「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第2節-2・訪米の決断:10/7=訪中時の資料を付け加えて📢情報公開

「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第2節-2・訪米の決断:10/7=訪中時の資料を付け加えて📢情報公開

 

(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成しているが、このBlog等は正式公開段階でも(著作・文献への)下書き・メモ段階に該当するため、数度しか見直しはしていない。
(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を5~10パーセント程度いれている。

(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。

※日本のフィクサーMEシリーズの注意点全文の雛形は下記参照。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=36999

■今日

 


【更新履歴】

2023/10/04 0:26~1:58まで作業:本来、公式Blogで予定外の「🏥問題」を書いていなければ、昨日中に全部かきあげていたのであるが…。それどころか、一連の催眠での強制文書書きがなければ、もう、パート3次隊が終わっていたかもしれない。15:28 (5)該当のメモ・下書きを掲載。17:28(6)のメモ終了。18:53 (7)のメモ終了。

2023/10/06 21:00から清書作業中。23:21から少し中断。なお作業途中で2014年幾つかの出版社に送付した「真相2013年」のBlogでの公開箇所が欠落していたのに気づき、今、関連原稿に追加した所である。

2023/10/06 23:45:清書化作業は、暫く、中断し休息予定。2023/10/07 9:52から清書作業再開。11:45から少し休憩。仕上がりは昼過ぎになるでしょう。13:00頃から清書作業再開中。17:19(4)まで清書終了。

2023/10/07 18:05正式公開。18:36微修正。

2023/10/08 11:49 東大寺の写真と鑑真と東大寺の関係を追記



【第2節-②の前書き】

(表紙の写真)自由の女神を掲載したいが、私自身が撮影していないので、購入ソフトで使用可能なものに加工し、Mr.バイデン…に送付したものを掲載した。オバマ政権時代の写真は第2章第3節以降で使用するがだぶっても一枚だけその下に掲載しておく。

写真はいずれもクリックでパソコン画面大に、二度クリックで巨大。

自由の女神

2015年3月1日撮影:写真№15-005-364_2023

『日本のフィクサーME』シリーズは、訪米の箇所に入る前頃から激しい妨害に遭(あ)っている。2023年8月以降は、催眠類を多数投入されたり、諸トラブルの連続に遭遇したりして、私の計画を無視し、優先順位の低い、若(も)しくは、私が現在書く気のない原稿を膨大な枚数を書かされ、さらに重要原稿は各種催眠類で完全阻止されていた。
そこで、丁寧(ていねい)に調べて書くのは止(や)め、本題を一気に掲載する。
『日本のフィクサーME』シリーズはPart 6で打ち切り予定でいる。Part-6は2022年7月の安倍晋三氏銃撃事件である。そして原稿記述の目処(めど)は、2024年アメリカ大統領選挙の結果が出るまでに終わらせたいと思っている。
これを持ち、『日本のフィクサーME』シリーズは完全終了予定でいる。

だが、Part3の3章と4章が残っている。これを終了させれば、Part-4(2016年該当)は既に概略は掲載したため、Part-5(2017年~19年頃)に入る。恐らくここが一番読者が関心を持つ箇所と思っている。米中首脳会談への流れや、官邸🆚皇室に巻き込まれた可能性の箇所である。そしてPart-6(2020~22年夏:バイデン大統領誕生、ウクライナ紛争、安倍総理辞任、安倍氏銃撃事件)で完全打ち切りとする。
こう妨害が多いと、丁寧な記録調べは止(や)めて、覚えていることを一気に掲載する方針に変更した。

(4)突如、降ってわいた、まさかまさかのアメリカへの旅

 

第2節前半部分で書いたように、2015年は二つの大きな勝負をすることにしていた。一つは開業・起業であり、もう一つはベトナム訪問と野麦峠へのFieldworkであった。いずれも資料集めと営業を兼ねていた。

更に、ベトナム訪問は拙著『旅に心を求めて―不条理編』(Kindle、KOBO上下各百円)で希望していた残り三つの旅の一つであった。安重根(あんじゅんぐん)記念碑、田中正造と佐倉惣五郎、そしてベトナムであった。『同上書』の後書きに次のように記している。

1つ目は安重根記念碑であるが2013年に公開は終了しているため省略して2つ目から紹介する。
☆☆☆☆☆
二つ目が、『生命への畏敬(いけい)』で最も重視している旅である。第五福竜丸の跡(あと)地、義民・佐倉惣五郎の碑、田中正造の碑と墓、最後に花岡鉱山へ行き着く旅である。当時、『旅に心を求めて――教材編』の最終章「遙(はる)かな、遙かなる旅路」として構想を練(ね)っていた旅である。旅のテーマは、今回、省略する。


三つ目が、ベトナムのホーチミンの碑と、グエン・バンチョイの墓である。テーマは平和祈願の旅である。今日のアフガニスタン・イラク問題への鍵を求めての旅である。


その後は……、どうなるかは不明である。私の旅は、「前書き」に記したように、人と人の――時には世界の――絆(きずな)を願っての旅でもある。そして何故(なぜ)か、結果として寄与しているのでは、と感じることが余りに多い。よって、どうか、妨害が止むことを。
本題に戻り、今回は、『旅に心を求めて』「不条理」編を特集したが、機会があれば「草の根の日本の美を求めて」、「古き・懐(なつ)かしきの心を求めて」……などの続編が世に出ることも願っている。
☆☆☆☆☆☆

ところが、2014年12月12日にアメリカ格安ツアーが舞い込んできた。3泊5日で、飛行機代、ホテル代金、現地移動費全部込みで5万円台というのである。それも添乗員付きでもあった。だが、頭がベトナム化している上に、日程を見て、尻込みをした。

日程は次の如(ごと)くであった。
「…日程は死の日程の如し。……旅のコースは…伊丹→羽田→(バス)→成田→バンクーバー→ラスベガス→バス→ホテル→バス約700キロ→グランドキャニオン→バス約600キロ→ラスベガス→仮眠→バス→ラスベガス空港→バンクーバー→成田→バス→羽田→伊丹」(当時のメモから抜粋した。)


簡単に言えば、ラスベガスにつくまでだけでも、30時間以上(伊丹で待ち時間4時間、羽田まで1時間余り、羽田から成田まで1時間、成田で約4時間待ち、成田からバンクーバーまで10時間以上、バンクーバー空港で8時間前後の待ち、バンクーバからラスベガスまで4時間)かかるのである。その上に時差の問題があった。
そして、ラスベガスに着いて翌朝5時頃には出発準備をして、即バスで700㎞移動、ペイジに着くや、翌朝は早朝起床で、即600キロ以上バスでラスベガスまで戻る。そして翌朝早朝に来たときと同じ時間をかけて日本・大阪に戻るである。

 要するに、30時間かけてラスベガスに行き、同地に夜着くや翌朝5時頃起こされ、出発の準備をして、バスで700キロメートル以上移動し、夜にペイジに着く。ペイジのホテルで翌朝5時頃起こされ、バスで600キロメートル以上移動してラスベガスに夜に戻り、翌朝5時頃起こされ、来たときと同様に30時間かけて日本に戻るという旅である。おまけに、グランドキャニオンは吹雪で何も見えなかったが、それを計算してこの時期を選んだ疑いもある。

 簡単に言えば、飛行機、飛行場、そしてバスだけの日程であった。正に囚人の移送の如(ごと)しであった。だが、結果はもっとひどかった。それは追々(おいおい)記すことにする。

日程表を見た瞬間に、死の旅と感じた。結果から記せば、実際には、これは杞憂(きゆう)どころか、目に見えないトイレ攻撃などが入り、こんな比ではなかった。他の同行者にはトイレ危害はなかったし、他のトラブルもなかったので、バスや飛行機で寝られたであろうが、私は違った。結局、5日間合計で全睡眠時間は5時間という、正に想像以上の結果となった

行く前はそこまでではあるまいが、日程上、誰でも尻込みをする日程でもあった。なお、ツアーの前の添乗員のラスベガスについたときの一言は「心配いりません。ホテルには医師が常時滞在しています」であり、帰りの一言は「このツアーはこれが最後です。もうこうしたツアーは一切しません」であった。


ここまでとは思わなかったが、当時は、上記の日程だけを見て尻込みをし、同時にベトナムへ行く気になっていたため、訪米の件は相当参っていたのが事実である。
しかし、思い出せば訪中の際に訪米する場合の三つの条件をだしていた。


2013年5月の訪中の際に中国のホテルで訪米に関する三条件をだしていた。

(東部では価格が高くつくし、時間がかかりすぎると思っていたことなどから)一番目がアメリカ西部、二番目が安いこと、三番目が何らかの来いという合図をだすこと、であった。
そして、今回の旅はラスベガスを軸としており、アメリカの西側に該当する。次に費用は安い(飛行機代、ホテル代、食事も一部つく、添乗員付き、現地案内人は別につく、現地移動は貸し切りバスで行う…であった)、合図として、一人56100円と書かずに、二人あせて11万2200円と記述されており、私の誕生日11月22日にあわせて11・22(万円)となっていた。
もはや無視はできない。なお、語呂合わせとして、「いいふうふ」・11, 22万円と記されていた実は、これも後に大きな意味を持つのである。

だが、ベトナムをどうするか、ベトナム政府も誘致的な形で格安条件をだしてきていた。これはいつものことである。訪韓の際には、台湾が韓国と競うようにコストパフォーマンスの高い、格安条件をだしていたこともあった。(台湾は、確か5泊6日か4泊5日で、台湾一周、全食事込み、途中高速鉄道使用時も費用込み、残りの交通機関費用、ホテル代込みであるが、ホテルは5つ星とスペリアホテルのみ、…で3万円台であった記憶がある。だが、原稿の関係で安重根の祖国韓国を優先した。)

だが、やはりアメリカは死の日程がきいた。それも、私の人生をかけて最後の起業・開業を行う2015年前半にだぶってもいた。実際に、2014年末から2015年初頭にかけて、レンタルサーバー・二社と契約をしたり、10以上のホームページの立ち上げ作業を行ったりしていた。軸の一つである、最初の電子書籍の発売は2015年1月30日と予告もしていた。
また、後に記すほどの妨害がなければ、有限会社までは準備はできていなかったが、税務署などに開業届を出すことも考えていた。

あれやこれや考えて、確か共倒れ作戦という魔が差したことを考えたこともあった。即ち、ベトナムは一番人が少ないと予想される日で申し込みをし、アメリカは少し遅らせて申し込む。簡単に言えば、前者は「催行中止」狙いであり、後者は「売り切れ」狙いであった。この話は、次の(5)で当時の手記から紹介予定でいる。だが、一つ間違えば両方行く危険性もあった。費用のみか、体が持つ訳がない。

こうしたことを考えていたことを覚えている。気分ウキウキではなく、正に、悲壮感そのものであった。しかし、11・22が効いていた。

また、思い返せば、次のような国際的な問題もあった。
私が訪中(2013年5月)に中国国家主席とアメリカ大統領は早く会った方がよいと言えば、その直後の2013年6月に習主席の訪米が実現した。こうした流れは世界連邦樹立に不可欠でもあった
実際に、訪米が完全に決まる頃には《中国の習近平(シーチンピン)国家主席は(2月)11日、オバマ米大統領と電話会談し、9月に初の公式訪米に応じる意向を伝えた。習氏は国連発足70周年の記念行事にも出席。今年を「反ファシズム戦争勝利」70周年と位置づける中国の立場を強調し、安全保障の見直しなどを進める日本の動きを念頭に「戦後国際秩序の維持」を訴える見通しだ。…》(朝日新聞デジタル2015/02/12)となる。

こうしたことから、苦渋の決断で訪米を決定したいきさつがある。心ウキウキではなく、戦前の日本人移民の心境であった。
後に記すように、訪米のみか、起業に関してももの凄(すご)い妨害の嵐であったため、村人には極秘とした。その理由は、極秘でも、後に記載するような通常の人が思いもしない妨害の嵐があったのだからである。ただし、姉のみには次の手紙を送付していた。

「(2013年訪中のときに徹夜で中国のホテルで演説をぶった内容の一部)…米中会談は、世界・歴史を左右する上で重要である。日中会談よりも、米中会談が更に重要である。そこで、《中国首脳部への呼びかけとして》オバマが大統領のうちに、一刻も早く米中会談をした方がよい。オバマ大統領も何らからのリアクションをしてくる可能性がある…。
私も、その意味で、米国にいかなければならないときがくるであろう。…米国に行くとしても、


①(費用問題より)東海岸は無理で、西海岸にしたい。
②(経済的困窮した今)費用が高いと行けない。
③何らかの受入れの意思表示があったならば、それを合図と考える


…ともかく、(今回の訪米)は私に与えられた運命と解釈しています…(同時に)本年、再就職活動に向けて、言わば生死をかけた戦いに入りました。本来ならば、これで失敗したならば自殺というくらいの覚悟でやらねばなりません。そこまでではありませんが、本年からの一連の行動で失敗したならば老後はない《と》の覚悟は持っています。実際、昨年末から本日まで、余分な挑発がないときは寝る時間どころか食事もまともにとれぬ状態にありました。ともかく、想像を絶する忙しさです。……こうした状況の中で、作品づくりに不可欠な重要な旅…」(2015年2月17日姉宛手紙より抜粋:《  》部分と取り消し線は2023/10/06 修正した部分である。)

【参考:2013年5月に中国でぶった演説の一部】

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⑨米中接近の重要性。
これらを成し遂げるには、米中露の接近が不可欠である。米中露が常時同一意見でも、常設国連軍などは危険であるが、今日の如く対立が多ければ、そうした国連軍の設置は不可能でもある。そこで米中露が対話をし、互いに信頼を得る努力をする時期に入っている。勿論、併行して英・仏など国連常任理事国や、日本・イタリア・ドイツ等々も同様である。
なお、オバマ再選では、私は、数年に亘り、懸命に全面支援とエールを送り続けた。そこで、TV・映画説が事実ならば、オバマも習近平氏との会談について、何らかのリアクションをしてくる可能性が高いことも付け加えた。それだけに余計に急げと。

「オバマ大統領は相対的という言葉を使えば、戦後最高の米国大統領であると思う。ブッシュなどが出てこない内に、早くオバマと会うことを勧める。もし、TV説ならば、私はオバマの再選に最大限の支援をしたため、オバマも、私の言うことは多少聞いてくれる可能性もある。とにかく、オバマの任期中、それも任期が少なくならない内に会った方がよい。オバマの方も何らかの動きを見せると思う。」

 ⑩日中対話の在り方へのアドバイス。
日中の歩み寄りは現情勢では難しいと思われる。第一、日本はアメリカがAと言えばAと言う。アメリカがBと言えばBと言う。唯一の中国を中国本土とするか台湾とするかでも、アメリカが前者と言えば日本は即同調したことを思い出すがよい。よって、現在の右傾化した日本は飛び越えて米中接近に全力をあげることを勧める。
ただし、国民間の感情問題は無視できないため、大昔のピンポン外交的交流には力を入れておいた方がよいと思われる。政治と一切無関係な交流である。
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拙著『真相2013年』(2014年幾つかの出版社に送付原稿のため改竄はできない):

公式Blog収録:「2013年の真相」№10・第5節・歴史的会談②(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当)から抜粋

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=30583

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以下の写真は2013年5月12日に中国で演説をぶったホテルであり、その下の写真は演説を行った部屋である。正確には催眠で演説をやらされた。

(催眠で恰も)演説を行ったと思ったホテル・📷№13-034-019

この窓からは外は見えず、会議室か宴会場が見える。
ドアは逆側。上の写真参照。📷№13-034-032-1

☆冗談を言うと午前3時頃に、この宴会場付近から笑い声が起こった。

宴会場か会議室付近:写真№ 13-034-012

◎【訪米について、もはや行くしかなかった理由】は以下参照。

(2013年の中国での発言であり、原稿は2014年前半に書いた物である。出版社に送付しているため改竄はできない)

ところが、2014年末には、この内容(紫色)を忘却していた。ただし、1122だけが気になったのを覚えている。

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こうして、中国でなすべきことをなして、五月十四日に帰路に就いた。思えば、中国二日目に、中国人の私を見る目は厳しかった。訪中一日目や二日目は遠方から写すと、相手が睨み付ける表情や目つきをしていた(遠方からでは相手にばれないと思い、本当の感情が出たのかどうかは不明である)。三日目くらいから、それがほとんどなくなり、四日目は恥ずかしがり的表情はあっても睨み付け型目つきの人はいなくなった気がする。五日目、六日目は、睨み付け型目つきの人は遠方からでも皆無となった。詳細は写した写真を拡大してみれば全て分かる。


