【💁】「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第3節相棒登場から”まさかの”トイレ攻撃まで(💁正式公開)

「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第3節相棒登場から”まさかの”トイレ攻撃まで(💁正式公開)


【更新履歴】

2023/10/27 22:55下書きというよりもメモを掲載。2023/11/01 23:54一部下書き:11/2 19:30から下書き進行中。2023/11/03 1:09下書き終了。1:29微修正

2023/11/03 清書をして正式公開予定でいたが、突如、「哀れな🤡」(駿台から、🛵、西田ひかる…まで)掲載のため、一日に二つ掲載は問題が多いため延期します。予定では11月6日公開です。11月5日は10月のまとめと🌐時事更新があります。

2023/11/03 21:13 清書作業中 2023/11/04 22:30清書作業中。2023/11/05 21:40頃から清書作業中。2023/11/06 1:11清書終了

11月6日 1:11から正式公開 :2023/11/06 14:16 「哀れなボンの物語」箇所リンク追加

 


【構成】以下の予定
訪米・第3節訪米①「まさかのトイレ攻撃」―訪米往路
訪米・第4節訪米②「猿の惑星」とレイクパウエルの虹―訪米1日目
訪米・第5節訪米③「霧のグランドキャニオン」―訪米2日目昼
訪米・第6節訪米④「光るラスベガス」―訪米2日目夜
訪米・第7節訪米⑤「バンクーバーでの大暴れと人垣」―訪米帰路

 


●【①日程】一日目(日本時間2月27日と現地時間2月27日)

午前11時頃:伊丹空港着

伊丹空港:14:15 (NH-2178) 発→

→15:35成田着

19:00成田空港発→(AC0004で約8時間30分機内)→北米時間(2/27:時差約17時間)

→10:30:バンクーバー着:入国審査等:

バンクーバー空港15:05発予定が飛行機が遅れ 15:40頃発 →約3時間(AC1898)のフライト

→18:30頃ラスベガス空港着

19:00過ぎにリヴィエラ ホテル (Riviera Hotel) 着。

伊丹空港からラスベガス空港までフライトと待ち時間合計で約26時間

翌朝5:00モーニングコール


【写真寒い朝】:写真はいずれもクリックでパソコン画面まで拡大、二度クリックで巨大。

寒い朝:15-008-008_

上記を見れば分かるように、アメリカ本土の旅は事実上一泊二日である。同時に、その二日間はバスでの1500キロの移動が中心であった。

人間は他人のことをすぐうらやましがる。それでは、私と全く同じ条件で訪米すると言えば、もし姉が20代ならば「止(や)めておいた方がよい」と言いながら、行けば面白いと腹の底で思うであろう。今の年ならば、絶対に止(と)める。仲が悪い人には騙(だま)して行かせようと悪魔がささやくが、仲が良い人はとめる。もし、年を取っていれば、必死で止める。

というのも、この旅はアントニオ猪木氏とモハメドアリ氏の戦いの如く、大変であったのはリング外であった。死の日程は表(リングの世界)であり、裏の出来事(リング外の世界)はそれ以上に大変だった。ひょっとすると、当時のアメリカ政府も知らないかもしれない。
自宅監禁の長い私に、もう一度同じことをするかと言われても、主観抜きで客観的・物理的には不可能であり、検討の余地はない。「ノー」と言うよりも「もはや不可能である」との回答しかない。

飛行場での待ち時間問題でも、通常は嫌気がさすものである。伊丹空港で3時間15分、成田空港では3時間25分、バンクーバー空港では5時間10分である。東京に行くときに、我が家の最寄りの駅・林野駅、次に姫路駅、更に大阪駅で上記の時間を待つことを考えればよい。その上、時差ボケもあり、バンクーバーなどでは退屈を超越してボヤーとして椅子に座っていただけである。一人参加のため話し相手はおらず、ひたすら待つだけである。空港での飲食ができぬ理由も徐々に分かるであろう。ただただ待つだけである。

もっとも、これらはアメリカなどに行く人ならば誰もが経験している話でしかない。大変であったのは、これから述べる誰も経験していない出来事の方である。リング外の方である



《◇―1・伊丹空港と1122(いいふうふ)の相棒女性登場》

この旅には洒落(しゃれ)が絡んでいた。
訪米費用はホテル・飛行機代・現地移動費・食事も何食かついて、一人56100円であるが、募集チラシには二人合わせて112200円(11万2200円)となっており、語呂合わせで「11・22=いいふうふ」と記載されていた。11・22は私の誕生日であり、一番よく使われる暗号番号である。そして「1122(いいふうふ・夫婦)」が臭わされていた。

1971年の「🧜お嬢」と72年の「🎎お嬢」を臭わす女性、1984年登場の「🛵おじょう」を臭わす女性などが続々と出てきた。だが結論から言えばそれらの女性は単なる目くらましであり、「いいふうふ」の🎎お嬢🧜は、どうも、伊丹空港から同行した添乗員だったようである。
この女性がなかなかの女性で「やんちゃな子猫」を連想させる人物であった。帰路のバンクーバー空港騒動ではかなり痛い目に遭(あ)わされることになる。

前夜、伊丹空港の近くで宿をとっていた関係で、伊丹空港(大阪)には2月27日午前11時前後に着く。成田行きの飛行機は14時15分であり、ここで3時間余り飛行機だけを見て過ごす。まだ気力があったため、飛行機を見るのも楽しい…というゆとりがあった。

【📸:飛行機が飛んでいる:伊丹空港で】(写真№15-005-013)

15-005-013

(写真№15-005-013)


添乗員は池田さんという女性であったが、かなりの訳(わけ)ありという感じを受けた。彼女の名を聞いて駿台事件を思い出した。
回りくどい話となるが、まず、その話からしよう。

「駿台事件―本質編」に記すように、駿台予備学校で1983年度は何度見ても何ともない女性・西山なる女性に、1984年1月に突如催眠熱をあげさせられる。催眠の契機は、当時担当していた高校生コースの医学部志望の女子生徒が私に大変懐(なつ)いており、ソファで私の横にべったりと座っていたときのことである。大変可愛いものである。顔も童顔で、榊原郁恵型である。
ところが、この女の子と講師室係🚺西山の目があい、西山なる女性がこの女子高校生の態度を見て苦汁(にがり)を潰(つぶ)すような顔をした。西山なる女性は福岡県出身であり、女子高校生は京都の子である。何故、この二人が知り合いなのであろうか。その謎は徐々にとけかけている。

彼女の苦渋に満ちた顔を見たのを契機としての催眠であったように思われる。ちなみに、催眠の解除は、1986年春に駿台京都校の深見係長から大阪校異動打診の電話があり、その電話が終わり、受話器を置くと、駿台女性(正確には駿台1983年度入社4人組)に関する催眠はスーと頭から何かが落ちてくるように全て解除された。正に受話器を置くと同時であった。もっとも電話音が契機だったかは定かではない。
催眠とはそういうものなのかもしれない。その後、今日(2023年11月1日)まで、駿台の女性に熱を上げたとか、異性を連想する形では一度も思い返したことはない。これは本当の話である。


西山なる女性についてはどんな女性かは未だに何も知らない。趣味が何かどころか、やさしい人なのか・性格がきつい人なのか、短気か否か、生き方(社会・教育などに関心を持っている人なのかどうか)も、人生哲学(それどころか、共稼ぎ志向か専業主婦型か)、勿論養子希望か否かも、まさに銀行の受付さんと同様で何にも分からない女性であった。今も全く分からない。

しかし、生き方は違うとしか思えなかった。私は、万国の女性よ自立せよ型で(※2)共稼ぎ、社会や教育に興味ある女性に関心があった。容姿も、松坂慶子型ではなく、榊原郁恵型を好みとしており、全く、対象外であった。当時は催眠…なるものを知らずに、突如の西山熱に対して抵抗に抵抗を重ねた。丁度、2000年前半頃の川の鯉のぼりを撮れという催眠に抵抗したときと同様であった。

☆☆☆☆
(※2)エッセイ・写真―1回・万国の女性よ自立せよ。
http://takahama-chan.sakura.ne.jp/p-essay/custom7.html
☆☆☆☆☆

この女性への熱を打ち切るため、真備高校講師時代の同僚・音楽講師に玉砕覚悟で💌(手紙)を送付したこともある(1984年2~3月頃)。この音楽講師からは無視されたが、ともかく、西山熱は収まった。\(^o^)/。

だが1984年夏前から再度熱を起こされる。私の理性はノーと言い続けた。何故ならば、性格は全く知らぬ、容姿も私好みではない、生き方は違うとしか思えず、勿論、接触の手段もないし、同一職場でリスクも大きい。当時催眠なるものを知らなかったが、1984年夏前に大急ぎで見合いをした。

そして、この女性で行けばどうかと思う女性に出会った。相手もまんざらではないと仲人さんから聞いていた。この女性と二回目か三回目のデートの際に、彼女が言うには「池田動物園につれていってくれ」という。池田動物園の園長は「池田隆政」氏である。昭和天皇の娘さんの夫である。ちなみに、私の隆政は「池田隆政」氏の「隆政」に由来している。父が、学校の教師を病気か何かで辞めて養鶏をしていたが、この頃「池田動物園」と取り引きがあったようである。池田隆政名義の年賀状もきていたのを覚えている。

この見合いは上手くいけば結婚までたどり着けると思っていたならば、「池田動物園」で彼女が言うには、「私は定職を持っている人、可能ならば公務員と…、浜田さんの仕事では不安定すぎる。そこで、浜田さんの方から断ってほしい…」と言われ、突如潰れた。
話を2015年に戻せば、訪米の際の添乗員の名字が「池田」だったので、すぐ、1984年初夏頃に見合いをした、この女性を連想したのである。

なお、このときの女性は、東京の居酒屋・孔雀の娘さんを連想させる女性であった。というのも両者ともに英語が専門だったからである。この女性の名前は忘れたが、大阪大学英文科卒と言っていた。学歴はどうでもよいが大阪大学という名称が覚えやすいのと、名前を忘れたので英語の専門を強調するためだけである。

名古屋大学についても、早大から名古屋大学大学院に行く人が身近にいたのと、逆に名古屋大学から早大大学院に来た人が何人もいた上に、たまたま、早大生で名古屋大学大学院に行った女性と何故かデートのような形になったので過去も出しただけである。伴侶については大学どころか学歴は一切問題外としている。

ともかく、英語が専門とは、孔雀の娘さん(学校名は人物を特定されるため回避)と同一だからである。そして孔雀の娘さんの名字と「🛵おじょう」が同姓であった。そういえば、「🛵おじょう」は孔雀の婆さんと顔が一部似てもいた。居酒屋・孔雀が拙著「日本のフィクサーME」で登場する、大阪の居酒屋・「徒然草」のモデルの一部である。正確には岡山の居酒屋と東京の孔雀、そして店のつくりは大阪の某店をモデルとして描いている。

池田動物園でデートした女性=英語専門=孔雀娘(正確には孔雀の婆さんのお孫さん)=同一名字=「🛵おじょう」の図式ができる。要するに、お嬢類の🐱化け猫である。
この奇妙な話は、世界の歌🇺🇸USA・ №19で、「🛵おじょう」→おじょう連想の歌手・🐬西田ひかる→「🎃オジョウ」という流れでも参考までに紹介したい。

☆☆☆☆(2023/11/06 14:16:リンクなどを追加)☆☆☆☆☆

哀れな🤡ボン物語【🎼#世界の歌】🇺🇸US:第四部(Part-4)№19所収:(写真拡大版)(2023/11/03 14:50掲載)

https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40934

※この中の世界の歌・公式HP解説中《哀れな🤡ボンの物語開始》箇所参照。

☆☆☆☆☆(リンクなどを追加終了)☆☆☆☆☆


ここから、アメリカ死の旅に十返舎一九著『東海道中膝栗毛』、即ち弥次さん・喜多さん『弥次喜多道中』、あるいは『弥次喜多珍道中』の世界が加わる。また彼女の話を書くのは、アメリカ帰路のバンクーバー空港大立周りの流れの準備をしておくためもある。あれは酷(ひど)かった。
ともかく、こうして、1122(いいふうふ)のパートナーは添乗員と臭わされることになった。
もはや、『世界連邦』構想は無視され、チャップリン(Chaplin)風のドタバタ劇が主流となりつつあった。

なお、駿台講師室係🚺西山に関しては、1984年に先の🚺女性との見合いが潰れるや、更に激しい催眠攻撃に遭い、もう抵抗どころか逆に、西山命なるような心理にさせられていた謎もある。西山に一度会ってもらう申し込みをする前に、友人に相談すると、「職場におられなくなるぞ」と言われたが、私はそれでも良いと返答している始末である。

その数ヶ月前まで「ノーノー」と言い続けた女性であり、どんな人かも全く知らない女性である。容姿も私好みではないし、客観的にも通常+α程度を突如「美人」と思い込まされた謎もある。1997年の岡山県美作市下倉敷の交通事故同様に、私の意思・感情などは完全にコントロールされていた。それ以上に不思議なのは、西山なる女性には断られたにも拘(かか)わらず、降られたはずの私の方が、その後40年近く危害に遭(あ)い続けている謎がある。奇妙な話の限界を超えている。話がそれるので、この話はここまでとして、訪米の話に戻る。


ともかく、伊丹空港の待ち時間がかなりあっても、伊丹の3時間は飛行機だけ見てもすごせた。成田の3時間強の待ち時間も飛行機だけ見て何とかすごせた。「飛行機が飛んだ」「飛行機が降りてきた」…と伊丹と成田合計7時間までは…であった。ただ単に飛行機の離着陸のみを見ていた。それ以外は何もしていない。

【📸:伊丹空港で飛行機を見る子供、私も真似を…】(写真№15-005-011)

15-005-011


《◇―2・伊丹から成田道中、富士山を見る》


気分はまだ悪くなかった。実際に、伊丹空港から羽田空港に向かう際に富士山を見たときには、大学院進学のため、東京へ夜行バスで行ったときのことを思い出し、次のようなメモをしている。
「この富士山。どこかで見た思い出がある。そう、早大大学院に合格したが、金欠で夜行バスで上京するときに見た。時間は夜明け直前であった。あの富士山と同様であった。」

【写真:伊丹から成田空港途中】富士山が見えた。真ん中の席から写す。(写真№ 15-008-027-200)

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これに関して、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(Kindle上下・各百円、$1)から引用する。

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……早大大学院には、親戚も知人もいない地に、金もほとんどなく倹約をして夜行バスで行く。下宿を見つけるまではと安い宿を探し、連れ込み旅館とは知らず入り恥をかき追い返され(その前は家の光会館で個室ではなく集団でごろ寝)……急いで安いアパートはあるだろうかと不安混じりに探す。

 大学院の奨学金はまず出ると思うも手続上半年近くは分からないし、その間は勿論出ない。仕送りはない。辛(かろ)うじて、かなりの本を収納できる安い下宿{早稲田界隈六畳一間(ひとま)で家賃一万円前後}を見つけ奇跡と喜ぶも、日光は全く当たらぬなど問題多数あり、バイトも凄い数の面接を受けるがすぐには就けず。
仕送りは一円も無し、奨学金無し、バイト当面無し、知人無し。知人が多い関西や岡山の実家までは遠いのみか旅費がかかり簡単には戻られず。

西宮市教育委員会時代に貯めた金が底をつくまでにバイトは見つかるか否か。……だが安易に親に仕送りを依頼する気はない。姉への援助依頼は考えたことなどただの一パーセントもない。……
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飛行機の中で見た富士山は、夜行バスで上京途中でのトイレ休憩のときに見た富士山と同一であった。



《◇―3・成田空港にて》


伊丹空港をでてから、成田空港までは近かった。物足りないくらい短かった。1時間25分程度であった。
成田空港の飛行機は汗をかいていた。冷や汗であった。
それは私の旅を暗示していた。


【📸冷や汗をかいている飛行機】(写真№ 15-008-039)

15-008-039

【📸逆光の成田空港-1】(写真№ 15-005-18)
写真の極意は人の考えとは真逆である。逆光の人生は誰とて避けたい。だが、写真となれば別であり、特に太陽が見えれば話は全く違ってくる。写真の極意、それは太陽に向かって撮れ!勿論、目を守ることを忘れないように。

15-005-018

【📸逆光の成田空港-2】(写真№ 15-005-17)

15-005-017

長時間の待ち時間の後でバンクーバーに向かう。
この頃から徐々に待ち時間が面倒となっていた。些細な問題でしかない。
待ち時間の問題だけであり、まだ、驚く話ではなかった。
問題は成田空港を出てからバンクーバー空港道中にあった。
ここでは、プロレスで言えば、リング内ではなくリング外の出来事が主役となっていた。

《◇―4・成田空港からバンクーバーへ―トイレ攻撃開始》


成田発バンクーバー空港便は満席であり、一席も空いていない状態であった。
飛行機は汽車・電車と異なり座席が狭い。
その上、私の席は4列席か3列席であった。
今回の記録ではフライトは8時間50分となっているが、10時間以上かかったのではないかと思う。時間の計算は日付変更線(※1)を通るためややこしい。

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(※1)【②記録―1】時差のややこしさ。成田を2月27日の19時にでて、長いフライトを経てバンクーバーには2月27日の午前10時半に着く。
即ち、タイムマシンと同様に、時間は逆に戻っている。夜出発をして、同じ日の朝に着く。午後19時→午後18時→午後17時→……午前12時→午前10時半着である。これを英語ではGaining dayという。
 なお、この日飛行機は全て満席であった。さらに、もの凄く太い腕をしている人が目立った。私のガードマンというが如(ごと)くに。
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すると、途中で何度かトイレに行くことになる。通路側ならば問題はない。
真ん中に座ると、窓からの風景が見えないばかりではなく、トイレに行くときに、隣の人が寝ていれば起こしていかなければならない。

寝ている人を揺さぶって「すみません、ちょっとトイレに行きますので…」と。狭い場合には隣の人に通路に一度立ってもらって出なければならない。
こういうときほどトイレが近い。一度ではすまないときもある。

これが意外と応える。特に、日本人ならばそうである。
こうして、一回目のトイレに行く。
「すみませんが、…でトイレに…」と。隣の女性は気持ちよくどいてくれた。
トイレに行くとびっくりした。
長い行列ができていた。
トイレ待ちの行列である。
かなり待って、私の番がきた。
すると、突如場内アナウンスがあった。

「これから…に突入しますので、トイレは使用禁止で…立っている方は座席にすぐにお戻りください。そして安全ベルトの着用をお願いします」と。
この場内アナウンスは英語のみであったか・日本語もあったかは今は忘れてしまった。飛行機はエア・カナダだったと思う。スチュワーデスは全員外国人だった記憶がある。アナウンスは英語とフランス語の両方だったかもしれない。
やむなく、再度、私の横に座っている人に事情を言って立ってもらい、座席に座る。

かなりして、「…を超えましたので…安全ベルト解除…」と。
そして、私は再度、隣で寝ている人を起こして、トイレに。
またもや長蛇の列である。
漸(ようや)く、私の番が来た。

すると、また…「…に突入しますので、トイレは使用禁止で…立っている方は座席にすぐにお戻りください。そして安全ベルトの着用をお願いします」と。
こうしてまた寝かけている人を起こし、再度座る。

しかし、トイレには行きたい。
そこで、待ちに待ち、隣の人を起こしてトイレに…。
また長い行列でトイレ待ちをして、漸く、私の番が来た。すると、またまた「…に突入しますので、トイレは使用禁止で…立っている方は座席にすぐにお戻りください。そして安全ベルトの着用をお願いします」と。

私はこれは故意にやっているのではないか、と。私は意を決した。
無視して、トイレに入ってやる、と。
場合によれば、飛行場でペナルティとして退場を命じられるかもしれないが、もう、我慢ができない。
すると、不思議なことに、先ほどのアナウンスはなかったかのようにトイレで用を足せ、同時に、おとがめもなかった。更に不思議なことは、「…を超えましたので…安全ベルト解除…」のアナウンスもなかったような記憶がある。

帰国から暫(しばら)くして、記録を整理したが、その記録が今は紛失しているため、先の三度は二度であったかもしれないし、私が用を足した後で「…を超えましたので…安全ベルト解除…」のアナウンスはあったかもしれない。ともかく、指示を無視してのトイレ強行となった。


これらは訪中や訪韓の際にもあった。
訪中の際には、記念館に入る際に赤外線探知機のチェックがあった。入るときは問題なかった。出るときも問題はなかった。
だが、忘れ物をしていたので、ツアーの一行を待たしてはならぬと、再度、急いで入ろうとすると赤外線探知機がピーピーとなった。しかし、急いでいたので無視すると、係員は「あっ、あっ、あっ、あっ」と言うだけで、しまいには笑っていた。まだ、この頃は胡錦濤・温家宝両氏も力を持っていたときである。(2013年5月である。)

中国で赤外線探知機がなっていても無視して入っておとがめがなかったのは私くらいかもしれない。今後はしないであろうが。もっとも、訪中に際しては、空港でも金属類を持っていないのに、ブザーがなりまくって弱ったというよりも、からかっているのかと感じたことが前提にあった。これは日本の空港か・中国の空港か・両方の空港であったかは忘れた。

韓国から帰路の際には、飛行士が曲芸のまねごとをした。「🎃オジョウ」が言うには、韓国のパイロットには軍隊あがりの人が多いとのことであった。


こうした過去の例より、無視してトイレとなった次第である。だが、その前に自然現象には限界がある。しかし、これは後で効いた。

座席に戻るや、またもトイレに行きたくなる。再度あの繰り返しか…と思うと憂鬱(ゆううつ)となった。結局あと二回トイレに行ったと思うが、一回だったかもしれない。

とにかく、この日に限り、利尿剤ではないが、トイレに行きたくなる。
しかし、寝ている人を何度も起こすのは気が引ける。
その結果、成田からバンクーバーまではトイレに行こうか・止(や)めとこうかだけを終始考えて、一睡もできなかった。約10時間もである。

また、私の両隣が若い女性であり、寝てもたれてもよくないという思いもあり、コクリともできなかった。こうして、フライト時間(伊丹~成田、成田~バンクーバー、バンクーバーからラスベガスへの)合計14時間は一睡もできなかった。
出発前もトラブル連続で睡眠不足の上に、更に長時間一睡もできなかった。


《◇―5》で述べるバンクーバー空港でも、待ち時間の間に椅子で寝ようとしたが、何か興奮剤でも入れられた飲み物か・食べ物を飲食したようで、これまた一睡もできなかった。要するに1日半か2日間一睡もできぬ羽目となる。

ツアーの他のメンバーは飛行機中でも寝られるし、飛行場の椅子(駅にある椅子)のようなものでも、腰をかけてうとうとできたかもしれないが、私は全く一分たりとも寝られなかった。あの添乗員の女性は目にタオルを当てて、飛行機の中では気持ち良さそうに寝ていたようにも見えた。


なお、女性についても不思議なことがあった。
私は、基本英会話は忘れているので最低限の英会話だけでも復習をしようとすると、恰(あたか)も隣の女性が邪魔をしているように様々なことをしていた記憶がある。

また、トイレに行く際に、「客室乗務員」(CA:Cabin Attendant)の女性が軽くぶつかる真似をした。それも私の肘に胸が当たるように。その都度、私は日本語で「わっと」驚きの声を発し、次に英語で「I’m terribly sorry.」と言い続けた。私の様子を見て、相手の女性は、聞いていたのとは違うというような雰囲気であった。恰(あたか)も、日本政府か誰かが、私が女性に接触したがる類のデマでも流したのかと後には思ったほど不自然であった。女性が何かの実験をしたようである。

何故、日本政府かというと、私の隣席の女性などは官僚の臭いがしていたからである。


長いフライト時間が終わりに近づいたときにはほっとした。飛行機のエコノミークラスでの満席とは、汽車・電車の4人がけ座席よりも窮屈な状態である。それが満席であり、成田からバンクーバーだけでも通常のフライト時間の平均は8時間55分(約9時間)である。岡山駅から東京駅まで新幹線で往復する時間よりも長い。

一睡もせず、ぎゅうぎゅう詰めが終わりに近づいてきた。退屈しのぎに外を見ようとしても窓側でなく何も見えない。また通路側ならばトイレで苦労はしない。真ん中である。四人がけの場合はトイレに行くのに場合によれば三人を起こさねばならない。三人がけでも窓側ならば毎回二人を起こさねばならない。

こうしたときに、先のトイレ攻撃をやられると、相当回数トイレに行く場合には、気の弱い(若しくは紳士・淑女の多い)日本人ならばこれ一つでもう行く気は起こらなくなるであろう。


長い夜、何もしない夜、トイレの事で頭がいっぱいの夜、正確には時差の関係で夜か昼か分からない夜があけかけたときは希望の光が見えた如(ごと)しであった。

そのときに、乗客サービスの人が「Chicken、Chicken.」と言って回り始めた。朝食のことであろう。だが私は鶏肉は嫌いである。しかし、乗客サービスの人は、故意か偶然か発音が不鮮明であり「Kitchen」と言っているようにも聞こえた。調理のことか「鶏」か分からなくなり、頼んで残すのは失礼と考えて「No, Thank you」で断った。再度来られたときには「I appreciate your kindness, but no thank you.」と丁寧に断った。


こうして、長い長い夜は終わった。
次はバンクーバー空港での5時間以上の待ち時間が待っていた。
死の行進ならず、こうした場外乱闘を記せば、我が家界隈の人間は誰も絶対に行くとは言わないだろう。

しかし、読者が行きだけが難関で帰りはヤレヤレだろうと思っているならば大間違いである。実は私もそう考えていた。行きだけの我慢だ、と。
だが、日本の歌に「行きはよいよい、帰りは怖い」という歌がある。
行きが大変で、帰りはもう何もなかろうは逆であった。私の訪韓(2013年12月)を思い出すがよい。
帰りはこれ以上の大トラブル、否(いな)、大騒動が待っていた。私が怒り狂い、当時の外務大臣を名指して「岸田を出せ」(2023/11/03現在の総理大臣)とまで言った状況となる。
帰りの話は第3章第7節でしよう。

帰国してから暫(しばら)くして、「🎃オジョウ」に会った。
🎃「オジョウ」は聞いた。「それアメリカ国内の話」
🤡「違う。カナダ国内と、日本とカナダの間」
🎃「そうだろうと思った」

当時の大統領・オバマ氏と副大統領・バイデン氏は言うであろう。
「内政不干渉でどうしようもない」と。
ミスタートルドー(2023年現在のカナダ首相)は言うであろう。
「その頃、僕は首相ではなかった」と。
(帰りは空路ではなく、バンクーバー空港での大立周りがまっていた。)

《◇―5・バンクーバー空港にて》

【📸】バンクーバー空港にて(写真№ 15-005-028)

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【📸:私がバンクーバー空港で一番長く座っていた場所】(写真№ 15-008-049)
待ち時間5時間余りの大半がこのベンチに座っていた。飛行機の離着陸を見ようにも、この場所から見ると飛行機は余り来なかった記憶がある。また寝心地が良いかどうかも、写真を見れば分かろう。

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バンクーバー空港についた模様を当時の記録から引用する。

☆☆☆☆☆
「ラスベガス行きの飛行機を待つ間だけとはいえ、はじめてカナダの大地を見る。至る所で木が強調されていた。カナダ入国側は、日本で言えば定年後に来ているという牧歌的な職員が多かった。
田舎の小父さんを連想させる職員がいた。大変フレンドリーな小父さんであった。私は彼に向かって「(You are) family type Officer (正確にはYou are a family-like officer.)」と言ってみた。すると、この牧歌的な職員がプレスリー(Elvis Aron Presley)の真似をしていた。何故か、みんながプレスリーを強調していた。

 行きの飛行機は空席なしの満員のようであった。同時に、プロレスラーの如く腕をした人が多数乗っていた。まるで、私のガードマンと言うが如しに。しかし、ガードマンやSPでもトイレ問題では何の役にも立たぬ。


 またバンクーバー空港でのアメリカ側入国審査では、いかにも怖そうな職員が対応してきた。そのときの話の一部は拙著公式HPの「2015年FIELD」で紹介している。詳細は作品にて記す。この怖そうなAfrican Americanの職員が人に分からぬように最後に言った言葉。「Bye, bye」、と茶目っ気に。
☆☆☆☆☆


最後の部分について言えば、アメリカ側入国審査の人と私が英語でやり合うことになっていたのであろうか。添乗員などが興味津々というよりも不安気に見ていた。
係員は体が頑丈なアフリカン系アメリカ人であった。残念ながら、何かにこのときの経緯をメモしたのであるが、それがでてこない。公式HPの「2015年FIELD」の残っている一部にも記載がない。

今、覚えているのは、怖そうな人が、怖そうな形で、私に指四本を出せと言った。勿論英語で。私は五本だろうと応えて、五本をだした。それ以外にも何か奇妙なことを言ったので、冗談交じりにも思える形で英語で対応したと思う。すると、別れ際に、係員が、恰(あたか)も子供の如(ごと)く、茶目っ気たっぷりに「👋バイバイ(Bye-bye)」と言った話である。
肝心な部分の英語でのやりとりをしたメモは現時点(2023年10月27日時点)では見当たらない。ともかく、結論は面白い話である。


続いて、2015年の手記には次のように書いている。
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「バンクーバーは、行きと帰りの合計八時間滞在したが、全て空港内の待合室(出発カウンター前)のみであった。いつか、行ける日々がくればよいが。もっとも、トイレ問題もあるが…」
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【📸:私にカナダに来いと叫ぶ人形】(写真№ 15-005-039)。

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ましてや、トルドー首相(Justin Trudeau)がいる間に一度行けたならばとも思うが、今は夢物語である。同時に、今、本格的なField Workをする気力もない。私の旅は観光旅行では一切ないが、今はField Workにもならず、「インディジョーンズ(Indiana Jones)の世界」の如く、アドベンチャーの連続であり、疲れる。


使命を帯びた旅はもう良いが、観光旅行までならなくても良いので、せめてField Workになる旅を望んでいる。
もっとも、私の警備問題があるようである。その警備模様と私のホテル監禁工作については、この《◇―5》の最後の方で記す。
その前に、バンクバー空港で印象に残ったものを写真とともに解説する。


【📸:バンクーバー空港に飾ってあったTransformation Mask】(写真№ 15-005-042)

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【📸上記のマスクの解説文】(写真№15-005-025)

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◎上記の英文
The transformation mask is one of the most dramatic carvings of the KwakKwaka’wakw peoples.
It depicts the inner and outer being.
The dancer emerges from behind a dance screen with the mask in the closed position.
As the dance proceeds, the dancer whirls about and the mask snaps open to reveal the inner beings.
The mask, carved from red cedar, presents Raven on the outside.
Bak’was, the wild man of the woods, appears within.


【浜田隆政:訳例】
(オープニングマスクとしても知られる)変身マスクはクワキウトル族の最も印象的な彫刻の一つです。
そのマスクは内なる存在と外なる存在を描いています。
踊り手は、マスクを閉じた状態のままで、ダンススクリーンの背後から現れます。
踊りが進むにつれ、踊り手は旋回をし、マスクがパチンと開いて、内側の存在を露呈します。
赤いスギの一種で作られたマスクは外側にワタリガラスを描いています
木から作られた森の野生人・バクワスが内側から現れてきます。


Facebookにトランスフォーメーションマスクについて、当時、次のように書き込みをした。(誤字の一部とレイアウトは今回変えている。原文はFacebookに保存がある。)

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Facebook書き込み№15-21-4.「This is America」第一話・アメリカまでの道バンクーバー空港にて(トランスフォーメーションマスク)。

このトランスフォーメーションマスクが、アメリカでのトラブルとは別の光を暗示していた。ネイティブ・アメリカンを初めとする多くのマイノリティと分類される人達との出会いであった。
私は、大昔に、女子高校の教壇に立っていたときに、次の試験問題をだしたことがある。「マザーテレサは貧しい人は美しい、となぜ言ったのかを書きなさい」。

マイノリティの人がすべて貧しい訳ではない。同時に、すべて美しい訳でもない。だが、私自身が苦学生であった経験から、過去にしいたげられた人達(現在もそうした状態は解消していないと思われる)に、愛着を持つのである。
 この旅ではトラブルと、他方、第三話で記す虹三昧(ざんまい)、それにラスベガスでの光三昧を見た。

マザーテレサをだしたついでに、聖書の一節を引用し、為政者達に贈る。

「Blessed are the peacemakers: for they shall be called sons of God.」
(平和をつくり出す人たちはさいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。)


マザーテレサとの逸話は拙著「浜田隆政公式Blog」を参照いただきたい。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=676
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【📸バンクーバーは木の街であった。バンクーバー空港にて】(写真№ 15-008-042)

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私の旅では、海外では凄(すご)い警備があるとしか思えない。
天皇陛下並みの道路規制もなされているようである。公害もない。中国でも綺麗な空続きであった。1995年のバンコクでも交通渋滞は一切ない。韓国でもラッシュアワーすらない。

警備状況は現地について即披露される。中国では翌朝は私と同じ衣装をしたSPらしき人が50人程度でてきたであろうか。韓国では安重根記念碑の周りに軍隊が登場していた。アメリカではプロレスラーの如く、ボディガード風の人が飛行機から降りる際に登場していた。

更に、アメリカではホテルは全て裏口から通され、一度もフロントに行けなかった。アメリカの警備模様の詳細は二日目の旅行模様から記すとする。

同時に、海外に行くと、ホテル監禁政策が実行されている。
1995年のタイではビールに何かを入れられ体調が悪化して、1993年の大吐血が脳裏をよぎり外出を阻止された。

2013年5月の中国ではホテルの鍵がちょっとやそっとではあかず、毎回、フロントに行くのが嫌になり、外出気分をなくさせられた。郊外で外出しても良いというときには、通行人を完全遮断して、人口千万人を超える上海や蘇州の20時頃の大歩道でも、やや郊外とはいえ、私が通るときには誰も歩かなかった。例外があればサクラ型人間程度であった。

2013年12月の韓国では英語も日本語も通じぬ振りをされ、言葉で外出気分をそがれた。それでも気力を振り絞って外出をしたときがあったが、道中で、韓国の若者が話しかけてくるやガードマンか警察の服を着た人が登場して、通行人と私をさえぎり、私が道路からソウルタワーを撮影している50分程度の間中、私から30センチ離れた場所に立ち続けていた。予定していた安重根記念館では軍隊が周りを囲んでいた。

アメリカでは睡眠不足で、外出を阻止されたように思えた。外出する時間があればベットに横たわった方が良い、と。
当時のメモには、そうした分析はしていないが、睡眠不足の記録だけは何度も登場してくるのはそのせいと思われる。


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「【③記録―2】睡眠不足とトイレで泣く。
日本時間で睡眠時間を計算
1日目→機内泊で睡眠0時間、
2日目→宿=3時間、
3日目→4時間、
4日目=0時間、
5日目=0時間。

出発前はトラブル続きで睡眠不足であった。
前日も余り寝ていない。
家を発つ一週間程度はトラブル連続で熟睡もしておらず。
その上、飛行機はすべて真ん中の席であり、景色も見えず、それどころかトイレに行くにも人を起こさねばいけずに参る。座席は二人の女性に囲まれる形となっていた。そして狭い。寝ればどちらかの女性にぶつかる可能性もあった。

しかし、それ以上にトイレ問題で寝る気力が起こらず。実際、ホテルについた時には尿はほとんどでなかった。
機内などでトイレを避けるため水分補給を自粛したからである。
機内24時間は一睡もできず。
ともかく、この旅では飛行機はトイレで泣かされた。更に、便秘気分で参る。」
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上記の如く、帰国後の記録では書いている。
私は5日間合計で睡眠時間は5時間であったと思っていたが、記録を見ると5日間合計で7時間寝ているようである。そんなに寝たであろうか。

その後も寝られなかった理由も随所で記すが、一つだけ記せば、他の人はバスの中で寝られる。しかし、監禁状態の私がバスの中で寝れば、撮影はゼロとなる危険があったため、バス中では睡魔に襲われても必死で我慢して、撮影をしまくっていた。当時は、あの状況ではビートルズ並みに外出禁止で、バスの中以外からは撮影できないと分析したからである。
後は当時の記録から記そう。


ただし、いずれの国も外出をさせてくれる時がごく希(まれ)にあったが、そのときには中国型で他の通行人を通さないか、通ってもサクラ類としていたように思えた。アメリカでは訪米最後の日のラスベガスがそれに該当する。それ以外で外出できたのは、警備がしやすく、誰も入ってこないような地、アメリカならばレイクパウエルなどでしかなかった。

どこかで記すが、万一、今度海外に行った際に、私を余り外にだしたくないならば、事前に出て良い日と場所以外はホテル自粛を口頭か文書で要請すれば済むだけの話であり、正々堂々と私に単刀直入に依頼することが望ましい。それが契約社会どころか、民主主義社会の常識である。


当時の手記から、再度、カナダ関連の引用をしておく。

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 もし、世界中の人が私を見ているとすれば、アメリカで大変であったと思うかもしれない。しかし、より大変であったのはアメリカの領土以外であった。
【往路】即(すなわ)ち、成田空港~バンクーバー空港迄(まで)の方である。
【帰路】さらに、帰路はバンクーバー空港内で大変であった。同時にバンクーバー空港~成田空港間で通常の人には分からぬ大変なことがあった。この間の大変さはアメリカ領土内であったことを上回っていた。トイレ問題も、人には分からぬ・気づかぬ多くの謀略が別にあった。どこかで書くときもあろう!ちなみに、飛行機もアメリカ関連の飛行機会社ではないとくる。人には分からぬ米国領土外であったことを記すだけでも、簡単な本が一冊書けるかもしれない。

 しかし、カナダには興味を持つ。仮定法であるが、いつかカナダにも行けたならばとも思う。行きがけ、バンクーバー空港で四時間以上の待ち時間があったので、空港周辺をタクシーで行き来すればよかったとも後に思った。しかし、当時はそんな悠長(ゆうちょう)な状況ではなかった。
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【📸最後に、当時の私の心境を表す写真】(写真№15-008-047)。

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《◇―6・ようやくアメリカ本土へ》

 

伊丹のホテルをでてから、約二十六時間後にラスベガス空港に着く。

【📸ラスベガス空港着】(写真№ 15-005-044)

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ラスベガス空港からホテルまでは貸し切りバスが用意されていた。
そして、この貸し切りバスと専用運転手のジョーさん、更に現地案内人を加えての連日のバス移動が待っていた。そこで、アメリカでは一般のアメリカ人が乗る乗り物には一切乗っていない。また行動は全て、ツアーの一行と共にであり、一人では最後の2時間を除き外出はできないようにされてもいた。因(ちな)みに、伊丹から一緒していた添乗員も常時いた。

ラスベガス空港から専用バスに乗るとすぐホテルに着いた。
ホテルに着いたが、裏口(従業員の専用口に見える通路)からホテルに入り、フロントは通らなかった。添乗員がまとめて鍵をとりにいき、ツアーのメンバーに渡していた。そこで、フロントでの氏名記入(サイン)すらなかった。それどころか、このホテルのフロントの顔すら見ることはなかった。

後は当時の手記から引用する。

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【④収穫―1】Beer, Good!
この夜の食堂では元気の良いウェーターがでてきた。
私とリズムが合った。
後に分かったがネイティブ・アメリカン(Native American)・先住民( Indigenous people)の子孫らしかった。
英語は余り得意そうではなかった。
とは言え、英語音痴の私とは比較になるまい。
ひょっとすると英語以外の独自の言語を使っているのかもしれない。不明である。
彼と交わした会話。

彼「Beer, Good」。
私「Good!」。
彼「Oh! Beer, Good」である。

なお料金は38ドルと思う。(ビールとステーキとコーラ)。
チップとして7ドルをおく

ホテルの部屋に戻ってからどうもおかしい。ひょっとするとコーラ代金を取り忘れたのか。それともステーキのサービスドリンクなのか。訳が分からぬも、配達も彼、チェックの時の勘定も彼……のため、ここで打ち切りとした。

「コーラ代金の取り忘れでは」などと、レストランに戻ると、一歩間違うと彼が解雇されることもありうる。よくミスをするとしてボスから解雇もありうる。
同時に、私の方は相場額以上に、チップをホテル内の随所で支払ってもいる。

なお、この後、明日の待ち合わせ場所確認でホテル内を散策するも、広く、道が分からず。当然、ホテルからの外出は一切中止。途中、例の添乗員に出会う。
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【⑤収穫―2】
ホテル内にはカジノがあったが、撮影はプライバシー権の関係でしておらず。
ホテルの部屋は結構大きいが、かなり古かった。特に、エアコンがひどかった。しかし、スイッチを切り放置すると自然に適温となった。
トイレはウォシュレットではなく、低かった。
バスも今一つか。
絵は悪くないも帰宅時に止まった部屋と同一の絵であった。

なお、アメリカでの三泊はいずれも、裏口からはいり係員はいなかった。この日、このホテルで出逢った人間の大半がマイナリティであった。
ネイティブアメリカン、アフリカンアメリカン、ヒスパニック、アジア系と。白人はわずかしか見なかった。

食事をして翌日の出発準備をしていると、風呂にも入っていないのに、もう午前1時を回っていた。

翌日は午前5時にモーニングコールとなっていた。しかし午前4時前に自然と目が覚めた。よって3時間も寝られなかった。このホテルにて後日作品化する、様々なヒントに出会った。
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なお、ラスベガスショーなどを観るオプショナルツアーがあると言っていたが、上記の日程で翌朝5時起床では行ける訳がない。その前に金もない。

韓国では到着するや、ホテルでテレビを見ていると、最初は音楽番組で(恰も、私を示唆するが如く)老人が強調され、…後には朴槿恵大統領が登場してきた。
アメリカは真逆であった。テレビをつけると何故か、FOXテレビばかりが出てきた。FOXテレビは共和党よりのメディアであることを知ったのは帰国後であった。そこで、アメリカ滞在中のテレビは大半FOXテレビとなった。ただし、帰国直前にアメリカ首脳(オバマ大統領、バイデン副大統領、ケリー国務長官)が登場した…が。

ともかく、翌朝5時のモーニングコール(Wake-up Call)のため早く寝ねばと思うが、熟睡どころかなかなか寝られなかった覚えがある。ところが、記録を見ると3時間寝ているとなっている。
上記の当時の日程表の如く、翌日の準備で午前1時を回っているのである。そして、モーニングコール前の午前4時前に目が覚めてもいたと記している。単純計算しても2時間台が2時間のはずである。例えば午前1時半就寝、午前3時40分起床の可能性が高いため、睡眠時間は3時間ではなく2時間となる。記録がしばしば改竄(かいざん)被害に遭(あ)っており、やはり、アメリカでは5日間合計での睡眠時間5時間が正解ではないかと思う。

ちなみに、ラスベガスで午前1時過ぎに寝て午前4時前起床とは、日本時間に直せば、17時過ぎに寝て20時前(19時台)に起きることを意味する。起きて、即、食事をした後で、700キロを超えるバスの旅が待っていた。
それも他の人と異なり、バス道中では撮影のため、一瞬たりとも寝てはならないという宿命を帯びていた。

優しい添乗員は私に言った。
「心配はいりません。ホテルには常駐の医師が滞在しています」、と。
RIVIERA HOTEL & CASINO泊

【📷RIVIERA HOTEL & CASINOで私が泊まった部屋】(写真№15-008-047)

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2023年11月6日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA