(2)『行政機関による憲法15条違反被害について』―2。

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(2)『行政機関による憲法15条違反被害について』―2。「『褒めれば危害』から民主主義迄(まで)の雑話」(4月3日)(Facebook書込№15-19-3)に掲載のものを収録。


【更新履歴】

2015年5月21日 23:07掲載

2021/04/16 16:43 レイアウトのみ修正


 

今回、文書中に、【参考】と記した箇所からは政治学の一般論である。

 

Facebook書込№15-19-3. 「『褒めれば危害』から民主主義迄(まで)の雑話」。

被害を公開すれば危害を受ける。だが、商品などを褒(ほ)めても同様に危害を受ける。これは一体何。
カメラに関しての例をあげれば、ニコンのD800、タムロンの24-70VC(A007)、ニコンVR70-300を褒めれば、VR70-300は一昨年9月末某ホテルで翌日になるとおかしい、A007は一昨年10月に某ホテルに泊まり翌日からおかしい(タムロンはVCの故障とのこと)、……同様にD800も昨年3月に某ホテルに泊まった翌日から不調……。ホテルに泊まった翌日のカメラ関連不調開始は、一昨年(2013年)6月に某メーカーレンズを購入し、分からぬことがあり価格ドットコムに質問してから起こる。


ホテル自体も同様。昨年3月、某ホテルが昔良かったのでべた褒めしようと思って行くと、先のカメラが不調。本年3月は№15-19-2に記述したように、系列の岩国のホテルが良かったので姫路の関連ホテルに行き、ホテル内でも独り言で宿泊したホテルを褒める言動のみしていた。すると、重要な原稿が紛失(紛失場所・犯人・原因不明)。……


褒めると無茶ならば……。安倍総理を褒めるか。これが冗談なのは通常は誰でも分かる。安倍総理自身も分かる。だがこうした冗談を書いても被害にあう。「彼(私)は安倍総理と蜜月であり、どこかに圧力をかけるのではないか。ではその実験で、私に害を加え、安倍総理をつかい圧力をかけるかどうか実験しよう」、と。そして、危害だけを受け続けた。それも十年以上。れは、完璧に犯罪であり、私は刑事犯罪の被害者でしかない。

※(2021/04/16 16:47追記)上記紛失原稿は、駿台予備学校関連である。

 

上記のjokeの関係で、安倍総理の件で誤解のないようにきっちりと記しておく。彼がよい政策を行えばそこはよい。悪い政策があれば、そこは悪い。
彼が「交通事故死者を減らそう。飲酒運転・過労運転に対して厳しく臨む」と言えば、その点は良いと言う。「酒の一気のみによる急性アルコール中毒をなくそう」と言えば、そこも良いと言う。こうして共通点は彼との間でもあるはずであり、そうした点を見失ってはならない。

だが、憲法九条に関しては、彼とは見解が異なり、私は九条堅持派である。こうして意見の違う人間が、醜(みにく)い争いをせず、共存できる社会を民主主義社会という。そして、私は民主主義社会を望んでいる。安倍総理は民主主義社会についてどう考えているかは知らぬ。
また、性格・人格と政策は違う。そこも見失ってはならない。

意見の対立する人が殺し合いをしない社会を、私は願っている。だから、世界連邦を唱道している。対立した人が共存し、集団での殺し合いをせぬ社会、そのためには世界連邦しかない。長州藩主導か、薩摩藩主動か、……であろうとも、ともかく統一国家が不可欠であった。弊害もあった。だが、歴史の目でみると日本では統一国家が不可欠であった(兵庫県と大阪府が武力で争うことがあってはならない)。同様に、世界でも統一国家とはニュアンスが異なるが、世界連邦が不可欠である。

対立する人が共存する社会、しかも公正・公平の原則の下で。それを民主主義社会という。Democracyの語源は、「デモス(Demos=民衆、peopleなどを意味する)+クラティア(kratia=権力とか政治・政体を意味する)→人民の政治(論争となった『の=of』を使用させて貰う)」である。
ちなみに、Polisとは「ギリシャの都市国家「ポリス」(pólis)」に由来している。アリストテレスの「人間は政治的(社会的)動物である」の政治(社会)はポリスを意味している。よって「人間はポリス(=政治・社会)的動物である」、という意味である。

ポリスにおいてデモスを実現しなければならない。そのときにはじめて、「人間はポリス的動物である」が意味を持つ。

【参考】政治学の一般論。

※私の専門は実は政治学である。そこで二言記す。(専門的なため、以下は関心のある人のみ読まれること。)

某サイトでデモクラシーは語源から言って、民主政治は誤訳で、民主政治制度などと訳すべきとした物があった。これに関しての私の見解は以下の通りである。
英語では、不可算名詞(u)のときは民主主義、可算名詞(c){a democracy, democracies…}のときは民主主義国家、民主政体などと使い分けていることは周知の通りである。要するに、不可算名詞のときは民主主義の訳でも問題はない(と、私は思う)。

②「の」と英語の「of」はややこしい。
後者で言えば、「government of the poepole」のofは主格補語か目的格補語かで論争が起こったことを知っている人もいるかと思う。前者ならば「人民の政府」→「人民が支配する政府」に近い意味」}、後者ならば「人民を支配する政府」という例の論争である。

 これに関しては、拙著『求め続けて・第Ⅱ部』の中で私の見解を紹介している。一応、言語分析もした上での見解であるが、結論のみ記せば、「不毛な論争であり、学問を飾りとしている傾向がある論争は無意味である」、である。


専門的になるが、これに関しては、この言葉はリンカーンが引用した言葉であるため引用元の解釈、世界での訳を紹介しての解釈、そして英語の言語解釈(ofは分離のoffから来ている)……など多方面から一応分析しておいたその上で、学問はアクセサリーではなく、胃がんの特効薬を見つけるのと同様の役割を持っていることを忘れてはならないと警鐘をならしておいた。


私の専門書も、私が記した啓発書・知的エンターティメント書・生涯学習関連教育書・実用書・紀行文・フォットエッセイ同様に、私が生きているうちに出版したいと考えている。そこで過去記した作品の中から、二冊目はエンターティメントをはずれる作品を出す予定でいる。ただし、本年の残り四冊程度のうち、{『旅に心を求めて・不条理編』に続き}もう一冊はエンターティメント的なものも出す予定でもいる。


最後に、一言付け加える。

 リンカーンの演説も幾つもの引用からなっている。「人民の人民による人民の政府」も引用文であり、松尾芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」も引用文である。先の不毛な論争は、同様に不毛としても、そうした引用元の研究もせずに、またリンカーンが何度も原稿を書き直したのであるが、その下書きの研究もせずに行った論争であり、稚拙(ちせつ)の極みである。


斯(か)く言う私も駿台政経講師時代に釣られてやったことがあり、今から考えれば、大恥をかいたと思っている。要するに、日本での論争は意味がない上に稚拙(ちせつ)きわまっていたということである。そして、学問はアクセサリーや飾りではないという視点から、更に恥じ入るばかりである。


ただし、民主主義の危険性に関して、アリストテレス、ルソーが警鐘を鳴らしたことは記憶に値する。

前者は衆愚政治として、後者は単なる多数決は全体意思であり、危険であると。そこでルソーは優れた人により十分啓発された上での総和=一般意志を主張した。プレビシット独裁という語の如く、ヒトラーが民主主義も利用して政権についたことも忘却してはならない。先のリンカーンの「of」を巡る論争よりは、如何(いか)なる形の民 主主義が必要か(・理想か)を論じた方がよい


※この文書は後日精査した後で、拙著公式ブログに再掲載する予定でいる。

【2015年5月21日追記】精査前の段階で本日掲載。