(🚧)駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校・能開大等と一本の線が)

(🚧)駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大と一本の線が)


駿台真相編-6は2024/06/19 と2024/10/03 23:52 追記にメモを貼り付けていたが、ほぼ全面的に構成、内容をかえて、ここに掲載する。

以前のメモは下書きとして暫く掲載したままとして、数ヶ月後には下書き保存に回す。以前のメモのアドレスは以下である。

●https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=44135

2024/10/25 23:17から新下書きを開始

2024/11/06 21:17からMemo追加。途中で何故か、消去させられて、再度貼り付け作業。2024/11/07 10:00頃からMemo貼り付けや下書き作業。2024/11/08 21:09一部追加。

2024/11/08 21:13 長いため、更に追記も予定しているため㊤と㊦に分離予定。

2024/11/09 19:28 少し貼り付け。本来本格的作業予定も15:00~19:00にかけて催眠独り言で阻止される。契機は🐶散歩を見てか。それとも午前のZ家の🔥というよりも煙を見てか、その亜かは不明。

2024/11/09 22:07 から3~4分割して、順次修正や写真を添付しながら、数日間隔で掲載を予定。

 

 


(序)全体の概要

(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係

(2)駿台CM作戦―事件第二部の開始―相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

――駿台真相編1986年度の話題提供が女性から多忙へとシフト

(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦

(4)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について


(序)全体の概要

駿台事件の本質は、🎬映画説グループの視聴率稼ぎと駿台経営陣の大CM作戦が本質と何度も書いた。
私は、自分の生き甲斐を「授業の演出・プレゼンテーション」においていた。だが、それでは駿台CMにならぬということで、女性陣を絡めたのであろう。女性陣といっても、1983年入社京都校講師室係🚺四人組に限定してではあった。

しかしながら、🚺問題といっても、下記の如く、デート所が外で合ったこともない。会話も人前での僅かな時間でしかない。
そうした状況では🚺問題でいつまでも話題提供にはならぬということで、1986年からは契約違犯による授業破壊工作が行われる。契約違犯による多教科誘導に起因する超多忙さ、その中で授業を守るための私の行動とをテーマにしようとしたのであろう。

この実証をするのが駿台真相編6の課題である。
なお、この時期では更なる超多忙と精神的追いつめを狙って、今度は催眠で岡山の予備校🚺2人が絡められる。駿台と全く同様の手口であった。
催眠熱の度合いは駿台よりも岡山の方が強かった。

だが、岡山の方は1年で終わり、終わった後は一切催眠での解説強要も、催眠類で思い出しをさせられることもない。
3~4行、催眠で熱をあげさせられ参ったで終わりである。他方、駿台の方は膨大な時間何度も催眠での思い出しと、催眠独り言を強要された。それも40年近くである。
この違いはどこから来るのであろうか。

おまけに、🛵おじょう(タナカ)や、岡山の女性と異なり、駿台🚺は美人だったからなどとこじつけもはなはなだしくやられ、卑劣なことには催眠で、駿台🚺四人組への怒りや不愉快さを緩和するという汚い手もうたれた。
なぜ、そこまで駿台🚺四人組を擁護というよりも、ヤクザの因縁型で押しつけるのであろうか。

容姿は全てではないが、容姿ですら嘘の印象操作が多い。可能ならば岡山の予備校職員の写真を掲載できないかと思っている。見れば解説の必要性はなくなる。
肖像権といっても、人権の濫用と公共の福祉の制限があり、彼女らがそれに違犯した以上、生活防衛上公開は許されるのではないかと考えている。
そして、これらの職場での出来事は因果関係があり、その繋がり型を事実に即して解説していくのもこの(6)のテーマである。

なお、駿台CM作戦は、この超多忙さだけではまた人は飽きるということで駿台真相編(7)から刑事犯罪被害の連続となる。

同時に、恋愛詐欺とか各種工作類は犯罪である。被害も、業務妨害や健康被害にまで及んでいく。通常らば経営陣から依頼されても、私ならば何億円もらっても断る。それでは彼女がら何故引き受けたのか。

ここから、☠(謎のXグループ)の存在や、人間違いを連想する。要するにZ…に怨念があって、その恨みをはらすために、駿台CMに協力したのではないかという疑惑である。この点は、岡山の予備校職員との対比で明白になるであろう。

最後に、女性が異常に強調されるが、それは人待ちがいに関連しているのであろうか。
あるいは、差別をにおわされることが最近多いが、これも人間違いに起因しているのであろうか。
また、🎬…では幼児・児童が強調されるが、私は本来は子供好きではあったが、その種の趣味は全くない。それでは、何故、長姉や父などの🎬映画…にからめるか、印象操作をしようとしたのであろうか。
話題提供のためであろうか、それともZ…の人間違いを助長するためだったのであろうか。

こうして、次回の駿台真相編7でその問題を検討することにする。



(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係

 

序・私(浜田隆政)の父=浜田耕治(学校教師)

A・浜田耕治―(ベネッセ前身の福武書店創始者)福武哲彦=父の岡山師範1年後輩(当時は同一時期に寮生活と思われる)。

B・福武哲彦→岡山の予備校・岡山進研予備校も経営→名誉校長・尾野作次郎

C・尾野作次郎→真備高校(現・岡山明誠学院)の経営母体であった当時(真備学園)理事

D・(ベネッセ)福武哲彦氏🤝(駿台)山﨑春之氏の疑惑→後に哲彦氏の息子・福武総一郎氏時代に駿台ベネッセ提携模試

E・途中絡んだ(灘高校を目標としていた)岡山中学・高校の校長・桐山氏=昔、真備高校の非常勤講師、更に同校解任後に、先の(ベネッセ経営の)岡山進研予備校校長に就任。

F・(ここだけ仮説段階)私をポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)の専任にする画策をした嶋坂先生(元京都外大教授・甲南大学講師、奈良女子大学講師…:彼の父が京都外大学長を歴任)が映画説と関係していたことは明白になりつある。嶋坂―🎬映画説―駿台だけなのか、嶋坂―駿台なのかを今調査中。図式化すれば、能開大中国―嶋坂先生―駿台となる。

特に、ベネッセと駿台、駿台と(労働省所管)ポリテクカレッジ岡山(能開大中国)の関係が重要な項目となる。

ここでは上記A~Fの相関関係図だけを記述し、(3)で犯罪・犯人隠蔽政策の仮説を展開する。簡単に言えば、駿台の責任逃れの工作である。1983年駿台京都校講師室係🚺女性四人組登場前から、既に、私の駿台放逐とその際の駿台の責任逃れや賠償責任逃れか賠償額の縮小工作がなされていたということである。

これらを徐々に証明していく。

Aについて。

当時、岡山師範本科第一部の学生は百人前後。全寮制であった。同じ寮で生活していたため、先輩・後輩としての付き合いはあったと思われる。それが証拠に、大変小規模な岡山の予備校(校長除き職員数4~5名、後に7~8名)の職場に、もはや大企業となっていた、福武哲彦氏が忘年回や新年会に何度も来ることはなかろうし、当時の職員も不思議がっていた。現在、ベネッセの写真は1万6千人程度である。

更に、宴会が終わった後で、福武哲彦社長がスナックなどに行く際に、職員に耳打ちをして私の方を指指して「あの先生も連れてこい」と言っていた。二次会に指名をうけた教師は私とあと一人いたか・どうかであった。そこでレミーマルタンかヘネシーを飲まして頂いた。数度あった。

ちなみに、ベネッセの労基法違犯で、私との関係がおかしくなったころ、福島保君が2007年にベネッセの社長となる。福島君と私は同じ林野高校卒業である。当時の生徒数は一学年普通科180名、家政科90名の合計270名であるが、私は理科系にいた関係で同じクラスに二度閉じ込められ、福島君と同一クラスになることはなかった。それでも、双方ともに顔も名前も知っている。

それに対して、父の場合には一学年90人程度のみならず、全寮制のため、福武哲彦氏と生活を共にしており、当然知っていたと思われる。ちなみに、福島君が社長になったことも、ベネッセの子会社ラーンズが私に実質的労基法違犯や各種違法行為・嫌がらせ行為を何度もしたことなどから、ベネッセ経営に支障が来さないための人事という側面もあったかもしれない。というのも、他でよく見られる現象だからである。

彼の力もあったであろうが、全く無関係の確率は極めてすくない。

ベネッセ・ラーンズの労基法違犯については後にどこかで触れる。大変高くついたであろう。ベネッセ経営不振となった本質の可能性が高い。ベネッセ子会社ラーンズは世界のMr. Hamadaのみならず、無料でベネッセ系列予備校の建て直しに奮闘(1985年度等の有名講師のブッキング)した後で、私に恩を仇で返したのであるから、私ではないが誰かが怒ったのであろう。

子会社に私に害を加える動機がないため、駿台時代の謎のXグループか、駿台の教員が駿台ベネッセ模試を作成しており、その取扱をベネッセ子会社・ラーンズがしていたため、何かちょっかいをかけたのかもしれない。

私が駿台で講師をしていた頃に、私よりも後に入り、当時若手であった、英語の桜井博之君の名をラーンズが送付してきた模試類で見た覚えもある。桜井君が関与していたとは言っていない。ただ名を見たと書いただけである。

ちなみに、下記の同窓会名簿は1982年に作成されている。1982年とは、私が駿台の教壇に立った年である。これも偶然ではないかもしれない。
余談な話ではあるが、父の上に名があるベル・串田(ベル くしだ、1913年11月20日 – 1994年12月2日)氏は日本の洋画家として知られている人物である。

もっとも、父の交友関係よりは、私の交友関係はレベルが違っており、私の交友関係や各種線は福武哲彦氏や息子の総一郎氏ですら、無名に近い存在でしかない。山﨑春之氏ももはや同様である。「日本のフィクサーME」シリーズなどでわかってきたであろう。
それが駿台事件の本質のもう一つの側面である。私=浜田隆政活用の駿台CM作戦や各種利権である。ニュージランドに移住した福武総一郎氏もニュージランドの地でいずれ分かってくるようになるであろう。

ちなみに、岡山の予備校で、駿台女性四人組と同様の事件が相似形で起こる。福武哲彦氏が生きていれば無理であった。その関係の如く、岡山の予備校での女性を絡めた事件の直前に福武哲彦氏が亡くなり、息子の総一郎氏が社長となった。

なお、私と福武書店(現・ベネッセ)が蜜月のときには、福武書店は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。岡山本社、東京本社建設…と。
私が福武書店と関係を持った異はまだ本格的なビルディングは一つも所有していなかった。岡山の廃校を利用していた。だがその後、もの凄い勢いで成長路線を遂げた。私に危害を加えるまでは…の話である。

 

【資料】上が浜田耕治(私の父)岡山師範昭和9年本科第一部卒業

岡山師範-浜田耕治-1Mm

 

 

【資料2】下が福武哲彦(ベネッセの前身福武書店創始者)岡山師範昭和10年本科第一部卒業

 

出典

『岡山師範(男子)卒業生名簿』(編集・同作成委員会)、昭和57年3月20日発行。

製作:福武哲彦。株式会社福武書店

BとCは今回の原稿では時間の関係で省く。Dについても、提携前から、(駿台の東京の職員から接待に何度か誘われ、進研模試の話をきかれたり…と)私には心当たりがあるが、今回は略すかもしれない。FとGは(3)で触れよう。

全体の仮説を先に記す。

仮説の本質は🎬映画・テレビ説と、🏢利権の融合、更に人間違いを絡めた話題提供にある。それを遂行するための手段は各種工作と催眠類の使用であった。

現時点では、🎬映画説の関係者に、私の父や姉(長姉)などが絡んでいるようである。いずれも死亡となっているが。

仮説では、ちちなどの🎬映画説グループが、🏢企業・法人などに話をもちかけて、私を人身売買若しくは話題提供というエゴで奴隷状態においた疑惑である。

具体的な図式は以下のようになる。

父が、父の後輩であった福武哲彦氏(福武書店・現在のベネッセ創始者)と何等かの相談をした疑惑である。同時に、大学院博士糧まで進む予定でいた私に対して、バイト三昧で疲れたことなどを利用して、催眠類でしきりに、高校教壇に立つように私の脳をコントロールした疑惑がある。

時期は1981年3月である。もう、教員の公募などはどこもしていない時期であった。同時に、私の方は既に幾つもの家庭教師や塾などで仕事をしていたのみか、一年ほど待ってもらっていた家庭教師の予約だけで3人以上を別に抱えており、東京を去るとしても早めに言う義務もあった。

ところが、催眠類で、突如学校の教壇に立ちたいと思い、採用試験類はない時期にも拘わらず、出身地・岡山の幾つかの学校に採用してくれるように手紙を送付した。送付した学校は福武書店経営の岡山進研予備校、真備高校(女子高校)、そして倉敷英数学館であった。いずれも、「それでは来てくれ」と返答があった。そこで大急ぎで岡山県に戻ることになる。

岡山進研予備校は経営者が先の福武哲彦氏である。その予備校の名誉校長・尾野作次郎氏が、真備高校の理事をしていたと後で知った。

尾野作次郎氏でインタネット検索をすると、{尾野作次郎・友野澄雄著『口述の教育史―一教育者八十年の回想 (1983年) 』福武書店、1983年1月1日}という本がでてきた。
真備高校で、最初に揉める原因(話題提供の素)をつくられたのが友野先生である。この話は既に★で記した。ただし、真備高校の友野先生は上記の人物ではなく、名字は同一であるが名前は違っている。だが、映画説類でこうした謎かけが随所ででてくるため記しておいた。

そして真備高校では当時放映されていたテレビの学園ドラマと類似形態で様々なことが起こったことも既に記した。
こうして、🎬―父―福武哲彦―尾野作次郎―真備高校というラインもあったようである。なお、上記文献は1983年1月1日に出版されているが、私がポリテクカレッジ岡山の教壇に立ったのも1983年4月からである。出版社も福武書店というおまけつきである。

更に、福武哲彦氏を通してか別ルートかは不明であるが、駿台甲府高校経営者駿台とも話をつけたようである。ただし、駿台甲府高校の採用試験に合格したが、駿台予備学校にまわされた経緯がある。駿台の方も既に述べた如く、全国展開前に大CMをしたくてその話に飛びついたのであろう。更に、当時の駿台は小学校―中学校―高校―大学―大学院という縦のラインをつるくためにも、また海外進出をするためにも大CMを必要としていたように思われる。場合によれば、駿台理事長・山﨑晴之氏が同じ受験産業ということで、どこかで知り合いとなっていた福武哲彦氏を通しての商談であったのかもしれない。

それが証拠に、後に駿台とベネッセ(旧福武書店)は模試作成で提携をしている。

ただし、🎬映画説グループは1箇所に私を閉じ込めると話題提供にならぬため、駿台から一定の時期に私を放逐する計画を最初から練っていた可能性が高い。

私の生き甲斐は学校革命、即ち、学校のドラマならばテーマは授業におくにあった。拙著『求め続けて』(現時点では学校内での簡易製本無料配布のみであり、出版はしていない。ただし、ブログでは期間限定で紹介済みである。)そこで授業の模索を終始していた。野口英世が黄熱病の研究をするようなものである。
だが、彼らのシナリオは違っていたようである。

各種の形で学校を舞台とした映画かテレビ類の構想があったようである。これが1981年度である。
結論から言えば、一年のみは女子高校で模索する姿を、次の一~二年は東大合格者年1500名以上であった駿台予備学校の教壇で模索する姿(1982~83年度)を考えていたようである。

だが、授業が軌道に乗ると視聴者が飽きるし、駿台の方もマイナーな政経の授業ではCM効果が低いということで、無理矢理女性を絡めたようである。1984~85年度である。それも後に記すように、何か目的を持っていた女性四人組限定で絡めたようである。(おそらく人間違いを悪用して…)

しかし、それでは視聴率は二年が限界と考えたのか、1986年度からは超多忙な日々へ、1987年度は業務妨害・刑事犯罪であえぐ姿をテーマにしていたと分析される。

当然、これは大犯罪である。両親が許可したと言っても大犯罪である。そうでなければ、戦前に親が子供を身売りしたのは問題がないとなる。
人身売買、奴隷労働、強制労働、契約外労働、賃金不払い労働に該当する大犯罪である。


そこで、駿台の方もその逃げ道を作ったように思われる。

それがポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)である。ここ数年疑っているのは、この学校は駿台経営者が計画的に私をこの学校に誘導した疑惑である。なお、ポリテクカレッジ岡山は労働省所管の大学校であった。だが、この学校で激しい労基法違反・契約違反攻撃に遭い続けた。

映画・テレビ類とすれば、労働省所管の大学校で労基法違反、契約違反のオンパレードとなれば、視聴率稼ぎで大変好都合である。
そこで、倉敷にあるこの労働省系大学校での労基法違反で苦しむというシグナルとして、倉敷英数学館という予備校の教壇にも立たせたのではなかろうか。
というのは、この倉敷英数学館は賃金遅延の常習だったからである。


倉敷で労基法違反被害にいずれ遭うというシグナルであろう。(ちなみに、この大学校・ポリテクカレッジ岡山には1983年度から教壇にたったが、この学校が中心となるのは駿台辞職年度の1988年度からである。88~89年度は学生・職員の突如の豹変、1990~93年度はうつ病の激しい状態と十二指腸潰瘍による入退院の日々、94~95年度は再度の復活、95年度半ばから98年1月は精神疲弊と学校での各種実験…と続く。その後の舞台は村に引き継がれる。不思議な形で、全く意味不明の形で同和問題か何かがにおわされるのは2000年度からである。こうして激しいテンポで話題提供を強制され続けさせられる。2001年度以降は今は省略。ただし、2018年度の諸事件を通して、2019年度から催眠類や各種謀略・工作を通じて物語全体の解説がなされだしていく。)

同時に、この予備校で嶋坂先生と出会うことになる。嶋坂先生は京大・京大大学院で博士号を取得して、京都外大・甲南大学、奈良女子大学などで教壇にたっていたそうである。彼の父が京都外大の学長にもなっている。彼は湯川秀樹博士にも習ったと言っていた。
ポリテクカレッジ岡山の箇所で記しているが、彼が執拗に、私にポリテクカレッジ岡山の教壇に立つ話を聞きに行ってくれとポリテクカレッジ岡山に私が行くように仕向けた人物である。

嶋坂先生は、駿台の藤村先生同様に、連帯保証人となり、その尻拭いで京都外大教授を辞めて、奥さんの実家・岡山に来て伊沢という奥さんの名字を使用していた。連帯保証人…で藤村先生を示唆し、名字が幾つかあるということで駿台で政経を担当していた前田先生(別名杜先生)を示唆していた。
まず、映画説グループの人間と思われるが、駿台との関係もある可能性がある。というのも、ポリテクカレッジ岡山に専任前提と騙されて教壇に立ったが、この学校で「山﨑」という名が妙に強調されていたからである。当時の駿台理事長が山﨑春之氏である。

{同時に、ポリテクカレッジ岡山で精神疲弊が激しくなる=躁鬱病の躁状態開始直前頃から、山﨑という名字の私の叔母が我が家へ毎年来られるようになる。この叔母の学友がH氏であり、H氏の娘が私と同級生であり、彼女の妹が好きな振り詐欺の真似をした。同級生の卒業大学は京都女子大であり、ここで西山美千代登場の予告はなされていた。そして、ここ数年(本年が2024年)、山﨑という手紙が我が家内で散乱している謎もある。叔母の子が姫路に移動した。そして、我が家の住所番地を70年使用したZ家内に皆木家があったが、Z家との確執で姫路に移動された。この皆木家が昔住まわれてた家の前に車(姫路40の車)が止まり、その車の主が我が家内の畑を歩き回った2000年から村のトラブルが本格開始する。}

ともかく、こうして、私の父・浜田耕治―福武哲彦(ベネッセ)―岡山進研学院―真備高校、ベネッセ(旧福武書店)―駿台、駿台―ポリテクカレッジ岡山という関係がなりたっていく。

更に、専任詐欺を隠蔽するため、途中で岡山中学・高校校長の桐山先生が絡んでくる。手口は全くポリテクカレッジ岡山と同一であった。その話は後で記す。

ちなみに、この桐山先生は昔真備高校で非常勤講師をしていたそうである。更に、岡山中学・高校で専任条件で1984年に(1985年度から専任ということで)私を招聘されたが、私が行く気がなく、断ろうとするや、私が先に断ってはまずいといわんばかりに、桐山先生が先手を打たれて、同校を辞め、福武書店(現・ベネッセ)経営の先の岡山進研予備校の校長になられた。{なお、岡山中学・高校とは、時期は違うが、NHKの井上あさひなどが卒業している学校である。私が教壇に立っていれば彼女の担任になっていたかもしれない。これを読んで井上あさひが言うかもしれない。「まあ、残念だったわ」と。こんなとき、真面目な文章では冗談はやめておこう。}

駿台での業務妨害・刑事犯罪で私を放逐した責任―ポリテクカレッジ岡山での専任詐欺…を恰も岡山中学・高校の専任の話で隠蔽するがごとく形と成っている。

こうして職場群はすべて繋がりを持つと同時に、各種犯罪やその他の工作もつながりをもつことになる。

 

 

資料:駿台辞職願い直前にポリテクカレッジ岡山から専任延期電話の謎。

 

 

(2)駿台CM作戦―事件第二部の開始―相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

――駿台真相編1986年度の話題提供が女性から多忙へとシフト

駿台で、女性陣が登場した話は駿台真相編5-1~5-8で記した。何度も書いたように、「女性問題」(正確には女性ドタバタ劇)は1~2年ならばともかく、それ以上となると視聴者は飽きる。視聴者が飽きれば、🎬映画説グループのみではなく、駿台もCM効果がなくなる。

そこで、駿台京都校から駿台大阪校に異動した1986年度は人間の限界を超えるかもしれないという超多忙な日々に見舞われることになる。

第一、私を見て分からぬのだろうか。貴君らは正に裸の王様である。
昨日(2024/11/06)Mr.トランプが大統領に当選した。彼は私を見て即座に分からぬのだろうか。
私の容姿や雰囲気が女性に騒がれたり、騒がれたいと思ったりするタイプかどうか分からぬのだろうか。

ちなみに、私の家が檀家となっているお寺の住職の嫁さんは簡単に即座に言った。「見たら分かります」と。
我が友・Mr.Obamaですら、勘違いを…することがあるとすれば、小学校の子供のごとく、物事は単純に考えた方がよいときもあることを勧める。

視聴者諸君はいずれ、「おかしい」とか「Mr.浜田に女性問題、そんな阿呆な…」と思い出す(気がつく)。そこで女性陣はもう終わりとして、次の話題提供として、仕組まれていたのが、各種契約違反と、各種罠を利用しての限界を超える超多忙な日々の中での授業への葛藤であった。

「一九八六年に駿台大阪校に異動する羽目となった。同時に、日本史も兼ねることになり、多忙の限界を超えてくる。駿台大阪校で政経と日本史を週四日、岡山市の予備校でも政経と日本史を週二日、岡山県倉敷市玉島の岡短で英語を週一日担当し、それに何本もの駿台模試作成、進研模試のチェック、短大の(前期・後期・再試・追試)試験問題作成・採点などである。こうして毎週、実家・美作、岡山市、倉敷市玉島、大阪と飛び回り、その上で数年に及ぶ大きな障害となる大阪でのトラブルと岡山でも女子職員に絡めた揺さぶりに見舞われる。」{拙著『閉じた窓にも日は昇る・上』(Kindle、KOBO各百円)参照)

「その上に、次に、一教科当たりの教材研究不足などを利用しての心理的揺さぶりが開始された。まず、心理的揺さぶりがしやすいように、初めて担当した日本史も、政経講師などが一番不得手な所のみを担当させられた。当時、駿台では日本史は古代~近世と近現代史に分割されていた。政経と相当重複する近現代史などは担当から一切外された。現代史などは駿台日本史講師陣よりも政経専門家の私の方が詳しいことは常識である。実際、『日本の歴史26・よみがえる日本』(中公文庫、一九七四年)は歴史学者ではなく政治学者・鑞山政道(ろうやままさみち)氏が執筆されていた。だが、現代史などの箇所は一切担当できず、先土器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代……江戸時代までの担当となる。
更(さら)には、日本史のテキストか私の参考書類かは忘れたが授業直前に誤記述版に置き換(か)えられ、後に元に戻された疑惑がある。(この件は私の勘違いか、事実とすれば奇異すぎて現時点でも被害断定記述はできない。)その他でも、授業でミスするような策略がなされていたとしか思えないことが多々あった。
同時に、「日本史初めて教師」としての心理的揺さぶり言動や、生徒にその趣旨の宣伝をしたことを暗に私に知らせる形での揺さぶりもなされた。」(同上書参照)

さらに、その逆の手も打たれていた。
「 他方では、八六年度の生徒のアンケート(学校で集計された表・統計ではなく、生徒の自筆で記入された用紙類)を読むと、白々(しらじら)しさを超越したベタ褒(ほ)めに近い内容の記述がかなりあった。白々過(す)ぎてまともには見ていない。恐らく、学校が保存しているアンケート結果とは相違しているであろう。私が日本史を途中で止(や)めないようにするための誘導か、あるいは、私が担当していた日本史受講者の大半はX1の指揮下にあるという脅しであろう。」

なお、超多忙の中で、ダメ押し的に、さらに女性問題(女性戯れ遊びごっこ)が岡山の予備校でも起こされる。

催眠や工作で、駿台事件の原因は無理矢理女性問題らしく思わされていた。催眠下でも意味不明で、何度も「あれが女性問題ならば、幼稚園や保育園は女性問題だらけだ」と思っていた。無茶苦茶であった。
なお、岡山の予備校でも、1986年度のある日、突然、女性職員タキザワさんに激しい熱を催眠で植え付けられる。ところが、同じ1986年度のある日、突然に、その熱がタキザワさんからヨシダさんに変化する。まさに同一日であった。該当日の朝までタキザワ熱であり、昼からはヨシダ熱であった。
何でだろう?

ちなみに、タキザワさんは、駿台女性と異なり、新年会・忘年会も同一、職場でも多少会話をしている。それも1981年~86年までである。
容姿も美形である。
職員のほぼ全男性が彼女に関心を持っていた。

ただし、私は理系の人間であり、各種シミュレーションを先にする。
確かに、彼女は魅惑的であるが、性格が私とはあうまい。私はのんびりとした・優しい女性とか、穏健な女性が良い。言い合いとか、小うるさいのは叶わない…ということで距離を置こうとした女性である。
近づけば、駿台とは異なり、催眠抜きでも、他に女性が登場せねば、熱をあげる危険があると分析をして距離をおいていた。
彼女も私とは距離をおいていた。(多分、彼女は野暮な男性は🆖(ノー)。私は🤡(ME)よりももっと良い男性が良いであろうか)。
ともかく、女性・男性という問題を除けば、職場での人間関係とすれば、双方良好の類いであった。

しかし、油断をすれば熱でもあげたら危険と警戒をし、職場の誰かと上手く結婚でもすればよいのにと本気で思っていた女性である。
1985年3月まで駿台女性、及び🛵おじょう(タナカ)であったのが一瞬にして、1986年度前半に彼女に熱である。当然、催眠である。

ちなみに、駿台でもよくぼやいていた。
「福﨑伍郎君(英語担当)という二枚目で理知的な教師がいるのだから、そちらで騒げ」と。
本当に独り言でぼやいたときもある。

なお、このタキザワさんとは、1984~85年度に駿台女性の件を何度か相談したことがある。彼女が言っていた。「先生、いまどきの若い女性は授業が良いとか…で憧れる職員などいないですよ」と。然りである。
さらに、不思議なのは、ある日の午前中は彼女への熱であった。所が、昼からはヨシダさんに熱が移動しているのである。過去にも前例がある。高校部落研究部後輩のミズシマさんへの熱が数分でフナダさんに異動したことが。駿台も同じである。水俣で出会った子を思っていたら、高校生コースの子と西山の視線があい、火花がちったように思えた瞬間に西山熱が起こる。催眠である。無茶な。


こうして、1986年度は先の殺人的なスケジュールの上に、はるかに駿台時代以上の女性熱を催眠で起こされた。なお、ヨシダさんという女性は良く知らないが、生き方が違うとしか思えなかった女性である。容姿は本田美奈子に似ていた。しかし、一瞬見て、即座に私とは生き方が違うと判断したと同時に、特に好みの容姿でもないため、タキザワさんとは異なり間違っても彼女に熱をあげることはないと、安心していた女性である。

丁度、駿台の西山美千代と同様である。1983年度の8月末までは、間違っても、この女性に熱をあげる心配はないと女性として意識していなかった女性が西山美千代である。ところが、まさかの催眠熱である。

なお、ヨシダさんに戻していえば、理論で考えれば「ありえない女性熱」であった。理論とはヨシダさんとは口は聞くチャンスはあったが、面倒できいていない。そこで会話量はほぼゼロである。次に容姿は特に好みではない。ただし、写真を掲載すれば分かるが今の若い男性には持てるタイプ(アイドル型)かもしれない。私はAKB48などのアイドル型には興味がない。(ちなみに、西山はアイドル型でもない。容姿も私好みでは全くなかった。)勿論、ヨシダさんとも学外で会うことなどは考えたこともなかった。無茶苦茶の限度を超えている。これが駿台女性の件でもあった。


可能ならば、女性全員(駿台のヨコイエ・ゴトウ、岡山のヨシダ、タキザワ、🛵おじょう・タナカ)の写真を全部掲載しよう(ただし、西山の写真はない)。肖像権の関係で加工して掲載してもよい。ただし、彼女らも催眠を悪用して、事実上、私に危害を加えているため、肖像権などの人権の一部は主張できない。憲法が保護する人権は公共の福祉の制限と濫用してはならないと定めており、それに抵触している場合には肖像権などの一部は主張できないと思う。(参考:指名手配の犯人の写真や氏名等々を考えれば良い)

万一、写真を全部掲載できたならば、「駿台女性は美人…」という風評類は嘘も嘘と誰でも即座に分かる。美人かどうかはどうでも良いが、卑怯な形で、そうした特別扱いは卑劣である。
ともかく、写真をみれば、容姿のみでは駿台女性を思うことはないことは即座に分かろう。性格については「優しい女性」か「怒りっぽい女性」か「口やかましい女性」か…何一つ知らない。
限度を超えたならばうぬぼれか、自己のプライドで人を犠牲とか、…悪質と人は思うであろう。

ちなみに、この両者(タキザワ・ヨシダ)への熱は駿台時代以上であった。しかし、駿台女性の件とは大きな違いがある。彼女らが1987年度からベネッセ本社に異動するや即座に脳裏から消えた。更に、後にも催眠類で延々と思い出さされたり、独り言を言わされたり、何かを書かされたりすることは一切ない。
それでは、何故、駿台女性について延々と催眠をかけられたり、言わされたりし続けるのであろうか。矛盾というものではない。
「駿台女性は美人だったから」は写真をみれば分かるが普通である。岡山の女性との比較はやめておくが見れば分かる。きたない。催眠をつかって、文書を書く直前に印象をよく思わされたり、美形だから…の印象操作を他人をつかってやらすとは…。
それ以上にしつこい。まさに暴力団の因縁の如しと感じることが多い。しかし、「ヤクザの風上にもおけない」という諺もあるが、それにすら反している。

何故、(催眠熱とはいえども)熱を本格的にあげさせられた岡山の女性についてはその後は一切問われず、(催眠熱でも)一人しかあげておらず、更に、駿台外では会っていない駿台女性を優遇するのか。平等に反するし、事実に反するといつも怒っている。

写真を全部掲載できれば…何もかも分かる。
なお、岡山の予備校女性への熱は、私の父の後輩であったベネッセ創始者・福武哲彦氏が死亡した(1915年 – 1986年4月26日)後で起こされている。さすがに催眠熱のため、福武哲彦氏もスナックなどで共にしたため気が引けたのであろうか。ただし、この死亡も事実か否かは不明である。

なお、催眠の証拠の一つとして、ヨシダさん等が福武書店(ベネッセ)に異動したときには息子の福武総一郎氏(現在ニュージーランドに在住・ベネッセの事実上のオーナー)が恋でもしたかと思わされる始末であった。彼が氏福武 總一郎(ふくたけ そういちろう、1945年12月14日 – )には副社長であった1984年か85年頃に事務長か校長かどちらかから何かの席で紹介されたと思う。彼が40歳前後のときであり、私も彼も若いときであった。


こうして、多数教科担当(東大合格者毎年1500名の職場での政経・日本史、大学校での英語)、岡山市、倉敷市(正確には広島の福山市にも近い新倉敷駅界隈)、大阪、(岡山県北)美作と飛び回り、更に駿台、ベネッセとものすごい模試を抱えた上に、幾つもの業務妨害、更にには女性二人に熱という状況で、始めて教える日本史…での苦闘を物語としたようである。
なお、岡山の女性職員とも、デートも何もしたことはない。これまた駿台職員と同様である。

なお、1983年頃~87年度は異常に女性が登場したと以前書いたが間違いであった。映画説の関係からか、昔から膨大な女性は登場していた。違いは、駿台講師時代は、女性が歌舞伎役者型で私に気があるのかと思わされたり、そのような芝居をしたりした上に、催眠がきつかっただけである。
大学時代でもものすごい女性が登場したが、全く覚えていないし、女性問題などは一切なかった。その上、大学時代などは何度も、今考えれば何人もの女性とデートもしている。だが、全く女性などは登場しなかったと錯覚をしていた。

デートとは、私が決死の覚悟で誘っていくものと思っていたからであろうか。大学時代のは、「泳ぎに行こう」「大阪城に行こう」「奈良に行こう」…と誘われたので行ったのであり、デートではなかったと思っていた。相手が「デートで奈良に行こう」と言ってくれればデートとして認識をしたが、「奈良に行こう」「泳ぎにいこう」といわれれば、泳ぎにいったのであり、デートを[市歌とは思えない。それではその女性達に関心がなかったかと言えば、催眠熱だったかもしれないが、何度も熱をあげている。

ただし、巧妙な手口で、熱をあげる前後をねらっており、熱をあげる最中ではない。なお、奈良…については丁寧には書かないが、書けば残酷物語であった。サゾ👩、🎎お嬢と言った理由も分かろう。こうした実態を伴う女性は何人もいる。ただし、彼女らとは良い思い出でもあり、双方、未だに友好的感情を持っているという自信はある。何人かは結婚式の招待状もくれた。手紙でのやりとりも何人とも長期おこなってもいた。異性を除いても人間関係としての友情は残っている。

駿台講師時代は、真逆であり一度も駿台外ではあっていないし、デートどころかまともにも会話をしていない。多くの女性が次から次へと登場したのは駿台時代以前であり、駿台時代は催眠のみで、女性は一人も登場していないのが事実である。例外は教え子類のみである。あとは蜃気楼(しんきろう)と同様に実態のないものでしかない。

次から次へどんどんと女性登場は駿台時代も関学時代も別の時代も同様であるが、トラブルなどは一切なかった。駿台のみが歌舞伎役者演技とか多様な形や完璧な好きな振り演技のため目立ったのであろう(そのように錯覚させられたのでしかない)。他は自然な形態のため何とも思っていなかった。30年以上経ってから、「あれはデート」かと思ったのが全てである。次から次へと女性が登場したのは駿台時代以前であり、駿台時代は客観的には女性は一人も登場していないのが事実である。催眠での妄想でしかない。教え子以外の唯一の女性が🛵おじょう・タナカである。これのみが唯一の例外であった。もう一人いた。駿台辞職直前に登場したユアサという女性である。ただし、彼女はきっちり精神的距離をとり、心理的に私が心底近づけないようにしていた。今考えると、彼女は最後のデートのときに、お寺の話ばかりをしていたため、お嬢類の化身かと思う始末である。


あらゆる意味で駿台は狂っていたというよりも、駿台CMエゴ丸出しであった。若しくは後に記す謀略・工作のため、延々と理屈づけをしたのであろう。

なお、岡山の予備校女性は福武哲彦氏に依頼されて工作を開始したのならば、駿台女性は山﨑春之氏に依頼されての猿芝居と分析される。もし、岡山の予備校女性が全貌を語れば、芋づる式に駿台女性の工作も判明しよう。
しかし、私は授業に行ったのであり、駿台女性とドタバタ劇をするために駿台に行ったのではない。駿台が絡んでいる以上、当然、契約外労働、強制労働…となり、その分の賃金も代価も支払われていないとなる。


こうして、多数教科担当(東大合格者毎年1500名の職場での政経・日本史、大学校での英語)、岡山市、倉敷市、大阪、美作と飛び回り、更に駿台、ベネッセとものすごい模試を抱えた上に、幾つもの妨害、更にには女性二人に熱という状況で、始めて教える日本史…での苦闘を物語としたようである。
なお、岡山の女性職員とも、デートも何もしたことはない。これまた駿台職員と同様である。

その上で、女性問題?を絡められた。「ちょっと Just  待って Moment」。それ何。女性問題。

女性問題と言えば、我が家界隈でも20年近く女性問題が。Z家の👴(老婆)から始まり…後は書くまい。

女性問題など、私にある訳がなかろう。アホかとなる。(ただし、正確な女性問題とは、被害者がいることを指す。だが、私はそうした高尚な次元抜きであるわけなかろう。人を見るにはその人の親友を見ればわかる。私の親友の代表人である、柔道・空手両有段者、それも両方初段🤣…を見れば分かろう)。

同時に、駿台辞職後は職場類では女性は一切登場していない。あとは、テレビの世界の西田ひかると、🎃オジョウ(なお、🎃はハロウィーンを意味するシンボルであるが正にその通り)のみである。単なる、話題提供の一種として時期限定で捏造されただけである。横家幸子とゴトウとの会話開始のきっかけは正に歌舞伎役者の世界であった。

西山美千代が怯える→横家とゴトウが二人で順番に私の顔を「ジー」とのぞき込み、二人で顔を合わせて大きく首をひねる。「いよー、はっと」歌舞伎役者が目を大きく見開き、首を大きくひねる…。その繰り返しであった。今ならば完全無視であるが、当時は現実の世のみ、催眠や工作、謀略のない世界のみ考えていたため、これでは不審人物扱いされるため、私という人物をしってもらうため、口をきかざるを得なくなる。これが西山に手紙をだした後である。それまで、この二人とは口も聞いた覚えはない。顔は横家などは、全く覚えてもいなかった。

駿台経営人らに示された脚本通りの演技だったとしか思えない。

完璧な、歌舞伎役者の演技であった。

同じことが、ポリテクカレッジ岡山の1997年度である。私が横山さんのプリント印刷を手伝うかどうかをめぐって、森脇課長と横山さんのにらみあいである。、歌舞伎の芝居としか思えなかった。「いよー、パッパッ」の世界である。茶番劇にもほどがあった。それでは、ポリテクカレッジ岡山での演技を命じたのは誰だったのだろうか。所管のトップである労働省の官僚であろうか。それとも、雇用促進事業団経営陣であろうか。

一個人ではなく、駿台もポリテクカレッジ岡山も学校ぐるみでの茶番劇であったといいきって良い。味方も敵もなく、学校側が、先に私の味方役と適役を準備して、事前にシナリオに従い演技をしたのであろう。私はそうした労働契約をしていない以上、完全な強制労働・貢ぎ労働・奴隷労働でしかなかった。

この攻撃が開始するのが1986年度であるが、先手を打つが如く、1986年4月26日に(一緒に何度かスナックに誘われた)福武哲彦氏が死亡する。なお、次年度は女性の絡みがなくなるかわりに駿台での業務妨害・授業妨害と刑事犯罪被害が激化していく。

ちなみに、攻撃の前には通常は二つの事が強調される。一つは人間違いを暗示するため、二人の浜田、もう一つは映画説を暗示する語句「シンガポール」などでである。

倉敷英数学館では二人の浜田が存在した。倉敷にあるポリテクカレッジ岡山で、世取山清課長による大労基法違反被害のときも二人の浜田が強調されると、同時に、世取山氏はしきりに「シンガポール」に前年か数年前に派遣されていたことを強調していた。この予備校はこの年に岡山学院との合併を決定して、この丁度10年後の1996年に「 シンガポールより教育代表団訪問」がある。

私の本格的な海外進出は1989年夏のシンガポールである。次が91年グアム、95年タイ、2013年中国、韓国、2015年米国と続く。

なお、(駿台辞職時の大滝部長の三年後にもどってきてくださいを宛てに)駿台復帰の打診に行ったのが1990年である。次に旧友とも言えるマハティール氏と対談したのが2000年前半である。

2015年は言うまでもなく、私の訪米の年である。

今や、私の名は日本よりも世界で有名かもしれない。駿台が誠意ある対応をとらぬときには、世界に向けて不買運動を呼びかけることを検討する必要があろう。

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駿台予備校では1992年(平成4年)、シンガポールに初の海外校をオープンしました。これは現地のシンガポール日本人会に所属する同校OBのリクエストに応えた物だったそうです。続いて中国で1994年(平成6年)に駿台香港校、2003年(平成15年)に駿台上海校をオープン。2005年(平成17年)にはマレーシア、米国・デトロイト、2007年(平成19年)に中国・浦東、2010年(平成22年)にタイ・バンコク、2013年(平成25年)にインドネシア・ジャカルタ、2014年(平成26年)に台湾・台北、2015年(平成27年)2月には米国のニューヨークとニュージャージーで海外校を徐々に開設していきます。いずれも現地在住で日本へ帰国予定がある日本人が主な対象。日本の大学合格を目指す生徒たちに、海外での受験勉強をサポートするのが主な目的です。
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2015年(平成27年)2月には米国内に駿台予備校が2校オープンしました。このように日本の大手進学塾・予備校が、海外諸国で校舎を開設する動きが増えています。教育熱心な海外諸国では現地の予備校がすでにある国も多いなか、なぜ日本の各進学塾・予備校は海外へ進出するのでしょうか。また、日本発の各校は現地でどのような役割を果たしているのでしょうか。どんなことが学べるのでしょうか。これらの点に注目し、具体例を挙げながら、進学塾・予備校の海外展開について概要をまとめました。

スタディピア
https://www.homemate-research.com/useful/22623_cram_023/

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ともかく、偶然ではない形で、正確には契約違反を隠蔽しながら、超多忙な日々を創設されていく。その上で、何が何でも失敗させるという駿台の方針が明確にでていた。

恐らく、私が駿台の教壇に立ったときから、場合によれば駿台の試験を受けたときから、計画のほぼ全貌がきまっていたと想像される。

次に、ポリテクカレッジ岡山専任のために駿台辞職願い(1983年秋頃)を提出するときの話を記す。

総6・多数の教科持ち
2019/5/2 求め・駿台 補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

 

 

 

 



(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦

ちなみに、私は一定の時期からは、山田洋次型多数作品づくりではなく、黒澤明型のこだわり作品を心ゆくまで時間をかけて作るタイプであった。

そこで、担当教科数は少ない方がよい。その上で金銭を確保するため、担当授業数はかなり必要となってくる。要するに担当は一教科で、その上でその授業のリピートが多い方が良いであった。

そして、駿台とは1984年晩秋頃に、その種の契約をしていた。ところが、🎬説の話題提供の関係から契約違反をされることになる。

具体的な契約内容は、「駿台は三年間は政経のみで生活保障をする。その代わりに、岡山中学・高校の専任の件は三年間は行かない」であった。そこで、私はその契約を遵守することにした。契約は当時の関西地区最高責任者大滝満夫部長、深見係長、川端三郎先生(駿台京都校校長)と私との間で締結されていた。

大滝部長「三年間は何があっても生活保障をする。」川端三郎京都校校長「駿台ならば、学校と異なり、政経だけで生活できる。高校の教壇では何を担当させられるか不明だ。そこで、駿台に残るということで手を打たないか」と大滝部長の前で言われた。その後で、深見係長に、政経の受講者が激減したならばどうなるのかと尋ねた。

深見係長「その場合にはクラスを二分割してでも、生活保障はします」であった。深見氏の言動のときには大滝部長や川端先生がいたか・どうかは記憶は定かではない。

ようするに、1985~87年度までは政経一本での生活保障という契約があった。そこで、多数の教科持ちをすることは本来はなかったのである。

それを次の形でご破算とされた。

1985年冬頃、トイレに行くと、突如大滝部長が入ってきた。

契約があるため、心配する必要はなかったが、次年度のことを聞くと、「政経・現社は大きく減少…場合によれば週3齣もありえます」。

週3齣とは年収で言えば、百万円程度となる。これでは大変ということで、駿台が経営している現役中学生向けの学校(当時は何故かベネッセを連想させる名前であった記憶がある。進研ジュニアか何か。それとも現在のフロンティアであろうか。駿台大阪校内にもあった所で)英語を担当するか、それとも駿台で日本史を担当するかと迷う。

1986年4月まで間がないので、頭が混乱して、判断がつかなくなる。英語は苦手でも需要が大きいし、中学生や高校低学年相手ならば何とかなろう。他方、日本史は全く知らぬが、近現代史には興味があるし、駿台の日本史教師層がガタガタのため、三年間あれば相当目立つようになる。どちらをとるかであった。尚、全く知らぬと言っても、学問の裾野の関係で日本史にも関連する書物は六段換算の本立てで3つ程度はある。(最高時は、全文献・資料の諸有料は六段本立て換算で50以上所有していた。我が家が大きいのが幸いしたが、それでも満員電車の立ち見席型の部屋もある。)

判断がつかず、占い師で決めた。占い師は早大卒と言っていた。人の訳に立つため占い師となったと。結果は「日本史」と。それで「日本史」となった。この頃はポリテクカレッジ岡山の教壇で英語を教えて3年目であるが、それも中学生や現役高校生相手でも英語と言わなかったのは、英語教師に潰される危険や、余り得意ではなかったからである。ポリテクカレッジ岡山では「法律学」「経済学」担当での打診から、専任を前提として英語を担当したのである。専任が嘘であった以上、詐欺にひっかかったのである。私は英語ができるか(達者か)と聞かれて、「Yes」と回答したことはただの一度もない。なお、2013年頃からMr.オバマを英語の(家庭)教師としたが、見ての通りである。彼は言うであろう。勉学をしない物が悪い、と。私はするように持って行くのが教師だろう、と。

【資料:ポリテクカレッジ岡山で騙された話】

本来は、政経一本で三年間の生活保障契約があるため、それを遵守しろでよかったのであるが、トイレの途中での会話(下品な用語では並びションベンでの会話)のため丁寧には聞けなかった。過去、大滝部長とトイレで出会った経験はないため、彼が私がトイレに行くのをみはらかって、日本史誘導を図ったのであろう。

もし、講師室で言えば、川端三郎先生などが、「おい、お前約束が違うぞ」となるか、もしくは、川端三郎先生の面子から、🎬映画説の流れを知っていても、言う義務があるため、トイレを狙ったのであろう。

更に、これでは証拠が残るため、駿台の手を汚さぬため、汚い手をつかってくる。

【1984年晩秋か冬】政経(若しくは政経と現社の倫社部門を除く)一本で三年(1985~87年度の)生活保障確約→【84年末】トイレで他の教師に分からぬように破棄と生活苦の脅し→【84年末か85年初頭】私の方から日本史担当を申し出させる→【85年初頭か】駿台はそれを受諾する→【85年1から2月】私は岡山でも同一の方が良かろうと思い、岡山の予備校にも日本史担当を申し出る→岡山の予備校も受諾→【85年3月】駿台から86年度の授業予定の連絡=聞くと政経・現社のみで11齣程度と待ち時間がかなりある(待ち時間は正規時間の半額の賃金)ためギリギリ生活可能か、一応最低限度の約束を守った形をとる。ただし、正確には政経・(倫社を除く)政経のみで15齣以上の遵守が不可欠であったが、別に日本史が四齣あったように思う。打診してきた深見係長が「もし、日本史を降りられるならば早くいっていただければ可能です」と言う→【同日か翌日慌てて岡山の予備校】で日本史担当を断りに行く→【岡山の予備校着】私がその件を切り出す前に、事務員のカタオカ氏が「先生、もうカリキュラムは組んだので日本史は降りられませんよ」と言う。まだ、私が相談をする前である。どうして、日本史をおりたいということを知っていたのであろうか。こうして岡山の予備校で日本史を降りられないならば、駿台も持たないと教材購入の関係で赤字に近くなるため駿台で日本史を断る予定を中止する。

こうしたやりとりから一ヶ月もせぬ間に駿台日本史の授業が開始する。

明らかに、駿台と岡山の予備校との間で連絡があったとしか思えなかった。まだ、駿台ベネッセ模試提携前の話である。

トイレの中の会話を秘密とすれば、駿台は一応の約束を守った後で、私の方から三年政経一本での確約を変更したとなっている。汚いやり方である。これでは「愛情教育」は泣き、詐欺予備校となるであろう。

それでも、私の馬鹿値からではやりきる危険があった。そこで次の手を打ってきた。

更に、びっくりしたのは、担当が日本史の近現代史(明治維新から現代)ではなく、日本史の古代から近世(旧石器時代から江戸時代)となっていた。このように多教科もちを計算しておこなっていた。縄文土器…古墳がどうだこうだ…は政経ではでてこない。近現代史で扱う、第一次世界大戦、ロカルノ条約、高橋是清🆚井上準之助の財政政策などとは違っている。

それでも万一…と思ったか、前年まで関関同立模試しか作製していなかったが、ほぼ全部の駿台模試を作製する依頼が断れぬ形でくる。

だが、まだやりきる危険はあった。何故ならば、私は語学以上に苦手なのが、芸術であり、音楽である。だが、仕事に関連するとなればカメラ・写真でも一定の技術を身につけた。さっぱりわからぬし、興味もない音楽でも、「今月の歌」「世界の歌」「世界音楽祭」などで、一定の演出をしている。

これでは困るということで、女性トラブルをしかけたのであろう。それが先のタキザワとヨシダである。特に後者が精神的に相当こたえることになる。

こうして、話題提供上絶対に失敗させるというシナリオが遂行されていく。これならば視聴率も、駿台のCMにもなる、と。

なお、さらに面白くするため、日本史の参考書の一部が誤記述に変更され、数日後に元にもどされていたという限度をこえた仕打ちであった。

私が駿台に辞表を書き、つぎに出講した日に提出をしようと考えいた。すると【資料★】の如く、アパートを盗聴していたが如く、即座にポリテクカレッジ岡山から電話連絡があり、「1983年度4月からの専任は難しくなったが、必ず専任になれるのでしばらくは非常勤講師できてもらえないか」という内容であった。もし、1982年秋か冬の確約を信じて駿台に辞表をだすと大変なことになっていた。1983年度のポリテクカレッジ岡山の賃金は時給2200円で交通費(往復千円以上に該当)はなしであった。そして週に4齣である。月にすれば、2~3万円程度である。

もしではなく、確実に盗聴か盗撮をしていて慌てたのであろう。勿論、この高柳のアパートは解体をされている。ちなみに駿台真相編―7か8で記すが、駿台斡旋のホテルで寝ている間に何等かの小細工をされ、病気にさせられた。恐らく病原菌をうけつけたと想像している。そのときに処方された薬を駿台辞職前に庭瀬のアパートから落とされている。駿台斡旋のホテルで幾つもの工作を受けていた可能性がある。

その関係か、駿台事件をペーバーで出版社(2007~9年頃)に送付する前頃に駿台横にあったニュー京都ホテルが解体される。これを電子書籍化を図るころか、それとも先の内容をまとめて『閉じた窓には日は昇る』として、別の出版社に送付する頃に、駿台大阪校が斡旋していたホテル「東洋ホテル」の閉業が報道され、後に破壊されている。東洋ホテルは少しふれかけると、ラマだホテルに身売りをし、更に原稿を整理しだすと廃業となり、本格的な告発の時期を前に破壊されている。

ちなみに、それを示唆するごとく、私が2015年にアメリカで泊まったラスベガスのホテルは私が日本に戻ってから数ヶ月後に破壊されている。

恐らく、庭瀬のアパートも今は破壊されていると思われる。この原稿が世をにぎあわせれば、その頃に、駿台大阪校か京都校のどちらかが破壊されるかもしれない。証拠隠滅である。

ちなみに、私の生きているうちに、人権を取り戻すか、私の件が国内外で大きく表~クローズアップされるときには、我が家は私の意向にかかわらず、破壊されると想像している。何等かの適当な理由をつけて。最低でも、そうした小細工のあった建物は破壊でなくても、大幅リフォームされることになるであろう。

そのくらいに大がかりな犯罪であった。

同時に、死亡か嘘かは不明であるが、重要な関係者は問題の真相が近づいてくると、「死亡」という形で逃げていく。退職は言うまでもない。

実際に、母が逸死亡かわらない状態となり、このままでは老後破綻・餓死の危険がでてきて、駿台に最後の調査と復職打診を2010年頃に考えた。

丁度その頃に山﨑 春之(やまざき はるゆき、1926年2月4日 – 2010年1月13日)は肺癌で死亡していた。気のせいではないと言わんばかりに、春之氏の息子・山﨑善久(やまざき よしひさ、1967年7月22日- 2017年8月12日:学校法人駿河台大学理事長)も50歳の若さで肺癌で死亡となっている。

先の如く、各職場の連携が行われていた。最近疑っているのは、駿台は賠償責任を減らすために、ポリテクカレッジ岡山をつかったのではないかという疑惑である。

理論上は次のようになる。

駿台の犯罪で私の生活が破壊されたならば、駿台は、慰謝料のみか、逸失利益を元にした賠償責任を負う。

すると大変な金額となる。

【資料】

そこで、ポリテクカレッジ岡山の職場に私をいかせて、専任の本命はポリテクカレッジ岡山としておけば、駿台の賠償責任は慰謝料と一部の損害賠償ですむ。何故ならば、駿台の教壇にたつときに、当時の責任者矢田部長は「専任は可能というよりも、その確率の方が高い」と明言していた。勿論、非常勤講師でも30歳から80歳まで教壇にたつと大きな金額となる。専任ならば所得換算で当時の相場で退職金や各種印税も含めれば約10億円以上(表三郎氏クラスならば20億円以上であろうか)、非常勤でもその半額程度となる。所得ではなく、収入となるとさらに増大する。

それ慰謝料や医療費も必要である。また厚生年金と国民年金の差額問題もある。

そこで、ポリテクカレッジ岡山を専任の本命とする必要があったのではないかという疑念である。ポリテクカレッジ岡山も専任での賠償となると困るので、非常勤講師とするために、岡山中学・高校専任をもってきたのではなかろうか。あるいは、それらすべてを駿台経営陣が企てた疑念である。

私への招聘形態をみてみよう。

ポリテクカレッジ岡山=「法学」「経済学」担当・非常勤講師という話であり、門前払いと考えたが、嶋坂先生から「話だけ聞きにいってくれ…」で彼の顔をたてて話を聞いて断って帰るつもりでいった。

結論=非常勤講師ではなく「専任」、専任の時期は次年度の4月から(交渉の半年後)、教科は専任になるため「法学」「経済学」以外にも「英書講読」も…。

岡山中学・高校=非常勤講師ではなく「専任」、専任の時期は次年度の4月から(交渉の半年後)、教科は将来は「社会科」であるが当面は仮免で「国語」担当を。

私が苦手なのが語学系統である。

結果、ポリテクカレッジ岡山は結婚詐欺型で引き延ばし、勤務15年後に森脇課長が「専任、君、そんなものなれる訳がないだろう」「第一、君を首にするのも簡単なのだ」であった。それまでは嶋坂先生などから、嶋坂先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回も聞いてもいた。主要な職員間でも私の専任は周知事項であった。

岡山中学・高校の方は、行く気はなく、時期を見て断ろうと思っていた。だが、きまずいためお断りの連絡が延び延びとなってい。

そんなある日に、福武書店系列の、岡山の予備校に行くと、驚いた。岡山中学・高校の桐山校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。今度は、(岡山中学・高校の)校長となったため態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。「君には悪いことをした。君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。

流れから言えば、私が断っていれば、ポリテクカレッジ岡山のために断ったとなり、ポリテクカレッジ岡山の賠償責任は重くなる。そこで、私は岡山中学・高校に専任にいくため、ポリテクカレッジ岡山の専任は放棄していたということにする疑惑があった。そのために、桐山校長は私が詫びる前に、逆に彼の方が私に詫びたのである。こうすれば、私がことわったのではなく、桐山校長の方が断ったのであり、私はポリテクカレッジ岡山の専任契約を一端破棄したという状況となる。

私が最近思うには、これらの筋書きはすべて、駿台が絡んでいるのではないかと想像するのである。

そこで、ポリテクカレッジ岡山に行ったときには、「山﨑」という名が何度も強調されていたのではなかろうか。

【関連資料―1:ポリテクカレッジ岡山招聘の経緯】

【関連資料―2:岡山中学・高校専任招聘の経緯と破談の経緯】

【関連資料―3:多教科持ちと、駿台の契約違反を岡山の予備校との連携で隠蔽した疑惑】

【関連資料―1:ポリテクカレッジ岡山招聘の経緯】

【1982年、悪魔のささやき】
1982年は駿台(政経)、岡山の予備校(政経・倫社)、福武模試監修、岡山の予備校関連の寮などで教える…となった。駿台は、まだ私の観察期間のため、週二日(三コマ六時間程度)であり、こうした掛け持ちとなる。
ところが、駿台でやり甲斐(がい)があるのみか、駿台での私の評価もあがっていった。同時に、思っていた以上に駿台での教材研究はものすごい時間をとられた。そこで、授業への責任上、仕事を減らす方向に入った。まず、寮関係を辞める。次に、岡山の予備校の倫社関連をやめようとした。かなり評判が良かったようで、当時の校長から相当引き留められたが、次年度から辞めると押し通した。相当気まずくなった。

ところが、整理しているはずが、相棒のS先生(京大で博士号取得、湯川秀樹博士の授業も受け、奈良女子大などでも教壇に立っていた、私よりも二十才ほど年上の教師)から、労働省系大学が新設されるので、一つ話だけでも聞きに行ってくれという打診があった。私は当時は喧嘩をしてでも、仕事を減らしていたときである。その上、次年度(1983年度)からは、駿台の授業担当数も大きく増えると部長から聞いてもいた。コマ数は17コマ前後と。1983年度からは、実際に、月曜から木曜が授業、金曜日は質問日で月曜から金曜まで京都のホテル住まいとなった。

駿台という舞台で政経を教えるのは、私に大変マッチした。生き甲斐があった。ここで人生の勝負はあった。後は伴侶をえて、毎週三日温水プール、それ以外は授業準備だけ、…そして老後という、私にとって最高の人生となっていた。私にすれば理想であるが、ドラマとすれば大変平凡な物語となったであろう。そこで、悪魔のささやきが始まる。

岡山の予備校で校長に引き留められても減らしているときに、新しい仕事を持つ訳がない。ちなみに、減らそうとした岡山の予備校の単価は60分で五千円台か六千円台である。(駿台はそれよりも高い。)交通費などは当然支給される。他方、労働省系列大学は当時50分二千円か二千二百である。その上、百キロ未満は交通費なしという。担当教科は「前期法学、後期経済学」である。

こうした教科の準備は大変であり、即断ろうかと思ったが、相棒S先生が「浜田、確かに良い口ではない。しかし、駿台は所詮予備校であり、他の大学の教壇に立つには、労働省系大学の方がよい。ともかく、話を聞くだけ聞きに行ってくれないか」。
私は駿台でやり甲斐をみつけており、行く気はなかったが、ともかく話だけを聞きにいくことにした。
そしてお断りして帰る予定でいた。
ところが、行くと、「非常勤講師ではなく専任できてほしい」。
だが、当てになるだろうか。S先生は、この学校は労働省系の大学校で、重要な根幹は衆議院・参議院を通して決める学校だ…(だから心配ない)と言われていたが、駿台などで居心地がよく、辞めたくなかった。しかも、S先生の言動を疑う訳ではないが、もし、御破算になることをも警戒した。駿台に辞表を出した後で、御破算になれば路頭に迷うからである。

そこで、私が聞いた。
「専任と言うのはいつからですか」
当時の前身高等岡山職業訓練学校校長(ポリテクカレッジ設立後の初代副校長)が、「次年度(1983年度)春からです」。ということは、半年後くらいから即専任ということである。半年後ならば間違いはなかろう。
我が家の実家は岡山県、更に、私も安定した道の方が将来楽だろうと、考えていくことにした。
校長が言うには「法学と経済学だけでは無理なので英語も担当してほしい。そうすれば間違いない。一般教科の専任は二人で、一人はM先生が数学と▼▼を担当し、もう一人が浜田先生で英書購読(五クラスで五齣。ところが実際には二コマであった。後に五齣にすると言っていたが)と法学・経済学担当…ということで」で話がついた。

英語と言っても英書購読である。
こうして、教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。

日本史 2019/01/11
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1054/

下記の方が分かり易いかもしれない。

関連資料―1’

【】

(安らぎBlog)2023/08/31公開

『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(5)私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠🆕

http://h-takamasa.com/Blog/?p=30350

《◎―2・英語を担当したいきさつ》

それでは英語の授業を何故担当したのか。
先の社会科の教師と同様で貧乏籤(くじ)を引いたと言いたいが、そうではなく騙(だま)されたのである。

(私の能開大への招聘窓口であった)嶋坂逸郎先生(京大で博士号取得:京都外大・甲南大・奈良女子大等等の講師歴任)から、ポリテクカレッジ岡山の話を聞きにいってほしいと頼まれた。
「話だけでも良いのでききにいってほしい。担当は法律学と経済学である」と言われた。

その頃、私は駿台予備学校で軌道にのりつつあり、余分な仕事を減らしている時期であった。岡山の予備校でも「倫社」の授業を校長と揉(も)めながらでも辞めさせて貰っていた。
岡山の予備校の寮での英語も手をひかせてもらっていた。ここが重要、岡山の予備校(寮)でも英語をやめ、政経一本を目指している1982年に、やめるはずの英語を岡山短大から持ってくれであり非常勤講師ならば英語は断る。

証拠とすれば岡山の寮の英語担当の方がポリテクカレッジ岡山の賃金よりも高いのだからである。後者は50分2200円引く交通費である。交通費は百キロ未満はゼロとなっていた。英語や倫社の授業をやめているときに英語を持つなどは専任条件以外ではありえない。その上、語学は余り得意ではなかった。本来格闘技を除けば文系型ではなく理系型の人間である。
後の業務妨害の嵐のときとは異なり、当時は引く手あまたになりつつあった時でもあった。

その後は更に多忙となると同時に、翌年度(1983年度)の目処(メド)もたち(駿台で授業数が増えると1982年後半にその確約を受け)、更に政経と無関係な教科の整理に入っていた時期である。その1982年にポリテクカレッジ岡山で、だまされて英語を持つ約束をさせられたのである

日本史などの担当は駿台ではトイレで騙(だま)された1986年以降であり、ポリテクカレッジ岡山の教壇に立った1983年頃は全く逆であった。
因(ちな)みに、この頃の駿台の単価が50分7千円~7500円(休日は半額保証、交通費はグリーン車、ホテルは駿台が手配、駿台辞職年1987年度は50分9000円、夏期・冬期講習はその1.5倍)、岡山の予備校は60分5000円くらいか(交通費は実費)、ポリテクカレッジ岡山は50分2200円(百キロ未満は交通費は支給しない、夏休み・冬休み・休日などは賃金はゼロ円)である。


次のTwitter参照。

☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada 1月7日
23-007-13【嘘】
#安倍晋三 様は #学歴コンプレックス が強い、
英語を道具と見ず学力所が人間の優劣と錯覚。
そこで🤡に語学挑発🙄

🤡今、中学生に数学を教えたいか☹
英語も同様で1982年手を引いていると能開大で是非専任にそのために英語も…と騙され…経緯を近々書く。
86=政現英歴模😭
真逆😡

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611684214294085633?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆

(Twitterがポップしていない場合には上のリンクをclick。他も同様)


☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada1月7日
23-007-14【😡】
解説
1986年担当=政経・現社・英語・日本史・
#駿台模試 作成✒、#進研模試 監修😭
更に法律学・経済学の危険…
大阪・美作・岡山・倉敷と巡回&Trouble。

好き嫌いの前に減らしたいに決まってるだろ。
能開大/是非専任で…次年度から3駒/駿台…と全部騙され…上記の羽目に。
真逆😡

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611687716865052673?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆



そこで、嶋坂先生の顔を立てて話だけ聞いて、断って帰る予定で行った。
今考えると、その情報が学校に伝わっていたのだろう。
雇用促進事業団職員5000人の生活が、極論すれば、世界のMr. Hamadaにかかっているという状況であろうか。
ポリテクカレッジ岡山のみではなく、同学校群28校若しくは30校の命運である。

すると相手(※1)は奇策にでた。

(※1)対応したのは数人いたが中心人物は森本茂樹氏であった。森本氏は雇用促進事業団運営の岡山職業訓練短期大学校開設準備室室長であった。短期大学校創設時の初代副校長であり、森本氏がが主として私を専任確約で招聘した人物である。校長は約三年おき交代の天下りの飾りである。


私:「経済学と法律学ですね。待遇は非常勤講師ですね」
担当者(森本氏等)「いえ、先生には専任でお願いしたと思います。
私「いつから専任ですか」
担当者「次年度の春からです」
ということは、この会談の後の半年後くらいである。
それならば嘘はなかろう。
ましてや、学校の輪郭は衆議院と参議院を通して決まる、いわば労働省系大学である。
しかも場所は岡山県である。
我が家から通えないこともない。
そこを見越してか担当者が一気に押してきた。

担当者(森本氏等)「しかし、法律学と経済学のみでは専任になるには時間数不足です。先生は英書購読の授業を担当できないですか

私に英語の能力があるかと聞かれれば、不幸は起こらなかった。「余りないです」と言ったからである。英語の授業を担当できるかと聞かれれば、能開大の学生よりは英語はできるし、さらに、私の英語力ではなく、学生に英語に興味を持たせばよいとなれば更にできるであろう。
野球を例にすれば分かる。
星野仙一氏の恩師・明治大学野球部の島岡監督は野球の経験がない。だが、多くの有名選手(秋山登、土井淳、近藤和彦、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩…)を育てた。

(※2)島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 – 1989年4月11日)。
 応援団出身・野球未経験の島岡の就任は驚天動地であり…、野球の監督ながら島岡はノックが苦手だった。明治高校の監督として1951年春の第23回選抜高等学校野球大会に出場し、(阪神甲子園球場近くの)甲陽学院グラウンドで練習を行った際、偶然居合わせた同大会に出場する和歌山県立新宮高等学校の古角俊郎監督(明治大学硬式野球部のOB)に「(俺の)代わりにノックをやってくれ」と依頼し、古角が明治高校ナインにノックを行ったエピソードが残っている。
……
37年間にわたって明治大学野球部の指導的立場に就き、東京六大学リーグ戦優勝15回、全日本大学野球選手権大会優勝5回、明治神宮野球大会優勝2回、日本代表チームの監督も務め日米大学野球選手権大会優勝2回の記録を残した。
以上『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋。


教師というものは、自分ができるかどうかではない。学生・生徒ができるようになればよいのである。私が英語が出来ても仕方がない。生徒・学生が英語に興味をもてばよいのである。
アンサリバン女史も当初は英語は余りできないが、ヘレンケラーの教師としては有能であり奇跡の仕事をなす中で英語も身に付けていった。彼女は中学の頃は英語の読み書きはできなかった。

私は今、「世界の歌」なるものをHPで行っている。だが、私に音楽など分かるはずがなかろう。音楽には興味もなければ関心も余りない。才能もあるわけもない。だが、今、世界の音楽界をリードしているときもある。

語学も同様である。
私に語学の能力があるかときかれれば、その後の不幸はなかった。会談決裂でこの学校での後の詐欺や労基法違反の嵐にも遭(あ)わなかったであろう。
「担当できるか」と聞かれれば、正直な私は担当できるので担当できると回答した。
丁度先の社会科の教師が英語を担当するのと同様である。

私に専任招聘の話があった頃は、仕事で余分な物を捨てて、駿台などの政治経済一本を目指していたため、倫社などを断っていた時期である。(他の予備校や高校などの非常勤講師では、担当した日数が、駿台での授業担当時間数拡大の制約になるからである。例外は大学教授の道がある場合のみである。)
だが、準国立、岡山県の学校で専任確定という詐欺(さぎ)にひっかかったのである


《◎―3・専任契約維持のため代役捜しを自腹でする羽目に》(2023/08/31追記箇所)

だから、私が英語が余りできないにも拘(かか)わらず、英語を担当させられたと正直に言った方が物事は早く解決する。私が英語ができて、更に、英語をやりたくて英語をもたせてくれと言ったのではない。余り英語ができない私が英語を持つ羽目となったのは学校側の都合(私のCM利用)のためである証拠となる。

ちなみに、専任確約を再度確かめるため、後に私は正直に聞いたことがある(岡短2年目の1984年秋のことだと思う。対談者は先の森本氏)。
「専任になるときに試験があるのではないですか。英語の試験もあるのでしょう」
試験があれば通る訳がない。多分。
すると森本初代副校長(開設準備室長)は明言した。
「それは大丈夫です。先生の場合には経緯から言って、試験を受けるだけで大丈夫です」
私が余り英語ができないので念押しをすると
「大丈夫です。形式的に受けるだけで問題はありません」であった。

こうして英語を担当することになった。しかも当時(1983年度)は英会話などなく、英書購読一本であった。英会話は1989年度から突如入った記憶がある。

…………


学校が、私を獲得するために専任の付録としてでた言葉が英語だったのであり、私も話を聞くまで私が英語を担当するなどは夢にも思っていなかった。青天の霹靂(へきれき)であった。


ところで、駿台などで英語を教えられるか。
二条件を前提にすれば可能である。
テキストは私がつくったもののみとすること。
質問は私が作ったテキスト以外では私にしないこと。
入試問題についての質問をしてこないこと。
この三つが揃えば、今でも遅くとも二年後か三年後にはスーパースターとなるであろう。

再度言えば、明治大学の島岡監督は野球経験なしで、野球の有名選手を山ほど育てた。
英語教師を例にすれば、生徒や父兄の本心は、先生が英語ができるか・どうかではなく、自分が、自分の子供が英語ができるようにしてくれである。
非常に単純な話である。
だが、今の私はそんな馬鹿な世界に構う暇はない

だから、超多忙な私は授業を減らすのに専念していた時期にポリテクカレッジ岡山に行くことになったのは騙(だま)されたからである。
専任前提できてくれ」という言葉に。
後には「うちは給料は安いかもしれませんが、福利厚生が充実していますし、何よりも年金は国民年金ではありません」という殺し文句に。

暫(しば)くして駿台に辞表を書きかけると(1982年晩秋以降と思う)、盗撮されていた如くに、即ポリテクカレッジ岡山から電話があった。
「来年度(1983年度)の春からの専任の件ですが、(中曽根)行財政改革の関係で少し延びます。来年度の春からは無理となりました。しかし、先生の専任は大丈夫です。またそのための最大限の努力はしますので、暫くは非常勤講師ですが来年春からお願いします」であった。

その後の経緯は拙著『恐るべき労基法違反』に詳細に書いている。

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『恐るべき労基法違反』PDF配布箇所は下記アドレス
→長いため、幾つかに分散して配布中
http://www.h-takamasa.com/rensai/custom.html
呼びかけ文のPDFは下記。

http://hamatakachan.uh-oh.jp/wp-content/uploads/2016/06/778e505109f7c341df4a77b1ccb6c568.pdf

共に、次年度(2024年度)には、教職員を全て実名化することを検討中である。同時に新たに分かった事実を付け加える予定でいる。
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ちなみに1999年度からポリテクカレッジ岡山などは短大から4年生への移行の年であった。
通常ならば遅いがここで専任のはずであった。
すると、1997年度にSYの名を語った偽学生登場と、労基法違反ゲームに没頭した森脇一雄課長登場となる。

森脇氏の一言がきいた。
私が専任確約でこの短大にきていると言ったときに、彼は言った「専任、君、そんなものなれる訳がないだろう。第一、君を首にすることも簡単なんだよ」と。
1997年4~6月の間のことである。
ここから、私は専任詐欺(最初から専任にする気がないのに、嘘を言って、雇用促進事業団・雇用能力開発機構の職場に閉じ込めた)疑惑である。労働省・厚労省所管のため同省の監禁・強制・貢ぎ労働被害に該当する。何故ならば、当時は雇用促進事業団の理事は労働省幹部の天下り先だったからである。この学校グループの理事長は当時は労働省事務次官の天下り指定席であった。

詳細なメモは当時の日々日程表に記載しているはずである。具体的な日付は特定可能である。
なお、その数年前に、私をこの短大に招聘した嶋坂敬郎先生は「浜田、心配せんでもよい。この学校でいずれ専任になれるがな。お前の専任確約はテープにとって金庫に保存してある」と言っていた。これらは1998年頃から随所に書いている。

もし嘘ならば詐欺罪が成立する。衆議院・参議院を通して決まる学校で、最初から専任にする気がないのに専任で人をスカウトしていれば詐欺罪である。動機は、ポリテクカレッジ群、雇用促進事業団のCM目的と分析される。

……

【関連資料―2:岡山中学・高校専任招聘の経緯と破談の経緯】

【1983年度】
1983年になると、恰(あたか)も専任詐欺もみ消し事件が起こる。
岡山短大と全く同じパターンで、灘高校を目指していた、岡山中学の校長から電話が入る。
「専任になってほしいので、少し話を聞きにきてくれ」、と。
行くと、桐山校長が「来年春から、専任できてくれ。担当は中学校の国語だ」。
私「免許は社会科のため、教壇にたつとしても社会科で」
校長「それは心配しなくてもよい。(仮免か何かで)対応できるし、一定の時期には社会科に移ってもらう」、と。
突然の話の上に、この頃は引く手あまたであり、この学校の労働条件が余りよく見えなかった。1981年と83年では全く状況は違っていた。

駿台も大変居心地がよくなっていた。
それよりも、岡山短大との専任契約がある。
同じ専任で、しかも両方とも地元・岡山県ならば、短大・大学校の方が楽である。
しかし、何か勘違いをしているようで、「お前(若しくは)、君、来る(だろう)な(=来るだろう=来なさい)」と一方的であり、私の返答もできない状態にあった。

しかも、筋問題から、専任確約の岡山短大などと相談しなければならない。
どうも、桐山校長は、私を教員浪人で(1981年頃と同様に1983年頃でも)相当困った状態にあると勘違いしたのであろう。若しくは灘を目指しているため、もの凄(すご)い学校からオファーしているのだから有り難く思えと勘違いをしている節があった。とにかく一方的であった。

この頃は、労働省系短大に専任確約でおり、駿台には新幹線グリーン車で、ホテル代学校持ちという厚遇、福武書店系列・岡山の予備校でも「いつでも専任」という雰囲気の上に、福武哲彦氏から直(じか)に指名されて、スナックなどに連れて行かれていたときである。模試も、進研模試、駿台模試と日本四大模試の二つまでてがけていた。
おまけに、東京校の駿台文庫の職員から、丁寧な形で接待され、進研模試などについての話を言わされた(企業秘密部分は言っていないし、私は企業秘密は知らない)。後に、これがきっかけでベネッセと駿台の共催模試となる。いわば、この仕掛け人が私に近い。


この頃は、はっきり言えば、岡山中学・高校などは、単なるOne of themであった。しかし、ここでも効いたのが、数か月後から即専任という口説き文句である。
しかし、同一文句は岡山短大で聞いている。
そして、一方的に返答の有無を与えず、帰された。
一体何なのか、と。
このややこしさ。

岡山短大は即専任から暫(しばら)く待って貰(もら)えば確実に専任、岡山中学は即専任も当面中学の国語担当である。
私が一番苦手な教科が国語であり、私に断らすために故意に言ったのではないかと疑う始末であった。私が大学受験で関学を受けたのは当時は珍しい国語抜きで私立大学文系を受験できた唯一の大学だったからである。私が受けた、関学の入試教科は数Ⅰ・数Ⅱ、英語、世界史であった。選択次第で国語がないので関学を受けたことを知った上で、国語で勧誘したとしか今は思えない。当時は今以上に大変国語が苦手であった。
そして駿台は面白いのみではなく、採用に当たって専任は可能と言われていた。しかも場合に寄れば駿台甲府高校ですら不可能ではないと言われていた。

①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。

今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。

話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
深見係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
大滝満夫部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(深見係長のみか後の校長川端三郎先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、大滝部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。
▼▼
岡山短大副校長との会話は以下の通りである。

☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆
【(3)の内容】1983 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
……
(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
☆☆☆☆☆☆
第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆


……

そこで、岡山短大を選んだ。(また、S先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。

今度は、(岡山中学・高校の)校長は態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。

こうして、この福武書店系列の予備校用に良質教師をスカウトする作業を無料で私が行うことになる。
このときにはこの予備校はまだ合併前で、福武書店系列・直営の予備校であった。
国語の教師に駿台でかなり評判の良かったF先生を、河合塾から看板に近いA教師を、駿台で評判がよかった物理のN教師を、名古屋界隈(かいわい)であったか、外国人で英語講師として評判がよかったD先生を相棒のS先生経由で…と。これら交渉のための交通費、通信費は全て自腹である。

だから、この頃、福武総一郎氏(当時福武書店副社長)に桐山予備校校長か、それとも事務長(福武書店社員、後にベネッセに戻る社長室係室長?)などを通じて紹介されたときに、福武総一郎氏はいつも「お世話になっています」と、私に会釈をしていた記憶がある。
この頃は、彼はまだ副社長だったと思う。
哲彦氏が生きていた頃と思う。

福武哲彦氏と私の父の話や、哲彦氏に直(じか)にスナックに誘われた件を除いても、実際に自腹をきり何人もの教師をスカウトさせられていたのである。その代価は一円も請求していないし・もらっていない。
同時に、岡山の予備校は1983年~84年頃は(職員の一部に世話になったため)義理で行っており、経済的には場所問題から必ずしもプラスではなかった。ただし、この頃に関してであり、それ以外の時期ではない。
幾ら社長でも、恩恵なしで、他人に世話になったり、他人の労働力・私財を無料で受け取ったりしていれば「お世話になっています」とかお礼を言うのが当たり前だろうし、そうなっていた。

日本史 2019/01/11
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

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【関連資料―3:多教科持ちと、駿台の契約違反を岡山の予備校との連携で隠蔽した疑惑】

 

第七章・刺客(しかく)の登場・多忙という語の限界を超えた日々(刺客―2)

 確約に関して紹介する。それは、岡山県の(灘高校を目標としていた)学校から専任教諭としての誘いを受けたときに、駿台のH〈深見〉係長にこの件を相談して、駿台から引き留められた際の確約である。
 H係長から「他の予備校に行くなら引き留めますが、(通常の)学校機関の専任ならばじっくり検討された方が良いですよ。何故(なぜ)ならば、駿台の場合には万一優秀な人材が入り続けたならば永久保障とは言えないですから……ともかく、……駿台の教壇に引き続き立つ意思がおありならば……大滝部長に連絡いたします……。大滝部長は浜田先生を助専任(専任前提の講師)にしてもよい、したいという腹はありますので、引き留められた場合には(責任問題などから)部長の方からは切り出せないので、先生の方から助専任の件を切り出された方がよいと思います。……、そのときに(重要なことは)言葉だけでなく一筆書いてもらっておいた方が良いですよ……大滝部長は若くして部長になったような人ですから……」などと部長がいないときにアドバイスを受けた。その後の会談で、引き留めは大滝部長と後に加われた故KW〈川端三郎〉先生(生物担当講師で後の京都校校長)により行われた。このときの会談は以下のものであった。
 大滝部長の引き留め時の言動は、「駿台は先生を必要としています。……もし、駿台におられるならば三年間は(賃金等)保障します。三年後については、先生が授業に一生懸命取り組んでいるかどうかは不明のため、三年後になってみないと何とも言えません……また年齢については英語のKD先生などは七〇歳を超えても活躍されているでしょう」であった。
 同席していたKW先生からは、大滝部長の前で「私立中学や高校では、専門が政経でも何を持たされるか不明であり、そういう意味で、政経だけに専念したいならば、駿台が良いのではないか。駿台なら、政経のみで生活できるので駿台に在籍するということでどうか」という形で引き留められた。要するに、KW先生の言動も合わせると、政経一本で三年間生活保障するということで双方合意した。逆に言えば、他校では、マイナー教科・政経では複数教科持たされる危険があるが、駿台では政経のみで、最低でも三年間は生活保障するという条件を提示する、と明言されたのである。丁(てい)寧(ねい)に授業したいと考えていた私には、これが殺し文句となったといってもよい。
 会談の後で、H係長が私に「先生、あれで良いのですか」と心配して一言(ひとこと)言った。私が助専任の件を切り出さなかった理由は、先の学校から招(しょう)聘(へい)されかけたことのみ話し、本命としていた専任確約のある岡短の話をしなかったためである。一筆を取らなかったのは、会談時に大滝部長以外にKW先生やH係長がいたので大丈夫と油断したからである。なお、その場か後日か忘れたが、念のために「入試難易度問題などで政経受講者が減ったならばどうするか」を聞くと、H係長から「そうした場合には、授業分割をしてでも、賃金保障はする」という趣旨の解説を受けていた。
 要するに、双方の合意として、駿台は政経のみで三年間は私の現行(げんこう)賃金を保障する。その代わりに、先の学校は辞退して駿台に在籍する。そこで、駿台は最低でも一九八四年四月~八七年三月迄(まで)の間はその確約を守る義務があった。具体的には、八四年度同様に政経のみで五〇分授業一七齣(こま)前後の保障義務があった。勿論、私の方も先の学校のみか、岡短でも、その期間のみは専任が決まりかけても、何らかの工夫をし専任を延期する。駿台が確約を遵守(じゅんしゅ)すれば、私が政経以外を担当しても、八六年ではなく八七年か八八年からとなり、それまでじっくり準備をする時間ができたため相当楽になっていた。
 しかし、それだけの期間があれば、恐らく駿台で政経、駿台が新たに参入した高校受験用コースで中学生相手に英語、そして岡短で英語と、「求め続けて」が苦しみを楽しみとしながら一層進展する状態になっていたであろう。
 だが、八五年にその確約を反故(ほご)にする言動を大滝部長からされる。しかも後で一定の言い訳ができるように、つまらぬ小細工つきでなされた。

 次年度から共通一次試験科目の変動報道があったため、駿台が確約を守ってくれるかどうかと不安をもっていた八五年末のある日、突然駿台のトイレで大滝部長と出会う。今考えると、過去トイレでこうした形で出会ったことはなかったため、余りにもタイミングの良い偶然であった。もし出会っていなければ駿台の確約を信じて、一切(いっさい)問合せをせず、科目も従来のままとしていた可能性が高かった。ともかく、大滝部長に出会ったときに、大滝部長に次年度のことを尋ねると、共通一次の科目変動のため政経類は大きく減り、私が八五年度に担当している齣(こま)数の半分どころか、それ以下になるとの返答があった。具体的には七齣以下、確か場合によれば数齣になることもありうると言われた。すると、大急ぎで他教科も持たねばならない。英語、日本史、世界史のどれにするか等の迷う時間のゆとりすらなかった。もう、八五年度終了に近い時期である。こうして、まともに考える時間も奪われ、日本史担当を打診した経緯(いきさつ)がある。当然、政経一本で賃金保障をせよと要求すべき所であったが、岡短の専任確約問題か、後に述べる女性刺客問題でガタガタしていた関係かで言えぬ状態にあった。だが、大滝部長には、八六年度などは約束通りに、何があっても政経一本で生活保障するという確約厳守の義務があった。
 その後の動きは以下の通りである。大滝氏の確約違反のため、やむなく駿台で日本史兼任を打診→駿台で日本史兼任ならば岡山の予備校(後に駿台と模試で提(てい)携(けい)したベネッセが運営していた進研(しんけん)予備校、以下進研と略す)でも日本史を持つことを決定→八六年三月頃に駿台から政経類担当齣(こま)数は前年度の半減ではなく約三分の二(五〇分一〇齣)と日本史四齣との打診(日本史担当は早く返答するならば変更しても良い)→(引き留め時の政経一本で三年保障確約違反でも)進研等の収入も含めれば政経のみでぎりぎり生活できる可能性が出てくる→日本史担当を当面延期し、予備校では政経一本とし、後一、二年間は政経と併行(へいこう)して担当する教科の検討・準備と方針変更→即、進研に日本史担当を断りに出向く→ところが進研に相談に行くと、相談内容を予期していたかの如(ごと)く、事務員KO氏から先手をうたれ「先生、もう日本史は絶対に辞退できないですよ」と言われる。相談どころか、私が一言も言わぬ前にいきなり先手を打たれ、日本史は辞退できない羽目となる。これにより、(八四年の件もあり、日本史担当を変更してもよいとH係長が言った)駿台でも、日本史を辞退しても、無意味な状態になり担当することになった。
 駿台と進研(※注二)とで、日本史を私に絶対に持たせる計画が事前にあったのかというような、余りに出来すぎた流れが作られていた。もし、大滝部長への問合せ時に政経は八五年度の半分以下とか場合によれば数齣の場合もありうるではなく、三分の二と回答を得ていれば、日本史を担当することはなかった。万一担当しても八七年度以降であった。それどころか、政経一本で三年間は生活保障確約(事実上の契約)があるため、八六年度は政経のみで週一五~一七齣授業保障の義務が駿台にはあった。そのときには、私は超多忙とならずに、きっちりと責任は果たせていた。否、(いな)第八章で分析するように、駿台は故意に確約を破り、何が何でも日本史か世界史を私に持たせようとしていたのである

 

023/10/21
2023/10/21:公式blog

🤡ME全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ

🤡全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ。

《◇―5・労働省所管・能開大での荒れ狂う労基法違反・契約違反、専任詐欺被害》
駿台を辞めるや、☠(謎のX)は今度は能開大で策動を開始した。
バイトなどの偽学生や、学生の一部を買収して授業妨害の策動させるのみか、職員を買収して、労基法違反や契約違反のオンパレードをさせた疑惑である。

他方、能開大事件は別角度もある。
能開大の運営権者・雇用促進事業団は生き残りをかけて、🤡(ME)のCM力を悪用するために🤡(ME)に対して専任詐欺をやった疑惑である。



駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。

(4)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について

現時点でも不明なのは、どのようにして部落問題を絡めたのかということである。逆に言えば、部落問題が関与してくるならば、「人間違い」以外の回答は論理上はえられない。

こうして、(我が家の住所番地を七十年使い続けた家の)三男との人間違い説が浮上してくる。今度は人間違いを軸にして、私への業務妨害が多発となる。

第八章・授業屋への刺客の嵐の前兆

だが八四年夏からは試練ではなく、(犯人を今は首謀者Xとするが)首謀者Xが刺客(しかく)を放ってきた。今考えると、その刺客は「私を生かさず、殺さず強制労働下での奴隷状態」へおくことを目的とした人間(集団)であった。当時は、駿台から私を放逐(ほうちく)するための刺客と考えていた。
 第一の刺客は謎の女性群の出現であり、第二の刺客が第七章で述べた八六年からの限界を超える多忙な日々への追い込みであり、第三の刺客は八六年~八七年度に、私の授業を絶対に失敗させるための企てと授業妨害(不法行為)である。第四の刺客に至っては、八七年末からの拉致・不法侵入等の膨大な刑事事件被害の連続となる。第一〇章で述べる、私を拉致しようとした人間(刺客―4)などは文字通り刺客である。何とか逃げられたが、もし拉致されていたならば殺されなかったという保証はなかったからである。なお、この刺客は〇七年現在までで顕(けん)著(ちょ)な物のみでも十となっている。

(駿台真相編06に持って行く)
(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。

ただし、駿台予備学校…はお嬢様・お姫様が多く、犯罪の重要性に気づいていない可能性があるため、明白に、彼女らによりうけた危害を契機にどの程度の犯罪被害(拉致未遂、ひき逃げされる危険性…)に遭ったかも明白にした方がよい。また、関連での死亡者が多数でてもいる(もっとも一部は嘘の死亡であろう。Z3氏などは…)。ともかく、刑事犯罪者への犯罪協力者としての認識を持たせた方が良いと長期考えている。

他方、全く相似形であった岡山の予備校の滝沢、吉田はその後一切無関係を貫いてくれている。この相違はどこからくるのであろうかという謎もある。

(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。

 

なお、同時期に、岡山の予備校でも駿台🚺ドタバタ劇と同じドタバタ劇が起こる。これには二つの目的があったようである。

一つは駿台での授業などへの妨害、二つ目は駿台と相似形により、催眠などの現象に一定の時期に即座に気づくようにするためであった。

(2024/11/08 22:09)結論
幾つかの犯行グループの想像。

α)随所に🎬映画説グループが絡んでいる。その🎬グループには私の父や姉(長姉)、恐らく義兄(長姉の夫)が絡んでいると思われる。何れも死亡となっているが、何人かは生きていると思われる。

〇父→福武哲彦(ベネッセ)→駿台(当時の山﨑春之理事長等):福武哲彦→進研予備校(尾野作次郎名誉校長)・校長=桐山校長(岡山中学・高校校長):尾野作次郎→真備高校

のちに問題となる原田医院(湯郷にあった病院)
父→教え子が看護師婦長(多分、院長の奥さん)
長姉の母(若しくは実家)と院長が親戚と聞いている。

ポリテクカレッジ岡山と単位認定権の会談時、何故か父が同席
駿台での最後の交渉時の大滝満夫部長が何故か怒っていた問題→父が知っていたよう。

長姉→東京の家庭教師👧の母と接触(長姉の死亡のときに👧の子の母が顔を背けて、クスクス笑いを押さえていた)。また👧の噛みつきは長姉の息子の真似(長姉の指示と分析。通常の女のこがおもいつくことはない)

長姉夫妻→姪を催眠で絡める馬鹿げたシナリオ。(目的は単なる話題提供のため姉の遊びか、後に発覚する人間違いをより確実にするための催眠工作かは現時点でも不明である)

長姉夫妻→私が清水の舞台から飛び降りるつもりで女性(ハナオカ)を誘ったときに催眠一言で余分な一言で潰れる。電話の横で長姉がクスクス笑いを押さえるのに必死であった。弟が結婚できるかもしれない機会を潰して何がうれしいのだろうか。(目的は、多分、私の伴侶は🧜お嬢Mikiと決まっているため、他の女性は潰していく)

受験時に当初予定、関大・関学滑り止め→地方国公立大学受験予定。
所が、長姉夫妻等により関学に事実上押し込まれる(理由は🧜オジョウが関学に既にいたため)その手口はどこかでまた紹介しよう。

村でのトラブルメンバーの一人=エツジ様、私に会ったときに最初の言葉「私は君のおとうさんの教え子であり、君のお姉さんとは同級生であった」である。


〈女性〉
福武哲彦→(岡山の予備校)タキザワ・ヨシダへ指示と思われる。


β)山﨑春之駿台理事長(当時の肩書き)→ポリテクカレッジ岡山へ、私をたたせるようにした疑惑。
山﨑氏及び経営陣の一部→駿台女性四人組に指示=西山美千代・タケウチ・横家幸子・ゴトウ
山﨑氏及び経営陣の一部→駿台の主なメンバーに何等かの指示

山﨑春之氏及び経営陣の一部→Z3との人間違いを誘導し、謎のXグループを絡めた疑惑。

駿台経営陣の一部→(契約意違反をしてでも)超多忙の日々に1996年からもっていく計画。1987年は業務妨害・授業妨害の指示と、主として駿台外での刑事犯罪との協力指示。

駿台での被害が激化した時代後半に、新幹線の京都駅か大阪駅で、山﨑晴之氏としか思えない人物に出会う。私に直訴しろという雰囲気であった。真っ白い服をきて、お供はなしであった。その直後に、有名な芸能人が登場したときのような歓声が上がった。


γ)謎のXグループ。
駿台女性四人組の業務防災、無理矢理のドタバタ劇強要芝居、私への催眠への協力罪、好きな振り詐欺…私ならば、これらの判事行為は一億円をもらっても、良心の呵責でしない。
それでは何故彼女らがしたのであろうか。
何等かの大義があった可能性がある。

その大義については、2019年から、Z3と私との人間違いが現代だとしか分析できなくなっている。世界からの情報も同様である。
なお、その人間違いは、駿台経営陣の一部が誘導した疑惑が高い。


δ)👮警察官の一部が関与した疑惑。
刑事犯罪被害が激しくなる直前に、当時の岡山市北区庭瀬のアパートに泥棒が入ったとパトカーがきたことがある。(1987年夏頃と思う)
その後、庭瀬界隈をぐるぐる回ったり、私に何かをきいてきたときでもふざけているととしか思えなかったり、本物の警察官かどうか不明であった。
これを契機に刑事犯罪が激化する。

その後も、随所に警察官が登場した謎がある。

❓部落問題を臭わされる謎。
現時点でも真偽不明である。2000年前半頃は「マサカ」であり、2007年以降には「本当だろうか」となる。特に2008年末に(我が家の住所番地を70年使用した)Z家の老婆が接触の暗示をしていた。同時に、Z家👴はゴミ置き場が強調した。

しかし、部落問題…とは意味不明であり、未だに「まさか」とか雲をつかむような話である。
2013年以降は、安倍晋三が、部落解放運動としているグループの一部と私とをぶつけて、そのグループを潰そうしているとしか思えない。

ちなみに、部落問題を明白に臭わされたのは、1981年~2000年までは、1987年後半に、駿台の化学(北山先生)からの贈り物といって意味不明の差別文書を手渡された一回のみである。後は全く、部落問題の「ブ」の字もきいたことはない。
「部落問題」が絡んでいるという印象操作は、嘘としか思えないか、雲をつかむような話である。

部落問題を臭わされる開始は、2000年5月頃に、Z家の横に住んでいた皆木さん(Z家稔小父さんの姉妹と義兄弟)の家の跡地前に「姫路ナンバー」40の車がとまってからである。

その後も、催眠で突如、部落問題関連のコメントを言わされたり、私が関心もない、松本龍氏関連の独り言や文書を催眠で無理矢理書かされ続けて迷惑千万である。
特に我が家界隈に⚽サッカーボールを置かれたときに催眠で松本龍氏関連を言わされることが多い。言わされる内容は大半が就寝中に頭にたたき込まれた台詞である。
特に、東北震災の時は完璧に言う内容などは事前に就寝中に頭にたたき込まれたシナリオでしかない。

要するに、この件については「何が何やらさっぱり分からない」
ともかく、北山一からと言って差別文書を手渡された経緯は駿台真相編7で、ポリテクカレッジ岡山辞職後の部落問題を臭わす問題は駿台真相編8で記す。


【参考】■

【参考】
友人「タカハシ」氏は、一連の被害の原因を「ひとまちがいが原因」と言い切った(2012年4月)。ただし、私がカード詐欺に遭い、西山ファーム(西山美千代社長)の情報が入った日に彼は死亡した。なお、彼は糖尿病を強調し、糖尿病で死亡したという。ちなみに、Z家の小父さん・稔小父さんも糖尿であり、糖尿で死亡したと思う。

世界の首脳は「駿台事件…」や「ポリテクカレッジ岡山」労基法違反被害以上に、「住所番地二軒問題だけを強調しておけ」とアドバイスをしてきた(数カ国10名以上に及ぶ)。
欧米に限定すれば、欧米の首脳からは「部落問題」の「ブ」の字も出てこない。
私には長姉等が無理矢理、何の目的か不明も、「部落問題」等々とからめようとしているとしか思えない。


映画説グループでほぼ確定しているのは以下の人物群である。
駿台=藤村先生(国語担当)
🧜お嬢(Miki)、🎎お嬢(カマタ)、🛵おじょう(タナカ)、🎃オジョウ
倉敷英数学館・岡山の予備校・ポリテクカレッジ岡山で一緒した嶋坂先生(元京都外大教授)恐らく、先の友人タカハシ氏もそうであろう。

一言Blog  2021/12/07 10:56 正式公開

【回想】No.270:1981年回想・尾野作次郎氏との出会い―ユニークな採用試験

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1683/

一言Blog: 2019/01/12 正式公開

桐山校長・「半年後(来年度開始)からこい、強化はしばらく国語だ…」

気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1054/

ここは本の少し登場:安らぎBlog: 2021年5月29日公開

教育・女性をめぐる各種デマへの反論(回想録兼用)―1・西宮市教育委員会で勤務した経緯

http://h-takamasa.com/Blog/?p=25090

簡単に紹介

 

安らぎBlog   2023/08/31

『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各💁💁種工作事件―(5)私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠

http://h-takamasa.com/Blog/?p=30350

安らぎBlog:2023/12/26公開

《◇―1・駿台と能開大トラブル相似形及び類似性について》

【💁】『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件― (7)・駿台事件とポリテクカレッジ岡山(能開大)との関連性

https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=41635

本題に戻れば、この頃に、岡山中学・高校校長桐山公雄先生から、ポリテクカレッジ岡山と同じ手口で岡山中学での専任教師のさそいがある。
「おまえ、絶対に来るな。専任での仕事は来年春からだ」と。教科は何か。これまたポリテクカレッジ岡山とそっくりであった。「国語だ。しばらくは仮免で国語の教師をしろ。そのうちに社会科にまわす」と。ポリテクカレッジ岡山の英語に対して、今度は私の苦手な国語できた。ともに語学である。ちなみに、私は社会科の教師である。
私は行く気はなかったが、ここでポリテクカレッジ岡山の専任の確認をすることにした。ポリテクカレッジ岡山の責任者森本茂樹氏は延々と引き留めをした。
「専任はまず大丈夫です」とか「賃金は安いかもしれませんが、福利厚生が充実しているし、年金は厚生年金です」とか、「今は中曽根行財政改革の最中ですので、しばらくは無理ですがが、かならず…」「専任にするための最大限の努力はする」、私が採用の際の試験に関して聞くと、「(採用)試験はありますが、浜田先生の場合には受けるだけで合格します。受けるだけでよいのです」等などと実質的な引き留めをされた。

なお、ポリテクカレッジ岡山での一連の攻撃が本格化する直前に、嶋坂先生が「心配せんでいいがな。ポリテクカレッジ岡山でも専任…と。お前の専任確約はテープにとって金庫に保管されている」と明言していた。私の専任確約は私がポリテクカレッジ岡山に行ったときには謂わば周知事項であった。先の蒲田先生も当然知っておられた。
しかし森本氏は、私が岡山中学に行く気が余りないのに気づいてから、最後は「君の一生の問題だから、行くなということはできない」と逃げ手をうった。
これが岡山中学の役割であったと分析をしている。この手口は駿台がポリテクカレッジ岡山をつかってやった可能性がある手口である。うがって考えると、駿台経営陣が、1982年度に全て考えた手口ではなかろうかと思う始末である。(要するに、集団詐欺の疑いがある。)

 

参考までに、登場する女性の写真若しくは絵風加工版を掲載。
横家、ゴトウ、🛵タナカ、岡山の タキザワ、ヨシダ。(西山はないが、ゴトウとほぼ同じ。)さらに、その頃、よく相談をしていたフィリピンの友達マリーサ。

掲載目的は、駿台の女性だけを特別扱いする催眠への抗議である。
思い出まで催眠で改竄するとは卑怯といつも怒っている。
どの女性の容姿が良いか・悪いかではなく、会話もしていない駿台女性のみを過大に書かされたり、言わせたりすることへの抗議である。

会話量はヨシダさんが①番少ないが、後は駿台女性である。場合によれば駿台辞職直前に出会い、タキザワさんとの方が会話や会っている回数は多い。また何度かデートをしたユアサさんもはるかもしれない。🛵おじょうはかなり会ってもいる。
催眠のかけかたが卑怯、更には記憶を改竄して、文書で永久に残されると考えるとその手口に怒りを覚えるからである。
本当にありのままの記憶や出来事にもどしたいからである。
だが、何故、そうした卑怯なことをするのであろうか。

また、西山に手紙をだし、断られ、「おせわがせしてすみませんでした」と一礼をすると何故40年も被害にあい続けるのであろうか。
それらは本来、駿台大阪校の刑事犯罪被害や業務妨害被害の際に訴訟を計画していたため、本来は裁判所で決着をつけるべき事項であった。今からでも裁判を望んでいる。

後に、労働省系列のポリテクカレッジ岡山も絡んだことや、政治家も絡んだことなどから、日本の国会でも審議を望んでいる。そして、世界193カ国にガラス張りで公開できることを願っている。

彼女らの犯罪は、私への催眠への共犯罪、業務妨害、契約外労働、強制労働危害への共犯ということである。ドタバタ劇への強制という奴隷労働への加担である。バトンタッチ型のため、最後の被害がおわってから時効は開始する。そこで時効になっていないため、民事のみか(懲役を含む)刑事事件として裁判できることを切に願っている。
私と駿台とは授業をするで、矢田部長(当時の関西地区最高責任者)と契約をしていた。更に、精神的苦痛や後の病気との因果問題もある。また催眠は何度も記すが、苦痛であり、傷害罪に該当する犯罪である。

言いたいことは裁判所や国会で、世界193カ国に伝わる形でいってもらいたい。ただし、米国型の刑事取引には応ずる。全貌を明白にして、駿台やポリテクカレッジ岡山の責任(逸失利益+慰謝料…)の賠償問題に役立つならばである。なお、身内が絡んでいても、犯罪への罪は重くなっても軽くはならない。親でも子供の身売りは大犯罪である。更に、旧尊属殺人の規定(刑法200条であったか?)の如く、身内の場合の方が罪が重いというのが常識的発想である。

 

2024年10月6日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA