(💁正式公開)駿台事件真相編―6―(4)・駿台CM作戦・各職場連携Ⅱ:⑤能開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反:犯人仮説への道追加

(💁正式公開)駿台事件真相編―🆕6―(4)・駿台CM作戦・各職場連携Ⅱ:⑤能開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反:犯人仮説への道追加


【履歴】

2024/11/20 9:36からメモ貼り付け作業。内容(意味)抜きで貼り付け作業終了後から下書として非掲示とし、意味をなす内容となった段階で順次公開。清書後に正式公開

2024/11/27 11:03 (5)と(6)分割決定で分割して目も貼り付け開始。13:58 再開: 15:19から途中中断。2024/11/29 3:05。2024/11/29 21:35追記。21:48微修正

(2024/11/30 11:15 起床後、食事をして再度仮眠した後で催眠型で追記)次回の駿台真相編06-(5)の予告と今後の掲載内容

―映画説、企業CM悪用、駿台経営陣の関与疑惑、2013年から安倍晋三関与疑惑。未だに不明の警察と部落問題強調の謎。

2024/11/30 11:41 に正式公開

 


【駿台事件全体構想】
駿台事件真相編―1・催眠
駿台事件真相編―2・ゼノンの詭弁と駿台事件の手口・女性編
駿台事件真相編―3・企業と私―駿台大CM編
駿台事件真相編―4・駿台CM作戦と映画女性活用編
駿台事件真相編―5・駿台CM作戦―女性刺客四人組活用編(その1・黒幕編、その2具体的展開、その3㊤㊦と4㊤㊥㊦展開解説付き。その5・その6・その7=世界からの情報、その8
駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(ベネッセ―駿台―能開大と一本線):(1)(2)(3)(4)(5)にわけて掲載。
駿台事件真相編―7・駿台CM作戦―業務妨害から刑事犯罪被害へ
駿台事件真相編―8・駿台CMと🎬協同で☠映画説グループを絡め作戦と能開大・村への移行


【注意箇所】個人情報を掲載理由(毎回掲載)
下記理由(この事件に絡んで何人かが死亡…や私自身も命を落とす危険が何度もあったことなど)で、実名での公開を原則とする。
下記はZ家(浜田稔・正典)家であるが、どうも、我が家(浜田耕治・隆政)との家間違いが駿台事件の原因の一つのようであるため、駿台事件も実名とする。同時に、駿台講師時代も拉致未遂被害や学内外での業務妨害や刑事犯罪被害に遭(あ)ったため尚更である。

※疑惑も含めれば死亡者は10名以上、MEの世界を含めれば20名以上かもしれない。ただし、私は完全に無関係である。


個人情報公開理由(📢浜田稔・正典家の登記簿上の住所648-5の場所には2024年5月頃から浜田正典氏以外の人がお住まいなので注意ください。)

 

各種個人情報が出てくるが、
(A)我が家の住所・位田646(戸籍=現住所=登記簿:祖先は1600年代後半から系図あり:本家)を使用され、各種被害(2017年のみでも2万円損失させられたことをはじめとして多数)、その他の膨大な被害(灯油のみでも無断で5回いれられかけ、実際に2度いれられた)があること、
更に、
(B)我が家住所番地(位田646)無断使用者・浜田正典氏(司法書士)に是正を求めても改善されず、
(C)該当者自身の職業が司法書士という法の専門家であること、
(D)上記の行為により、生活に支障を何度もきたしたこと(例:死亡は嘘の疑いが高いが、浜田正典氏が死亡した際には葬儀屋が我が家へ来て私が対応、霊柩車も最初我が家へきたようであるなど)…その他膨大な被害があること、
(E)私が意味不明の40年近い被害を受けている原因が家間違いの疑惑があること、
(F)多くの情報網を持っている世界の我が友=世界の指導者が10人以上、暗に原因は家間違いであることを示唆したこと
(G)深い事情を知っていると思われた、亡き友人(司法試験にも合格したと言っていた)が「トラブル被害の原因は人間違い」を明言したこと、
(H)岡山県美作市役場などに相談しても適切な対応はとられなかったこと、
等等から、個人情報であっても、私の生命を含む人権を守るための、超法規的措置もかねて公開に踏み切った。個人情報を含む人権は濫用してはならない。公共の福祉との整合性より公開可能と判断

 超法規的措置と言っても、浜田正典氏は司法書士事務所の関係で使用住所の一つ位田648-5は各種ホームページで公開されていること(ただし郵便受けや各種書類では我が家の住所位田646を使用されることが多い、ごく希に岡山県の土地位田646-2も使用)、…で、彼ら(司法書士)の住所はCM扱いとなっているため、(私への人権蹂躙を阻止するという)正当な理由抜きでも、今回の情報公開は合法とも考えている。

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上記は下記を一部修正して抜粋
私の人権編:⚔⑧―40年の人権侵害全貌解明:8月16日編(8月24掲載)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40006
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駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大と一本の線)

 

下記、桃色箇所が今回の原稿の範囲。

(序)駿台真相編-06・全体の概要

(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係

(2)駿台CM作戦・大阪校編―女性問題から超多忙生活工作へ

―――相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦―(その1)①職場連携、②駿台決定、③能開大専任詐欺、④岡中高専任煙

(4)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦―(その2)⑤納開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反

(5)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について


駿台事件真相編―🆕6-(4)各職場連携工作の意図・Ⅱ―犯人・犯罪隠蔽作戦

:⑤能開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反

1995年ポリテクカレッジ岡山(現・能開発大中国):95-064-E-f

《◇―5・駿台・ポリテクカレッジ岡山での契約確認》(記述途中のため、内容は大幅変更もあります)

岡山中学・岡山高校から専任招聘をうけたときに、ポリテクカレッジ岡山と駿台とその相談をした。 この単元は、駿台の方を中心記す。
ポリテクカレッジ岡山との対談は砕いて書けば下記であるが、ポイントとなる内容は前回の駿台真相編06-(3)の中の《◇―4》の中の紫色文字の箇所を参照願いたい。

……本題に戻れば、この頃に、岡山中学・高校校長桐山公雄先生から、ポリテクカレッジ岡山と同じ手口で岡山中学での専任教師のさそいがある。

「おまえ、絶対に来るな。専任での仕事は来年春からだ」と。教科は何か。これまたポリテクカレッジ岡山とそっくりであった。

「専任講師だ。国語だ。しばらくは仮免で国語の教師をしろ。そのうちに社会科にまわす。次年度(半年後)から専任で来い」と。

ポリテクカレッジ岡山の英語に対して、今度は私の苦手な国語できた。ともに語学である。ちなみに、私は社会科の教師である。(岡山中学・高校の件を断ろうとすると、桐山校長が先に辞めて、ベネッセ系列予備校校長となり、「君には申し訳ない。悪いことをした…」と茶番劇をする。

これで私が同校に専任に行くと決定していたが、校長が辞めたので不可能となったという印象操作がなされる。

駿台で起こった各種自作自演劇1985女性Nazo(前方から来る名前も知らぬ女性が360度回転し、私の走る方向に走り、私がおいかけたとの印象操作をし、その後何回も学内で逃げ回った詐欺事件)、1985年西山好きな振り詐欺3段、横家、1987差別文書、1983駿台助専任とポリテクカレッジ岡山専任&岡中高校専任連携詐欺芝居…)の亜流であった。

Cf. ポリテクカレッジ岡山は「非常勤講師ではなく専任講師です。法学・経済学以外に英語も担当できませんか。次年度(半年後)から専任でお願いします)」(駿台辞表書来始めるや即電話で暫く専任延期…ただし必ず専任は間違いない。その繰り返し、最後は1997年度に「君、専任そんなものなれる訳ないだろう」)と

その後も、1997年1月交通事故、2024年11月22日車茶番劇…とこの種の自作自演劇は繰り返されることになる

奇妙な2024年11月22日の件の詳細は記録に残さない予定でいたが、駿台事件、1997年1月の交通事故の謎をとくために、概況のみ後日メモを残した方が良いかもしれない。ただし、何度も記すが、2024年の車の件付近の住人は善良な人としか思えない。誰かに依頼されての良い意味での確信犯と想像している。

私は行く気はなかったが、ここでポリテクカレッジ岡山の専任の確認をすることにした。

ポリテクカレッジ岡山の責任者森本茂樹氏は延々と引き留めをした。
「専任は(まず)大丈夫です」とか「賃金は安いかもしれませんが、福利厚生が充実しているし、年金は厚生年金です

《確か国民年金ではなく厚生年金ですと言われた記憶がある。私は特殊法人のため共済年金とばかり思っていたが厚生年金と聞いて不思議に思った覚えがある。場合によれば(国民年金ではないとは言っていなかったかもしれない…)厚生年金と言われたので共済年金ではないですかと聞き返すと、厚生年金と念押しをされたのかもしれない。》」とか、「今は中曽根行財政改革の最中ですので、しばらくは無理ですが、かならず…専任にはなれます」「専任にするための最大限の努力はする」、私が採用の際の試験に関して聞くと、「(採用)試験はありますが、浜田先生の場合には受けるだけで合格します。受けるだけでよいのです」(極論すれば「名前だけ書けば合格」)等などと実質的な引き留めをされた。

なお、ポリテクカレッジ岡山での一連の攻撃が本格化する直前に、嶋坂敬朗先生(岡山の予備校では伊沢先生としていた)が「心配せんでいいがな。ポリテクカレッジ岡山でも専任…と。お前の専任確約はテープにとって金庫に保管されている」と明言していた。私の専任確約は私がポリテクカレッジ岡山に行ったときには謂わば周知事項であった。先の蒲田謙二先生(神戸か出講されていた家裁調査官の人)も当然知っておられた。


しかし森本氏は、私が岡山中学に行く気がなく、ポリテクカレッジ岡山での専任を第一志望としていると、私の言動から判断した(確認した)後で、最後(帰る間際に)は「君の一生の問題だから、行くなということはできない」と逃げ手をうった。
これが岡山中学・高校の役割であったと分析をしている。

この手口は駿台がポリテクカレッジ岡山をつかってやった可能性がある手口であるうがって考えると、駿台経営陣が、1982年度に全て考えた手口ではなかろうかと思う始末である。(要するに、集団詐欺の疑いがある。)

ポリテクカレッジ岡山の件はそこまでとして、この《◇―5》では、駿台の方を中心記すことにする。
私は一定の時期からは、山田洋次型多数作品づくりではなく、黒澤明型のこだわり作品を心ゆくまで時間をかけて作るタイプであった。そこで、担当教科数は少ない方がよい。その上で金銭を確保するため、担当授業数はかなり必要となってくる。要するに担当は一教科で、その上でその授業のリピートが多い方が良いであった。

そこでこの岡山中学・高校の件を契機に、駿台とは1983年晩秋頃に、その種の契約をした。ところが、🎬映画説の話題提供の関係から契約違反をされたため、再度、当時の駿台と交わした契約を明記しておく。

具体的な契約内容は以下である。会談に参加したメンバーは大滝満夫部長、川端三郎京都校校長、深見正明係長である。途中で金森光昭先生(国語担当)が偶然入り、一緒に食事をしたような記憶もあるが、このときか別の席だったかは覚えていないし、万一このときでも会談内容は聞かれていない可能性が高い。
大滝満夫部長(駿台関西地区最高責任者)「三年間は何があっても生活保障をする。」
同席していた川端三郎(京都校校長)駿台ならば、学校と異なり、政経だけで生活できる。高校の教壇では何を担当させられるか不明だ。そこで、(岡山中学・高校の件はご破算として)駿台に残るということで手を打たないか」と大滝満夫部長の前で言われた。
その後で、深見正明係長に、政経の受講者が激減したならばどうなるのかと尋ねた。深見正明係長「その場合にはクラスを二分割してでも、生活保障はします」であった。深見正明氏の言動のときには大滝満夫部長や川端先生がいたか・どうかは記憶は定かではない。

先の引き留め会談では2箇所か3箇所へ接待されたが、一軒では松茸三昧の食事であった。(松茸は後に意味を持つかもしれない言葉である。)

要約すれば、「駿台は三年間は政経のみで生活保障をする。その代わりに、岡山中学・高校の専任の件は三年間は行かない」であった。そこで、私はその契約を遵守することにした。契約は当時の関西地区最高責任者大滝満夫部長、深見正明係長、川端三郎先生(駿台京都校校長)と私との間で締結されていた。

その時の模様を拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、上下各百円)の「第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)」から抜粋する


【関連資料―3:多教科持ちと、駿台の契約違反を岡山の予備校との連携で隠蔽した疑惑】{〈 〉内のみ今回具体的人名等を補足した箇所である}

☆☆☆☆☆☆

……
 それは、岡山県の(灘高校を目標としていた)学校から専任教諭としての誘いを受けたときに、駿台のH〈深見正明〉係長にこの件を相談して、駿台から引き留められた際の確約である。

 深見正明係長から「他の予備校に行くなら引き留めますが、(通常の)学校機関の専任ならばじっくり検討された方が良いですよ。何故(なぜ)ならば、駿台の場合には万一優秀な人材が入り続けたならば永久保障とは言えないですから……ともかく、……駿台の教壇に引き続き立つ意思がおありならば……大滝満夫部長に連絡いたします……。大滝満夫部長は浜田先生を助専任(専任前提の講師)にしてもよい、したいという腹はありますので、引き留められた場合には(責任問題などから)部長の方からは切り出せないので、先生の方から助専任の件を切り出された方がよいと思います。……、そのときに(重要なことは)言葉だけでなく一筆書いてもらっておいた方が良いですよ……大滝満夫部長は若くして部長になったような人ですから……」などと部長がいないときにアドバイスを受けた。


その後の会談で、引き留めは大滝満夫部長と後に加われた故KW〈川端三郎〉先生(生物担当講師で後の京都校校長)により行われた。このときの会談は以下のものであった。

 大滝満夫部長の引き留め時の言動は、「駿台は先生を必要としています。……もし、駿台におられるならば三年間は(賃金等)保障します。三年後については、先生が授業に一生懸命取り組んでいるかどうかは不明のため、三年後になってみないと何とも言えません……また年齢については英語のKD〈木戸(英作担当):恐らくフルネームは木戸一男〉先生などは七〇歳を超えても活躍されているでしょう」であった。

 同席していたKW〈川端三郎〉先生からは、大滝満夫部長の前で「私立中学や高校では、専門が政経でも何を持たされるか不明であり、そういう意味で、政経だけに専念したいならば、駿台が良いのではないか。駿台なら、政経のみで生活できるので駿台に在籍するということでどうか」という形で引き留められた。

要するに、KW〈川端三郎〉先生の言動も合わせると、政経一本で三年間生活保障するということで双方合意した。
逆に言えば、他校では、マイナー教科・政経では複数教科持たされる危険があるが、駿台では政経のみで、最低でも三年間は生活保障するという条件を提示する、と明言されたのである。

丁寧(ていねい)に授業したいと考えていた私には、これが殺し文句となったといってもよい。
 会談の後で、深見正明係長が私に「先生、あれで良いのですか」と心配して一言(ひとこと)言った。

 私が助専任の件を切り出さなかった理由は、先の学校から招聘(しょうへい)されかけたことのみ話し、本命としていた専任確約のある岡短の話をしなかったためである。
 一筆を取らなかったのは、会談時に大滝満夫部長以外にKW〈川端三郎〉先生や深見正明係長がいたので大丈夫と油断したからである。

なお、その場か後日か忘れたが、念のために「入試難易度問題などで政経受講者が減ったならばどうするか」を聞くと、深見正明係長から「そうした場合には、授業分割をしてでも、賃金保障はする」という趣旨の解説を受けていた。

 要するに、双方の合意として、駿台は政経のみで三年間は私の現行(げんこう)賃金を保障する。その代わりに、先の学校は辞退して駿台に在籍する。そこで、駿台は最低でも一九八四年四月~八七年三月迄(まで)の間はその確約を守る義務があった。具体的には、八四年度同様に政経のみで五〇分授業一七齣(こま)前後の保障義務があった。

 勿論、私の方も先の学校のみか、岡短でも、その期間のみは専任が決まりかけても、何らかの工夫をし専任を延期する。駿台が確約を遵守(じゅんしゅ)すれば、私が政経以外を担当しても、八六年ではなく八七年か八八年からとなり、それまでじっくり準備をする時間ができたため相当楽になっていた。

 しかし、それだけの期間があれば、恐らく駿台で政経、駿台が新たに参入した高校受験用コースで中学生相手に英語、そして岡短で英語と、「求め続けて」が苦しみを楽しみとしながら一層進展する状態になっていたであろう。

 だが、八五年にその確約を反故(ほご)にする言動を大滝満夫部長からされる。しかも後で一定の言い訳ができるように、つまらぬ小細工つきでなされた。
☆☆☆☆☆☆

【資料】

㊟川端三郎先生→駿台辞職後も年賀状のやりとりをさせて頂いていたが、1994年末に喪中の手紙をいただいた。1993年(平成5年)2月にお亡くなりになったそうである。

㊟金森光昭先生

京都府立洛北高等学校教諭( – 1979年度)。
駿台外語専門学校講師(1980 – 年度)。
2020年春、ご逝去されました
https://westsundai.wicurio.com/index.php?%E9%87%91%E6%A3%AE%E5%85%89%E6%98%AD

㊟木戸一男先生(この先生は特に意味はないが、大滝部長が年をとっても駿台で教壇は可能という例としてあげられた先生である。)

木戸一男, 茂成喬 共著、「英作文の新研究」(新興出版社啓林館)、1957年 2版

更に「A NEW WAY to English Grammar[7訂版] 」– 1989/1/1と1989年頃も出版されている。
大阪教育大学に席をおかれていたようである。

㊟嶋坂敬郎(ポリテクカレッジ岡山へ私を立たせた教師。駿台との関連を調査中)

嶋坂 敬郎 (著)「一般数学 (1977年)」 ‎ パワー社出版部、 (1977/3/1)

嶋坂先生(別名・伊沢先生)については、岡山の予備校に紹介する関係で、先生の履歴書は私が預かり、そのコピーは今も我が家にあると思う。ただし、膨大な文献と資料を保存しており、捜すのは簡単ではない。彼の父が京都外大学長と言っていた。先生は京都外大教授、甲南大学講師、奈良女子大学等の講師…である。

私と袂を分かったのが1990年頃であり、神戸女子大学の教授となられたと聞いている。

彼の父はこの人ではないかと想像している。京都外国大学第4代学長(1968~1969):島坂欣一(英文学)

 

《◇―6・超多忙となる日々工作として、駿台の契約違反とその隠蔽政策》

95-076-02A-f:舞台の一つとなった、ベネッセ経営岡山進研予備校。1995年に昔を偲び撮影

ところが、駿台真相編06-(3)に記したように、1986年度に大阪校に異動した関係で、駿台京都校女性四人組は私の視界から消える。駿台真相編05で述べたように、駿台は何故か、この四人組以外の女性は私に絡めない方針をとっていた。そこで、女性問題は姿を消し、話題提供のテーマを超多忙の生活にもっていく計画があったようである。

それも、日本史を絡める計画は相当前からあったようである。というのも、その趣旨の言動を親戚の何人かが駿台教壇に立つ前後から例えで言っていたからである。
こうして(政経一本で3年間の生活保障という)契約破棄がなされていく

契約内容をもう一度記せば、1984~86年度(87年3月末)までの三年間は政経一本での生活保障という契約を1983年末に駿台関西地区最高責任者とかわしていた。そこで、多数の教科持ちをすることは本来はなかった。


1985年冬頃、トイレに行くと、突如大滝満夫部長が入ってきた。
契約があるため、心配する必要はなかったが、次年度のことを聞くと、「政経・現社は大きく減少…場合によれば週3齣もありえます」と言う。
週3齣とは年収で言えば、年に百万円程度となる。びっくりしたようなものではなかった。

本来は、「政経一本で三年間の生活保障契約があるため、それを遵守しろ」でよかったのであるが、トイレの途中での会話(下品な用語では並びションベンでの会話)のため丁寧には聞けなかった。大滝部長が私がトイレに行くのを見計らって、日本史誘導を図ったのであろう。

もし、講師室で言えば、川端三郎先生などが、「おい、お前約束が違うぞ」となるか、もしくは、川端三郎先生の面子から、🎬映画説の流れを知っていても、川端先生はそれを言う義務があるため、トイレを狙ったのであろう。汚いというようなものではなかった。だが卑劣な尻拭いが準備されていたそれも、(ベネッセ系列の)岡山の予備校を利用して行われることになる。(ベネッセと駿台の提携は実はもうこの頃は裏ではなされていたのである。場合によれば、山埼春之理事長と福武書店創設者・福武哲彦氏の間で何等かの打ち合わせがあった可能性が高い)
その経緯をこれから記す。


これでは大変ということで、駿台が経営している現役中学生向けの学校(当時は何故かベネッセを連想させる名前であった記憶がある。進研ジュニアか何か。それとも現在のフロンティアであろうか。駿台大阪校内にもあった所で)中学生向けの英語を担当するか、それとも駿台で日本史か世界史を担当するかと迷う。

1986年4月まで間がないので、頭が混乱して、判断がつかなくなる。英語は苦手でも需要が大きいし、中学生や高校低学年相手ならば何とかなろう。
他方、日本史は全く知らぬが、近現代史には興味があるし、駿台の日本史教師層がガタガタのため、三年間あれば相当目立つようになる。どちらをとるかであった。
尚、全く知らぬと言っても、学問の裾野の関係で日本史にも関連する書物は六段換算の本立てで3つ弱程度はある。(最高時は、日本史以外も含む全文献・資料の諸有料は六段本立て換算で50以上所有していた。我が家が大きいのが幸いしたが、それでも満員電車の立ち見席型の部屋もある。)

なお、世界史という手もあったが、駿台では世界史の方が日本史よりも層が厚い感じを受けていた。正確には、日本史の目立つ教師は大学の教壇を狙っていたのに対して、世界史の方は駿台で一生を終えるつもりでいた教師が日本史に比べて相対的に多かったからである。
そこで、日本史か英語かで迷うことになる。

判断がつかず、占い師の占いで決めた。
その頃突如岡山駅前に登場した占い師は「自分は早大卒である」と言っていた。「人の役に立つため占い師となった」と。結果は「日本史」と。それで「日本史」となった可能性もある。(勿論、催眠誘導の疑惑の方が高い)。

この頃はポリテクカレッジ岡山の教壇で英語を教えて3年目であるが、それも中学生や現役高校生相手でも英語と言わなかったのは、英語教師に潰される危険や、余り得意ではなかったからである。

ポリテクカレッジ岡山では「法律学」「経済学」担当での打診から、専任を前提として英語を担当したのである。専任が嘘であった以上、詐欺にひっかかったのである。私は英語ができるか(達者か)と聞かれて、「Yes」と回答したことはただの一度もない。ただし、「担当できるか」と聞かれれば、「(準備時間の保障があれば)対応できる」と事実に即して返答する。

なお、2013年頃からMr.オバマを英語の(家庭)教師としたが、見ての通りである。彼は言うであろう。「勉学をしない者が悪い」、と。私は「英語を勉学するように持って行くのが教師だろう」、と。こんなときに冗談を書くのはやめよう。
なお、これでは証拠が残るため、駿台の手を汚さぬため、汚い手をつかってくる。
その後の流れも含めて図式化すれば以下のようになる。

【1983年晩秋か冬】政経(若しくは政経と現社の倫社部門を除く)一本で三年(1985~87年度の)生活保障確約
→【85年末か(場合によれば84年末だった可能性もある)】トイレで他の教師に分からぬように破棄と生活苦の脅し
→【84年末か85年初頭】私の方から日本史担当を申し出させる
→【85年初頭か】駿台はそれを受諾する
→【85年1から2月】私は岡山進研予備校でも同一の方が良かろうと思い、(ベネッセ系列)同予備校にも日本史担当を申し出る→同予備校も受諾。
→【85年3月】駿台から86年度の授業予定の連絡が来る=聞くと政経・現社のみで11齣程度と待ち時間がかなりある(待ち時間は正規時間の半額の賃金)ためギリギリ生活可能か、一応最低限度の約束を守った形をとる

 ただし、正確には政経・(倫社を除く)現代社会のみで15齣以上の遵守が不可欠であったが、別に日本史が四齣あったように思う。


打診してきた深見正明(駿台京都校)係長が「もし、日本史を降りられるならば、(今ならば)早くいっていただければ可能です」と言う
→【同日か翌日慌てて岡山の進研究予備校】で日本史担当を断りに行く→【岡山の予備校到着】私がその件を切り出す前に、事務員のカタオカ氏が先手を打つが如くに「先生、もうカリキュラムは組んだので日本史は降りられませんよ」と言う。
★まだ、私が相談をする前である。どうして、日本史をおりたいということを知っていたのであろうか。福武書店(現・ベネッセ)経営の岡山の予備校と駿台予備校で経営陣同士の打ち合わせがあったとしか分析できない。

こうして岡山の予備校で日本史を降りられないならば、駿台も持たないと教材購入の関係で赤字に近くなるため駿台で日本史を断る予定を中止する。責任逃れの態勢がこうして構築されていた。駿台女性の件でも1983年度入社京都校講師室係🚺女性に徹底して限定されていたことも同様な意味を持つと分析される。その謎はいずれ分かるであろう。


こうしたやりとりから一ヶ月もせぬ間に駿台日本史の授業が開始する。
明らかに、駿台と岡山の予備校との間で連絡があったとしか思えなかった。まだ、駿台ベネッセ模試提携前の話である。

トイレの中の会話を秘密とすれば、駿台は一応の約束を守った後で、私の方から政経一本での三年間の生活保障確約を変更したとなっている。汚いやり方である。これでは「愛情教育」は泣き、詐欺予備校となるであろう。

それでも、私の馬鹿力ではやりきる危険があった。そこで次の手を打ってきた。
びっくりしたのは、担当が日本史の近現代史(明治維新から現代)ではなく、日本史の古代から近世(旧石器時代から江戸時代)となっていた。このように、派手な失敗にみえるように、駿台は多教科もちを計算しておこなっていた。縄文土器…古墳がどうだこうだ…は政経ではでてこない。近現代史で扱う、第一次世界大戦、ロカルノ条約、高橋是清🆚井上準之助の財政政策などとは違っている。ましてや、現代史、戦後史などを担当させることは何をか況(いわ)んやとなっていた。

それでも、それでも…万一…と思ったか、前年まで駿台模試は関関同立模試しか作製していなかったが、ほぼ全部の駿台模試を作製する依頼が断れぬ形でくるようになる。


しかしながら、まだやりきる危険は残っていた。何故ならば、私は語学以上に苦手なのが、芸術であり、音楽である。だが、仕事に関連するとなればカメラ・写真でも一定の技術を身につけた。さっぱりわからぬし、興味もない音楽でも、「今月の歌」「世界の歌」「世界音楽祭」などで、一定の演出をしている。神戸の(後に何度も強調される)山﨑の叔母がよく言っていた。「隆政君は凝り性だから…」と。その上、報酬に対する責任感も強い。それが全てである。

また、岡山の予備校の同僚に植村光雄という講師がいた。彼は進研予備校で倫社担当であった。だが、彼は私と同じように世界史も担当した。全く同じ時期に同予備校で、私は政経と日本史、彼は倫社と世界史を担当した。後に、(インタネットの情報が嘘ではないならば)、彼は河合塾で世界史の人気講師となったようである。
なお、植村君が進研予備校の教壇に立ったのは、私が同予備校で倫社担当を降りるため、私が進研予備校に彼を紹介したのではないかと思う。違っていればお許しを。もっとも、合併して岡山進研学院となる前に、彼は岡山学院の方では既に倫社を担当していたかもしれない。

㊟植村光雄
「河合塾Wiki」(最終更新:2024-06-13 12:07:32)に次の記述がある。
https://kawaijuku.wiki.fc2.com/wiki/%E7%A7%BB%E8%A8%AD%E4%B8%8D%E8%A6%81%E2%86%92%E8%BF%91%E7%95%BF%E5%9C%B0%E5%8C%BAGiulio%E6%A4%8D%E6%9D%91


岡山大学卒業。
関西河合塾世界史科の人気講師。
「大学入試センター試験過去問レビュー世界史」の編集担当者。テキストの作成や各種模試の製作にも携わっておられる。入試問題の不備を発見することに長けており、過去に何度も入試問題を廃問にしたらしい。
サテライト講座も一部担当。

そこで、現社、政経、日本史、別に大学で英語担当、駿台模試作成、進研模試監修でも、まだ日本史をやりきる可能性は残っていたとなる。

それでは困るということで、岡山の予備校とタイアップして、岡山の予備校の方で女性トラブルをしかけたのであろう。それが駿台真相編06-(2)で記した進研究予備校のタキザワとヨシダである。女性問題を絡められると精神的に相当こたえることになる。駿台同様に催眠類も使われて相当参る。仕事が手につかなくなる状態となる。(駿台の女性陣などは、ホストクラブの中の一番悪質なホスト以上に卑劣であった。少なくとも結果はそうなっていた。)

「それでは困る」と書いたが、何故、私が日本史のエキスパートにもなったならば困るのであろうか。駿台のCMにならぬからである。映画類の視聴率がとれぬからである。万一、とれても一年が限界である。だが、私のCM類や他の影響力はそうしたレベルではない。私が教師を志願すれば教員ブームが、長期に亘り党派中立・宗派中立であるが左側のときには革新ブームが、格闘技に狂えば格闘技ブームが、予備校に脚を突っ込むと、駿台の発展のみならず、予備校ブームが起こっている。社会のデファクトスタンダード自体を左右する力を持っているようである。

私が日本史で成功しても、駿台にとっては大した宣伝力にはならない。だが、多数の教科もちで大失敗に近い状態で目立てば大CMとなる。そのためには、絶対に失敗というか、苦闘を派手に目立たす必要があるとなる。

予備校での政経、現代社会、日本史、大学での英語講師、模試類でベネッセの進研模試監修、駿台模試作成、活動する場所も岡山市、岡山県倉敷市でも広島よりの新倉敷、岡山県美作、大阪…でもまだやりきる危険があるそこで、1986年度は岡山の予備校女性職員2名を絡めた(勿論、これには駿台女性との対比問題もあったようである)。だが、1987年度には進研予備校女性陣はベネッセ本社に異動しており、もう女性問題はからめられない。

すると、1987年度はどうするのか、そこで駿台真相編07で記すように、女性陣の問題は業務妨害、更には刑事犯罪被害…に置き換えられることになる。同時に、私は最初から駿台予備学校の拡張前に駿台辞職が決められていたようである。何故ならば、駿台が拡張すれば(私が辞める前にはなかった札幌、仙台、京都南校、大阪南校、上本町校、神戸校、広島校、福岡校…が次々とできていけば)、政治経済や現代社会のみで生活が完全に成り立つ危険があったからである。

例外があるとすれば、1990年~93年の如く、うつ病を激しくしたような脳の機能不全などが起こっていない限り、私が駿台にいることは無理となっていた。視聴者が飽きるからである。同時に、駿台もこれ以上となると犯罪が目立つため危険でもあった。私が軌道に乗るということは平凡を意味することであり、各企業のCMとすればCM効果が弱くなり、🎬映画説グループの視聴率も稼げぬからであったと思われる。

そこで、駿台真相編07で記す事件の後でも、駿台内での業務妨害・刑事犯罪を行うことは駿台の自殺行為になる。また女性を絡めるといっても、私が警戒しているのみか、(恐らく私をZ3と勘違いしたグループと思われる)1983年度入社京都校講師室係🚺女性以外は絡めぬという、駿台の方針があったため、絡めることもできないとなっていた。

怨念(おんねん)抜きでは、まともな女性ならば駿台京都校の如く行動は罪悪感から不可能である。お金だけでは無理である。私はそのように信じたい。そうでなければ彼女らは単なる犯罪者女性にすぎないとなるであろう。(だから、岡山の予備校職員女性と駿台女性は相似形で登場しても、岡山の女性陣は駿台女性陣ほど悪質な犯罪行為や犯罪加担行為はしていない。その差異は「怨念(おんねん)」の有無の相違と分析している。)

※何の怨念かは、(我が家の住所番地を70年使用した)Z3やZ家ではないため、私には分からない。


こうして、話題提供上絶対に授業を失敗させるというシナリオが遂行されていく。これならば視聴率も、駿台のCMにもなる、と。

なお、さらに面白くするため、日本史の参考書の一部が誤記述に変更され、数日後に元にもどされていたという限度をこえたおまけ付きであった。


関連部分を拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、上下各百円)の第「第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)」から抜粋する。


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 次年度から共通一次試験科目の変動報道があったため、駿台が確約を守ってくれるかどうかと不安をもっていた八五年末のある日、突然駿台のトイレで大滝満夫部長と出会う。今考えると、過去トイレでこうした形で出会ったことはなかったため、余りにもタイミングの良い偶然であった。
もし出会っていなければ駿台の確約を信じて、一切(いっさい)問合せをせず、科目も従来のままとしていた可能性が高かった。

ともかく、大滝満夫部長に出会ったときに、大滝満夫部長に次年度のことを尋ねると、共通一次の科目変動のため政経類は大きく減り、私が八五年度に担当している齣(こま)数の半分どころか、それ以下になるとの返答があった。具体的には七齣以下、確か場合によれば数齣になることもありうると言われた。

すると、大急ぎで他教科も持たねばならない。英語、日本史、世界史のどれにするか等の迷う時間のゆとりすらなかった。もう、八五年度終了に近い時期である。こうして、まともに考える時間も奪われ、日本史担当を打診した経緯(いきさつ)がある。

当然、政経一本で賃金保障をせよと要求すべき所であったが、岡短の専任確約問題か、後に述べる女性刺客問題でガタガタしていた関係かで言えぬ状態にあった。だが、大滝満夫部長には、八六年度などは約束通りに、何があっても政経一本で生活保障するという確約厳守の義務があった。

 その後の動きは以下の通りである。大滝満夫氏の確約違反のため、やむなく駿台で日本史兼任を打診→駿台で日本史兼任ならば岡山の予備校(後に駿台と模試で提携(ていけい)したベネッセが運営していた進研(しんけん)予備校、以下進研と略す)でも日本史を持つことを決定
→八六年三月頃に駿台から政経類担当齣(こま)数は前年度の半減ではなく約三分の二(五〇分一〇齣)と日本史四齣との打診(日本史担当は早く返答するならば変更しても良い)
→(引き留め時の政経一本で三年保障確約違反でも)進研等の収入も含めれば政経のみでぎりぎり生活できる可能性が出てくる
→日本史担当を当面延期し、予備校では政経一本とし、後一、二年間は政経と併行(へいこう)して担当する教科の検討・準備と方針変更
→即、進研に日本史担当を断りに出向く
→ところが進研に相談に行くと、相談内容を予期していたかの如(ごと)く、事務員KO〈カタオカ〉氏から先手をうたれ「先生、もう日本史は絶対に辞退できないですよ」と言われる。相談どころか、私が一言も言わぬ前にいきなり先手を打たれ、日本史は辞退できない羽目となる。

これにより、(八四年の件もあり、日本史担当を変更してもよいと深見正明係長が言った)駿台でも、日本史を辞退しても、無意味な状態になり担当することになった。

 駿台と進研(※注二)とで、日本史を私に絶対に持たせる計画が事前にあったのかというような、余りに出来すぎた流れが作られていた。
もし、大滝満夫部長への問合せ時に政経は八五年度の半分以下とか場合によれば数齣の場合もありうるではなく、三分の二と回答を得ていれば、日本史を担当することはなかった。

万一担当しても八七年度以降であった。それどころか、政経一本で三年間は生活保障確約(事実上の契約)があるため、八六年度は政経のみで週一五~一七齣授業保障の義務が駿台にはあった。

そのときには、私は超多忙とならずに、きっちりと責任は果たせていた。否、(いな)第八章で分析するように、駿台は故意に確約を破り、何が何でも日本史か世界史を私に持たせようとしていたのである。
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🎃(オジョウ)は、「何を書いても無駄」というようなことを臭わせた。
具体的には、「小渕恵三総理に救済依頼をだしてどうなった」
🤡(私)「小渕総理は死んだ。」
🎃(オジョウ)「同じことよ」と。

実際に、死亡か嘘かは不明であるが、重要な関係者は問題の真相が近づいてくると、「死亡」という形で逃げていく人間は余りに多い。退職は言うまでもない。

母がいつ死亡かわらない状態となり、このままでは老後破綻・餓死の危険がでてきて、駿台に最後の調査と復職打診を2010年頃に考えた。それも、理事長への直の打診である。

丁度その頃に山﨑春之(やまざき はるゆき、1926年2月4日 – 2010年1月13日)は肺癌で死亡していた。

気のせいではないと言わんばかりに、春之氏の息子・山﨑善久(やまざき よしひさ、1967年7月22日- 2017年8月12日:学校法人駿河台大学理事長)も50歳の若さで肺癌で死亡となっている。


それでは、何故、このような被害に遭ったか。
全く心当たりはない。
それも40年考えてもである。
そんなときに、友人の一人であったタカハシ氏は言った。
「勘違いや、誤解ではない。人間違い」と
「ひとまちがい」と。

「ひとまちがい」と言われると何が何やら分からないのは当然であるが、更に何が何やら分からない。その中で、犯人像を現時点で分かっている範囲で記す。
同時に、誰かに騙されたのか、2000年頃頃以降は政治家が絡んできたようである。
次回の駿台真相編06-(5)で、現時点で分かっている範囲のことを記述する。

【メモ】(悪質な一連の自作自演劇ゲーム)

岡山中学・高校桐山校長の件は、駿台事件の下記と同一手口であった。論理的には同一グループがシナリオを書いたと分析される。

①1984年春に岡山中学・高校に私を招聘した桐山公雄先生が岡山進研予備校校長となり、私が同校を断る前に、「君には悪いことをした…」と逆さまにした話。

②1985年4月頃の🚺Nazoという女性の件(360度回転して私の進路方向へと走って逃げた)→下記㊟参照

③1985年5月頃の西山の好きな振り詐欺第三段→下記㊟参照

④1985年6月頃の横家への待ってて事件→下記㊟参照

⑤駿台で(政経一本で三年生活保障があるにも拘わらず)1986年3月の日本史担当の経緯

⑥1987年晩秋に、差別文書を手渡された件

⑦1997年岡山県美作市巨勢での交通事故もこのタイプの亜流とも言える。

⑧2024年11月22日・上記の種明かし型・村での車の話。

 

㊟1985年4月頃に私が駿台京都校一号館から二号館に授業に遅れないようにするために走っていた。すると名前も知らない女性謎が待ち伏せて、二号館から一号館に歩いて来ていたが、私が走っているのを見て、360度回転して私の走っている方角に走って逃げた。
その後学校内で私を見て怯えまくる真似をした。
いずれ人は私がその女性にストーカー行為か何かをしたと思うようになるであろう。

㊟1985年5月頃に西山等に「普通にしてくれ」と言うと、女性たちがひっかかったと大喜びをした。人はそのはしゃぎ方を見て、私が彼女にアタックしたと思うであろう。


㊟1985年6月頃には催眠で横家に「待っててくれ」と言わされた。言った私には意味不明であった。横家はその言動を得るために待ち伏せをしていたと思われる。そして、その後彼女のつきあっていた彼氏と婚約をした。男性諸君が私を見て先生がかわいそうだというオーバーな演技をした。すると私は横家に振られたと人は思うであろう。
それらはどうでもよいが、要するに、駿台で多数みられたワンパターンの自作自演ゲームである。

㊟⑥番の差別文書の話は駿台真相編06-(5)及び駿台真相編07の最後で行う。

(2024/11/30 11:15 起床後、食事をして再度仮眠した後で催眠型で追記)

次回の駿台真相編06-(5)の予告と今後の掲載内容

―映画説、企業CM悪用、駿台経営陣の関与疑惑、2013年から安倍晋三関与疑惑。未だに不明の警察と部落問題強調の謎。

全体の柱として、🎬映画説、それも(この世と思えぬ)映画類説を1995年頃から疑い始め、97~98年頃を中心にその種の走り書きを膨大に残している。


もっとも、1988年2月に駿台辞職をしてから、その種の気配を感じ始めていた。催眠類についても1989年には相当判明しつつあった。

私は映画説で、テーマは筋書きのないドタバタ劇と考えていた。せいぜい、日本の📺テレビドラマ「おしん」型を組み合わせたドタバタ劇と考えていた


ところが、日本の映画監督・山田洋次氏であったと思うが、「どんな映画やドラマにも筋書きはある。筋書きのない物はない」という言葉が気になっていた。
この言動の前後に、国内外から「同一住所番地二軒注意」のシグナルが発せられる。
2014年頃から「人間違い」説には注目をしていたが、「人間違い」被害から逃れるため、(Z家のことは一切触れずに)私のHPのProfileだけを充実させようと考えると(我が家の住所番地を70年使用した)Z家に関連した形で激しい妨害があった。熾烈であり、「Z家も悪質な…はなかろう」と自分に言い聞かせて、打ちきりとした。


だが、2019年4月に国内外からの「同一住所番地二軒注意…」と一斉の注意となれば無視もできぬということで、(今度はZ家の住所の謎も含めて)人間違い問題を解き始めたならば、(我が家の住所番地を70年使用し続けた)Z家のZ3が死亡となる。(現時点では、嘘の死亡と判断しているが、我が家はZ家と無関係なのに葬儀屋・霊柩車は我が家へ来た)。

こうして、被害の一部は人間違いに起因することは確定したと言って良い。だが、それでも解けぬ謎があり、それらは映画説=CM効果大の論理から駿台経営陣等の駿台CM拡大目的にたどり着く。それを、かなり証明したのが、駿台真相編01~06の(4)である。



しかしながら、部落問題と警察が強調され続けた謎は未だに不明である。
部落問題は人間違いから発生したと通常は思う。もっとも、私はZ家の人間ではないので想像でしかない。


さらに漠然とではあるが、前者(部落問題)は高校1年の頃か、それよりも前から何か意図されていたようであり、後者(警察の登場)も中学校時代から思い当たる節がある。遅くとも早大大学院時代には奇妙なことをされていた。
勿論、私自身には心当たりは皆無である。(両者の動機の見当は全くつかない。)
この二つが全く意味不明であるが、この二つの謎も含めて、(犯人像の)分かっている時点までを、次の駿台真相編06-(5)でまとめておく。

同時に、日本共産党についても不可思議なことがあり(特に、映画説との関連でおかしいことがかなりあり)、意味不明の部分がある。それらも駿台真相編06-(5)では少し、駿台真相編07の後半で駿台事件との関連で、解説抜きで事実関係だけをしるしておく。再度強調するが、私は40年以上、完全党派中立・宗派中立である。

なお、駿台真相編07で、現世では犯人は懲役も含む犯罪の連続に遭遇した日々を掲載することになる。


これらの被害は現世で償われるべきである。そして、その償いを確定させる場は裁判所か国会しかない。裁判所か国会で取り上げられぬ限り、現世での解決は難しいと分析している。
そうでないと私は確実に老後破綻するか、自然を装って病死や交通事故死等で殺害されるであろう。

勿論、計画的な病気の創造も可能である現在の如く(諸挑発や工作で)家に監禁され、催眠類で運動も阻止され、エコノミー症候群型で同じ姿勢を長時間(10時間以上、ときには16時間…)ほぼ毎日とり続ければ、それも10年以上やられれば、病にならぬ方が不思議である。だが、これも計画的な病と、その結果病死すれば殺人の一種である。死亡しなくても、傷害罪である。いや、業務上過失致死未遂罪、殺人未遂罪である。

2013年第二次安倍政権からはさらにややこしくなる。そこで、駿台真相編07の後は先に『日本のフィクサーME・Part 3』第4章に入るかもしれない。若しくは駿台真相編08と交互に掲載するかもしれない。

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2024/11/29 現在での「駿台真相編」全体のリンク集

(🚧📅途中経過・読者への便宜上目次・リンク公開)📅駿台真相編目次ページと今後の予定(日本のフィクサーMEとの融合過程)

https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=47621

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2024年11月30日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA