回想:大学卒論と大学院時代の学風―語学中心主義時代①卒論と大学紛争(💁正式公開)

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回想:大学卒論と大学院時代の学風―語学中心主義時代:①卒論と大学紛争(💁正式公開)


2022/04/19 17:10メモ段階

2022/04/20 3:55下書段階の再収録 15:25清書作業中

2022/04/20 20:05正式公開:《◇-1》のみ正式公開。続きは後日も日程は不明。またページは変更して行うかもしれない。2022/04/20 20:04レイアウト変更


 

(2022/04/19 13:00~17:10記載)メモ段階
当初予定を外れて催眠強要記述。17:10での一時打ちきりは村の道造りにあわせて、我が家の畑関連の草刈りなどのため。これからせねば大変。☂が降ればどうなるか。

(2022/04/20 19:08)HP改訂作業やブログのバックアップ作業のため、現在、HP活動休止としている。今回、催眠型で回想録を記し始めたが、やはり問題が多い。何故ならば、一度書いた文書と同じことを二度書いている部分がある。以前、どこに書いたか分からないからである。バックアップ作業とデータベース終了後なら検索ですぐにでてくるため、同一記述の無駄が省けるからである。


 よって、当初の順番通りに戻し、この回想録は2か月後に後回しを検討している。ただし、関学時代に関しては、何とか、この続きを牛歩で掲載するかもしれない。大学院時代は語学がどうだ・こうだとつまらぬ話のため、HP改訂やバックアップ、部屋の機能化のための作業…が終了してから検討したいと考えている。
 日本のフィクサーME・パート3すら中断中である。更に、このままでは次回の世界の歌に穴があくこともある。


【本文】



《◇―1・大学時代の卒論について―大学紛争問題》


前ページ卒論の箇所の「よいしょ」は削除する。
関学恩師・後藤峯雄先生は性格上、ヨイショはしない。
同時に、卒論作成に当たっては、実態調査への参加、数年に亘(わた)る昔受けた差別などを語る会への参加、各地の郷土資料館で郷土史を手書きで写して貴重なデータを収録した。


西宮、大阪、堺の図書館などでは部落問題(同和問題)コーナーのみならず、郷土史コーナーで大昔のデータ収録作業をしている。堺市の図書館にも卒論のために何度も脚を運んでいる。
ちなみに、これらの郷土資料・史料の大半が今は閲覧不可能になっていると推測する。記憶でも当時(1974年)でもコピーは不可能であり、持ち出しも不可能であったと思う。

教員採用試験、就職試験は全て放棄して、卒論作成に取り組んでいる。前者は一応受けたが事実上、採用試験勉強皆無状態で受けている。後者は就職課にすら一切行っていない。ただし、知人経由で新日本製鉄からの声がかかった。仕事は新日鉄の中の学校で教える仕事であり、待遇は正社員と聞いた。しかし、当時は教員になる予定で断っている。
大学院入試勉強は、この頃は大学院進学を考えておらず、一切その種の勉学はしていない。ただ、生活費を稼ぐためのバイトを除けば、明けても暮れても卒論一本であった。

この時の卒論は完成させたが、国語音痴で後藤先生の指示した様式と違っていることを指摘された。そこで、印刷はしていない。正確にはできなかった。様式自体の変更と清書は見積もりで1か月もかからないと思われた。不急不眠では、2週間程度の作業であろう。
しかし、印刷機は大学の事務室ではなく、法学部自治会の中の印刷機となっており、学園紛争当時では不可能であった。当時は、法学部自治会は反帝学評関西地区の最大拠点という噂も聞いていた。

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(※注1)若い読者へ
反帝学評とは新左翼の一団体と言われ、青色のヘルメットを特徴としていた。
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Wikipediaには次の記載がある。
「社青同解放派(しゃせいどうかいほうは、正式名称:日本社会主義青年同盟解放派、略称:解放派)は、1965年に結成された日本の新左翼党派の一つ。中心的な政治組織は革命的労働者協会(革労協)…警察白書では極左暴力集団、マスコミは過激派と呼ぶ。…1973年5~6月 早稲田大学で革マル派全国部隊を3度にわたり粉砕…
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E9%9D%92%E5%90%8C%E8%A7%A3%E6%94%BE%E6%B4%BE
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主として革マル派と対立していた。ただし、新左翼を否定する団体にはいろいろと干渉をしていた。私は大学時代から非暴力派であり、暴力と無縁の自治会再建活動に参加していた。その種の団体が集会をすれば、他の新左翼の学生共々、襲撃してくることはあった。襲われれば正当防衛権が成り立つという論理はある。そして、大学1年の頃本当に大乱闘になる一歩寸前を経験した。
このときは仲間の一人が怪我をして2週間ほど入院した。朝日新聞でも報道された。ラジオなどでも放送された事件である。関学は学内では衝突での怪我人はいないと何かに書いていたが、違う。いた。


この事件を契機に、事前に予測された襲撃に対して、同じく集団で暴力で対抗することに大きく疑問を感じ、後の党派中立となる土壌が形成された。詳細は《拙著『旅に心を求めて―不条理編(上)』(Kindle、KOBO各百円:$1)第2章広島への旅―「原爆の子の像」と「教師と子どもの碑」を前に命に想う:第2節・戦争と平和と人間に想う》に詳細に書いているので購入して読んで頂きたい

正当防衛とは、悪まで予期せぬ事態に、他に対抗手段がないときにのみ偶発的に行うものと考えている。事前に予測され、それを集団で阻止するとは封建時代の発想、即ち私闘と考えている。暴力に対してどうするかは大学や、警察や、行政などと協議する事項と考えている。必要時には裁判闘争となろう。

なお、彼らの団体に個人的に偶然遭遇(食堂などで偶然彼らの集団に遭遇)したことが数度あった。そのときには脅しに近い雰囲気を感じたが、暴力は受けていない。もっとも十人ほどに囲まれ、無理難題を言われたこともあった。しかし、暴力自体は受けていない。店の小母さんが「おたくら、暴力などは駄目で」と言っていた関係かもしれないが、ともかく暴力被害はなかった。

 しかし、このときに、今考えると催眠言動(当時は催眠言動なるものを知らなかったが、帰宅後に不自然さに驚いた言動)で一言言わされ、その後始末で大変な目に遭遇(そうぐう)することになる。今回は話がそれるので、2か月のHP活動休止期間が終了後に、どこかにその時の話を掲載しよう。この話も人生の最後を締めくくるため、書いておいた方が良いであろう。


その逆も然(しか)りである。私の方は幾らグループでも彼らのグループの一人に出会っても、暴力やその威嚇(いかく)を行使することは絶対にない。
結果として、私に対しては一個人のときには威嚇のみであったが、私たちが集団で行動するときには襲撃することがあった。そこが新左翼同士の内ゲバとの違いである。

革マルや反帝学評同士の争いでは、一個人ですら、襲撃する事件が何度もおこってる。即ち、革マル派🆚反帝学評型の争いではない。しかし、そのことは、大学卒業後に分かったことであり、大学時代には同様の羽目になるかと随時恐怖を感じていた。そこで学内はまともに歩けなかった。
しかも、私は一時は非暴力自治会再建運動類のリーダーであったときもある。彼らはその情報を私たちのグループから彼らのグループに移動した人間たちを通じて知っていたようである。

なお、私はバイトなどの超多忙さから、一年のみリーダーであり、その後はリーダーは降りたのであるが、その後で私達のグループから彼らのグループに移動する人がいないため訂正版が伝わらずに、彼らも私がそうした運動の関学全体のリーダーと誤解し続けていたようである。
だが申告義務はない。第一、申告すれば次のリーダーが大変な目に遭(あ)う。そこで、大学卒業まで私をリーダーと勘違いしていたようである。その間の事情は既に何らかのブログで公開しているはずである。

当時の状況では、とてもではないが、自治会室に単独で行くことは間違いと考えていた。救援に大勢の人がこなければならない事態が起こる危険性などから、私ひとりでは済まないとも考えていた。実際に無理と思う。

ただし、卒業すれば、私は非暴力派であり、革マル🆚反帝学評ではないため、もう無関係が相場であった。先輩などの事例参照。
なお、早大大学院時代は早大にも反帝学評がいたのであろうが、誰も私に見向きもしなかった。他の新左翼の学生も同様である。同時に、早大大学院時代から徐々にではあるが関学内を歩けだしてもいる。そして駿台講師時代には全く無関係となり、関学を訪れたときにはヘルメットをかぶった学生がいても、誰も見向きもしなくなっていた。

関学を卒業(1975年)してからもう50年近くとなる。まだ、ヘルメットをかぶる学生がいたら、私の党派中立・宗派中立40年も考慮すれば、サインを求めてくる程度であろう。だが、大学時代は違っていたことは事実である。

似た名称の団体に社青同協会派という組織があったが、こちらはかなり紳士・淑女的であり、暴力類とは無縁であった。婦人問題研究部に所属していた関係で、同団体の知人(クラブの先輩・同級生・後輩)がいた。アパートにも招待され、いろいろと談義もした。非暴力派であり、勉学への姿勢も良く、良い影響を受けただけである。良識的グループに思えた。

また、ブントという団体だったか、何か忘れたが、その組織に関係している女性(単なるシンパか所属していたのかは聞いていないため不明)が、「私が(あなたを)守ってあげる」と腕を組んで学内を歩いてくれた記憶がある。団体名は定かではないが、それでも腕を組んでくれたのは事実だったと思う。ただし団体名は分裂数が多数であり、更に似た名称が多数あり、ややこしいので覚えきれず、違っていた団体かもしれない。分裂派閥も加えれば、ドイツ語の単語を覚えるよりもややこしい。関学の婦人問題研究部で同じクラブのメンバーとしてあっている。

更に、民学同という組織には友人(男性)が二人いた。どこで出会ったかは記載できないが、一人は信用できそうな人物であり、もう一人は確実に大変信用・信頼できる人物であった。
こういう付き合いの関係で、関学時代には日本共産党の方からは私には声がかからなかったのであろう。ましてや厳しい大学紛争時代でもあった。

(資料)Wikipedia「内ゲバ」から抜粋。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%82%B2%E3%83%90

内ゲバ – Wikipedia -1

内ゲバ – Wikipedia – 2

▲▲▲▲▲

その上、彼らが(工事や作業をする訳でもないのに、ヘルメットをかぶった学生が)私を日本共産党関係の大物と誤解をしており、自治会室に行ける状態ではなかった。ちなみに、彼らが誤解をした頃、日本共産党員ではなく、私は赤旗すら購読していなかった。赤旗は大学を卒業してから大学院を修了する間までの期間の一部でしか読んでいない(多分、5年程度であろう)。だが、彼らの誤解を解くことはプライド上できない。彼らへの申告義務はない。

また(非暴力主義の)自治会再建運動関連でも、関学のトップはとっくの昔に降りていた。だが、それらも彼らに解説する義務はない。また言えば、彼らは威嚇型で聞くであろう。誰がそれでは自治会再建運動のトップなのか、と。よって印刷には行けない状態にあった。当時は再度の清書自体は簡単な作業であった。

 この責任は、冷静に言えば、施設拡充費をとっている以上、大学当局の管理責任と考える。印刷機は図書館などに設置し、どのグループに所属しているかとは無関係に、学校当局に届けて事務的に許可をとり、学校の事務員監視下で使用すべきと考えている。大学当局の🙈🙉🙊見て見ぬ振り主義の被害を受けたと言ってもよい
学内に必要もないのにヘルメットをかぶって入ること自体を禁止すべきであった。ましてや、凶器類を学内に持参した時点で学内から排除する義務が学校にはあった。しかし、私は大学一年の頃に学内の中央芝生でヘルメットをかぶった学生が武闘訓練をしているのを見たことがあった。ましてや他大学の学生がヘルメットなどをかぶって学内に入ろうとすれば学内立ち入り禁止を毅然(きぜん)と言い渡す義務があった。

原稿自体は完成したものを恩師には提出し、合格とされているし、ゼミのメンバーにも原稿の内容は作成過程から完成に至るまでレジメで解説をしてもいる。原稿自体は完成させて提出もしていたが、50部か何かの印刷が不可能な状況にあり、(印刷機のある場所・自治会室に行けず)印刷作業をしていなかったということである。自治会室に行くのを避けるため、敢(あ)えて清書のレイアウト変更作業を遅らせていたのだと思う。

 ▽
コピーは当時は大変貴重で高価なものであった。青地ではなく、現在型の白地のコピーは一枚数百円かかったのではなかろうか。学校ですら、コピーは青色の変色型用紙であった。再度はっきりと記す。施設拡充費や授業料を徴収した以上、こうした器財は学校が維持・管理する責任があった。特に大学紛争時代にはそうである。

 その後の経緯は、可能な限り、思い出しながら記していく。恐らく、ほとぼりが覚めた頃に、印刷物を提出と考えていた可能性が高い。ところが、姉の危篤、同じ家の伯母の大病、そして大学院浪人時の野イノーゼ…となり、記憶が途絶えているのである。
結局印刷作業の件は、期間を置きすぎた関係で、資料再検討の手段が一部なくなっていた問題などから、同じテーマながら、再度、大幅修正し、もう一度別の卒論を書くに等しい作業となり、約一年かけて作成する羽目となった。更に、印刷機がないため、全部コピーをする覚悟でいたときに、東京で救世主が現れ印刷が可能となった話などは後日する。


大学卒業当時ならば、最短で2週間、印刷で1日のものが、一年潰してのやり直しとなる。だが、このやり直し作業は私の心の大変な救済となっている。何故ならば卑怯なことはしたくないからである。卑怯なことをしたままで死ぬのは耐えられないからである。
ちなみに、今ならば、全てDigital保存しているため、様式のみの変更ならば4時間もあればできるであろう。大学紛争と科学技術の問題から引き起こされた問題であった。


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(※2)党派中立宣言については下記参照
浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29431
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本来は、こうした党派中立・宗派中立の経緯を書かなくても、現在の私の政策を掲載すれば党派中立・宗派中立は一目瞭然となるであろう。しかし、その記述を今回の如く、催眠誘導の文書類で妨害されているだけである。

《ここ以降は次回:ページを変えて掲載することもありうる。》




《◇―2・大学時代の二つの卒論作成について》

この卒論のつけは後にきた。大学院で修士論文を提出した後で、印刷の件を後藤先生から指摘されたことである。1980年だったと思う。当時の原稿を先生の指摘する様式で清書すること自体は、その種のノウハウを多少忘れたとはいえ、約1か月であったであろう。だが、何を思ってか不明も(今から考えると催眠であったか)、もう一度一から資料にあたり直し、内容・構成もやり直すことにした。そこで、1980年の教員採用試験用勉学は事実上かなり放棄した。1980年度は卒論を再度新バージョンで作成することに没頭した。これで事実上、約1年潰れることになる。早大図書館などで、バイト以外の時間はこもって原稿を書いたり、アパートでは一日中資料の当たり直し作業をしていた。
当時の卒論には問題はなかった。しかし、今から考えると、催眠というよりも、資料にあたり直す作業は東京では無理があった。
西宮、大阪の数カ所、堺の図書館などで郷土史料の箇所で手書きで写した資料である。国会図書館にもおいていない可能性があった。中には本の形態をとっていない物が相当あったからでもある。同時に1980年頃はもう閲覧禁止になっている資料と思われる。そこで新版を書くしか方法はなかった。

記せば、1973年~75年3月は卒論関連に没頭。
1976年は大学院浪人
1977~1980年3月は修士論文中心。
1980年は卒論の新バージョンに没頭。若しくは1980年夏までは教員採用試験勉学と卒論半々だったかもしれない。夏からは当然卒論一本である。
1981年度から教員採用試験勉強を本格的に行う予定とする。(1981年度は真備高校非常勤講師で担当は倫社、採用試験は政経である🤷)。
卒論は結局二本作製する羽目となった。後者も、バイト以外は捨てて一年費やしている。

要するに卒論は二つ作成している。
今、先生の手元にあるのはどちらか不明である。
今から考えると、最初の方が良かったかもしれない。史料・資料価値は最初の方が高い。
どちらの論文も、部落解放同盟、全解連(正常化連の後継団体、今の地域連の母体)、自由同和会などからクレームがつく内容では一切ない。前者はただ単に貴重な資料・史料の掲載とその分析だからである。もっとも、現在では、閲覧禁止の史料からの抜粋があるため、行政の側から閲覧禁止となる可能性はある。そこで、前者はやはり図書にはおけない可能性がある。やはり書き直ししかなかったかもしれない。

西宮ならば人口数百人程度の頃からの史料・資料の収集であり、神戸でも同様であり、それが前者ならば人口1万、後者ならば人口数万になる状況を史料から収拾したものだからである。途中空襲で戸籍が焼けた後…出自が不明となった後…どう行政が処理したかの検討…も書いていたと思う。まだ農村時代の村時代からの史料・資料収集であった。

《◇―3・国語音痴について》


卒論は、今考えても、大学卒論とすれば十二分であった。修士論文としても通用したであろう。ただし、国語音痴が禍して、様式が不適切、正確にはレイアウトが違っていただけである。修士論文は卒論よりも相当落ちる内容であったが、合格はしている。修士論文の品質をさらに下げたのが大慌てで句読点対策を三日日でやりなおしたことにある。
両方とも国語音痴が禍した。ここで国語のつけがでている。だが、内容そのものは卒論は資料価値などとすればかなりのレベルで仕上げている。


後に勉学をして知ったが、日本語には句読点のルールは数個のみであり、原則ルールはないのである。段落ごとに一文字開けなどのルールは存在しない。朝日新聞の天性人語を見ればわかる。要するに見やすいようにするレイアウトなのである。レイアウトには本来規則はない。見やすいものが一番良いだけである。今ならばカラー色仕上げでレイアウト変更もあり得る。
読点も、誤解しないように打てば、後は特にルールはないのである。
国語音痴の私は、国語にはルールがあって、そのルールを無視したかで大慌てとなったのが修士論文であった。国語の勉学を50才前からして分かったが、原則、ルールはないのである。脚注などは今のワープロならば、Digital版の方はそこをクリックするだけで脚注がポップする。当然、新しい技術型脚注となり、古い発想はもはや通用しない。
要するに内容が一番であったが、その一番の内容を特にないルールをあると錯覚して、最後の詰めの段階を放棄して作製となったのが修士論文であった。

『日本のフィクサーME』か『閉じた窓にも日は昇る』に高校時代に国語放棄の逸話を書いている。
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なお、ボンちゃんは国語、特に漢字が苦手であった。これには深い訳がある。否(いな)、単純な理由があった。我が家の近くで初盆の法事か何かがあった。そのときにお茶を出された。私はそのときに得意げに言った。
「僕はこのお茶の種類が分かる」
すると、周りの人がその回答を聞きたがった。そこで、私は得意げに言った。
「緑茶ではない」
「そう」と誰かが答える。
「これはほうじ茶でもない」
かしこい子という雰囲気がその場を覆(おお)う。
「番茶でもない。煎(せん)茶(ちゃ)でもない。玄米茶でもない」
それでは何茶と言うか、周りの小(お)母(ば)さん連中は興味津(しん)々(しん)となった。そうした周りの注目の中で私は言った。
「これは粗茶(そちゃ)である」
その場に居合わせた一部の人は笑い、他(ほか)の人は私の母親に遠慮し笑いを必死に抑えた。尤(もっと)も、これは母親が悪く、私が粗茶の意味を聞いたときに、面倒臭がって、「苦いお茶のことを粗茶という」と教えられたことに由来する。余りに受けたため、ブリキの勲(くん)章(しょう)に倣(なら)って、漢字の間違いをそのままとし、自らの勲章にするため、高校時代に私も漢字苦手組にいた。
我が高校は進学校であったが、〝田(い)舎(なか)の〟進学校という、形容詞〝田(い)舎(なか)の〟が必ずつく高校であった。この田舎の進学校では、何故(なぜ)か漢字の苦手な生徒が多く、比較的数学のできる生徒が多いという奇妙な学校でもあった。依(よ)って、我が高校ではas easy as pie(とてもたやすい)とかa piece of cake(楽な仕事だよ)という代わりに、易しい事柄はas easy as mathematicと言っていた。例えば「Playing baseball is as easy as mathematic (野球をするなんて朝飯前だよ)」という具合に。逆に漢字は「A Chinese character is all Greek to me.(漢字はチンプンカンプンだよ)」と言っていた。
こうして、この奇妙な高校では、誰かが授業中に漢字を読み間違えると大受けをしていた。否(いな)、みんな心待ちにしていた。馬鹿にするのではない。田舎では授業の下手な教師が教材研究を全くせずに授業するため、みんな授業が退屈で仕方なかったのである。そうしたときに当てられた人間が、漢字を読み間違えると息抜きとなり、みんなで大笑いをした。特に眠いときはそうであった。嘲(ちょう)笑(しょう)や馬鹿にするのではなく、親近感からの笑いであった。ここで、私は更に漢字は可能な限り覚えまいと決意を新(あら)たにした。
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そのツケが卒論と修士論文に出る羽目となる。
だが今考えれば内容が全てである。癌の薬を発明した場合にはそれが本当に効くかどうかであり、その論文自体の様式は内容上誤解がないならば、二の次、三の次である。学問は飾りではないと最近思っている。

極端に言えば有益なメモは、如何に名文続きであろうとも校長の式辞よりも重要である。
川端康成の『雪国』などは、私に言わせれば文体でもっているだけであり、多言語に翻訳すれば、翻訳者の如何によって価値なし小説となる。私は英語版も読んだが価値はなかった。他方、「To kill a mockingbird」(アラバマ物語)は英語の文体はさほどではないが、内容が良かった。私は残り少ない人生は後者でいきたい。

松尾芭蕉の世界も良いが、自然科学や社会科学などの科学には向いていない。ちなみに、松尾芭蕉は大学院も、大学も、高校も、中学校も行っていない。博士号も修士号も学士号も取得していない。夏目漱石が博士号を辞退した話は有名である。


《◇―4・大学院時代の四つの苦悩》

大学院時代を振り返って。

大学院時代は四重苦であった。
①一番目はバイト三昧であった。家からの仕送りは一貫してゼロであり、奨学金も当時3万円台であったが、研究費に消えていった(当時は本・資料代・コピー代金で月に3万円以上使っていた)。
②番目が英語の問題である。もっとも、これは挑発と催眠が多いためそう思わされているだけであり、極端には困っていなかった。
③番目がドイツ語の問題である。これは相当参った。
四番目が修士論文のテーマ問題であった。一番参ったのがこれである。もし、日本の政治学がまともならば、部落問題を主題としていた。そうすれば、悩みは一切なくなっていた。高校時代は部落問題研究活動を中心にやっており、大学時代もかなり類似し、西宮市教育委員会時代も同和対策課に所属していた。卒論も部落問題であったため、相当楽になっていた。他人の目はどうでもよいが、ゼミ仲間や(任意にしていた法学研究科での)学習会仲間も学問的には一目置いたであろう。否(いな)、人の目はどうでもよい。何故、できなかったかは《》に記している。
最後が、初めての東京による孤独感などであった。


《◇―4・英語について》

語学で参っていたと、何度も催眠と挑発で思わされている。ドイツ語は確かにそうであるが、英語の方が極端に参ってはいなかった。ただし、海外の英語文献でどれが必要かの手がかりがなく、そちらの方が参っていた。海外の文献は目録のみ見て海外から日本に到着し、手元にくるまで内容が分からないからである。
立ち読みはできない。日本のどの本屋にもない本を発注するのであるから。これが英語では一番参っていた。

英語はできないと言えばそうであるが、それでも早大大学院や同志社大学大学院には合格している。名古屋大大学院は語学以上に、専門教科で膨大な政治学書を読んでいたが思いもしない問題などが出題されアウトであった。(例:日米行政協定について論じよ。日本政治史か国際政治学ならば、ともかく、政治学大系、政治学原論等百冊読んでも一切記載されていない項目である…。その大学の癖が強かった…)

また、英語ができないとは相対的なものである。恩師後藤峯雄先生はシカゴ大学でphdを取得され、関学の教壇にたたれたが、後にHarvard大学でも教壇に立たれたと聞く。恩師・内田満先生は、外国のゲストが早大に来られたときに同時通訳をされていた。アメリカでの研究歴も長い。
学友諸君も、後輩の吉野君(早大政経学部教授)なども、アメリカ留学がある。更に、悪友に該当する諸君が、後に仕事に予備校を選んだが、彼らも担当は政経や倫社ではなく英語である。一人は河合塾の英語、一人は代々木ゼミで英語である。岡山県出身のゼミの先輩も予備校では英語を担当している。中央大学から早大大学院に来た先輩も、大学院時代から両国予備校で英語の講師をしていた。当時の彼らが私をみれば英語ができないと思ったのであろう。
実際に当時は余りできないが、幾つかの大学院には合格させていただき、大学院時代は授業の大半のテキストが英語の原書講読であったが困ってはいなかった。政治学研究科というよりは、英語の翻訳養成学校の様相を示していた。

もし、悪友諸君が駿台・河合塾・代々木ゼミで講師をするときに、政経、倫社、現社担当では尻込みをするであろう。だから、彼らは英語を志願した。
予備校で政経、現社を担当していた私が彼らをさして、彼らは高校の政経、現社、倫社ができないと言うが如しである。君らの専門(商売道具)が英語であろう。
商売道具を英語としている人間が、英語を商売道具としていない人間と英語で競おうとは笑止千万である。おだてて言えば、私ができないのではなく、君らができるである。だから超大手予備校でいきなり英語を担当したのであろう。私は駿台で政経・現社が確約に反して減らされると聞いたときにも、英語ではなく、(教えたこともなく・受験教科でもない)日本史をとったくらいである。

ポリテクカレッジ岡山(能開大)も同様で、法学と経済学を教えて欲しいで声を掛けられ、多忙なため行く気はなかった。相棒の嶋坂先生(京大で博士号)が話だけでも聞きに行ってくれで断る予定で行ったのである。すると、相手が「是非専任になってほしい。そのためには英語も担当できないか」(時期は半年後から)と頼んだので、英語を演出することはできるということで、専任前提で英語を担当しただけである。
英語が堪能かと聞かれれば堪能ではないと回答した。だが、授業を担当してもらえないか(演出してもらえないか)では、音楽音痴の私が世界の歌を演出するよりはやさしいと思い引き受けただけである。私の方から英語をやらせてほしいと言ったのではない。真逆である。

ちなみに、1988年頃から(1990~93年休眠期を除く)2002年頃にかけて、英語の勉学にも本格的に取り組んだ。その頃、パソコン模試か何かで力試しをすれば、準英検1級は合格、英検1級を目指しましょうとアドバイスがでていた。だが、彼らがそれでも私と英語で競おうとするのは邪道である。
超大手予備校で英語でメインを貼っている人間が、まだ超大手予備校で英語を教えていない人間を相手に英語の出来不出来を論じること自体を恥と考えた方がよい。それを商売としている人間がそれを商売としていない人間に競争意識を持つこと自体がナンセンスである。ポリテクカレッジ岡山では学校からの専任前提で英語もという依頼のみではなく、事実上、1982から長期に亘り(多分1995年までは)完全赤字労働である。恵んであげているというよりも、強制監禁蛸部屋労働であり、その被害者と比較しても意味がなかろう。
再度言えば、ポリテクカレッジ岡山が最初から非常勤講師と言えば、担当が法律学か経済学であろうとも門前払いとしていた。英語も同様である。詐欺にひっかかり騙され、強制監禁貢ぎ労働を強いられたのである。
早大先輩のA講師は「いいか、浜田ここは捕虜収容所だ」と言っており、相談に行った神田高弁護士は「浜田さん、でもサー、ポリテクカレッジ岡山を辞められただけ良かったではない。賠償…自分でやりなさいよ。相談料はいらないから、のみに行こうよ。僕がお金をだすからさー。ね、辞められただけ良かったとおもわなければならないよ」であった。友人の労働基準監督官は「お前、この世にそんな職場があるのか。すぐ労働省へ手紙をだせ」であった。
大学院の悪友諸君は競うことに興味があるようなので、ポリテクカレッジ岡山に私が紹介すればよかった。1982年頃50分2200円、交通費自腹(片道90㎞でも自腹)、夏休みなど全て無支給。やがてその上で労基法違反の連続、契約違反の連続。月極明細書支給せず。支払日に振込がないときがあり、抗議すると逆に脅された。A先生は「お前注意しろ。この間えらい賃金が少ない気がして、文句を言うと、翌月から増えていた」、と。
君ら、他の仕事を全部やめて、ここで必死に英語を教えろよ。今ならば時給が上がっているので、年収40万から90万円程度にはなるよ。ただし、交通費は原則自腹だよ。
学生は一時はアルファベットが書けない学生もいたときがある。これ自体は問題ないが、高度な文法などは意味がない。むしろ、説教と叱り型のノウハウが重要である。御託を並べる前に一度教壇に立ってみろよ。当時は労働省所管の職場であった。
総合大学校ではなく、能開大の方である。

追記:
駿台講師時代に一緒させていただいた表三郎氏も専門は経済学であるが、英語のエキスパートであった。同僚でよい感じを持っていた福崎伍郎君も、確か京大法学部出身と思ったが、英語をメインとしていた。政経学部関連は、特に大学院修了者が予備校などでは一般に英語を担当するのである。私の如く、社会科を教える人間は珍しいのである。
実際に英語を担当した方が慣れれば楽かもしれないし、金にもなる。


《◇―4・ドイツ語について》
これは本当に参っていました。
当初、大学院に行く気がなかったから、大学時代は授業は大半でていない。私自身は代返を依頼していないが、後で聞くと友人が代返をしていたそうな。友達に感謝を改めてする。
そこで大学院に行くと大変な思いをした。特に大学院入試は語学一つの大学院しか受けていないからである。大学院修了には必須となっていたがそれは問題ないのであるが、博士課程入試には必須となっていたことが大問題であった。
後期試験の方はまだよい。日本語も英語も丸暗記するほど読みこなしていけば何とかなる。だが、博士課程進学を絶対条件としていたため、博士課程入試のときまでに、ドイツ語の原書が辞書なしで理解できるかどうかという大問題を抱えていた。
ドイツ語も、博士課程に行くならば、英語に準ずる程度の力が必要かもしれない。大学院二年の後半までは博士課程進学を絶対条件として家をでている。
博士課程の試験までにドイツ語力がつくか・どうかという意味で大変であった。大学院修士課程の修了要件のドイツ語対策は余り問題としていなかった。何故ならば関学でも、授業にも余りでずに、丸暗記型に近い方式でドイツ語の単位をとっているからである。

ともかく、博士課程進学上、ドイツ語も英語に準ずる程度できる必要があると考えていた。
早大時代に一緒した水島朝穂氏(現・早大法学部教授)も、政経学部で授業を一緒した飯島正蔵氏(早大政経学部教授、私が上京した2017年死去)もドイツ語はできた。姜尚中氏もドイツ語ができた。全員、ドイツに留学しているはずである。

当時の大学院では英語は日本語並理解力が必要であり、ドイツ語(フランス語)も相当な領域まで要求されたようにも思えた。

後に、桑田君などが簡単に早大大学院を一年で修了するので、英語や第二外国語で上記のレベルまで達成できたのだろうかと不思議に思った。早大は大学院修士課程入試では語学は一つであるが、修了に当たっては二か国語必須となっていた。

彼らが専門書を語学二つで日本語に準じて読んだりするには、通常は3~5年以上かかるはずであるが、たった一年で修了とはどうなっているのかと呆気にとられたことを覚えている。
当時の早大大学院は政治学研究者養成所よりも、英語翻訳者養成所の様相を示していた。ドイツ語やフランス語に置き換えても同様である。一般の授業でも日本語のテキストを使用する先生はまずいなかった。

今は、そうではないのであろう。桑田君や工藤君のような修論優先型が本道とも思う。今が正論で昔が異常だったのである。昔ならば語学二つ以上の壁で泣いたであろう。
名古屋大教授となった愛敬さんは、確か大学時代は英語とドイツ語、Vietnamを専門としたため、大学院時代は英語、フランス語、ベトナム語をしていたと思う。

桑田君や工藤公康君の方が正論と思う。だが、昔はそうではなかったのである。

なお、ドイツ語については清水望先生のことは懐かしい思いでとして残っている。またK君には大変世話になっている。ドイツ語問題では、バイトがないか、若しくは修士論文を専門の部落問題にしていれば、ドイツ語にも対応できたであろう。だが四重苦ではどうしようもない。
ドイツ語問題とは大学院修了要件の方ではない。博士過程入学時のドイツ語試験のことである。修了要件のドイツ語は大学院1年で修了している。私の方は落としてもう一年やり直しをしてもよいと思っていたが、塾の人のアドバイスで一年目で終了させている。
だが、ドイツ語の単位をとっても、博士課程入試を断念するまではドイツ語はやり続けていた。そして苦悩は続いていた。

大学院二年目は四重苦から逃れるため、自然とドイツ語学習量が減り、やがて断念することになる。もし、ドイツ語を一年目でおとしていれば、ドイツ語の学習量が減らず、博士課程を断念していなかったか、それとも断念する時期がずれたであろう。
修士課程には三年在籍をしており、一年目で単位を取得したのが吉か凶か不明である。特に三年目はゼミ以外の授業はなかったため尚サラであった。
更にゼミ同期生4人のうち二人はもう一年自主留年をしてもいる。


《◇―5・修士論文について》
私の当時の専門は部落問題と政治学を合わせたものである。
大学院でも、卒論の延長としておけば、相当目立ったであろう。
すると、大学院の勉学は英語とドイツ語に専念できた。
修士論文は確実に2年で完璧に仕上げられていた。
ゼミ発表も、学友諸君が驚いたかもしれない。

要するに、本来の専門は部落問題を政治学的に分析するであった。
だが、余りに政治学的になりすぎると、当時の政治状況では、こちらをたてればあちらがたたず…という問題があった。
更に、絶対に学生の指導に責任を負うとする教師ならば正直に言うであろう。
「そのテーマは僕はよく知らないので、その種の研究を専門としている教授がいる大学院に移動した方がよい」と。

特に博士課程ならば、当時の早大政治学研究科の教授ならば全員指導が不可能であったであろう。
社会学的視点ならば、ともかく、政治学でも一般論をはずれて具体的な議論となれば、教師たちは全員何も発言しなかったであろう。

当時は博士課程までいくつもりでいたため、テーマをやむをえず、変更して議会にした経緯がある。そこで、一からの研究となり、語学二つ(正確にはドイツ語の方)と並んで参ってしまった。
部落問題をそのまま主題としていれば、研究での苦悩は相当減っていた。
その分語学に力を入れられたであろう。
もっとも、今、考えれば、世界の差別(サーミ人問題、モン族問題、ロマ族問題、人種問題、先住民問題、)…とすれば教師も指導がし易かったかもしれない。当時は思いつかなかった。

部落問題のみで、更に政治的側面で、さらに更に具体的な話となれば、早大の政経学部の教師達はお手上げとなったであろう。
早大へは修士課程ではなく、博士課程まで修了を前提にきただけに、最初は迷ったが、やむを得ないテーマ変更であった。

もっとも、この修士論文作成時に、現在私が唱えている世界連邦の機構枠組みのヒントを得ている。要するに、総会、安保理方式を廃止して、二院制とする。下院は自由委任代表とし、上院は命令委任代表とするという案である。
詳細は日本のフィクサーME・パート3で触れることにする。


《◇―6・バイト問題について》
これは既に記載の通りである。
内田満先生が「浜田君のようにバイトばかりしていては研究はできない」と誰かに言われたそうであるが、全く同感である。
解決策は、2年の所を4年、5年の所を10年かけるしか手はなかった。
所が、催眠誘導か何かで、大学院2年のときに修士課程のみに突如変更した経緯がある。
故郷をでるときには、博士課程まで5~10年のつもりででたのであるが。
この変更は今思えば、催眠型変更であった。
高校のときに、辞めたくなかった柔道部を辞めるようになったのと同様である。
これも今考えると、催眠Controlであった。


最後に、もう一つつけくわて五番目の問題とする。
友達が一切いない地・東京の問題である。
孤独感には従来強いのであるが、高校時代、大学時代と友人が溢れるくらいにいたため、その反動で余計に孤独感を感じたのであろう。


これらは本来、今、記述する内容ではない。特に英語問題は挑発と催眠のみであり、記述する必要はない。同時に単なる慣れの問題でしかない。欧米では、…でも英語を喋るという例えがある。

さらに、重要なのは「今」である。過去の問題を振り返るゆとりはない。
まだ現役であり、現時点が全てである。
過去を振り返るのは、完全に現役を引退したときのみである。
「今」すべきことを無視し、過去の回想をするとは怠慢極まりない。
だが、催眠強要ならばどうしようもない。
過去の力、学力はどうでもよい。
すべて今(2022/04/19 16:47)時点が重要である。
50才で一線を走っている人間が小学校3年頃の学力比較とか解説をするが如く、愚かなること極まりない。


《◇―8・現在の私の専門について》

私の現在の専門は、「演出(プレゼンテーション)」であり、私の今磨いてる能力は演出力である。そして、現時点では世界で希有の存在となりつつある。
私の目指した授業も演出であった。
いまは各種Digitalや各種プレゼンテーション器財・ソフトがあり、それらをオーケストラの指揮者の如く、もしくは映画監督の如く統括する能力である。

英語は専門ではないが、英語の授業とすれば演出であり、私がめざしたものは「セサミストリート」を発展させた作品を世に問うであった。
アシスタントを雇えれば、英語の解説などは彼らが担当しよう。ティームティーチングで解決できる問題でしかない。

私が苦手なのは語学類と言ったが、更に苦手なのが芸術である。
芸術は全く駄目であった。

だが、芸術の一種📷カメラでも、ここまで出来、更に、それを使っての演出となると更にできる。音楽にいたっては、クラッシックはもとより、歌手でもドミンゴさんや三大テノール、ディオン、レディガガ、Beyonceさんなど名前も顔も知らなかった。
だが、世界の歌の演出はできる。
今は、カメラ、音楽、紀行文、政経…とやっている。
もし、駿台でも妨害がなければ政経、日本史は数年後には完全なものになったであろう。若しくは、政経で専門として教え、英語でプレゼンテーション専門で授業を受け持つことも可能であった。受験英語は他の先生に聞いてくれでも、超大手予備校では困ることはない。予備校の原点は儲かればよい、利潤追求にある。

生徒の方も、使い分けが可能である。受験英語はA先生に、基礎やプレゼンテーションを楽しむのは私に、英語の基本はC氏に、人生論はD氏に…と。予備校以外は更にそうである。

しかし、今、おかれている状況はそれ以上の世界である。
プレゼンテーションではなく、本当に、「世界連邦」樹立にむけて…かもしれない。そのようなときに語学の力がどうだ・こうだは滑稽極まりない。
…が語学が本当に鍛えて堪能になれば、僕(私=🤡)がアシスタントに雇ってあげようか、役割分担するから一緒にやろうでしかない。

語学がどうだこうだはもはや馬鹿馬鹿しい。
次元が違う。

私に対する英語問題は単なる催眠や挑発でしかない。何を言ってほしいのかとなる。しつこいというものではない。
英語ができる訳ではないが困っていない。
大学院時代の英語専門の試験も誰もと同様に優である。授業の大半が英語の書物中心であったが特に困っていない。大学院修士課程の試験も早大も同志社も合格している。
何を言ってほしいのであろうか。

発音についてはこれは私のせいではない。
我が家は田舎で貧困である。我が家ではラジオ英会話は受信できないエリアである(NHK第二放送などは受信できない)。林野当たりでは聞こえるそうであるが我が家はそうではない。テレビも買えなかった時期がある。カセット類はソフトを購入する金がない。
耳からの英語をいれる手段がなかった。
その上、学校の教師でも、半分の先生が英語の発音が悪い。
中には「It is a pen」を「イトイズアペン」と読む教師もいた。これは高校時代の話である。これではどこから英語の発音を仕入れるのかとなる。本当の実話である。
塾は付き合いで中二の時に週一回と思うが一年しかいっていない。

後に、都会(西宮市)にでて、ラジオ英語が聞くことが可能となり、アヒルの水かきではあるが徐々に修正されていった。
ということで英語の発音が目立ったというだけのことである。
だが、確かに英語ができるレベルではない。しかし、それは相対的な物と言っても、早大大学院の他の学生が極端にできたようにも思えなかった。そこがドイツ語とは違う。

今は違おう。彼らの何人かは予備校講師などで英語を生業としている。差があって当然である。そうでなければ話にならない。
Bertrand Russellの英語を読んだときにはその文体の見事さに感心したが、大学院時代には何にも感心することはなかった。
それが事実である。当時の学友が英語で生業を建てていれば、現在は違って当たり前である。私は英語屋でなくプレゼンテーション屋である。違っていない方が不思議である。

ラッセルの「History of western philosophy」も楽に読んでいたのを覚えている。挑発で何を言えというのであろうか。
ただし、できるかと言えば、恩師後藤先生などを意識して、「余りできません」という。あるいはMr.Obamaなども意識してそういう。ましてや、バイデン大統領の伴侶・Dr.Jill バイデン宛に英語のメッセージを書いたときは疲れた。アメリカで英語教育で博士号を取得しているのだから。

大学院時代の学友については今は相当彼らはできると思う。大学院を終了してから40年以上経っており、その間予備校などで教えているのだから。

ただし、私自身は博士課程の試験対策でも半年から1年集中すれば大丈夫と計算していた。そこで特に何も困った覚えはない。なお、英語の発音などは大学時代(関学時代)にもESSに入っていた学友(確か部長だったと思う)もおり、また居酒屋・孔雀の娘さんもESSをやっており、早大大学院生とは比較にならぬ英語力を持っていた知人は何にもいた。
そうもう一軒の食堂ではオーストラリアからきたウィリアムス君もいた。会えば、いつも手を大きくあげて「ハマダさ~ん」と言っていた。
発音は先の書いたように今と異なり、我が家では無理であった。耳からの英語が事実上ゼロなのであるから。
汚い英語は訳で弱るがBertrand Russellの英語では余り困らなかった。1976年頃から英語でノートを取りながら読んでいた。とにかくしつこい挑発であきれ返っている。
余りできはしないが、こまってはいなかった。だから早大の大学院に行けたのであろう。

翻訳ではなく、自分で英書を読むときに困っておらず、英語の文献を使用した行政学(渡邊保夫先生)の授業を含めて何もこまっておらず、大学院の試験でも、入試でも困っていない以上とくに記述の必要性のない問題でしかない。その場合には、どの程度出来ようが私の勝手である。挑発がしつこすぎる。逐次翻訳の際には多少面子もあろうが、逐次翻訳ではないときは英語の意味がわかればそれでよい。意味が分かっている以上困ってはいなかった。このしつこい挑発は英語馬鹿と違うか。もう一度だけ記しておく。英語もアクセサリーではない。

恩師・後藤峯雄先生に2000年頃に、英語を本格的にやろうかと思っていますと言ったことがある。後藤先生は「僕は余り賛成しません」と言われていた。


《◇―9・現在の私の専門と結論(2022/04/19 21:30記載)》
昨日の箇所に追記は書かぬと記載していたが、催眠問答で上記を書かされた。特に、大学院時代の英語の箇所である。

大学院時代がどうだ・こうだ、特に英語問題挑発は、50才の人にあなたの小学校3年の時の成績は…と言うが如しである。記載しただけ馬鹿馬鹿しい限りであった。現時点での結論コメントは以下である。

①現役を引退せぬ限り、今が全てである。もっとも語学を中心にやる予定はない。自分の目的での話である。

②研究とは、一般に法則姓の発見や各種処方箋(例えば癌の特効薬)を見つける作業である。日本の学問ではそのヒントが得られない時には海外の書物に頼ることがある。そのために語学が役に立つことがある。だが、語学自体が目的ではない。語学と無関係に発見してもよい。逆に語学に振り回され発見できねば語学の意味はない。

③予備校を含める学校での語学類は、教師の語学力ではなく、生徒・学生の学力が上がることが重要である。教師が英語やドイツ語を十分知らなくても生徒・学生をやる気にさせ、英語・ドイツ語の学力向上を果たせばそれでもよい。また、各種武器(ソフトや機材)を紹介して同様の効果をあげてもよい。学校の教壇を職業としているときに、伸びる必要があるのは教師ではなく、生徒・学生である。いわばコーチ業であり、コーチ業をこなせているかどうかが重要である。

④予備校などでは、生徒を集めることが重要であり、教師の語学力などではない。同時に、出身大学や大学院などはどうでもよい。大学や大学院時代の成績なども無関係である。かつて塾として有名な入江塾・伸学社があったが、塾の運営者入江伸氏は東大卒ではなく、関西大卒であった。

⑤大学院時代がどうだ・こうだとつまらぬ挑発が多いが、それらは現役引退をした人が暇つぶしにすることである。私はまだ現役であり、斯様なことを書くだけ時間を剥奪されたと怒っている。

⑥それでも思い出す必要があるのは、恩を受けたり、借りを作ったりした人などのことである。その逆ではない。現在の挑発は逆さまとなっている。受けた恩や借りだけは忘れてはならぬ。まだ返せぬため忘却をしてはならない。
大学院時代では修論のときに三日間で書き直しの際に世話になった人などのことである。特に大学院時代のK君には何とか借りを返したいと考えているが未だに監禁状態、無収入ではどうしようもない。また、世話になった食堂の人なども同様である。

現在の挑発は本末転倒となっている。
思い出す必要のないことのみを催眠誘導され、借りを作った人への借りを返すのを阻止されている。

2022年4月19日 | カテゴリー : 情報公開 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA