『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―
(7)・駿台事件とポリテクカレッジ岡山(能開大)との関連性
【更新履歴】
2023/09/20 0:13からメモ開始。3:31本日分打ち切り。2023/09/20 15:47 写真のみ追加。
2023/10/28 3:42 大幅修正。2023/10/28 12:05 前書きを追記。
上記の頃にこの原稿のメモを書いたと推定される。
2023/12/24 23:37 から徐々に記述再開予定。2023/12/25 5:03まで下書き掲載:18:26から下書き継続開始中
2023/12/26 2:01下書き終了。明日(2023/12/27)昼頃正式公開予定。2:46微修正。
2023/12/26 12:10清書化作業終了項目→12:44 ◇―1迄。13:28◇―2迄。14:30 ◇―3迄。16:06 ◇―4迄。16:51=◇―5迄。17:45=◇-6迄■18:00から正式公開予定。
2023/12/26 安らぎBlogで18:00 正式公開:併行して、公式Blogでも18:30から正式公開。18:38微修正。18:46レイアウト修正。18:55: 駿台女性のまとめ雛形添付
【構成】
《◇―序・授業の場を奪われ、生きる権利を剥奪されたポリテクカレッジ岡山時代》
《◇―1:駿台辞職とポリテクカレッジ岡山及び勤務校での全ての豹変》
《◇―2・体当たり人物は学生Sの名を語った偽者の証明》
《◇―3・未曾有の大流血事件を強制的に回避された話》
《◇―4・精神破壊へのポリテクカレッジ岡山の波状攻撃》
《◇―5・私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠》
《◇―6・語学論と私の歩み―…日本語・英語大恥連続と早大院時代の修論の屈辱》
《◇―7・駿台事件とポリテクカレッジ岡山(能開大)との関連性》→今回
―私が終始一貫して臨む物―民主主義に基づく裁判での解決―
(表紙の写真):写真はクリックで拡大
各種個人情報が出てくるが、下記の如(ごと)く、金銭損失のみならず、奇妙な形での死者や、私自身が交通事故を装った形で命の危険に遭遇したり、駿台講師時代のごとく不審人物に拉致されかけたことなどから、個人情報であっても、人命上緊急避難措置として実名公開はやむを得ないと判断したことによる。
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⚔人権回復(人間違い問題解決に向けて)同一住所番地二軒問題:私とZ3氏実名…での比較図(公式Blog)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=41102
(ハッカー対策用安らぎBlog)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=32007
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《◇―1・駿台と能開大トラブル相似形及び類似性について》
相似形とは能開大の危害が駿台での危害+10年で起こったことであり、 ポリテクカレッジ岡山の正式名称は岡山職業能力開発大学校である。略して岡短と言っていたときもある。この文書では、ポリテクカレッジ岡山、能開大と両方を適当に使っている。
駿台の正式名称は駿台予備学校である。この文書では駿台と略す。
①目立つトラブル年度。
駿台で刑事犯罪被害が多発するのが1987年。
能開大で学生を名乗る無法人物がかなり登場するのが1997年。
②辞職年
駿台が1988年1月末か2月上旬。
能開大が1998年1月末か2月上旬。
③両校の拡大年
駿台の関西での学校新規創設が多い年度が1988年度であり、それを待たずに辞めることになる。
能開大グループの主たる四年制移行が1998年度であり、それを待たずに辞めることになる。
④交渉文書送付時
内容証明を駿台に送付し、返答があったときに、🤡(私の)母と伯母(母の姉)がおもしろがっていた。(駿台内容証明送付1987年12月)
ポリテクカレッジ岡山に交渉文を送付し、返答があったときに、🤡の母と伯母がおもしろがっていた。(記載は1997年12月、送付は1998年1月)
両方共になぜか、母の姉(伯母:義伯父が旧国鉄勤務)がきていた。
⑤その他の共通点。
駿台も能開大も、ともに、🤡(私)をCM塔として採用した疑惑。
無関係人物の教室への乱入。
辞職時の体重は同一の55㎏。
最終授業は駿台が1988年1月末か2月初頭、ポリテクカレッジ岡山が1998年1月末か2月初頭
⑥その他
伯母の息子の一人はZ3(正典氏)と同じ愛称である、一人は私と似た名前(隆…)である。また伯母の夫とZ3氏の父が同じ職業(国鉄)であった。またZ3氏と伯母の息子二人は当時兵庫県尼崎市に住んでいた。
駿台事件もポリテクカレッジ岡山の違法行為被害も、なぜか、🤡(私)の知人関係が面白がっていた。みんながクスクスと笑っていた謎がある。
⑦総論
駿台と異なり、能開大では女性問題が登場しないではないか。同一である。駿台でも女性問題は一切存在していない。女性の問題、女性が問題でしかない。ちょうど、我が村のZ👵や近所の何人かの🚺(女性)同様である。これらは🚺(女性)問題ではない。🚺(女性)が誰かに依頼され、何かと引き換えに工作(待ち伏せ、罠、つきまとい、催眠を事前に知った上での各種工作)をしているのであり、女性職員の女性を除けば、同一である。職員による(事実上の業務妨害や詐欺罪に該当する)工作である。
駿台では、客観的に分析すれば、女性問題などは最初から存在しておらず、重要なことは業務妨害と各種刑事犯罪被害であった(問題のすり替えがなされていた)。各種工作と、(私の意思が全く存在していない、1997年1月の交通事故同様に)催眠利用でのドタバタ騒ぎのみと言いたいが、1986年度からは(あからさまな)授業妨害(業務妨害)、1987年からは各種刑事犯罪被害であった。
ポリテクカレッジ岡山も同様であり、各種妨害と、部外者乱入等の被害と労基法を含む各種契約違反の刑事判事被害であった。全く同一である。
同時に雇用促進事業団に賠償・交渉文書を作成していると、しばしば+10年と改竄(かいざん)された謎もある。1988年1月ならば1998年1月に、1987年11月ならば1997年11月に…。恰(あたか)も、駿台事件の主たる危害者とポリテクカレッジ岡山の主たる危害者が同一であるというが如くに。手口は一緒であった。「雨だれ石をも穿(うが)つ」方式と言いたいが、実際には大きな危害も受けている。
加害者は名目上は「雨だれ石をも穿つ」方式を戦略としていたようである。一つ一つの事項はたいしたことがなかろう。だから、浜田隆政君の神経過敏だと思わせるやり方である。そのかわりに、しつこく、長く、もの凄い回数の繰り返しで行うという方式である。そうすれば雨だれでも石(意思)を壊す。私の体を壊すである。そして、実際に壊れたことである。十二指腸潰瘍での大吐血と長期入院、更には自律神経失調症、うつ病を激しくした状態や躁鬱(そううつ)病…と続く。
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(2023/12/26 12:59雨だれ石をもうがつ方式の追記)
