(💁正式公開)駿台事件真相編―04・駿台CM作戦と映画女性活用脚本編
【更新履歴】
2024/06/08 23:57はりつけ
2024/06/14 一太郎に下書き記載し、OneDrive保存
2024/06/15 11:17清書化作業。
2024/06/15 12:18 正式公開:誤字脱字はこの後修正することはある。15:30 表紙の写真を追加。17:09 微修正 。18:07一部追加。2024/06/20 19:48誤字脱字修正
駿台事件全体構想
駿台事件真相編―1・催眠
駿台事件真相編―2・ゼノンの詭弁と駿台事件の手口・女性編
駿台事件真相編―3・企業と私―駿台大CM編
駿台事件真相編―4・駿台CM作戦と映画女性活用編
駿台事件真相編―5・駿台CM作戦―女性刺客四人組活用編(その1~続く)
駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大との因果)
駿台事件真相編―7・駿台CM作戦―業務妨害から刑事犯罪被害へ
駿台事件真相編―8・駿台CMと🎬協同で☠グループ絡め作戦と能開大・村への移行
個人情報掲載理由
下記理由(この事件に絡んで何人かが死亡…や私自身も命を落とす危険が何度もあったことなど)で、実名での公開を原則とする。
下記をクリックすれば、拡大する。なお、下記はZ家(浜田稔・正典)家であるが、どうも、我が家(浜田耕治・隆政)との家間違いが駿台事件の原因の一つのようであるため、駿台事件も実名とする。同時に、駿台講師時代も拉致未遂被害や学内外での業務妨害や刑事犯罪被害に遭ったため尚更である。
※疑惑も含めれば死亡者は10名以上、MEの世界を含めれば20名以上かもしれない。ただし、私は完全無関係である。
駿台事件真相編―4・駿台CM作戦と映画女性活用脚本編
一貫した命題=視聴率稼ぎ=「私の目的が成就できずに、苦悩し続けさせ、同時に各種話題提供をし続けさす」というシナリオが一貫して貫かれていた。
具体的には、駿台時代は以下である。
1期=授業の苦闘→駿台真相編-04
2期=女性を絡めてのドタバタ喜劇→駿台真相編04と05参照。
3期=超多忙での苦闘→駿台真相編06参照。
4期=授業妨害と各種刑事犯罪被害→駿台真相編-07参照。
5期=次の舞台への準備期→駿台真相編-08
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これらは、私が駿台予備学校講師になった時点から、既に決定されていたようである。恐らく2期から5期は、私が駿台講師になる前から決まっていたと思われる。
私が駿台の教壇に立つ前から、女性が登場する前から、ドタバタ劇・女性苦闘編のシナリオはあったとしか分析できない。
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要するに、1期は誰でも分かるため省略すると、2期は女性を絡ませどんちゃん騒ぎをさせ、私を苦しめる、3期が、(幾つもの教科や学校をもたせ)超多忙とし、苦闘させる姿である。4期が刑事犯罪被害に絡めて、授業を守るため苦闘させる姿である。
5期は最後にのべる。
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(Ⅰ)駿台講師時代1期・授業との闘争
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私を駿台に採用して、どのように私を活用するか。
私を看板教師として、駿台の知名度を売る戦術は一切なかったようである。
何故ならば、私という商品はそのレベルではなく、デファクトスタンダード自体を決めるような影響力を持っているため、そうした活用方法は全く考えていなかったと推測される。
第一、担当教科が政治経済というマイナーな問題もある。
だが、もし、私が数学や英語を担当していても同様であろう。
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簡単に言えば、私には五輪の選手になったり、ノーベル賞受賞したりする以上のCM力がある。
五輪の人気を左右する力とか、ノーベル賞の権威を高めたりするような力である。
これらは、拙著『日本のフィクサーME』シリーズを読んでいけば分かるであろう。
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要するに、駿台で私が超一流教師になっても、一年目はよいが、それ以降は視聴者が飽きるため、その路線は駿台も映画説グループも頭に描いていなかったようである。
私が順風満帆に授業をして、人気がでても、それでは人は一、二年しか興味を持たない。
それが第1期である。1982年~84年夏までである。
最初は始めての政経授業のため苦闘し、一応満足できたのは1984年4月から夏までである。
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それでも1983~84年全体は産みの苦しさと楽しさでもあった。
拙著『求め続けて』第1部に当時の模様を収録している。
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(Ⅱ)駿台時代2期―女性ドタバタ編。
だが、これでは(私が授業に没頭して、それらが上手くいきだせば)人はすぐに飽きてしまう。連続テレビで毎回授業風景だけを流したならばどうなるか。番組は一年で打ち切りとなるであろう。
人が苦悩している姿が一番視聴率がとれる。政経ならば、土台があるだけに三年目くらいで軌道にのる。これでは映画・テレビは御陀仏である。
私が各種苦悩をしている姿の方が人はみる。視聴率は上がる。
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そこで、第二段階女性を絡ませどんちゃん騒ぎをさせ、私を苦しめる当初のシナリオが実施される。このシナリオを次回の駿台真相編―05で具体的な解説をする。
ともかく、苦闘する姿は視聴率がとれる。それも違う形態で苦闘させ続ければ、視聴者は飽きない。
これが、物語の土台にあった。
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映画説グループにすれば、視聴率が全てである。駿台にすれば、それにのっかり駿台の知名度をあげる―可能ならば、国外でも知名度をつくるため、協力を積極的に行うという方針があったと分析される。
「おしん」という劇は受けても、平凡なサラリーマンの優等生生活では人は一年も興味を持たない。これが一貫した土台にあったように思われる。
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駿台予備学校は、関東では知名度はあるが、それ以外では知名度が低かった。だが、全国展開、極論すれば国家統一前の戦国時代が当時の予備校戦争状況であった。
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女性を絡めてどんちゃん騒ぎをすることと、駿台以降につなげる何かを仕掛けることが当時のシナリオであったようである。しかしながら、私が生きてきた72年間を振り返ると、シリアスな女性問題は一切ない。コミカルな、そして何もなくても・何かあったと思わせ、後で蓋(ふた)をあけると何もなかったと人が笑うような波長が強い人生であった。
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駿台の方も、「愛情教育」を売り物にしていたため、悲劇性や深刻さがあってはならないということで、私に絡める女性も全てそれ専用の女性を準備したようである。
私は1982年に駿台教壇に立つ。
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教壇に立って暫くは駿台側も様子見であった。私が本当に駿台で通用するか・否かと。
違っていた。完全に通用して、凄い人気講師になっても、授業で完璧になったところで、好視聴率は一年も持たない。
それが持つようならば、この世の学校は天国となっている。全生徒が有名歌手のコンサートに毎日行くような形で登校しているであろう。
テレビ局は学校の授業をそのまま流せば視聴率70%以上を毎週、それも50年ほど稼げるであろう。
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結論から言えば、私の授業は数年頑張ってもらえばよい。後は別の視聴率をとれることをしてほしい、であった。ただし、何かの弾(はず)みで私が駿台に来なかったならば困るし、翌年も駿台にいるか・どうか…は見極めなければならない。それ以上に次年度以降の準備もいる。
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そこで1年間は動きはなかったが、翌年以降も駿台の教壇にいると思われだした頃から、ハプニングでの辞職がないと判断した時点で、ドタバタ劇専用の職員を雇用することになる。それが1982年後半の職員採用試験であり、西山、タケウチ、横家、後藤である。
人選の基準は3人までは判明している。それは次回記そう。後1人も今後分かるかもしれない。
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彼女らは全員1983年に駿台に入社してくる。
名付けて、駿台京都校講師室係四人組である。
それ以外の女性はハプニングでも私に関わらぬように、ハプニングの危険が少しでもあれば排除していった。
1982年の駿台講師室で少し口をきいた唯一の女性は結婚と同時に配置換えで講師室を離れる。駿台在職中一人だけ関心を持てるかと思った女性は即辞職する。
担任教員も仕事で口をきけば、暫くして辞職…と。ほかにもおかしな物もあった。これらの具体的な紹介は次回となる。こうして、1983年入社組で指定された女性以外には絶対に女性…は近づけさせぬという配慮がみられた。
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また教え子の女子生徒と軽食堂に行ったときに、ふと見ると表三郎氏が監視役の如くこちらをみておられた。それ以外にも…と。
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その上で、西山、横家、後藤には何も(本格的な)進展はしないように言い渡しが事前にあったと分析される。
ある人が「何もなかったから揉(も)めたのではないか」と言っていた。全く違う。何も絶対に起こらぬように、駿台側が徹底的な配慮をしていたのである。
何もないのにあったと大騒ぎ…で数十年後に何もなかったと分かれば面白いではないか。数十年ももつシナリオである。コストパフォーマンスは非常に高くなる。
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私は女性問題とは一番無縁なタイプであるが、同時に駿台と映画説グループが何があっても絶対に(世間でいう)女性問題類は起こさぬように徹底的なシフトが組まれていたのである。
役割を果たす女性には厳しく「進行せぬようにと」申し渡し、それ以外の女性とはハプニング恋愛等の気配があれば自主退職か配置換え…と。
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ちなみに、駿台外で登場する🛵おじょう{当時の彼女のFull Nameの半分は長姉の娘の嫁ぎ先と一致し、半分は私の次姉の名前と同じよみ方もできる。先輩のI氏はあれは🧜お嬢(の化身)だと言っていた}には映画説グループが各種指示をしていた。そして、映画説グループと駿台側との連携が随所で測られていた。
正面から登場した映画説グループの代表例が映画狂を自認していた国語担当の藤村先生である。化学のI先生が当時故意に読んだ「とうそん」先生ではない。「ふじむら」先生である。
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その逆も然(しか)りである。
駿台側が準備した女性、西山、横家、後藤はフル活用せねばならぬと、汚い手のオンパレードであった。🛵おじょうが姿を消したのも、後藤、横家が登場できるようにするためであった。
ともかく工作、詐欺類のみではなく、随所で駿台真相編-01に書いた催眠類が使用され続けた。今、考えれば汚いというものではなかった。私の存在などは皆無であり、脚本だけが優先されたのが駿台であり、駿台以降も全く同様である。私は随所で「我(われ)、思わぬのに、我(われ)あり」と書いている。
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最初のきっかけとなった西山という女性は容姿は私好みではない。性格は全く不明である。生き方は違うとしか思えない。(生き方とは部落問題・婦人問題…など人権や社会に関心をもち、共稼ぎ志向で、万国の女性よ自立せよ型女性を、私は当時は志向していた。)私には生き方も違うのでノーと1983年夏前に心の中で門前払いをした。勿論接触する手段もない。
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★『万国の女性よ、自立せよ!』
――朝まで生テレビ録画『女性が輝く社会』を昨日見て、私が最後に言った言葉の続き。
2014年11月10日Google+投稿文書
https://takahama-chan.sakura.ne.jp/p-essay/custom7.html
☆☆☆☆☆☆
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当然、対象外と明確に考えていた女性である。
それでは何故…は次回記すが、簡単に言えば、箸が机から下に落ちた途端にあなたは西山なる女性に熱をあげるという催眠である。1984年1月の事である。青天の霹靂(へきれき)以上に、川の鯉のぼりと同様に「No」と言い続けて抵抗に抵抗を重ねた。具体的な契機は箸ではないが、それらも次回のべよう。
なお、これらの催眠が解除されたのは、1986年3月に深見係長(当時の肩書き)からの大阪校異動の打診電話を受けた受話器をおろした途端であった。
この一瞬で西山…という女性は完全に脳裏から消えた。
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催眠オンパレードの理由は、幾ら工作を練っても、私が関心を示さなかったならば、せっかく準備した女性を無視されると、元手が回収できない。またシナリオが狂い、後が大変であると言わんばかりであった。
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要するに、何にも実態がなくても、揉(も)めさすことが目的であったと分析される。何もなくて揉めるとは健全な笑いではないか、と。私から見れば全然健全ではない。
しかし後に妙な印象操作がなされる。女性問題など最初から最後まで一切ないのを勘違いした☠(謎のXグループ)が後で痛い目に遭(あ)うことを意識していた可能性がある。少なくとも結果としてはそうなる可能性が高い。一種の罠である。
だが何のために。また☠(謎のXグループ)とは何の組織か。
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更に後に部落問題が臭わされる。ここまで来ると、当時与えられた条件では、アインシュタインでも「意味が不明」と言うであろう。私などは40年経った今でも何が何やらさっぱりわからない。
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いろいろ事情を知っているような友人類の言葉を紹介する。
神田弁護士「浜田さん、何がなにやらさっぱり分からないでしょう。ハハハハ」(これは1998年雇用能力開発機構との賠償交渉の相談をした時の話である。ちなみに、「機構」は恰も、駿台に賠償請求をしろと言わんばかりの印象操作を何度も行っていた)
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もう一人の友人は2012年に「一連のトラブルは…勘違いや誤解ではなく、人間違いが原因」と意味ありげに言い切っていた。その友人が2019年4月に糖尿病でなくなった。あたかも、我が家の住所番地を70年使い続けたZ3(司法書士:私よりも1才上)を連想した。
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なお友人死亡の電話は、私がカード詐欺に遭(あ)った瞬間である。それと同時にカード詐欺・西山ファーム事件のニュースが私のパソコンに飛び込んできた。西山ファーム社長は西山美千代氏(駿台講師室係4人組の一人と同姓同名)である。
以前、私が梓みちよをもじり、「福岡県のみちよをしらべてくれ」と世界に依頼していた返答のように思えた。それも、私が岡山県赤磐市周匝に自転車で何度か言った月であり、西山ファームは岡山県赤磐市にあるというおまけつきである。
西山ファームや西山美千代社長関連のTwitterには、何人もが「山崎も悪い」(山崎裕輔氏を指すが名字だけを書いていた)と書き込んでもいた。当時の駿台理事長が山﨑春之氏である。
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(参考)
☆☆☆☆☆
※正字体としては「崎」、これに対して「﨑」は異体字です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14143872239?__ysp=5bGx5bSOIOWxseWfvA%3D%3D
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私の偽者とも言える浜田正典氏が各地で浜田・濱田・濵田を故意に変えてつかっていた。
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旧字
→戦後に発表された漢字表(当用漢字字体表)に無い明治時代の漢字
異体字
→一般的に使用されている常用漢字と読み方(発音)や意味が同様の漢字
外字
→パソコンで使用するフォントに元々用意されておらず、後から追加された文字(旧字・
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浜の旧字体が、 濱になります。
濱の異体字が、濵になります。
濵田=濱田=浜田は同一である。
https://taroz.info/hama-chigai-3799/
これが正典家のトリックである。合法ではある。
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横家についても世界から各種情報が入ってきた。それらは次回記そう。
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話を元に戻そう。
一定の時期に、私が孤立してシナリオが開始する前に辞めないように、駿台経営陣や専任講師の主立った人間の中で打ち合わせがあった可能性が大変高い。ようするに、化学ならばK教師はいずれ私と対立するように指示がされ、逆に化学のI氏は私の擁護に回るという役割分担などである。非常勤講師の一部にすら、後に、何らかの指示がなされた節があった。
何れも、まだ、西山に手紙を手渡す前の話である。
私の駿台の採用試験前から、私の受け入れ態勢での論議が一部の教職員の間であったと想像される。何故ならば、その後の展開ばかりではなく、本質である駿台の大CMのためである。
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こうして、私抜きで物事の展開の仕方が決まっていたようである。多分、辞めるときも、辞めた後の仕事も、手紙手渡し以前から決まっていたとしか分析できない。
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西山美千代は恋愛詐欺かと言いたいが、厳密には違う可能性が高い。正確には催眠という傷害罪への共犯罪、業務妨害罪であろう。(2024/06/14追記:昨日吟味をすると西山美千代自身も恋愛詐欺をしていた証拠が幾つもでてきたため、ここは訂正し、「西山美千代は恋愛詐欺と同時に、催眠という傷害罪への共犯者である」と記載する。)
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駿台女性問題の本質を一言で言えば、催眠に始まり、催眠で終わり、目的は駿台のCMと映画説グループの視聴率稼ぎである。本来はこの二行で十分である。
他の教職員は「お国のため」同様に「駿台の(発展の)為ならば…」であろう。それと、面白いので参加しよう、であろう。
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ちなみに、生物の川端先生などは楽しくて仕方がないという表情がもろに出ていた。これが映画・TVの視聴者への狙いであった。私などどこにも存在していない。私が不在の物語である。
最近も何度も記している「我、思わぬのに、我あり」である。
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(Ⅲ)教師時代からの一貫したドタバタ劇―回想・中学・高校講師時代
(2024/06/08 18:52)大幅追記:教師時代回想
(2024/04/11 23:50記述)駿台事件以前にも奇怪なことがあった。これに大幅加筆を6月8日以降に加えている。
【主要な催眠での行動履歴のごく一部】
①小学校時代のT君、
②中学校時代の板割り事件(教師に殴られに一人で自首する)、
③高校時代の余興(体育祭事件)、
④大学時代の出入り(今考えれば、催眠での一言のケジメで、新左翼の集会に一人で乗り込む)、
⑤早大院時代の修論(突如の、催眠での改行と字下げの指摘による混乱)…。
これらは拙著『回想―私の人生』(仮称)で語る。
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また教壇類では一種の法則があった。
⑥大社中学校での出来事、
⑦真備高校講師時代での出来事。
⑥と⑦を駿台講師時代との関連で少し記す。
この解説の中で①~⑤の一部も触れることにする。
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一連の法則は、視聴率稼ぎのための話題提供に由来していた。どういう映画・テレビ類かは知らぬが、テーマは苦闘編となっていた。同時に、あの世との対比か時間の無駄が強調されていた。
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苦闘編とは、私が順調に授業などで完璧に人を魅了する授業を行うなどは一年は良いが、それ以上ならば視聴者はあきる。そこで幾多の妨害をして、私をそれに対して苦闘させる。その苦闘編が本質であった。同時に、様々な話題提供が必要不可欠でもあった。更に、あの世が永久の世ならば、この世では時間の大切さを鮮明にするため、出来事の繰り返しがあきるほどしつこい所にも特徴があった。
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結論から書こう。
大社中学も、真備高校教壇も、私が経験した学校時代と対比すれば、問題はほとんどないに等しかった。大社中学も夜の校外学級のため、一種のティームティーチングであり、何もない皆無のような世界であった。
真備高校も、2年7組、8組、9組は平均して、林野高校時代の授業の平均値よりも静かであった。2年1組、2組もかつての塾(例:小岩の塾)の教壇に比べれば、たいしたレベルではなかった。要するに、ここも何もないに等しかった。
▽
☆☆☆☆☆☆
回想:小岩の塾の話(1977年)。
▽
授業中に小学生が騒いで困った。責任を感じて、塾経営者に辞職することを申し出た。
私「生徒が授業中に騒いで困っています。責任を感じ、やめさせていただきます」
塾経営者「それは困る。君は生徒に注意したか」
私「はい、しました。『これ以上、騒ぐならば塾に来るな。もうやめろ』と」
塾経営者:それで生徒は何と言ったか。
私:僕、絶対にやめない、と。
塾経営者:それでよろしい。やめないと言った。それが一番重要なのです。そのままでいきなさい。壁も厚いし騒いでも構いません。ただし、学校の器物だけは壊すな。壊せば弁償させるぞ、とだけ言っておいてください。
私:それでも、私は責任も感じますし、参っているのですが。
塾経営者:君のクラスの生徒は全員成績が上がっているし、生徒も君になついて、うれしくて騒いでいるのだ。君にやめられる方がはるかに困る。第一、君がやめたならば生徒もショックをうける。塾も困る。やめないことが一番よろしい。
…
▽
今、考えれば塾経営者の言う通りであった。当時の生徒が懐かしいし、私も一定の時期からかわいらしいと思い出したが、無理にやめさせてもらい、もう手遅れであった。
懐いていた生徒がひょっとしてショックを受けていればと思うと、心が痛む。同時に、今考えれば、有り難いことであった。
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真備高校2年1組はこの塾の生徒の類似であり、それでも、この塾の生徒よりはおとなしかった。一番元気の良いクラスの真備高校の生徒と言ってもその程度である。勿論、私の中学校時代よりははるかに真面目であった。私の中学校時代の所業をいつか記そう。
▽
浜脇中学(1975年)
大学でたての頃、校外学級で生徒の勉学指導を。
かわいらしい女の子(中三)が私の靴を隠したり…悪戯したりで(それも週2回、一年間ずっと何等かの悪戯をやり続けた。だが他の教師にはおとなしく優等生で通っている生徒である)、🤡(私)は😠(多少怒る)。
ところが、側にいた男性教師が「うらやましい。僕もしてもらいたい」と。
若い頃が懐(なつ)かしい。私の時計は1988年or 1985年から止まっている。
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回想:大社中学校(1975年)
また、中学校時代の友達は大社中の一部よりも凄かった。大社中ではパトカーが学校に一度来たとっいっても、私の友は新聞に大きく書かれたレベルであった。私は夜の校舎監督のため、昼間は担当していないが、昼間学校を歩いてみたときには、私の中学校時代よりは相当まともであった。いずれ、私の中学校時代の話を記そう。(なお、悪戯電話の生徒の中の中心人物は、小学校時代生徒会役員などで優秀な部類の生徒と、同僚から聞いた覚えがある。)
私ですら音楽の時間に机の中を悪戯でこわし、教師数人に説教され…。私も忘れていた。それからわずか8年語に悪戯電話で生徒を叱るとは。もっとも、「お前らのしていることは、私の中学校時代以下である。もう少し派手にやれ」とは言えない。言えない理由は、叱るのを代償に賃金をもらっている。制服が違えば(別の学校の生徒ならば)知らぬ顔を教師の大半はするのが相場である。(※2024/06/15 17:22 追記。昼間、大社中学校の校舎内を歩いていると、顔なじみの女子生徒が「浜田先生…」と授業中に手を何人かが振ったたため、教師に申し訳ないので歩くのはやめた経緯がある。今考えれば、映画説で頼まれてやったのであろうが、当時はうれしいが(他の先生の手前)困ったであった。また、辞める前には大社中学の生徒10名くらいを連れて箕面に行っている。男子のカミキ先生に同伴をお願いしたことがある。そのとき送付していただいた記念写真が行方不明になっている謎もある。当時の生徒(1975年度の中学一年生の女子生徒約10名)などに聞けば覚えていよう。その後で、長姉が危篤となり、大急ぎで大阪の病院に向かうとすると、国鉄西宮駅でそのときの生徒の一部に出会ったが、姉が死亡するかどうかであり、形相が変わっていたため、彼女らは驚いたかもしれない。その直後に大学院浪人で実家に戻ったため、経緯を解説できないままでいることが心残りである。
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それでは視聴率稼ぎに困るということで、両者(大社中・真備高校)とも相似型で仕掛けがあった。
学校に赴任するや即事件を起こさす。これは、事実上、現場の教師により起こされたものである。
大社中学校校外学級の校舎内での悪戯電話事件では、男子生徒三人組か二人組か忘れたが、そのすぐそばに中学校教師がいた。彼(側にいた教師の方)が下手人に近い。真備高校では、友野先生により、事件は作られる。
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共に、主役は私でもなく・生徒でもなく、別の教師による騒ぎが本質であった。目的は上記の如く、何かないと、おもしろくないので事件を起こすであった。
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真備高校では、友野先生により事件は引き起こされ、やめるときには改発先生の演技か、それとも誰かにだまされた改発氏が行った茶番劇である。
真備高校は随所に書いたように、やめた本質は労働条件問題であり、実質は私が専任にしてほしいと校長に直談判したならば、断られ解雇されたのに等しい。
何故ならば、他の数校からのオファーはいずれも専任か専任前提であった。具体的には(私は他の学校、即ち駿台甲府高校若しくは駿台予備学校や井原高校での専任や専任前提の口があったが、真備高校が専任といえば真備高校にいる予定でいたが)それを断られた以上、事実上の解雇に等しい。真逆である。
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それも真備高校は(始めて教える)倫社担当(50分単価1600円、但しボーナスはあったし、能開大と異なり、交通費もあった。それも岡山の実家換算であった。総合するとポリテクカレッジ岡山よりはよかった)であるが他校は専門の政経担当という話であった。一言№269参照。
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cf. 駿台が1年目50分6000円、1987年が9000円、休日等は半額、一時金、新幹線はグリーン車・ホテル代支給、夏期・冬期講習はその1.5倍(1987年50分9000円、1987年夏等50分13500円)、別に出張手当もでた。模試作製や採点は別料金で支給される。担当は政経一本という契約であったが、後に罠にはまる。井原高校は専任教師と完全同一待遇で2年、その後は悪いようにしない…が真備高校辞める前に口があった他校の労働条件であった。)
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気がむけば一言・【回想】No.269:1981年回想・真備高校辞職の真相
●http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1681/
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それを改発先生の演技と、2年1組担任松尾先生、2組担任田中先生の退職問題と絡めて生徒問題に置き換えられたのである。
さらに、それをもっともらしくしたのが先の友野先生の演技であった。
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こうして、大した教壇ではないものを、生徒が大変型に置き換え、大社中学校とのアナロジーとしたのである。
友野先生が何をしたかの話は下記の通りである。
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回想:真備高校の大変な事とは。
真備高校という女子高校の教壇にたつ。2年7組、8組、9組はおとなしかった。1組は少し元気がよかった。とはいえ、後に考えれば、私の中学校時代に比べればおとなしかった。私の級友などは授業中に、少し散歩をしてくると、教室をでてブラブラして帰ってくるものもいた。
私も学校の器物の一部を手套で割ったり…と。思い返せば、2年1組でも、私の見た世界から言えばかわいらしいものであった。
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(私の中学時代)
私は単細胞であり、悪気はなかったが、みんなが学校にあった木の板を手でたたいても割れないのを見て、私が(空手の)手套(しゅとう)でやったならば一発で割れた。教師が来て逃げたが、逃げ遅れた人が殴られたと聞いたので自首をした。
私「私がやりました。殴ってください」と、殴ったと聞いた教師のところに行った。
教師は拍子抜けの顔をして唖然として、注意のみですまされた(叱られるというよりも簡単な注意で終わった記憶がある。とにかく教師は呆気にとられていたのをうっすら覚えている)。思えば、あの頃から映画説だったのだろうか。音楽の授業中の話は後日。
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私も、過去の所業を忘れており、生徒が授業中に喋ると非常勤講師間で愚痴を言っていた。
すると、友野先生が来て、「よし、わしが代わりに説教してやる(or 叱ってやる)」と言った。
私は何のことか意味不明で唖然としていた。
次の週、行くと、「わしが代わりにたたいてやった」と言う。
驚いた。まずい、と。
一番まずい理由は、彼女らは教師にたたかれるレベルの悪いことはしていない。判決で言えば、注意レベルである。体罰禁止以上に、罰が違っている。
そこで、やむをえず、2年1組全員に謝罪した事件である。
今、考えれば、友野先生は生徒に人気のある方であり、あっさりしているタイプのため、せいぜい、出勤簿でポンポン程度であろう。若しくは、言っただけで何もしておらず、たたいたというのは嘘だったかもしれない。
これも映画説のなせる業である。
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なお、当時の、私の体力は、友野先生と腕相撲をしても、彼が両腕で体重をかけても、私は片手で友野先生に勝ったであろう。
下記写真は47歳と52歳の時であるが、当時は29才であり、腕力はこのときよりも強かった。
47歳時:99-012-19A-fA(写真はクリックで拡大、二度クリックで巨大)
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52歳時:04-013-14-f-A