私の逸失利益計算について(駿台講師の事例):同志社法学研究科・早大政治学研究科・関学法学部卒業資料

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私の逸失利益計算について(駿台講師の事例):同志社法学研究科・早大政治学研究科・関学法学部卒業資料


2022/04/18 23:30 下書段階で掲載 23:39修正版掲載  23:52微修正

2022/04/19 2:40 関学関連資料と追記を記載。

2022/04/19 19:39 関学関連の資料を載せて正式公開

 


A【逸失利益計算】

【資料】駿台京都校専任講師 1982年度 B講師(当時20代後半か)は私より若い講師。

駿台予備学校専任講師の年収の一例

駿台予備学校専任講師の年収例修正版

(2022/04/18夜記述)何故か収入はこの1.5倍の部分が欠落。誰がうろたえて。だが?家が無関係なのに何でそんなに関心を?

再度、正式に張り直し。

私は、非常勤講師。

駿台で専任前提の助専任の話が1984年度にあったが、ポリテクカレッジ岡山専任(現・能開大中国)での専任確約があり、その話は進めなかった経緯がある。

もし、ポリテクカレッジ岡山の件(専任各約で同大学校に招聘された)がなければ駿台で専任になっていた。

なお、駿台には定年制がない。

a某講師も80才で勇退である。

α)33才(1985年)~80才(2032年)までの生涯賃金。

β)退職金。

γ(駿台関連の年金―私が受給している国民年金だけ)差額×(80才以降生きている年数)+(60才~死ぬまでに支給される)途中の年金額

δ)賃金以外の部分(出張手当、…)など。

α)+β)+γ+δはいくらか⇒逸失利益該当。

上記のメモをスキャニングするや、?家で??。

まるで鼠小僧の如し。

そして、本日、上記を掲載しようとするや、上記の部分だけ、解説文字がカラーで出ず。

その前に、生ゴミ以外の落ち葉などをゴミ置き場にもっていくと、…の車が監視の如し。

異様であった。

だが、世界は知っている。

ちなみに、上記の金額がとてつもないわけではない。

兵庫県の私の友人が小学校校長の頃、年収が手当を入れ約1千万円であった。

上記のような数値で妨害とは笑止千万である。

ポリテクカレッジ岡山(能開大中国)を病気辞職をするや、明誠学院から専任講師の口があったが、能開大で病気にさせられ断った。

明誠学院の福島先生から電話をしていただいた。

同学校は前身の真備高校時代は、給料は岡山県で一番高いと聞いていた。

また、噂では灘高校よりも賃金などが良いということもきいた。

灘高校の教師は当然、賃金が良いわけがない。

学校の偏差値で給料は決まらない。

国庫助成金、寄附を除けば、学校収入は学生数×(授業料+入学金など)である。

生徒数の少ない灘高校などが賃金が良いとは理論上は思えない。

なお、私は駿台では非常勤講師のため、私の方は所得ではなく年収は上記のb(私より若い専任講師)の半分程度か?

また、まともに金が入ったのは1983~87年のみ。82年は見習いの如きでほとんど金は入っていない。88年1月には辞職となっている。

駿台以外でバイト(駿台以外の大手予備校でも講師)をしようにも、安価な賃金の{労働省所管:雇用能力開発機構運営}ポリテクカレッジ岡山があり(1983年頃は50分2200円程度で交通費は支給なし。ボーナスなし。祝日、夏休みなどは賃金ゼロ円)、できない。それも場所が新倉敷駅となれば…関西方面では難しい。寄生虫のような学校であった。

岡山の予備校は当時は金ではなく、仲の良い職員がおり、その関係で教壇にたっていたが、額はしれている。

なお、私は能開大との賠償交渉をしたときには、逸失利益計算をしただけであり、具体的な賠償額は提示していない。私は口をださないので有識者で決めてくれとしている。

私が逸失利益計算をすると、世間の人がペナルティの額であると言う。

違う。

それは慰謝料の話である。(赤木俊夫氏の場合には多分慰謝料であろう。逸失利益計算は別の角度で感情をいれずに行うものである。)

私は慰謝料の具体的計算は厳密にはしていない。

逸失利益計算はペナルティではなく、科学的数値を指す。

ちなみに、私の演出(プレゼンテーション)能力は全く知らぬ音楽でも、世界の歌などで披露した通りである。しかし、本来は音楽以上に、自分の得意分野ではプレゼンテーションの能力はある。もし、出版妨害や原稿を記す妨害がなく、思い切り能力を生かして出版をしていたならばどうなっただろうか。

今回は長く紛失していた用紙がでてきたため、紹介したに過ぎない。

【その他の資料】

長年、行方不明であったその他の資料も掲載しておく。

【同志社大学大学院法学研究科関連資料】

掲載理由。

何故か、誰かが同志社大学(特に法学部)を私に強調し続けるからである。

あるいは関学と同志社の比較なども。

馬鹿馬鹿しい。

学校はアクセサリーではない。

ただし、重要なことを記しておく。

私は同志社大学の大学院入試は受け、合格したが、関学恩師後藤峯雄先生のアドバイスで、同志社大学ではなく、早大(政治学研究科)に進学している。

また、大学は同志社大学(法学部)ではなく、関西学院大学(法学部)に進学している。

よって、同志社大学には受験以外では行っていない。私が同志社大学法学部に行ったのではない。

同志社大学には合格させていただき、ひたすら感謝をすると同時に、合格させていただいたことから大変好感を持っている大学である。

ちなみに、私は一次募集(秋入試)で合格させていただいたが、前年度の同志社大学大学院法学研究科は一次募集では応募者48名で合格者は1名であった。二次募集が応募者52名で合格者が7名である。

一次募集で合格させていただいた同志社大学に対して、生涯有り難く存じると思います。

なお、私が語学ができるか。

🤷ですわ。

英語は大学入試前にはわずかのみしかしていない。大学院入試前にはかなり勉学したが、力はさほどではない。本格的にしたのは1988~89年度である。だがその後意識不明状態に近い状況が4年続き、忘却をした。

そして1994年から2002年頃にかけて再度英語の勉学をしたが、精神疲弊などで十分ではなかった。それでも大学院の頃よりは遙かに語学力はあった(比較にならぬ)。大学のときは論外である。その後、2002年から2022年の間は語学を離れており、再度忘却をした。そこで、私の一番していた頃の語学力は誰も知らないとなる。

だが、それでも、同志社大学と早大の両大学院には合格をさせていただいている。

なお、国語にいたっては、全く苦手であり、関学は国語抜き(英語、数学ⅠとⅡ、世界史)で受験している。国語は大学を卒業して(より正確には大学院を修了して)から独学をして今日の状況となっている。

国語も主たる勉学は、1994~2002年頃(42才~50才)。更に、英語と異なり、今度は本格的に2006年後半~2011年(2009年を除く)である(54才~59才)。大学の頃はみんなに笑われていた。何故、国語の勉学をしなかったかは拙著『日本のフィクサーME』参照。ブリキの勲章ならぬ形で、故意にやらなかった面もあった。そのツケが後に大変なことになる。それが修士論文である。1980年のことである。そこから国語(現代国語)の勉強をいつかしようと決心していた。大学院を修了してから徐々に、本格的には先の通りである。

(2022年4月19日2:38追記)もし、誰かが我が家へ忍び込み、下記書類を見れば、私(浜田隆政)は同志社大学大学院へ行ったと思うであろう。更に、早とちりをする人ならば、私・浜田隆政は同志社大学法学部に行ったと勘違いをするであろう。特に忍び込んだため大急ぎでみたならばそうなる。

だが、同志社大学法学部に進学したのは、我が村にもおられるが、それは私(浜田隆政)ではない。

最後に一言。同志社大学は大変良い大学であった。大学院入試の際の感想。

校(関学・早大)については別の箇所で記載する。

 

以下、資料。

同志社大学大学院合格通知

同志社大学大学院書類関連

 

同志社大学大学院志願状況

【資料:早大大学院政治学研究科修了証明書】

掲載理由。

早大の某民間同窓会サークルから案内が来るが、修了年が一年常時違っているのである。

何度も相手に伝えたが、いつまで経っても、まだ案内が来るのである。

私を一つ上の誰かと間違えた形で10年以上に亘ってきているため、私の修了年次も明確にしておく。

大学院は一年自主留年をしている(私のゼミ同期生4人全員揃って、自主留年である)

自主留年とは単位は全てとっており、修士論文だけを提出せずに留年する形態である。

もう一年留年したかったが、授業料問題などで、経済問題から大学院修士課程は3年で打ち止めとし、後の一年は大隈図書館通い(また一部の人と学習会の継続)とバイトで東京暮らしであった。なお、留年時代は奨学金は一円もでない。家からの仕送りは随所に記したように一貫してゼロ円である。

早大大学院修了証書-1

 

早大大学院修了証書-2

 

【資料:関西学院大学卒業】

掲載理由。

私が本当に関学を卒業したかという暗示か何かがあった。

卒業している。

今回掲載をしていないのは迷っていたからである。

大学時代の恩師が某大学院入試に際して書いていただいた書類を掲載予定でいた。

ところが、ゼミでの順位が余りに良いので他のゼミ生が不愉快にならないかとふと思ったからである。

内申書に該当するため、「よいしょ」もあると記して掲載を明日する。

ただし、ゼミで必死でやったことは事実である。

教員採用試験も捨てて、卒論などに没頭していた。それは事実だ。

関学の卒業証明証もあるが、証書とことなり、当時の安物変色コピーであり、また、どうせならば恩師・後藤先生の一筆付きを明日にでも掲載する。

恩師・後藤先生には不義理をしていますが、現在は、金欠とコロナ禍で、2020年から今日(2022年4月)まで私は自宅監禁状態である。汽車やバスも関学往復の昨年一度のみである。これ以外には事実上バスや汽車にも1分たりとも乗っていない。全て自転車である。

時間が少しとれれば近況報告だけはしなければならないと思っているが、我が家ではもう息ができないほどほこり・泥が堆積状態なのである。

以下は明日掲載。

上記に従い、2022/04/19 掲載した。

 

後藤先生推薦状-名古屋大大学院法学研究科宛

この文書記述中、突如、突発性難聴の症状発症でここまでで中断。

続きは恩師などへの感謝の期言葉のみ。←催眠記載防止用コメント

(2022/04/19 13:00から記載)
卒論の箇所の「よいしょ」は削除する、当面訂正線を入れている。
訂正理由。
恩師・後藤峯雄先生は性格上、ヨイショはしない。
同時に、卒論作成に当たっては、実態調査への参加、各地の郷土資料館で郷土史を手書きで写して貴重なデータを収録した。西宮、大阪、堺の図書館などでは部落問題(同和問題)コーナーのみならず、郷土史のコーナーで大昔のデータ収録作業をしている。堺市の図書館にも卒論のために何度か脚を運んでいる。

この続きは別ページに掲載する。

(2022/04/19 17:03)

後藤峯雄先生への感謝の言葉を記そうと思うと催眠で暴走しました。暴走した内容は別のペーじへ。

要するに、デカルトの「我(われ)思う故に、我(われ)あり」と異なり、私の場合には「我思わぬのに、我あり」となっており、私の意思で行動を決めることは不可能な時が大半です。

この一語で、私の置かれている状況を理解いただきたく存じます。

読者の方へ。

後藤先生の指導については具体的な資料を基にいつか紹介します。

私が在学中は関学法学部では一番厳しい指導のあったゼミでした。

恐らく、他学部もいれて課題の量が一番多いゼミだったと思います。

(2022/04/19 19:35)

前日、催眠予防でわずかと記載していたが、催眠で次のページ(明日正式公開)の如く、暴走し長い文書となっている。

しかも、内容がよくない。時間の無駄以上のものである。

これでは、HP活動2か月休止しても目的は果たせない。

早めに記載し、予定の諸活動とHP大幅改訂作業に入る。

 

 

 

2022年4月19日 | カテゴリー : 情報公開 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA