「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第2節-1・開業妨害の嵐と突如の訪米へ

「日本のフィクサーME・パート3」第3章訪米・第2節-1・開業妨害の嵐と突如の訪米へ

 

(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成しているが、このBlog等は正式公開段階でも(著作・文献への)下書き・メモ段階に該当するため、数度しか見直しはしていない。
(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を5~10パーセント程度いれている。

(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。

※日本のフィクサーMEシリーズの注意点全文の雛形は下記参照。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=36999

 


【更新履歴】

2023/09/19 22:26 から構想開始

2023/09/28 0;00~5;57記述

2023/09/28 16:13全面改定

2023/09/2817:57 正式公開:ソートの関係で掲載時間のみ2023/09/29  23:59に操作

2023/10/08 0:33 タイトルを2節から2節-1に変更

 


(序)二つの大仕事―訪米(密かな世界連邦画策)と安らぎ文庫有限会社創設へ

2014年夏~15年3月上旬までをここでは扱う。2014年、安倍晋三氏の朝日新聞潰し画策などは第4章に回す

(表紙の写真):写真はクリック一度でパソコン画面大まで拡大、二度で巨大

黒部ダム・殉教者慰霊碑:写真№15-019-099:2015年5月25日撮影(野麦峠の旅の帰路)

 



(1)開業・起業を目指して
2012年11月22日に、は60歳となった。
本来ならば、65歳から年金生活で老後を過ごせるはずであった。だが、幾つもの詐欺に遭(あ)い、このままでは老後破綻は時間の問題となっていた。国民年金も65歳から支給となっており、それまでの5年間は一円も入らない。

母が死亡して、当初思ったよりも、大きな額の相続があったが、その金額を平均死亡年次で割り、それに毎年の国民年金支給額を足しても、生活保護支給額(生活扶助以外に、医療扶助、冠婚葬祭扶助…の合計額)以下であった。また生活保護と異なり、固定資産税支払いや、医療費、病気のため止められない生命保険掛け金、更に、家の修理費などがいるため、あの額で寿命を全うすることは不可能であった。

朝日新聞か何かが、恐らく、私を指してであろうが、「死ぬのが先か、金が枯渇するのが先か」とか、「金がある内に死ねるだろうか」などを書いていたような覚えがある。
正に、その通りの状況にあった。

だが、私の分析ではこれからインフレ、それも今のようなインフレではなく、いずれハイパーインフレが起こると読んでいた。すると、残る手段は起業・開業しかなくなっていた。安らぎ文庫を中心とするインタネット類活用で起業を考えていた。

ともかく、さいは投げられていた。
こうして、体が満足に動き、予算が一定組める内に一気に行う必要があり、一部の人が驚くような形で動くことになった。集めた材料の整理は多少おいても可能であるが、集め回るときに、老いたならば不可能な部分がでてくるからである。

起業内容は秘密である。


2013年~14年は母の問題の後片付けと、インタネット活用での起業のアイデア固めであった。そして2014年頃から構想が固まってきた。2015年1月から本格開始でいた。
起業内容は、未だに妨害が多いため、詳細に語ることはできない。ただし、私が書いた電子書籍を売ることだけではない。それはOne of themであった。

大きな軸は、当初は、私が旧労働省職場で受けた労基法違反・契約違反、更に後に分かった詐欺被害への賠償交渉を勝ち取る過程を文献にして売るであった。2013年からは、次の課題を付け加えた。即ち、世界連邦樹立を目指して活動して、その結果、世界連邦が樹立されるまでのドキュメントを掲載して売るである。それが『日本のフィクサーME』などである。

他の内容は起業秘密のため伏せる。何故、秘密かは、韓国に安重根記念碑撮影に行ったときのことを解説すれば分かろう。だが、それだけではField Workとしてはもったいない。
そこで、韓国に行った際には、一気に竹島(独島)に行くことも検討していた。目的は、斯様(かよう)な小さな島というか岩で、日韓両国が争うとは愚かであることを説得するためであった。


それでは、萩・光市へのフィールドワークの後で考えていたField Workは何だったか。
もっとも急いでいたのは「野麦峠への旅」であった。何故ならば、私の処女本『旅に心を求めて―不条理編上・下』の上巻の表紙を飾る写真がなかったからである。電子書籍では表紙が意味を持つことが多い。野麦峠は、1989年6月に訪問している。だが、その時はコンパクトカメラの上に撮った枚数が少ない。『同上書』は2015年初頭に発売を予定していた(実際には2015年1月30日発売)。そこで、何が何でも、2014年中に野麦峠に行かなければならなかった。


(2)2015年出版の本関連撮影で14年の候補地は野麦峠と広島であった。

金がつきる前に、(妨害がここまでひどくなければ有限会社を目指していた)安らぎ文庫を2014年末か2015年初頭には立ち上げなければならない。
それまでに、行かねばならない地は野麦峠と広島であった。特に、前者は1989年にコンパクトカメラで撮った写真しかないため、絶対に行かねばならない地であった。それも、本の表紙にするために、本を出す前にいかなければならなかった。

野麦峠::2015年9月28日撮影:写真№15-017-197


2014年何としてでもいかねばならない野麦峠への妨害は次の形で行われた。
山につきものの蜂攻撃である。我が家の墓掃除に行った際に、不可解な形で蜂に刺される。このあたりで何度か蜂にやられており、蜂アレルギーになったかもしれないという恐怖をもたされた。だが、蜂に対抗する各種医療器材や、応急措置用品を備えて、野麦行きをまだ目指していた。

すると、次は、私が乗り降りを予定していた(松本市の)市営バス乗り場すぐそばで熊がでたというニュースが飛び込んできた。

だが、安らぎ文庫創設のため、この写真はかかせない。2014年中に撮らなければならない。そこで、熊よけ鈴などを購入したりして準備をしていた。

だが、長野県松本市などに迷惑をかけてはならないと考え、松本市役所の山岳課などと相談して、結局。集団でわいわいガヤガヤと行けば、熊はでてこないということで、2015年5月の野麦祭のときにいくことにしたこれでは本の表紙に間に合わないが、迷惑をかけることはできないからである。
こうして重要なフィールドワーク(Filed Work)は潰れた。更に、野麦峠へのフィールドワークを境にフィールドワーク妨害が顕著となり、フィールドワーク先の効率が3分の1以下に低下させられることになる。その話などは、第4章でまとめて行う。

次に、国内では、先の『旅に心を求めて―不条理編』(Kindle、KOBO 上下各百円、$1)に登場する広島である。なお、『不条理編』の主要な舞台は野麦、広島、長崎である。それでは広島を固めようと考えた。広島は前年度の2013年にも行っている。今度は、メリハリをつけて、広島原爆投下の日・8月6日に行くこととした。ちなみに、広島が世界遺産になる前年及び前々年に、私は原爆ドームは宮島とペアが良いと発言し、同時に、この両地を1994年、95年と訪問している。すると、96年に本当に、原爆ドームと宮島が世界遺産となった。

姫路城も同様であった。勿論、山口県萩市、長崎市…も同様であった。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑:2014年9月28日撮影:写真№14-032-034

北朝鮮原爆犠牲者慰霊碑:2014年9月28日撮影:写真№14-032-090


ともかく、今度は広島への妨害が顕著となっていく。2014年は奇妙な形で行くのを三原付近で阻止された。2015年は行くことは行けたが、家に戻れなくさせられた。
これは長崎でも行われた。ちなみに、2016年長崎・水俣の旅では、長崎県では妨害だらけであったが、熊本県に入ると、一気に妨害がやんだ謎もある。
広島行き妨害の嵐も、第4章でまとめて記すことにする。
ちなみに、何故、広島・長崎となるとこう妨害されるのか、現時点でも不思議である。オウム真理教みたいな団体にとりつかれたか、KKK団の如く人権侵害を平気でする組織にとりつかれたかどちらかかもしれない。だが、私には彼らといえども、恨まれる覚えはない。

筋書きのいないドタバタ劇ならば、兎も角、そうでないならば、現時点で考えられることは、亡き友人が言っていた人間違い以外の選択肢はない。


(3)次なる候補地はベトナムであった―ベトナム戦争と私。

この年の大きなフィールドワークとしては、ベトナムを考えていた。何故、ベトナムか。それは平和というものと、やはり戦争の不条理さを追求するためであった。

年賀状を整理していると、私の駿台時代の教え子の内容が目に入ってきた。彼女は今は有名な某私立大学の教授である。学部長の職もこなしたようである。全て、実名としたいのであるが、私に関与した人に何らかの危害を加えるというゲームがはやったことがあるため(お祭り男が騒ぎ、ごますり男が、お膳だてをしてやったようであるが)、そうした馬鹿なことがなくなるまで、匿名の方が良いであろう。正に、日本の右翼の恥であった。右翼か左翼かではなく、正義を捨て、サラリーマンの如くごますりとは…。

彼女の年賀状に次の記載があった。「国際関係が軽すぎるのではないかと思います。もう少し、ベトナム戦争とか中東問題などについて掘り下げてほしかったです」とあったが、これは真逆なのである。確か、私が政経の本格教壇に立った年のためゆとりもなかったが、同時に、どこまで入試と無関係な事項を話をしても良いかで迷い、触れなかっただけである。
ベトナム戦争について、当時(1982年当時)知っていたことを、今記そう。今の知識ではなく、当時の知識である。

私は、高校時代に民主主義活動に足を突っ込んだ。主として部落問題である。その当時は、アメリカでは公民権運動の名残と人種差別の残骸が各場所にあり、スイスには女性参政権はなく、オーストラリアでは人種差別がまかり通っていた。部落解放運動もまだ分裂前であった。当然、私はベトナム戦争にも首を突っ込んだ。高校時代はどの組織にも所属せず、いろいろな立場の人と語りあった。

大学に入ると、私は何らかの組織にはいってみようかと、民主青年同盟なる組織に所属した。ただし、共産党には入っていなかった。私の想像では、私は主義主張のみではなく、人間性も重要視するため、いろいろなタイプの人間と接していたので警戒され、日本共産党から声がかからなかったのではなかろうか。
民学同にも仲の良い人がいたり、社青同協会派の諸君とは共同でテントをはってキャンプファイアと学習会をしたり、(ブンドという組織ではなかったかと思うが)そのシンパかその組織の女性が、私が学内で暴力反対と言ったことなどから学内を歩きにくいときなどに、彼女が腕を組んで来て「私が守ってあげる」といってもらったり…であった。新左翼なる後輩にも、私を慕っている諸君がいた。
逆に柔道などをやっていたりした関係で、右翼に属する諸君とも親しいのがいたりもした。その関係で、日本共産党には所属はしていなかった。

ところが、学園紛争の暴力場面を見て、私はとにかく、学内での暴力対決だけはやめさせよう・民青の諸君に関与させまいと考えて、やむを得ず、関西学院大学の民青のボスとなったことがあった。その関係で、ベトナム戦争問題にも首を突っ込んだ。もっとも、非暴力主義の私は、ベトナムへの直の支援はせず、医療品。医薬品を送る活動などだけに限定していた。当時、ベトナムで犠牲になったグエン・バンチョイ(Nguyen Van Troi)という人物を記念したノートなどを売り、そこで得た金で包帯や消毒液や医薬品などをベトナムに送る活動にも参加していた。

そうした中で、次のような話を聞いたことがある。当時の話である。ベトナムはソビエトとも余り仲は良くないが、中国とはそれ以上に仲が悪い、と。その頃、中国、ソ連の両方と距離をおいていたのが、当時の内輪話では、北ベトナム、北朝鮮、日本共産党と聞いたことがある。逆に言えば、北朝鮮と北ベトナムは仲が良いのであるが、中国とベトナムは仲が余り良くないと。実際に、ベトナム戦争終結後に、ベトナムと中国との間で、1979年に大戦争が勃発する。中国が一気に50万人もの大軍を派遣したほどの大戦争であった。
私は相当前からは完全党派中立・宗派中立であるが、当時もそうした土壌をもっていたようである。その私が思ったのは、もはや、社会主義・資本主義という枠組みでの戦争が軸となる時代は終焉(しゅうえん)するであろう、であった。

現在の私は更に次のような理論を持っている。経済と政治は別物であり、社会主義でも、資本主義でも、全ての政治形態が可能である、と。
社会主義制度でも、一党独裁も、民主集中制も、複数政党制も、民主主義制も、君主制ですら可能である、と。資本主義制度でも同様である。社会主義制度で全て可能と言えば不思議に思うかもしれないが、社会主義制度で君主制に近い形の政治が行われるならば全部可能となる。

1982年当時の私の知識に戻そう。社会主義資本主義という図式を覆して理論分析をしたのが、キッシンジャー氏の可能性があると当時は思っていた。当時、私は次の情報を聞いたことがある。ソ連のリーダーがベトナムに行く際に、中国に立ち寄って、脅しをかけたという噂である。これ以上…ならば、ソ連は中国に対して核を使うこともありうる、と。1970年前後に聞いた話のため、真偽は不明である。

そこをキッシンジャー氏は読み取ったか、それとも、アメリカのスパイ網から情報を得ていたと、当時の私は思った。そこで、奇策を練り、キッシンジャー氏は中国との関係を強めようとしたように思われた。それがニクソン訪中につながったと当時の私は思っていた。
また、カンボジアでも、何か不穏な動きがあるという噂も聞いたことがある。北朝鮮は鎖国的な面があり、十分知られていなかったが、ソ連・中国のどちらにもくみしない国と聞いた覚えもある。金日成(キムイルソン)氏が50代から60代の頃である。

当初は北朝鮮は経済が順調に発展し、他方、韓国は貧しい国と言われていた時代もあった。更に、韓国は戒厳令などが終始だされ、軍事国家の響きがあった。そうした流れから、WATO+中国NATOの図式はいずれ崩れるだろうとも思っていた。

時は流れ、今や、私は世界の首脳と語り合えることができるかもしれない状況におかれている。そして、キッシンジャー氏は百才になられたが、まだご健在のようなので、対談は無理かどうかは不明であるが、彼の当時の分析を一度聞いてみようかと思っている。私の方は生々しい情報は、駿台の教壇に立った頃からは一切入ってこなくなっている。
駿台講師時代以降は完璧な党派中立・宗派中立であり、同時にそれに徹しているからである。また、政治経済の知識もほとんど知らないというよりも遮断して月日が長い。とは言え、世界のマスコミが知らずに、私が知っている情報もかなりあることも事実であろう。奇妙な立場に置かれている。

※第10回世界の歌・ベトナム特集などで、ベトナムの首脳陣にも案内を送付させていただいた関係で、各種しがらみができており、政治がらみの言動は幾つもの配慮が必要となっている。ベトナム以外でも同様である。

現実の世界から遮断されて何年もたつため、私は横井庄一氏みたいなものである。
田原総一朗氏であったと思うが、(日本共産党前委員長)不破哲三氏をさして斯様なことを言ったことがある。
「不破さんは、昔、日本以外でどこにすみたいかときかれたならば、ベトナムと言っていたかもしれない。だが、今も同じことを言うであろうか」と。

軍事国家ともいえた韓国が今や、日本よりも民主主義があるかもしれない。経済が遅れていると言われていたが、もう、労働生産性などでは日本をぬいている。世界は変化しているのである。今でこそ、差別反対といえるが、昔はそうではなかった。そんなことを言おうものならば各種色眼鏡で見られた。国際的にも、Mr.オバマ登場までは、大きな声で差別反対といえなかった気もする。KKKを出すまでもなく、この点の逆戻りだけは怖い。

今から見ると、私の分析や感想は的外れの部分もあろうが、駿台講師前半時代ならばかなり斬新な発想や分析をしていたかもしれない。ともかく、キッシンジャー氏の話を一度直に聞いてみることにしよう。

多くの著名人と対談したが、経済学で都留重人氏と対談できなかったことが残念に思っている。彼も、色付けの偏見で苦労されたであろう。というのも、都留さんは、アメリカ共産党に所属されたことがあったからである。サムエルソン氏の友人で、近代経済学で有名な都留さんが…と思うかもしれないがどうも事実のようである。ましてや、一民間人の私が色付けで揶揄されることは、思想良心の自由どころか、幸福追求権侵害と常時怒っている。


私の思想…を、これ以上書く必要はないが、面倒なのでここで簡単に書いておこう。後でプロフィールか自伝もしくは回想録でまとめることにする。

熱心に部落研活動や民主主義活動をしながら、全国各地を飛び回った高校時代(1968~71年3月まで)はクラブを除けばどの組織にも所属していない。

次に、選挙運動も含めて目立った活動をしていた大学時代(1971年4月~1975年3月)は、大学一年の頃、民主青年同盟なる組織に所属しているが、日本共産党の方からは警戒されてか、一切誘いはなかった。よって大学時代は赤旗日刊紙は購読していない。民青も、私が入ろうかと言って、相手が応じたのが実情である。そこで、関西学院大学では誰が共産党員かを私は一切知らない。ただし、民青関学の全学部トップだったときがあったので人が誤解をしたのだろう。

赤旗日刊紙を購読したり、共産党の会議に出たりしたのは大学卒後(1975年4月)から早稲田大学大学院を修了(1980年3月)と修了後の東京一年間(1981年3月)のみである。ただし、この期間はバイトや勉学…でほとんど活動はしていない。特に大学院時代は学習のみで、選挙活動も事実上していないのに等しい。
選挙活動を熱心にしたのは(共産党員ではなかった)1971年~75年4月までと、1976年中頃から1977年3月までである。1981年4月以降は、赤旗日刊紙は購読もみたこともなく、l会議も出るわけがなく、党費などもはらっていはいない。規約では一年で自然離党となる。
口頭でも、1984年頃に政党に所属する意思はないことは伝えている。根本的要因は、拙著『旅に心を求めて―不条理編上巻』第二章を読まれれば分かる。ただし、組織を離脱するときに延々と理由を言うのは国会議員などの議員だけです。特に転籍すると誰も余りひきとめない。大阪で自民党員をやっていた人が北海道に移動し、自民党の北海道支部の人がきても、その人が「わし、いそがしいので辞めることにしたわ。もうこんといで」と言えば、大抵引き留めはない。大層に考えすぎなのです。ただし、私の場合の考えの根底は『同上書』を読めば分かるので買って読んでください。Kindle KOBOどちらでも百円です。

ちなみに、民青は1977年5月頃辞めている。理由は、早大大学院に進学し、民青の組織はどこかと聞いたならば、関係者が「もう、民青を辞めて、共産党だけにして」で、終了となっているが、その際に、その趣旨の文書や書類は提出していない。23歳のときに、(早大大学院には受け皿がないので)「もう辞めたら」で、「ではそうしようか」の口頭会話だけである。それならば、共産党の離党も同様であろう。書類提出を求められねばどうしようもない(日本の民法では契約は文書でも口頭でも同一の効力を持つとなってもいる)。ただし、規約上は1982年5月で終わりと解釈される。もう、今から41年前の話である。


ここで三点記す。

一点目は、世界遺産と同様に、私が本格的な選挙活動をしているときは、マスコミがいかなる世論調査をしても予測不可能な伸び率(一挙に三倍、三倍とか…)をしていた。それでは、その後、私の政治的影響力はないか。私が党派中立宣言をして、選挙運動も落選運動もしていないため、不明である。もう41年目、実質的に選挙運動から手をひいてからでは46年目となる

二点目は、それでは、彼らの一部と何故付き合いがあるのか。ない。彼らではなく、友達としての付き合いがあった人とは友達としての付き合いは残る。宮本顕治氏の息子・宮本太郎氏はもはや共産党員ではないかもしれないが、宮本顕治氏の葬儀では喪主を務めているはずである。組織の関係はどうであれ、親子の関係は残る。友人・親友でも同様だ。私は一時、柔道部に所属していたが、親しい友人・親友が、公明党員でも、共産党員でも、自民党員でも、立憲民主党員でも無関係に、友人としての関係は残る。第一、柔道部で、政治の話はしないため尚更である。

三点目は興味があれば誰とでも付き合うという、私の原点に戻っただけである。人格が優れていれば付き合う。私が知りたい知識(例えて言えばカメラの技術)が優れていれば付き合う。リラックスで来る人ならば付き合う。特に、重要なのは、私の人権救済に努力した人にはその分だけ、様々な応援をする。政策が違っていてもする。嘘は言えないため、その場合には政策ではなく、人格や性格その他を褒(ほ)める。非常に単純な話である。

最後に、ベトナム戦争に従軍した誠実なベトナム人、同じくベトナム戦争に派遣された誠実なアメリカ人、この戦いを防ぐ手段はこれから述べる世界連邦樹立しかない。ユートピアであろうと・なかろうと、選択肢はそれしかない。

下記以降は次回掲載



(4)突如、降ってわいた、まさかまさかのアメリカへの旅