(🚧準備中)駿台真相編7D-1・駿台との交渉―1
【表紙写真】(📷表紙の写真:駿台への内容証明)
▽
【更新履歴】
2025/04/24から下書き開始:4/25から安らぎ文庫へ下書き掲載
(公式Blog)
(クリックで拡大)
【本題】・《🚧準備中》駿台真相編7C-3・(証拠隠滅例)マイク攻撃から拉致未遂被害
【駿台信組編・7関連】
【公開済み】
7-A1・駿台と村を取り巻く謎の利権集団
7-A2・駿台刑事犯罪被害の開始シグナル―謎の女性三人登場
7-A3・姪登場、催眠と睡眠薬、ホテル群破壊と証拠隠滅工作
7-A4・山城の女、映画説強調、そして真逆攻撃
7-A5・駿台での業務妨害と刑事犯罪の激化
7-A6・犯人の仮説
【公開予定】
7-B1・差別文書問題-2025年見解
7-B2・差別文書問題2007-10年見解-1
7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2
7-B4・差別文書-2019-24年分析チンプンカンプン編
7-B5・差別文書-2019-24年分析・人間違い編
7-B6・差別文書-女性、部落問題の謎と不審死連続の謎:人間違い
7-B7・差別文書-2019-24年分析・映画説と駿台CM説融合論
7-C1・玉子事件―外部と駿台内部と外部の共謀・共犯と2016年政治家が介入(今回の箇所)
7-C2・エアコン事件-徹底した小細工動員の事例
7-C3・マイク攻撃―証拠隠滅例
7-D1・駿台交渉資料編1(今回の箇所)
7-D2・駿台交渉資料編2
■
【今回の構想】(今回は一万文字を目処)
《◇―1》刑事犯罪被害の嵐と駿台交渉へ
《◇―2》駿台への内容証明全文
《◇―3》駿台交渉の内容
《◇―4》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台へ復職願い-1(1996年手紙全文)
《◇―5》【資料】(大滝部長の約束を信じて)駿台・深見係長へ復職願い-2(1991年?~95年)[95年手紙全文]
《◇―1》刑事犯罪被害の嵐と駿台交渉へ
▽
駿台予備学校講師時代に受けた刑事犯罪被害の模様の一部は前回の駿台真相編7-C3で記した。再度、拙著『閉じた窓にも日は昇る』(文藝春秋送付版・結局出版されず)の中から駿台に内容証明を送付した経緯と交渉に至る経緯を記す。
▽
☆☆☆☆☆
後に記すアパートの郵便受けへの卵パック入れと語呂合わせでの悪戯(いたずら)かどうかは不明も、駿台大阪校で天麩羅(てんぷら)うどんを頼むと生卵が入っていた(八七年九月一一日)。通常は生卵は入らないし、私は生卵は嫌いで食べられない。それらも含めて私の事を調べ回っている脅しと解釈された。…また、この頃はプリントの印字を悪くされる事も続いた(過去には前例なし)。約一九年前の記録・証拠類を簡単に一時間調べただけでも右記の如しである。他にも「九月一一日、日本史授業開始五分前に進路変更連絡(MS氏)、……」等のメモあり。
▽
学内の不法行為・営業妨害の記録付け作業は、八七年九月一九日に開始したが、一一月五日で中止に追い込まれた。それは記録すればするほど、仕返し的に不法行為がエスカレートし、営業妨害のみならず、身に危険があるぞ型の脅しが続発したからである。また、既に述べた超多忙な時に、不法行為を続発させられると授業準備はもう不可能となり、自分の将来よりも、受験直前の生徒への責任優先から原則中止という状態に追い込まれた。
▽
だが、不法行為は記録付け作業を止めた一週間後位から更にエスカレートする。そして自己防衛用に様々なテープ(授業使用にオプションでマイク使用できる大型テープレコーダ、通常のカセットテープレコーダー、相手に気づかれぬように録音できるミニテープレコーダー)を連続購入せざるを得なくなった。更に、当時はカメラには余り興味はなかったが、日付を写し込めるカメラも購入不可欠となった。不法行為は記述の域を超えて続発していた。一一月六日以降はたまたま写真を撮ったり、駿台からの送付文書の記録等が残っていたりしたものを記載したにすぎない。
☆☆☆☆☆
記録付けをすれば授業に支障が来る(支障が来すぎると怠慢となり解雇である。だが、そ以上に責任感があった)。しかし、記録付けをしなければ下記の如く、犯罪はエスカレートしていった。
もし、当時、誰かが「何故、そうした被害を受けるのか」と理詰めで問われれば、実は「私にもよく分からない」と返答したであろう。高校1年のとき、友人のKMが🚺に交換日記を申し込んだ。偶々、断られなかったが、もし、断られたとしよう。そのとき、彼が相手の女性に「お世話がしてすみません」と詫びたとしよう。これで40年を超えるもめ事が起こるであろうか。これが当時の私が何度も疑問に思った心理であった。
それでも、強いて言えば、変質者の犯罪程度しか思えなかった。歴史的には江青が周恩来の娘にした行いとか、連合赤軍による山岳ベース事件(大量リンチ殺害事件)の類の変質者による犯罪と思っていたような気がする。だが、ときどき疑問が脳裏をよぎっていた。「なんで」と。
▽
再度、駿台事件のまとめの雛形(ひながた)を掲載しておく。
ともかく、原因は❓(疑問符)として、当時の状況を記した記録を掲載しておく。
▽
☆☆☆☆☆
「〇七年年賀救済呼び掛け文―B」から引用する(誤字・脱字、不明朗な箇所は今回修正した。他の引用も原則同一。)
「《◆―一・駿台時代犯罪被害の一部の実例について》……八七年末当時の岡山市庭瀬アパートへの不法侵入。……当時の記録を見ると、石油缶の蓋(ふた)などを外す悪戯、さらには……私の郵便受けに悪戯……郵便受けに卵のパックを入れられたり(現在もパックは指紋の関係で保管)……、早朝五時頃郵便受けをドンドンと叩かれたりした記録が出てきた……こうした事件が続出等……。……誰かの悪質な悪戯で部屋に入り物を動かして退出……大阪では警察服(若しくはガードマンの服かもしれない)を着用していた二人組……による拉致若しくは殺人?未遂事件などが、八七年末から八八年初頭にかけて続発していた。
▽
……先の大阪では両腕を掴(つか)まれ、どこかへ連れて行こうとされた以上、今考えると、他の通行人がいたので大声で助けを呼べたが、そうでなかったならば大変危険な事件であった。それ以外にも、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられる悪戯、……密室のアパートの部屋の天井から薬を何日も落とし続けるという脅迫……車のアンテナ盗難事件と警察に被害届に行き警察署をたらい回しにされ、再度警察に被害届という前日にアンテナをつけ戻され被害届を阻止された事件(八八年一月一六日頃)……ポストの郵便物に入っている新聞類《赤旗日曜版》を無断で見られた形跡もあり、……毎日続いた……。
▽
(犯人を)……駿台と考えたのは、学校での授業妨害として、〈先の①~⑦の被害が〉偶然の確率を超えて相次いだ事……これらより、私のアパートへの不法侵入を駿台関連と当時は考えた次第である。更に……、先の偽警察事件や、八七年当時地下鉄内でいきなりフラッシュをたかれ写真を撮られたり、岡山市でも八七年九月二七日に高柳付近でいきなりカメラを向けられ写真撮影されたりするなど、始終誰かにつけ回されているという威嚇を受けていた。なお、アパート侵入事件は絶対に無視はできず、警察が動かぬ以上、自分で犯人を捕まえようと必死になり、物音がする都度、外に飛び出したりして人に誤解を与えたかもしれないが、こうした状況では米国では誰でもする……」
☆☆☆☆☆
▽
それでも、私は駿台を辞める気は一切なかった。記憶では1987年12月上旬頃まで、辞める気はなかった。内容証明も出す予定はなかった。
▽
☆☆☆☆☆
それでも、私はまだ駿台を辞職する気はなかった。実際に、八七年一一月下旬か一二月初頭か忘れたが、駿台大阪校の比較的公平そうに見えたMT《松本》課長と一緒に食事をした際に、課長が「先生、次年度はどの校舎を希望されますか。もし大阪校でやりにくければ、先生の希望される校舎を言って下さい」と提案された時に、「いや、大阪校で結構」と答えていた位である。辞める気はなかった。
▽
それは、駿台では労基法などは原則としてきっちり守られており、労働条件も良かったからである。
具体的には八七年度で、私の五〇分講義料約九〇〇〇円、夏期・冬期はその一・五倍(六時間教えれば一日のみで手当類も含め約一〇万円となる)、待ち時間や祝祭日のみか病気休みでもその半額補償、出張手当として別に一日三千円支給、交通費は新幹線グリーン車、中途半端な所は原則としてタクシー料金支給、ホテル手配・代金駿台持ち、ホテル内食事代は駿台持ち(ただし原則として私は自腹で外食とした)、原稿代は別途支給、採点等雑務は免除も万一すれば別支給、京都校時代前半は毎週食事やクラブ類への接待、毎年歌舞伎座顔見世興行の券二枚送付……労働契約などに一切記載もなく口頭でも解説を受けていないのに、夏前には一時金として毎年二〇万円位の金をポンと渡されていた。
▽
妨害さえ無くなれば、これほど遣(や)り甲斐(がい)のある職場は過去にはなかった。日本史という大荒野も相当耕されてきており、展望も見えてきていた。だが、何が何でも私を駿台から追放するというシナリオがあったかのように、今度は露骨な刑事犯罪が続発する。恰(あたか)も、追放せねば、映画でいえば、後のシナリオが狂うというように。
☆☆☆☆☆
▽
だが、犯罪の手口は巧妙であった。ちなみに、この種の手口は駿台との交渉の後、駿台辞職が決まった後も続く。更に、やり方は違うが後のポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)中心時代も激しい攻撃を受け続けた。かなり悪質なやりかたで。ポリテクカレッジ岡山は当時は労働省の管轄のため、犯罪の隠蔽が後に様々な形でおこなわれていく。再度、形態はかえながら、2000年以降は村でもその亜流形態で被害は続き、1984年から2025年まで41年間の被害となる。ただし、村の被害の一番大きな点は人間違いが強調されたことである。
いな、友人などは一貫して、「人間違いが原因」と言い切っていた。他方、別の知人は「利権」を臭わせていた。
▽
☆☆☆☆☆
全体として手口は巧妙であった。明白に警察が動かざるを得ない事件の前に先手を打たれ、立証が難しい部屋への侵入事件が続発する。通常ならば、私も石油缶の蓋(ふた)を動かす等は些細(ささい)なため気づかないことが多い。だから、確実に分かるように動かすのである。私が石油缶を触った前後に絶対に入っていない部屋に置くなど。例えで記せば、三部屋とバス・トイレがあった当時の私のアパートで、大阪から帰宅し入口の部屋で石油缶を触り、その他の部屋に入る間もなく急用のため即車で外出し、そして帰ると石油缶の蓋がなく、まだその日入っていない台所に置いてあったなどという手口である。この例えのような形で、私が記憶間違いしていない場所を狙って、絶対に動かしたのが分かるように小物を動かしていた。私の記憶が良いから分かったのではなく、逆であり、確実に分かるように、私に気づかせる形で動かしていた。だから、分かったのである。(今考えると、私が気づかない被害も多数あったかもしれないが。)その都度、岡山市庭瀬派出所に被害届に行ったが、こうしたレベルでは派出所の担当者が交代するや無視され始める。
▽
こうして警察に無視させる事が可能となってから、それ以前の被害が軽い段階で相談に行った弁護士に門前払いされてから、誰も助けに来ぬと思いこませてから、右記の刑事大事件は相次ぐと同時にエスカレートしていった。
▽
兎にも角にも、拉致されそうになる事件が相次いだり、平気でアパートの天井から薬などを落とされ続けたりしても、警察が動かねば社会生活は不可能であるし、不可能となった。もはや、駿台に首をかけて抗議する以外に道はなかった。
☆☆☆☆☆
▽
☆☆☆☆☆
「私が駿台を辞めたのは……アパートへの不法侵入、拉致されそうになる事件などの続発で社会生活が不可能となり、当時の駿台内の授業(営業)妨害と合わせると、駿台……の仕業と判断したからである。あれだけの行動は、一教師の賃金のみでは不可能であり、駿台の金が動いたと当時は思っていた。そこで管理職のトップに首をかけて抗議すれば、駿台内の営業妨害や、(一定調査をして、そうした不透明な金の動きが分かれば)不法侵入その他の刑事犯罪にストップをかけられると考えたからである。管理職は、代々木ゼミや河合塾との競争問題もあり、駿台の金が一部の教員等により私的に流用されていたならば、慌てて止めると判断したのである」(『〇七年年賀救済呼び掛け文・文書―B』)。
☆☆☆☆☆
▽
こうして、内容証明を出すように追い込まれていった。しかしながら、内容証明を出したが、実は駿台を辞める気はなかったのである。内容証明まで出せば、駿台も青ざめて真剣に調査をして問題が解決し、駿台で今度こそ授業に専念できると考えていたと思う。
ところが、当時内容証明を出す日には下記であり、内容証明後の会談では、だまし討ちで訴訟阻止と駿台の山﨑春之理事長などのへの救済依頼を阻止されることになる。
ちなみに、訴訟も、原状回復を目的としており、賠償額等は一切考えていなかった。刑事犯罪被害を阻止することが目的でしかなかった。ところが、既に記述した如く、弁護士に奇妙な形で門前払いされ、残る手段は駿台関西地区最高責任者と会談するか、山﨑春之理事長に直訴するしかなくなっていた。ともかく、先に前者をすることにした。
▽
☆☆☆☆☆
それ以外にも、駿台に内容証明を送付する前後に、後にも先にも経験した事のない位の、夥(おびただ)しい犬や猫の死骸を、私が通る道に(早朝)置かれていた事も参考までに記しておく。
☆☆☆☆☆
▽
会談が終わった後で、本来は「落とし前問題」として、もう一度訴訟への取り組みか山﨑春之理事長への直訴となるが、それを大滝部長の(「三年経って、駿台に戻る気があれば門戸を大きくあけて待っています…(両手を広げて)駿台は大きく門戸をあけてまっています」という巧妙な約束という約束があったからである。この約束で山材理事長への直訴も訴訟も阻止されることになる(これが完全に嘘と分かったのは10年後の1996年である)。
この嘘の約束は、ポリテクカレッジ岡山での専任確約(是非専任でという条件で教壇に立った)と同一の手口であった。最近は、駿台経営陣(駿台CM作戦に関わったグループ)がポリテクカレッジ岡山の職場に私を立たせる工作をしたのではないかと思うことが多い。
第一、ポリテクカレッジ岡山の教壇では教壇にたつや「山﨑」が強調されていたからである。更に、ベネッセと駿台の連携を見れば分かろう。
■
■
《◇―2》駿台への内容証明全文
▽
▽
▽
▽
☟
【大滝部長宛内容証明書(堀江部長宛もほぼ同一)と大滝部長との会談】
▽
「不法行為に対する抗議及び辞職通告
私はなんのとりえもありませんが、授業をすることだけを生きがいにしてきました。しかし、貴予備校においては、以下書く理由において、もはや授業ができませんので、強く抗議するとともに、貴予備校を一月一五日をもって辞職することを通告いたします。
▽
一、本来、学校は授業に万全の体勢をとるべきものであるにもかかわらず、以下の点で多くの困難をきわめました。
①マイク調整が悪く何度も喉を痛めたこと、②教材において、印刷・配布枚数等で授業に支障をきたしたこと。③無関係な生徒の導入などにより、授業に支障があったこと。④教室の温度調整に何度も不備があったこと。⑤これらの行為が、ほぼ連日、約二年近く行われたことから偶然とは思えません。
▽
二、日常生活への不法介入により人権を著しく侵害されたこと(①プライバシー権の侵害、②住居侵入などの日常生活への不法介入、③威嚇をともなった尾行、④職場と無関係な人間との対人関係を壊されたこと。⑤貴予備校の斡旋しているホテルにおいて冷暖房の操作により健康を害する行為があったこと)に貴予備校が関係している疑いがあること。
▽
以上、一、二により精神的・肉体的に限界となり、貴予備校に強く抗議し辞職するものです。また、二の点については、貴予備校の関連が明確になった場合には、その時点で検討し、何等かの形で明確に抗議するものです。
▽
昭和六二年一二月二三日
岡山市庭瀬●●●の●
浜田隆政 (印)
京都市上京区堀川通丸太町下る
駿台予備学校・京都校
大 滝 部 長 殿
▽
伏せ字部分の実名→岡山市庭瀬807の2
▽
■
■
《◇―3》駿台との交渉内容
▽
ただ、住所は当時のアパートのため、●●字と伏せ字としている。
▽
なお、(八八年一月三日か四日頃であったと思う)会談では、出てきた大滝部長が怒っており(威嚇的態度で応じてきたため)、私は「どうなっているのだ」と、呆気にとられた。次に、「ふざけるな」と怒りが込み上げてきて、それが顔に出たし、一部怒った。すると、ようやく、大滝部長がややまともになり、わずかとはいえ通常の対応に近くなった。
彼の返答は、「内容証明の二については駿台は無関係です。先生の方で自分で興信所にでも頼み、調査して下さい」であった。次に、内容証明の一については、首をひねるだけで、私の持っていたプリント等を少し見ただけで、明確な調査をするなどの返答は一切せず、事実上管理責任を放棄した。同時に次の言動で、事実上、会談の打ち切りを迫ってきた。
▽
大滝部長の「休職という手もありますが、先生が辞職と言われるならば引き留めはしません。ただし、駿台は門戸を大きく開けておりますので、三年たって駿台に戻ってくる気になればいつでも戻って来て下さい。駿台は門戸を大きく開いて待っています」で締めくくられた。
▽
私は、本当に、駿台に戻れるのかと信じた。ただ、ほとぼりが覚めるまでは、違法状況がなくなるまでは戻れないが。同時に、政経と日本史担当から、数年かけて政経と英語担当にコンバートしたい意欲もあり、大滝部長のこの言動で、もう執拗に追及するのは止めた。勿論、大滝部長の先の雰囲気もあり、丁寧に言える状況とは思えなかった。これも戦前の軍国主義者が行った何等かの策略にはまったという感じであった。もう、駿台時代の授業妨害を詳細に言っても無理、若しくは、言える状況ではなかった。
▽
こうした状況では、既に述べたK《北山一》講師からと言って手渡された差別文書を、どのように処理するかを、とても相談できる状況でもなかった。駿台内部で、駿台K講師からと言って、見知らぬ学生から手渡された以上、駿台も駿台独自にこの問題に取り組む必要性があった(ましてK先生は、この学生に勝手に名前を使われただけで、無関係かもしれぬため、K先生の名誉にもかかわってもいた)。
▽
よって、差別文書に関しては、大滝部長を追及するのではなく、駿台として一番適切な差別問題への取り組みをどうするかを、一緒に相談したかったのであるが、不可能となった。要するに、私ではなく、大滝部長が先に怒って出てきたため、事実上の威嚇となっており、言葉は丁寧であるが恫喝的効果を持っていた。これで、この差別問題をどう処理するかを双方で検討できる状況ではなくなり、逆にややこしくなると完全に思わされた。よって、差別文書の件は、駿台教職員には一言も言えなかった。平和・平等を唱えてきた者としては、ここで原罪に近い罪の意識を背負わされた。この重い十字架(差別を見逃させられたという重荷)から逃れるには、実に、二〇年の月日を待たなければならなかった。何故ならば、三編、四編の如く連続刺客で身動きが取れなかったからである。
▽
{二〇一〇年九月挿入追記。この差別文書の件は、懸賞論文で私の作品のテーマがそれることによる落選を覚悟の上で、既に大手出版社三社以上に告発した時点で私の責任の大半は終了したと考えている。送付した原稿は念のためすべて友人・知人にも同一のものを送付している。同時に、この編の最後の追記や後書きに記すように、この差別文書は差別問題特集として独立した原稿としてまとめ処理する予定でいる。以上、挿入終了。}
▽
勿論その前に、大滝部長には、内容証明書記載の一の授業妨害があった以上、内容証明書記載の二も調査する義務があった。もし、駿台外での不法行為を駿台の教職員の誰かが知った上で、学内でも並行して授業妨害をしていれば、駿台も外部の不法行為に関与どころか、共謀していたことになるからである。解説の必要もなく、子供でも分かる論理である。同時に、大滝部長が知りうることは、大滝部長自身と彼の眼の届く範囲の事でしかないのだから。今思うのは、子供のお遊戯ではないため、大人として、社会人として、管理職の責務として、適切な調査と私への返答をすべきであった。(尤も、第五編を全部読めば、もっと深い事情が分かるであろう。)
▽
次に、私は冬期講習終了まで責任を持つ予定でいたが、内容証明で一月一五日とミス記述していたため、その訂正を行った。すると、大滝部長も「そうして頂ければ助かる」と返答があり、一五日以降も冬期講習の最後(一月二一日)まで講義をすることとなった。
▽
この後、駿台世界史非常勤講師・N《中井 義明》氏(確か現在同志社大学・大学院教授)から、昔、雑談で「駿台では、非常勤講師でも退職金がでることがある」と聞いていたことがあったため、参考までに尋ねた。「辞職に際して、駿台は非常勤講師でも、退職金が出ると某講師から聞いたことがありますが、本当ですか」、と。すると大滝部長が、職員を呼び、三〇万円を渡してきた。会談が終わると、京都校H《深見正明》係長(比較的中立的であり、私とも一定懇意にしていた人物)が、私を見て滑稽そうに(如何にも芝居が成功したという雰囲気で可笑しそうに)、クスクス笑いながら出て来た。
▽
大阪校の堀江部長は、私に向かって、「先生、充電期間ですよ。とにかく、充電して、また駿台に戻ってきて下さい」、と。気安い雰囲気で、「充電期間」とか「また戻ってきて下さい」と何度か言った。堀江部長の方は雑談風であったが、大滝部長の方は正式な会談での返答であった。因みに、一九九〇年どころか、大滝部長の言った三年後も含め、九六年までほぼ毎年復職願を出したが門前払いとされた。大滝部長の方は一定の拘束力がある発言と思ったが。
▽
家に戻ると、父親が、「話がちんぷんかんぷんであったろう」と笑いながら言っていた。映画説など思いもしなかった当時ですら、父と駿台内部の職員の行動を見て、芝居じみた感じを駿台でも家でも受けた。(特に駿台は一九八四年後半頃から、することが全部芝居じみていた。)因みに、八七年一二月前半頃は、私が駿台を辞めるなど全く考えていなかった。まさか、私が駿台を岡短の専任になる前に辞めるなど、想像だにしていなかった。最後の授業の時ですら、まだまだ駿台で授業をしたいと、未練を持ち教壇に立っていた。
(以上、二〇一〇年四月一四日追記終了。)
☆☆☆☆☆
▽
(2025/05/04 18:46追記)
奇妙なことを付け加えておく。駿台問題について、父と母の態度である。父は既に述べた如く意味ありげに「部長はおかしかっただろう」と会談の内容を事前に知っていた雰囲気であった。当時は映画説など思いもしなかったため、「やはり、駿台の大滝部長と父の間で三年後に私の駿台復帰で話がついている」のかと思っていた。母の方は更に奇妙であった。
同時に、駿台との交渉前やポリテクカレッジ岡山との交渉前には、母の姉(私の伯母)が大抵我が家へ来ていた。そして、二人で大喜びをしていた謎である。母などは息子が仕事を辞めるかもしれぬときに、何がおかしいのだろうかと当時は不思議であった。また、母が後に言う言葉も気になっていた。例えば義兄が奇妙なことをし続けたことがある。母が私に言った。「◎◎さん(私の義兄)が何故、あんな態度を取ったと思うか。◎◎さんは真面目だろう。あんな態度とる訳がなかろう。…そのうち、分かるときがくる…」と。
▽
同じセリフを早大大学院時代に聞いたことがある。教え子の母が奇妙な対応をしたことがあった。その人を紹介した孔雀の(当時80歳くらいの)ママさんが「どうして△△さんがあんな対応をしたと思いますか。…。そのうち分かるときが来ますよ」と。共に、映画説などは思いもしない頃のことである。
▽
だが、73歳の今でも、まだ意味は分からない。なお、母の姉(伯母)の旦那(伯父)は旧満鉄、後に国鉄に勤めていた。国鉄と言えば、Z家の小父さん(Z3の父親)も同様であった。
■
■