「2013年の真相」№18・第3章平和と差別なき世界を求めて:第1節・残された日々の中で
(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣💁正式公開
【更新履歴】
2021/04/28 13:27 掲載準備中
2021/04/28 19:17 下書掲載開始:19:40γ写真添付。αの追記は食事後予定
2021/04/28 23:29 追記終了で正式公開開始(ただし、後で一部修正する場合があります。) 2021/05/06 16:09タイトル一部修正
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2013年の真相―№18
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)
全体目次は下記。今回は2章第6節。
№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)
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第3章・平和と差別なき世界を求めて
第1節・残された日々の中で
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私の奇妙な人生については序章で簡単にふれた。詳しくは、『閉じた窓にも日は昇る』や『日本のフィクサー〝ME〟』に記している。奇妙な人生というよりは、私にとっては監禁・蛸部屋・貢ぎ労働を本質とする人権剥奪下の日々であった。そうした日々が三十年近くとなり、いつ死んでもおかしくない年となった。私の父が死んだのが七十九歳のため、父を基準に考えると、残された日々はあと十八年程度(二〇一三年当時)しかなくなった。そこで、私が十六歳頃から夢見てきた世界への道筋と、私自身の老後の生活を確保するための仕事探しに全エネルギーを注ぐことにした。それは何かを、大学時代の恩師を囲む会の記念冊子に記した文書から引用する。
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【📷1:後藤先生と友人が我が家へ①】(「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」)
写真はいずれもクリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大。
☞気がむけば一言【駿台】№228:人間違いを示唆する恩師と友人の訪問…
○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1474/
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―☆「後藤峯雄先生を囲む会」文集より抜粋☆☆―
冥途への一里塚。……人身の自由・経済の自由・職業選択の自由などの人権を剥奪された、ほぼ三十年とも言える日々が続いている。正に、マンデラの如く日々である。そこで、「定年後に何をしたいか」と聞かれると、「定年って何」としか聞き返せない。
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……斯くの如く他力本願の日々に閉じ込められ、正にいつ死んでもおかしくない還暦の年となった。老後の設計も立てられず、先の日々が霧の海の世界ならば、言えば、人に大笑いされることをしようかと考えている。それは、私の生前中に戦争なるものがこの世から消え去る道筋をつけることである。同時に、世界水準での人権を明確にすることである。ましてや差別などは以ての外であり、私の生存中に、それに終止符を確実に打つことである。具体的には、早い時期に、新国際経済秩序・新国際政治秩序を構築することを模索している。そのためには、米中露の接近が不可欠であり、それに向かっての橋渡しができればと考え、幾つかの行動を起こしている。気のせいか、ほんの少しではあるが、波紋が立ちかけているように思える。他方、妨害も熾烈である。
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だが、私の姪が言う。「そんなことよりも、まず、時給二千円でも良いのでバイトでも探せ」、と。〝然り〟である。他人に寄生する生活への忍耐はとっくの昔に限界を超えている。否(いな)、寄生ではなく、(生かさず・殺さずの)蛸部屋・監禁・奴隷労働の日々が実態というよりは実体であった。兎も角、私自身も大学・大手予備校教壇復活どころか、塾でも良いので当面の生活をと考えているが、こちらの方は暗中模索となっている。しかし見切り発車をとも考えつつある。……
―☆☆引用終了☆☆―
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【📷2:後藤先生と友人が我が家へ②】「朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや」
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夢見てきた世界に関して少し補足する。私は高校入学時から、友の会(社会問題を研究するサークル)に、後には部落問題研究部にも併せて所属し、差別なき社会や平和な社会を目指して活動していた。またセーフティネット問題にも取り組んでいた。そのときの基準は、出自等に関係なく、障害の度合いなどにも関係なく、貧窮の度合いと援助を必要とする緊急度に応じて、平等に救済していくことを方針としていた。
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今日まで、その考えは変わらないが、残された人生の中で、そうした社会実現に向けて、奇妙な境遇の中で〝日本のフィクサーME(=私)〟として、本格的に行動することを考えている。ただ、どのような行動をしたかは一部の人しか知らないのでは問題があるため、今回の如く出版を目指して、原稿・文書を出版社などに送付している。言わば、情報公開である。
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また、今のままでは、私自身が七十歳程度までしか生きられない。親からの遺産相続や国民年金などで七十歳までは生きられると試算しているが、その後は年六十万円支給の国民年金だけとなり、生計は不可能である。そこで、著述業か、教壇に復活し、プレゼンターとして生計を立てることを目標としている。特に、今、力を入れているのが著述業として生業を立てることである。著述業と言っても小説家などは目指していない。政治経済関連の書物か、エッセイや紀行文などである。
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その中でも、特に力を入れているのが『旅に心を求めて』という一連のシリーズである。このシリーズで最初に作成したのが『旅に心を求めて―教材編』であり、大学の授業で活用していた。写真・カメラを開始したのも、この教材・文献等をつくるのが目的であった。次が『旅に心を求めて―不条理編』(野麦峠への旅、広島への旅、水俣への旅からなる)である。これは難解でも評判が良かったみたいであるが、公の出版には至っていない。そして、今、『旅に心を求めて―懐かしきの心を求めて』(鑑真和上)を執筆中である。この作品との関係で、母死後のフィールド・ワークの有力候補として、中国への旅を考え始めた。ちなみに、それ以外のフィールド・ワークとしては、先の「不条理編」の中で三つを予告していた。
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―☆☆拙著『旅に心を求めて―不条理編』☆☆―
私の旅は、一九八三年から始まったが、一九九七年途中から今日まで、完全に封じ込められていた。生活の方は、少なくとも二二年に亘り、封じ込められていた。だが、いつ死んでもおかしくない年齢になり、条件が整い次第、残していた幾つかの旅をしなければならない。もし、通常の人が持っている憲法・法律に保障された自由を剥奪されることが止めば、長期夢みていた、次の三つの旅を最初にしたい。
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一つ目は、不条理編に追加するものとして、安重根(アン・ジュングン){初代韓国統監であった伊藤博文を暗殺したことで知られる韓国の英雄と言われる人物}の碑に一人静かに参ること。そして祈りたいことがある(遺骨が所在不明のため墓はない)。同時に対極にいた伊藤博文の墓・碑にも参りたいと考えている。安重根、伊藤博文については、頭を白紙にして何も分からない状態で、彼らの辿った道を歩いてみたいと考えている。これなくしては死ねないといっても過言ではない。不条理の典型を求めての旅である。それは、日本人とコリアンとの絆の構築を祈願しているからである。
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【📷3:安重根記念碑(ソウルにて)】
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【📷4:伊藤博文記念碑(山口県・光市にて)】
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雑談ではあるが、私はプロレスファンであり、一九六七年頃日本プロレスの会場に行ったことがある。猪木のファンであったが、私がカメラを向けても猪木はさっさと素通りで写せなかった(その数年後に新日本プロレスを見に行ったときには、私の甥の頭を撫でてくれたが)。ジャイアント馬場は、何度も何度も私の前を歩いたり、さりげなく止まったりして写真が撮りやすいようにしてくれた。今考えると、シャイな馬場の思いやりであったと思う。大木金太郎(韓国名・金一=キム・イル)は、当時高校一年生の頃であった私の側に自らやって来て一緒に写真に収まってくれた。だから、本当は彼が生きている内に韓国に行き、大木金太郎の家にも行きたかったが、もはや彼は二〇〇六年に死んでしまった。
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【📷5:大木金太郎氏と私】(1968年頃、津山市にて)
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二つ目が、『生命への畏敬』で最も重視している旅である。第五福竜丸の跡地、義民・佐倉惣五郎の碑、田中正造の碑と墓、最後に花岡鉱山へ行き着く旅である。当時、『旅に心を求めて―教材編』の最終章「遙かな、遙かなる旅路」として構想を練っていた旅である。旅のテーマは、今回、省略する。
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【📷6:田中正造の墓】(館林市 雲龍寺 )
☞現在巨大写真コーナー・第一会場で順次掲載中
http://h-takamasa.com/conversation/custom15.html
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【📷7:田中正造の墓】( 佐野市 惣宗寺 )
☞現在巨大写真コーナー・第二会場で順次掲載中
http://takachan1.xsrv.jp/ginou/custom7.html
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三つ目が、ベトナムのホーチミンの碑と、グエン・バンチョイの墓である。テーマは平和祈願の旅である。今日のアフガニスタン・イラク問題への鍵を求めての旅である。
その後は……、どうなるかは不明である。私の旅は、「前書き」に記したように、人と人の―時には世界の―絆を願っての旅でもある。そして何故か、結果として寄与しているのでは、と感じることが多々ある。よって、どうか、妨害が止むことを。……
―☆☆引用終了☆☆―
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【📷】空白(まだ撮影しておらず)
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こうして、母の死後に、次のフィールドワークとして頭にあったのが、先の三つと中国である。その中で、私を招聘する意思がある国に行くことにした。招聘する意思を何で見分けるかについては、旅行代金が常識とは思えない値をつけたときに、その意思があると解釈することにした。中国ツアーが、既述の如く、六泊七日の旅で、往復飛行機代、六泊のホテル代、十八食、現地の移動費(上海~蘇州~杭州~上海)、諸記念館の入場料込みで二万九千九百円をつけた。これを中国の意思とみた。そして、鑑真関連の原稿との関係で中国へ行った。
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その頃、韓国ツアーは二泊三日で、往復飛行機代、ホテル代、ホテルと飛行場往復交通費込みで九千八百円をつけていた。しかし、中国の旅の後で、二〇一三年十一月には、韓国ツアーが七千八百円をつけた。この値段を見て韓国も受入れ姿勢があると解釈し、韓国にも行くことになる。
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旅行代金問題に関して言えば、私が行くので相手にディスカウントしろと言っているのではない。私が行く国では、過去に、私への警備の関係かどうかは不明であるが、軍隊が出てきたり、交通規制があったり等々で、相手国も大変と感じたからである。そこで、相手国の同意の意思表示を見るための指標として、ツアー旅行代金を目安としていた。なお、この頃、台湾も格安料金で私を招聘しているように思えた。
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台湾は、私の敬愛する王貞治さんとも縁がある地であり、大変興味を持っている。しかし、テーマの問題もあり、韓国を優先した。ただし、韓国への旅の後で、旅行代金で、その国の合図と考えるのは止めようかと考え出した。その訳は第4章全体を読んでもらえば分かるであろう。なお、韓国の旅の前に、関連する一連の旅を行っていた。(第2節と3節参照。)
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第2節・李明博大統領生誕地を訪ねての旅
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