なお、中国で提言した内容への反響はすごかった。日本に帰ってからの約一週間後の五月二十三日には、オバマ・習近平会談(六月六日と七日)が突如決まる。また、私が提唱した国連加盟国全体で、国内の登記簿と同様に領土確定作業と認知作業を早急にすべきであることについても、中国は同意したのか、それを巡る後押しの動きがあった。

例えば、帰国後、「沖縄は本当に日本のものか」などを中国人学者が記し、早急に現在もめていない地の確定作業をすることこそが重要であることに同調しているかの如しであった。なお、現在もめている防空識別圏も含めて、領海・領空・領土・経済水域などの確定作業を早急に行い、国連全体で登記簿の如く形で保存することが望ましい。その場合、現在もめている係争地はすべて保留するしかない。もめている地よりも、もめていない地で将来もめることを防ぐことを真っ先にすべきである。


北朝鮮を巡る動きでも、私が提言した後で、北朝鮮が中国船を拿捕し、それを口実に即北朝鮮高官が中国へ行くなど、提言内容で各種動きがあった。ただし、私のソウル訪問前後に張事件が起こる。

米中の橋渡しをすると言った以上、当初予定になかった米国にも行かねばなるまい。尤も、金銭的問題もあり、東海岸は無理である。せいぜい、西海岸、カリフォルニアの辺りが関の山ではなかろうか、と中国で言った。すると、偶然であろうが、米中会談は東海岸ではなく、西海岸となった。恰も、私の訪米は東海岸ではなく、西海岸でも良いとの回答の如しであった。


米中露接近による新時代と、世界の紛争解決のための新国際政治体制の青写真と、そのための世論を喚起し、オバマの任期中(それも任期最終年以外)の訪米を考えざるを得なくなってきた。このときは青写真を日本語と英語で書き、外出する際にホテルの机の上において、誰でも閲覧できる状態にしておこうかと考えている。

私も還暦を超え、いつ死亡してもおかしくない年齢に突入したため、金にならぬ大仕事の最後の仕上げとして、世界の新秩序に火をつけねばならないかと考え出した。可能ならば、その結果を持ち、再度中国首脳部に新しい提案をしに、中国に行けるならば行きたい。勿論、鑑真の研究もある。


二〇〇〇年頃に、後藤先生が「アメリカに行くので君も行かないか。行けば面白いことが起こるよ」と言われたが、当時は行ける条件はなかった。母も「行ってみれば良いのに」と言っていた。アメリカに行けば、何かが分かるか、少なくとも、私のみではなく、世界においても大きなことが起こるのかもしれない。
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「2013年の真相」№11・第5節・歴史的会談③(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣正式公開

http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=30746

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(5)勝負の年・2015年―起業・開業と訪米への道

2014年12月12日、アメリカ格安ツアーが舞い込む。当時の日記に「この日程では尻込み」と記載している。

2014年12月以降、起業と軸になる資料集め・営業と一気に動く予定でいた。
起業・開業は未だに詳細は機密であるが、インタネットを中心とする予定でいた。


2013年から、SNSなどを通じて、インタネットの仕組みや営業の仕方を研究していた。2014年から勝負をかける予定でいた。
2014年12月以降の軸は、インタネットの中でも中心となる電子書籍、HP立ち上げであった。同時に、話題提供と営業を兼ねてのField workである。
携帯電話は生まれてから購入したこともなければ・使用したこともなかったが、スマホがインタネットの中心となる可能性があったため、まず、スマホ・タブレットなどの購入と実験も開始する。日程だけ記せば以下の通りである。


A:HP関連

🏢12月14日:起業準備開始 HP作成作業。スマホ実験開始。
💻12月19日: HP立ち上げ(公式ホームページと思う)
🌐12月20日: レンタルS実験契約
🌐12月30日頃:レンタルサーバーSと契約。
2015年

🌐1月22日:レンタルサーバーXとも仮契約
🌐1月27日:レンタルサーバー Xへ本格申し込み

【さらに2015年前半をまとめれば以下の通りである】
💻1月7日:浜田隆政公式Blog開始
💻1月25日:写真物語・和の間開設
💻2月11日:安らぎ文庫HP開設
💻2月16日:安らぎ文庫Blog開設
💻3月20日:写真物語・魂の間開設
💻4月16日:写真物語・絆の間開設

💻4月25日:総合案内所HP開設


2014年後半に、海外での私の反応を調べると、中国の検索サイトでは私のTwitterが中国後に翻訳されて掲載されていた。2014年11月21日にそれをプリントアウトして保存している。韓国も私のHPがハングル語で翻訳されていたので、電子書籍は海外でも売れると捕らぬ狸の皮算用をしていた。


B:最初の電子書籍出版

📖2015年1月30日発売を予定し、本(『旅に心を求めて―不条理編・上』)は早めに出版手続きを終了して、後はCMとなっていた。

《2015年》

🔝1月15日:kindle予約順位計算通りに上昇中
🔝1月25日:本の評価まずまず。Google閲覧者もまずまずであった。
📖1月30日:私の 処女本である、拙著『旅に心を求めて―不条理編・上』(Kindle、100円、$1)を約10カ国で発売開始
📖この後は、2015年は以下の如く、順調に出版を重ねていった。

📖6月17日:『旅に心を求めて・不条理編(下)』Kindle出版(百円)

📖8月10日:『親方日の丸―第一部・親方日の丸の組織構造』。
📖8月18日:『親方日の丸―第二部・親方日の丸と日本経済』
📖12月10日:『日本のフィクサーME・上』
📖12月20日:『日本のフィクサーME・下』
と続く。

【参考】書籍と死亡等―私が人の言動で奮起して「このやろう」とならない・なれない理由

私の書いた文献と著名人の死亡等
『閉じた窓にも日は昇る』小田実死亡
『旅に心を求めて―不条理編』藤田まこと死亡
『日本のフィクサーME』井上ひさし死亡
『親方日の丸』第一安倍内閣崩壊

その上、私の人権救済依頼文書を小渕総理(早大政研先輩)に書留送付するや、即、小渕総理緊急入院、そして死亡。それでは筑紫哲也氏(早大先輩)にだすと、筑紫氏は肺癌を公表し死亡、駿台事件の調査と復帰打診を山﨑春之理事長宛に検討するや、駿台理事長山崎春之氏が肺癌で死亡、…住所二軒問題完全解明調査が進むや(我が家同一住所番地使用の)Z3氏が死亡(これは嘘の死亡と思うが)…であり、これでは手の打ちようがない。

🎃(オジョウ)「小渕総理に手紙だしてどうなった」

🤡「死んだ」。

🎃「(一生懸命に書いても)小渕総理のときと同じこと」という。
私も書いても無駄としか思えない。挑発と催眠で無理矢理書かされ、監禁・貢ぎ・強制労働をさせられているとしか思えない。現世では裁判所か国会でしかケリはつかないと分かっているが、催眠類ではどうしようもない。また挑発もしつこい。相手をせずに掃除でもした方が良いと思っても、しつこすぎるので🤷が事実である。
☆☆☆☆☆
……
小田実氏(日本の作家)が生前に私の大昔の原稿をさしてか、私に「文章は短くした方がよい」と言っていた。
そこで、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle、KOBO上下巻各百円)に収録の 「フォットエッセイ・ふるさと」(今回掲載のもの)では「山もある。川もある。…とんびが飛び…。」と短い文章の一節を収録した。
すると、この原稿の途中で、病床の小田氏が拍手をし…やがて(2007年7月)死亡した。この『閉じた窓にも日は昇る(上巻)』を2007年頃に書いていた頃の話である。なお『同書』は2008年頃に出版社へ送付作業の頃をしている。電子書籍版ではない頃の話である。
……
『閉じた窓にも日は昇る』のペーパー版で業者へ出版依頼時に「私の作品が販売されない」とぼやくと、藤田まこと氏(日本の俳優)がTVから次のように言ったように思えた。
「人のせいにしたらあきまへん。ひがんだら あきまへんで。
それにはそれなりの訳があります … よう考えてみなはれ」と。そこで『旅に心を求めて―不条理編』(現在、Kindle、KOBO上下巻各百円で発売中)を作製し、2010年頃に出版社へ送付し続けた。(この頃に藤田さんが亡くなる。)
……
『閉じた窓にも日は昇る』の一部を見て、井上ひさし氏(日本の作家)が「ジョークとはこう書くんだ」と朝日新聞か何かに掲載した。
それでは、ジョーク好きの私もと…それが『日本のフィクサーME』(Kindle、KOBO上下巻各百円)の作成に2009年末か2010年にはいった。特に、芸能界関係の箇所はうけたように思われた。ちなみに、この本は最初は面白おかしくかくことを目的としていた。ペーパー版での出版運動は2011年頃に行っていた。
本来、おもしろおかしく、軽快に書いていたのであるが、第二次安倍内閣の頃から、安倍晋三氏の神経質さ…か何から、火の粉が降りかかりすぎ、それを払うと、(まだ出版はしていないが)HP で公開した「日本のフィクサーME」パート3以降ではかなり重たくなったという経緯(いきさつ)がある。
ちなみに、この本の出版を目指した頃、井上ひさし氏が2010年4月に死亡した
……
安倍晋三氏(日本の総理)が私の書籍を意識しだしたのは、拙著『親方日の丸』(Kindle、KOBO上下巻各百円)のペーバー版を書いている頃に、併行して社会保険庁解体、…さらには(第一次)安倍総理退陣…との因果関係を疑い、神経質になったのであろう。「特殊法人の問題点と教育聖域論への疑問・改訂版」を土台に2006年から2007年にかけて大幅改訂というか全面改訂し、作製したのが『親方日の丸』である。(第一安倍内閣が2006年9月26日~ 2007年9月26日である。)

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気が向けば一言【作品】№198・著作誕生秘話―藤田まことから小田実まで(修正版)

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1339/

藤田 まこと(1933年4月13日 – 2010年2月17日)
小田 実(1932年6月2日 – 2007年7月30日)

井上 ひさし(1934年11月16日 – 2010年4月9日)

藤田まことさんや小田実さんは、どちらかと言えば私とは友好関係にあった。井上さんも似たりよったりと思うが。

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C: Fieldworkと営業活動

💁✉2014年末→拙著『旅に心を求めて―不条理編・上』(Kindle、100円、$1)の案内文書を作製(下記参照)。

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浜田隆政著『旅に心を求めて・不条理編(上)』―美は悲しみの中にあり(概略):2017年6月9日修正掲載

http://h-takamasa.com/Blog/?p=68

(参考)この文献全体の紹介は下記コーナーに掲載

http://h-takamasa.com/book-01/custom.html

(参考)私の販売中の文献全体の紹介は下記に掲載

※ただし『求め続けて』『日本のフィクサーME・Part 2』『閉じた窓にも日は昇る―付録編(真相編)』は妨害で出版は遅延中。

http://h-takamasa.com/book-01/service.html

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✉年賀状―1→めぼしい所に同上案内文を同封して一斉に送付。これは、導火線的発想で行ったものである。
✉年賀状―2→この頃から、個人よりも、企業・観光案内所・役場・Fieldwork関連地の諸施設、メディア関係者宛てを増やす。

✉同時に、一発狙いも検討した。

✉田原総一朗氏及び「朝まで生テレビ」宛てや、黒柳徹子及び「徹子の部屋」宛て、更には古舘伊知郎及び「報道ステーション」宛てなどもゆうメール場等で送付したと思う。その他、めぼしいメディアのコメンテーターにも目立つ形で、私の写真A4版などをつけて送付した。
狙いは、どこかの番組で、浜田隆政という人がこうした面白いHPをされていますと、直にテレビで言ってもらうか、面白い方がいますという形で、テレビにゲスト出演を狙ったからである。テレビに一度正面から登場すれば、電子書籍販売も、HP読者数獲得=広告収入も一定入りだし、将来の国民年金支給金と併せて、死ぬまで生活が完全に可能になると考えたからである。


◎個人的な営業

🛒2015年1月17日 後藤先生の長寿を祝う会に出席のため、大阪へ:超多忙で日帰りか→この時か、その次の会合かで同上チラシを配布する。

🛒2月22日 新阪急ホテルの行事のような物(新阪急ホテル系列の50周年式典だったと思う。条件は新阪急ホテルの部屋代金とオリンピアの夕食と朝食代込みで5千円だったのではないかと思うが記録が現在ない)に参加のため大阪へ。

※★(この小文字・紫色字の箇所は興味のある人のみご覧を。今はともかく、将来意味を持つかもしれない箇所である)

2023/10/07現在:新阪急ホテルのシングルの値段は、楽天トラベル経由では朝食込みで21, 615円が最安値である。別にオリンピアの夕食代は大体3500円程度である。申し込みはE-mailで案内が来たか、それとも新阪急ホテルのHPでみたかどちらかであった。楽天経由ではなかった。ともかく、朝食・夕食代と部屋代込みで約5000円とは破格な条件であった。
 もっとも、民主党政権時代には、シングルは土曜日(約1万7000円か売り切れが多い)を除くと最安値の日は一泊7700円が多かったが、それでも朝食代込みでは約1万円であったかもしれない。オリンピアの夕食代は通常(アルコールを除いて)3500円であったように思う。。

 なお、新阪急ホテルは、津山行きの高速バス停のすぐ前のホテルであった。母の体調が悪いときには、新阪急ホテル若しくはアネックス(新阪急の別館であり、新阪急からわずか離れているが高速バス停までは2分程度である)としており、何かあれば、津山まですぐ飛んでいける体勢を取っていた。早朝6時前頃に家に電話して、緊急電話の有無を確認していた。何かあれば、始発バスで津山へ直行態勢を敷いていた。この場合には、美作インタから津山行きの始発バスと同時間に行けることになる。勿論、夜も電話をしており、21:52迄に大阪駅で電車にのれば、00時29分に津山着となっており、自家用車なしで我が家にいるよりはアクセスが早い可能性が高かった。母が老いたときの話である。


 なお、私は新阪急でも通常はアネックスに泊まることを主としていた。訳ありとポイント乱発でカード決済時点では一泊1500~2500円程度でお世話になった時が多かった。第二次安倍政権以降は価格は極端に高くなり、そうはいかないのが実情である★

🛒また、新阪急ホテル行きには、訪米に備えて世界連邦構想のシンボル的な世界連邦平和像撮影目的と、阪急交通公社へのアメリカ行きの残金を支払う目的もあった。
同時に阪急グループへの私の売り込みである。

当時は、阪急交通公社の社長が関学後輩、阪急電鉄の前社長が関学同窓会長の大橋氏、その頃から現在迄の阪急・阪神グループのトップが早大政経先輩の角和夫氏(まず、早大大学院政研時代の同じゼミの誰かと知り合いであろう)であったことや、大学一年のときに阪急グループの宝塚ホテルで夜勤のホテルマンのバイトをしていたことなど、阪急グループとも縁があったからである。また、阪急ホテルを軸に、パナソニックの森下元社長、オリックスの宮内会長、シャープの辻元社長など関学卒業生が集まっていた場所でもあった。

新阪急ホテル:2015年2月22日夜写す:写真№ 15-003-115_DSC_9974

新阪急ホテル:2015年2月22日夜写す:写真№ 15-003-122_DSC_9981

新阪急ホテル:2015年2月22日夜写す:写真№ 15-003-127_DSC_9986

※(新阪ホテル・世界連邦平和像に行った)2015年2月22日には、別に不可思議なことがあった。大阪へ行く途中で、母の実家の🚹従兄弟(いとこ)の姿を佐用駅で見たと記録にある。この従兄弟も大変よくできた人であるが、父系の🚹従兄弟が何かを言った疑惑があり、私に対して大変不機嫌になったことがある。今考えると、この従兄弟のお子さんに絡めて、謎ときの暗示があったと解釈される。

 従兄弟のお子さん強調は、高校ならば1983年入社組駿台講師室係🚺YKを連想させ、大学ならば駿台講師の表三郎氏を連想させる…があったからである。一定の時期から後者を疑ったが、記録を見ると、2015年1月14日に、(恩師を祝う会と同じ日に但馬の叔母一周忌の件があり…)同じ母系の🚺従姉妹が来訪している。彼女の名前には駿台講師室係🚺YKを連想させる語句がある人である。

また前年2014年8月19日には、彼女の弟で愛称がZ3氏と同じで、住居もZ3氏と同じ尼崎で、父親もZ3氏と同じ国鉄職員であった🚹従兄弟が突如来訪していた。
 裏で駿台事件の種明かしもされていたようである。
 人間違い、Z3、1983年入社講師室係🚺YK を含む1983年駿台入社限定の講師室係🚺4人グループ、…場合によればO講師…と。こうした状況の中で、2015年2月27日に日本を離れることになる。

2013年入社の駿台講師室係4名グループ(一号館[西山カード詐欺事件社長と同姓同名の]🚺NM、[114銀行強調の]🚺TK、[丸山和也発言で暗示もされた]二号館🚺YK、🚺GT)については、世界全体への調査依頼のため、実名表記が望ましいと考えている。というのも、私への拉致未遂被害、車に轢(ひ)かれそうになる危害、住居不法侵入、執拗な業務妨害などの連続被害の導火線になったグループだからである。実名にして、世界への調査依頼の必要性があるからである。今回だけは🚺YKとしているが別の箇所では実名表記を検討している。犯罪との因果証拠がもう少しでてくれば、この箇所も後日実名表記に変更する。


なお、Fieldworkは成り行き上、ベトナムを簡単に捨てることはできず(相手政府の面子や準備問題もあったと思われたことから)、そこで2014年12月17日にはベトナムツアーを申し込んでいる。内心は、アメリカも1122がでた以上、断れず、ややこしくなったので、両方のご破算狙いであった。ベトナム申し込みは追い込まれるまでまっており、一番人が集まりにくい日に申し込み、いわば催行中止狙いであった。他方、アメリカは格安のため、相当近いうちに、売り切れになるであろうと思い、申し込みをギリギリまで遅らせた覚えがある。即ち、ソールドアウト(売り切れ)狙いである。
2014年に書いたメモに次の内容があった(2015年日程表に収録があった)

☆☆☆☆☆
1月30日ベトナム旅行。
2014年12月16日現在申し込みまだのため、催行中止の可能性あり。その場合には2月末のアメリカ旅行に切り替え。
ただし、ベトナム催行中止の連絡の遅い場合にはアメリカはsold-out(売り切れ)の可能性あり。
その場合には、2015年後半から2016年にベトナム旅行…次年度後半は厳しくなる可能性。更にカメラ器財がいつまで大丈夫かは不明。よって早ければ早いほどよい。…
☆☆☆☆☆


このメモの上には次のメモもあった。
☆☆☆☆☆
下記の旅行をした方が先

《2023年解説:恐らく、電子書籍出版のことであろう》
ベトナム旅行→『旅に心を求めて―不条理編 Part 2』

《2023年解説:構想では、安重根🆚伊藤博文とベトナム人🆚アメリカ人…を主軸として書く予定でいたと思う》

アメリカ旅行→『日本のフィクサーME ・Part 3』→可能ならば、これで完結編

《2023年解説:私は2016年頃には、ほぼ毎日の如く、日本のフィクサーMEシリーズや政財界との関係は遅くとも2017年1月20日オバマ大統領辞任と共に終了と宣言していた。だが、メモを見ると、もっと早く打ち切りにしたかったのかもしれない。

長引いたのは、2016年のアメリカ大統領選挙でMr.トランプが当選するというハプニングから、…足を引っ張られたのであろう。それと、安倍晋三氏が何らかの誤情報原因か何かで奇妙な行動を取り始めたため、降りかかる火の粉を払わなければならなくなったからでしかない。》
☆☆☆☆☆

ベトナムは催行中止狙い、アメリカは売り切れ狙い戦略であった。これならば、両国政府に顔が立つであろう、と。同時に、その準備過程そのものがCM効果もあろう。
こうしてベトナム・アメリカ両国の面子を立て、両方共倒れ願望があったことを覚えている。

だが、数ヶ月前に、2013年に中国のホテルで喋った内容とそのメモ(2014年初頭記載)を見た。即ち、「2013年の真相」№11・第5節・歴史的会談③の中の収録内容である。

該当箇所は上記(4)の最後に掲載した資料であり、その中の紫色字部分を忘れていた。私が「アメリカにも行かねばならない…ただし、西海岸側…」という箇所である。確約をしていたならば、これは何があっても行かねばならないが、トラブル続きと開業準備で疲れており、訪米ツアーが舞い込んできたときにはこの内容を忘却していたのである。ただし1122があり、この点を気にして簡単には排除しなかったのである。

ともかく、ベトナム申し込みは粘れるだけ粘る予定でいた。
ところが、12月16日から17日にかけて、Z3氏宛て手紙を記載するや、催眠モードで、12月17日にベトナム申し込みをしている。若(も)しくはさせられている。

だがアメリカとの約束問題もある。これでは、万一、ベトナムが催行中止にならずに、アメリカも売り切れにならなければ、1月30日から2月上旬にかけてベトナム、帰宅して阪急などの催し参加…HP立ち上げの続き、電子書籍の管理…2月下旬からアメリカ死の行進となり、体が持つであろうか。金も同様であるが、どうせField workをするならば、少しでも若い内、器財が健全な内にまとめて行い、その代わりに後にはFieldwork中止としても同様である。否(いな)、インフレが起こる前の方がよい。


10年ならば10年間でのコスト計算・予算であり、賃金労働者ではないため、毎年均等にフィールドワークを分配する必要はない。極論すれば10年の内フィールドワークを10するならば、前半5年に営業を兼ねて、本の材料集めと著作権対策での写真確保のフィーールドワークを10を全部集中し、後半5年は一切しなくてもよい。

毎年一つずつ…は、給料生活者の話である。だが、体が持つであろうか。通常の人と異なり、私の場合にはトラブル連続であり、その上強行軍となっているのだから。

 通常の人の観光旅行では一切ない。自衛隊員の演習に近い。フィールドワーク・アメリカ全貌を記せば、人はびっくりするであろう。私もアメリカ途中か帰路に「Where is Mr. Obama?」と言ったくらいである。


救いの神で、2014年12月26日阪急交通公社から「Vietnam催行中止」の連絡が入った。
それを受けて、今度は、アメリカ行きの仮予約をしたかもしれない。記録では、2015年2月23日(火曜日)に阪急交通公社へ行っている。最終的な申し込みの金を支払ったのかもしれない。ちなみに、アメリカのビザに該当する手続きなどは、倹約のため自分で英文書類を作成した。
電子書籍のアマゾンとの契約も英文で行った。英語は余りできないが、これを火事場の馬鹿力という。


ともかく、アメリカへの出発が我が家発2015年2月27日、日本を離陸するのが2月28日である。記録の解釈が上記ならば、まさにギリギリでの最終的な支払いであったことになる。
同時に、本当にアメリカに行くことになるとは、出発日に飛行機に乗るまで分からなかった。


なお、阪急交通公社からのベトナム催行中止の連絡(12月26日)とともに、同日、拙著『旅に心を求めて―懐かしきの心を求めて―鑑真和上』関連の奈良へのFieldWork(一泊二日:鑑真が唐招提寺に行く前にいたのが東大寺だったと思う。ここで各種嫌がらせを受けたと聞いた寺)のため、大阪に向かう。宿は、この頃は大阪が高いので、尼崎セントラルに泊まったようである。
2014年中盤以降は、奈良関連の旅(『旅に心を求めて―不条理編』第2章の写真補強と『旅に心を求めて―仏像に愛を見る』関連の材料集め)を中心としており、その関係で奈良の旅はベトナム以前に組んでいたのであろう。勿論、アメリカの話が出る前に組んでいたフィールドワークであったし、アメリカがソールドアウトになれば、これが重要なフィールドワークとなる旅であった。


この日の大阪では🎃(オジョウ)に言わせれば、オジョウの偽物と出会うことになる。

だが、この日の翌日に行った、奈良東大寺で大仏様三昧のため、私は大仏様からオジョウをどうしても連想してしまうのである。なお、こうした🎃の🎃許可済み1号、2号…ではない偽物登場は、2013年の第二次安倍政権誕生からである。この話は既にしたため、今回は割愛する。

その関係もあり、2015年2月22日には久々に🎃オジョウと会っている。その時の会話は(7)で紹介可能ならば紹介する。ただし、オジョウが言った二言だけを紹介しておく。「アメリカは(思っているよりも)遠いわよ」「それとラスベガスは思うよりも寒いから、暖房着を持って行って…」と。

🎃(オジョウ)は何でも知っている。駿台事件についても、私よりも詳しい所がある。それと、オジョウは早くから駿台1983年入社組🚺NMと🚺YKについてチェック注意の信号をだしてもいた。私は気づいていなかったが、この頃(2014若しくは15年頃)から駿台事件や謎の☠と日本のフィクサーMEの世界が融合を開始していた。その軸に(第二次安倍政権後に豹変した)安倍晋三氏がいた可能性が高いが、現時点ではまだ不明である。

東大寺:2014年12月27日:写真№14-044-122:オジョウの偽物にあった翌日撮影。これを見ると、どうしても偽物とは思えぬのであるが。🎃は貫禄あるで😂

東大寺:2014年12月27日:写真№14-044-121:オジョウの偽物にあった翌日撮影。これを見ると、どうしても偽物とは思えぬのであるが。🎃は貫禄あるで😂

東大寺:2014年12月27日:写真№14-044-130b:🎃と🤡の関係は民主制ではなく、🎃君主制。「私が全部決める」と。🤡曰わく。「せめて立憲君主制にしようよ」と

 

2023/10/07 14:28 追記)

私の父の岡山師範時代の一年後輩である福武哲彦氏が小学校教師を辞めて、起業をめざし失敗し倒産したが、気を取り直して社員6名程度で福武書店(現・ベネッセ)を起業して、今日までになったのだから、妨害がなければ「安らぎ文庫」も、一定の成功はしていたはずであった。楽天の三木谷君が起業を開始したのは1997年(私のポリテクカレッジ岡山・現能開大中国の最終年度)であった。それを参考にしても、成功確率は極めて高かった。

しかし、想像を絶する妨害があり、今日に至る。私は共済年金程度の老後を目指していたため、ハードルは極端に低く、成功確率は極端に高かったが、妨害が予想以上であり、今日に至る。

なお、私の研究途中の考えでは、人間は一定の金が入れば、楽しいことは増大する。しかし、その額を超えて金が入ると、思わぬ苦痛(特に家族と愛情問題…同時に人間の信用概念が希薄となる…)に悩まされる。それでは(幾つもの前提条件解析の上で)その限界数値(人間幸福のための最適額)は幾らか。それを数学的に解析すれば、ノーベル経済学賞受賞かと思うのは冗談だろうか。それを歴史的に追及しようとしたのが『旅に心を求めて』シリーズであった。
私の過去の研究成果より、私の目指した財産は実現可能としか分析できなかったが、妨害が予想外の度合いであった。

健康になるには腹八分目というが、お金ももう少しあれば…というところが一番良いのかもしれない。極端に少なければ餓死か、少なくとも、社会生活は不可能となるが、その逆も…研究を科学的にすることが望ましい。それ抜きでは多くの被害を生み出すであろう。

 

2023年10月7日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA