(💁正式公開)駿台真相編07-A5 ・駿台での業務妨害と刑事犯罪の激化
【更新履歴】
2025/01/25 から書き込み
2025/01/27 追記作業
2025/01/28 12:31から(長文のため)下書き段階で公開し、清書化作業。清書が終わった箇所は区切り線で表示。正式公開は2025/01/29か2025/01/30を予定。
📢Live型配信中。5度目の配信(17:28時点)、6度目の清書更新・配信(19:37):小休憩の後で引き続き配信予定:7度目の清書箇所の拡張(23:03)
2025/01/29 0:45正式公開。 字数関係(今回3万1千文字で打ちきり)と息切れより分割する。犯人の仮説を次回にまわし、次回の駿台真相編7-A6でA群は最終回となる。B群は可能ならば1回、多くとも2回程度で打ち切れることを願っている。何故ならば、全く無関係の可能性がかなり高いからである。12:01:表紙入れ替え作業
【表紙の写真:駿台予備学校】
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駿台真相編07:大項目を四つに分けて、各項目ごとに、適切な分量となった時点で分割をし続けていく。
A:(授業妨害と初期刑事犯罪)→《序~◇3》謎の利権集団、《◇4~5》女性3組登場と刑事犯罪シグナルが、《6~8》姪登場と証拠隠滅での関連ホテル等爆破作戦、《◇9~11》山城の女性と真逆攻撃、《◇12~15》駿台刑事犯罪被害の概要と犯人の仮説と謎、《◇16~◇17》犯人の仮説・2006年と2025年
B:(弁護士相談と差別文書)→結論から言えば40年間いみ不明。誰が私の立場でも意味不明が分かろう。友人は一言のみ「ひとまちがい」と
C:辞職への道→具体的刑事犯罪被害から5例を詳論。同時に、駿台との交渉文章と交渉経緯
D:辞職後の世界→即座に四つが強調。①偽者→「人間違い」や私の偽者疑惑の指摘、②謎の☠グループがポリテクカレッジ岡山へ移動、西田ひかるデビューでテレビが強調、③この世とあの世の混合が強調⇒D群は『日本のフィクサーME・Part 3』4章の後に回すかもしれない。あるいは駿台真相編8と統合するかもしれない。
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駿台真相編07-A4の構成予定
《◇―12・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害概要》
《◇―13・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害・詳細編1》
《◇―14・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害・詳細編2・追記編》
《◇―15・駿台辞職後と古里への監禁》
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《◇―12・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害概要》
以下、黒字の部分は以前書いた下書き、桃色部分が2025年1月中旬以降の解釈
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1985年度からは訳の分からぬ女性の登場で振り回され、授業は一定後退した。
1986年度~87年度は授業妨害だらけとなった。教室のマイクを何度も故障させられ、生徒が受講しなければならない別の授業と私の授業を同一にされたり、教室の冷暖房を無茶苦茶され寒くて授業に支障を来したり、無関係生徒が授業中に乱入してきたり、プリントの印字を悪くさせられたり、駿台斡旋(あっせん)のホテルでは夜中に部屋の温度を寒くされたり・扇風機のような形で夜通し風を当てられたり・逆に暑くされたりで夜寝られなかったり……である。大半証拠があり、証言を確約してくれた生徒もいる。
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(2025/01/25判定)
マイク攻撃→これは後に証拠テープを聴くと悪質と断定、若しくは覚えていた以上に悪質であった。
プリントの印字→今考えれば目をくらます工作であり、実際の被害は余りたいしたことがなかった可能性があり、削除したいのであるが、本当の被害の隠蔽戦略の証拠として残しておく。
生徒の授業重複→今分析すると余り大したレベルではないため、記すと逆効果となり省略したいのであるが書いていたので残しておく。ただし、駿台外の事件を駿台がおこなったと思わせるにはかなり効果のあるやり方である。
ホテルでの冷暖房攻撃→これは大したことがありすぎて、その後20年ちかく、どこのホテルに泊まるときでも常時その怖さが蘇っていた。しかしながら、生まれて以来、この温度攻撃があったのは1987年秋~冬の東洋ホテル(大阪市中津)のみであった。しかも、温度以上に黒澤明型小細工がされていたようである。このホテルは後に解体されている。
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(2025/01/25)今回駿台真相編で明確になったように、🎬映画説視聴率と🏢駿台経営陣CMが本質のため、実際には生徒の相当数がスポットライトを浴びて有頂天となっており、私への協力申し出とは逆で映画説類のシナリオに協力していた可能性が高い。理論上はそうなる。
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他方で、外では全く見知らぬ人間に両腕を掴(つか)まれ、どこかにつれていかれようとしたり(大阪と島根で二度あり)、アパート内の天井から物を落とされたり、アパートへの不法侵入の跡があったり、真夜中に郵便受けを叩(たた)かれたため出るとポストに卵のパックを入れられていたり、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられたり、車のラジオアンテナを盗まれたり{警察に被害届に行くが、管轄(かんかつ)が違うため管轄内の警察にと言われ、管轄警察署に行く前日には再度着けられていた}、その他記せばきりがない。
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※(2025/01/25)私にはそうした被害を受ける心当たりはない。催眠で西山に手紙を1984年秋に手渡すことを強要され、西山に断られ、「お世話がせしました」と詫びただけである。これが原因でこうした被害を受けるなどは聞いたことがない。ミステリー以上のものである。
映画説が事実とすれば、警察も人の子であり、面白いので映画説類に協力していたのであろう。
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これが主として1987年度にあった授業妨害である。
勿論、その都度警察に届けたり、弁護士に相談したりしたが逆に門前払いをされた。駿台にも抗議したり、後には駿台責任者と会談したりした。
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詳細は、拙著『閉じた窓にも日は昇る』に記した。実名入りでは拙著「2007年度年賀状救済呼びかけ文」に記している。ただし、駿台内での事件と駿台外での事件は同一犯人ではないかもしれない。1987年夏には、私の部屋ではないが、私のいたアパートに泥棒が入ったということでパトカーが来る事件があった。よって、同一犯人ではなく、別々の犯人による被害が偶然重なったのかもしれない。もし、そうならば、アパートへの不法侵入事件などは、私の命の危険もあった事件といえる。
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警察が動かなかったのは憲法・刑法などの法律違反である。勿論、同一犯人の確率もある。しかし、現在の私が犯人全員を知る術(すべ)はない。同時に、それらは警察及び治安確保・市民生活擁護という国の仕事である。ただし、駿台内の事件は当然駿台にも責任は明白にある。
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(2025/01/25)映画説視聴率アップと駿台CM作戦という仮説にたてば、駿台内職員、警察官、駿台外での犯罪者がすべて共同で、シナリオにそい協力しあっていたとなる。共産党も、山田洋次型映画説ならば協力する可能性が高い。だが、人権侵害、奴隷労働加担という犯罪に手を貸したとなる。
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詳細な全貌(ぜんぼう)がある程度分かるまではこの件の記述はここまでとする。
なお、1986~87年度に私の授業を受け、授業内容に文句のある者は、私にではなく駿台に抗議せよ。最低でも学内でも授業妨害があり、駿台当局がそれを放置し、(事実上)協力した以上当然である。
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(2025/01/25)全体の流れを記した後で、差別文書の件を駿台真相編-B群で、個々の業務妨害・刑事犯罪の証拠や証拠隠滅された問題、そして辞職時の会談、救済依頼文書をだした下書き等をC群で幾つかの資料とともに掲載する。
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駿台真相編7(or 07)は終了し、駿台真相編-8(駿台からの被害の移動と人間違い問題)を掲載する前に、『日本のフィクサーME・パート3』第4章に戻る。ここで、🤡の利権悪用形態(駿台講師時代と同一形態)と(我が家の住所番地を70年使用し続けた)Z家との人まちがい問題を解こうとすると、狂ったような妨害を受けた経緯が分かるからである。
また、ここで私には意味不明であった「女性」強調の謎が一部とけるかもしれない。
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《◇―13・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害・詳細編1》
★ここ以下、黒字の部分は拙著『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle、百円、2016年)からの一部抜粋、桃色部分が2025年1月中旬以降の解釈。ただし、重要部分は両者ともに赤・緑・桃色文字などで強調をしている。
※『同上書』のペーパー版は2006年頃から下書きし、2008年頃から幾つかの出版社の懸賞に応募原稿(全て門前払いされた)。各出版社の字数制限数が異なり幾つものバージョンができて弱ったことがある。今回は電子書籍版からの抜粋である。電子書籍版では人名は部長以外は原則として全て略号表示〈例:NM等〉とした。しかし、今回は死者等がでた以上、各種機関が調査をしやすいように[ ]をつけて、可能な限り実名としている。
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第一〇章・駿台予備学校講師時代終焉(しゅうえん)――犯罪被害の連続(刺客―3と4)
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「求め続けて」時代が私の峠を目指す道ならば、一九八四年に山頂に確実に辿(たど)り着く自信と希望が持てた。まさにその瞬間から、それを妨害する様々な刺客(しかく)が登場してきた。だが、第一の刺客(謎の女性群の登場)には耐え、第二の刺客(常識を逸脱した多忙さ)には揺るがなかった。しかし、これから述べる第三と第四の刺客、即ち刑事犯罪には警察などが動かねば社会生活は不可能となる。
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この禁じ手の集中砲火が始まる。そして卑劣(ひれつ)極(きわ)まりない手口により駿台辞職へと追い込まれてゆく。辞職するや否(いな)や事実上の監禁{牢獄(ろうごく)}生活となる。辞職時は三五歳であったが、二〇一〇年一一月には五八歳となる。
私の五八歳までの人生は、人に感謝されても、その逆はない。それが無茶苦茶(むちゃくちゃ)なこじつけの中で、時には何の理由もなく、何故、二〇年以上も監禁されたのか。何度考えても怒り心頭である。二〇年以上に亘(わた)る怒りである。「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と何度ノートに記したであろうか。
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駿台時代の膨大な刑事犯罪被害・不法行為類に関して、二〇〇七年年賀状を兼ねて東京法律事務所、友人弁護士を含む知人・親戚一〇名ほどに「二〇〇七年年賀救済呼び掛け文」を送付した。これらを簡単にまとめて刺客―3と4の状況を述べる。先の文書では加害者名、証言可能者名を全て実名で記したが、今回は全て略号で記す。まず、授業(営業)妨害の刺客―3から記す。記録は八七年九月一九日からであるが、それ以前にも一定存在していた。これから記すことは氷山の一角でしかない。
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①駿台教室内のマイク不調問題(一九八七年)。
九月一九日(ピーピー音)→証拠としてテープ録音保存。
二二日=マイクをつけたり消したり(証人確約学生NK君・YM君)。
二四日=二時限チャイムが鳴らず、マイクもほとんど入らず。
一〇月九日=マイクの音がでず。
一四日=マイク調整が悪く、その調整を依頼すると、今度はマイクの音がでず。
二三日=教室マイク午後二時半~三時半にかけて音がでず。声が完全に潰(つぶ)れる{喉(のど)の被害証人=AH氏}。マイク調整で職員とのやりとりのテープ録音あり。授業にならぬため、マイク使用が可能なサンヨーの大型ラジカセを自費購入し、駿台に持参する羽目となるが、十分使用できず諦(あきら)める。その姿を見た生徒は何人もおり、記憶している者もいるはずである。
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(2025年1月以降の解釈)
マイク問題。授業のリズムが乱れることは言うまでも無い。また、このマイク問題は駿台真相編-7-C群で述べるが証拠隠滅作戦の例として掲載予定でいる。
駿台学内でのマイク問題はテープ録音していたのをきくとかなり悪質であり、完全な授業妨害となっていた。そこで、🖥(パソコン)にいれて流そうと思うと紛失をしており、後にでてくると該当部分のみ消されていた。駿台真相編C群で証拠隠滅問題を記そう。だが、映画説が事実ならば、多くの人が見ていることになるため、天誅がくだろう。
後に、聞いた範囲で覚えている事項のみ、文字で再現しよう。
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なお、証人の箇所の生徒名は全て実名でメモをしていたが、2015年までは公開にあたり略号(例:NM等)にした。すると、元の本名に直すのが至難の業となっている。ノートやテキストやいろいろな箇所に断片的にメモをしていたからである。
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だが、証人は駿台内の職員にいよう。論理上、証拠隠滅を図り、嘘を言えば、駿台の逆CMとなる。そこが厚労省所管・ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)などの親方日の丸との違いである。民間企業は理屈ではなく、営利追求が重要であり、消費者の反応が営業の生命線となるからである。幾ら証拠を隠滅しても逆CMとなれば、現世では相当厳しい状態に追い込まれるであろう。落ちたイメージを取り戻すのに幾ら費用がかかると思うか、である
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「非価格競争」なる語を思い出すがよい。。経済理論を信じて、駿台真相編07-C群などを記しておこう。
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なお、駿台のマイクが機能しないため、マイクの代わりになる大型カセットを購入して授業の度に駿台大阪校に持参した。サンヨーのラジカセの名称は「サンヨーCDプレーヤー内蔵ステレオダブルカセットPHーWCD2」である(当時の価格で10万円弱であった記憶がある)。しかし、十分機能を果たさぬため、岡山から毎回運搬するのは中止した経緯がある。
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予備校経営者が教師の授業妨害を斯様(かよう)な形でするなどとは聞いたことがない。同時に、私はこうした被害に遭(あ)う心当たりは全くない。一体職員は何を考えていたのであろうか。駿台大CM作戦といっても、人間の良心というものがあろうに。
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②無関係生徒の乱入。授業妨害になる形で出てゆく。主として日本史=九月八日、一八日……政経も一部あり。一度は、私のクラスの生徒が怒り、無関係生徒を追い出す(その生徒名はMN君である)。一一月一五日には生徒の移動あり。
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③同一生徒が履修(りしゅう)している科目重複の続発。かなりの政経受講生から(K[北山一]講師の)化学の補講と重複して困っていると相談を受ける。対応要請後の駿台事務員I氏[石原賢一氏]による報告文とコピーあり。しかし、私に相談にきた生徒は「化学の補講」と言っていたが、I[石原]氏の調査報告では化学の記載は一切なく、物理の授業との重複記載のみで、該当者数もわずか四名で、私に相談にきた生徒の総数よりも遙(はる)かに少なく似非(えせ)調査でしかなかった。
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駿台幹部がこうした調査類のみを利用していれば証拠潰(つぶ)しでしかない。当時の生徒への聞き取り調査や、私からも事情を丁寧(ていねい)に聞く義務があったがなされていない。
ア・調査寸前に、K[北山一]氏が化学の連続補講を政経の授業とぶつけることを証拠になるため即中止したか、
イ・I[石原]氏の調査ミスか、
ウ・相当数の生徒の嘘(うそ)かは不明である。ただ、どのような形にせよ、授業料を払っている生徒にも、私にも困ることをされたことだけが事実である。
常識上の推測はア・であるが、ウ・としてすら誰かの計画的指示がなければありえず、営業妨害を受けたことも完全な事実である。
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(2025年1月中旬頃の解説)駿台真相編C群で述べる、駿台と外部の共謀しての罠用細工のようである。即ち、外での刑事犯罪被害も全て駿台関係者がやったと思い込むようにするための手口だそうである。実際に論理上はそうなる。そして、後に調査しても学内での上記はたいしたことがないで門前払いとなる。
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④駿台斡旋(あっせん)のホテル問題。約二年毎週三日滞在している東洋ホテル(後にラマダホテルに名称変更し、数年前に廃業)で駿台から費用が直接支払われる約束にも拘(かか)わらず、同ホテルY氏がホテル代を私に請求してくる(九月一一日)。
その後東洋ホテルで就寝中に部屋の温度を急に上げられ三〇度を超え目覚(めざ)めさせられたり(温度計と共の写真撮影あり、一二月前後)、逆に温度を二二度に下げ、風を扇風機の如(ごと)く人体目掛(めが)けて猛烈(もうれつ)に送り込まれたりする事件が多発した。後者は日付も写すため新聞を購入し新聞と平行で撮影=一二月四日。
温度計は数値で証拠が残るため、温度は手加減されていたが、扇風機型で風をもろにあてられ、これが特に応(こた)えた。こうして証拠が残らぬ手口で一貫して行われたため、他の箇所も数値のみで被害を判断してはならない。同ホテルでは一一月末以降頃はこうしたことがない日の方が珍しかった。何度調整を依頼しても、執拗(しつよう)に睡眠妨害をエアコン操作で行われ、健康防衛上やむを得ず温度計とカメラを持参した。
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⑤教室の温度調整問題。
九月一八日=本日暑い日であったが冷房が入らず(部長に抗議しようと思うも部長も課長もいないとのこと)。
一〇月三〇日一六時四〇分=寒い日で「教室の温度二三度割る。教室の温度計を見た途端なおる」。
一一月五日=「教室の温度最低二二度、温度差が激しい」、「温度を下げられたので、ジャンパーを着れば熱くされ、脱げば寒くされる。最後には頭痛がしてくる」が、体感温度はこれ以上で、室内温度計ならば温度計が操作され、実質温度と相違があったと推定される。
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我が家から持参の温度計ならば持参日以前にはもっとひどい状況に置かれていたという証拠である。教室の位置により体感温度は異なり、温度計にも適切には反映されないため、数値よりも実質はもっとひどく、駿台勤務六年間で経験したことのない温度問題があったことだけが事実である。手口は④参照。
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○浜田隆政著、『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle上・下各百円、$1)
○Kindle→https://www.amazon.co.jp/%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%9F%E7%AA%93%E3%81%AB%E3%82%82%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%98%87%E3%82%8B%E3%83%BB%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E5%AE%89%E3%82%89%E3%81%8E%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B5%9C%E7%94%B0%E9%9A%86%E6%94%BF-ebook/dp/B01EB6MT84/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E9%96%89%E3%81%98%E3%81%9F%E7%AA%93%E3%81%AB%E3%82%82%E6%97%A5%E3%81%AF%E6%98%87%E3%82%8B&qid=1600518145&sr=8-2
○私のHPでの案内箇所→http://h-takamasa.com/book-01/custom33.html
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(2025年1月中旬頃の解説)
エアコン問題は駿台と駿台外との共謀で、自律神経攻撃の意味を持っていた。同時に、駿台外部の事件も駿台がやったと思わせるための工作であった。
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更に、ホテル内で22度や24度ですら寒いという不自然さがある。駿台真相編C群で記すが我が家(実家)ならば屋内でも4度程度の日もある。冬には台所では流れる水道の水が凍ったこともある。それをエアコンなしで過ごしている人間である。寝室などはストーブもつけていない。炬燵もない。アンカーのみである。2023年9月25日には、布団が剥(は)がれて目が覚めたときに温度計をみると約22.5度であったが寒いとは思わなかった(X.com記載より)。
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その後幾つかの実験をしたため、そのデータを駿台真相編7-C群で紹介する。また、2019年1月18日には奇妙な歯痛が起こり、室内温度5.6度で炬燵のみに入り、エアコンや掛け布団なしで耐えている記録がある。斯様(かよう)な不可思議さ解明のため世界に調査・救済を呼びかけた後で奇妙なことが判明する。それらも7ーC群で解説する。
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それでは何故、東洋ホテルでは寒くて目がさえたり眠られなかったのであろうか。扇風機型風あてがあった。それだけであろうか。他におおがかりな工作があった可能性がたかい。そこでホテルを簡単に改築しても証拠が残るため爆破解体となったのではなかろうか。アパートの天井からの薬落としも相当な仕掛けがあったと思われる。多分、私が原稿を書き出した頃には解体されている可能性が高い。
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庭瀬のアパートの写真を一枚下の方に掲載しておく(駿台真相編7-Cで更に掲載予定)。庭瀬には多少の知り合いもおり、誰かが真相を知っており、喋ってくれる可能性もある。
要するに、映画説類などでなければできないような大がかりな工作がなされていた。黒澤明の映画『蜘蛛の巣城』や『影武者』の建物などを思い出せばよい。ちなみに、現在は映画『生きる』の世界にみせかけようとしているが、実際には『影武者』(Z3)と『羅生門』(過去の回想)のみの世界でもある。
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⑥交通費支給不足で問合せ。支給額不足訂正とそれに関する駿台大阪校からの(八八年一月二〇日)手紙(保管あり)=「……当初お渡しした(のは)……(交通費)2往復分と日当7日分です。……先生は1月12日に一旦戻られておられ、1月18日は日帰りで補講に来られていますので、実際は……の4往復分と日当8日分を支払わねばならず……」と八八年一月一二日~一月二〇日の交通費・日当不払いを調整した旨の返答があった。
正当な交通費か賃金か日当の不支給はあった。(私の記録がもうないため)当時の駿台が記した手紙だけから分析すれば、最低でも一八日補講の日当等(賃金は?)が未払(みはら)いとなっていた。
ただ正当なる不足分を主張すると、私が請求していない分、私がここは自腹と考えていた部分等も含まれており、予定額より多いので驚いたことを思い出した。ただし、日帰り往復旅費も教材を取りに戻っているため、返還するには及ばないと無視した。
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穿(うが)って考えれば、正当な部分の不払いを誤魔化(ごまか)すため、故意にややこしい部分を多めに払い、大滝部長等が聞けば、このようにややこしかったので誤ったとか、私が不正に請求したなどという手口も理論上はありうる。岡短も含めて、このレベルまで記すと原稿は一〇倍を超えるためここまでとする。}
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(2025/01/27解説)
駿台辞職が決まった後でも攻撃を受けている、あるいは攻撃をし続けることの暗示と思われる。返答者は石原氏であるが、彼は当時は若手であり、裏の理由をどこまで知っていたかは不明である。
もはや、京都校女性問題などは全く無関係であることが分かろう。このお金の仕掛け問題に意味があるか・否かは生きていても数年経たねば不明である。
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⑦八七年後半頃、私の知らぬ某生徒から、化学のK[北山一]先生から浜田先生への贈物と言って膨大な手書き文書を渡される。この文書は、内容は差別表現の羅列(られつ)であり、後半には脅迫的印象を抱かせる真夜中の車の写真が幾つもコピー添付されていた(現在も保存中)。私の部屋に不法侵入し、西宮市教育委員会同和教育担当時代に職務上保有していた機密書類などを見たり、……という脅しとしか思えぬ内容であった。
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(2025/01/27解説)
この差別文書の件は駿台真相編7-B群で検討する。現時点でも何が目的だったのかは不明な部分が多い。ちなみに、駿台時代に部落問題関連が登場したのはこの一度のみである。その後、ポリテクカレッジ岡山中心時代が10年続くが、ここでも部落問題はでたことがなかった。そこで、この差別文書の件も2000年頃まで忘却をしていた。
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部落問題を臭わされ始めたのは2000年から少し、2007年からZ家👵(老婆)と絡めてかなりでてくる。次に安倍政権下から、特に2019年頃から本格的に臭わせてくる。
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私に関しては部落差別該当者類は100%無縁である(結婚や女性…で如何なる差別とも、加害者となったことはない。)。ときに岡映氏に絡めて(部落解放運動に絡めて)かとも思わされたが、それならばばもう誤解はとけているはずである。現時点では2012年に友人・タカハシ氏が言った「ひとまちがい」以外の回答はない。
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ただし、本当に誰かが絡めたのか・そうした演技なのか(映画説の中での演技・印象操作にすぎないのか)はまだ分からない部分がある。詳細は駿台真相編B群で検討する。
真逆攻撃の一貫と思われ、長期に亘(わた)り、「ちんぷんかんぷん」であったことだけが事実である。
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ちなみに、世界では私が人権活動家・人権擁護主義者であることは周知事項である。(高校時代の部落問題研究部などの仲間では誰でも知っていることである)。恐らく美作市や地元美作市位田のみでその部分を隠して(その部分の情報を遮断して)いたのであろう。
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⑧駿台への内容証明について。
一・京都校大滝部長宛(一九八七年一二月二三日第七二四号岡山市中央郵便局)送付。
二・大阪校堀江部長宛(一九八七年一二月二四日第九二〇号倉敷郵便局長)送付。
記述内容は、この章の最後に全文掲載している。今、読んでも全く私の書いた通りであったと思う適切な内容である。他方、大滝部長などは、学校内での営業妨害に関して調査義務があったが事実上しなかった。再度、彼らの居場所(いばしょ)を突き止めて抗議文を送付するか、可能ならば告発したい。
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(2015年1月中旬頃のコメント)
内容は駿台真相編C群で公開する。
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《◇―14・駿台での業務妨害と刑事犯罪被害・詳細編2・追記編》
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◎追記事項。後に記すアパートの郵便受けへの卵パック入れと語呂合わせでの悪戯(いたずら)かどうかは不明も、駿台大阪校で天麩羅(てんぷら)うどんを頼むと生卵が入っていた(八七年九月一一日)。通常は生卵は入らないし、私は生卵は嫌いで食べられない。それらも含めて私のことを調べ回っている脅しと解釈された。なお、生卵分の料金も請求された。
次週、どうなるかと九月一七日再度前回と同じ注文の仕方で天麩羅(てんぷら)うどんを注文すると、生卵は入っていなかったが、「食堂のうどん料少なし(九月一七日、証人IN君)」のメモあり。また、この頃はプリントの印字を悪くされることも続いた(過去に前例はない)。約一九年前の記録・証拠類を簡単に一時間調べただけでも右記の如(ごと)しである。他にも「九月一一日、日本史授業開始五分前に進路変更連絡(MS氏)、……」等のメモあり。
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(2025年1月中旬頃のコメント)
生卵事件は駿台真相編で「駿台外部と内部の共謀」の箇所で記す。駿台内部での生卵、アパートでの玉子パック悪戯、更に、後には2016年長崎で類似被害に遭う。これらの関係を分析することになる
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学内の不法行為・営業妨害の記録付け作業は、八七年九月一九日に開始したが、一一月五日で中止に追い込まれた。それは記録すればするほど、仕返し的に不法行為がエスカレートし、営業妨害のみならず、身に危険があるぞ型の脅しが続発したからである。また、既(すで)に述べた超多忙なときに、不法行為を続発させられると授業準備はもう不可能となり、自分の将来よりも、受験直前の生徒への責任優先から原則中止という状態に追い込まれた。
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だが、不法行為は記録付け作業を止(や)めた一週間後くらいから更にエスカレートする。そして自己防衛用に様々なテープ(授業使用にオプションでマイク使用できる大型テープレコーダ、通常のカセットテープレコーダー、相手に気づかれぬように録音できるミニテープレコーダー)を連続購入せざるを得なくなった。
更に、当時はカメラには余り興味はなかったが、日付を写し込めるカメラも購入不可欠となった。不法行為は記述の域を超えて続発していた。一一月六日以降はたまたま写真を撮ったり、駿台からの送付文書の記録等が残っていたりしたものを記載したにすぎない。
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以下、「二〇〇七年年賀救済呼び掛け文―B」から引用する(誤字・脱字、不明朗な箇所は今回修正した。他の引用も原則同一。)
「《◆―一・駿台時代犯罪被害の一部の実例について》……八七年末当時の岡山市庭瀬アパートへの不法侵入。……当時の記録を見ると、石油缶の蓋(ふた)などを外(はず)す悪戯(いたずら)、さらには……私の郵便受けに悪戯……郵便受けに卵のパックを入れられたり(現在もパックは指紋の関係で保管)……、早朝五時頃郵便受けをドンドンと叩(たた)かれたりした記録が出てきた……こうした事件が続出等……。……誰かの悪質な悪戯で部屋に入り物を動かして退出……大阪では警察服(若しくはガードマンの服かもしれない)を着用していた二人組……による拉致(らち)若(も)しくは殺人?未遂(みすい)事件などが、八七年末から八八年初頭にかけて続発していた。
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『恐るべき労基法違反』執筆時には、岡短の件で頭が一杯であり、駿台の件を十分思い出していなかったため穏和(おんわ)な書き方をしたが、八八年三月一四日にも島根県で拉致疑惑事件という刑事犯罪に出くわしてもいた。
先の大阪では両腕を掴(つか)まれ、どこかへ連れて行こうとされた以上、今考えると、他の通行人がいたので大声で助けを呼べたが、そうでなかったならば大変危険な事件であった。
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それ以外にも、自転車の荷台の紐(ひも)をタイヤに巻き付けられる悪戯、……密室のアパートの部屋の天井から薬を何日も落とし続けるという脅迫……車のアンテナ盗難事件と警察に被害届に行き警察署をたらい回しにされ、再度警察に被害届という前日にアンテナをつけ戻され被害届を阻止された事件(八八年一月一六日頃)……ポストの郵便物に入っている新聞類を無断で見られた形跡もあり、……毎日続いた……。
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(犯人を)……駿台と考えたのは、学校での授業妨害として、〈先の①~⑦の被害が〉偶然の確率を超えて相次(あいつ)いだこと……これらより、私のアパートへの不法侵入を駿台関連と当時は考えた次第である。更に……、先の偽(にせ)警察事件や、八七年当時地下鉄内でいきなりフラッシュをたかれ写真を撮られたり、岡山市でも八七年九月二七日に高柳付近でいきなりカメラを向けられ写真撮影されたりするなど、始終(しじゅう)誰かにつけ回されているという威嚇(いかく)を受けていた。なお、アパート侵入事件は絶対に無視はできず、警察が動かぬ以上、自分で犯人を捕(つか)まえようと必死になり、物音がする都度(つど)、外に飛び出したりして人に誤解を与えたかもしれないが、こうした状況では米国では誰でもする……」
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それ以外にも、駿台に内容証明を送付する前後に、後にも先にも経験したことのないくらいの、夥(おびただ)しい犬や猫の死骸を、私が通る道に(早朝)置かれていたことも参考までに記しておく。
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次に、右記の中で特に大きい事件であった天井からの薬落とし事件と拉致未遂事件を、新免議員会談用下書き・『五郎DB訴訟』から引用する。
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「……部屋の不法侵入を裏付けるさらなる事件……天井(てんじょう)から薬のカプセルが幾(いく)つも落ちてきた。天井を確認したが穴はない。翌日も、更に翌日も、約三~四日続く。窓は閉めており風で落ちてきたのではない。天井から真下に落ちてきた。
なお、天井を手で触り調べても原因は分からず、箒(ほうき)などで軽くチェックしたのはこの頃である。二階に誰かいて・二階からの悪戯(いたずら)なのかと、天井を調べるためである。同時にその前に二階の板をドンドン踏みならされたこともあり、二階からの悪戯と通常は思う。
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これのみでも、誰かが私のアパートに度々(たびたび)侵入したことは明白な事実であった。被害届を出しにくいやり方の上に、この頃は警察から既(すで)にシャットアウトされてもいた。……懐中(かいちゅう)電灯などで天井をチェックしても穴はなし。箒(ほうき)、時には木刀で天井(てんじょう)を軽く叩(たた)いたのは天井構造のチェックが主目的……。なお、考えられることは、干渉者・首謀者Xが天井にそうした仕組みをするのを二階の住人が協力したか、私の部屋にそうした細工をするのに大屋が協力(許可)したか、それとも部外者が不法侵入して二階側からか、私の部屋側からか天井にそうした仕組みをしたかである。水漏(みずも)れはない。だが薬のカプセルが一つや二つではなく時間をおいてどんどん落ちてくる。……
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再度、天井を懐中電灯や、手で隈無(くまな)く調べても異状なし。だが翌日も落ちてくる。落ちてきた薬は、私が大昔(八二年~八四年頃)服用した薬と同一と思われる薬で……(ほとんど)消却していたか、全て飲み終えてなくなっていた……よって、犯罪者が病院か薬局で私が昔服用したのと同一の薬を新たに購入した薬と推定される。
病歴等も全て調べたという脅しも兼用していたと思われる。ただし、天井を見続けて位置確認を狙うが、その間のみ落ちてこず。疲れて下を向くと時には即ポタリと、時には下の物へ当たる音も聞いている。例えば新聞紙の上にポトンと。勿論、落ちてくる瞬間は何度も見ている。畳や絨毯(じゆうたん)から三〇~五〇センチ程度上から下へ落ちる間まで。眼の高さから下に落ちる所も何十回と見ている。
……、一〇〇%不法侵入は存在していた。
……脅迫目的は駿台から手を引けという脅しと当時は考えていた……」
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(2015年1月記述)731部隊型被害の疑惑
2025/01/21)【🧐731部隊型危害の謎】関連🏨・住まい破壊へのSNS追加。
駿台講師時代以降、病気が事前に予告されているか、発症メカニズムにそった被害が加えられている謎。
駿台 で金森光昭先生(十二指腸潰瘍で1年休職との噂)を紹介されたのは1983年末頃か。
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理論 ピロリ菌培養液を大量に飲まし、ストレスを故意に与えるで十二指腸潰瘍発症率は高い(※注1)。
花粉症(催眠と挑発でダストアレルギー誘導→部屋に大量の花粉散布被害疑惑→花粉症発症)、目(黄斑前膜両目)、耳(📺で症状見た翌日突発性難聴)、…も確率論及び予告よりおかしい(※注2)。
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催眠と睡眠薬投与疑惑も。
駿台斡旋🏨(ホテル)では睡眠薬投与で就寝中にストレートのウィルスや最近別の菌投与疑惑(後に天井からの薬落とし事件)
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後に斡旋🏨(ホテル)・アパート…爆破
国会や裁判所での審議必要不可欠としか思えない。
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(※注1)ピロリ菌。
ピロリ菌の正式な名前は「ヘリコバクター・ピロリ」(Helicobacter pylori)
1925年頃から胃に菌の疑惑
1979年ウォーレン氏が胃炎患者から発見
1982年培養実験で培養器内の培養菌の発見
(1982年4月14日:培養に4日間必要)
1984年マーシャルが自ら飲む人体実験で10日目に胃炎
(日本では兵庫医科大学が1984年に初めてピロリ菌の培養に成功)
2005年両者がノーベル賞
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武田工業株式会社:ピロリ菌の話
https://www.pylori-story.jp/pylori/pylori/discover/
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それまで消化性潰瘍などはストレスや生活習慣が主たる原因と考えられておりましたが、これにより、胃炎や胃・十二指腸潰瘍はピロリ菌の感染が引き金になることが明らかとなりました。慢性胃炎が胃がんのリスクを高くすることもわかってきたのです。
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ピロリ菌発見の歴史
https://yamashita-clinic-iwakuni.com/%E3%83%94%E3%83%AD%E3%83%AA%E8%8F%8C%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
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上記まで掲載。以下は非公開メモであったが今回参考までに掲載しておく。
現在の眼科の医師は、偶然か否かは不明であるが、(日本でピロリ菌を最初に培養した)上記の兵庫医科大卒。
また、731部隊の指揮者は石井四郎であり、(※注3)に記す、(駿台の英語担当で、関西地区の看板であった表三郎氏をもじった)表四郎の「四郎」である。
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☆☆☆(X.com)☆☆☆
浜田隆政@Takamasa_Hamada
25-016-7【🤔731部隊】
①👀黄斑前膜発症率 約5%
両目の場合はその30%→1.5%
今両目だそう
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②👂突発性難聴
3000人に一人→0.003%
📺でメニエール病見るや即翌日
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③歯=Michelle夫人の誕生日に祝い約束や即歯痛
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厚労省と賠償交渉開始や即①~②と後に③
母「お前は医者に行くのが仕事だ」と
午後10:22 · 2025年1月16日
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https://x.com/Takamasa_Hamada/status/1879882028440859022
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後に天井からの💊(薬)落とし事件がでてくるが、この💊(薬)を調べたのではなく、駿台斡旋のホテル就寝中に、その薬が必要となる該当菌をつけられて病を発症した」確率が高い。というのも、当時も駿台や岡山の予備校教職員の何人かがその模様を知っていたとしか思えなかったからである。その頃、友人の岡山の予備校講師・ツザカ先生などは「青春の門」という映画を強調していた。
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それらが原因で、私のお気に入りであったニュー京都ホテルは解体された可能性も捨てきれない。
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また、フィステルを発症する前にも、口の中にネバネバした液体を塗りつけられていた。そのた類例が山ほどあるからである。もし実証されれば、民事ではなく、刑事犯罪に駿台が加担したか協力したとなる。刑事時効は、私が催眠類から解放されてからスタートするため、時効どころか時効のスタートにもなっていないと解釈している。催眠等で自分での訴訟などを阻止されており、国家(ポリテクカレッジ岡山・現能開大中国の所管は労働省・現厚労省)も加担して裁判類を阻止された以上、時効開始すらまだ始まっていない。
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(※注3)731部隊の石井四郎で思い出した「四郎」なる語についての資料。
駿台の英語講師・表三郎氏をもじった「表四郎」なる人名で、次のような記事がインタネットに長期掲載されていた。私が、下記を公開した頃から、突如、下記はインタネット類から消え失せた。下記は前田(杜)先生の名誉毀損(めいよきそん)に該当する内容であるが、駿台事件に絡んで幾多の人が死亡した以上、私は超法規的措置と考えて公開し続けている。
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なお、駿台甲府高校採用試験のときの二次試験(模擬授業)の審査員の一人が表三郎氏であった。ちなみに、駿台甲府高校採用試験を受けたのであるが、三次試験とも言える面談では、駿台予備学校京都校の教壇と矢田部長から言われて驚いたことがある。もし、最初から駿台予備学校講師募集のみならば、当時は応募していなかったかもしれない。
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面談で「専任はなれる可能性の方が高い。また、駿台甲府高校移動も今すぐは無理であるが、将来は可能である」(矢田部長・当時の関西地区最高責任者)を確認したことから、駿台の教壇に立つ意思が確定したと言ってもよい。そうでなければ、1982年度に岡山県の井原高校から「専任待遇で2年きてほしい。担当は政経。2年後も悪いようにはしない」(井原高校校長で、確か校長名は浜田と言ったような記憶もあるが定かではない)と言われていたため、井原高校の教壇に立っていたであろう。
そこで、駿台の教壇に立った経緯の手口はポリテクカレッジ岡山(能開大中国)や岡山中学・高校と類似の手口であったとも言える。
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また、生徒問題で真備高校を辞めたというデマの匂いがしたが、真備高校について再度言えば、真備高校にも真備高校で専任にしてほしいと金谷校長に直談判し、断られたこと(1981年晩秋頃)は既に記した通りである。
様々な病気と石井四郎(731部隊)との関連で「四郎」なる名前の下記を掲載しておく。
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次に、拉致(らち)されそうになった事件に関して、もう少し丁寧(ていねい)に記す。一九八七年末警察官の服{若(も)しくは警察官の服装そっくりの服}を着た二人組に、理由も告げられず、いきなり私の腕を掴(つか)まれ、どこかに連れて行かれようとした。
場所は東洋ホテルから梅田に行く繁華街とは異なる通常の道路であり、私は酒類は一切飲んでおらず、娯楽も中止中で連行される心当たりは全くない。身の危険を感じたため、大声で助けを呼ぶと、この二人組は走って逃げていった。
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もし、私がこのときに大声で他の通行人目掛(めが)けて助けを呼ばなかったならば、どこへ連れ去られ、何をされたのであろうか。単なる暴行であろうか、殺人であろうか。連行して、「はい、さようなら」は通常は考えられない。いきなり理由も告げられず、腕を掴まれ、どこかへ連れて行かれようとしたのであるから。事件の起こった日は八七年一一月六日~一二月の駿台冬休み前の駿台出講日である。必要時には厳密分析で日時は相当絞り込みは可能である。
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同様のもう一件の事件は、島根県で友人の結婚式に参加した翌日の八八年三月一四日に起こった。ジーパン姿の学生風の男二人が、警察と称して警察手帳らしきものを見せ、理由も告げず卑劣(ひれつ)な挑発(ちょうはつ)をし、私が激怒(げきど)すると近くに国道九号線もあることから、相手はやばいと感じたのか逃げるように去った事件である。このときには急いで車に戻り、後を追って、車中からカメラを出し、写真を撮ったため車の一部は写っている。時間と場所は、当時写した全写真を島根県の友人に見せ、私の全走行ルートと照合したり、太陽の角度などから計算したりすれば推測可能と思われる。時間と場所も特定できれば、警察記録から本物か偽物警察かは特定できるはずである。
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(2025年1月中旬解説)
なお、駿台辞職40日目頃に島根県の友人・タカハシ氏の結婚式(1988年3月13日)があった。結婚式に参加すると彼の叔父が別人と入れ替わっていた。ここで既に人間違いが強調されていた。彼の叔父は税理士であり、それに対応する仕事が司法書士である。(ちなみにZ3氏が司法書士である。)同時に、その頃、駿台の川端三郎先生(生物担当)と同一の声の人物に何度も遭っていた。また、何故か岡山の予備校のツザカ先生そっくりの声の人物にも遭っていた。
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タカハシ氏が拙著『日本のフィクサーME』登場の布袋さんのモデルである。同時に、彼は2012年4月に「一連の事件は誤解や勘違いではなく、ひとまちがいが原因」と言い切った人物である。その際に、彼は糖尿病を強調して、Z3の父親(稔氏)を暗示していた。
2019年西山ファーム事件(西山美千代社長)の情報が私のパソコンに飛び込んだ日に、彼が死亡したと娘さんから電話があった。同日は、私がカード詐欺被害に遭ったことが判明した日でもあった。
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ただし、本物の警察官が、私が通行人に助けを求めたならば、何故(なぜ)逃げるように去るであろうか。大阪は文字通り慌(あわ)てて、島根のときには巫山戯(ふざけ)ながら逃げた。後者のときには、この後直(す)ぐにこの件で父に電話をしている。また、この件は私の記録文の一つである「Field管理」に、当時記した次のメモが残っていた。
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※※※※※
「[関連地]①松江~②荒神谷(こうじんだに)遺跡~浜田→③山陰海岸→④石見銀山。[日程]八八年三月一二~一四日……一九八八年記述……三月一二日=松江に向かう。高速で新見に出て米子へ、そしてまず荒神谷へ、その後ホテルへ。……一三日=TK[タカハシ]さんの結婚式(NT[ナタ]君受付)。……一四日浜田市へ向かう。どこまで行ってもきりがないので、ここで玉海荘の写真を撮り引き返す。海岸に出て海を見ていて、偽警官に理由もなく連行されそうになり、頭に来た後、石見銀山の標識を見て大森へ行く。その後、雷と雨の中を急ぎ家へ。友人ST[さいとう]が(我が家近くの)H[林野]駅に来ており待たしていたため。」
※※※※※
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(2025年1月中旬解説)
1998年に岡山短大を辞めて賠償交渉に入るや、2000年12月22日深夜(23:40頃)に偽警察官としか思えぬ警察官が我が家に来る。
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拉致(らち)事件を甘く見てはならない。後に述べる映画説や駿台関係者ではないかもしれず、本当に殺されるかもしれない。不法侵入も同様である。その場合には被害は私のみならず、他の人も同様に犯罪被害に巻き込まれる危険性は大である。
ともかく、あなた方がいきなり二人組に腕を掴(つか)まれ、どこかに連れ去られようとする被害にあったならば、どう感じるか。それも二度も。びっくりするというようなものではない。万一、駿台の誰かが関係しているとしてすら、どこかへ連行して「冗談です」で離すとは思えない状況にあった。
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もし、私が大声で「助けてくれ」と助けを呼ばなかったならばどうなっていたか。少なくとも通常の人ならば、これ一つで外出時の恐怖は起こる。特に女性ならば。更に警察も動かねば社会生活は不可能である。方法は一つしかなく、米国の如(ごと)く、自分を守るために拳銃(けんじゅう)でも密輸して所有するしかない。
全く顔も知らぬ人間による拉致未遂事件は大犯罪である。尤(もっと)も、顔を知っていても同様である。また、刑事事件の加害者が、本当に駿台関係者でないならば、では誰なのかという大問題も残ってくる。冗談ごとではない。実際に第三編で述べる、ナチのアウンシュビッツ収容所の如く拷問、その他の被害に連続して出遭(であ)うことになる。
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(2025/01/27解説)
駿台講師時代には「映画説」などは夢に思っていなかった。催眠類もおかしいとは思ったがまだ気づいていなかった。
催眠類は1988年後半から1989年に気づき始めた。気づき始めたため、1989年12月に川崎医大附属病院心療内科で「私は催眠で動かされているとしか思えない。そこで、私に催眠をかけて調べてほしい」と依頼した。担当医師は「私は催眠をかける能力は持っているが、今のあなたに必要とは思えない」と言ってことわられた。ちなみに、この担当医師は駿台のイワサ部長を彷彿(ほうふつ)させる人物であった。
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その約1ヶ月後頃(1990年1月頃)からうつ病を激しくというよりも意識不明というか認知不可能状態に約四年置かれることになる。Berlinの壁崩壊は事実上知らないのに等しい。ソ連崩壊は全くに近く知らないともいえる。後者についての多少の知識は1994年に意識を取り戻してから調べて多少知った程度である。
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全体として手口は巧妙であった。明白に警察が動かざるを得ない事件の前に先手を打たれ、立証が難しい部屋への侵入事件が続発する。通常ならば、私も石油缶の蓋(ふた)を動かす等は些細(ささい)なため気づかないことが多い。だから、確実に分かるように動かすのである。私が石油缶を触った前後に絶対に入っていない部屋に置くなど。
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例(たと)えで記せば、三部屋とバス・トイレがあった(私の)アパートで、大阪から帰宅し、入り口の部屋で石油缶(かん)を触り、その他の部屋に入る間もなく急用のため即車で外出する。そして、帰ると石油缶の蓋(ふた)がなく、まだその日入っていない台所に置いてあったなどという手口である。この例えのような形で、私が記憶間違いしていない場所を狙って、絶対に動かしたのが分かるように小物を動かしていた。私の記憶が良いから分かったのではなく、逆であり、確実に分かるように、私に気づかせる形で動かしていた。だから、分かったのである。(今考えると、私が気づかない被害も多数あったかもしれないが。)その都度(つど)、岡山市庭瀬派出所に被害届に行ったが、こうしたレベルでは派出所の担当者が交代するや無視され始める。
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(2025年1月中旬頃解説)
上記の被害は母が2012年に死亡してからは現在、我が家で日常茶飯事となっている。
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こうして警察に無視させることが可能となってから、それ以前の被害が軽い段階で相談に行った弁護士に門前払いされてから、誰も助けに来ぬと思いこませてから、右記の刑事大事件は相次ぐと同時にエスカレートしていった。
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とにもかくにも、拉致(らち)されそうになる事件が相次(あいつ)いだり、平気でアパートの天井(てんじょう)から薬などを落とされ続けたりしても、警察が動かねば社会生活は不可能であるし、不可能となった。もはや、駿台に首をかけて抗議する以外に道はなかった。
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「私が駿台を辞めたのは……アパートへの不法侵入、拉致されそうになる事件などの続発で社会生活が不可能となり、当時の駿台内の授業(営業)妨害と合わせると、駿台……の仕業(しわざ)と判断したからである。あれだけの行動は、一教師の賃金のみでは不可能であり、駿台の金が動いたと当時は思っていた。
そこで管理職のトップに首をかけて抗議すれば、駿台内の営業妨害や、(一定調査をして、そうした不透明な金の動きが分かれば)不法侵入その他の刑事犯罪にストップをかけられると考えたからである。
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管理職は、代々木ゼミや河合塾との競争問題もあり、駿台の金が一部の教員等により私的に流用されていたならば、慌(あわ)てて止(と)めると判断したのである」(『〇七年年賀救済呼び掛け文・文書―B』)。
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要するに、私とすれば首をかけて抗議すれば、誠意は通じ、問題は解決すると考えていた。だが、大滝部長は首をかしげるだけで調査をすることもなく、「休職という手もありますが、先生が辞職と言われるならば……ただし駿台の方は三年後から門戸(もんこ)を大きく開けて待っております。三年後からその気になればいつでも戻ってきてください」で、会談は打ち切られた。
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(2025年1月中旬解説)
「三年」とは、政経のみで三年保証すると言って破られた「三年」である。このときも「三年」であり偶然ではなかろう。深見係長が、前者については一筆とれといっていたが、計画的に仕組んだのであろう。
この大滝満夫部長の「三年」後に駿台復帰可能という約束もあったため、駿台辞職後には駿台相手の訴訟をすることをやめた経緯がある。
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しかしながら、駿台辞職後の舞台・岡短(第三編)で駿台時代以上の被害の連続を受けたため、大滝部長の言動に従い、駿台辞職三年後から駿台に復職を求め続けたが、大滝部長などから簡単に門前払いをされたことも付け加えておく。参考までに、二〇一〇年追記として、駿台両部長宛への内容証明書と最後の会談内容を掲載する。
▽
(◎以下、二〇一〇年四月追記)
【大滝部長宛内容証明書(堀江部長宛もほぼ同一)と大滝部長との会談】
「不法行為に対する抗議及び辞職通告
▽
京都市上京区堀川通丸太町下る
駿台予備学校・京都校
大滝 部長 殿 」
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(2015年1月中旬頃のコメント)
内容証明の内容は駿台真相編C群で公開する。
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以上である。
住所は当時のアパートのため、●●字と伏せ字としている。
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{2025/01/27 11:23 追記)
岡山県岡山市北区庭瀬807-2グリーンハイツ12号である。写真は下に掲載している。
なお、大家は西本清久氏であるが、二度しか会っておらず、奥さんの方が対応されていた。大家の住まいはこのアパートからかなり離れた場所にあった。
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なお、(八八年一月三日か四日頃であったと思う)会談では、出てきた大滝部長が怒っており{威嚇(いかく)的態度で応じてきたため}、私は「どうなっているのだ」と、呆気(あっけ)にとられた。次に、「ふざけるな」と怒りが込み上げてきて、それが顔に出たし、一部怒った。すると、ようやく、大滝部長がややまともになり、わずかとはいえ通常の対応に近くなった。
▽
彼の返答は、「内容証明の二については駿台は無関係です。先生の方(ほう)で自分で興信所にでも頼み、調査してください」であった。次に、内容証明の一については、首をひねるだけで、私の持っていたプリント等を少し見ただけで、明確な調査をするなどの返答は一切せず、事実上管理責任を放棄した。同時に次の言動で、事実上、会談の打ち切りを迫ってきた。
▽
大滝部長の「休職という手もありますが、先生が辞職と言われるならば引き留めはしません。ただし、駿台は門戸(もんこ)を大きく開けておりますので、三年たって駿台に戻ってくる気になればいつでも戻ってきてください。駿台は門戸(もんこ)を大きく開いて待っています」で締(し)めくくられた。
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(2025年1月中旬解説)
大滝部長が怒っていた件は、我が家に戻ると父が知っていた。
また同様の形態での怒りは、駿台京都校吉田課長にもみられた。何故か、その真似を近所の💈Yさんが、Yガレージの件で解説(解説と言っても、「私は何も知りません」という事実を言いに言っただけであるが)に行くと行っていた謎がある。
▼
▼
私は、本当に、駿台に戻れるのかと信じた。ただし、ほとぼりが冷(さ)めるまでは、違法状況がなくなるまでは戻れない。同時に、政経と日本史担当から、数年かけて政経と英語担当にコンバートしたい意欲もあり、大滝部長のこの言動で、もう執拗(しつよう)に追及するのは止(や)めた。
勿論、大滝部長の先の雰囲気もあり、丁寧(ていねい)に言える状況とは思えなかった。これも戦前の軍国主義者が行(おこな)った何等(なんら)かの策略にはまったという感じであった。もう、駿台時代の授業妨害を詳細に言っても無理、若(も)しくは、言える状況ではなかった。
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(2025/01/27解説)
十章の上記の残り部分は省略していたが、2025/01/27 省略部分を以下掲載する。
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こうした状況では、既(すで)に述べたK[北山一]講師からと言って手渡された差別文書を、どのように処理するかを、とても相談できる状況でもなかった。駿台内部で、駿台K講師からと言って、見知らぬ学生から手渡された以上、駿台も駿台独自にこの問題に取り組む必要性があった(ましてK先生は、この学生に勝手に名前を使われただけで、無関係かもしれぬため、K先生の名誉にもかかわってもいた)。よって、差別文書に関しては、大滝部長を追及するのではなく、駿台として一番適切な差別問題への取り組みをどうするかを、一緒に相談したかったのであるが、不可能となった。
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要するに、私ではなく、大滝部長が先に怒って出てきたため、事実上の威嚇(いかく)となっており、言葉は丁寧(ていねい)であるが恫喝(どうかつ)的効果を持っていた。これで、この差別問題をどう処理するかを双方で検討できる状況ではなくなり、逆にややこしくなると完全に思わされた。
よって、差別文書の件は、駿台教職員には一言(ひとこと)も言えなかった。平和・平等を唱(とな)えてきた者としては、ここで原罪(げんざい)に近い罪の意識を背負わされた。この重い十字架(差別を見逃させられたという重荷)から逃れるには、実に、二〇年の月日を待たなければならなかった。何故(なぜ)ならば、三編、四編の如く連続刺客で身動きが取れなかったからである。
▽
{二〇一〇年九月挿入追記。この差別文書の件は、懸賞論文で私の作品のテーマがそれることによる落選を覚悟の上で、既に大手出版社三社以上に告発した時点で私の責任の大半は終了したと考えている。送付した原稿は念のためすべて友人・知人にも同一のものを送付している。同時に、この編の最後の追記や後書きに記すように、この差別文書は差別問題特集として独立した原稿としてまとめ処理する予定でいる。以上、挿入終了。}
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(2025年1月中旬頃の追記)
現時点でも不明なのは、どのようにして部落問題を絡めたのかということである。逆に言えば、部落問題が関与してくるならば、「人間違い」以外の回答は論理上はえられない。
こうして、(我が家の住所番地を七十年使い続けた家の)三男・Z3との人間違い説が浮上してくる。今度は人間違いを軸にして、私への業務妨害が多発してくる。
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私は、結婚や付き合うにあたり、相手の戸籍類を調べたり、聞いたりしたことは一度もない。同時に、戸籍類は全く気にしない。第一、部落問題研究部に所属していれば、同クラブ内で恋愛する確率は高い。そのときに、あなたの家の戸籍は…など聞く人がいようか。それならば部落問題研究部などに入部しないであろう。
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そこで部落差別の加害者では100%ないが、部落解放運動となれば参加していた時期が長期あったため、部落解放運動の対立に巻き込まれたかと思ったこともあったが、肝心の(同一食堂の常連であった)岡映氏が護衛もつけず、更に岡氏の団体が解散したり、岡氏が死亡したりした後で余計に部落問題が強調されるということは部落解放運動絡みでもないとしか分析できない。
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同時に、私がそうした運動に参加した頃(1968年頃)は部落解放同盟は分裂前であった。更に、どの団体から見ても攻撃を受ける内容のことはしていない。差別の実態調査、差別の聞き取り調査、子供会…や学校の制服反対・能力別編成反対運動などのみだからである。
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松本龍氏が後に本を強調していたように思えた。そこで、印象操作で自作自演劇を女性Nazo同様な手口の罠で連想させられたが、松本氏のいうように本を買わす事などは不可能である。何故ならば、当時私の書いた「夏期講習の政治経済学」あるいは「受験・現代社会問題集」類を差別問題と絡めて買わすことなどは聞いたことがない。当時は受験関係の原稿しか書いていない。
▽
ちなみに、2015年から電子書籍で幾つかの本を出版しているが、(2015年~2025年1月27日までは)定価は全て百円であり、私の取り分は35円程度である。その上、電子書籍の上、同じ人が二冊以上購入することは不可能なシステムとなっている。また本も『旅に心を求めて・不条理編・上下』、『親方日の丸・上下』、『日本のフィクサーME・上下』、『閉じた窓にも日は昇る:上下』であり、部落問題とは関係がない。『恐るべき労基法違犯』に至っては無料でPDF公開している。これ以上「本買わせ論」を記すことは笑い話となるため書くまい。
▽
また当時は、次姉が「差別文書」を「お前の字に似ている」などと奇妙なことを言い、何等かの罠を警戒しただけである。奇妙なとは「差別文書
」の文字と私の筆跡とは全く違っていたのであるから。
後に、女性Nazoと同様事件を疑った。Nazoの話を再度引用しておく。
☆☆☆☆☆
▽
上記Nazoの延長上が「化学の北山先生からの贈り物」といって、手渡された意味不明の差別文書と考えている。関連の流れをもう一度記しておく。
☆☆☆☆☆☆
1985年4月頃、会話ゼロの女性🚺Nazo→私が授業に遅れそうなので、1号館から2号館に走って行っていると、(それを計算して)2号館から1号館に歩いていたNazoが突如、360度回転して、走って逃げる。その後、怯えまくる。私が追いかけたと錯覚をされる。
↓
1985年5月ころ、西山好きな振り詐欺3段=気が散るので「普通に…」会談をタケウチに申し込む。女性三人(西山、タケウチ、カミ)がはしゃいで大喜びをする。私が、西山にアタックしたと思わせる。
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1985年6月か7月初頭
催眠で横家に「待っててほしい」と言わされる→意味不明で何の準備もしておらず→次に学校に行くと横家が婚約発表がある。男性職員が気の毒そうに私を見ている。同時に、思い出せば、当時、催眠で何等かの感傷的雰囲気か、卑怯な罠芝居への怒りを誰も見ていない場所(多分、電車の中か)で短時間(約10分程度)とはいえ、起こさせられる。映画説ならば、こうして、汚い芝居がつくられていった。
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公式Blog 2024/9/17公開
🆕駿台真相編―具体的展開解説05-4㊦・京都校二号館女性㊦
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=46175
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同様な自作自演芝居の手口である。要するに、誰かがビラをまいていた。私がそのビラを受け取る。意味不明の差別文書のため🚮(ゴミ箱)にすてた。誰かひろい、お前が書いた。お前は差別者だ。的な罠である。駿台京都校でNazo(1985年4月頃)、西山好きな振り第三段(1985年5月頃)、横家まっててほしい事件(1985年6月頃)と連続してやられた論理からなる手口である。総合分析からはそうやって、「差別文書」を🎬映画類の視聴率稼ぎと🏢駿台大CMにつかいたかったと分析している。
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後に(2025年1月に)催眠解説があったが、やはり「真逆攻撃」の一貫だったそうである。刑事犯罪が激化し、(差別の件と無関係な駿台校舎内での業務妨害と外での刑事犯罪被害に関する事項を)弁護士が動かぬので、岡氏を通して弁護士に裁判にもっていくよう説得してもらうのを阻止する目的で「差別文書」を渡してきたと催眠は解説をしてきた。これは催眠解説で厳密には真偽不明ともいえ、まだ差別文書を手渡してきた目的を完璧に把握できていない。
要するに、差別文書を手渡された件の意味は未だにさっぱり不明である。40年経った今も「ちんぷんかんぷん」である。詳細は駿台真相編B群で分析しよう。
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北山先生からと言って「差別文書」を渡されたため、まず彼に事情を聞くことが一番適切と考えている。2019年頃に彼が駿台にいるのを確認して、私は独り言を言った。「このまま駿台において方がよい。やめられると裁判が可能となったときに居場所がわからなくなるからである」と。
それが聞こえたのではあるまいが、真偽不明も、北山一氏は2023年死亡というX.comを見た。前年にはZ3と安倍晋三が嘘としか思えないが死亡という。
また、ひょっとして事情を知っているかと思った表三郎氏も2024年11月に死亡という。
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山﨑春之理事長は当然事情を知っているため、調査依頼を2010年1月頃に出そうとすると同年1月13日に肺癌で死亡したという。偶然ではないといわんばかりに息子さん(山﨑善久氏)も2017年8月12日に50歳の若さで肺癌で死亡という。
これでは手のうちようがない。
ちなみに、先の石原氏は2024年3月で駿台を辞めたという。だが死亡ではないので助かったである。彼は当時は下っ端のため、奥までは知るまいが何かを知っているかもしれないからである。
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私の友人女性🎃オジョウが言っていた。「書いても無駄よ。小渕恵三総理と同じよ。小淵さんどうなった」。
私の早大大学院先輩で、私の恩師の知人でもある小渕恵三氏に書留手紙を送付するや、その日に小渕総理緊急入院のニュースが流れた。
よって、駿台真相編は書いても無駄であるが、催眠強制と、催眠が種明かししたことの備忘録と、駿台辞職後も駿台女性を他の女性の上に置こうとする汚い催眠に頭にきて、記憶や印象を正当なものにするために書こうとなった次第である。
本来は書く場合には、損害賠償抜きでは意味がない。二重損である。
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勿論(もちろん)、その前に、大滝部長には、内容証明書記載の一の授業妨害があった以上、内容証明書記載の二も調査する義務があった。もし、駿台外での不法行為を駿台の教職員の誰かが知った上で、学内でも並行して授業妨害をしていれば、駿台も外部の不法行為に関与どころか、共謀(きょうぼう)していたことになるからである。解説の必要もなく、子供でも分かる論理である。同時に、大滝部長が知り得ることは、大滝部長自身と彼の眼の届く範囲のことでしかないのだから。
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今思うのは、子供のお遊戯(ゆうぎ)ではないため、大人として、社会人として、管理職の責務として、適切な調査と私への返答をすべきであった。(尤(もっと)も、付録編を全部読めば、もっと深い事情が分かるであろう。)
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次に、私は冬期講習終了まで責任を持つ予定でいたが、内容証明で一月一五日とミス記述していたため、その訂正を行った。すると、大滝部長も「そうしていただければ助かる」と返答があり、一五日以降も冬期講習の最後(一月二一日)まで講義をすることとなった。
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この後、駿台世界史非常勤講師・N[中井]氏(確か現在同志社大学・大学院教授)から、昔、雑談で「駿台では、非常勤講師でも退職金がでることがある」と聞いていたことがあったため、参考までに尋ねた。「辞職に際して、駿台は非常勤講師でも、退職金が出ると某講師から聞いたことがありますが、本当ですか」、と。すると大滝部長が、職員を呼び、三〇万円を渡してきた。会談が終わると、京都校H[深見]係長(比較的中立的であり、私とも一定懇意(こんい)にしていた人物)が、私を見て滑稽(こっけい)そうに(如何(いか)にも芝居(しばい)が成功したという雰囲気で可笑(おか)しそうに)、クスクス笑いながら出て来た。
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(2025/01/27 12:22解説)
30万円とは、藤村尚美先生(駿台と岡山の予備校で国語担当:映画狂の講師)が、私に1984年末頃に30万円借金をして、(今、考えれば故意に)1985年になってもなかなか返還されずに困り果てた事件があったが、その意味はこの(1988年1月)ときの30万円を事前に暗示していたのであろう。
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ちなみに、友人のI君は「タカちゃん、退職金が30万円とは少ないと思わないか」と言っていた。駿台では契約がなかったにも拘わらず、(多分どの教師にも一時金と称して)毎年夏頃に20万円程度渡されていたのだから、そうした慣例から言えば少ないとも言える。また、政経の前田氏はときどき、駿台大阪校から亀岡市の住まいまでタクシー券を渡されて帰っていたような大盤振る舞いの駿台全盛期の頃の話でもある。
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大阪校の堀江部長は、私に向かって、「先生、充電期間ですよ。とにかく、充電して、また駿台に戻ってきてください」、と。気安い雰囲気で、「充電期間」とか「また戻ってきてください」と何度か言った。堀江部長の方は雑談風であったが、大滝部長の方は正式な会談での返答であった。因(ちな)みに、一九九〇年どころか、大滝部長の言った三年後も含め、九六年までほぼ毎年復職願を出したが門前払いとされた。大滝部長の方は一定の拘束(こうそく)力がある発言と思ったが。
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家に戻ると、父親が、「話がちんぷんかんぷんであったろう」と笑いながら言っていた。映画説など思いもしなかった当時ですら、父と駿台内部の職員の行動を見て、芝居(しばい)じみた感じを駿台でも家でも受けた。
(特に駿台は一九八四年後半頃から、することが全部芝居じみていた。)因みに、八七年一二月前半頃は、私が駿台を辞めるなど全く考えていなかった。まさか、私が岡短の専任になる前に駿台を辞めるなど、想像だにしていなかった。最後の授業のときですら、まだまだ駿台で授業をしたいと、未練を持ち教壇に立っていた。
(以上、二〇一〇年四月一四日追記終了。)
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(2025/01/27:12:39)
駿台大阪校の松本課長と飲みに行ったときに、彼が「駿台大阪校で授業がしにくいならば、他の校舎もありますが、どうされますか」と尋ねたときに、私は「いや、大阪校でまだやります」と返答したと思う。この会話が1987年12月上旬前後だと思う。ただし、まだ拉致事件被害の前の頃である。
駿台大阪校の責任者は堀江部長であり、その直属の課長は名称を忘れたため実名で書けないのが残念である。もう一人の課長が松本課長であった。
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《◇―15・駿台辞職後と古里への監禁》
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第一一章・駿台予備学校辞職と一七年ぶりの故郷(ふるさと)へ
アパートを追い出されたときの問題、正確には田舎の自宅監禁への道は、例えで言えば、次のような手口での謀略によるものであった。即(すなわ)ち、暴漢に頭を殴られ金銭を奪われたため、大慌てで暴漢を怒鳴(どな)りながら追いかけた。
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だが外に出ると、暴漢の仲間が私を指さし、「お前は凶暴かつ不審者である」と叫び回り、逆に私の方が不審者扱いされた、という手口である。あるいは、空(あ)き巣に入られ泥棒が逃げたので、木刀を持ち追いかけて外へ出る。すると、即、「お前は凶悪だ」と逆に私が警察に逮捕されるように〝さくら〟を使い誘導する。要するに、戦前の軍国主義者が中国などを侵略したときに、目障(めざわ)りな住民を放逐(ほうちく)するために使った手口にはまっただけである。
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因(ちな)みに、二〇〇七年にこの件を再調査していると、私の母親が、当時、大屋から我が家にも電話があったと言った。そこで、母に大屋が言った内容を尋ねると、このアパート二階のTG[中国]短大女学生が怯(おび)えたのが理由とのこと――若(も)しくはそう解釈したとのこと――であった。すると不可思議なことが幾(いく)つも出てくる。
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第一に、大家[西本さん]が「アパートを出てくれ」と威嚇(いかく)的かヒステリック型で言ったため、大家の言動の証拠保全用にカセットテープレコーダーを持参して大屋の家に行くと、大家は一言も喋(しゃべ)らなかった。
TG[中国短期]短大生が怯(おび)えたというのならば堂々と言うはずである。カセットを持参していないときは、TG女子大生の件は言ったかどうか覚えていないが、ヒステリック型挑発で訳(わけ)の分からぬことを言いまくったのに。しかも、カセットは私のアパート内でポケットに入れ、大家の家の近くでは見せていないのに。大屋が私の部屋の中を監視モニターで覗(のぞ)いていた如(ごと)くであった。
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(2025/01/27 12:48解説)
大家の家は、庭瀬の住所アパートとは少し離れているが、ここには記載していないが、2025年1月27日の日程表の非公開欄に掲載保存しておく。全てが明確になった時点で、この文書にも記載し、永久に残す予定でいる。
ちなみに、以前、登場した福井医院の(私と小・中学校及び高校の同級生の)福井正尚君が昔このすぐ近く(確か100~200メートル以内)に住んでいたことを「林野高校同窓会名簿」で知った。
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なお、二〇〇七年に、このことを我が家の庭で母に解説していたときに、大昔から馴染(なじ)みの、親戚を含む近所の人が二人、「今も同様に監視しているのだから、当時もそうだったのですよ」と言うが如(ごと)くに、私を見てウィンクするような形でニッコリと微笑(ほほえ)んだ。
二〇〇七年の隣人の件は気のせいと考えても不思議ではないが、大屋の件は余りにも不自然であり、気のせいとは思えなかった。
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第二に、当時大屋が、アパートを出てほしい理由を〝理性的・丁寧(ていねい)〟に解説していれば、簡単に誤解は解けていた。先のTG[中国]短大は、私の早大大学院ゼミ一年後輩の母親が創設した学校である。おまけに、この学生達(たち)をTG短大で教えていたと思われるS[シミズ?]先生(女性助教授)とは、岡山の予備校講師として同僚であった。大屋が冷静に言ってくれば、本当に学生の誤解ならば、S先生経由で簡単に誤解は解けていた。
あるいは、後輩の家でTG[中国]短大創始者[早大大学院時代内田満ゼミ後輩のヒラタ君の母]にも会ったこともあり、TG大学当局からの身元保証の言動さえも不可能ではなかった。
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(2025/01/28 20:23解説)
「中国短期大学( Chugoku Junior College)は、岡山県岡山市北区庭瀬83番地に本部を置く私立短期大学…学校法人平田学園による中国女子短期大学として1962年に設置された…1989年 学科及び専攻名を変更。…運営主体を学校法人中国短期大学に変更。」(Wikipediaから抜粋)
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また、このアパート周辺や大屋の家界隈(かいわい)には、私が家庭教師をしたA家[アラキさん]や[進研]予備校・[真備]高校の教え子の家、他にも多数の知人がいた。それも昔から庭瀬界隈(かいわい)に住んでいる人たちである。
私が家庭教師をしていたA[アラキ]家の人達は、大屋とも顔見知りと言っていたことから、尚更(なおさら)誤解は解(と)けていたはずである。本来ならば、誤解は簡単に解けていた。大屋が丁寧(ていねい)に・冷静に言ってくれば。本当に学生の誤解ならば。今、考えれば、逆に誤解が解けないように、大屋が暗に言葉を濁(にご)し、故意(こい)に冷静に言わなかったとの疑惑を持っても不思議ではない。
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第三に、犯人が駿台ではなく本当に泥棒ならば、私よりも彼女らが危険となる。女学生抜きでも、大屋及び警察は、アパート住民及び周辺住民全員に、「浜田氏の部屋で不法侵入があったので警戒するように」と呼びかけを行う義務があった。ましてや一九八七年夏には、私の部屋ではないが、このアパートに空(あ)き巣(す)が入り、パトカーが来ていたのだから。私の部屋への不法侵入事件が始まる少し前の頃である。また私の件も、既(すで)に述べた如く、警察にも届出はしてもいた。大屋にも。
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第四に、私の部屋の天井(てんじょう)からの薬落としは、通常は、大屋か二階の女学生の協力抜きでは至難の業(わざ)である。おまけに、この事件と前後して、女子学生たちが二階の廊下・床を故意(こい)に踏(ふ)みつけているが如(ごと)く大きな音を立てて下まで音を相当響かすことを何度もしだした。暗に薬落としは二階からと言っている(と思わせる)が如くに。
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なお、母の生前(二〇一二年死亡)にこの大家の件を聞くと、「もう、アパート侵入類犯罪は時効か」に近いことを逆に聞いてきたため、私が「まだ民事では(時効は二年のため)[訂正:消滅時効は二十年のため]時効ではない」と返答した。すると、母が「ではまだ真相は無理だ」に近い発言をした。勿論、バトンタッチ型犯罪の場合には、時効はさらに延(の)びる。
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(2)大家を善意に解釈してみよう。
二階の女の子が、二階をドンドンと大きな音で踏みならした。私は、やめてもらうために、その趣旨を書いた用紙を二階の廊下においた。そこで終わり。ところが、これとは別に部屋に不法侵入があったときに、この不審人物を探すことがあった。当然、私の顔は殺気だっている。このときの顔を二階の女子大生が見て、自分らに怒っていると勘違いし、怯(おび)えることはありうる。同時に、二階からの薬落としがあったときの天井チェックの音で勘違いもありうる。善意に解釈すれば、こうなる。だが、付録編の仮説を読めば、もはや何をか況(いわん)んやである。
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(2025/01/27 13:00追記)
1988年に兵庫県の千年家まで🚲(自転車)で行き、帰りがけに警察官か自衛隊官か不明のもの凄く強い人にであった。
そのときに、相手の車に乗っていた女性が大家(西本さん)そっくりの声でわめいていた。
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関連:新一言Blog: 2025年9月25日公開
新一言№54・過去出会ったことのないほど強い人に絡まれた1988年の思い出―交通問題
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/09/25/2798/
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こうして、自宅監禁・岡短蛸(たこ)部屋労働への道がここで作られていた。戦前の軍人が海外で行った手口と同様な形で、アパートを追い出され、自宅監禁への道となる。今振り返ると、事実上一九八七年が私の授業屋生活は最後の年となっていた。同年で終わったのではなく強制的に終止符を打たれた。
後は自由と希望を奪われ、もはや自分の人生ではない、戦前の強制労働下状態で、教壇とは無縁の偽善(ぎぜん)と虚構(きょこう)の世界に閉じ込められた。そして、何よりも応(こた)えた生活の糧(かて)と私産も逆に奪われ、度(たび)重なる労基法違反に苦しめられ、家族への屈従・屈辱の寄生生活を長期に亘(わた)り強(し)いられる。
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もう書かずとも予測がつくように、駿台を辞(や)めるや否(いな)や、第三編の中心である岡短職員の態度が一変し、駿台時代以上の危害の連続が待ち受けていた。実際に、右記の如くひどい目にあった駿台に、一九九〇年には直(じか)に足を運び復職を求めるほどであった。
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要するに、第三編で記す岡短で行われた労基法違反・不法行為・貢(みつ)ぎ労働などは、犯罪が行われた駿台が天国の如(ごと)くに思えるほど凄(すさ)まじいものであった。しかも、その後はナチのアウンシュビッツ収容所の如(ごと)く拷問も待っていた。特に八九年末~九三年末の間は、本当にナチが行(おこな)ったのと同様の拷問であった。もちろん、九五年以降もそう生易(なまやさ)しいものではなかった。ドクターストップがかかったくらいであるから。
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