四・1・日本のフィクサーME・続編メモ・皇室問題・A愛子さん替え玉説と2010年登校問題等
《全箇所共通注意事項》
(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成している。
(ブログは、通常、一回程度の見直ししかしていない。)
今回の原稿は、この十二回の見直し以前の単なるメモである。
そこで、作品時点では大きく様変わりするであろう。
それを頭に入れて読んでいただきたい。
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(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を10パーセント程度いれている。どこが嘘かは公開できない。善良な第三者に迷惑をかけないための措置である。
総論として、この文書はフィクションとして書いている。
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(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。
安らぎ文庫>>6-1・『日本のフィクサーME・下』《『日本のフィクサーME』登場人物の紹介》
http://h-takamasa.com/book-01/custom57.html
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四・1・日本のフィクサーME・続編メモ・皇室問題・A愛子さん替え玉説と2010年登校問題等
◎今回から数度に亘り、続日本のフィクサーメモの主要な掲載内容は、以下である
一・今週の歌苦闘模様と君が代の国籍問題(曲はドイツ産か日本産か)→前回掲載。
二・党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話
三・第一次安倍総理、麻生総理誕生に関する裏話
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四・皇室問題に絡めた私への誹謗(ひぼう)中傷攻撃について→今回から2~3回連載
五・オバマ・アメリカ前大統領と私の秘密の暗号と長崎訪問裏話
六・世界の問題で△△問題の裏話(当日まで機密。誰も助かることはあっても困ることはない話であるが当日まで機密。)
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一~三→いずれも、2017年3月20日深夜から、21日未明にかけて居酒屋徒然草(つれづれぐさ)での会話とする。
※3月21日早朝解散し、私だけは播州赤穂を経由して帰路に就く。
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四~六→四→2017年5月1日・大阪・居酒屋徒然草。五~六→同年5月2日お嬢の寺への道中とお嬢の寺での会話とする。
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前回、一を掲載したため、今回は二及び三なのであるが、7月2日に都議選があるため、係(かか)わりを避ける目的で、ややこしいが、先に四に入る。
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二、三の話を飛ばし、かつ場所と日時が突如異なるため、読みにくくなるが、都議選関連に拘(かか)わりたくないための応急措置である。公人でもない私が何故気を遣わなければならないのかは不思議な話であるが。
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◎舞台→今回の四該当箇所は、5月1日に大阪の居酒屋徒然草での会話である。
なお、翌2日は布袋さん・はかせ・明神君と私の四人で、日本海にあるお嬢の寺に行くことにした。その道中とお嬢のお寺での会話が五と六である。
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◎登場人物→ボン(=私)、布袋(ほてい)さん、明神(みょうじん)君、はかせ、それに徒然草のママさん。そして、わずかではあるがオジョウが登場する。
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◎風景描写→字数の関係で、メモではごく一部を除き風景描写は原則として大きく省略する。
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《◇―1》皇室問題本文―その序曲。
5月1日(月曜日)、午前三時に寝て、十時に起きるや、即出発準備に入る。
そして、12時10分頃我が家を自転車ででるが、汽車には2分の差で乗り遅れ、高速バスも約5分の差で乗り遅れ、バスを一時間待ち14時前のバスで大阪へ向かう。
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天気は一応晴れの部類に入る。
大阪には17時につき、ホテルに荷物の一部を置き、即通天閣の撮影にゆく。
通天閣の撮影は18時頃から20時頃である。
その後、例により、お初天神でオジョウに会う。
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この日のオジョウは大変若く見えた。
オジョウは日によれば、背が高く見えたり、低く見えたりするだけではなく、年齢も若く見えたり、老けて見えることもある。
体格も太って見えたり、その逆だったりするときもある。
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オジョウに言わせれば、靴の高さの関係で背が高く見えたり・低く見えたりするのだそうである。体格はダイエット期間中か否かで違うのだそうである。
ともかく、この日のオジョウはいつもとは別人の如(ごと)く、痩(や)せて見えた。
それ以上に随分若く見えた。
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だが、それはオジョウと私の間では言ってはいけない禁止用語なのである。
「オジョウ、今日はいつもより若くみえるね」など言うと大変な目にあう。
何故ならば、オジョウが次のように言うからである。
「では、いつもは老(ふ)けているという意味」、と。
年齢は。これはタブーなのである。
オジョウに年齢の話をすると極端に機嫌が悪くなる。
だから、私はオジョウに年賀状を出すときには、「賀状」とだけ記し、「年」は書かない。
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「いつアメリカに行ったの」と聞かれれば、「2015年2月下旬」などと返答しようものならば大変なことになる。
オジョウが私をにらみつけて言うであろう。
「私は、行った年を聞いているのではなく、月をきいているのよ」、と。
だから、私は通常は「2015の2月下旬だよ」という形で応(こた)えることにしている。
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ただ、誤解のないように記すが、オジョウは大変優しい性格をしており、機転も早い。
話の聞き上手(じょうず)でもある。会っていても楽しい人間でもある。
ただし、それは年齢の話をしなければ、の話である。
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この日のオジョウは、先の如く、いつもよりも、若く、別人のごとく痩(や)せて見えた。
しかし、機嫌の悪さだけは、前回と同様であった。相当機嫌が悪く、ときどき殺気だっていた。
そして、私の訪米のときの話を何度も聞いてきた。
その意味は明日分かることになる。
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オジョウの機嫌の悪さには幾つかの理由があろうが、一つだけ言えることは、明日(5月2日)に、布袋さん、明神君、はかせと私の四人でお嬢の寺にいくことにしていたことと関係があるのかもしれない。
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もう一つ付け加えれば、私はオジョウの手の平で動いているだけである。
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この日のお初天神は、前回と同じく、随所に小さな光の玉が輝き、そして大きな大理石が水車の如く、水受けの上で回っていた。
そして、相変わらず、私とオジョウをモデルとしたとしか思えない、小さな徳兵衛と小さなお初の像が鳥居の近くでにっこりと笑っていた。
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《以下、オジョウとの会話・訪米の話や、海外旅行の旅費、お嬢の寺の話…などは今回のメモでは省略する》。
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ただ一つだけ強調しておく。
お嬢は大学時代の知り合いである。
しかし、お嬢は大昔に結婚し、もう孫もいる。
勿論、未練も何もない。
既に記した如く、お嬢の結婚以降は、私が恋愛したときの恋の指南役がお嬢なのだから。
それと、大学時代の友人・篠山さんから何度も聞かされていた。
「お嬢は、もう婆(ばあ)さんだぞ」、と。
孫ができる前から。
という訳でお嬢に対しては女性としては何一つ見ていない。
年齢以上に、私の先輩と結婚してからは、友人への筋からも、精神上も、女性としては一切みていない。
しかし、『日本のフィクサーME』で記した如く、オジョウがお嬢とうり二つの顔に見えたことがあることと、オジョウとは1999年に知り合ったが、会ったその日から私のことを知り尽くしている感じがした謎がある。
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何度も記した如く、1999年に知り合ったときにオジョウは20才と言っていた。しかし、どうみても貫禄(かんろく)から言って三十程度に見えた。そして、オジョウは今二十代前半だそうである。これ以上はフィクションでも書くことは危険すぎる。
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私がお嬢の寺に固執するのは、第一巻で記した如く、オジョウがお嬢の子供ではないかと思ったからである。同時に「源氏物語」ゆかりの地が余りに多く登場することと、源融(みなもとのとおる・源氏物語の主人公の一人)にかけた謎が気になることもある。同時に嵯峨天皇がらみの地が多数登場するのも謎である。
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即ち、昔、仲がよかったお嬢の子がオジョウ、そしてそれは光源氏の悲劇同様に、君の子だと言わんばかりに。
要するに前川清が(藤圭子の子と知らずに)宇多田ヒカルとデートをしていると言うが如くことを臭わされるのである。しかも、宇多田ヒカルは前川清の子ではないが、前川清と藤圭子の子とも臭わされて。
だが、私とお嬢の関係は〝宝塚〟である。そう宝塚歌劇の〝清く、正しく、美しく〟であった。ここだけはフィクションではない。
しかし、それでも、それなら(前川清と血のつながりがない)宇多田ヒカルがオジョウで、前川清はボンで、お嬢が藤圭子である、ことを臭わせてくる。再度記す。お嬢とは結婚したこともなければ、何もなく、私とお嬢の関係は宝塚歌劇の〝清く、正しく、美しく〟である。逆に言えば「男はつらいよ」の世界であった。
前回に引き続き、この日もオジョウの機嫌が悪いので、会話の量は少なめとし、退散することにした。
《オジョウとのこの日の会話内容(通天閣と京都タワー、ポートタワーのネーミングの違い等など)は、メモでなく、本格原稿を記す際に紹介しよう》
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オジョウと分かれた後で、私はいつものように、商店街側の出口をでて、右折し、新御堂筋を横断し、太融寺(たいゆうじ)を経て、綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)御旅所(おたびしょ)を目指す。本日も何度も道を間違える。同じ道を何十年も通って、道を毎回間違える。
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●〈綱敷天神社御旅所写真(二度クリックで巨大拡大)〉
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ちなみに、この綱敷天神が北野(喜多野、喜多埜)天神とも通称され、難波の〝ミナミ〟に対して、〝キタ〟の語源となった。ミニチャ模型の如く小さい神社である。我が家の家どころか倉庫程度の大きさである。
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余談ながら、梅田の語源は露天神社並びに綱敷天神社にゆかりのある梅から「梅田」表記になったと言われている。露天神社(つゆのてんじんじゃ)とは、私とオジョウが毎回のデート場所のお初天神のことである。
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なお、綱敷天神社とは先の綱敷天神御旅所の本館に該当する。とは言っても、これまた我が家の数分の一という小さな神社である。
こんな小さな神社が梅田の語源なのである。曾根崎心中で有名なお初天神(露天神社)はもう少し大きいが、田舎の神社よりは小さい。
なお、オジョウと私が出会ったのは、このお初天神のすぐ前にあるコンビニである。これは事実である。1999年のことである。
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ちなみに、私がいつも通る平凡に見える太融寺は、大久保利通(としみち)の独裁に対して、愛国社を再建し、本拠地となった寺であり、また後に自由党が解党したりしたのもこの寺である。
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●〈太融寺→源融ゆかりの寺。
淀君の墓がある寺、自由民権運動に関与し、自由党解党時の寺。今回は外からの風景と中の写真二枚のみ掲載。
後日、本格撮影し、写真ブログに掲載予定。〉
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京都が、史跡を神様・仏様扱いにするのに対して、大阪は史跡が繁華街・風俗街などのど真ん中にひっそりと佇(たたず)み、誰もそのいわれを知らない。
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京都ならば、「ここから、お帽子脱いで、はい御礼拝どすえ」。
奈良ならば、「まあ、お楽に。でも、この像は由緒がありましてな…」。
大阪ならば、「なんや、この小さな神社。こんなものあったんけ。けったいやな。ついでだし、立ちションでもしとこか」
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※大阪は後日訂正。立ちションはいけません。また神社ではマナー違反です。単なるギャグですが、正式な文書化の際には別の言葉に変更予定。
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●〈綱敷天神社の写真→本家の方。
これが梅田とかキタの語源の地。(梅田という名称にはお初天神も関係している。)
この写真はプライバシー保護よりダウンロード禁止〉