徒然なるままに・第一回高校2年時の担任U先生の思い出―高校生の私と教師がパチンコ屋で出会ったときに先生が言った言葉

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徒然なるままに・第一回高校2年時の担任U先生の思い出

高校3年の春にパチンコ屋で、2年のときの担任U先生に出会う。謹慎(きんしん)か、退学か?既に大学も決まっており、御破算か。そのときに教師が言った言葉を紹介する。その前に長い前置きを書かせていただく。

 

 


私はギャンブルは嫌いである。だが、中学校の頃、長姉の家にいくと、パチンコ屋に連れて行かれた。確か、長姉は昔パチンコ屋でアルバイトをしていたと聞いたことがあるため、その関係であったのだろうか。
長姉の旦那もパチンコ好きであった。よくパチンコ屋につれていかれた。中学校のころのある日、大阪でパチンコ屋に連れて行かれた。すると店員が来た。即座に義兄もきた。義兄が言った。「にいちゃん、ワシナ、この辺の町内会の役員やね。」この一言で店員は去った。

 

酒も長姉のところでしこまれた可能性が高い。姉の家にくたびに、姉夫婦、それにその子供二人(私の甥と姪)と五人で食事をしたことが何度かある。その度(たび)に酒を飲まされてい た。  私は、本来は、ギャンブルと酒を避けていた人間であった。

いや酒は祖母仕込みかもしれない。祖母の言葉を思い出した。アルコール度数30パーセントの梅酒を私に飲ますときによく言っていた。これは「酒ではない。ウメシュだ」、と。こうして3才頃からウメシュ(祖母の言葉では梅酒でなくウメシュ)は飲んでいた。ビールや日本酒はとんでもない。18才どころか、19才までも避けていたくらいである。これは酒なのだから。酒の思い出は別の機会に記すとして本題に戻る。
姉夫妻に、その後もパチンコ屋に何度か連れて行かれた。ただし一人でパチンコ屋にいくことはなかった。

 

 

ところが、高校三年の終わり頃、大学入試も終わり、関学に進学することも決まっていた。だが、卒業式まで数十日残っていた。こうしたとき、気の緩みから、ふとパチンコ屋に一人でいった。すると、高校二年のときの担任U先生に、そのパチンコ屋で出会った。さあ、通常ならば停学か、一週間余りの謹慎である。だが、3月に入っており授業はもうない。しかし、まだ卒業もしていない。こういったケースはどう処理するのであろうか。

 

更に、この教師とは、これから書くように大変懇意(こんい)にしていた教師である。高校二年の父兄懇(こん)談(だん)会のときにも、私の母に「おかあさん、タカマサのことは僕に任してください」と言い切っていた教師である。そして、これから記すように長いつきあいもある。しかし、放置することはよくない。第一、何かを言わなければならない。

 

私はこのとき、停学になり大学入学が取り消されるか、などは余り考えなかった。ただ、私もこの頃は将来教師を目指していたため、こうしたケースでは教師はどういうのかに大変興味を持った。しかも、この教師は並の教師ではない。後に、県の高教祖委員長になったほどの強者(つわもの)である。

 

「ここは見逃してやるが次からするな」というか、「大学進学だけには影響ないようにしてやるが、形式上一週間謹慎」と言うか、無慈悲にくるか。ともかく、なんと言うか大変興味を持った。だが、教師が言った言葉は私が仮定した選択肢の中には一切なかった。全く予想もしなかった言葉であった。なんと言ったかを書く前に、この教師の思い出を記すことにする。

 

 

私は中学校時代まで、勉学には関心がなかった。ただ、教員になりたいと考えていたため、どこかの大学には行かなければならないか、程度しか思っていなかった。有名大学云(うん)々(ぬん)はどうでも良かった。何故(なぜ)ならば、学校教師になれば、出身大学とは無関係で賃金は決まる。同一である。また、出世云々も昔は校長か教頭を除けば横一線である。主任などはなかった。また、田舎のため、教師の出身大学など興味を持つ生徒は少なかった。特に、小学校・中学校時代の教師の出身大学などについては、私は全く知らない。それもあり、勉学には価値をおいていなかった。格闘技類に興味があっただけである。

 

ともかく、田舎のため、何とか近くの高校に入り込めた。高校時代は柔道部に所属した。同時に、この学校は民主主義教育が大変盛んであったため、並行してその種の運動にも取り組んだ。先の中学校時代までのごとく、私は特に左でも右でもなかったのであるが、高校の雰囲気で民主主義教育に興味を持っただけである。
しかし、家に金がない関係もあり、大学は国公立大学を志望せざるをえなかった。すると柔道と民主主義教育活動への参加、更に受験勉強では不可能である。柔道部は大変面白かった。辞めたくなかったが、ある日催眠的な形で柔道部を辞めるように暗示があり、辞めることになった。柔道部では、これから試合形式の練習に入る直前であった。もし入っていれば、もはや熱狂して、一生柔道にのめり込んでいたであろう。基礎運動と各種受け身ですら、特に前方回転受け身にはのめり込んだくらいであるから。
ところが、突然の催眠型で、柔道部を辞め、民主主義運動(教育)一本となった。そのときの指導教師の一人が先のU先生である。

 

この教師は私のことを大変かわいがってくれた。
たとえば、試験のときは、大抵私の横に来てぴたっと止まり、一言(ひとこと)を言う。
「おい、はよ書け。違ったら笑ってやるから」、と。横に教師がピタッとひっつくと、数学などの試験問題は気が散ってできない。おまけに、模試のときであったが、本当に笑う。だが、違ったから笑ったという保証はない。国語の教師のため、他教科は知っている訳がない。それでも、笑われると本当に違ったのかと、最初から見直さなければならない。もし、この教師がいなけれ ば私の試験はあと10%ほど良かったのではなかろうか。(10%は冗談であり、どちらでもよいが)。

 

あるいは、「タカマサ、●日に、Hと一緒に僕の家に遊びに来い。いろいろ話をしよう」。こうしてH君と一緒に先生宅にお邪魔する。私は当然1~2時間と思っていたが、なんと、夜の午前2時頃となる。こちらは自転車である。H君は単車と思う。家は先生の家から数十キロ離れた所に住んでいた。私は先生の家からは4キロほど離れていた。
ようやく、午前2時頃になり、先生が「ここでお開きとしよう」と言ったのでホットした。私はともかく、H君は先生宅に泊まるものと思っていた。すると、先生が一言いった。「たかまさ。Hをおまえの家に泊めてやれ」、と。私はびっくりした。我が家には先生の家に行くとは言っていたが、午前様になるなどとは言っていないし、友人を泊めるとも言っていない。当時は、携帯電話もない。公衆電話もこのあたりにはない。家にも連絡をせずに、午前3時頃に我が家へ帰った。家の鍵はかかっていたと思う。外から叫び、家のものを起こした。母がびっくりし、次に友人を泊めると言うと、二度びっくりをした。

 

修学旅行のときもひどかった。帰りは深夜列車で帰っていた。幸か不幸か、私の椅子は私以外の三人は女生徒であった。それも可愛(かわい)い(としておこう。クラス仲間のため、この原稿を見られるかもしれないので)。すると、当時、担任であったU先生が来て、「タカマサ、その席を変われ、僕が座る」と立ち退かされた。私が女の子三人とでは気まずいであろうと心配してくれたのか、自分が女の子と喋(しゃべ)りたかったのかは不明である。当時は後者を疑った。実際、その後、先生は楽しげに女の子たちと会話をしていた。

 

万事が万事こうであった。

 

私の成績については全く気にしていなかったようである。高校二年のときの父兄参観では、私の母に「タカマサのことを僕に任せてください」とだけ言った。この頃は柔道をやめた直後で、その反動から、民主主義関連のサークルで多忙な割には、珍しく成績が良かった頃であった。
大学はどこでも良いのであるが、授業料が安い国公立がよい。次に、帰省旅費などで近い方がよい。そこで、第一志望は岡大理学部数学科としていた。教師は「このままならば通る」若しくはその可能性が高いと言っていた。(高校二年の前半には数学では学内で模試で5番程度になった頃である。当時この高校から国公立に五十人強進学していた頃のため、勉学だけしていればそう だったかもしれない。だが、つまらぬ受験勉強など意味もないため、しなくて良かったとも思う。)

しかし、クラブ活動で多忙となり、高校三年でも、それどころか高校三年の夏を過ぎても、スポーツ系と異なり多忙であった。夏には自衛隊の視察や他校の民主主義的活動の応援、更には幾つもの会議や集会への参加、夜の(一週間程度の)公民館などでの会談などなど、更にそれへの準備で多忙であった。高校三年の晩秋ですら、全国高校生部落問題研究集会などに泊まりがけで参加していた。勿論、その準備も忙しかった。当然、成績は大きく下がる。
もう、その頃は入試教科数の多い、理系から文系進学に変更しており、更に入試教科数の少ない大学に志望校を変更していた。学校の成績は再度多忙となるにつれ、二年後半から下がっていたが、三年の頃はどん底となっていた。その頃の担任はU先生からS先生に代わっていた。しかし、父兄懇談会でS先生と母と私が懇談している最中、U先生が来た。そして成績をのぞいた。一年前に、母に「タカマサのことは僕にまかしてください」と言った手前、母に何をいうか興味を持った。すると、母と私に一言(ひとこと)言った。「笑ってやる」、そして実際に笑った。私も元来、こうした試験や成績には余り興味がないため、特に何とも思わなかった。

さて、このU先生がパチンコ屋で私に言った一言を記そう。

 

「おい、タカマサ、百円貸してくれ」

この一言のみであった。
その後、先生は自分のパチンコ台でパチンコに専念をされた。

 

これは深い意味があると考えた。たった一言ですべてを言い尽(つ)くした。これは大した教師であると、大いに感心をした。要するに、こう解釈したのである。
「おまえのことは信用している。しかし、見て見ぬ振りをすれば、他の生徒の手前よくないので一声かけた。何も言わぬが、僕の言いたいことは分かったな」、と。ここまで来ると名人芸であると感心しきりであった。

 

もっとも友人は言う。「いや、そのとき、先生もパチンコに熱中しており、本当に百円が必要だっただけじゃないのか」、と。
この先生はすでに逝去され、もはや、真相は分からない。今でも、私はこのときのことを思い出すと、なかなかの教師と思うことがある。

墓の下の先生の声が聞こえる。「タカマサ、僕はそんなことは言った覚えがない」、と。では私も言おう。「先生、もう、すべてを言って楽になりましょう」、と。

「徒然なるままに」第二回で記す内容とも関係があるため、長々と記した。同時に、この文を読めば、私のこのシリーズを徒然なるままにシリーズとした理由もわかるであろう。

 

 

第一回掲載文への解説を追加(2016年2月10日)
一年前に、母に「タカマサのことは僕にまかしてください」と言った手前、母に何をいうか興味を持った。すると、母と私に一(ひと)言(こと)言った。「笑ってやる」、そして実際に笑った。私も元来、こうした試験や成績には余り興味がないため、特に何とも思わなかった。

U先生の言いたいことは次のことであり、私を揶揄(やゆ)したのではない(=からかったのではない。)

 

「学校の成績、そんなものはどうでもよい。おまえは、高校三年のときですら、各種社会見学や全国各地で学校の現状への討論会に参加してきたのだろう。そして、(日本に復帰前の)沖縄の青年とも交流し、いろいろな差別で苦しむ高校仲間とも夜を徹して会話をしたのだろう。研究の世界で言うインタビューもこなしたのだろう。さらに、(各種差別で苦しみ)苦労した老若男女の話も夏などは一週間連続で毎日朝・昼・晩と聞いたのだろう。また、(高校3年の夏ですら)自衛隊実地見学などをしていた。入試数か月前ですら、高校生全国集会へ数日参加し、それへの準備もあった。こちらの方が勉強なんだ。当然、こうした活動をしていれば、学校の成績は通常は下がる場合が多い。だが、こうした実際の勉学に比べれば高校の学校授業などは大した問題ではない。学校の成績が下がったなどはどうでもよい。だから、私は成績が下がっても、たいしたことはないという証拠に笑ってやる」となる。

 

実際、大学院などでは各種インタビューや実地調査は大きな評価対象となっていた。大学でもゼミなどは同様である。ところが、今日の、試験なるものは、試験の採点がしやすいようにという便宜(べんぎ)的な形でなされており、弊害が山ほどでている。特にマークシートなどは、全く勉強していなくても、一切問題をみなくても、サイコロを振れば一定の得点はとれる。実につまらぬ意味のないものでしかない。それらは、「毒饅頭(まんじゅう)の教育」として、いつか批判する予定でいる。また一部は安らぎ文庫>安らぎ英語>長期連載コーナーに掲載中の『求め続けて』にて毒饅頭教育の問題点を指摘してもいる。

 

私はU先生の言うことが即座に分かったが、勘違いをする人がひょっとしたならばいたら困るため追記をした。
なお、私はクラブ類は卒業直前まで参加していた。クラブの後輩がいつ入試があったのか気づかなかったほどである。卒業後も二年はOBとして、かなり参加し、その後も大学三年頃まで全国集会などには参加していた。大学のゼミ・サークル・自治会再建活動もそれと並行して行っていた。さらに、苦学生のため、膨大なアルバイトをこなさなければならなかった。