政治経済を語る№6・「オバマ大統領の広島・長崎の訪問は?」(その2)

 政治経済を語る№6・「オバマ大統領の広島・長崎の訪問は?」(その2)

 

構成】
(1)オバマ大統領の広島再訪、若しくは長崎訪問に関して。
(2)私自身は本年広島を再訪できない理由。
(3)犯人は誰か――誰が私と広島市を啀(いが)み合わそうと策謀しているのかを問う。
(4)広島原爆資料館との対立を、私の原稿『旅に心を求めて―不条理編』に絡められた疑惑について。
(5)資料(4)の解説。
※(4)と(5)は政治経済を語る・「オバマ大統領の広島・長崎の訪問は?」(その3)として、明日掲載予定。

(1)オバマ大統領の広島再訪、若しくは長崎訪問に関して。

本年5月22日に公式Blogに「政治経済を語る・№4・オバマ大統領は長崎を訪問するかどうか(コメント)」(http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=6666)を掲載した。今回はその続きである。

結論から記す。オバマ大統領が広島再訪、若しくは長崎訪問に関して、私が推測できる訳がない。ただ一つ言えることは、核なき世どころか、戦争なき世を目指してオバマ大統領・バイデン副大統領・ケリー国務長官には米国の政権担当者として、最後の奮闘をされることを願っている。

アメリカの事情、オバマ大統領などのスケジュール問題もあるため、これ以上のことを私がコメントできる立場ではない。それでも、ギャラップ調査でのオバマ大統領支持率が、昨日(2016年7月31日)頃から54%となり、オバマ大統領自身の意思で動ける可能性が徐々ではあるが高まりつつある。
あくまで、〝高まりつつある〟であり、〝高まった〟とは記していない。


(2)私自身は本年広島を再訪できない理由。

昨年、広島平和公園及び広島平和記念資料館(別称「原爆資料館」「平和資料館」)を再訪し、広島市及び広島市の方々の配慮には既に記述した如く、厚く感謝している。
広島平和公園・原爆資料館の発展を心から願ってもいる。

(「写真物語館・和の間、「広島平和公園灯籠流し」http://takachan1.xsrv.jp/custom3.html参照)
オバマ大統領をはじめとする各国要人が広島・長崎を訪問することを願ってもいる。勿論、広島か長崎かはどちらでも、同じことかとも思っている。

私も、本年も広島を再訪、特に8月6日に広島を再訪したいのは山々だが、本年は次の理由で広島を再訪できないと思う。二つ理由があるが、最初の理由が大きい。これは広島市及び市民の責任では一切ないことを先に断っておく。

過去、私が広島平和公園及び原爆資料館を訪問した回数は、明白に記録のあるもののみで9回、記録がないが行ったと推定される回数を含むと12回余りである。さらに、後に述べる如く、平和公園に向かい出発した後で、妨害され阻止されたものを含むと15回余りとなる。

しかし、(3)で述べる如く、犯人は不明だが、岡山短大を辞職した1998年以降〝広島〟という名をかざした挑発、更には広島行きを物理的に妨害したり、逆に帰ってこられなくさせられたり、という被害に遭い続け、2016年は幾ら何でも、暫(しばら)くは広島行きは不可能、と2015年9月に結論をださざるを得なくなった。

次に、母が死亡し、フィールドワークを再開した2013年以降で平和公園行きのみをクローズアップする。

①2013年10月6日~7日。
この日から、カメラ・レンズの不調。そのシグナルとして、平和公園をでた直後から手ぶれ防止のオンがオフとどこかでされ、撮影失敗の連続。さらにはレンズ2本とカメラ本体が不調となり、修理に出す。だが、ソウル訪問には間に合わず、ソウルで苦い・歯がゆい思いをする。また、10月7日に念押しで電子マネー四千円前後紛失してもいる。

②2014年8月6日。
(青春18の関係で)鈍行で平和公園に向かうが、三原駅で電車が止まる。復旧の目処(めど)は不明とのこと。新幹線乗り場に行くが、切符売場は長蛇の列であった。この日は宿をとらずに、家に戻らねばならぬ関係で、やむなく瀬戸田に行き、我が家に戻る。なお、不思議なことに瀬戸田から戻ると、三原駅では電車は遅れなしで、上下線ともに動いていたと思う。

③8月21日頃広島へ行き直し予定でいた。
今度は自然災害のため仕方ないのであるが、2014年8月20日に広島市で土砂災害があり、またも電車が途中で運休となるのを懸念して延期。

④2014年9月2日に広島再訪。
カメラバックをおいて、カメラバックから離れ、教師と子の像撮影に専念する。その後、カメラバックの位置に戻り、バックを持って歩こうとすると、バックのファスナーが開けられており、知らずにレンズが落下し、その修理費で2万円前後必要となる。

⑤2015年8月6日に広島へ灯籠流しを中心に撮りに行く。
今度はスムーズに行けたので喜ぶ。ホテルを岩国にとっており、翌日岩国から帰路につく。電車も最終便よりも一便早めにしていたが、トラブルBlogに書いたように不可思議な形で電車遅れ、接続なしで、家に帰られず、徹夜で、駅で一夜を明かす羽目となる。
※トラブルBlog→T15-10(T15-10)・広島から帰るのを阻止されたトラブル。:JRトラブル=津山駅で徹夜

http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=1413

http://yasuragiblog.h-takamasa.com/?p=1430
等参照。

上記の如く、2013年以降、広島平和公園に行こうとしたり、行ったりしたならば、毎回不可思議なトラブルに遭遇した。そこで、私の方は青春18(一日鈍行ならば乗り放題で約2300円)などを購入し、しばらくは毎年広島平和公園に行く予定でいたが、①から⑤では、とてもではないが、行きたくても行くことは無理である。
勿論、これらは広島市などとは無縁であり、市などの責任はない。むしろ、広島市などには便宜を図っていただいた感じがあり、感謝をしているくらいである。
③の土砂災害は無関係としても、後は誰がやっているのかは不明であるが、偶然ではない。それについて(3)で述べる。

こういう事情で、2013年から、かなりの年数に亘(わた)り、連続で広島平和公園・資料館に行く予定でいたが、昨年9月から暫(しばら)くは不可能と判断した次第である。
そこで、遠方ではあるが、長崎の検討もした。
だが、本年6月に、不可思議な形で膨大に時間を奪われ、とてもではないが出歩ける状態ではない状況になりつつあり、本年は原爆問題に関してのフィールドワークはどうなるかは全く未定となっている。


【過去の広島平和公園・原爆資料館行きのデータ】。
《◎は行った記録のあるもの。
?は行っていると思うが記録のないもの。
??は病気などで記憶が飛んでおり、不明のもの。
■出発したが、途中で断念したもの。
▼は行き・帰りを不可能とされた物やトラブル危害にあったもの》


?1984年以前→何回か行っているが、いつか記録になし。当時は写真もやっていないため、写真もなし。

◎▼1985年8月6日を含む前後に平和記念資料館などへ。

◎1990年7月広島平和公園と原爆資料館へ。
??1991年~93年は→広島市の河合塾の教壇に立っていた時期があり、毎週広島市に1泊2日いたため行っている可能性もある。しかし、鬱病を激しくした状態下にあり、記憶が欠如。

◎1994年7月19日広島平和公園と原爆資料館へ。
◎1995年4月3日広島平和公園と原爆資料館へ。
■▽1995年6月11日:教師と子の像撮影に行くが、広島に着いた時間帯が同像撮影上、逆光のため、宮島に向かい。同像撮影は後日出直すことにする。

1999年~2011年は未整理→多分行っていないと思う。

◎▼2013年10月6日昼=13時27分平和公園着。平和公園と原爆資料館
◎▼2013年10月6日夜=20時06分~21時過ぎまで平和公園。資料館は外から撮影。灯りがついていたため、窓越しに平山郁夫画伯の絵の大型レプリカか何かなども撮影。
◎▼2013年10月7日=午前9時から午前10時40分頃。平和公園など。
■▼2014年8月6日平和公園と原爆資料館へ向かうも、三原駅で電車が止まる。復旧の見通しは不明とのことで断念。
■▼2014年8月21日。平和公園と原爆資料館へ行く予定であったが、前日、土砂災害があり、再度、途中で電車が止まるのを懸念して延期。
◎▼2014年9月2日平和公園と原爆資料館
◎▼2015年8月6日平和公園と原爆資料館。灯籠流し。

最終便よりも一便早めにしていたが、トラブルBlogに書いたように不可思議な形で電車遅れ、接続なしで、家に帰られず、徹夜で、駅で一夜を明かす羽目となる。


(3)犯人は誰か――誰が私と広島市を啀(いが)み合わそうと策謀しているのかを問う。

広島には大昔から何度も行っているがトラブルはなかった。しかし、1985年からおかしな状況が出現した。

私の仕事の大きなものは駿台予備学校講師と、(旧労働省所管)岡山短大の二つである。この二つの学校の辞職に追い込まれた件と広島を何故か絡められた疑惑がある。

駿台予備学校講師時代に、1985年8月6日を含む数日間、広島へ行き、原爆資料館で五千円前後のパネルを購入した。それを駿台の授業で使用していたが、ある日突然、(恐らく)駿台校舎内で紛失する。それを契機に、刑事犯罪被害がエスカレートし、駿台辞職を余儀なくされる。
辞職したのは1988年1月である。ちょうど、駿台で神戸、大阪南校、京都南校などが拡充され、政経・現社のみでも食べていける可能性がでてきた直前であった。

次に、(専任確約で拘束されていた)岡山短大を辞職したのが、奇(く)しくも駿台辞職の丁度十年後の、1998年1月である。
こちらの方も、労基法違反、所得税法違反、民法違反、一部刑法違反の被害を受け続けて、その結果ドクターストップで辞職を強いられた。
(拙著、『恐るべき労基法違反』参照。PDFで無料配布中→。http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
こちらも、短大から四年制への移行直前であり、専任確約を履行しなければ、雇用促進事業団・労働省が完璧な詐欺罪となるのが誰の目にも明白となる寸前であった。

この辞職直前と直後に、何故か広島が強調され続けていた。理由は私には不明である。その後、岡山短大での不法行為連続で精神が疲弊し、その回復にかける期間、また雇用促進事業団(後の雇用能力開発機構)との闘争問題で、広島行きは中断となっていた。
さらに老母の問題もあった。
広島訪問を再開したのは老母が2012年末に死亡した翌年(2013年)からである。

再訪開始すると、先の状態となった。
理由は、私には一切不明である。
広島市や原爆資料館の人の問題ではない。私は彼らには、一貫して連帯・共同・協同を意思表示している。
では誰が首謀者なのか。私には不明である。

ただ、気になることが一つある。
それは、岡山短大では昔は卒業式・入学式に、必ず、国旗が掲げられていた。ところが、ある年を堺に、国旗が掲げられなくなった。その年と相前後して、岡山短大で不法行為が激化したような記憶がある。
誤解がないように記すが、私は卒業式・入学式に国旗を掲げよとは一切言っていない。国旗を掲げるかどうかは、各学校の運営権者や自治会などが決めることであり、私とは無関係である。
しかし、不法行為が激しくなった時期が、卒業式・入学式で国旗を掲げなくなった頃からであるという事実のみである。
極論すれば、国旗を掲げるのに反対グループが策略者かと思わされたこともある。更に、それと広島を絡めて……、と。事実か否かは不明である。
同時に、先に述べた如く、私は儀式のときの国旗掲載については、各担当者が決めることであり、私とは無関係であるという立場である。