに、双方の合意として、駿台は政経のみで三年間は私の現(げん)行(こう)賃金を保障する。その代わりに、先の学校は辞退して駿台に在籍する。そこで、駿台は最低でも一九八四年四月~八七年三月迄(まで)の間はその確約を守る義務があった。具体的には、八四年度同様に政経のみで五〇分授業一七齣(こま)前後の保障義務があった。勿論、私の方も先の学校のみか、岡短でも、その期間のみは専任が決まりかけても、何らかの工夫をし専任を延期する。駿台が確約を遵(じゅん)守(しゅ)すれば、私が政経以外を担当しても、八六年ではなく八七年か八八年からとなり、それまでじっくり準備をする時間ができたため相当楽になっていた。
 しかし、それだけの期間があれば、恐らく駿台で政経、駿台が新たに参入した高校受験用コースで中学生相手に英語、そして岡短で英語と、「求め続けて」が苦しみを楽しみとしながら一層進展する状態になっていたであろう。
 だが、八五年にその確約を反故(ほご)にする言動を大滝部長からされる。しかも後で一定の言(い)い訳(わけ)ができるように、つまらぬ小(こ)細(ざい)工(く)つきでなされた。

 次年度から共通一次試験科目の変動報道があったため、駿台が確約を守ってくれるかどうかと不安をもっていた八五年末のある日、突然駿台のトイレで大滝部長と出会う。今考えると、過去トイレでこうした形で出会ったことはなかったため、余りにもタイミングの良い偶然であった。もし出会っていなければ駿台の確約を信じて、一(いっ)切(さい)問(とい)合(あわ)せをせず、科目も従来のままとしていた可能性が高かった。ともかく、大滝部長に出会ったときに、大滝部長に次年度のことを尋ねると、共通一次の科目変動のため政経類は大きく減り、私が八五年度に担当している齣(こま)数の半分どころか、それ以下になるとの返答があった。具体的には七齣以下、確か場合によれば数齣になることもありうると言われた。すると、大急ぎで他教科も持たねばならない。英語、日本史、世界史のどれにするか等の迷う時間のゆとりすらなかった。もう、八五年度終了に近い時期である。こうして、まともに考える時間も奪われ、日本史担当を打診した経緯(いきさつ)がある。当然、政経一本で賃金保障をせよと要求すべき所であったが、岡短の専任確約問題か、後に述べる女性刺客問題でガタガタしていた関係かで言えぬ状態にあった。だが、大滝部長には、八六年度などは約束通りに、何があっても政経一本で生活保障するという確約厳守の義務があった。
 その後の動きは以下の通りである。大滝氏の確約違反のため、やむなく駿台で日本史兼任を打診→駿台で日本史兼任ならば岡山の予備校(後に駿台と模試で提(てい)携(けい)したベネッセが運営していた進研(しんけん)予備校、以下進研と略す)でも日本史を持つことを決定→八六年三月頃に駿台から政経類担当齣(こま)数は前年度の半減ではなく約三分の二(五〇分一〇齣)と日本史四齣との打診(日本史担当は早く返答するならば変更しても良い)→(引き留め時の政経一本で三年保障確約違反でも)進研等の収入も含めれば政経のみでぎりぎり生活できる可能性が出てくる→日本史担当を当面延期し、予備校では政経一本とし、後一、二年間は政経と併(へい)行(こう)して担当する教科の検討・準備と方針変更→即、進研に日本史担当を断りに出向く→ところが進研に相談に行くと、相談内容を予期していたかの如(ごと)く、事務員KO氏から先手をうたれ「先生、もう日本史は絶対に辞退できないですよ」と言われる。相談どころか、私が一言も言わぬ前にいきなり先手を打たれ、日本史は辞退できない羽目となる。これにより、(八四年の件もあり、日本史担当を変更してもよいとH係長が言った)駿台でも、日本史を辞退しても、無意味な状態になり担当することになった。
 駿台と進研(※注二)とで、日本史を私に絶対に持たせる計画が事前にあったのかというような、余りに出来すぎた流れが作られていた。もし、大滝部長への問合せ時に政経は八五年度の半分以下とか場合によれば数齣の場合もありうるではなく、三分の二と回答を得ていれば、日本史を担当することはなかった。万一担当しても八七年度以降であった。それどころか、政経一本で三年間は生活保障確約(事実上の契約)があるため、八六年度は政経のみで週一五~一七齣授業保障の義務が駿台にはあった。そのときには、私は超多忙とならずに、きっちりと責任は果たせていた。否、(いな)第八章で分析するように、駿台は故意に確約を破り、何が何でも日本史か世界史を私に持たせようとしていたのである。

第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆

X1→大滝部長→私の異動ならば、政経一本で三年間生活保障確約違反も同様の工作があったと推定される。次に、何が何でも日本史の授業をまともにさせないように、職員・講師・生徒を使い、ありとあらゆる妨害に入る。日本史を持たせた以上、何が何でも私の授業を失敗させるか、失敗しなかった場合でも無理矢理失敗させるという結論が先に出ていた。最初は、自然かつ合法的な形で、即ち、既(すで)に述べた多忙な生活へ陥(おとしい)れ教材研究面で自滅を図る。一例を挙(あ)げれば、模試作成でも京都校時代は年間に関(かん)関(かん)同(どう)立(りつ)模試一本の半分だけであったが、大阪校に行くや年間何本も作成させられる。
 次に、一教科当たりの教材研究不足などを利用しての心理的揺さぶりが開始された。まず、心理的揺さぶりがしやすいように、初めて担当した日本史も、政経講師などが一番不得手な所のみを担当させられた。当時、駿台では日本史は古代~近世と近現代史に分割されていた。政経と相当重複する近現代史などは担当から一切外された。現代史などは駿台日本史講師陣よりも政経専門家の私の方が詳しいことは常識である。実際、『日本の歴史26・よみがえる日本』(中公文庫、一九七四年)は歴史学者ではなく政治学者・鑞山(ろうやま)政道(まさみち)氏が執筆されていた。だが、現代史などの箇所は一切担当できず、先土器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代……江戸時代までの担当となる。
 更(さら)には、日本史のテキストか私の参考書類かは忘れたが授業直前に誤記述版に置き換(か)えられ、後に元に戻された疑惑がある。(この件は私の勘違いか、事実とすれば奇異すぎて現時点でも被害断定記述はできない。)その他でも、授業でミスするような策略がなされていたとしか思えないことが多々あった。
 同時に、「日本史初めて教師」としての心理的揺さぶり言動や、生徒にその趣旨の宣伝をしたことを暗に私に知らせる形での揺さぶりもなされた。
 他方では、八六年度の生徒のアンケート(学校で集計された表・統計ではなく、生徒の自筆で記入された用紙類)を読むと、白(しら)々(じら)しさを超越したベタ褒(ほ)めに近い内容の記述がかなりあった。白(しら)々(じら)過(す)ぎてまともには見ていない。恐らく、学校が保存しているアンケート結果とは相違しているであろう。私が日本史を途中で止(や)めないようにするための誘導か、あるいは、私が担当していた日本史受講者の大半はX1の指揮下にあるという脅しであろう。

(駿台真相編06に持って行く)
(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。

ただし、駿台予備学校…はお嬢様・お姫様が多く、犯罪の重要性に気づいていない可能性があるため、明白に、彼女らによりうけた危害を契機にどの程度の犯罪被害(拉致未遂、ひき逃げされる危険性…)に遭ったかも明白にした方がよい。また、関連での死亡者が多数でてもいる(もっとも一部は嘘の死亡であろう。Z3氏などは…)。ともかく、刑事犯罪者への犯罪協力者としての認識を持たせた方が良いと長期考えている。

他方、全く相似形であった岡山の予備校の滝沢、吉田はその後一切無関係を貫いてくれている。この相違はどこからくるのであろうかという謎もある。

3期=超多忙での苦闘
だが、女性に絡めたドタバタ劇ならば、人はいずれ飽きる。そこで、駿台時代の苦闘編3期はリズムを変えて、陰湿さを徐々に帯びてくる。
まず、契約違反から開始する。
1984年に駿台を辞めようかと迷っていたときに引き留めをうけた。契約は、立会人川端三郎先生の言葉(私立の高校などに行けば、何を担当させられるかわからない。駿台ならば政経だけでいけるぞ。どうだ、一つ駿台にいないか)と大滝部長の言葉(三年間保証)をあわせると「政経のみで三年間は生活保障する」であった。川端先生は大滝部長と私の契約の場で言われている。

なお、同時期に、岡山の予備校でも駿台🚺ドタバタ劇と同じドタバタ劇が起こる。これには二つの目的があったようである。

一つは駿台での授業などへの妨害、二つ目は駿台と相似形により、催眠などの現象に一定の時期に即座に気づくようにするためであった。

(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。

総6・多数の教科持ち
2019/5/2 求め・駿台 補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

http://h-takamasa.com/Blog/?p=11573

実際に、私と関係を持った企業は原則として全て急成長をとげ、関係がなくなるや成長が止(や)んだ企業は多い。

ニコン、ベスト電器(1995~2000年代前半頃)、福武書店・ベネッセ(創業者・福武哲彦氏にスナックなどに連れて行かれたこともある、主として1981年~88年、ただし、ベネッセとのトラブルを含む薄い付き合いもいれれば2002年頃まで)、…とほぼ例外なしであてはまる。
同様の動機で、私を専任確約で招聘(しょうへい)詐欺をやったのが、ポリテクカレッジグループ(労働省所管、雇用促進事業団)であった。当時、総合大学とは別に短期大学校約28校の設置に併せてのことだそうである。当時約五千人いた従業員と予算の命運のための、専任招聘(しょうへい)だったそうである。


福武哲彦氏が、二次会でスナックなどに行くときに、遠方から私を指指し、「あれを(あの先生)もつれていけ」とよく言っていた。そして、スナックのような場所で、女性職員を通じてレミーマルタンを飲まして貰(もら)っていた。
ところで、2000年か2010年頃かわすれたが、父の遺品を整理していたときに知ったが、福武哲彦氏は岡山師範時代、私の父の一年後輩であった。当時は全寮制と思うので何度も口をきいていたであろう。

2010年頃までは、こうした経済界の大物と表から知り合いかと驚いた。今は、『日本のフィクサーME』の世界では、こうした経済人の方がME登場のボンと知り合いかと逆に驚くであろう。息子さんの福武総一郎氏との出会いは後で記すが、後五年このまま過ごせば、(現在は同国ではまだ無名に近いかもしれないが)New Zealandでも私の名はかなりでるようになるかもしれない。そのときに分かるであろう。
超巨大企業(北欧などの国家以上の規模を誇る企業)では、既にそうなっているか・なりつつある。通常の巨大企業では、国家情報を入手できぬため、何も気づかない場合が多い。自惚(うぬぼ)れではなく、世界の経済・政治の流れの中で私の存在抜きでは理解できぬ部分がでてきた以上、はっきりと書いた方が良い。

1981年度にはもう一つの動きもあった。
倉敷の予備校である。ここでは賃金支払遅延を含む労基法違反のオンパレードで泣かされた。詳細は今回は省く。この予備校は後に倒産したが、倉敷で大労基法違反に遭(あ)うことをここで予告されていた。実にこの予備校以上の労基法違反に遭遇する。それも労働省の職場とも言える所で。
こうして、1981年度を終え、1982年度に以下入る。
なお、この1981年が岡山県教員採用試験の年齢制限上最後の年であった。どうなるのであろうか。



【真備高校退職時:1982年】
1982(1981年4月~82年3月)年の就職口は以下の状況

①駿台甲府高校採用試験全国公募に応募→合格
将来、専任可能、甲府高校への移動も可能、ただし、しばらくは予備校で授業をしてほしい。交通費はどこから通っても新幹線など全額支給する。グリーン車待遇は後に知る。ホテル代金などは予備校持ちとの話であった。ちなみに、一次から三次試験まであった。最終合格日は面談の1981年11月22日で、担当者は矢田部長といった。尚、早大大学院政治学研究科の最終合格発表も1976年11月22日であった。

②岡山県立井原高校から二年間専任できてほしいと電話連絡が入る。同校の教師が留学か何かで二年間不在となるためだそうである。後に人から聞いた話では、井原高校校長の息子さんを私が予備校で教えていたようであった。そこから私に目をつけたそうである。待遇は正式教師と同一であった。私が岡山県立高校採用試験の年齢制限にかかるので、二年後から大変ではと聞くと、「(もし来られたならば)悪いようにはしない」と言われた記憶があるが、当時は意味がサッパリ分からず、断る。

③岡山の(福武書店の)予備校からも将来専任にならないかなどと、個人的には言われていた。

④小野作次郎校長が関与していた福武書店系の塾→「授業風景を見て、君ができると思えば即合格」=自分で決めろとも言われていた。

⑤自分で採用してくれと手紙をだした学校から返事があった。当時の校長と会談した。一つが岡山中学・高校(岡山の灘を目指すと称して設立した学校)、もう一つが白陵高校(兵庫県)である。後者は、理事長か学校長自身が対応してきた。時期から言えば、このときに会談したのが創始者・三木省吾さんだと思う。大変ユニークな人で、後に、岡山白陵中学に一時籍をおいていた、楽天の三木谷浩史君(楽天株式会社社長)に諸事情からそのときの話を手紙に書いて檄(げき)を飛ばしたことがある。会談に当たっては、交通費も手当も支給してきた。
結論は両方とも、担当教科問題その他で駄目であったが、両方とも、校長自らが長時間一対一で対応してきた。

⑥公の私学センターなどを通して、正規に受けた私立高校は全部駄目であった。 もっとも、ものすごい人数で、ベルトコンベア方式で処理されていた。

※⑦これらの活動をする前に、当時の真備高校校長に、私を真備高校で専任にしてほしいと直訴した。校長は「担当教師の数からいって無理である」。
私「将来も無理か」。
校長「将来も、今後少子高齢化社会、学生数激減を考えると難しいと考えた方がよい」。こうして、動く前に、まず真備高校校長に将来の相談をしていた。
以上 2019/01/11 22:52下書き 以下続く。

(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦

 

023/10/21
2023/10/21:公式blog

🤡ME全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ

🤡全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ。

《◇―5・労働省所管・能開大での荒れ狂う労基法違反・契約違反、専任詐欺被害》
駿台を辞めるや、☠(謎のX)は今度は能開大で策動を開始した。
バイトなどの偽学生や、学生の一部を買収して授業妨害の策動させるのみか、職員を買収して、労基法違反や契約違反のオンパレードをさせた疑惑である。

他方、能開大事件は別角度もある。
能開大の運営権者・雇用促進事業団は生き残りをかけて、🤡(ME)のCM力を悪用するために🤡(ME)に対して専任詐欺をやった疑惑である。

 

【1982年、悪魔のささやき】
1982年は駿台(政経)、岡山の予備校(政経・倫社)、福武模試監修、岡山の予備校関連の寮などで教える…となった。駿台は、まだ私の観察期間のため、週二日(三コマ六時間程度)であり、こうした掛け持ちとなる。
ところが、駿台でやり甲斐(がい)があるのみか、駿台での私の評価もあがっていった。同時に、思っていた以上に駿台での教材研究はものすごい時間をとられた。そこで、授業への責任上、仕事を減らす方向に入った。まず、寮関係を辞める。次に、岡山の予備校の倫社関連をやめようとした。かなり評判が良かったようで、当時の校長から相当引き留められたが、次年度から辞めると押し通した。相当気まずくなった。

ところが、整理しているはずが、相棒のS先生(京大で博士号取得、湯川秀樹博士の授業も受け、奈良女子大などでも教壇に立っていた、私よりも二十才ほど年上の教師)から、労働省系大学が新設されるので、一つ話だけでも聞きに行ってくれという打診があった。私は当時は喧嘩をしてでも、仕事を減らしていたときである。その上、次年度(1983年度)からは、駿台の授業担当数も大きく増えると部長から聞いてもいた。コマ数は17コマ前後と。1983年度からは、実際に、月曜から木曜が授業、金曜日は質問日で月曜から金曜まで京都のホテル住まいとなった。

駿台という舞台で政経を教えるのは、私に大変マッチした。生き甲斐があった。ここで人生の勝負はあった。後は伴侶をえて、毎週三日温水プール、それ以外は授業準備だけ、…そして老後という、私にとって最高の人生となっていた。私にすれば理想であるが、ドラマとすれば大変平凡な物語となったであろう。そこで、悪魔のささやきが始まる。

岡山の予備校で校長に引き留められても減らしているときに、新しい仕事を持つ訳がない。ちなみに、減らそうとした岡山の予備校の単価は60分で五千円台か六千円台である。(駿台はそれよりも高い。)交通費などは当然支給される。他方、労働省系列大学は当時50分二千円か二千二百である。その上、百キロ未満は交通費なしという。担当教科は「前期法学、後期経済学」である。

こうした教科の準備は大変であり、即断ろうかと思ったが、相棒S先生が「浜田、確かに良い口ではない。しかし、駿台は所詮予備校であり、他の大学の教壇に立つには、労働省系大学の方がよい。ともかく、話を聞くだけ聞きに行ってくれないか」。
私は駿台でやり甲斐をみつけており、行く気はなかったが、ともかく話だけを聞きにいくことにした。
そしてお断りして帰る予定でいた。
ところが、行くと、「非常勤講師ではなく専任できてほしい」。
だが、当てになるだろうか。S先生は、この学校は労働省系の大学校で、重要な根幹は衆議院・参議院を通して決める学校だ…(だから心配ない)と言われていたが、駿台などで居心地がよく、辞めたくなかった。しかも、S先生の言動を疑う訳ではないが、もし、御破算になることをも警戒した。駿台に辞表を出した後で、御破算になれば路頭に迷うからである。

そこで、私が聞いた。
「専任と言うのはいつからですか」
当時の前身高等岡山職業訓練学校校長(ポリテクカレッジ設立後の初代副校長)が、「次年度(1983年度)春からです」。ということは、半年後くらいから即専任ということである。半年後ならば間違いはなかろう。
我が家の実家は岡山県、更に、私も安定した道の方が将来楽だろうと、考えていくことにした。
校長が言うには「法学と経済学だけでは無理なので英語も担当してほしい。そうすれば間違いない。一般教科の専任は二人で、一人はM先生が数学と▼▼を担当し、もう一人が浜田先生で英書購読(五クラスで五齣。ところが実際には二コマであった。後に五齣にすると言っていたが)と法学・経済学担当…ということで」で話がついた。

英語と言っても英書購読である。
こうして、教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。



【1983年度】
1983年になると、恰(あたか)も専任詐欺もみ消し事件が起こる。
岡山短大と全く同じパターンで、灘高校を目指していた、岡山中学の校長から電話が入る。
「専任になってほしいので、少し話を聞きにきてくれ」、と。
行くと、桐山校長が「来年春から、専任できてくれ。担当は中学校の国語だ」。
私「免許は社会科のため、教壇にたつとしても社会科で」
校長「それは心配しなくてもよい。(仮免か何かで)対応できるし、一定の時期には社会科に移ってもらう」、と。
突然の話の上に、この頃は引く手あまたであり、この学校の労働条件が余りよく見えなかった。1981年と83年では全く状況は違っていた。

駿台も大変居心地がよくなっていた。
それよりも、岡山短大との専任契約がある。
同じ専任で、しかも両方とも地元・岡山県ならば、短大・大学校の方が楽である。
しかし、何か勘違いをしているようで、「お前(若しくは)、君、来る(だろう)な(=来るだろう=来なさい)」と一方的であり、私の返答もできない状態にあった。

しかも、筋問題から、専任確約の岡山短大などと相談しなければならない。
どうも、桐山校長は、私を教員浪人で(1981年頃と同様に1983年頃でも)相当困った状態にあると勘違いしたのであろう。若しくは灘を目指しているため、もの凄(すご)い学校からオファーしているのだから有り難く思えと勘違いをしている節があった。とにかく一方的であった。

この頃は、労働省系短大に専任確約でおり、駿台には新幹線グリーン車で、ホテル代学校持ちという厚遇、福武書店系列・岡山の予備校でも「いつでも専任」という雰囲気の上に、福武哲彦氏から直(じか)に指名されて、スナックなどに連れて行かれていたときである。模試も、進研模試、駿台模試と日本四大模試の二つまでてがけていた。
おまけに、東京校の駿台文庫の職員から、丁寧な形で接待され、進研模試などについての話を言わされた(企業秘密部分は言っていないし、私は企業秘密は知らない)。後に、これがきっかけでベネッセと駿台の共催模試となる。いわば、この仕掛け人が私に近い。


この頃は、はっきり言えば、岡山中学・高校などは、単なるOne of themであった。しかし、ここでも効いたのが、数か月後から即専任という口説き文句である。
しかし、同一文句は岡山短大で聞いている。
そして、一方的に返答の有無を与えず、帰された。
一体何なのか、と。
このややこしさ。

岡山短大は即専任から暫(しばら)く待って貰(もら)えば確実に専任、岡山中学は即専任も当面中学の国語担当である。
私が一番苦手な教科が国語であり、私に断らすために故意に言ったのではないかと疑う始末であった。私が大学受験で関学を受けたのは当時は珍しい国語抜きで私立大学文系を受験できた唯一の大学だったからである。私が受けた、関学の入試教科は数Ⅰ・数Ⅱ、英語、世界史であった。選択次第で国語がないので関学を受けたことを知った上で、国語で勧誘したとしか今は思えない。当時は今以上に大変国語が苦手であった。
そして駿台は面白いのみではなく、採用に当たって専任は可能と言われていた。しかも場合に寄れば駿台甲府高校ですら不可能ではないと言われていた。

①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。

今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。

話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである。

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【(3)の内容】1983 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
……
(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
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第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
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そこで、岡山短大を選んだ。(また、S先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。

日本史 2019/01/11
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

【政経・仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」


話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである

(4)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について

現時点でも不明なのは、どのようにして部落問題を絡めたのかということである。逆に言えば、部落問題が関与してくるならば、「人間違い」以外の回答は論理上はえられない。

こうして、(我が家の住所番地を七十年使い続けた家の)三男との人間違い説が浮上してくる。今度は人間違いを軸にして、私への業務妨害が多発となる。

第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆

だが八四年夏からは試練ではなく、(犯人を今は首(しゅ)謀(ぼう)者(しゃ)Xとするが)首謀者Xが刺(し)客(かく)を放ってきた。今考えると、その刺客は「私を生かさず、殺さず強制労働下での奴隷状態」へおくことを目的とした人間(集団)であった。当時は、駿台から私を放(ほう)逐(ちく)するための刺客と考えていた。
 第一の刺客は謎の女性群の出現であり、第二の刺客が第七章で述べた八六年からの限界を超える多忙な日々への追い込みであり、第三の刺客は八六年~八七年度に、私の授業を絶対に失敗させるための企てと授業妨害(不法行為)である。第四の刺客に至っては、八七年末からの拉(ら)致(ち)・不法侵入等の膨大な刑事事件被害の連続となる。第一〇章で述べる、私を拉致しようとした人間(刺客―4)などは文字通り刺客である。何とか逃げられたが、もし拉致されていたならば殺されなかったという保証はなかったからである。なお、この刺客は〇七年現在までで顕(けん)著(ちょ)な物のみでも十となっている。

2024年11月6日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA