作業中。G20-世界の首脳(12)トルコ:レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領。

G20-世界の首脳(12)トルコ:レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領。

 


【構成】
(1)トルコ共和国の一般概況
(2)トルコ共和国の歌
(3)トルコ共和国紹介
(4)トルコ共和国へ
(5)その他




(1)  トルコ共和国(Republic of Turkey)
①外務省→トルコ共和国
一般事情→http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/turkey/data.html#section1

②  レジェップ・タイイップ・エルドアン
(Recep Tayyip Erdoğan, 1954年2月26日 – )大統領
第12代大統領(2014年8月28日 – )、前首相(2003年 – 2014年)

外務省のHP:レジェップ・タイップ・エルドアン大統領略歴
Recep Tayyip ERDOĞAN
→  http://www.mofa.go.jp/mofaj/me_a/me1/tr/page23_001135.html

写真は大統領のFacebookから借用。

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③ウィキペデイア→トルコ共和国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3

④トルコ・及び大統領の発信情報
大統領のFacebook(トルコ語)→https://www.facebook.com/RecepTayyipErdogan/
大統領のTwitter(英語)→https://twitter.com/search?q=Erdogan&src=typd



(2)トルコの歌

①Üsküdar’a giderken – Katibim – YouTube
→トルコを彷彿(ほうふつ)させる歌です。



②トルコ軍隊行進曲
トルコと言えば、行進曲のメッカです。今回は以下を紹介します。

③トルコ行進曲がありますが、今回は、都合で省略しています。


(3)トルコ共和国の紹介

①トルコの風習と歌(人の暮らし編含む)
Amazing Turkey


②トルコの風景
10 Most Beautiful Places to Visit in Turkey – YouTube




(4)トルコについて。

トルコはどこにあるか。
トルコ政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としている。
現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として、現在欧州連合 (EU) へ加盟申請中である。他方、日本の公式見解では、中東アジアの国として分類されている。


トルコと言えば、親日国として知られている。私が教壇に立っていた短期大学校でも、トルコからの研修生がきたことがある。
どうして、親日なのか、不思議に思っていた。調べていると、ひょっとすると、1890年のエルトゥールル号遭難事件が関係しているかもしれない。
また、山田寅次郎なる人物を、日本・トルコの友好に寄与した人物として記憶にとどめておく必要があるかもしれない。

以下、エルトゥールル号遭難事件について、ウィキペディアから引用する。

《引用開始》
エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル(Ertuğrul Fırkateyni)が、現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し500名以上の犠牲者を出した事件。

……オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねて大日本帝国(日本)へ派遣されることとなった。

 1889年7月14日、イスタンブールを出港。数々の困難に遭いながらも航海の途上に立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11か月をかけて翌1890年6月7日に、ようやく日本に到着した。横浜港に入港したエルトゥールルの司令官オスマン・パシャを特使とする一行は6月13日に皇帝親書を明治天皇に奉呈し、オスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けた。


帰途に遭難
……
エルトゥールルは出港以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗員の消耗、資金不足に伴う物資不足が限界に達していた。また、多くの乗員がコレラに見舞われたため、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけた。そのような状況から、遠洋航海に耐えないエルトゥールルの消耗ぶりをみた日本側が台風の時期をやり過ごすように勧告するも、オスマン帝国側は、その制止を振り切って帰路についた。

……遭難事件はその帰途に起こった。
9月16日21時ごろに、……座礁したエルトゥールルは、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし22時半ごろに沈没し。これにより、司令官オスマン・パシャ(ドイツ語版)をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。

救難活動
……通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風により出漁できず、食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還することが出来た。その一方で残る587名は、死亡または行方不明となり、大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おき しゅう)に伝えられた。

……
知らせを聞いた明治天皇は、政府に対し、可能な限りの援助を行うよう指示した。各新聞は衝撃的なニュースとして伝え、義捐金・弔慰金も寄せられた。

遭難事件後の日土関係[編集]
……
エルトゥールルの遭難はオスマン帝国内に大きな衝撃を呼んだが、……このとき新聞を通じて大島村民による救助活動や、日本政府の尽力が伝えられ、当時オスマン帝国の人々は、遠い異国である日本と日本人に対して、好印象を抱いたといわれている。
……
山田寅次郎

……山田寅次郎もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本国内で民間から『エルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金』を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に、集まった義捐金を携えて自らオスマン帝国の首都・イスタンブールに渡った。

山田が民間人ながら義捐金を持ってやってきたことが知られるや、彼は熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。このとき、皇帝の要請でトルコに留まることを決意した山田は、イスタンブールに貿易商店を開き、士官学校で少壮の士官に日本語や日本のことを教え、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日土国交が樹立されない中で官民の交流に尽力した。彼が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後にトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされる。
《引用終了》

引用元→ウィキペディア日本語版・「エルトゥールル号遭難事件」で検索(検索日2016年10月27日。リンクは以下)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6


トルコにも、機会が来れば訪問したいと思う。
ちなみに、数年前にトルコ十日日間(全食事付き、一流ホテル泊、現地移動費込みで十万円丁度のときがあった。それも燃料チャージ込みであったかもしれない)。このときに行けるものならば行っておけば良かったと思う。

しかし、当時は、予算面からも、超多忙スケジュール面からも、無理であった。ちなみに、あの頃は、何故か、膨大な国からオファーがあるような超破格の値段でのツアーが幾つもきていたときであった。

将来のことを言えば鬼が笑うであろうが、万一、自由の身になり、経済の自由・人身の自由を取り戻せば、トルコも訪問したい国の一つであることだけを記しておく。