夢か-13:・写真家緑川洋一(3)彼の忠告「写真は引き算」への私の言い分
緑川氏が、私の撮影に関して「引き算」を強調されたことへの弁明。
(この文は2001年12月4日に記述し、2015年5月30日誤字・脱字のごく一部を修正したが、誤字・脱字をも含めて本格修正はしていない。理由は超多忙だからである。なお、この文章は、まだ、デジタルが主流ではなく、フィルム式カメラが主流のときであることを強調しておく。著名人との出会いの中で、現在のミーハー的カメラマン・撮影者にいろいろと考えてもらいたいこともあり、不完全な文章でもそのままの形で、緑川氏の件を収録した次第である。今回の記述は、カメラ・写真に興味のない方は読んでも面白くないかもしれません。)
写真は「引き算である」助言への私の言い分
(浜田隆政覚書:2001/12/14:写真に関するメモ」より抜粋)
緑川洋一氏がテレビで「写真は引き算である」と、私に向かって言われたことがある。実際その通りである。ましてや、超ベテランのアドバイスのため教訓的に聞けば問題はない。しかし、私の病気のせいか、若しくは現実にか〝緑川氏が私へのこの間の写真批判〟として言われたように思えた。そこで、それへの反論というか弁解を以下記す。
(1)現在の限界-1(干渉による撮影上の限界)
前回の上ID村、あるいはY家など確かに撮影方法として引き算的に撮り、何かを思いきって強調する必要性があった。特に上ID村などは、犬とかわいい犬小屋まで大銀杏(いちょう)の木のそばにあり、どのように撮ればよいかは通常のセミプロならば分かるであろう。だが問題は家の近くに近づけないことにあった。
一つは上ID村の件ならば許可なくして私有地に入るのに抵抗があった。同時に、そうした面で控えめである私の性格に起因している。他人の大きな迷惑にはならないようにするのが、私のモットーである。ただし、社会通念上許される私有地(他人がその地を通らねば火災などの際に外へ出られないような通路などの一部は法律上通行してよいはずである)や、農村部で自分の村の畑や田ならば田畑を荒らさない限り、畦(あぜ)程度は邪魔にならない範囲で歩いても余り問題にはならないため、こうした地ならば話は別である。
第二は、昔ならば遠慮無く入れた親戚の土地などでも、今日の干渉下ではややこしいためそれができなくなっていることである。最近では親しかったU家ですら「ややこしさを避けるため遠慮中」である。干渉なく昔ならY家の家の畑など平気で入っていたであろう。50年来の付き合いのため、迷惑類とは一般にならなかった。付き合いが私だけで50年あり、私の親や祖父を入れると100年以上の付き合いのため、畑などに断って入る方が相手が面倒で迷惑が本来の姿である。しかし、現在は干渉下のため、今はここまで制限されており、近づくことができないのである。
これらの結果、「引き算的撮影」が難しい状況に置かれることが多々でてくるようになった。これは私の撮影能力ではなく、干渉による撮影上の支障問題である。
(2)撮影の限界-2(35㎜カメラの撮り方と経済封鎖によるそれへの限界)
以下述べる点における緑川氏と私の考え方の相違問題がある。
「引き算の撮り方」のみでは、大判カメラ{4×5インチ(102×127mm)以上のシートフィルム(カットフィルム)を使用するカメラの総称}、中判カメラ{120フィルムを使用するカメラで、6×4.5cm判、6×6cm判、6×7cm判、6×8cm判、6×9cm判、6×12cm判、6×17cm判などがある}に35㎜カメラ{135フィルムで、標準画像フォーマットは24×36mm}では画質上対抗できない、が私の考えである。
「引き算の撮り方」を常に念頭におくのは、私に言わせれば大判、中判カメラの発想である。
中判カメラ・大判カメラ主体の人と同一の発想をしていたならば、私の如(ごと)くニコンと心中する(※注1)と宣言した人間は対抗できない。35㎜版のメリットは器財の豊富さもあるが、一番のメリットは撮影枚数を大判に比べて飛躍的に増やせるという点にある。69(6×9cm判)で10枚撮るならば、同じ予算で35㎜版ならば4倍以上撮れるはずである。大判に対しては7倍撮れるかもしれない。更にフィルムの入れ換え時間問題を考えると費用以外でも相当枚数を撮れる。よって35㎜では「引き算の撮り方」中心では中判カメラ以上のサイズに対抗できないし、強みがなくなる。
私の考えでは「引き算の撮り方」を中心にし、その上で気になれば「足し算も」、あるいは思い切った撮り方も、全部やるべきと考えている。そこで大判カメラ所有者が10枚撮影するならば、35㎜では極論すれば様々な方法で100枚撮るというのが私の考えである。俗に言う撮りまくるということである。それ抜きでは、私の如くニコン35㎜一本で行くと宣言した人間は、デジタルが超本格化し中判を凌駕するまでは対抗できない。大判や中判と同じ撮り方をしたならば勝ち目は零である。
(※注1)【2015年5月30日追記】ニコンと心中とはニコン社と心中という意味ではない。35㎜フィルムカメラに限界を感じ、中判カメラか大判カメラに移行するか迷っていた時期があった。画質の違いが余りにあったからである。両方所有できれば問題ないのであるが、交換レンズなどが共有できないため、本体のみならずレンズも両方とも全部一式そろえるとなると、どちらか一方しか持てない状況にあった。そこで、どちらの路線でいくべきか迷っていた(2000年前後)。しかし、経費問題、機動力問題、撮影目的から、三五㎜路線でいくことにした。その決定を、(35㎜路線の)ニコンと心中という形で当時表現しただけである。要するに、正確にはニコンと心中ではなく、35㎜カメラと心中という意味である。【追記終了】
では何が限界か。当然干渉のため、十分な収入のある本格的仕事をするのを妨害され、収入がないことにある。
何度もS写真店で言ったように、35㎜カメラでの年間撮影本数は相当手抜きし、写真をセーブしても年間150本(約5000枚)は必要であるが私の持論である。これらはプロでなく、アマチャでも本格撮影志向者の年間の最低撮影本数である。
このレベルで撮らないと35㎜型撮影の勘も維持できないし、35㎜型撮影は不可能でもある。勿論、収入が十分あり、時間もあり撮影旅行なども一定するならば年間150本では話にならない少ない本数である。150本とは余り撮影旅行せずに撮る控えめの数値である。鷹(とんび)と耕運機撮影などは本来1回でフィルム10本以上使うのがtheoryである。
同時に35㎜カメラの強さは数台のカメラで何種類ものフィルムを使い分けすることにある。そこで撮影本数は飛躍的に多くなる。数台のカメラ並行、フィルムも数種並行、レンズも多様なレンズを相当数使用……撮影方法もtheoryや自己哲学のみか、その他ありとあらゆる撮り方を試みる。……。
要するに限界のもう一つは収入を封じられたため、私の意図する35㎜型撮影ができないことにある。
(3)前回の撮影は本格撮影ではなくレンズ・カメラテストも兼用でしかなかった。
――カメラチェックと作品との勘違いへの弁解)
(引き算云々ではなく、前回のはテスト・チェックにすぎず。本格撮影は経済封鎖でできない状態に置かれていた)。
同上の理由で経済的に封じ込められていたため、前回の撮影はカメラテストとレンズチェックの要素が強く、よってY家ならば様々な撮り方があっても、購入したての18-35㎜使用を中心とする。同様に湯郷の鳥居も同レンズチェック上最優先とする。
逆に、上ID村では思い切り接近して18-35等で銀杏(ぎんなん)と犬小屋という手もあった。しかし、先の理由で他人の私有地で家が隣接している所には行かないことから、それができなかった。そこで、F5の測光が最近気になり、一番常用している28-70㎜でF5の測光の狂いのテストをする方に頭を向けた次第である。まさかと思うがF5の測光が少し以前よりもややオーバー側に傾いているような気が最近するためである。
よって単なる撮影でなく、Y家と湯郷は18-35㎜の実験を、上ID村はF5の測光のチェックを兼用していた次第である。
撮影本数が相当必要な理由の一つも、常時カメラなどの具合のチェックをするためにも、撮影、現像、プリントはかなり早い周期で行う必要がある。
今のペースでは「引き算」かどうかの前にカメラ、レンズチェックすらできないようなペースであり、こうした事態が1998年での東京の撮影ミスにつながる。同時に最悪自体を防ぐために、どうしても保険撮影でネガ使用ともなる。更にRHPⅢ(プロビア400F類か)があと一歩物足りないという面から高感度フィルム使用時にはネガが必要な場面もある。
(4)本質――経済封鎖による撮影抑制とその隙を狙っての外部催眠強要撮影について。
十分資金があり、器財も揃(そろ)え、それ以上に器財の運搬が可能となり、また干渉や外部催眠がなく、私の思いのままに撮影できれば、その後での人の意見は聞くであろう。しかし現在はそこまでいっていないということである。
まず、撮る気がおこらない場面で相当外部催眠で撮らされている。技術はともかく、哲学上の問題は、他人とは違い(他人の撮影哲学とは異なっているため催眠誘導撮影では)無理がありすぎる。また、先に述べたように私の思う35㎜型撮り方は現行では予算上不可能である。
ともかく妨害がないこと・自分で被写体を選べること・そして経済封鎖解かれて年間最低でも150本以上撮影できることなくしては、他人の意見は聞いても余り意味がないときも多い。
私の思う35㎜撮影とは、theory通りのみならず、他人が思いつかない奇想天外なこと、更に自己の個性を思い切り出す撮り方をすることにある。よって撮影本数が時には命である。撮影本数が少ないと個性がだせぬばかりか、本番前のテスト撮影もできずに、更に前回の反省を生かした撮影もできず……のみか、カメラの状態チェックすらできず、久々に遠方にでかけて写すと露出測光が狂って全滅ということすらあったのが現在の経済封鎖下の状態である。
私の個性を出せる本数は譲れぬ線として年間最低でも150本以上(年間5000枚以上)、これなくしては、私には撮影は無理である。同時に、被写体は自分で選べること・撮影条件も自分で選べること、更に撮影不可能日には外部催眠で数枚たりとも撮影を強要しないこと。
年ネガで相当枚数撮影したのか疑問なのは私の方である。またH街などは三脚抜きでは原則撮影すべきではない。鳥、人物、あるいはメモ代わりならばネガ撮影は分かるが、動かぬH街を撮影するのに何故ネガで1本近くも1日で使用させられたのか、私の方が逆に聞きたい。尤(もっと)も経済危機の中でH街を撮る理由も存在していない。必然性がない。H街で撮る必要性があるのは何度も記したように、A医院のみである(世話になっているため)。他は一切ない。廃れた商店街はHY街という地元があり、古い街並みは母の実家で私の母系祖父母のD村があり……である。通常の田舎ならばID村や親戚のいたNY村などがある……である。
経済封鎖され、撮る意思がないときにフィルム、カメラ、レンズ選択もさせられず、器財運搬もできず……私の35㎜型撮り方も一切不可能時に、外部催眠型で撮影強要されて結果が悪かろうと反省材料はない。反省材料でなく抗議材料のみである。
上記のコメントは本日のTVで私への批判と受け取ったための意固地からではなく事実である。だから年間150本撮っていたときに、外部催眠型撮影強要でないときの撮影の反省記録、写真の記録ー3には技術的なコメントや太陽の位置や次回の撮影上のメモしか記していない。今回のような文書は記していない。
(5)自己の撮影の未熟さについて
自己の撮影の未熟さについての具体的指摘は本来は有り難いものである。しかし、その前に奴隷状態、強制労働・貢ぎ労働、強引な外部催眠での自己意思誘導をやめよという抗議が先にある。たとえで言えば、ギリシャの奴隷の建築家がいたならば、自己の建築についての批判よりも先に奴隷状態への抗議と怒りが先にある。幾ら優れた建築をしても、その代償が鞭(むち)打ちの刑ならば、満足よりも怒りしかない。同時に鞭打ちの刑にあい、代価も得られず、その上で貢ぎ労働させられ、そしてその労働への批判をされても有り難いとは通常思わない。
撮影などの批判を受け入れる条件は、以下の通りである。
①奴隷状態の解除、則(すなわ)ち自由の身、
②強制・監禁・貢ぎ労働の即時中止及び経済封鎖の解除、
③外部催眠の即時中止と干渉の即時中止→自己意思で行動でき、本職のみならずカメラ撮影も自己意思で被写体及び日時を選択できること、何よりも本当に撮りたいものを撮れること。
④以前の如くナチ並みの拷問などは決してすべきでないこと。現在④のみ弱まったである。④があるときなど、撮影云々(うんぬん)ではない。安楽死を願う日々である。もっとも今でも生き甲斐(がい)なく、願いはしないが安楽死は怖くない。
⑤これらを全部満たした上で⑤欲しい撮影機材と撮影費用があり、私の思う35㎜型撮影ができれば言うことがないが、今は⑤等の次元に非(あら)ず。①~③の問題があり、これでは自己の撮影の未熟さについての問題よりも人権面からの抗議の方が先である。
★以上は、緑川洋一氏への反論や批判でなく、干渉、話題提供のための強要、監禁・貢ぎ労働強要、奴隷状態、堂々たる労基法違反被害の連続などの犯罪などへの再度の別の視角からの抗議文である。
追記:(6)外部催眠撮影被害について――ネガ撮影は本来大半外部催眠と干渉の結果
常時カメラを保持しているのはカメラマンとして、また何があるか不明のために過ぎない。
撮影するためにカメラを持つのは被写体に合わせフィルムを選択する。人物や空飛ぶ鳥以外はまずポジである。撮影するためでなく、習性としての常時携帯は自家用車移動でない限り、手軽かつ高感度フィルム(ISO400)のネガとなる。これは原則として撮影しないことを想定して入れているのである。ただ、撮影面から言っても思わぬ事態が生じたときのための念のための保持にすぎない。
例:目の前で雷が落ちたなど予想もしないとき用のためであり、原則として撮影はないが宝籤(たからくじ)的場面用のための携帯である。あるいは泥棒やひき逃げを見たときの撮影などでも役立とう的である。勿論前者が主体でなければならないがいずれにしろ使用しないが、念のための携帯にすぎない。
ところが、この撮影しないが念のためのカメラを持参していたならば、自己意思に反して外部催眠か外部催眠の如(ごと)きに撮らされるから、ネガの写真が出てくる。我が家でも同様。よってネガで撮影しているのは撮影する意思がないのを、自己意思外で撮影を強要されたということの証明でもある。
自己意思に近い形で使うネガは、本来人物のスナップ撮影か、超望遠で段階露出が困難なケースやISO100では不可能な場面での空飛ぶ鳥を撮影するときの高感度フィルム用ネガ時と、旅行時の撮影不可能な天気時でしかない。
例外は超本格撮影時にカメラ3台以上を使用できるケースでの絶対失敗不可能時や難しい場面での保険撮影のみである。この場合には、本格的にはポジで同一場面を必ず撮影しているはずである。それ以外はネガを使用しない。
よってH街の撮影で、まして人物抜きなどの場面の風景で何故ネガで撮影しているのか、私の方が逆に聞きたい。他も同様である。外部催眠がないとすれば経済面から多角度より撮影し全部プリントしたい場合であるが、本年度のH街の風景は多角度ではなく同一場面をネガでポジ的に何枚も撮っており、こんな馬鹿なことを、私は通常しない。ID村でも基本は同様である。ネガを入れてカメラを持ち回るときには本日は撮影しないという日であり、それが私の意思である。ただし、撮影上からも、また干渉上からも何が起こるか不明のため、自家用車での移動でないため、念には念をいれての持参にすぎないが、撮影意思が全く無しの自己宣言しているのがネガ入りカメラ1台のみ持参している日である。
鳶(とんび)と耕運機撮影などはポジonlyならば10本か15本以上撮影できる経済状態がない限り、保険撮影でネガは使用する。それとて可能な限りポジは2~3本以上使うのがtheoryである。保険撮影とは悪まで保険であり、プリント時にあてにする必要がないのにこしたことがない。
ポジ抜きのネガonly持参時は私自身撮る意思が全くないという自己宣言日である。だからこうしたときの撮影は外部催眠かそれに準ずるものであり、無駄が90%以上をしめている。H街の雨のときは、私が本当に自主的に撮りたいならば、ポジを使用して、三脚でカメラコート持参で撮っていたであろう。そこで撮る意思なく撮影させられたとなる。
我が家の虹撮影はネガでも仕方がない。雨降りの中で片手での撮影でカメラやレンズが濡(ぬ)れる状態で……かついつ虹が消えるか不明で、ポジをカメラに装着する時間やカメラ数台を持つ時間及び天気に非(あら)ず。雨の中を傘さし、しかも急いで数分の内に撮影のときにはポジかネガか迷う暇はない。すぐ消えずのんびりした虹で、雨も止(や)んでおれば当然ポジが原則であり、100%ポジで撮っていた。しかし、あの虹のときにはあれ(ネガのまま)で正解。ポジをいれて三脚持参していたらもう虹は消えていたか、少なくとも相当薄くなっていたからである。最初は激しい雨の中で家をでて1秒を争う撮影である。RVPどころかRDPⅢとしても三脚不可欠となり、かなりの雨の中を三脚をもち、傘も持ちカメラをぬらさずに1秒を競っては不可能である。こうした非常事態には常時持参しているネガで狂ったように写すのが鉄則であり、こうした非常事態に備えてネガの入ったカメラを常時携帯している。ただし、非常事態は本来数年に1回程度のため、携帯しているカメラでの撮影は多くて年に1~2回でなければならない。
こうした非常時用の常時携帯カメラではネガISO400が鉄則である。殺人犯人に出合い失敗できぬときのシャッターチャンス1~2枚時などは。望遠系で少し遠方の単車か車で逃亡中の殺人犯人を写すにはRVPやRDPⅢでは危険すぎる。しかしこうした事態は通常ない。よってこの種のカメラやフィルムの臨時携帯時の撮影回数は年1回程度しか使用しないはずである。だが、実際には相当数写している。
ネガを入れて常時携帯しているカメラで何故撮影するのか、正確には撮影させられるのかは、私の方が逆に聞きたい。これが本音である。よってネガ利用の真犯人は直接的にも間接的にも干渉者にある。外部催眠的に撮らされた写真に関して、「写真は引き算である」型も含めてアドバイスは意味がないことを、この追記でも記しただけである。