徒然なるままに№3・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)

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(五)日本のガンジー、キング牧師版の岡映(あきら)氏

 岡さんは、大変、きさくな方であった。そして大変丁寧(ていねい)な人であった。ただし、大変失礼ながら、金には余り縁がないようであった。
 というのも、その頃はまだ部落解放同盟と岡さんが中心となっている全国部落解放連合会{現在の全国地域人権運動総連合(略称:全国人権連)}が激しい対立をしていたにも拘(かか)わらず、何度も長距離バスの中で岡さんが一人で乗ってこられたのを目撃したからである。
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 通常は身辺警護をつける。だがつけておられなかった。さらに、通常は岡山の津山あたりから大阪に行くときは自家用車で誰かがお送りする。だが、高速バスに大きな体を小さくして一人座られていた。一度は満員で補助椅子にすわられていた(数時間も)。私が見たときにはいつも、自家用車ではなく、通常のバスで遠方まで一人で行かれていた。
 この店で食事をされるときも大変質素な食事をされていた。私との飲み食い(会談)のときは、まだ駿台予備学校の教壇に立つ前であったにも拘(かか)わらず、高校非常勤講師であった私が支払いをしたくらいである。
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 とにかく、私が何度も見た岡さんは、知名度の高い人の中で、これほど金と縁のないひとは珍しいのではないかと思った人であった。なお、老いてからは老人ホームにはいられたそうであるが、市営か何かの通常の老人ホームであったと思う。
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 噂(うわさ)では豪快な人と聞いていたが、実際にお会いするととにかく、大変丁寧(ていねい)で、低姿勢な方で、大変きさくな方であった。私が見た限り、お金問題は潔癖な方としか思えなかった。
 もしそうでなければ、あの大きな体で、津山あたりから大阪まで3時間余り、当時は混んでいたバスに乗って何度も行かれるであろうか岡山へ行かれるときも片道2時間のバスであった。しかも、あれだけ激しい部落解放運動を巡る対立状況の中で、私が見たときはいつも護衛もつけずに一人でバスに乗ってこられた。
 なお、私は、党派中立・宗派中立となってからも公正・公平、ガラス張り行政を主張しているが、岡さんも同様な立場と聞いている。
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 後に岡さんが病気をされたときに、ママさんから見舞いの誘いを受けたが超多忙なため不義理をしたことを今でも悔やんでいる。

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 ところで、駿台の職場で様々な犯罪被害や営業妨害被害をうけたことがある。しかしながら、そのときは元より、私は駿台・近所・早大大学院などでも、当時は岡さんのオの字も口にしたことはない。
 勿論(もちろん)、駿台への内容証明・抗議文・会談(1987年~88年)でも岡さんの名前は一切出していない。駿台の件で岡さんに何一つ相談もしていない。また、相談しても、岡さんは私への弁護士紹介程度しかされなかったであろう。「僕が良い弁護士を知っているから相談しなさい」程度であったと思われる。
 駿台時代に意味不明であるが、差別文書ともとれる文書を手渡されたとき(1987年)に、もし岡さんに相談できていたとしても、動かれなかったと思う。この種の文書問題で、岡さんが指導されていた団体は糾弾闘争はされない団体だったからである。(※注1)
 糾弾闘争が必要か否かという論議ではなく、現実問題として、岡さんが指導されていた団体は1980年頃でも糾弾闘争を否定されているグループと思われるため、何もされていなかった。
 岡さんには駿台の件では何も相談しなかったが、もし相談していても、何もされないと思う。よって、駿台時代におかしな文書を手渡されたが(※2)、その相談を万一していても、何も変化はなかった。駿台は金があるのだから、そのような情報は簡単に入手できたはずである。にも拘(かか)わらず……である。ただし、私への営業妨害については、「いい弁護士を紹介してあげる」程度は言っていただけたかもしれない。それだけのことである。なお、先の差別文書ともとれる文書については、岡さんにも、駿台にも一言も相談していないし、できる状態ではなかった。拙著『閉じた窓にも日は昇る』(2016年電子書籍で発売予定)参照。

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 再度記せば、私が岡さんの講演を聴いていた頃は、岡さんとは知り合いではない。私が知り合いとなったのは、私が党派中立・宗派中立の道を歩みかけた頃である。そして、今や、三十年以上党派中立・宗派中立の立場を貫いている。その理由は拙著『旅に心を求めて・不条理編(上)』の第2章に記している。
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 一定の組織に属していれば正当防衛という名の下で暴力対立に巻き込まれる危険があり、私は個人的に恨みもない人と争いたくはない。私の主義に反する。
 さらに、拙著『閉じた窓にも日は昇る』で記す、駿台予備校時代に拉致未遂などの刑事犯罪被害に遭遇(そううぐう)したが、弁護士により門前払いをされたことがある。そのときの弁護士も共産党から立候補していたときがあり、刑事犯罪に共産党なども加担したかと疑ったときもあり、党派中立宗派中立はその頃からより徹底し始めたといういきさつがある(一九八七年の弁護士の件などは勘違いであったかどうかは、現時点ではまだ十分に解明できていない)。だが、根源には組織に属すると、自分の意思で物事をきめられぬときがあると思い出した大学紛争が土台にある。
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(※注1)この全解連が発展的に改組した全国地域人権運動総連合(略称:全国人権連)
「……略称、全国人権連。全人連と略される場合もある。日本共産党系列。1970年に部落解放同盟から追放される形で分裂した部落解放正常化全国連絡会議(正常化連)の後身として1976年に結成した全国部落解放運動連合会を2004年に改組した。被差別部落への恐怖や憎悪や偏見を助長するものとして糾弾闘争を批判……」(ウィキペデイアより抜粋)
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(※注2)自作自演的挑発に関しては、拙著公式Blog・15-094・「我、死しても自由は死せず(重要)」=2015年11月12日に記した通りである。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=3925
 この種の問題での糾弾闘争をしない団体のため、自作自演の動機がない。勿論、先のBlogに掲載したように、このおかしな文書は私の筆跡とは異なる。また、駿台内でモニターがあるし、私に終始誰かが尾行したりしていたため、私に不法行為をしていた人間は、私が他人に依頼していないことも百も承知のはずである。その前に、私も岡氏も自作自演類を批判する立場である。逆である。
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(六)機構との交渉で岡さんに立会人依頼をいっとき考えた理由。

 旧労働省管轄・雇用能力開発機構(以下「機構」と略す。当時五千人の職員を抱え、予算は国連の一般会計よりも上の特殊法人[後の独立行政法人])運営の大学校で労基法違反被害に遭遇(そうぐう)した後始末問題で、交渉の立会人を岡さんかU先生にお願いしようかと考えたことがある。
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 それはこの大学校の労基法違反の相談を、同大学校校長にするため、校長のアポイントメントをとり、指定された時間に指定された場所にいくと、ドタキャンをされ、校長のかわりに労基法違反をしていた張本人がでてくるなど無茶苦茶な対応をされたからである
 その上に、「機構」は当時五千人の職員を抱え、機構の理事長は労働省の天下りとなっていた。労働省には救済文書をだしたがなしのつぶてでもあった。そこで、そうした交渉になれている岡さんかU先生に立会人をお願いしようと考えたときはあった。1998年のことである。だが、岡さんは足がお悪いとのことであった。U先生は「浜田、僕はもう駄目だ。癌(がん)だ。見舞いをもってきてくれ」であった。
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 結局、岡さんには相談すらできなかった。当然、短大の労基法違反の話も一切できなかったし、短大の件も言えずじまいであった。なお、2006年までには、両者ともに逝去された。
 ちなみに、岡さんは、公正公平な行政・ガラス張り行政を主張されていることは機構や労働省も簡単に調べられるし・調べていると思うその前に、岡さんが病気のため、相談は完全に自粛(じしゅく)してしていない。
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 よって、岡さんを通しての「機構」への圧力類は最初から最後まで存在していない。
 だが、私の知人類では岡さんはもっとも圧力とは無縁の人物であることは、もはや誰の目にも明らかであろう。私の知人類の全体像を見ればもう誰も何もかも分ったであろう。
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 実際、2000年には早大大学院政治学研究科の先輩に当たる小渕元総理に、2004年には小泉純一郎元総理に、2010年には(市川房枝氏との関連で)菅直人元総理に救済依頼文書を送付している。それ以外にも、土井たか子、筑紫哲也、不破哲三、岡田克也、公明党委員長二人、朝日新聞・読売新聞……圧力云々(うんぬん)を臭わすならば、岡さんよりは小渕・小泉・菅直人元総理の方であろうとなる。だが、全員動かなかったのではないかと思う(少なくとも、私の置かれている状況は改善されていない)。なお、これらの手紙にははっきりと、私が党派中立・宗派中立を貫くと記述しており、その誓約からも、私は党派中立・宗派中立を貫かなければならない。もう、党派中立・宗派中立35周年記念くらいとなる。
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(七)岡さんと会談で印象に残った言葉。

①新左翼系学生か何かのヘルメット集団に囲まれたとき、ひとりきりの岡さんが言った言葉。
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★☆『閉じた窓にも日は昇る』(宝島社送付版・結局未出版)から抜粋★☆
 最後に、(岡山県などではカリスマ的な人物であった)部落解放運動の巨星・岡映氏が、私と付録―1に記した二人だけの酒の席で、私に語った逸話を記す。もう、亡くなられたため、御迷惑にはならないであろう。
 「浜田君、私が集会に行くとき、ヘルメットをかぶった学生に囲まれ困ったことがあった。私が行かねば集会は開けぬ。そこで、私は彼らに言った。『岡が頭を下げて頼みます。どうしても、私は集会に行かねばならない。ひとつ、そこを通してもらえぬか』、と。すると、彼らのリーダーが言った。『全員、どけ』、と。」
 解放運動の対立が最も激しい頃のことであった。岡さんの人柄と、過去の苦しみが体及び顔に染み込んでいたためでもあろう。いつの日にか、差別を憎む人達が、手を取り合う日は来るであろう。 (以上二〇一〇年四月記述)。
★☆『閉じた窓にも日は昇る』(宝島社送付版・結局未出版)から抜粋終了★☆
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 この箇所への追記を今回記す。上記は岡さんの人柄である。しかし、岡さんは暴力に対して否定されていた。私は岡さん同様か、それ以上に暴力で物を解決しようとする勢力を批判している。だが、私の知人にもそうした人がいるではないか、について簡単に解説をする。
 私は暴力団・(新左翼学生を含む)暴力主義者の否定派である。だが、暴力団員が暴力団から脱会をし、かたぎになり、暴力とは無縁の世界に入れば、通常のおつきあいをする。新左翼という名の暴力集団でも、彼らがその組織を抜け、今後一切暴力には関わり合わないと言い、それを実践しているならば通常につきあうし、ときには友達ともなれるであろう。ただそれだけのことである。
 差別的な言動をした人とでも、自己批判をし、以降そうした態度をとらないならば、友達ともなれるであろう。それが民主主義社会において不可欠なことでもある

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②第33回総選挙に出馬した岡さんが、第35回総選挙では当選したはずにもかかわらず、立候補されなかった理由。
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  第32回衆議院選挙までは、共産党は岡山一区での得票は7千票から1万数千票の間であった。岡さんが立候補するや岡山県下の知名度で、約三倍の3万3千票をえる。このときの最下位当選者は亀山孝一 (72才、自由民主党・前)54,736票 であった。その後、岡さんの後を受けた則武真一氏が、第34回衆議院議員総選挙 (1976年執行)で次点、その次の第35回衆議院議員総選挙(1979年執行)で当選となる。
 もし、岡さんが連続出馬していたならば、当時の共産党の伸び率を考えれば、岡さんが衆議院選挙で当選していたであろう。
 1981年に、岡さんとの会談で、政治学専門の私は、なぜ岡さんが連続立候補されなかったのかを聞いてみた。すると岡さんの回答は次のようなものであった。
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 「浜田君……宮本(顕治)同士から東京に呼ばれた。そして、宮本同士が次のように言ったんだ。
 『岡同士、次の選挙では他の同士に譲ってもらえないか。岡山一区から立候補できる人間はいくらでもいる。しかし、部落解放運動の危機的な状況で、この問題を解決できるのは岡同士しかいない。……』
 浜田君、そこで、私は立候補するのは辞めたんだ」、であった。
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 今の国会議員ならば、自分ありきである。だが、岡さんは違っていた。全く議員に未練を持たれていなかった。そのときの口ぶりからこれは間違いないと思う。なお、部落解放同盟の事実上の分裂が1969年である。同和対策特別措置法が施行されたのも1969年である。確かに、重要な時期であった。(ウィキペデイアの表記によると)八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)が起こったのは1974年である。
 なお、同士という呼び名に、今の若い人は奇異な感じを持つであろう。私世代ですら、宮本同士とか岡同士という言葉を聞き、驚いたくらいである。
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 ところで岡さんが、未練をもたれているとすれば議員などではなくドイツ語の方であった。確か、岡さんが、次のようなことを言われた記憶がある。
 「浜田君、わたしゃ、ドイツ語の勉強を独学でもよいのでしたいときがあった。だが、ご覧のように、活動で多忙でできなかった」と言われたような記憶がある。
 私は党派中立・宗派中立の立場を三十年以上とっているが、岡さんとの出会いと思い出として、徒然(つれづれ)なるままに№2と№3を記した次第である。
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 なお、岡さんとの会話は、民主会館に呼ばれて食事代の返礼として蔵書をいただいたとき(数分間)以外は、すべてこの店の中である。二時間程度の会食(会談)のときも、この店の座敷であり、重要な話の場合には他人に聞かれる危険性があるため、人に聞かれて困るような会談はしていない。
要するに、食堂で知り合った知人でしかない。当時の私の高柳アパートとこの店と岡さんが勤務されていた場所がすぐ近くだったため偶然お会いする機会が増えただけである。全て自転車どころか歩いても数分の場所であった。
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 ちなみに、高校時代から部落研活動をしていた関係で、岡さんの講演はよく聴いていたが、当然、岡さんは私の顔を知る訳はない。そこで、一九八一年頃の岡さんとの出会いと、高校時代(一九六八~七一年)に岡さんの講演を聴いた時との連続性はない。要するに、私と岡さんの両方が行きつけの食堂のママさんの紹介による、高校時代とは無関係の出会いでしかない
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 再度、重要なことを記す。私の雇用能力開発機構との賠償交渉などは、岡さんに相談していないが、万一相談していたとしても、賠償に関して上乗せは一切ない。何故ならば、岡さんが指導していた全解連(現在の全国人権連)はお金に潔癖であることを方針とし、この団体と友好関係にある日本共産党もお金には潔癖なようである。だが、私はもっと潔癖である。勿論、全解連、全国人権連で自作自演劇をした人のことはきいたこともない。理由は公正・公平な予算配分とガラス張り行政を主張し、糾弾闘争も否定しているため、その種の行動の動機がないからである。
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(八)その後の各種挑発について。(私への疑問は立会人・S元市議を通じての原則を守るように。)
 
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 なお、昨日(2016年3月15日)、私が本当に三十年余り党派中立・宗派中立の道にあるということは嘘(うそ)ではないかという挑発があった。
 K君に「選挙でA候補者をお願い……」と言ったことがあったであろう、と。(いつのことか忘れたが)私はお願いしていない。A候補者については知らないし、顔も名前も覚えてもいない。
 U先生からK君とコンタクトがあるようだから、伝えてくれ、同時にK君夫妻がどうするか分かれば教えてくれと伝言された内容だけを伝えただけである。U先生はK君の高校時代の担任であり、双方で一定の関係がある。なお、私はK君とは高校時代の同級生ではあるが、何故、その頃K君とコンタクトがあったのかも全く覚えていない。
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 ちなみに、A候補者以外でも、Bさんが、今度の選挙では「平沼赳夫をよろしくと、おかあさんに伝えてほしい」と言われたときには、その通りに伝えている。それだけのことである。ちなみに、私は党派中立のため(私が)平沼さんをよろしくとは言っていない。 「Bさんが、お母さんの留守中に来て、『平沼赳夫をよろしくと、おかあさんに伝えてほしい』と言われていた」と母に伝えただけである。平沼さんの実名をだしてA候補者の実名を出さないのは名前も顔も覚えていないからである。当然、性格なども全く知らない。要するにA候補者については一切何も知らない。これは事実である。そこで実名を書けないだけである。
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 しかし、1999年から一連の救済文書を、小渕・小泉純一郎・菅直人元総理始め、政界や政府の要人にだしてからは、更に明白に党派中立を貫くことにしている。それでもBさんのその種の伝言は、手紙を預かるのと同様な形でその通りの伝言だけを母にした。
 また、党派中立をしてから、私自身は各政党の候補者に選挙でよろしくと言われたときには次のことしか応えていない。
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 「私は党派中立・宗派中立宣言を文書でしているため、私はそれを実行しています。ただし、選挙活動は重要であり、それ抜きでは議会制民主主義は崩壊します。だから、どの政党・候補者の方にも、選挙では全力を尽くしていただきたい。
 同時に、どの政党の候補者にも、御健闘をお祈りしますと同一のことしか言っていません。ですから、あなたにも、同一のことを言います。(選挙運動での)御健闘をお祈りします。なお、営業ビラは困りますが、どの後援会・どの政党でも、政策ビラやチラシなどは遠慮なく、我が家のポストに入れていただいて結構です」と回答している。
 特に1999年からは徹底しているが、今後も、徹底して党派中立・宗派中立を貫く予定でいる。なお、1990年から93年は鬱(うつ)病を激しくした状態で脳が機能していなかった時期のため、その時期ならば対応は下手であったかもしれないが、その時期でも党派中立・宗派中立の道に入っていることは事実である。K君の件はいつのことか覚えていないため、これ以上は書くことはできない。
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 恐らく、U先生は勘違いをされていたのであろう。ちなみに、私が党派中立・宗派中立をするやいなや、即座にその趣旨を年賀状や住居変更通知の如(ごと)く、親戚・近所・友人などに知らせる義務も必要もない。K君の件は何年のことかが分からないと詳細には書けないが、本来、書く義務は当然ないのでもある。
 また、K君とは本来余りつきあいはなく、その頃どうしてK君とコンタクトをとっていたのかも覚えていない。また、K君とその頃連絡をしたことがあったのをU先生が何故(なぜ)知っていたのかも不明である。さらに、私の親友や相当仲のよい人物(高校時代のU先生のクラスに限定しても、同じ選挙区で十人程度いる)へのその趣旨の伝言がなかったのも不思議である。これ以上記すと私の投稿物の品位・品質を落とすためここまでとする
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 その後も、諸挑発で、多くの返答要求項目を、興味本位で出されているようである。一々それに応じていたならば、再就職準備も作品作成もできずに、私は餓死する。さらに、私は公人ではなく私人である。本来、どの組織に所属しているかも、どの政党を応援しているかも、書く義務は一切ないのである。それどころか、どうであろうとも、私人である以上、私の自由でもある。しかし、事実は三〇年余り党派中立・宗派中立である。
 なお、私への疑問類に関しては、2015年7月21日に記した「公式Blog65・私への質問事項は立会人を通じて正々堂々と文書で問い合わせよ」(※2)のルールを守っていただきたい。立会人(地元のS元市議)を通じてとは、各人が好奇心のまま挑発問答をするという、営業妨害被害を防ぐために不可欠な状態を意味する。質問数の制限と、私の人権を守る上で客観的に回答必要かどうかの精査のためである。更に、私人状態にある以上、私人としての人権を維持するためでもある。
(※注2)「公式Blog65・私への質問事項は立会人を通じて正々堂々と文書で問い合わせよ」
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1678

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 【2016年3月17日追記】本来、徒然なるままに№1と同様に軽快に記す予定でいた。しかし、今回は挑発が多く、文章が大変乱れているため、岡さんの思い出はいつの日か再度記すかもしれない。そのときは多くの人の心に残るように、さらには現代史の記録として記せることを願っている今回も諸妨害で投稿物のコンテンツを劣化させられ残念である。