数年前から小銭問題の挑発が続いた。1円玉、5円玉、10円玉…と。正に些細な話であった。だが、それを長期、しつこく、更に催眠も使われやられるとかなり参る。最低でも明白な業務妨害となっていた。駿台時代はそんな比ではなかった。ポリテクカレッジ岡山時代では、専任詐欺、より大きな額(50万円クラス)の契約違反・労基法違反、各種違反のオンパレードであり、その効果は小銭問題と対比すれば明白になろう。
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《◇―2・干渉者の構造と新仮説―ポリテクカレッジ岡山は駿台がセッティング若しくは加担疑惑》
駿台講師時代、ポリテクカレッジ岡山時代、岡山の予備校…とほぼ全てにおいて(干渉者は)最終的に三部構造(当初は二部構造)となっていた。構成要素は以下である。
(A)映画説グループ
(B)CM目的グループ
(C)謎のXグループ
(A)映画説については、もはや疑う余地はない。映画説の場合には次の問題を忘却してはならない。
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(私の)大学時代までの結婚観は、「結婚は早ければ早いほどよい。煩悩から逃れ、勉学・仕事・運動にうちこめる。だから学生結婚でもよい」であった。
そうすれば、家で早朝運動、仕事、帰宅後に運動と勉学、その繰り返しのみの一生となる。具体的には、早朝基礎運動、自転車で学校にゆき教師としての仕事、帰宅前に温水プールで軽く泳ぎ、帰宅するや、即教材研究…だけの日々である。
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これでは映画説ならば、映画はお陀仏(だぶつ)である。そこで各種細工、ところがそれでも無理ならば催眠類が多数投入される。無茶(むちゃ)である。
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【回想】―6・(大学5)[№227]:関学時代5・を握る登場
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1465/
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(B)CM目的グループについては、ベネッセ、ベスト電器、Nikon…の例や、世界遺産請負人の例を思い出せばわかろう。そして、ポリテクカレッジ岡山(能開大)と駿台である。その土台には(A)映画説の利用・悪用がある。
通常はこの二部構造であるが、駿台の教壇以降は三部構造となっていた可能性がある。あと一つ、(C)謎のXグループが絡まったとしか分析できないからである。
と言うのは、駿台時代に手紙程度の問題ならば、🤡(私)が駿台を去った後でも、駿台を匂わすグループが関与することはないからである。
なお、この箇所は駿台講師時代ではなく、ポリテクカレッジ岡山時代なのであるが、駿台時代抜きでは語られない部分があるため、駿台時代も絡めて記載している。ポリテクカレッジ岡山時代には労基法違反・専任詐欺問題、契約違反、更には催眠類悪用での貢ぎ労働、強制労働被害などが加わる。
ポリテクカレッジ岡山は特殊法人・独立行政法人が運営していたが、旧労働省所管の大学校である。あれだけの犯罪を行っていれば、通常ならば、金銭の額を除けば交渉は何度も行われているはずである。所が、責任問題となると、ポリテクカレッジ岡山は何故かその責任を駿台の方に回そうとしているのである。
当初は、意味が分からなかった。ポリテクカレッジ岡山辞職後から長期にわたり、その意味を、駿台辞職後に、駿台に絡んだ輩(やから)が、私に危害を加えているのかと思っていた。だが、駿台に絡んだ輩はXグループであり、駿台とは関係があるまい。
同時に、ポリテクカレッジ岡山での被害にXグループや駿台に関係している人間が絡んでいても、ポリテクカレッジ岡山の職場での職務に関する被害のため、責任はポリテクカレッジ岡山にあるはずである。現時点でもそう考えているが、Xグループ以外にもう一つの要因があったことを最近疑っている。簡単に言えば、ポリテクカレッジ岡山の仕事に私が就いた背景には駿台経営陣も関与していた疑惑である。悪魔で疑惑であり、まだ断定はしていない。
同大学校教壇に私を立たす上ので駿台CM陣の目的は、駿台の教壇にたってすぐか若(も)しくは駿台の教壇に立つ前から、私の放逐計画があった疑惑にある。その際に、駿台の責任にならないようにするため、ポリテクカレッジ岡山の教壇に立つのも駿台も関与した疑惑である。
要するに、駿台が本命ではなく、ポリテクカレッジ岡山が本命…として駿台の将来の責任逃れをする計画が立てられていた疑惑である。
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この疑惑は三つの方面から生じてきた。
一つは論理である。責任逃れのための論理である。
要するに、駿台も私にいつか賠償をするようになるかもしれないが、逸失利益の大きな部分に絡まぬようにするためには、駿台の教壇はあくまで専任ではなく、非常勤講師であったとするためである。逸失利益に絡めて計算する場合には、数十年にわたるとなると、賠償額が、専任待遇と非常勤講師待遇では金額が大きく異なってくる。
二つ目は、ポリテクカレッジ岡山での専任なる話の経緯と、後に登場した岡山中学・高校の専任になる話が余りに符号をしており、ポリテクカレッジ岡山も上記の手口で逸失利益型賠償額を減らす工作をしていた疑惑である。
三つ目は、ポリテクカレッジ岡山の教壇にたつや、即、ヤマザキ強調が随所でされたことである。当時の駿台の理事長が山﨑春之(1926年2月4日 – 2010年1月13日)氏であった。
更に、四つ目も付け加えられるかもしれない。1983年という年次である。この年にありとあらゆる仕掛けがなされるのである。
これらを軸に1983年度、1984年度、1985年度以降に分けて掲載をする。
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(2023/12/26 12:12追記)
なお、2013年以降は(D)として、政治及び政治家がから絡んだ疑惑がある。
(D)政治及び政治家の絡み。
この場合には、🤡(私)の人権救済以外では各種法律に違反する可能性が高い。本来あるべき、拉致問題解決への道と同様に党派無関係、公正・中立、ガラス張り…を願う。
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《◇―3・1983年の物語―嵐への用意万端》
それでは、この1983年度を軸にして仮説を物語風に記載する。
1981年4月に東京から岡山に戻る。そして、真備高校の非常勤講師となる。
その年のおわりに、駿台甲府高校の採用試験を受ける。合格であった。当然、私は駿台甲府高校の採用試験を受けたのだから、駿台甲府高校の教師となるものだとばかり思っていた。一次試験が一般教養と専門の試験であり、二次試験が模擬授業(表三郎氏などが試験監若しくは審査員)であった。両方とも合格した。競争率は50倍近いという噂もきいた。関西地区での社会科公募採用は私が初めてということを誰かに聞いた覚えもある。50倍とは、私が受ける前年度の同志社大学大学院法学研究科一次募集時の合格率と似ていた数値である。
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私の逸失利益計算について(駿台講師の事例):同志社法学研究科・早大政治学研究科・関学法学部卒業資料
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=35955
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ところが三次試験という形であったが、事実上、最後の打ち合わせ面接に行くと、予備校の教壇という話であった。ただし、今すぐは無理であるが、後に駿台甲府高校への異動も可能ときいた。更に、専任もなれる可能性は高いと聞いた。遠慮なく言えば、私の場合にはなれる可能性の方が高いという雰囲気の返答であった(対応は矢田祐三部長)。公募第一号合格ということだろうか。
こうして、1982年度から駿台の教壇にたつ。最初の頃は、いくら映画説でも、箸にも棒にもかからねば駿台におくことはできない可能性が高いため様子見をしていたかもしれない。1982年の半ば頃から、目処(めど)が立つとよんだのか、幾つかの準備を開始したようである(いや、後の状況を見るとそうではない。CM>授業のようであった。)
嵐への準備の一番目は、話題提供用に私に絡ます女性群の決定である。
私に絡めた講師室係の女性、西山美千代、横家幸子、後藤、タケウチの四人組は全員1982年の採用試験のはずである。そして全員1983年度に入社してくる。
こうして、私に絡める目的で、その使命のもとに四人を採用したようである。それらの証拠類は後で記す。逆に言えば、この四人以外の駿台職員女性は絶対に私に絡めないし、その危険があれば排除するという徹底ぶりであったことが後に判明する。
次に、私を駿台から放逐した場合の責任逃れ用の工作をする。
もう、この時点で、私の駿台からの放逐シナリオはあったとしか分析できない。西山という女性に手紙を出すどころか、関心もない頃にもう私の放逐は決まっていたとしか分析できない。
一方的に追放したならば、駿台の責任問題が問われた場合に、その賠償額は私が専任とかそれに準ずる立場となると、逸失利益型で計算すると大変な金額となる。そこで、最悪時でも非常勤講師待遇で逸失利益を計算する魂胆をしたように思われる。逸失利益型とは35才で放逐して、その後仕事ができないような形になった場合には、75才まで仕事が可能として計算すると40年間の賠償となる。その40年を専任の給料で計算するか、非常勤講師の給料でするかでは天地の差がでてくる。29才から80才ならば51年にもなる。
そこで、駿台はあくまで非常勤講師であり、専任の件は白紙とするための言い訳が必要であった。
その計算から、ポリテクカレッジ岡山の教壇を準備したのは実は駿台の経営者の一部ではないかという疑惑(悪魔で疑惑にすぎない)である。そして、1982年後半に、ポリテクカレッジ岡山から私への招聘(しょうへい)がある。当初は非常勤講師ということなので、断りに言った。それを知っていたのか、当時のポリテクカレッジ岡山開設準備室室長・森本茂樹氏が「いえ、非常勤講師ではありません。先生には専任でお願いしたい」と言ってきた謎がとける。
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※(2023/12/26 14:27+15:04 追記)
1982年後半に、あと数ヶ月後にポリテクカレッジ岡山の専任になるならば、駿台に迷惑をかけてはならないので辞表を書きかけた。すると、盗撮でもされていた如(ごと)く、ポリテクカレッジ岡山から私に連絡があった。来年度春からの専任は中曽根行財政改革の関係で難しくなった。しかし、必ず専任になれるので、来てもらえないか」ということであった。
もし、駿台に辞表を出していたならば、ポリテクカレッジ岡山の専任詐欺問題は今以上に明白になっていたであろう。
だが、駿台の方はもっと大変であったであろう。まず、🤡私の対策用に確保した🚺(女性)四人組が活用できなくなるばかりではなく、(全国展開前の)駿台大CM計画がご破算となったのであるから。当時、駿台は関東以外では(特に地方では)代々木ゼミや河合塾よりも知名度は低かった時代である。
電話を高柳のアパートにつけたのは1982年度と思うが、違っていれば1983年度である。もし、前者ならば、正に盗撮の如(ごと)しとなる。辞表を書きかけるや即電話となるからである。私の記憶では正にその通りであったとなっている。催眠コントロールで記憶も操作される可能性があるための婉曲的表現である。
万一、電話の設置が1983年度ならばポリテクカレッジ岡山に行くや言われたのであろう。電話を設置するまでの電話連絡は、当時近くにあった寿司屋・笹寿司のママさん宅で電話を受けて、私に連絡をしてもらうとなっていた。笹寿司のママさんとは1982年度に(当時、店のすぐ近くで仕事をしていた関係で店の常連であった)岡映氏を私に紹介した人である。ママさんは私が民主活動をしていることは一切知らない人であった(少なくとも、1994年頃までは。今でも知らぬかもしれない)。(◇―6で登場する)岡映氏とは単なる偶然の出会いである。後に店を三門駅付近に移動されたが、ママさんが健在と思うので聞けばわかろう。
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私への招聘(しょうへい)は、「法学」と「経済学」であった。私は何度も記すが社会科の教師である。真備高校でも社会科担当(倫社)である。教員免許も社会科である。駿台でも社会科の政治経済で教壇に立っている。ところが、意表をついて「専任になるには授業時間数が足りませんので、英語も担当できないですか」と言ってきた。青天の霹靂(へきれき)であった。
大学や高校の英語教師になりたい人間は当時は山ほどいた。安価な賃金でも、労働省系大学校の英語講師ならばくる人はいたであろう。特に、女性ならば。女性蔑視ではないが、旦那さんが働いていて、家にこもっている人材などはくる可能性が高い。実際に、1997年の学務課長:森脇一雄氏などは、「君、専任なれる訳がないだろう」とか、「英語講師のなりては多数いる」などをほのめかしていた。前者の「専任になれる訳がないだろう」はほのめかすのではなく明言した。要するに、専任にする意思はなく、最初から詐欺をやった疑惑もある。
そこで、駿台と同じ責任逃れ型で、今度は、岡山中学・高校の桐山公雄校長に同じ形の依頼をしたのではなかろうか。全く同じ手口での専任問題が二度連続で起こる確率は高くない。
こうして、1982年内に、駿台講師質で絡める女性、駿台放逐しても専任問題が生じぬようにポリテクカレッジ岡山に手を回した可能性がある。いずれも1983年度から本格作動となる。
女性四人組が駿台に入社したのは1983年4月(西山、後藤、たけうちは間違いなく1983年度、横家も1983年度と思うが、彼女の存在は私は1984年9月まで覚えていないのである)、そしてポリテクカレッジ岡山の教壇に立つのも1983年度である。
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ちなみに、平野真理先生(英語担当)が私の目の前に登場してきたのも1983年度である。私とは友好であった、福崎伍郎君(英語担当)が登場してきたのも1983年度であった。福崎君は何の関係もないのだが参考記述である。なお、駿台の1981年度公募試験の倍率が50倍とは福崎君がYouTubeで先日言っていた。というのも、彼は私と同様に1981年度の採用試験で合格したが、駿台の教壇に立ったのは1983年度と言っていたからである。
福崎君は二枚目であり、理知的な教師であった。そこで、私は後によくぼやいていた。「福崎五郎君は二枚目で、人気もあり、…である。どうして、女性陣は福崎君にいかないのか。どうして私の方ばかりに…関心を持つのか」と愚痴っていた(福崎君には面と向かっていっていないが、私は本当に当時何度も思ったことがあった)。駿台講師時代の話である。
平野先生はその前から駿台にいたと聞いたが、私が教壇にたった1982年度は産休だったそうである。こうして、1983年度に準備万端となる。
なお、関学時代のお嬢2号(🎎)が岡山市の一軒屋を借りたのも、1983年度ではないかと思う。今資料を調べると、1984年の年賀状に岡山市に来て4か月目とあったので、やはり1983年であった。🎎お嬢の役割は🤡(私)の監視役である。逆に言えば、1984年度に何かあることが決まっていたので、その前に監視に来ていたとなる。要するに、1983年度には(1984年度に起こる事件の件は)全て用意万端となっていたのである。
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🎎=お嬢2号(🎎)
気が向けば一言 №221【回想】👧女性回想―3・大学時代(その2)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1444/
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《◇―4・波乱の1984年》
1984年度は波乱の年であった。
NHKで「パパ行ってらっしゃい」という番組に、私の東京時代の家庭教師をした教え子が登場したので、(岡山市に引っ越しをしてきた)お嬢2号に、私の教え子がテレビに出ていると電話をしたのを覚えている。ちなみに、拙著「日本のフィクサーME」登場の🎎お嬢2号のモデルの一人は教え子(蒲田)と似たような名字である。実名としないのはお嬢2号は合成モデルだからである。
中村メイコさんが司会であり、教え子も登場した。蒲田さやか(名前も漢字を知っているが敢えて平仮名表記としている)さんと言う。東京で教えていた(大変かわいがっていた)女の子と、週に一度合同(1対2)で教えていたことがある。NHKの番組表には「1984年3月19日 総合 番組表 (午後)07:30NHK特集」(https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040209_00000)とある。こうして1984年度の幕が開く。
なお、女の子回想№23で登場する子が二度目か三度目に別人になっていたと後に思ったと記したが、私は数年後にこの子(蒲田さん)が入れ替わったかと思ったことがあるが、🎃オジョウは「いや、あれは私が化けたと」ほのめかしている。
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(2023/12/26 15:09:重要な追記)
可愛いと言えば、鎌田さやかさんも可愛かった。もう一人の子供の方はよく懐いてくれたので、目の中にいれても痛くない感じであった。しかし、噛まれれば痛かった🙄。この噛みつきは通常のこどもは思いつくはずがない。これは長姉の息子の方が幼少の頃にじゃれて私に思い切り噛みついて遊んでいたことがあり、長姉がこの家でアドバイスしたとしか思えない。正に映画説である。しかし、重要なのは赤字の方である。
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女の子回想№23
教育・女性をめぐる各種デマへの反論―4⑦・駿台、更に謎の差別文書の謎―⑦(=その7・大阪校時代・不可思議な女性出現の謎。007の世界)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=26744
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【駿台】№207 女性問題でっちあげ被害、引き続くトラブル、更に人間違い被害疑惑(4)・駿台女性の謎と人間違い説
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1386/
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早大大学院時代にかわいがっていた子については下記参照。蒲田さやか(名前の方は敢えて平仮名表記)さんはテレビで実名登場のため、実名とした。この子の方は実名でメディアに登場していない上に、ポリテクカレッジ岡山や駿台事件と無関係上、実名としていない。
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新一言№70・👧教え子回想―早大院時代の家庭教師
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/12/25/3267/
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先の鎌田さん関連は下記も参照。
鎌田邦彦、『エプロンが消えた朝―妻のガンと闘った松下電器・元広報課長の750日』(主婦の友社 :1983/1/1)
文献の方は蒲田ではなく鎌田となっている。NHKの番組表では蒲田、私の住所録でもさやかさんは蒲田となっている。ちなみに、ポリテクカレッジ岡山には神戸市から蒲田先生と「かまた」と名の付く先生がこられていた。「かまた」という名も度々登場するので参考記述である。
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1984年初頭には、私の駿台からの放逐も、ポリテクカレッジ岡山からの放逐も完全に決定していたと推測される。その理由は後で述べよう。
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なお、私にポリテクカレッジ岡山の話をもってきたのは嶋坂敬郎先生である。彼の父は京都外大の学長をしていたそうである。彼も奈良女子大、甲南大学などで教壇に立っていたが、中心は京都外大の教授が本職だったようである。嶋坂先生は私よりも20才ほど年上であったが、相棒のような形で付き合いをしていた。今考えれば、映画説グループから依頼されての演技であったのであろう。もっとも、京都に縁のある人であり、駿台関係者からかもしれない。
彼は、私の駿台でのライバルと言われていた前田先生(別名・杜晃精。駿台では前田晃名義で指導。さらなる別名として前田晃精、森一樹がある)と似ていた。嶋坂先生(別名伊沢先生)も名前を幾つか持っていたからである。
こうして、1983年度に全てがそろい、いよいよ1984年度から攻撃開始となる。
もっとも、1984年度どころか、1982年採用時から、私がいつ駿台を放逐されるかは決まっていたと分析される。同様に、ポリテクカレッジ岡山でも、私の放逐は採用前から決まっていたようである。
1984年1月頃に催眠での強引な西山熱が起こるが、抵抗して粘った。更に1984年前に(催眠での)西山熱が再発する。それも拒否して見合いをした。それが例の池田動物園に行った女性である。
だが、シナリオ上、西山に熱をあげ、何らかの行動とるようにという激しい催眠攻撃があった。(最初から手紙を出すというシナリオがあったと分析される。詳細は駿台深層・真相編で語ろう。)
ついに力尽き、1984年9月に西山美千代に手紙を手渡す。この直後から後藤と横家の演技が続く。横家なる女性は西山に手紙をだし、彼女らが何があったかという演技を開始するまで、名前も顔も知らないか・少なくとも覚えていなかった女性である。この後は駿台真相(深層)編で語ろう。
こうして1984年度後半に入る。ここで🛵おじょう🌈が登場する。彼女が登場する直前に京都行きの新幹線で🌈(虹)を見た。鳥取でのデートでも🌈虹を見た。そこで🛵おじょうを🌈(虹)で表現することがある。
なお、先の池田動物園で見合いをした女性をもじって登場するのが、(2015年)訪米の際の添乗員・池田さんであるが、彼女とレイクパウエルにいた時にも🌈(虹)を見た。
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下記の前半部分に池田さん…の経緯が登場する。また訪米最後の箇所でも登場する。
「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第3節相棒登場から”まさかの”トイレ攻撃まで
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40873
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本題に戻れば、この頃に、岡山中学・高校校長桐山公雄先生から、ポリテクカレッジ岡山と同じ手口で岡山中学での専任教師のさそいがある。
「おまえ、絶対に来るな。専任での仕事は来年春からだ」と。教科は何か。これまたポリテクカレッジ岡山とそっくりであった。「国語だ。しばらくは仮免で国語の教師をしろ。そのうちに社会科にまわす」と。ポリテクカレッジ岡山の英語に対して、今度は私の苦手な国語できた。ともに語学である。ちなみに、私は社会科の教師である。
私は行く気はなかったが、ここでポリテクカレッジ岡山の専任の確認をすることにした。ポリテクカレッジ岡山の責任者森本茂樹氏は延々と引き留めをした。
「専任はまず大丈夫です」とか「賃金は安いかもしれませんが、福利厚生が充実しているし、年金は厚生年金です」とか、「今は中曽根行財政改革の最中ですので、しばらくは無理ですがが、かならず…」「専任にするための最大限の努力はする」、私が採用の際の試験に関して聞くと、「(採用)試験はありますが、浜田先生の場合には受けるだけで合格します。受けるだけでよいのです」等などと実質的な引き留めをされた。
なお、ポリテクカレッジ岡山での一連の攻撃が本格化する直前に、嶋坂先生が「心配せんでいいがな。ポリテクカレッジ岡山でも専任…と。お前の専任確約はテープにとって金庫に保管されている」と明言していた。私の専任確約は私がポリテクカレッジ岡山に行ったときには謂わば周知事項であった。先の蒲田先生も当然知っておられた。
しかし森本氏は、私が岡山中学に行く気が余りないのに気づいてから、最後は「君の一生の問題だから、行くなということはできない」と逃げ手をうった。
これが岡山中学の役割であったと分析をしている。この手口は駿台がポリテクカレッジ岡山をつかってやった可能性がある手口である。うがって考えると、駿台経営陣が、1982年度に全て考えた手口ではなかろうかと思う始末である。(要するに、集団詐欺の疑いがある。)
ちなみに、専任で教壇の誘いがあった1985年度春になっても、岡山中学に返事をしなかった。もちろん、私は行くとは一言もいっていなかった。桐山校長が勝手に「おまえ絶対にくるな(来ますね)」と言ったが、私は行くとは一言もいっていなかったはずである。すると、困ると考えた如く、(1985年)4月か、3月末頃、(福武書店が経営していた)進研予備校に行くと、なんと、その桐山校長が岡山中学・高校の校長を辞めて進研予備校の校長になったと言って、同予備校の校長室からでてきた。
※福武書店(現・ベネッセ)創始者の福武哲彦氏は私の父の岡山師範一年後輩で、父の死後に知ったが父と知り合いであったようである。
そして、「君には悪いことをした」と一方的に謝罪をしてこられた。私が、「連絡をせずにすみません」と言う直前に先手をうたれた。こうして奇妙な一連の流れがつくられていた。
私は、当時は、仕事は駿台の方が面白いが、牧歌的で安定しているポリテクカレッジ岡山の専任と決定していた。そこで、いつ岡山中学に断りをいれるかという、嫌な思いから断りの返事がのびのびとなっていた矢先の話である。少しおかしいどころか、大いにおかしい話である。
これが1984年である。
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《◇―5・1985年以降》
1985年には計画的な放逐が本格的に開始となる。ここまでは、駿台のCMと映画説の競合である。登場人物も二群からなっていた。
🛵おじょうと駿台の藤村尚美先生(国語担当)は映画説グループと思う。また先の嶋坂先生も映画説グループと思う。{藤村先生には岡山で30万円を貸し、返還されずに弱ったことがあった。そして、1988年1月に駿台辞職の一時金若しくは退職金として駿台から30万円が渡された。それを暗示するため、30万円で揉(も)めさせたのであろう。詳細は駿台真相編で記す。}
他方、駿台講師質係四人組は駿台CMグループと思う。Xグループではなかろう。化学の北山一氏などは駿台CMグループの可能性が高い。西山は西山ファーム事件が飛び出してきた話との経緯関係を駿台真相・深層編で記すが、駿台CMグループと思う。
ここまではXグループはいたのかどうかは不明である。
1985年度には後藤と横家を絡める計画があったと分析される。そのためには🛵おじょうがいたならば不可能である。写真をみれば分かるが、容姿のみならば後者を選ぶ人も多かろう。そこで、映画説グループの指示で🛵おじょう🌈が自分で私との関係を潰(つぶ)す演技をすることになる。
🛵おじょう🌈との事実上最後のデートは京都の愛宕山である。私がよく行く岡山県美作市長福寺の三重塔裏側の山も愛宕山である。JR西宮駅から関学への行きがけにも愛宕山経由関学・甲東園行きのバスがある。🧜お嬢1号のいる久美浜にも愛宕山がある。
なお、私の父が1992年に、「長福寺に絵を書きに行くので、車で連れて行ってくれ」と言った。それが当時撮った下記写真である。父のうしろ側に見える山が(美作市の)愛宕山である。同時に、長福寺の三重塔の前であり、🛵おじょうの名前が「みえ」であり、三重塔の「三重」も「ミエ」と読む。
なお、私はこの頃はうつ病を激しくした時期で外にでるのも苦痛であった。寝てばかりいた。写真などは撮る気力もなかった。この写真は父が、絵を描くので前から撮ってくれと指示した写真である。○○の場所から、と。ただし、カメラは単焦点であり、超広角類がないため、愛宕山をうまくうつせていない。それ以上に、カメラを開始前なので技術もなかった。印鑑の辺りが愛宕山である。三重塔の写真もつけたが、今見ると酷(ひど)いというものではなかった。そこで、今回絵風加工で誤魔化している。一番上の今回の原稿用・絵風三重塔写真も同様の処置をしている。父が描いていたのはこの三重塔である。
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【父の写真】
ここからも、🛵おじょうは映画説グループと思う。ちなみに、駿台からの退職金該当のお金30万円も、藤村先生と揉(も)めたのも30万円で「ミエ」となる。同時に、1984年度の岡山中学・高校の件で引き留められたときに、駿台幹部から松茸三昧のもてなし接待があった。この松も意味を持つ。
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🛵おじょうについては、1988年頃に復縁を依頼したが返事がなかった記憶がある。駿台辞職後も、思い出していたのは🛵おじょう🌈のみであった。
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(🛵おじょうの解説)
👧回想―🛵おじょう🌈回想(閉じた窓にも日は昇る・真相編の一部)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=30983
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1989年もGreen Fieldsという歌を聴きながら🛵おじょう🌈を懐(なつ)かしがっていたのを覚えている。それでは駿台四人組を回想させる関係で困るということで、🛵おじょう🌈の思い出を砕くために登場したのが西田ひかるであった。今、西宮市の美作町近くに住んでいるようである。西田ひかる熱を打ち砕いたのが🎃オジョウである。こうして、🛵おじょう🌈への思い出は破壊された。
同時に駿台四人組擁護催眠攻撃(例:「男はつらいよ」のマドンナ役だ…的なぎまん催眠)も何度か試みられた疑惑も後にでてくる。こうした工作がなければ、駿台🚺四人組は顔も名前も少ししか覚えていなかったのである。これらも駿台真相・深層編で記そう。
これらから分かるように、🛵おじょう🌈は明白に映画説グループである。これらも駿台真相編で記そう。
なお、おじょうと食堂で話をしていたときの😭は、後に記すが、彼女の計算であった。これを近くで見ていたこどもを含めて、見ていた人は全員勘違いをしたであろう。それらもいずれ真相編で語ろう。なお、おじょうの計算通りに登場した横家・後藤の話も駿台真相・深層編でしよう。
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(参考:ここに🛵おじょう~西田ひかる~🎃オジョウの話と、駿台女性を含む何人かの写真えを絵風に加工して掲載している)
哀れな🤡ボン物語【🎼#世界の歌】🇺🇸US:第四部(Part-4)№19所収:(写真拡大版)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40934
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本題に戻る。
こうして1986年度に大阪校に異動すると、今度は業務妨害被害のオンパレードとなる。そして、駿台外の拉致未遂被害を受けて、内容証明を出し、首をかけて調査を要求したが、効果はなかった。拉致被害未遂などの刑事犯罪被害や業務妨害のオンパレードで駿台を辞職することになる。要するに放逐をされる。
また最高責任者の嘘(関西地区最高責任者大滝満夫部長の「先生、三年たったならば戻ってきてください。駿台は門戸を大きくあけてまっています」と正式会談で正式に言われたの:駿台大阪校職員室)で訴訟もやめた。だが辞職後三年目に駿台京都校に復帰の打診にいくと門前払いであった。もっとも、その直前から意識の後退期にはいっており、もはや訴訟云々は不可能となっていた。
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《◇―6・謎のXの存在が論理的に明白となる》
問題はここからである。
私は駿台を辞めた。すると、もう業務妨害はやむはずである。しかも、(大滝部長の)三年後…の言明があり、訴訟は断念しているため、もうあらゆる妨害はやむはずである。だが、今度はポリテクカレッジ岡山が激変してくる。同時にアルバイトでの所業と思われる授業破壊学生や偽学生が横行してくる。そして労基法違反・契約違反のオンパレードとなる。
恰(あたか)も、駿台を匂わす誰かがしかけたと言わんばかりに。
だが、もう駿台CMにはならない。そこで、駿台CMグループにはもう動機はない。ポリテクカレッジ岡山CMグループには動機はあるが、大義名分がなりたたない。すると、論理上、駿台のどたばた騒ぎ中で絡んだと思われるXグループがでてくるのである。このXグループは、誰かは未だに特定できていない。ただし、駿台経営陣(駿台CM群)は最初から計算していたようである。おそらく映画説群も同様である。
その根拠は本年(2023年)3月に姫路に行かされて分かった。随所に書いている、夢遊病状態で目に入ったのが百十四銀行と播州信用金庫(現在の代表者・和田長平)である、と。
1983年度入社京都校講師室係女性名を再度だせば、西山・横家・後藤・タケウチである。西山・横家・後藤の使命はわかった。たけうちは?彼女はしきりに、百十四銀行を強調していた女性であった。「父が…」と。
百十四銀行=金融機関=播州信用金庫=Z家(浜田稔・正典家)内にあった皆木家の小父さん(金融機関の宿直)を示唆する役目だったようである。
2009年、祖父の土地問題で岡山県民局と揉(も)めに揉(も)めたことがあった。当時の県民局の担当者は「竹内」と「ミナギ」といった。すると、駿台講師室係「タケウチ」の役目はミナギ家の暗示役だった可能性が高い。
要するに、人間違いでXグループを絡めるというシナリオに駿台CM群も協力したようである。
なお、一連のトラブルは「人間違い」にあると2012年に明言した友人の結婚式のことを思い出す。彼の結婚式は1988年3月であった。そのときに彼の叔父さんが別人と入れ替わっていた。人間違い強調はこの時点でもされていた。ちなみに、彼の叔父さんの職業は税理士であった。弁護士🆚公認会計士ならば司法書士🆚税理士という図式は誰でも知っていることである。なお、彼は、私がカード詐欺に遭い、人間違い問題を解き始めたその日に死亡した。彼は長く糖尿病を患っていた。また、駿台を辞職するや、駿台講師の川端三郎先生(生物担当)そっくりの声の人物が登場してもいた。
ちなみに、横家とは「横」の家である。我が家の横は浜田稔・正典家である。そして、横家と正典氏は同一大学出身である。これが横家採用の理由と思われる。もう一つは格闘技…から、🤡(私)が格闘技好きなので格闘技の有段者・横家を選んだそうである。これは、最近、種明かしをされた。私がどうして横家が登場したのか…と不思議に思っていると、翌日、千葉真一門下の志穂美悦子という女性をインタネットの記事に出してきて種明かしをされた。
🤡私が格闘技好きなので、そうした女性も出せばバラエティに富んでよかろうだったそうである。更に妹さんが岡大だそうであり、私と岡山駅で何度も遭遇というできすぎた話もあった。それらは駿台深層編で記そう。
なお、2016年にはダメ押し的に丸山和也発言事件が起こる。丸山和也氏の出身高校は横家氏と同一高校である。もはや、何をか況(いわ)んやとなる。
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政経の世界№2―丸山和也・〝奴隷〟発言から議会制民主主義まで・1
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5364
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政経の世界№5―丸山〝奴隷〟発言と国会の責務・付録編(上)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5858
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徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5666
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徒然なるままに№3・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(2)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5702
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丸山発言関連のその他の原稿
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政経の世界№3―丸山和也・〝奴隷〟発言から議会制民主主義まで・2
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5440
政経の世界№4―丸山和也・〝奴隷〟発言から議会制民主主義まで・3
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5629
政経の世界№6・丸山〝奴隷〟発言と国会の責務・付録編(下)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=5896
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要するに、駿台CM陣が、駿台CMのために、映画説グループの脚本に従い、Xグループを罠にかけたようである。同時に、その証拠を残しやすい形で、講師室係を採用したようである。
なお、ポリテクカレッジ岡山でも駿台と類似構造が構築される。
すなわち、映画説グループ、ポリテクカレッジCMグループ、Xグループの絡み合い構造である。そこで、ポリテクカレッジ岡山辞職後も、ポリテクカレッジ岡山CMグループは去っても、映画説グループとXグループが残ったのであろう。
何故、駿台CMグループが証拠を残したのか。当然、私が種明かしを自分でするように、と。そうすれば話題提供になる、と。謎解きを10年近くかけてやらせれば10年近く視聴者はあきない、と。ポリテクカレッジ岡山が労基法違反の証拠を山ほど残したのも類似の目的からと分析される。
上記構造のため、ポリテクカレッジ岡山でも授業などはできなくされていった。私が授業をきっちりとこなしていくというのでは、1~2年は視聴者があきないかもしれないが、それ以上となると視聴者があきるので困るということのようであった。
私が授業妨害をされて苦闘している姿の方が視聴者向けには好ましいということであった。ましてや、野口英世型研究一筋などは、視聴者は1~2年しか持たないため、もってのほかということのようである。
こうして謎はほぼ大半とけた。
要するに、映画説と企業群のCM説、それに人間違いをした謎のXグループの絡みあいで物語は進行しているようである。
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後、残っている大きな謎は、西山という女性に手紙を手渡し、断られて「お世話がせしてすみません」と一礼をすると、何故、40年近く揉(も)めさすのが可能なのかという謎である。どういう論理なのであろうか。この謎が全く解明できない。ここだけがまだ全く解明できていない。
またXグループの動機も完全には解明できていない。Xグループが人間違いをしたか、させられたということだけが解明できただけである。
駿台事件の方は駿台真相・深層編で、過去の話を別の角度から全て解説をしよう。
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映画説…とすれば、私の父が強調されていた。ベネッセ創始者福竹哲彦氏は父の岡山師範時代の一つ後輩で知り合いのようである。
ポリテクカレッジ岡山での単位認定権剥奪事件時は父が会談に立ち会っていた。また駿台との最終交渉でも父が何かを知った振りをしていた。
私が入院した岡山の湯郷の病院(原田病院)の医師か看護婦長のどちらかは父の教え子であり、どちらかは(長姉の母の実家とは)親戚か何かと言っていた。ちなみに、私が1989年入院予定は美作中央病院か田尻病院であったそうである。今の主治医が紹介状を書き、私がそれをもち入院予定でいたが、突如未明の大吐血で、父が一方的に原田病院に押し込んだ。なお、同病院では貧血気味で倒れかけたときに、廊下で人があわてて走る音が聞こえたが、私が元に戻るとやんだ謎もある。だが、監視カメラなどがある病室には見えなかった。
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また原田病院には、🤡私の幼なじみで同じ村(位田)の同級生が一時、突如看護師として現れ、消えた謎もある。彼女は、なぜか、私を「浜田○○」と人間違いの名を何度も言った謎がある。○○とは同じ村の同級生の名前である。原田病院でも人間違いが強調されていた。
○○の部分を英語で書けば「to support (someone) financially」と言う意味で、みつぎ労働を暗示していた。
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ポリテクカレッジ岡山でも、1995年には同じ英語の講師で浜田▽▽という女性が登場という形で人間違いが強調されていた。駿台講師時代に人間違いが起こった可能性が高い。
村でも、高校時代の恩師が、私のことを…と別人の名前を言い続けた謎もある。
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浜田隆政@Takamasa_Hamada 12月22日
23-356-5【🤔】
昔、高校国語道信💁先生の話…
すると地元写真サークル…に社会科💁道信先生登場
🤡を見るや「お前は正典だったな」
🤡「隆政です」
💁「嘘を言え、正典だ」
🤡「隆政です」…
今から20年前の話
その頃、写真サークルに岩見田の人もいた
🤡以外の旧美作町の人間は真相を承知の疑惑が🙄
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☟
https://x.com/Takamasa_Hamada/status/1738099630901207210?s=20
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(2023/12/26 17:41追記)
村と言えば、村で車のトラブルに本格的に巻き込まれたのは二つの時点からである。
一つは、2000年に先の皆木家の前に(姫路40の)車が止まって人間違いを示唆したことと、もう一つは1997年の交通事故で相手の広瀬氏が人間違いをしていたことにあったようである。
後者は(当時の)勝英警察署の担当者が示唆したり、後に、その界隈で火災があり、燃えかすが我が家まで飛んできたりしたことがあった。火災と言えば、随所で紹介した浜田稔東大名誉教授(火災・防災・コンクリートの権威)の名をだせば、全て分かろう。
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皆木家前の姫路ナンバー40については、本格的に記載したものもあるが、下記の中の(B)(e)家族構成を見るのが一番てっとり早いであろう。
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⚔人権回復:(人間違い問題解決に向けて)同一住所番地二軒問題:私とZ3氏実名…での比較図
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=41102
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1997年交通事故(岡山県美作市巨勢下倉敷)の人間違い被害疑惑
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新一言№42・謀略の嵐―1997年1月の交通事故(催眠と工作)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/08/10/2570/
新一言№43・謀略の嵐―1997年1月の交通事故と村(催眠言動公開)
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/2023/08/11/2579/
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以下は別箇所で使用原稿
求め続けて(7)駿台事件と岡山の予備校&Philippines友人の比較分析から:メモ段階
2023/10/03 22:05メモの一部記載
23-268-4【#駿台 事件】と写真。先日以下の写真を処理←これは公式HP・駿台本質にも記載
①おじょう🛵🚺の写真
②#駿台 事件🚺横家と後藤 の写真
③🇵🇭Philippinesの友人🚺マリーサとイルマ の写真
④岡山の予備校🚺滝沢と吉田 の写真
①~④は同じ構造で、同じことが1984~86年の間に起こった。
だが後が全部違う。その謎の解明のため、
※著作権は🤡私、肖像件問題で非公開としているが、絵風に加工すれば公開可能か。
何故公開するか。デマ粉砕のため。
①~④は全部同じ構造で同じ現象も、後が全く違う。何故、駿台だけを強制回顧かの解明のため。
また、駿台女性🚺美人神話を砕くため。①~④は最低でも全く同一で。
公開すれば容姿…は②(駿台)より①(🛵)が良いと思う人が多いかもしれない。
最低でも互角で。
性格は②不明。①は何度もデート。
実際に②横家・後藤は催眠熱ですらまだであり、岡田課長(駿台京都校2号館)への見合い斡旋依頼も迷い中でのドタバタ劇であった。すると、①🛵から②に行く必要性は皆無となる。
当然、②横家・後藤は登場不可能。そこで①が自分で1985年2月中盤以降に潰れる演技をした。
🛵よ、そろそろ白状せよ。もう全てばれている。楽になりましょう。
ともかく、①(🛵)がいれば、②(駿台)の話題すら提供できず。駿台は何のために②横家、後藤を雇ったかとなる。
そこで、映画関係者🤝駿台経営陣:
映画関係者が①(🛵)へ指示、駿台関係者が②(西山・横家・後藤・武内)へ指示が写真からも判明可能となる。
後日、駿台事件全貌編で🖊記載予定も📸写真を掲載できれば、言葉よりも早い可能性がある。
謀略で容姿は①<②と人が勘違いしているだけ。写真公開でこの勘違いがとける。公開時は絵風で肖像件に触れぬ配慮はするため、今、コミック型絵風で本気で掲載を検討している。
又②+西山美千代🆚④の比較→何故辞職後は④については後に誰も聞かぬのか。同じ状況で。
④は聞かずに②(駿台)ばかり聞くのか、の謎。催眠で②(駿台)のみ。何故、何故、何故。
④の吉田は本田美奈子似で現代若者には②(駿台)以上で。
滝沢は西山などよりも、男性に好かれやすいタイプで。
🤡は②(駿台)④(岡山)は性格上全部合わぬと思ったが催眠熱で🤷(おてあげ)が事実。
(🤡の父の師範1年後輩で父の知り合い)福武哲彦(創始者)→④に指示で彼女らが演技。
③(Philippines)は何故揉(も)めなかったか。③は本当の美人で。
美人という範疇(カテゴリー)ではアイドル並みで。多分本当にアイドルでは?
だが終始ともに友好であった。一時揉める危険があったが事情解説手紙で完全回避。では駿台は?
とりあえず③だけでも掲載するか。すると②(駿台)の美人神話が一気に崩れる。嘘ばかり。
性格が重要。然り。②(駿台)は全くどんな人か知らぬ。多分相手も🤡のことは知らぬ。
②③④いずれも同一現象であった→①も含め誰か一人が全貌を喋れば①~④全貌解明可能となる
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ただし、駿台事件の本質は🚺女性問題では一切ない。
🎬🎦でのCM等の利権と人間違いの融合にある
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以前のメモ
原稿は2022年記載もOne Driveに保存。ブログには2023/01/28 8:01下書き段階で掲載
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ここは、下書きはしていない。
理由は、駿台事件と能開大事件がアナロジーで起こり、能開大被害を書きかけるといつも駿台の内容に回されるので関係があるのかと思わされてだけであり、どのように関係しているのか未だにわからないからである。1982年から駿台の教壇のため、もう40年となるがさっぱり意味不明である。
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それ以上に部落問題が随所で強調されるが、更に、意味不明だからである。
なき友人が言い切った、「人間違い」が原因ならば、私にはいくら考えても何もわからないであろう。
駿台か能開大関連の被害賠償などの裁判とならない限り、死ぬまで意味不明と思われる。
記述の仕様がない。