Blog15-094・ 我、死しても自由は死せず(重要)

このエントリーをはてなブックマークに追加

 

11月9日に(大物政治家T氏)の挑発とも解釈できる事項があったため、解説をしておく。

 

(1)一般論

私は大学時代に、「大学の構内に、武闘兵器に該当するものを持参する行為は問題が多い。特別の法律をつくらなくても犯罪に該当する」「大学内で、主義主張をかざしての暴力行為には反対と明白に言い切った。暴力団の死闘と本質において差異はない」と一環して主張した。それらの結果、大学内を歩くことが困難となった。関学時代のことである。それもあり、大学院は関学以外とした経緯がある。結局、早大政治学研究科となった。

 

次に、1998年以降、私が次の主張を声高にすればするほど、脅しに近い脅迫を受けている。主張とは以下の通りである。
「税金の絡んだ事業類はガラス張りにせよ。(例えば道路建設、体育館建設、橋の建設)。領収書類はすべて、インタネットで全面公開し、金の流れを明白にせよ。同時に誰でも閲覧できるようにせよ。

            
 もう一つは、弱者救済は、理由の如何(いかん)・場所を問わず、緊急度の強い順にせよ。援助を必要としている人の順番にせよ。東北大震災も含めて例外なしに緊急度の強い順番にせよ。」これを主張するととにかく圧力が凄(すご)い。
 詳細は後日、明白にする。大学時代の主張同様に、私が上記を言い続けると被害のオンパレードである。だが、言い続けなければならない

 

 

(2)自作自演劇なるものの挑発に関して。
次に、大物政治家・T氏の「自作自演」的挑発に回答する。
駿台予備学校講師時代に、あらゆる営業妨害を受けた。同時に駿台外では拉致未遂事件に遭遇した(ただし駿台外については駿台は無縁かもしれない。私には現時点でも分からない)。それらはいずれ詳細に記す。
なお、そのときに、某学生らしき人物から差別文書を渡された。その処理に困ったことがある。この件をさしてT氏が言われたならば、以下の事実関係を読み、その上で、徹底解明を望む物である。

 

①この差別文書については、当時、超多忙のため、また私自身が上記の刑事犯罪被害のため、身動きがとれず、当時友人以外には見せていない。(拉致未遂事件、大阪などで歩いていると、警察に似た服を着た人間に両腕をつかまれ、どこかに連行されそうになった事件。このときは大声で助けを求めたならば、この両者は逃げていった。これは1987年末の事件であり、かなり日程を特定できるため、見た人をインタネットで探していただきたい。もう一件は松江である)。この差別文書は駿台にも見せていない。後に述べる岡映(おかあきら・当時部落解放同盟正常化連議長)にも見せていないし、相談していない。正確には、友人の「岡氏は今、大きな大義に取り組まれているため、邪魔をしない方がよい」のアドバイスで相談どころか、文書自体をみせていない。
この文書は駿台校内で、見知らぬ学生から渡されたため、駿台大阪校内の至るところに設置されているカメラに写っている可能性が高いため、手渡した人物を特定していただきたい。

なお、この文書は私の筆跡ではない。自作自演を臭わされているが、では、誰が書いたのか。1987年当時は、今以上に、私に(興信所を臭わす)尾行がはりついていたときである。ならば、私自身が誰かに依頼していないことは明白である。
私は、高校時代に柔道部等以外にも部落問題研究部にも所属していた。だが、駿台内で部落問題研究部の「ぶ」の字も一度もだしたことはない。勿論(もちろん)、岡映氏の「お」の字も駿台内でだしたことはない。なぜならば出す必要性がないからである
⑤この文書を友人以外で公にしたのは2000年代である。それまでは先の事情で友人以外には見せていない。特に取り上げたのは2010年前後であり、手渡された1987年から20年以上たってからである。しかし、まだ完全に公にしていない。

⑥この差別文書の中には、私が知らぬ数値が並んでいた。よって、私自身はこの文書と無縁である。
⑦この手渡された差別文書をコピーして保存していると、差別文書の一部がかなり改竄(かいざん)された。つまり、自由に私のアパートや家に忍び込まれたとしか思えないことがあった。それも数度。
⑧私の行為は、多くの人が、裏で見学しているように思えて仕方ない。では、きこう。私が差別文書の自作自演をする人間か否か。T氏はどう思われる。私は高校時代は部落研活動を行い、その後も、人権のため(人間が人間として生きるための条件を確立するため)、長期に亘(わた)り運動してきた事実がある。それは裏で見ている人の大半が分かるであろう。それだけで十分とも思える。
  同時に、私は一環して、自作自演劇などを批判する運動をしてきた人間である。大学時代も含めて。逆であろう、となる。はっきり言えば、自作自演劇なる挑発が事実ならば、自作自演劇にたけた人間が、私に濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)をきせようとしたとしか思えない。

 

⑨この問題は次年度、徹底的に公にするので、一緒に事実関係を洗い出そうではないか。事実関係を、科学的に洗いだすことが望ましいと考えている。
⑩私は三十年以上、党派中立・宗派中立を宣言している。しかし、「税の絡んだ事項はガラス張りを、パイの分配は弱者の順番に」を一環して主張している。ここは一環した主張である。
⑪読者の中には何のことか分からない人も多いであろう。そこで、次年度から、駿台で起こった事件などをガラス張り全面公開する予定でいる(ただしインタネットではなく、電子書籍で行う。インタネットは、電子書籍で効果がなければ検討する。理由は文書が長いからである)。今すぐできないのは、私に「仲代氏の文化勲章でなく功労賞おめでとうはなぜか」。「野田前首相にTPPで何をアドバイスしたのか」「シリア問題で何を言ったのか」……膨大な質問攻めであり、それ以上に作品作成とその発表などの順番で身動きがとれないのである。その上に、家事洗濯を一人で、我が家の畑・墓・家の掃除を一人で、更にHPの更新、膨大な書類やパソコン未整理file、膨大な未処理の写真レタッチやデータ付け及び試しプリント作業類で動けないのである。
この問題は次年度から、私の人生をかけて、徹底的に公開することを検討している。そこで、少し待っていただきたい。
今回は、また、弾圧・私の人権侵害の臭いが強まったため、緊急避難を兼ねて、やむを得ず、中途半端でも記述している次第である。そこで、わずかな文書しか書けない。

 

 

(3)T氏の挑発と思われた日程とその解説。

T氏の挑発と思われた日は2015年11月9日である。ちなみに、この日、徒然(つれづれ)なままに予告に次の項目を書いていた。「公式Blog/徒然なるままにシリーズ(計画案→順不同)「夢か現か」終了後開始予定 ……③部落解放同盟副委員長・岡映氏(分裂後の初代全解連委員長)との出会いの真実」。これを公式HPトップに掲載したのが11月9日であり、その夜にT氏の、自作自演を臭わす挑発ともとれる件があった。
徒然なるままにシリーズの第三回で取り上げるため、それまでまてないのか、となる。しかし、T氏の挑発抜きで、再度私の人権抑圧の臭いがしてきたため、やむを得ず、一部のみ記しておく。
まず岡映(あきら)氏についてはWikipedia等を参照していただきたい。ここで、外国の読者に注意していただきたいのは、遠慮なく記せば、「岡映」というWikipediaにも載る人物を知っているのかという誤解をしないように。岡映氏はウィキペディアには長い間載っていなかった。私が岡氏の名前を2000年代に出したので、ウィキペディアに載るようになったということである。
ちなみに、大学時代の恩師(政治学)は「浜田君、岡映って誰ですか」と尋ねたくらいである。物知りの、かつ社会問題に詳しい先生が。岡映氏は部落解放運動に携わった人か、地元の人程度しか知らないと思う。

 

ただし、部落解放運動の中で重要な人物であったようである。例えば、朝田善之助著『差別と闘いつづけて』(朝日新聞社、1969年)の中の写真に、「松本治一郎委員長一周忌……右端から朝田善之助部落解放同盟執行委員長、岡映副委員長……上杉佐一郎同書記長」の写真が掲載されている。また、部落解放同盟が分裂する前で、解放同盟、全解連、その他の人が一緒に活動していた模様を、当時の活動家のインタネットへの書きこみには次のような記事があった。

 

「それは、遠い昔のことです。
まだ、解放運動全体が活気に満ち、健全な部分が主導的であった時代のことです。
私は、……で青年対策の書記として勤務していました。水平社の生き残り活動家がきら星のごとく本部に出入りしていました。
共産党も社会党も民社系も色とりどりでした。
私は歴史上の人物、伝説的な彼らと寝食を共にして活動してきたことを今は誇りに感じています。
上田音吉、朝田善之助、北原泰作、岡映、・・・。
特に岡映(おか あきら)は豪傑でした。旅館の宿舎では常に私は一緒の部屋に連れ込まれ寝物語に戦前の水平社運動を聞かされたものです。彼は、旅館の障子がびりびりというほど、ものすごいいびきをかき、私は、いつも寝不足でした。……」なる記事もあった。

 

岡映氏自身も朝田善之助氏と寝食を共にした時代があったと言われていた。それらの話は後日とする。

 

結論から記す。私が部落問題に関わったのは1968年の頃である。その頃は部落解放同盟は分裂前で一つであった(16歳の頃)。後に事実上の分裂をしたが、私がまだ17~18歳の頃であり、分裂の意味は十分分からなかったが本質である。分裂した後、朝田氏は解放同盟中央で、岡氏は当時は部落解放同盟正常化連議長となられる。ただし、当時の私は大勢の中で岡氏の講演を聴くだけであり、面識は一切ない。そして長い年月がたつ。

 

私は主義主張として、党派中立・宗派中立の道を徐々に歩み始める。公に文書で記したのは1990年初頭であるが、党派中立・宗派中立の道は1980年前半からである。それらは拙著『旅に心を求めて―不条理編・上』(Kindle出版)第二章を読めば分かるであろう。部落解放運動をしていたころは岡氏は私のことは一切知らなかったのである。
ところが1980年前半、某女子高校講師時代に生徒への対応問題で手を焼いていると、行きつけの店のママさんが、「先生、そういう問題に詳しい、いい人を知っているので、会わせてあげる」との言葉で、わらをもつかむ心境でいくと、岡映氏だったのである。

 

要するに、食堂の常連客が岡氏であり、他方で私だったのである。店のママさんは社会問題とは無縁の人物である。ただ、岡氏の勤務地のすぐそばにこの食堂があったというだけである。その後も、食事仲間として会食を何度か共にしている。それだけである。高校時代の部落問題研究活動とは切り離して考えた方がよい。詳細は来年延々と記すかもしれないので待っていただきたい。私への諮問、質問が山積しているのである。国内外で。超大物も含めて。順番を待っていただきたい。
岡氏と会談した内容等等は徒然なるままにシリーズで記す。市川房枝氏との会談(このときの選挙参謀が菅直人氏と思う)も同様とする。この後は(2)に戻れば分かるであろう。特に(2)④参照。

 

 

(4)T氏について。

T氏は誰かは今は伏せるが、一般論として自民党について記す。
谷垣 禎一氏は、私が相対的ではあるが、もし今即首相交代ならば、彼が適任と思っているくらい、よい印象を持っている人物である。最近は甘利氏をみていて、彼も自民党内では相対的に感心することがある。私は党派中立・宗派中立宣言をしているため、どの政党にも好感を持っている人物が多い。自民党ならば、昔は中川秀直氏、亀井氏(離脱)、与謝野氏……と。河野洋平氏などは記す必要もない。野中氏(今は離党)……、小泉氏との腐れ縁……と多い。民主党はもっと多いと思う。勿論、共産党・社民党……書けばきりがない。
そこで、T氏に言いたいのは、どんどん公にして議論し、科学的に、ガラス張りにしようではないか、ということである。だが、先のごとく、私は首相よりも忙しいのではないかという状態にある。少し待っていただきたい。

ということで、この件は、後日詳細に記すとして、今回はここまでとする。

 

 

(5)世界の首脳へ。

今回の議論をじっくりと見守ってほしい。口で人権とか民主主義を唱(とな)えるのではなく、誰が本当にそれを望んでいるか、じっくりと立ち会い吟味をしてほしい。しかも、それらは、世界各国にとっても無関係ではない、アファーマティブアクションを始め、非暴力・不服従運動の難しさ(私はこの立場)、分裂政策、差別政策など、世界が抱える問題が山積していると思う。

 

この問題及び1980年代の事件、1990年代の厚労省の準職場ともいえる雇用能力開発機構の職場での膨大な労基法違反被害などを順次掲載していく予定でいる(これらは原則として、長いので、電子書籍などで行う予定でいる)。だが、他方、世界連邦や新国際秩序樹立に向けても動かねばならず、日本の腐った部分の大掃除もせねばならず、順番を守っていただきたいということである。

 

 

追伸。本日は挑発が多いので、大きい墓掃除の後で疲れているさなかに無理をして書いたため、誤字・脱字はお許しを願いたい。ほとんど見直しや修正もせずに掲載することもお許しを願いたい。本当は来年丁寧に世界にむけてガラス張り全面公開予定でいたのである。

 

 

2015年11月13日追記。

大物政治家Tとは高市氏ではない。Tを訂正してZとしておく。なお、実名を出さないのは、人権問題と刑事犯罪被害の結合問題を記述したため、双方事情が分かるまで実名は記述しない方がよいかという配慮からである。超多忙のため、本格的追記や解説はいつか日を改めて行いたい

2015年11月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA