四・2・日本のフィクサーME・続編メモ・伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、安重根はその(天皇の)仇を討ったて、本当。

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四・2・日本のフィクサーME・続編メモ・伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、安重根はその(天皇の)仇を討ったて、本当。

《全箇所共通注意事項》

(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成している。
(ブログは、通常、一回程度の見直ししかしていない。)
今回の原稿は、この十二回の見直し以前の単なるメモである。
そこで、作品時点では大きく様変わりするであろう。
それを頭に入れて読んでいただきたい。

(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を10パーセント程度いれている。どこが嘘かは公開できない。善良な第三者に迷惑をかけないための措置である。
総論として、この文書はフィクションとして書いている。

(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。
安らぎ文庫>>6-1・『日本のフィクサーME・下』《『日本のフィクサーME』登場人物の紹介》
http://h-takamasa.com/book-01/custom57.html

《◇―2》歴史の検証―伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、安重根はその(天皇の)仇(あだ)を討ったて、本当。

―戦後、「我こそが真の天皇」と裁判が起こりどうなったか。



はかせ:ボンさん、いろいろ博学だけれど、安重根(アンジュングン)さんを調べていたならば、天皇暗殺説にたどり着くじゃないかえ。
孝明天皇だよ。

布袋(ほてい):ボン、ところで、孝明天皇暗殺の方ではなく、明治天皇替え玉説って知っているかい。

《以上、前回の会話から一部抜粋》

ボン:ぼくは、明治天皇暗殺という見出しの一行は見たことはあるけれど中身は全く見ていないんだ。

布袋:でも、ボン、安重根(アンジュングン)の研究というか足跡(そくせき)を追っていただろ。
だったら知っているだろ。

ボン:どうしてなの。
安重根が伊藤博文暗殺の理由としてあげたのは次だ。
いいかい、安重根の書いた文書のコピーをとってきたから、それを見て。

と、言いながら、私は布袋さんに、そのコピーを見せた。

☆☆☆ウィキペディアより抜粋☆☆☆
「一四・今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。」
☆☆☆ウィキペディアより抜粋終了☆☆☆

ボン:明治天皇ではなく、伊藤博文が孝明天皇を暗殺したと書いているのであり、明治天皇とは書いていないよ。

布袋:それで真相はどうなの。

ボン:僕は超忙しいため、孝明天皇の件も2014年頃に20分程度みただけなんだ。
明治天皇については無関係のため、当時も今も一秒も見ていないんだ。
それとね、政争に巻き込まれたくないので不必要なことは調べない方針だ。
先日もね、与謝野馨さんが生前に「民進党の蓮舫氏を信用できない理由…」という、YouTubeコンテンツに登場しているのに出くわした。
でも、中は見なかった。明治天皇の件も同様だ。
与謝野さんには悪い感じは持っていないどころか、ユーモアがあるということで好感すらもっているけどね。

政策論議ではない、政争には巻き込まれたくないということで一切見なかった。
それと同じ理由で、明治天皇替え玉という語がでた時点でYouTube類はきって、一切何も知らないんだ。

明神:ボンちゃんサー、それはおかしいよ。
政治学が専門だったならば調べなくては。

ボン:明神君の方がおかしいよ。
それは、歴史学者の仕事であり、政治学関連の対象ではないよ。
おまけに、現在の憲法・法律に照らせば調べても意味がないんだ。
その上、僕は大義の面では世界連邦樹立へと動き回っているんだ
だから、明治天皇替え玉説は一切無視する予定だったし、同時に、今回の話もする予定がなかったんだ。

布袋:では、どうして今回、その話をするんだい。

ボン:一つは、オバマ大統領が辞めた直後から、おかしな挑発とも思える事項が連続した。しかし、他にすることが山積していたから無視していたんだ。
すると、さらに、エスカレートしていく。
同時に、皇室で仲の良い人が、「少し、この問題に対して、ボンさんがどうかかわったかを言った方がよい」という素振りをされた。

明神:ボンちゃんサー、皇室関係で仲の良いって、眞子{眞子内親王(まこないしんのう、1991年〈平成3年〉10月23日 – )}さんのことだろ。

ボン:大昔、あるときに、眞子(まこ)さんはテレビで何か言われていたよ。
でも、眞子さんは、見ていてかわいいとは思うけど、今回、この件について解説した方がよいと言われた人は別の人だよ。

ママさん:先生、なしたらことを言われる。かわいいなんてこと言うと、不敬罪になるわよ。

ボン:いまどき、こう言う発言をしても、不敬罪などにはならないけど、迷惑がかかるね。

布袋:迷惑って。

明神:ボンちゃんがサー、言いたいのはこういうことだろ。
眞子さんは、間もなく、婚約発表するね。
だからサー、ボンちゃんみたいに、汚い服装をしている人間が「かわいい」などと言うとお目出度い話が汚れちゃうって。

ボン:それは、明神君のことだろ。
逆だよ。
僕が眞子さんの話をすれば、眞子さんの婚約者が嫉妬(しっと)したら困るだろ。

ママさん:
まあー、先生、そんなこと良く言われるわね。
先生、いつから、そんなに冗談がうまくなったの。


ボン:
確かに、冗談はそのくらいにして、明治天皇替え玉説を調べても意味がないことだけを説明しておこう。
皇室で双方友好的な人物は?としておくけど、替え玉説を知らないなら知らないで、それも含めて、はっきり言った方が良いというアドバイスというか、…があってね。
双方友好的な人物とは、眞子さんかもしれないし、佳子さん{佳子内親王(かこないしんのう}かもしれないし、秋篠宮さん{秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう)}かもしれないし、皇太子{皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう}かもしれないし、…、それらは謎としておこう。

話を元に戻すよ。
明治天皇替え玉説っていうのは、事実か否か、どの結論がでても何の変化も起こらないことなんだ。
明神君は弁護士だろ。
だったら憲法及び法解釈して御覧よ。
さらに別人かどうかは今はDNA鑑定できめるんだ。
妄想にはつきあっていられないし、万一、それが事実としてすら全く何の意味もないんだ。
もう一度、憲法と皇室典範を読んで御覧よ。
さらに、判例も。

ついでに明確にしておくけれど、僕の日記では2017年6月17日まで一切この件は調べていないし、見てもいない。6月18日に、念のために調べておくかで、資料集めを開始した。とはいっても孝明天皇の方だけどね。同時に与謝野さんのビデオを見たのも6月18日以降だ。

戦後になってね、南北朝の争乱時代南朝の天皇の系統を引くと自称する人が、我こそ天皇と名乗り出た。そのときにどうなった。
恣意的(しいてき)ではなく、今の憲法と皇室典範を読んで御覧よ。
そんなことは無関係なのだ。
当然、裁判官も、門前払いで、裁判すらしなかった。
裁判をしても意味がないんだ。

ママさん:先生、それどういう意味。
私ら全然わからんわよ。
不敬罪という意味。

ボン:ママさん、こんな事件知っている。
14世紀に南北朝時代があったことは知っているよね。
天皇家が北朝と南朝に分かれたんだ。
熊沢寛道と言う人が、自分こそが正統な天皇であるとっいって、まずGHQに直訴した。

さらに、1951年に、現在の天皇(昭和天皇)は天皇として不適格であると裁判所に訴えたんだ。
東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたんだ。

ママさん:先生、そんなことあったの。
それで、裁判はどうなったの。

ボン:日本は法治国家だ。
憲法と法律に基づいて、行政・政治などが行われるのだ。
だから、当然、裁判自体する必要ないとなる。
門前払いとなる。
ちなみに、戦後、「我こそ真の天皇」と名乗りでた人は確か4人いたはずだ。

ママさん:先生、神武天皇の正統な系譜が天皇になるって皇室典範には書いていないの。

ボン:憲法と皇室典範を文字通りに解釈すれば、神武天皇ではなく、日本国憲法ができたときの天皇から男系、直系が天皇になるとしか読み取れない。
同時に、天皇の基本的人権は制限されているんだ。
だから、裁判所は「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却(ききゃく)した。(「皇位不適格訴訟」)。

今の皇室典範は「天照大神(あまてらすおおみのかみ)とか神武天皇の系譜でなければならないとは書いていない」。
だから女系天皇論争が起こったんだ。
僕はノータッチだ。
小泉総理のときに言ったのも、『女系天皇論争のときに僕が言ったのは焦ってはいけない。この問題はナイーブなので慎重にやるべきだ。』
僕が言ったのは、それだけだ。

愛子さんが天皇になっても男系でも女系でもある。
でも愛子さん{敬宮 愛子内親王(としのみや あいこないしんのう)}が、皇室以外の人と結婚したならば、それは小和田家の系譜にそこから変化する。
僕はそれが良いとも悪いとも言っていない。
ただ、そうした問題はじっくり時間をかけて国民的議論が必要と言っただけだ。
そうしたことを言っていたら、秋篠宮家で御懐妊のニュースが流れ、早急な議論が止まったんだ。

ママさん:先生、私にはようわからんわ。
法律ってお経と同じで、何が何かわからないわ。
先生、私らにも分かるように御利益のある所だけ、言ってもらえん。


そこで、私は結論だけを簡単に話した。
①現在の皇室典範には、日本国憲法制定時の天皇から考えて、直系・男系相続しか書いていない。

②だから、我こそは本当の天皇と名乗りでても、昔の天皇ではなく、日本国憲法ができたときの天皇を基準に考えるため、無関係となる。
その結果、はかせが言っていた明治天皇が替え玉だろうと・なかろうと無関係となる。法治国家である以上そうなる。

③さらに、天皇の基本的人権は大きく制限されている。選挙権や結婚の自由がないばかりか、裁判の権利も制限されている。1951年の裁判でも同様の見解をだした。
南北朝の争乱もあった関係で、自分こそが正統な天皇の子孫と熊沢氏が訴訟をおこしたが、「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却となっている。

④ちなみに、明治天皇が替え玉かどうかの判定は、昔は埋葬のため、過去の全ての天皇の遺骨を発掘し、DNA検定でその流れをたどるしか方法はない。骨が残っていればの話である。当然、宮内庁が天皇家の墓の発掘は許可しない。
しかし、その前に現行法に「神武天皇から直系…」などの文言は一切ない。通常は日本国憲法制定時の天皇からの直系としか読めないため、明治天皇が本物か偽物かすら調べる必要性がないとなる。すると無意味なことをしても仕方ない。

⑤僕が安重根の件で調べる必要性がでてきたのは、孝明天皇が病死か暗殺かということだけだ。明治天皇ではない。安重根は伊藤博文が孝明天皇を殺したので、それが伊藤博文を暗殺した理由の一つであると書いているのであり、明治天皇ではない。
だから、僕の調査対象とは無関係な明治天皇替え玉説は意味がないだけではなく、全く興味もない。

⑥おまけに、超多忙なことや、意味のない論争に巻き込まれることを避けるため、明治天皇替え玉説は門前払いとした。そこで、内容は一切見ていない。一行目の見出し、「明治天皇替え玉」という行のみが、孝明天皇関連を調べていたときに目に入っただけである。しかし、何のことか内容すら見ていない。

この件は、更なる挑発を避けるため、2017年6月18日に始めて見たのが事実である。結論は、DNA鑑定などない限り、何にも分からないし、同時に法治国家である以上、論争自体に意味がない。

⑦再度言えば、安重根の関係で、孝明天皇暗殺か病死かは一応調べる必要性はある。ただし、この件もどちらの説に関してすら全く問題ない。天皇の死が暗殺の場合には皇位が途絶えるとは憲法にも皇室典範にも書いていない。

そこで調べても意味がないが、安重根の記念碑に参った以上、安重根の行動の一貫として調べる必要性があるというだけである。

また、安重根の件、孝明天皇の件すら調べようかと考え、資料集め開始したのが2017年6月18日からである。
それまでは、ソウルで安重根記念碑に参り、帰国後に20~30分ほど孝明天皇関係を見ただけだ。明治天皇は無関係なため中身は見ていない。


布袋:
それで安重根の言っていることは事実だったの。

はかせ:
もし、そうならば、歴史は逆になるよ。
伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、それに憤った安重根が天皇の仇(あだ)を討った、と。
まさに赤穂浪士と同様だね。
大石内蔵助などを美化しているのならば、安重根に対しても同様にしなくっちゃね。
ボンさん、それで、それは事実なの。

《次回へ続く》



(※参考資料)

☆☆☆ウィキペディアより引用☆☆☆
1)南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。
建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。

また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。
☆☆☆ウィキペディアより引用終了☆☆☆

☆☆☆ウィキペディアより引用☆☆☆
2)安 重根(日本語読み: あん じゅうこん、朝鮮語読み: アン・ジュングン、朝鮮語ハングル表記: 안중근、1879年9月2日 – 1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家で、前韓国統監の伊藤博文を、1909年10月26日に北満州のロシアが権益を持つハルビン駅構内で襲撃し、殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された
☆☆☆ウィキペディアより引用終了☆☆☆

☆☆☆ウィキペディアより引用☆☆☆
3)孝明天皇
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) – 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇。在位は、江戸時代末の弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日)。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。
☆☆☆ウィキペディアより引用終了☆☆☆

2017年7月7日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA