(💁正式公開)駿台真相編7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2
表紙用写真
●から記載
2025/02/23 2025/02/23 2025年の追記・解説を《2025/02/23追記》として下に行った。それ以外は全て200年以前の文書である。(人間違いが発覚前の文書である。)
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2025/02/24 16:01 新免美作市議会議員への質問文をコピー添付
2025/02/25 22:50頃から修正し、2025/02/26 昼頃正式公開予定。下記の(4)の補足や清書などがまだできていない。
2025/02/26 11:55 正式公開(当初、1万文字を目安にしていたが、催眠や挑発類で3万3千文字を超えてしまった🤷。)12:05タイトル微修正。
2025/03/11 20:01 少し項目を変更
【公開済み】
7-A1・駿台と村を取り巻く謎の利権集団
7-A2・駿台刑事犯罪被害の開始シグナル―謎の女性三人登場
7-A3・姪登場、催眠と睡眠薬、ホテル群破壊と証拠隠滅工作
7-A4・山城の女、映画説強調、そして真逆攻撃
7-A5・駿台での業務妨害と刑事犯罪の激化
7-A6・犯人の仮説
【公開予定】
7-B1・差別文書問題-2025年見解
7-B2・差別文書問題2007-10年見解-1
7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2(今回の内容)
7-B4・差別文書-2019-24年分析チンプンカンプン編
7-B5・差別文書-2019-24年分析・人間違い編
7-B6・差別文書-2019-24年分析・映画説と駿台CM説融合論
7-C1・玉子事件―外部と駿台の共謀示唆/演出
7-C2・エアコン事件-徹底した小細工動員の事例
7-C3・マイク攻撃―証拠隠滅例
7-D1・駿台交渉資料編1
7-D2・駿台交渉資料編2
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駿台真相編7-B3・差別文書問題2007-10年見解-2
【今回の構成】
(1)宝島社第五編・帰結
備考・K講師からといって渡された「ゆすりたかりのエセ同和」について。
(2)文藝春秋:第五編参考箇所
(3)《2025/02/23 追記コメント》
(4)【2025年資料―1】(新免昌和議員に質問した「共産党映画説首謀論関係の質問書」とその返答の公開)
(5)【2025年資料―2】『閉じた窓には日は昇る』6つのバージョンとその目次等
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(1)宝島社第五編・帰結
備考・K講師からといって渡された「ゆすりたかりのエセ同和」について。
映画説どころか、永久の世の映画説を疑っているため、もはや〝差別〟云々(うんぬん)などは、論じる必要はないのかもしれない。しかし、最初の第一命題に従って、問題のある事項は、はっきりと問題を指摘し、この世のルールの下で、適正な形で是正しなければならないため、従来『閉じた窓にも日は昇る』(二〇〇七年等)に記載していた物を、誤字脱字以外はそのままの形で第二編付録―1に掲載した次第である。
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なお、万一、考え辛いが、通常説、即ち現実の世としよう。
その場合には大問題である。「エセ、同和」による恐喝は大犯罪である。しかし、それを逆手にとっての行為も大犯罪である。
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要するに、同和地区住民、あるいは部落解放同盟、全国部落解放連合会(現・地域連)の人(仮にA)が、車を駐車していて、入ってきた車(仮にB)に当てられたとしよう。非は百パーセント相手(B)にあり、当然損害賠償をしなければならない。
Aが車を修理した時に修理費が十万円かかったとする。そこで、AがBに約束通りに修理費十万円を支払ってほしいと言った。ところが、BはAが同和地区住民、あるいは解放同盟員若しくは全国部落解放連合会会員であったことを知り、それを逆手にとって、「エセ、同和によるゆすり・たかりである」と拒否したり、居直ったりしたならば、どうなるか。
交通事故の場合には警察への届出が必要であるが、商売相手から損失を被り賠償請求した時などに、「ゆすりたかり」という名の下に、逆に正当な賠償を威嚇でもって拒否するという暴挙が行われる危険性がある。
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要するに、「エセ同和によるゆすり・たかり」は犯罪である。だが、加害者が被害者に、本来賠償すべき責任がある時に、「エセ 同和によるゆすり・たかり」と、逆に相手を脅し、賠償責任から逃れることも犯罪である。若しくは「エセ 同和によるゆすり」と相手を脅し、口封じをし、泣き寝入りさせた場合には、極悪犯罪である。
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私は、映画説の下で、この犯罪が行われた可能性もあると現在は考え出している。だが、現実の世で、こうした暴挙があればこれは大変な事態である。そして、映画説ならば、もはや、視聴者の多くが、若しくはテレビの中の知人・友人諸君が、誰一人とて、私のことを誤解することはないであろうが、放置することは良心の問題として出来ない。
再度言えば、私個人の問題ではない。今後、これを放置すれば、何かあれば「エセ、同和によるゆすり、たかり」と称して、被害にあった誠実な人などを脅し、泣き寝入りをする手段に使われるであろう。これを一言で言えば、部落差別利用という。
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なお、付録―1は全て事実である。駿台関西地区ナンバー1であった大滝部長とナンバー2であった堀江部長を、イニシャルでOT氏とHE氏にしようかと思ったが、付録―1などが事実であることをはっきりさせるため、毅然(きぜん)と実名で記した次第である。
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映画説とすれば、友人は、私が駿台時代に相談した時に「放っておけ」と言った。当時の状況では、私は何もできなかった。第二編に記したように、差別文書を渡される前後には、警察に、弁護士に、共産党中央本部に、知人に、駿台管理職に、(相談に訪れた時、事実上)岡山地裁に……門前払いされていたのだから。
そして、岡映氏は部落解放運動分裂への対策のため大変であり、友人の「今、岡氏は大変な時であり、邪魔をしてはならない」を尊重し、相談は自粛した。
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私は党派中立であるが、岡氏と親しかった関係で、岡氏と対立していた部落解放同盟中央本部にも相談に行き辛かった(当時は今と異なり激しい対立状況にあったのだから)。人権擁護局については、恥ずかしながら、当時その存在を知らなかった。放置する以外に、手はなかった。だが、差別解放運動に長年携わった私がこの差別文書を放置した事で、常に罪を背負っている感じを受けていた。黙認するとは卑怯な私、と。しかし、もう、付録―1や後書きにも記したように、これだけ、この問題を世間に訴えた以上、私の「差別文書」を放置した罪は免罪されたと考えている。
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K氏に関しても、駿台の他の人間についても、第三幕(1)に記したように、現時点で、恨みも特別の感情もない。ただ、駿台内で轢(ひ)き逃げにあった人を目撃し、轢き逃げ犯はK氏か誰か不明であるが、それを放置してしまったという重荷が私にあっただけである。もし、K氏でないならば、はっきりさせることがK氏のためでもある。ただし、起こった場所が駿台大阪校内のため、駿台もきっちりと対処することが駿台自身にとってもあらゆる面で意味があるとも考える。この原稿が世に出て、問題が解決の方向に向けば、既に記したように、法務省人権擁護局と相談し、同局に処理を任せることにする。
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だが、客観的に言えば、私以上に、法務省人権擁護局にも問題があるのではなかろうか。
もし、部落解放に携わっている人以外が、差別文書などを目撃した時に、どうしたらよいか、と誰でも戸惑うのではなかろうか。もし、読者の人ならばどうするであろうか。
私は、こう思う。人権擁護局が、こうした差別文書などに適切に対応するので、そうした文書や差別を目撃したならば、いつでも同局に相談に来て欲しい、と全国民に周知させる義務がある。そして、どのように取り組み、どのように処理したかを、各種新聞やTVで報道する義務もある。そのために人権擁護局があり、職員は賃金を貰っているのではないのか。法務省人権擁護局は、官僚組織として、ふんぞり返っていてはならない。
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また、差別をなくすためには、マスコミ等々は、あらゆる面で、事実を事実として報道する義務がある。ただし、プライバシー、その他の人権には最大限の配慮をして。
また、駿台が授業妨害・営業妨害に毅然たる態度をとっていたならば、この問題も双方で相談でき、駿台は学内で調査し、措置を人権擁護局と協議し、最低でも駿台内での啓発活動と駿台の入学規則に「悪質な差別言動、差別文書を記した場合には、入学金・学費を返還せず退学を命ずることに同意するものとする」等を記入する事はできたはずである。
また、国は、各種の差別に関しての啓発と、差別を意味する言葉等を、差別をなくす観点から詳細に解説し、明確な網羅的な指針(書物)をだすべきである。それにより、差別の啓発活動のみならず、マスコミ等も民主主義的視点に沿った正しい言葉を使う上で参考になるため、差別に関する報道をしやすくなる。その種の事典類を出すのは国の責務でもある。国語審議会は何をしているのかともなる。
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最後に、(岡山県などではカリスマ的な人物であった)部落解放運動の巨星・岡映氏が、私と付録―1に記した二人だけの酒の席で、私に語った逸話を記す。もう、亡くなられたため、ご迷惑にはならないであろう。
「浜田君、私が集会に行くとき、ヘルメットをかぶった学生に囲まれ困ったことがあった。私が行かねば集会は開けぬ。そこで、私は彼らに言った。『岡が頭を下げて頼みます。どうしても、私は集会に行かねばならない。ひとつ、そこを通してもらえぬか』、と。
すると、彼らのリーダーが言った。『全員、どけ』、と。」
解放運動の対立が最も激しい頃の事であった。岡氏の人柄と、過去の苦しみが体及び顔に染み込んでいたためでもあろう。いつの日にか、差別を憎む人達が、手を取り合う日は来るであろう。 (以上二〇一〇年四月記述)。
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追記。五編に記したことは、私が本当に現時点で真相と考えている事である。思った事、分析した事をそのまま記したならば、一九四九年の下山事件以上にミステリーになる、と最初に記した意味が分かったであろう。
なお、今回、落選した場合は、第五編の大半及び付録―1は【後書き】に記した事を検討する予定でいる。
最後に一言、
「やっておられない」。
性格が、生来陽気なのでこういう表現をしたが、正確には、
「わたしゃ、それでも生きていた」
に等しい四分の一世紀である。
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◎五編に記したことは、私が本当に現時点で 真相と考えている事である。
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(当初記述:変更);非公開で、誰にも見せていない箇所
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映画説とすれば、(予告者)友人・IT氏は、私が駿台時代に相談した時に「放っておけ」と言った。姉は、お前がが寝ている時に書いたのじゃないのと、私を突き放した(因みに、姉は現在は覚えていないと言い、他方で、その文書大事に取っておけと、相反することを言う。)
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当時の状況では、私は何もできなかった。第二編に記したように、差別文書を渡される前後には、警察に、弁護士に、共産党中央本部に、知人に、駿台管理職に、(相談に訪れた時、事実上)岡山地裁に……門前払いされていたのだから。
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そして、岡映氏は部落解放運動分裂への対策のため大変であり、友人の「今、岡氏は大変な時であり、邪魔をしてはならない」を尊重し、相談は自粛した。私は党派中立であるが、岡氏と親しかった関係で、岡氏と対立していた部落解放同盟中央本部にも相談に行き辛かった(当時は今と異なり激しい対立状況にあったのだから)。人権擁護局については、恥ずかしながら、当時その存在を知らなかった。放置する以外に、手はなかった。
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だが、差別解放運動に長年携わった私がこの差別文書を放置した事で、常に罪を背負っている感じを受けていた。しかし、もう、付録―1や後書きにも記したように、これだけ、この問題を世間に訴えた以上、私の「差別文書」を放置した罪は免罪されたと考えている。
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K氏に関しても、駿台の他の人間についても、第三幕(1)に記したように、現時点で、恨みも特別の感情もない。ただ、駿台内で轢(ひ)き逃げにあった人を目撃し、轢き逃げ犯はK氏か誰か不明であるが、それを放置してしまったという重荷が私にあっただけである。もし、K氏でないならば、はっきりさせることがK氏のためでもある。ただし、起こった場所が駿台大阪校内のため、駿台もきっちりと対処することが駿台自身にとってもあらゆる面で意味があるとも考える。
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(2)文藝春秋:第五編参考箇所
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【参考―3】駿台時代に相談した弁護士について(二〇一〇年一〇月二日追記)
駿台の件で、一九八七年に相談した弁護士は、岡山合同法律事務所の、確か豊田秀男弁護士である。『閉じた窓にも日は昇る』を二〇一〇年に微修正していた一〇月一日に、この弁護士に会いに行き、何故営業妨害を「虐め」などという不適切な言動をしたのか、問いただしに行こうと考えた。そして、この弁護士の消息を探した。
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インタネットで経歴を調べると、この弁護士は、過去衆議院議員選挙に立候補されていた(私は当時全く知らなかった)。何と、一九六〇年の選挙の時に年齢が五一歳となっていた。すると、現在生きていれば一〇一歳となる。そんな歳とは全く知らなかった。相談した時は八〇歳位となる。勿論、日野原重明氏の如く九八歳でも現役で活躍されている方もある。だが、それは努力をしての話であり、弁護士としての努力を長期怠れば、使い物にはならないであろう。どの世界でも同様である。この弁護士に関して以下箇条書きで記録を整理しておく。
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①私を岡映氏(分裂前の部落解放同盟委員長、分裂後の全解連初代委員長)に紹介した食堂のママさんが、私に「豊田弁護士は昔は相当活躍されていましたが、今(一九八七年頃)はもう駄目ですよ」に近い言動をされた事があった。
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②この弁護士が活躍されたのは、次頁の(参考資料)に記したように、一九三七年頃の小作争議とか戦後のレッドパージの頃であった。後には衆議院選挙に共産党候補として立候補を何度かされている以上、弁護士の勉学は中断されているとしか思えない。私の会った時の感触では、一九八七年頃は現代に対応できない弁護士としか思えなかった。例えば、ドメステックバイオレンスなどで相談しても、「夫婦喧嘩ですな」で切り捨てるタイプと感じられた。
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勿論、日照権、肖像権など新しい人権には疎いという感じを受けた。若しくは③で述べる如くそうした演技をした疑惑もある。理由は映画説としか思えないが、④で否定されているため、私には何が何か分からない。但し、「起こった事件は全てメモせよ」は適切な助言であったが、このアドバイス後は証拠の残らぬ形の不法侵入等の事件(軽微段階)が多くなり、後には記録付けすると駿台の教材研究は不可能な域に達し、授業に責任を持つため途中で記録付けは相当諦めた。諦めると同時に今度は拉致未遂等の大犯罪が多発してきた。今考えると、話題提供のための映画のシナリオの如く上手くできた話である。
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③右記②は演技かもしれない。当時ですら気になる事があった。私を「駿台での虐め」という形で門前払いした後、私がどういう反応をしているかをさりげなく見るため、帰りかけていた私を下に降りて見に来た。この時受けた印象は、私を心配してではなく、誰かから事前に私への対応を指示されており、そこでこういう風に言ったならば私がどう反応するか試していたような感じを受けた。後に考え出した映画説で言えば、Xから指示を受けた通りに私に対応してきたのかもしれない。とにかく、当時、何か試しているような奇異な感じを受けた事は印象に残っている。
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④この豊田弁護士が共産党から衆議院選挙に立候補した事があるとは全く知らなかった。私の立会人になってもらっている新免美作市議会議員から、合同法律事務所かこの弁護士かが共産党関係ということを教えて貰い始めて知った。そしてインタネットで調べて年齢や選挙に立候補していたことも二〇〇〇年代になり初めて知った。
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因みに、この弁護士の件や大学時代の不可思議な事等々から、私は映画説ならば共産党関係が映画の首謀者ではないかと長期疑った事があった。私は共産党員ではないし、当時「しんぶん赤旗」も講読していなかったが、政経の勉学上八六~八七年には「赤旗日曜版」を講読していた。この弁護士に相談に行く前にも「赤旗日曜版」に合同法律事務所のCMがあったのではないかと思う。また、同様の理由で実家でも一九九二年位から二〇〇二年位まで「赤旗日曜版」を講読していたが
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(後には金欠で日曜版ですら一切講読していない)、九八年に岡短の件で弁護士に相談に行く直前には、同新聞に(東京の孔雀という飲み屋で偶然知り合った)親友・神田高君(当時は東京法律事務所の弁護士)の記事が出てもいた。また、第五編序幕で記したNHK教育放送で、私の言動の解説が行われたのと類似して、「赤旗日曜版」にも私の言動と関連した記事が偶然の頻度を超える率で掲載されていたように思われた事もある。笑われることを記すが、岡映(あきら)氏の「アキラ」は映画の〝映〟でもある。
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そこで、単刀直入派の私は二〇〇六年四月四日に新免美作市議会議員(共産党)に直に尋ねた。映画等共産党首謀説の根拠を述べた後で、「共産党が映画、TV説の主役、首謀者と思われる節があるが事実か否か」、と。新免議員の回答は「無関係」であった。新免議員は嘘を言う性格ではないため、今でも何が何だか分からない。但し、「映画説であろうとなかろうと、強制労働に労働省や国会議員が絡んでいた場合には国政調査権発動……が必要」、「映画説でプライバシー侵害を国会議員・政府等が加担・黙認していた場合には国政調査権発動が必要」等については意見は一致した。
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⑤私は、共産党を始めどの政党であろうとも、それらに関係する如何なる団体にも三〇年位所属していない。今後も党派中立を貫くと公言してもいる。ただし、人物が信用できる人ならば共産党員でも、自民党員でも、公明党員でも、民主党員でも、社民党員でも……友達付き合いなどはする。その逆も然りであり、いずれの政党の党員であろうとも信用できない人間とは付き合いはしない。
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新免議員は奥さん共々大学院浪人時代のバレーボールや地域サークルの友達であり、神田高弁護士は偶然入った飲み屋で知り合った親友でしかない。そこで、彼らとの付き合いはある。勿論、他の政党・組織に属している友人も我が家へ遊びに来ることもある。全て人間性での判断でしかない。また、全政党に対して、政策も個別に良いか悪いかをケースバイケースで判断してもいる。やむを得ずのアドバイスも同様である。「日本のフィクサー〝ME(私)〟」を読めば、全政党に対してアドバイスを行っている事が分かるであろう。
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なお、私が能力の劣化を恐れてTVに積極的に発言しだしたのは、ここ数年でしかない。それまではTVへの自然反応であり、迷惑率はほぼ百%であった。今でも迷惑率の方が高い。冷房のない四〇度近い部屋の中ですら、裸にすらなれない時もある。経済的自立を妨害されるのが止み、自由の身になり、本来の自分の能力に相応しい生活が可能となれば、映画・TV類とは即座にキッパリとおさらばしたい。再度言えば、金欠のため情報を得るため・能力の劣化阻止のため、やむなく発言しだしたのはここ数年でしかない。後は、諸挑発で無理矢理TV類に参加させられただけである。
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(参考資料)「…… 2、故豊田秀男先生(期前)は、私が帰岡して入所した岡山合同法律事務所の創設者であり、……。戦前の小作争議、戦後のレッドパージの弾圧事件を多く手掛けられた伝説上の弁護士であった。……今のように国選の刑事弁護を誰もがやらなかった時代に、暴力団の刑事弁護でも嫌がらずにきちんと手掛けられ、その筋の方からも絶大な信頼を得ていたと聞く。
私が岡山に帰って直ぐの頃、ある暴力団の幹部から借金をしたという相談があった。相談に来られた家族の方は怯えており、私も自信なさげに『相手が相手ですからね…』などと言いながら、恐る恐る暴力団事務所に電話した。
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開口一番、相手から『おめーはどこの事務所の弁護士じゃー?』と気色ばまれ、私が『岡山合同です』と弱々しく答えたら、急に声色が変わって『オカヤマゴードー?…豊田先生は元気にされとんか?わしは二〇年前に豊田先生に世話になってのぉー。』と言われ、後はトントン拍子で話がまとまり、事件は解決した。豊田先生は死してもなお威光を保たれていたのである。……」
{則武透、『岡山自由法曹団物語序章』
http://www.jlaf.jp/tsushin/2002/1064.html収録。
ダウンロードは二〇一〇年一〇月一日であるが、自由法曹団関係の二〇〇二年頃のHPと思われる。}
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※【参考―3】を読み、日本共産党関係の記述を最後にしたため、同党の誰かが犯人に関与していると、私が考えていると勘違いをせずに頂きたい。記述の順番の関係で【参考―3】が最後になっただけである。私も何が何か分からぬため、共産党関係が私への危害の黒幕かどうかを、新免美作市議会議員にはっきりと正面から問い合わせ、そして「無関係である」との返答を受けた事は既に記した通りである。
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拉致未遂等の犯人捜しは警察が、更に旧労働省管轄の職場で大被害に遭っているため黒幕探しは警察と同時に国会議員・政府が正面からすべき事項である。
私へのパッチングテストを偽った更なる危害を加え続けることは言語道断である。
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なお、政府・「機構」・国会議員宛文書を記述している途中、更に幾つかの事・不可思議な事を思い出した。詳細は、今回は記述できないが、一例のみ追記しておく。
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岡短が賃金等月極明細書を一五年に亘り一切出さなかったのは裏金作りに利用していたのではないかという疑問である。更に、交通費問題の取扱の不可思議さ(片道百キロ未満は交通費無し)もそれに利用された疑いがある。交通費は支給したと予算では記し、非常勤講師には支給しない、そしてそのお金を裏金としプールする。だから賃金等月極明細書は渡せない、と。この点に関しては政府機関に問い合わせ予定である。
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何故、政府に問い合わせるかは岡短の所管は旧労働省であり、岡短関係の項目は全て国会の議決を必要としていたからである。テキスト代金不払等々も……そう考えれば謎は解ける。同時にその逆も然りで、予算が余った時には、謝金等の名目でお金をばらまき予算を無理矢理消化していたのではなかろうか。
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(3)《2025/02/23 追記コメント》
①以上は、2010年以前に記した文書である。
今回、誤字・脱字があってすら一切微修正していない。
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②新免昌和氏に、映画説共産党首謀論を直にきいた。
そのときの証言を後に残すため、文書で聞いている。具体的には質問文をつくり、私と新免氏の両者で、それを見て回答していただいた。そして、私の側の控えにその都度新免氏の回答を掲載していく作業を行っている。そのときの文書のコピーを今回、下記【資料1】に掲載する。
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③消却されたはずの文書を仙谷由人官房長官が知っていた謎。
2010年までの文書は下記の『閉じた窓にも日は昇る』の各バージョンである。字数制限の関係で、ある程度書けたのは宝島社と文藝春秋版である。
ただし、不採用になった場合には消却と書いてあったと思う。私の方も下記の如く「不採用の場合にはシュレッダーで処理するよう依頼」しておいた。
ところが、官直人内閣のときに、仙谷由人氏がテレビから、「小作争議の弁護士に依頼されたのですか」と苦笑いをしていた謎がある。ちなみに、仙谷由人氏(当時の官房長官)は私には終始、低姿勢・丁寧に対応されていた。
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なお、『閉じた窓にも日は昇る』(電子書籍版)は2016年発売であるが、2007~2010年版を元にした上に、この頃もまだ「人間違い(ひとまちがい)論」は本気にしていなかったため、人間違い論はまだほとんど書いていない。また、電子書籍版にはテーマをそれぬため「差別文書」については書いていないに等しい。
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④2012年から徐々に、2019年に確定となった人間違い説以降の見解。
上記に記載した後で2012年から人間違い論が浮上してくる。そこから、後に、特に2019年以降解釈が変わる部分がある。それが次回からの2019年頃~2024年見解編である。
ただし、2011年までは駿台で渡された差別文書のみか駿台事件がさっぱり分からなかった。謂(い)わば「チンプンカンプン」であった。
2012年以降から徐々に人間違い(多分、我が家の住所番地を70年使用していた)Z3との人間違い解釈が主流となる。しかし、私はZ3ではないし、Z3が事情を一切言わぬため、今なお、別の意味で「チンプンカンプン」である。
「チンプンカンプン」状態は約40年続いているが、今のままでは死ぬまで同様であろう。この世での解決は裁判所か国会でないと不可能である。
▽
⑤後に、この件に、安倍晋三氏などが絡んだ疑惑。
更に、ややこしいのは、政治家が絡んできた疑惑である。その代表例が安倍晋三氏である。実際に、彼が総理になるや即、安倍昭恵氏を岡山県美作市に派遣してくる。場所は私が憩いの場としていた、大芦高原付近である。翌・2014年には、安倍昭恵氏は我が家から2キロメートル先の湯郷温泉にまでくる。岡山市から来た場合には我が家前を通っていないという保証はない。その上、スパイ活動・工作を某家に依頼したようである。その推測は次回の2019年頃~2024年記述編に記す。
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⑥2025年追加資料としては、以下、二つを下記に収録する。
一つは、新免昌和美作市議(日本共産党)の人に「映画説共産党首謀論」などを文書と口頭で尋ねた文書編の資料である。
もう一つは字数制限の関係で「閉じた窓には日は昇る」は6バージョンの原稿となってしまったが、その内、二つの出版社宛に「差別文書」の件は書いたと思うが(駿台真相編7-B2と7-B3に該当箇所を全文収録)、念のために全文書の目次を下記【資料2】を掲載しておく。
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⑦最後に、法務省・人権擁護局絶対視はやはり危険かもしれないと思うようになってきている。
悪魔で例えばであるが、(我が家の住所番地を70年使用していた)Z3氏が何等かの事件→駿台でZ3と私との人間違いから私が被害→私が美作市人権擁護協会に相談に行けば、対応者はZ3となる。
何故ならば、彼は実家に戻ってきてから、司法書士の関係で美作市の法律相談を何度も行っており、更に、人権擁護協会の委員だったからである。
同一住所番地を市で相談したが、煙に毎回巻かれたのと無関係でもあるまい。その上、美作市長は2014年から、安倍晋三が小泉旋風の前にスカウトした人物と聞いている。やはり、現世での完全決着は裁判所か国会しかないであろう。
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宝島社版箇所の当初非公開で誰にも見せない予定の箇所の公開部分についての補足。
姉の箇所→姉は「化学のK講師」からといって手渡された差別文書を丁寧どころかまともに見ていない。勿論、私の自筆とも違う。
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更に、私が見たこともないこと(右翼の街宣車が同和地区に多いなどは見たことがない)、逆に、私が常識と思っていることをご認識している(在日コリアンの団体と部落問題関係の団体は別組織である等、また前回紹介した事件などの問題…)、同時に、私を共産党の榊利夫氏型と決めつけて書こうと装ったようであるが、私と彼と見解が違う所がある。何よりも、駿台事件の頃は私は日本共産党員ではない。
部落解放運動は一つとなるべきであるという持論ももっている。後にも必要があれば対立団体の調停も見当すると明言してもいた。古賀茂明氏などがどこかで、私の話(見解)を聞いた気配があった。
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裁判所などで解説をすれば即座に分かることである。前回(駿台真相編7-B2)のみか、その後でこんな「出鱈目文書」と怒り、そのときの怒りを録音した部分を聞いても即座に分かる。第一、知識などのレベルが小学校の相撲取りとプロの相撲取りとの違いがあった
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再度言えば、生きている内に裁判所か国会で差別文書のみか、駿台事件の全貌を明白にすることを切に願っている。必要時には筆跡鑑定、駿台のモニタ確認、証人とからの調査という捜査の鉄則が重要である。
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(4)【2025年資料―1】(新免昌和議員に質問した「共産党映画説首謀論関係の質問書」とその返答の公開)
①2006年に労働省所管「ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)」及びその運営者「雇用能力開発機構」との賠償交渉立会人となっていただいた新免昌和美作市議(日本共産党)の方に質問した事項である。
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※新免議員に交渉の立会人となっていただいた経緯は「恐るべき労基法違反・改訂版」で記す。簡単に言えば、何人かに立会人をお願いしたが、断られてやむなく新免議員にお願いした経緯がある。交渉相手はいわば労働省(当時は雇用促進事業団の理事長は大半が労働省事務次官の天下り指定席)のため、かなり知名度の高い人を検討していたが全て断られたため、結果として(大学院浪人時代に地元でバレーボールや絵画などをしていたサークルで新免氏の奥さんなどと一緒したことがあったため)地元で知り合いであった新免議員しかいなくなったためである。
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②私自身は、1968年(林野高校)~74年度(関学卒業年度)までが民主主義活動を一番行っていた時期である。民主主義活動家として一番目立っていた時期である。
ただし、この時期は日本共産党員でもなければ日刊紙「赤旗」は講読していない。多くの人が勘違いをしただけである。誰からも、私に「あなたは日本共産党の人ですか」と聞かれたことは一度もなかっただけである。俗に言う早合点である。
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※ただし、大学時代に民青には所属していたが、民青(日本民主青年同盟→※注参照)なる組織は16歳から20代後半までしか所属できない組織である。同時に、当時は20万人の青年が入っており、大学によれば10人に一人とか数人に一人所属していた学校もあり、日本共産党とイコールではない。私は大学は関西学院大学(略称=関学)であるが、誰が関学の日本共産党員かは全く知らない。想像とか推測で思う程度である。
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(注)
☆☆☆☆☆
日本民主青年同盟……最盛期の1970年には同盟員数は約20万人を数えた(名古屋大学生総数4,000人中1,000人、東北大8,000人中1,000人、岩手大3,000人中1,000人、京大、立命四桁、東大600、早大、法政、中央数百)が、30回大会(2002年11月)において「2万2,000の峰を突破」との表現で公表したのを最後に、同盟員数は明らかにしていなかった[15]が、47回大会(2023年11月)において、システムで集計した現勢は6,460人だったことを明らかにした[16]。
……年齢上限は……当初は28歳までとされていたが、後に世代交代を促すため25歳に引き下げた。2011年より上限が30歳まで引き上げられた。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B0%91%E4%B8%BB%E9%9D%92%E5%B9%B4%E5%90%8C%E7%9B%9F
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なお、Wikipediaには石原慎太郎氏が学生時代(高校か大学かは忘却した)に民青か民学同に関係していたと書いてあった。母親の反対で縁をきったと書かれていた。その程度の組織である。ちなみに、今(2025/02/25)、Wikipediaを確認するとその箇所は完全に削除されていた。恐らく、石原慎太郎氏が亡くなられた後で誰かが削除したのであろう。いずれにせよ、些細な問題にすぎない。他にもビックリするような人を知っているが、他人のプライバシー権は、該当者が私の人権を侵さないかぎり記さない方針でいる。
▽
過去の経歴を気にする人ではないと思われる人を一人記せば武村正義氏(新党さきがけ)も民青同盟員だったとWikipediaには記載されている。私に言わせれば、他人のプライバシーを気にする人間は異常でしかない。(サムエルソン氏と友人であった)都留重人氏も、これが民主主義かと嘆かれるであろう。彼も、「冷戦下の赤狩り(マッカーシズム)の中でアメリカ留学当時共産主義者であったことを告白」(Wikipedia)させられたのであるから。過去の経歴と無関係に、現在の行動と理論で人は判断すべきである。正に偏狭な時代になりつつあるとつくづく思う。
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ただし、石原家の中で、私に一番関心を寄せていたのが石原慎太郎氏に思えた。ともかく、人なつこい形で、私には常時接触をしていただいた。
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ちなみに、駿台予備学校講師時代は上記の団体等とは縁がなくなっており、駿台の教職員の誰が日本共産党員か、あるいはその支持者かすら全く知らない。駿台京都校は革新のメッカ京都にあるため、共産党かその支持者が相当いたであろうが、誰が該当者かは想像すらつかない。
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③1975年度~80年度は赤旗日刊紙を5年余り定期購読をしている。同時に、会議にも参加していたが、大学院浪人時代は受験勉強、姉・同居の伯母の大病等で身動きがとれず、更に大学院時代は勉学が任務ということで、事実上活動はしていない。
▼
②に比べれば、大学院浪人時代や早大大学院時代は全くに近く目立つ活動は何一つしていない。私を革新系と思った人もほとんどいなかったであろう。②と③は真逆である。
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④1981年度から今日(2025/02/24)までは、日刊紙赤旗は一度も購読はしたことがない。共産党類の会議にも参加は一切したことがないというよりも、参加できるわけがない。当然、日本共産党員ではない。1981年以降は、日本共産党とは縁はなくなっている。(岡山県美作市在住の)新免氏との再会は、ポリテクカレッジ岡山での労基法違犯と健康被害に対する賠償故障で立会人捜しをしていた1998年4月以降である。1981年から岡山県に戻っており、更に1988年からは完全に実家(岡山県美作市)に監禁されているが、1977年4月から98年3月まではあったことすらなかった。
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何故縁がなくなったかの本質を知りたいならば、拙著『旅に心を求めて―不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円)を読めば、その理由の発端は分かるであろう。他人のプライバシーに興味があるならば、まずこの本を購入すべきである。海外でも販売している。アメリカでは$1(一ドル)で販売している。あの分量(通常の文庫本レベル)でたった一ドルであり、1ドルをけちる必要はあるまい。英語に自動翻訳できるように、来年頃には電子書籍をパソコンにコピーできる形態で発売を検討しよう。
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(安らぎ文庫)【『旅に心を求めて・不条理編(下)』関連の公式紹介箇所】
http://h-takamasa.com/book-01/custom7.html
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もっとも、Mr.バイデンに言ったように、「選挙は政策で判断し、友は性格で選ぶ」、あるいは「海外の友とは政治と宗教の話はタブーである」ということで、人間性が良ければ、昔の友も思想等に拘わらず重視するだけである。
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授業の参考になる・授業で問題を訴えるため水俣行き(1983年夏)や原爆資料館(1985年夏)などは共産党と無関係な形での個人行動である。(1996年、2016年水俣再訪等を考えても分かろう。2013年韓国の安重根記念館も同様である。)
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☆ただし、模試チェックや授業(政経・現代社会)との関係で赤旗日曜版(経済欄・分かりやすい経済講義目的で)は1985~87年度の内1年半、1993年頃から2002年(ベネッセ模試のチェックを辞める迄)の間は購読している。
当時赤旗日曜版は300万部であり、今日の毎日新聞等よりも発行部数の多かった時代でもある。2002年以降は日曜版レベルの情報も含めて、全く何の情報も入っていない。
▽
再度言えば赤旗日刊紙は1981年から2025年2月25日現在まで約44年間見たことがないため、現在の日本共産党については(赤旗や赤旗日曜版を購読している)自民党議員の一部や他の政党の諸君の方が詳しいと思われる。
※日本の(マスメディア等にとっての)各種タブーをかなり記述する特異性から、更にお金に関する政治スキャンダル情報入手問題から、日本共産党員でなくても、日本では多くの政治家が購読しているはずである。これが日本の特殊性(いわば文化)である。
▼
⑤これらの事項は思想良心の自由のみならず、プライバシー権に属するため、他人に危害を与えていない場合は権利のみならず回答はしてはならないという義務もあると考え、長く沈黙を保っていた。
▽
後に、アメリカの中間選挙(2018年)、大統領選挙(2020年)に絡められたため、思想・良心などの個人情報の一部を公開し、今回は差別文書の謎をとくため更に公開をしている。差別文書を手渡してきた人間は、私を日本共産党員と勘違いしていたことを明白にするためである。駿台講師時代は、私は一貫して党派中立・宗派中立論者であった。
▼
⑥以上のことを踏まえて新免議員に質問をした内容をご覧いただきたい。
新免市議会議員の回答が一部ない箇所は、質問に予想外の時間がかかり、一部省略したか、あるいは新免氏の回答のメモをする時間がなかったためと思われる。新免昌和氏は現在(2025/02/24)も生存されているため、不審な事項は直にきいてほしい。
なお、下記の用紙は新免氏にも手渡している。ただし、私が自筆でつけたコメントは、双方がこの用紙を見ながら対談できるようにしていたため、当然ついていない。新免氏の用紙の側にコメントがついていれば、それは新免氏自身が書かれたコメントである。
▼
★下記用紙はクリックで拡大する。
コメントは、私が新免氏の回答を聞きながら記したものである。原則青色でつけていたが、私が間違えて番号に丸(○)をしたり、新免氏が言い直した場合には赤色で丸(○)やコメントをつけなおしている。
なお、この私の自筆を見れば、差別文書を書いた人の文字が私よりも綺麗と書いた理由が分かろう。筆跡が全くちがっていることも分かろう。
これが私の文字である。
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文書は全てクリックで拡大
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★共産党映画説を疑っていたため、その質問箇所
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※前回の駿台真相編7-B2の差別文書の箇所を書いた人のコピーを一部添付を2025/02/25までにしておくが、筆跡をみれば分かるが、残念ながら私の文字は上記の赤字の如く、ひどい。例の文書を書いた人間の方が字が綺麗というかマシな自筆であった。要するに筆跡は全く違っていることは今回の下の文字で明白となろう。
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なお、私が本当に困っているのは政党屋組織問題などではなく、催眠や挑発で特定の企業に人身売買されたり、企業間の争いに巻き込まれたり、その結果、商品を壊され続けたりするなどの被害の方である。要するに企業・法人問題の方である。駿台真相編も、本質はそこにあると分析している。
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なお、次回から記すように、そこに政治家が絡み(大昔の駿台事件にすら絡み)、特に2013年からは、政治家による私の悪用や人身売買が行われた疑惑である。
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(5)【2025年資料―2】『閉じた窓には日は昇る』6つのバージョンとその目次等。
①小学館(目次不明):2007年4月送付原稿
本文 [ワープロ文章九二頁](文字部分→実質四〇〇字三〇〇枚程度)
三・【※注】[約三頁]本文関連箇所で差別文書を渡されたため取り扱い問題上別に 記載→出版時掲載の有無は貴社と相談。
※三と四は掲載しない場合でも本文は成り立つ形で作成している。
《小学館ノンフィクション大賞応募作品》・【送付日】二〇〇七年四月 日郵便局郵送
▽
◎【※注】と参考資料(写真)
以下、【※注】と資料(写真)を掲載している。いずれも、掲載を省略しても、本文には支障ない形で本文は記述している。
1・【※注】の駿台K講師からとして手渡された『不当な要求は断固拒否しましょう・許さないエセ同和。法務省』内の手書き差別文書については、私は立会人と相談の上で問題が無いとなればこのまま出版して良いと思うが、貴社とも相談してこの【※注】掲載の有無を決めたい。可能ならば、法務省に同省のパンフが悪用されていた以上通知し、同時にコメントを貰う事が誰にとっても良いと思う。
2・資料(写真)の方は、可能ならば、掲載できればと思う。
■
■
②集英社 360枚:2008年2月制限字数オーバーで送付
【目次】 ・[縦三〇字×横四〇字]
――全文書の通算通し番号(頁)は左記と別にで左下に赤字記載
第一編・木漏れ日人生 一
第一章・ふるさと 一
第二章・窓 三
第三章・木漏れ日人生 四
▽
第二編・求め続けて 九
――人間としてのわずか数年の日々
第四章・What do Ido?(私は何者か) 九
第五章・求め続けて(その一)――人間 一一
第六章・求め続けて(その二)――権利のための闘争 一二
第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々 一七
(刺客―2)
第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆 二一
第九章・求め続けて(その三) 二六
――広大な荒れ地を耕す苦しみと喜び
第一〇章・駿台予備学校時代終焉(しゆうえん) 二七
――犯罪被害の連続(刺客―3と4)
第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ 三六
▽
第三編・強制収容所 四二
第一二章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)時代 四二
第一三章・羽交(はが)い締(じ)めの下(もと)でのボディブロー 四九
(八八~九〇年初頭)――(刺客―5)
第一四章・生きる屍(しかばね)と吐血拷問 六〇
(九〇年初頭~九三年末)――(刺客―6)
第一五章・田舎のアウンシュビッツ・H病院 六七
第一六章・岡短時代の「求め続けて」(その四) 七二
第一七章・岡短辞職への刺客(刺客―7) 七四
(九五~九八年一月)
第一八章・九七年度波状型引導渡し攻撃から辞職迄 八一
(刺客―8)
第一九章・九四年~九八年一月の刺客の謎 九二
▽
第四編・閉じた窓にも日は昇る 九七
第二〇章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)辞職後の日々 九七
第二一章・闘争の開始 九九
第二二章・手紙「内閣総理大臣・小渕恵三様」 一〇五
(二〇〇〇年四月三日送付)
第二三章・パッチングテストという名の話題提供型危害開始
(刺客―9) 一〇八
第二四章・引き続く刺客の前兆 一一一
第二五章・自宅監禁(刺客―10) 一一三
第二六章・閉じた窓にも日は昇る 一二〇
第二七章・再度、寄生の道の屈辱について 一二四
最終章・「木漏れ日人生」vs「閉じた窓にも日は昇る」一二六
▽
〈右記と末尾の作者氏名で応募該当要件文書終了。左記青色項目は、参考資料。末尾及び手紙記載の理由で収録した〉
【※注】・差別文書について ※注頁
【参考資料写真】 写真資料頁
【作者氏名等】 末尾
▽
《同封物》縦三〇字×横四〇行
一・表紙 [一頁](=A四用紙枚数。以下同一)
一・梗概[一頁](字数一二〇〇字未満)
三・目次 [二頁]
四・本文[ワープロ文章][一三一頁]
■四百字詰め原稿用紙換算=約三六〇枚
(写真部分除外し、一太郎で文字数計算÷四百で計算)
五・参考資料(略可)・【※注】 [一一頁]・付録参考写真[三頁]
六・氏名・連絡先等 [一頁]
▽
《写真と【※注】について》
Ⅰ・本文の写真。拙著撮影写真二枚(第一編と第四編最初)掲載。
掲載希望望。ただし、不可能な場合には省略もやむを得ない。
▽
Ⅱ・【※注】。可能ならば掲載希望。
差別文書を手渡された事を本文に記述しているため、貴社若し くは審査の人が、その意味をより深く知る必要時に備えての参 考記述。雑誌・本になる時も掲載が望ましいが、字数制限上不 可能な場合には致し方ない。【※注】を読むかどうかは貴社次 第であり、【※注】は本文ではない。
▽
Ⅲ・付録写真資料。できれば掲載希望。
◎年賀状→本文第四編第二八章→内容SOSの補強として。
◎私の健康状況写真→本文全体の健康危害の参考として。
◎窓の写真→本文第四編の内容補強用写真。
※ⅡとⅢ→省略しても、支障を来さない形で本文は記述している。
▽
【送付日】二〇〇八年二月 日郵便局郵送
▽
貴社HPで、応募要項(原稿枚数)が変化していた問題
貴社ホームーページ(HP)で、〇七年中下旬に募集要項を確認すると、制限枚数は四〇〇字詰め原稿用紙換算「二五〇~五〇〇枚」との記載(※1)があった。
〇七年初頭に貴社HPを見た時には三〇〇枚位と記載されていたような記憶もあり、その後も何度も貴社HPで確認したが、やはり「二五〇~五〇〇枚」と記載されていたため、写真資料・※注を含め五〇〇枚を目処に原稿を作成した。
▽
原稿が完成した〇八年一月二〇日に貴社HP再確認すると、制限枚数は三〇〇枚位(二六日再チェック確認〝程度〟)に変わっており、相当原稿を絞ったが、本文一三一頁(四〇〇字換算三六〇枚・末尾参照)となった。これ以下にはできないと判断し、送付した。
▽
なお、三六〇枚以外に、(できれば掲載してもらいたい)
①付録写真(A四用紙三頁)と(可能ならば掲載を望む)
②【※注】部分がある。末尾に記載理由記述。【※注】は、本文に差別文書を手渡された記述があるため、貴社若しくは審査の人がその意味をより深く知る必要時に備えて参考記述。同時に、差別については可能な限り、差別をなくそうと読者が考えるように、参考記述をする必要性があるため、雑誌・本になる時も掲載が望ましい。しかし、出版物の字数制限上不可能な場合には省略することも致し方ない。①、②は省略しても、本文自体には支障を来さない形で、本文は記述している。【※注】は、貴社指定の募集要項に該当する本文とはしていない。よって、右記の字数には換算していない。
▽
(※1)〇七年中下旬に貴社HPをコピーし一太郎に張り付けた物(一太郎プロパティでは〇七年一〇月二日となっている)
「……◆原稿枚数は400字詰め原稿用紙で250枚以上500枚までとします。ワープロ原稿は1行30字×20~40行で作成、A4判のマス目のない紙に縦に印字し、400字換算枚数を明記してください……」
▽
③集英社・486枚版:上記の如く字数問題から送付していないかもしれない。
(下記は送付していないかもしれない)
《同封物》縦三〇字×横四〇行
一・梗概[一頁](字数一二〇〇字未満)
二・本文[ワープロ文章](※注含む)一五八頁+表紙一頁
+目次二頁+付録資料三頁
■四百字詰原稿用紙換算→(※注含む)本文474枚
+表紙1枚該当+目次5枚該当
+(省略可能)資料6枚該当=486枚
※写真を除く部分は合計約460枚未満
→本文に写真二枚(第一編と第四編最初)のみ掲載してい る。拙著撮影のため著作権問題はない。掲載が望ましい が、不可能な場合には省略もやむを得ない。
付属写真資料の扱いは左記参照。
【目次】
【表紙】 1
【梗概】 2
【目次】 3
▽
第一編・木漏れ日人生 5
第一章・ふるさと 5
第二章・窓 7
第三章・木漏れ日人生 8
▽
第二編・求め続けて 13
――人間としてのわずか数年の日々――
第四章・What do Ido?(私は何者か) 13
第五章・求め続けて(その一) 15
――人間――
第六章・求め続けて(その二) 16
――権利のための闘争――
第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々 21
(刺客―2)
第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆 25
第九章・求め続けて(その三) 30
――広大な荒れ地を耕す苦しみと喜び――
第一〇章・駿台予備学校時代終焉(しゆうえん) 32
――犯罪被害の連続(刺客―3と4)――
第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ 41
第一二章・犯人は一体誰なのか 46
▽
第三編・強制収容所 54
第一三章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)時代 54
第一四章・羽交(はが)い締(じ)めの下(もと)でのボディブロー 61
(八八~九〇年初頭)――(刺客―5)
第一五章・生きる屍(しかばね)と吐血拷問 72
(九〇年初頭~九三年末)――(刺客6)
第一六章・田舎のアウンシュビッツ・H病院 80
第一七章・岡短時代の「求め続けて」(その四) 84
第一八章・岡短辞職への刺客(刺客―7) 87
(九五~九八年一月)
第一九章・九七年度波状型引導渡し攻撃から辞職迄 94
(刺客―8)
第二〇章・九四年~九八年一月の刺客の謎 105
▽
第四編・閉じた窓にも日は昇る110
第二一章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)辞職後の日々 110
第二二章・闘争の開始 112
第二三章・手紙「内閣総理大臣・小渕恵三様」 118
(二〇〇〇年四月三日送付)
第二四章・パッチングテストという名の話題提供型危害開始(刺客―9) 122
第二五章・引き続く刺客の前兆 125
第二六章・自宅監禁(刺客―10) 127
第二七章・監禁下の日々 136
第二八章・閉じた窓にも日は昇る 139
第二九章・再度、寄生の道の屈辱について 143
最終章・「木漏れ日人生」vs「閉じた窓にも日は昇る」 145
▽
【※注】・差別文書について 151
【参考資料】 162
【作者氏名等】 165
■
■
④宝島社:700枚版:2010年5月送付
【資料】
宝島社:目次
第一編・木漏れ日人生 12
第一章・ふるさと 12
第二章・窓 13
第三章・木漏れ日人生 14
▽
第二編・求め続けて――人間としてのわずか数年の日々 18
第四章・What do Ido?(私は何者か) 18
第五章・求め続けて(その一)――人間 20
第六章・求め続けて(その二)――権利のための闘争 21
第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2) 25
第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆 28
第九章・求め続けて(その三)――広大な荒れ地を耕す苦しみと喜び 32
第一〇章・駿台予備学校時代終焉(しゆうえん) ――犯罪被害の連続(刺客―3と4) 34
第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ 43
第一二章・犯人は一体誰なのか 48
付録―1・K講師からといって渡された「ゆすりたかりのエセ同和」 53
▽
第三編・強制収容所 63
第一三章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)時代 63
第一四章・羽交(はが)い締(じ)めの下(もと)でのボディブロー 69
(八八~九〇年初頭)――(刺客―5)
第一五章・生きる屍(しかばね)と吐血拷問 79
(九〇年初頭~九三年末)――(刺客6)
第一六章・田舎のアウンシュビッツ・H病院 85
第一七章・岡短時代の「求め続けて」(その四) 89
第一八章・岡短辞職への刺客(刺客―7)(九五~九八年一月) 92
第一九章・九七年度波状型引導渡し攻撃から辞職迄(刺客―8) 97
第二〇章・九四年~九八年一月の刺客の謎 106
付録―2・「雇用能力開発機構の分析」(拙著『親方日の丸』より一部抜粋) 111
▽
第四編・閉じた窓にも日は昇る 116
第二一章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)辞職後の日々 116
第二二章・闘争の開始 117
第二三章・手紙「内閣総理大臣・小渕恵三様」(二〇〇〇年四月三日送付) 122
第二四章・パッチングテストという名の話題提供型危害開始(刺客―9) 125
第二五章・引き続く刺客の前兆 128
第二六章・自宅監禁(刺客―10) 130
第二七章・監禁下の日々 133
第二八章・閉じた窓にも日は昇る 135
第二九章・再度、寄生の道の屈辱について 138
最終章・「木漏れ日人生」vs「閉じた窓にも日は昇る」 140
付録―3・「歩行者道路ブロック違法駐車に何故私が怒ったか」 145
▽
第五編・帰結 150
序幕・犯人Xは、首謀者であったが、真の首謀者ではない 150
第一幕・駿台時代の女性NMの謎 155
第二幕・岡短時代の学生Sの真相と今後の「機構」問題 161
第三幕・岡短辞職後から現在まで 164
第四幕・日本のもう一人のフィクサー・〝ME(私)〟への道 170
備考・ K講師からと言って渡された「ゆすりたかりのエセ同和」について 172
▽
後書き・ 175
▽
表紙・目次と本文含めて一七六頁、四百字詰め原稿用紙換算=約七〇〇枚
《同封物》縦四〇字×横四〇行{落選時はシュレッダー等で消却お願いします。}
【送付日】二〇一〇年五月 日郵便局郵送
■
■
⑤文藝春秋版。800枚版
第一編・木漏れ日人生 16
第一章・ふるさと 16
第二章・窓 17
第三章・木漏れ日人生 18
▽
第二編・求め続けて――人間としてのわずか数年の日々 22
第四章・What do Ido?(私は何者か) 22
第五章・求め続けて(その一)――人間 24
第六章・求め続けて(その二)――権利のための闘争 25
第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2) 29
第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆 33
第九章・求め続けて(その三)――広大な荒れ地を耕す苦しみと喜び 36
第一〇章・駿台予備学校時代終焉(しゆうえん) ――犯罪被害の連続(刺客―3と4) 38
第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ 47
第一二章・犯人は一体誰なのか 52
▽
第三編・強制収容所 59
第一三章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)時代 59
第一四章・羽交(はが)い締(じ)めの下(もと)でのボディブロー 65
(八八~九〇年初頭)――(刺客―5)
第一五章・生きる屍(しかばね)と吐血拷問 76
(九〇年初頭~九三年末)――(刺客6)
第一六章・田舎のアウンシュビッツ・H病院 82
第一七章・岡短時代の「求め続けて」(その四) 87
第一八章・岡短辞職への刺客(刺客―7)(九五~九八年一月) 89
第一九章・九七年度波状型引導渡し攻撃から辞職迄(刺客―8) 95
第二〇章・九四年~九八年一月の刺客の謎 104
【※参考】・「雇用能力開発機構の分析」(拙著『親方日の丸』より一部抜粋) 109
▽
第四編・閉じた窓にも日は昇る 115
第二一章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)辞職後の日々 115
第二二章・闘争の開始 116
第二三章・手紙「内閣総理大臣・小渕恵三様」(二〇〇〇年四月三日送付) 121
第二四章・パッチングテストという名の話題提供型危害開始(刺客―9) 124
第二五章・引き続く刺客の前兆 127
第二六章・自宅監禁(刺客―10) 129
第二七章・監禁下の日々 132
第二八章・閉じた窓にも日は昇る 134
第二九章・再度、寄生の道の屈辱について 137
最終章・「木漏れ日人生」vs「閉じた窓にも日は昇る」 139
▽
第五編(付録編)・帰結―幻想か事実か 144
序幕・犯人Xは、首謀者であったが、真の首謀者ではないかもしれない 144
第一幕・第一の刺客・駿台時代の女性NMの謎(第二編該当) 149
第二幕・岡短時代の学生SYの真相と今後の「機構」問題(第三編該当) 158
第三幕・岡短辞職後から現在まで(第四編該当) 162
第四幕・日本のもう一人のフィクサー・〝ME(私)〟への道 169
最終幕・「冬来たりならば春遠からじ」 170
【第五編参考箇所】 171
▽
後書き・ 178
付録・政府機関等へ送付した書留印コピー 180
▼
一・本文[=A四用紙枚数。一七九頁]四百字詰め原稿用紙換算=約六九〇枚
《同封物》縦四〇字×横四〇行{落選時はシュレッダー等で消却お願いします。}
【送付日】二〇一〇年一一月 日郵便局郵送
■
■
⑥電子書籍版:2016年(Kindle上・下各百円で発売)
(唯一出版:電子書籍版)
(2)新刊(『同上書』上巻)の目次
二〇一六年前書き
二〇一〇年前書き
【閲覧用目次】
第一編・木漏れ日人生
第一章・ふるさと
第二章・窓
第三章・木漏れ日人生
▽
第二編・求め続けて――人間としてのわずか数年の日々
第四章・What do Ido?(私は何者か)
第五章・求め続けて(その一)――人間
第六章・求め続けて(その二)――権利のための闘争
第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)
第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆
第九章・求め続けて(その三)――広大な荒れ地を耕す苦しみと喜び
第一〇章・駿台予備学校時代終焉(しゆうえん) ――犯罪被害の連続(刺客―3と4)
第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ
第一二章・犯人は一体誰なのか
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【付属資料】
資料1・主な著者略歴
資料2・主要作品一覧
資料3・上巻と下巻の全体目次
資料4・関連情報
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(「安らぎ文庫HP」の案内箇所)
http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html
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(2)新刊(『同上書』)の目次
【閲覧用目次】
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第三編・強制収容所
第一三章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)時代
第一四章・羽交(はが)い締(じ)めの下(もと)でのボディブロー(八八~九〇年初頭)――(刺客―5)
第一五章・生きる屍(しかばね)と吐血拷問(九〇年初頭~九三年末)――(刺客6)
第一六章・田舎のアウンシュビッツ・H病院
第一七章・岡短時代の「求め続けて」(その四)
第一八章・岡短辞職への刺客(刺客―7)(九五~九八年一月)
第一九章・九七年度波状型引導渡し攻撃から辞職迄(刺客―8)
第二〇章・九四年~九八年一月の刺客の謎
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第四編・閉じた窓にも日は昇る
第二一章・ポリテックカレッジ岡山(岡短)辞職後の日々
第二二章・闘争の開始
第二三章・手紙「内閣総理大臣・小渕恵三様」(二〇〇〇年四月三日送付)
第二四章・パッチングテストという名の話題提供型危害開始(刺客―9)
第二五章・引き続く刺客の前兆
第二六章・自宅監禁(刺客―10)
第二七章・監禁下の日々
第二八章・閉じた窓にも日は昇る
第二九章・再度、寄生の道の屈辱について
最終章・「木漏れ日人生」vs「閉じた窓にも日は昇る」
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【付属資料】
資料1・主な著者略歴
資料2・主要作品一覧
資料3・上巻と下巻の全体目次
資料4・関連情報
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(安らぎ文庫HPの案内箇所)
http://h-takamasa.com/book-01/custom38.html