日本のフィクサーME・パート3・ 第1章1節:山口県・光市・萩市への旅(部落解放運動分裂模様から世界連邦まで):💁正式公開

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日本のフィクサーME・パート3・第1章1節:山口県・光市・萩市への旅(部落解放運動分裂模様から世界連邦まで):💁正式公開。


【更新履歴】

2021/11/21 1:05 下書掲載

2021/11/21 14:16 参考用ブログ箇所のアドレス添付と微修正。14:25タイトルに下書を追記。 14:32今回の原稿のみはフィクションをいれていない旨を明記。15:16上田拓三氏→上田卓三氏に訂正。

2021/11/22 18:00頃~20:39 清書化作業中

2021/11/23 17:46 写真2枚挿入し正式公開。(本日見直し予定が、起床時10:30頃~17:30まで激しい催眠状態で催眠独り言のため最後の見なしは不可能となった。)

2021/11/29 0:29 タイトル少し変更。構成予定以下。1:06レイアウト

2021/12/13 2:08タイトル名・章と節を変更

日本のフィクサーME・パート3・
第1章1節:山口県・光市・萩市への旅(部落解放運動分裂模様から世界連邦まで)
第1章2節:山口県へ旅(光市)
第1章3節:山口県へ旅(萩市)
第1章4節:?
第1章5節:オジョウの偽者登場


(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成している
(ブログは、通常、一回程度の見直ししかしていない。)
今回の原稿は、この十二回の見直し以前の単なるメモである。
そこで、作品時点では大きく様変わりするであろう。
それを頭に入れて読んでいただきたい。

(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を10パーセント程度いれている。☞今回の原稿のみは肌で感じた事実である。

どこが嘘かは公開できない。善良な第三者に迷惑をかけないための措置である。
総論として、この文書はフィクションとして書いている。

(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。
安らぎ文庫>>6-1・『日本のフィクサーME・下』《『日本のフィクサーME』登場人物の紹介》
http://h-takamasa.com/book-01/custom57.html

◎風景描写→字数の関係で、メモではごく一部を除き風景描写は原則として大きく省略する。

※今回の公開箇所については、(2)について、現時点(2021/11/21 14:30)時点ではこの箇所に故意の嘘はいれていない。




私は高校時代に部落問題研究部に所属していた。
この運動に関係したのは1968年であった。
その頃、部落解放運動は今とは異なり、日本社会党支持者も、日本共産党支持者も、公明党支持者も、民社党支持者も、…すべていた。恐らく、自民党支持者もいたと思われる。
後に部落解放運動が分裂して、部落解放同盟中央本部と部落解放同盟正常化全国連絡会議(1970年6月)が結成される。そして、日本共産党と部落解放同盟の激しい対立が起こる。
しかし、1968年は今の部落解放同盟の人と正常化連{後の全国部落解放運動連合会(全解連)、2005年全国地域人権運動総連合(全国人権連)に「発展的に転換」(改組)}の人が一緒に運動をしていた頃である。
1968年は、私が高校一年生のときであった。

私が高校二年の1969年が木下文書が差別文書か否かを巡って激しい対立が起こる分裂の年であった。
1970年が分裂が決定的になった年である。私が高校三年のときである。
そこで、各種集会で、分裂前と、分裂の最中と、分裂後の三つを高校三年のときに見ることになった。

ここで注意してほしいことは、(リーダーではなく)末端の方の部落解放運動をしている人は、政策や主義主張で二つの対立軸ができたのではない。
たとえが悪いが日本の宗教と同様な側面があった。
日本の宗教では、親が浄土真宗ならば、息子は自動的に浄土真宗となる。真言宗は何を主張しており、天台宗は何を主張しており、曹洞(そうとう)宗は何を主張しているかを知り、どの宗教に帰依するかではない。

部落解放運動も末端で動いている人は同様であった。自分が住んでいる地域のリーダーが誰かにより、所属したり、支持したりするグループが違ってくるように思えた。特に、農村部や田舎ではその傾向は強かったと思う。


具体的な話で記そう。
当時、記憶では、部落解放同盟委員長は朝田善之助氏であった。副委員長は岡映(あきら)氏であった。
岡映氏は朝田善之助氏と寝食を共にしたと聞いたことがある。確か「朝田の善チャン」と呼んでいたこともあったと何かで読んだ気もする。
しかし、岡映氏と朝田善之助氏は対立することになる。
そして岡映氏が除名される。
当時の記憶では、確か、岡映氏だけが除名されるのではなく、部落解放同盟岡山県連そのものが除名されたと思う。

要するに、自分の所属する地域aのリーダーがAグループならば、その地域の活動している人はほぼ全員がAグループとなる。逆にリーダーがBグループならば、ほぼb地域の全員がBグループを支援するという構造である。

末端の層やそのa地域内で一緒に行動している人は、理論面からBを批判してAに所属したのではない。その逆も然(しか)りである。グループが分かれ、その後で、AグループならばAグループのリーダーの見解を聞いて、それを信じるという構造があったように思う。

そこで、自分のいる場所がaでAグループと行動を共にしていても、以前bの地域で行動をしている人と酒を飲んだり、一緒にレクレーションをしたり、深夜遅くまで一緒に討論をしたり、…をしていたときに、aかbかの違いで袂(たもと)を分かつのである。
それでは、この二人が出会ったときには、どう感じるか。昨日まで友人であった。だが、今日からは自分はAグループで行動しており、友人はBグループで行動している。
さあ、貴様は敵だとなるであろうか。
人間の心理はそう単純なものではない。友情や双方の親しい感情は継続しているはずである。
これが分裂直後の印象であった。

もっともリーダーの方が確固たる信念はあったかもしれない。しかし、末端の相当数の人はそうではない。そこでそれに配慮してか、分裂直後は、岡映氏グループならば、部落解放同盟が悪いとは言っていなかった記憶がある。部落解放同盟朝田一派がよくないというように、部落解放同盟全体ではなく、そのごく一部のリーダーだけが問題であると言っていたような記憶がある。
それに呼応して、部落解放同盟の人も、一緒に部落解放運動をしていた別れた人全員ではなく、日本共産党宮本一派が悪い、というように限定していたような記憶がある。
まだ、高校生の頃のため、記憶間違いがあったならばお許し願いたい。

そこで、aの人々とbの人々は、彼らのリーダーとその一部の対立だけが問題であり、後はお互いにいつか再度一緒にやれると思っていた。

私が高校一年のときには部落解放同盟中央の人も、後の部落解放同盟正常化連の人も一緒であり、その下で運動をしている人も一緒であった。そこで、当時の高校生部落問題全国集会などでは一緒に議論をしていた。ときには相当遅くまで会話をしていた。
青春の最中で理想を一緒に語り合っていた。

1968年の集会は総論として、高校生レベルでは和気藹々(わきあいあい)であったと思う。もし、松本龍氏がいきていたならば、彼もこの集会に参加しているはずであり、全体集会があった体育館か、場合のよれば分科会の教室で一緒になっていたはずである。当時、彼は高校2年生、私は高校1年生のことである。

なお、私が高校2年(1969年)のときは高校生全国集会は流れ、(たしか、これも岡山県であったと思うが)臨時の集会があった。まだ分裂前ではあったが、高校生ながら何かケバケバしさを感じていた。この集会であったと思うが、マイクを持ち、誰かが「石川青年の無罪を勝ち取るために」を訴えていた。当時、石川一雄氏は29才か30才の頃であった。


高校三年(1970年)になると、今度は分裂していたため、集会は別別となっていた。しかし、高校一年の頃に一緒に話をした人に敵意をもてる訳がない。
最初の内はこういう感情が双方の間にはあった。(ただし、私の書いた話は、田舎の、それも末端の人間が見て肌で感じたことである。)


ところが、aの中ではAグループの見解を聞き続け、bの中ではBグループの見解を聞き続け、やがてaのほぼ全員とbのほぼ全員が対立的な感情をもっていく。
もっとも都会や相当研究熱心なごく一部の人だけがaの中でもBとかbの中でもAなどは最初からあったかもしれない。
しかし、高校生や、爺(じい)さん・婆(ばあ)さんには分からない場合が多い。


こうして、双方の対立感情が形成されたようにも思えた。
ある意味では国家間の戦争と同様かもしれない。
日米決戦を考えて見よう。
太平洋戦争の最中、日本人はアメリカ人などを鬼畜米兵と呼び、竹槍(たけやり)などで藁(わら)人形を米兵に見立てて突き刺す訓練をしていた。憎きアメリカ人が…と。
だが、太平洋戦争の前には野球などでアメリカと日本は交流をしていた。中には、日本の野球選手でアメリカの野球選手と仲の良い者もいたであろう。ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスなども1934年に来日をしている。

しかし、一端戦争となると、日本に生まれたというだけで、鬼畜米兵、憎きアメリカ人となる。同様に、アメリカに生まれただけで、非道な日本人と敵意を持たされる。
それでは双方は本当に憎しみあっていたのか。
戦争が終わってどうなったであろうか。
再び、日米親睦となっていた。

国家のリーダーは双方、対立をしていたのは事実であろう。
だが末端の国民はそうではなかった。それにも関わらず、双方で敵意を持たされていくのである。日本という領土にいるときは単なる日本の一国民であり、アメリカ人に対して敵意をもっていたのではない。他方、日本国家という組織に自動的に所属し、日本国家という視点から、教育や各種宣伝で、憎きアメリカ人像が形作られていく。
そして、日本国家の政策を是(ぜ)とするように教育されていく。

末端から見るとそうした構造が、あらゆる組織に存在しているように思われる。それが組織と人間である。各人が目的をもち、ある組織に所属すれば良いのであるが、国家のような組織はそうはいかない。

もっとも、自己の意志を貫くとして、二つの動きは一部あった。一つは相手国に亡命するという手段である。もう一つは、自国において、反政府運動をして投獄されるという手段である。
それ以外の一般国民は、自分の考えではなく、与えられた考えをいつのまにか自分の考えと自然と思う傾向がある。


もう一つは身内をかばうという側面が日本では海外以上に強い傾向がある。
これらが、肌で感じた部落解放運動分裂の初期の姿に思えた。
初期を超えて、中期の頃からは私は知らない。少なくとも肌では知らない。

高校時代は部落問題研究部などに所属して、各地を歩いていたため、かなり肌で感じている。
大学に進学してからは、クラブは婦人問題研究部に一時所属したり、大学の自治会再建運動に参加したり、それ以上にバイト三昧(ざんまい)となったため、部落解放運動自体は原則として、帰省したときに限られてきた。それでも、大学4年頃までは、高校部落研夏の集会や、幾つかの高校部落研全国集会には参加していたし、幾つかの実態調査にも参加したり、草の根の子供会活動に参加していたときもあった。


大学を卒業した頃から、将来の進路として、大学教師を目指し、大学院浪人をするなど、部落解放運動そのものからは離れていった。
特に、1976年度などは私の長姉が危篤続き、我が家に一緒に住んでいた伯母も大病、そして私は完全無収入で、通るか否か不明の大学院自宅浪人生であった(両者ともに、私が大学院時代に死亡する)。なお、我が家は父が私が小学校の頃教員を辞めており、収入は厳しい状態にあった。ちなみに、大学時代の家からの最高仕送り額は月1万5000円である。
大学院時代は文字通りゼロ円である。大学院三年や、東京で事実上の大学院四年は奨学金ゼロ、仕送りゼロ円で、生活費も、帰省旅費も、研究費も、その他の緊急用費用も稼がねばならなかった。
こうして、生活問題から、1976年から部落解放運動から離れていった。

大学院に進学した1977年からは、関西から東京に移動して知人がゼロということもあり、部落解放運動そのものからは離れたままとなっていた。そこで、後の草の根の部落解放運動をしている人同士の相互の雰囲気を肌で感じる機会は失われた。
私が見たのは分裂前と分裂の最中と分裂の直後である。そのときの生で感じた雰囲気を書いただけである。


なお、事実上、岡映氏と知り合ったのは1981年度である。私が部落解放運動をしていた頃には、岡山県であった関係で、岡映氏の講演は聴いたことはある。しかし、それは数百人とか千人以上いる聴衆の一人でしかなかった。これらは知り合いとは言わない。

部落解放運動そのものからは疎遠となっていた頃に、私が岡山市に借りていた仮の宿が、岡映氏が勤務をしていた民主会館にたまたま近かったのである。私は安いアパートで車のおけるアパートを不動産屋を通して探していたならば偶然そのアパートになっただけである。
そして、私がアパートの近くで見つけた食堂があり、気に入ってその食堂の常連となっていた。するとその食堂のすぐ近くに民主会館があり、岡映氏もその食堂に何度も食事でこられていたようである。そこで、私は店のママさんから偶然に、岡映氏を紹介されたのに過ぎない。

私が真備高校(当時は女子校、後の明誠学院)で生徒指導で参っていると、ママさんが「先生、生徒のことで悩んでいるならば、私はそういうことをよく知っている人を紹介してあげる」でということで、岡映氏と私の会談の場を設定されただけである。本来は生徒にどう対応するか…という話からの紹介であった。
第一、その食堂のママさんは、私が高校時代などに部落解放運動をしていたのを知らなかったのであるから。いや、2021年現在でも知らないかもしれない。

ママさんのはからいで、岡映氏とは一度座敷で食事をし、その後は二度ほど偶然食堂で出会っただけである。そこで、岡映氏とは部落解放運動そのものの話はしていないのである。
岡映さんから聞いた部落解放運動の話は、高校時代などであり、大勢の聴衆の一人として聞いたにすぎない。岡さんは、岡さんが死ぬまで、私が高校時代に部落問題研究部に所属していたことを知られないかもしれない。

ただし、私が差別反対主義者とか、人権主義者、人道主義者、…などは三度の会話の中で知られたと思う。
岡さんを見て当時肌で感じたのは、日本共産党員で部落問題にも興味をもっている人と、部落解放運動をしていて、その上で共産党という組織に入られている人では温度差があるということである。岡映さんは後者に思えた。

しかし、岡さんとの会談は、私の専門が政治学ということもあり、社会問題を含む一般論であった。大学院時代に、市川房枝氏と一対一で会談したことがあるが、そのときと同様であった。会談時間もほぼ同一か、岡さんとの方が少し長いかという程度である。

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徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5666

徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

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徒然なるままに№3・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5702

徒然なるままに№3・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)

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もう一度、最初の問いに戻しましょう。
日本人はアメリカ人が憎いのでしょうか。
憎くない。
それでは何故戦争をしたのでしょうか。

部落解放運動を巡る対立も、末端の人の対立は、同様の気がしたのです。
部落解放同盟の末端の人は正常化連の一般の人が憎いのでしょうか。
正常化連の末端の人は部落解放同盟の同盟員が憎いのでしょうか。
同じ差別に遭(あ)い、同じような生活をしていて。
上の人、リーダーについては、私は知りません。
国で言えば、政治家のトップ同士のことは、昔は知りませんでした。(日本のフィクサーMEとなってからは別ですが。)
だが一般国民はどうでしょうか。

部落解放運動ではなく、一国の話に戻しましょう。
一般国民が戦争中にアメリカが憎いと思ったのは、そう思うように、教育や宣伝をうけたからでしょう。
一般国民がアメリカ国民が憎くて、アメリカを敵視する人をリーダーに選んだのではないのです。少なくとも、当初は。
これが私がテーマの一つとしたかった組織と人間です。
アメリカのイラク侵攻がありました。
しかし、一般のアメリカ人は、普通のイラク人が憎いのでしょうか。
その逆も然(しか)りです。
憎いように教育や宣伝を受けてそうなる場合はあります。
元来はそうでしょう。
リーダーは違います。
それではリーダーだけで戦争をすればよいのではないでしょうか。
リーダーは言うでしょう。
「無視すると大変なことになる。」

それは一部は事実です。
しかし、日米戦争を振り返ると…。
戦争が終わり、日米で仲良くできるならば何でとなるのですが。

この解決策は、世界連邦しかないと私は考えています。
無法を働いた人は、その人だけを世界連邦と世界統一軍で処罰する。
ユートピアでしょうか。
アメリカの某州の権力者が問題があるからといって、その州全部の住民を殺害するでしょうか。
犯罪者だけを処罰します。
もっとも、日本の戦国時代や、アメリカの西部劇の時代ではそうではなかったでしょう。
ネィティブアメリカ人の一部の部族を根こそぎにとか、一部の地域の白人全部を対象にとか…。
それが組織と人間のジレンマとなっていました。
今は統一政府ができ、部族全部ではなく、犯罪者だけを対象とします。
それが可能なのは連邦政府とアメリカ軍やアメリカの警察機構の存在です。
日本でも同様です。
日本の場合には軍備や武力の独占も国家がしています。
この枠組みを世界に広げて初めて組織と人間のジレンマの中の大きな一つが解決するでしょう。


しかし、下っ端の人が考えても、主張しても、物事は動きません。
リーダーがそう考えないと物事は動きません。
その前に国民が本物のリーダーそのものを本当に選べなければなりません。それを可能とする方策を政治学者が生み出さないと無理です。ルソーは全体意志ではなく、一般意志を考えましたが、それを具体化する制度はまだできていません。
ところで、国際的枠組みではどういう理論と制度でしょうか。
それが日本のフィクサーME・パート3の世界です。


同じ理屈が部落解放運動にも言える部分があるかもしれません。
私に自由ができれば、もし、対立している双方が望むならば、調停案を研究する用意はあります。

私は、下記の如く、党派中立・宗派中立となり、間もなく40年になろうとしています。しかも、一貫して、差別反対主義者です。そこで、客観的な形で調停案をだせますが、その案を参考にするか否かは、各組織及び個人の自由です。それでも、そうした調停案を望む雰囲気がある程度あってから、そうした作業を検討します。


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浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=29431

浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道

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さて、日本のフィクサーME・パート3の第1章の中の萩(はぎ)の旅について記しましょう。
この旅には幾つかの目的がありました。
その中の一つが、組織と人間です。
先の部落解放運動を例にとりましょう。
部落解放運動の中での通常の人(俗に言う末端の人)については先に論じました。それではリーダーはどうなのでしょうか。
先日迄(まで)一緒に寝食を共にしていて、突如、…で、と。
人間とは何なのでしょうか。

クリックで拡大。

萩の旅ー2014年4月4日

 

具体的な話を書きましょう。
部落解放運動のメッカに近かった大阪府の話です。
分裂前の大阪府のリーダーは四つの層からなっていたのではないかと想像しています。
一つがソビエト派です。
一つが中国派です。
一つが日本共産党派です。
一つがその他です。

この中で、部落解放同盟の委員長となったのが、上田卓三氏(部落解放同盟委員長1996年 – 1998年)です。彼は一定の時期までは日本の声なる組織に関係していたという噂(うわさ)をきいたことがあります。「日本の声」なる組織は、ソビエト派という噂を聞いたことがあります。
当然、上田氏は日本共産党の人と激しく対立したようです。
後には上田氏は日本社会党員となられ、一時は日本社会党の副委員長の要職につかれたとWikipediaには書かれています。
ところで、先の「日本の声」創始者と言ってもよいのが志賀義雄氏です。この志賀義雄氏が生まれたのが萩なのです。
この志賀義雄氏も上田卓三氏も共に最初は日本共産党員であったと聞いています。
なお、志賀義雄氏 (しが よしお、1901年(明治34年)1月12日 – 1989年(平成元年)3月6日)が共産党を除名された頃(1964年頃)の、共産党のトップが野坂参三氏(日本共産党議長=1958~1982年)だったと思います。
この野坂参三氏(のさか さんぞう、1892年〈明治25年〉3月30日 – 1993年〈平成5年〉11月14日)も萩市うまれです。

ところで、野坂参三氏も共産党を除名されます(1993年)。そのときの共産党のトップが宮本顕治氏(みやもと けんじ、1908年10月17日 – 2007年7月18日)です。宮本顕治氏(日本共産党議長=1982~1997年)は同じく、山口県の光市生まれです。
そこで、トップ層における人間と組織についての臭いを感じる旅が日本のフィクサーME・パート3の最初の旅・山口県への旅でした。


同時に、トップと末端にいる人達の関係も常時模索し続けての旅でした。


ただし、日本のフィクサーME・パート3の主題は、組織と人間の典型例である戦争です。してその解決策として、私が提唱している世界連邦と世界統一軍の話が中心となります。他の人でも同様に世界連邦を唱えている人がいましょう。違いは、私は世界のリーダーが動き始めてから約4年でそれを実現できるというプランを持っていたことです。
具体的には、今の世界情勢では夢物語となった、米中露の歩み寄りと、その三人のリーダーに国連創設時の、チャーチル、ルーズベルト、スターリンと同様となってもらうことでした。
それが後に登場する訪米への旅の動機の一つとなります。


第1章の中心は組織と人間でも、日本国家と韓国国家・北朝鮮国家の問題などです。今の韓国と日本との対立を「組織と人間」というテーマに照らせば何か見えてくるかもしれません。
それが安重根と対比をなす伊藤博文の足跡を追う旅でした。
伊藤博文は山口県光市で生まれ、山口県萩市で修行を積んだ人です。そこで、山口県萩市・光市の旅を行ったのです。
なお、この旅では光市の松岡洋右の足跡を追うことも考えていましたが、諸妨害などで未遂に終わりました。もし私に金と自由が戻れば、松岡洋右氏とヒトラーの関係を調べて見たいと考えています。
また、昭和天皇が何故、松岡洋右を嫌っていたのかも調べて見る必要があるかもしれません。
それらを調べることは、総理大臣の靖国参拝に一考を与えるかもしれないからです。調査前のため、詳細は、不明です。
真偽不明ですが、昭和天皇は松岡洋右氏をヒトラーのスパイと疑ったという噂を聞いたことがあります。他方、私はヒトラーの本の中で、ヒトラーが日本にスパイをつくりたいと書いた文章を読んだ覚えがあります。再度言えば、調査前で真偽不明の情報にすぎません。

なお、部落解放運動の問題を最初に書いたのは、私の40年近い危害の原因が部落問題にあると、数年前から臭わされているからである。当初は「ちんぷんかんぷん」でした。
2012年に亡き友人(弁護士で、東大…の人脈を多数持っていた人物)が、私の長年の被害は「人間違いが原因」と言いきった謎もあります。
誰との人間違いかは現時点では不明です。
人間違いを解く鍵が部落問題かもしれません。
部落問題に関しては、私は差別反対主義者であり、部落差別…とは真逆です。
また、駿合予備校(実際には駿台予備学校)講師を辞める直前の1987年晩秋に、差別文書を渡された謎もあります。
何かおかしいのです。

同時に、人間違いというか偽者を最初に臭わされた旅が2014年4月の山口県への旅でもありました。
それらも徐々に日本のフィクサーME・Part-3で語っていきましょう。

なお、日本の政治風土のせいか、社会主義思想や共産党関連は多くの人材を世に輩出しています。
例えば、読売新聞社長の渡邊恒雄氏が元日本共産党東大の細胞長、日本の本物のフィクサーであった田中清玄氏(現在の早大総長田中愛治氏の父)、更に先に記した部落解放同盟委員長であった朝田善之助氏などなどです。その他、超大物の情報も知っていますが本人が記すまで書くのは遠慮しましょう。
また、社会主義思想とすれば「内閣総理大臣を務めた近衛文麿と岸信介は学生時代に社会主義に傾倒するも、その後は反共主義的な政治家となった」(※1)とも言われています。

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(※1)Wikipedia「転向」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%90%91
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しかし、これから紹介する萩市は、合併を繰りかえしても、現在人口46000人の小さな街にも拘(かか)わらず、社会主義思想関連や共産党以上にあれほどの人材を輩出したのは何故でしょうか。その問いも求めての山口への旅でした。

【萩市出身の主な著名人】
桂太郎 – 政治家、軍人、第11・13・15代内閣総理大臣
木戸孝允(桂小五郎)
久坂玄瑞
高杉晋作
田中義一 – 政治家、軍人、第26代内閣総理大臣
山縣有朋 – 政治家、軍人、第3・9代内閣総理大臣
吉田松陰
佐久間左馬太 – 台湾総督
河村建夫 – 政治家、衆議院議員、元内閣官房長官、元文部科学大臣
志賀義雄 – 政治家、革命家、元日本共産党衆議院議員
野坂参三 – 政治家、革命家、元日本共産党議長、元参議院議員

また、萩にある小さな学校、松下村塾からは「…久坂玄瑞…高杉晋作…伊藤博文、山縣有朋…」と続きます。
関係した人物には桂小五郎(後の木戸孝允)や乃木希典がいます。
松下村塾は田舎の小さな学校(一学年50人程度とも聞いています)が、あれだけの人材を何故輩出できたのでしょうか。
萩の松下村塾と言い、大阪の適塾と言い、学校とは何かを別の面から考察したいと考えています。それも萩に言った理由でした。そして、翌2015年には「学校」を問い、大阪の適塾を再訪することになります。

松下村塾:2014年4月4日撮影

(2021/11/21 14:11追記: 2021/11/22 20:37 微修正)

「自己主張・隠さない・卑屈にならない・来るものは拒まず NHK ハートネットTV バリバラ」を見て、更に、差別に反対する人が党派・宗派を問わずに手を繋ぐ必要があることを痛感するようになっています。