浜田隆政回想録―1・1982~2020年:党派中立への道
2020/11/04 00:10から公開 3:30 タイトル文字変更。
今回の文書は、気がむけば一言№213を公式ブログにも併行掲載したものである。
気がむけば一言【党派中立】№213 駿台事件から党派中立第2段階(心情的党派中立)へ、更に第3段階へ
○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1413/
尚、心理的党派中立への道・1補足は下記参照。
気がむけば一言【駿台】№209 女性問題でっちあげ被害、引き続くトラブル、人間違い被害疑惑(5)・同和問題を臭わされる謎。
岡映氏の箇所参照。
○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1394/
(2020/10/18 2:11から3時25分まで記述::2020/11/02 大幅追加と修正。全文書き直しに近い)
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《◇―心理的党派中立への道・1》
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駿台講師時代に各種の刑事犯罪被害に遭遇(そうぐう)したことは既述(きじゅつ)の通りであるが、拉致(らち)被害にまで遭遇しかけて、もはや危険すぎた。勿論、住居不法侵入被害の段階で警察には何度も相談していた。しかし、巧妙な手段で警察との関係を遮断される。詳細は拙著『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle、百円。海外では1ドル)をご覧いただきたい。
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警察には拉致未遂被害段階では相談しにくい状況に追い込まれていた上に、拉致をしかけた人間自体が警察官ともガードマンとも言える服装をしていた。該当者(二人組)は「警察ですが…」といって、いきなり私の両腕をつかみ、どこかに連れて行こうとした。
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私が大声で「みなさんこちらを見てください」と、遠方の通行人に呼びかけると、この二人は走るようにして逃げていった。もはや危険すぎた。勿論、日常生活は不可能な状態になっていた。
そこで、警察まで巻き込まれていることを懸念して、1987年秋に相談した弁護士が共産党関係と考えたため、その関係もあり、12月頃に日本共産党中央本部に「赤旗日曜版」読者と書いて、救済依頼をだした。だが梨(なし)の礫(つぶて)であった。
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1987年11月下旬か12月上旬にはまだ駿台辞職など考えたことがなかったが、もはや、こうした犯罪は駿台の一教師の金では無理であり、駿台予備学校大阪校の金が資金として使われていると考え、それにストップをかけるために、内容証明書を京都校大滝部長と大阪校堀江部長に送付した。
当初は、京都校の側からストップをかけてもらうことを考えた。しかし、終始盗聴、盗撮疑惑があったため、大阪校と京都校責任者には同一文書を書かざるをえず、調査依頼のために辞職と首をかけての直訴とした。
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駿台京都校の大滝部長(関西地区最高責任者)との会談で、私の父と大滝部長との間で何か話(後に述べるがトラブルが沈静化する期間として3年間を置き、3年後にまた駿台に復帰すると言うことで話)がついているのかと思い、駿台辞職をした経緯がある。
『閉じた窓にも日は昇る(上)』に次のように書いている。
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なお、(八八年一月三日か四日頃であったと思う)会談では、出てきた大滝部長が怒っており(威嚇(いかく)的態度で応じてきたため)、私は「どうなっているのだ」と、呆気(あっけ)にとられた。次に、「ふざけるな」と怒りが込み上げてきて、それが顔に出たし、一部怒った。
すると、ようやく、大滝部長がややまともになり、わずかとはいえ通常の対応に近くなった。彼の返答は、「内容証明の二については駿台は無関係です。先生の方(ほう)で自分で興信所にでも頼み、調査してください」であった。
次に、内容証明の一については、首をひねるだけで、私の持っていたプリント等を少し見ただけで、明確な調査をするなどの返答は一切せず、事実上管理責任を放棄した。同時に次の言動で、事実上、会談の打ち切りを迫ってきた。
大滝部長の「休職という手もありますが、先生が辞職と言われるならば引き留めはしません。ただし、駿台は門戸(もんこ)を大きく開けておりますので、三年たって駿台に戻ってくる気になればいつでも戻ってきてください。駿台は門戸(もんこ)を大きく開いて待っています」で締(し)めくくられた。
私は、本当に、駿台に戻れるのかと信じた。ただし、ほとぼりが冷(さ)めるまでは、違法状況がなくなるまでは戻れない。
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『閉じた窓にも日は昇る(上)』(Kindle、百円)第一〇章・駿台予備学校講師時代終焉(しゅうえん)――犯罪被害の連続(刺客―3と4)
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(大阪校最高責任者)堀江部長は「先生、充電期間です。充電が終わったら戻ってきてください」であり、(私が信用していた、京都校の)深見係長はニコニコと笑っていた。若しくは、何かホッとしたとか、あるいは「僕の言った通りでしょう」という形で笑っていた。後者は、大滝部長に誰かが嘘(うそ)を吹き込んでいたが、深見氏がそれを訂正したのであろう。そこで、(大滝部長に対して)誰か(X)ではなく、僕(深見氏)の言った通りでしょう型笑顔に見えた。
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三年経(た)てば、下記のような問題のため、ちょうどほとぼりが冷めるのに良かろうと考え、私も簡単に引き下がった。父と大滝部長で何か話がついていると思ったのである。
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そこで、梨の礫(つぶて)であったが、共産党中央本部にも、父と何か話がついているようなので、もうここまでということで、迷惑料として、確か3万円ほどカンパしたような記憶がある。ただし、本当は、大滝部長などと会談する前に援助が欲しかったのであるが、梨の礫(つぶて)であった。
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根源的党派中立への道は1982年から86年にかけて固まっていたが、心情的党派中立への道が1987年秋の弁護士の件で確定し、このときの救済依頼・調査依頼無視でより強固となった。心情的党派中立への道(その1)である。というのは(その3)まで続くのである。
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《◇―2・心理的党派中立への道・2》
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1988年に駿台を辞職するやいなや、本命であったポリテクカレッジ岡山が突如様変わりする。その模様は「駿台女性問題捏造(ねつぞう)」(3)で記そう。
1989年に学校・ポリテクカレッジ岡山の(学生・職員ともに)みだれ、…そして、突如、大吐血となる。そして、某病院に入院する。その模様は「日本のアウシュヴィッツ(Auschwitz)」として拙著『閉じた窓にも日は昇る(下)』に記載している。
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そして、この病院から逃れねば大変な目に遭(あ)うとしか当時は思えなかった。そこで、またも、日本共産党関係の代々木病院に救済を依頼する。と言うのは、何か目に見えぬ、暴力団か逆に権力関係が絡んだ危険を感じたため、そうした圧力に強い団体ということで頼らざるをえなかった。同時に、どの病院に相談してよいのかが分からないこともあった。
ところが、代々木病院からこの病院に電話が直(じか)にある。そして、当時の主治医に代々木病院に手紙を出したのがバレてしまう。正直言って参った。「まさか」とも思った。
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当時の主治医に呼ばれ次の指示を受けた。
「代々木病院に行ってもよい。ただし、条件として、川崎医大附属病院の心療内科にいくこと」と。
そこで、当時、体調が相当悪化していたため、母に付き添わせ、東京の代々木病院に行く前に、川崎医大附属病院にいった。
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川崎病院で出会った医師は、駿台予備学校京都校にいた、いわさ部長そっくりの人であった。私は正直というよりも馬鹿正直のところがあり、その医師にはっきりとあることを依頼した。
「私は催眠で動かされている疑いが強い。私にはそうとしか思えない。そこで、私に催眠をかけて、本当に催眠で動かされているか・どうかを調べてほしい」と。1989年12月、今から30年余り前の話である。
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すると、医師は「私は確かに、催眠をかける技術は持っている。しかし、あなたにそれが必要とは思えない。そこで、本日はしない…」であった。その後、東京の代々木病院に行くが、事務の人が出てこられ、代々木病院での入院は無理である。岡山の協立病院を紹介するとのことであった。そこで取りあえず、お礼として寄附を確か5千円して岡山に戻った。(一万円だったかもしれないが、もはや金欠のどん底にあったため5千円の可能性が高い。)
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田舎のHD病院(現在は閉鎖)から逃れるためにも、岡山協立病院に行った。だが、協立病院では「十二指腸潰瘍は通院を原則としており、入院はうちはうけつけない」と確か言われた。大吐血して入院は無理ということがあるのだろうかと、少し懐疑心をもったことも覚えている。ともかく、そこでやむなく、最初の田舎のHD病院に通うことにした。何故、逃げようとしたかは拙著『閉じた窓にも日は昇る』{Kindle百円}か、無料公開している、拙著『恐るべき労基法違反』を読めば分かるであろう。
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なお、このHD病院では幾つも不思議なことがあった。それらも『同上書』に記載している。だが、記載漏れもある。例えば、当時、大吐血の関係で貧血となっていた。そこで、あるとき立ちくらみをし、軽く倒れた。すると、突如、廊下から私の病室をめがけて人が走ってくる気配を感じた。しかし、途中で意識を取り戻すや、即座にその足音は止(や)み、誰もこなかった。まだまだ不思議なことがあるが、それらは『同上書』を読んでいただきたい。
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そして、川崎医大附属病院の医師が睡眠薬と精神安定剤を処方した。田舎の主治医が処方している十二指腸潰瘍と胃薬以外に、その薬が追加された。後には、その薬は川崎医大から、田舎の病院経由で処方されていた。
1989年11月に大吐血で40日入院した直後から12月に川崎医大附属病院にいくまで、思考力は働いていた。本も読めた。
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川崎医大附属病院で処方された薬は最初は普通であったが、翌月の(1990年)1月頃と思うが、今度行くと別の医師であり、その頃から、今度は突如、どんどん本が読めなくなっていく。そしてやがて、本を一ページ読むにも、一時間余りかかり出す。毎日やっていたパソコンも一年間で数回しかできなくなる。仕事の関係で無理をしてやろうと思っても、数行打つのに一時間かかる始末である。
頭が全く機能しなくなっていく。
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当然、薬を疑った。だが、田舎の主事医は問題ないという。
実際に、1993年10月上旬頃に三度目の大吐血をした。田舎の主治医は「我が病院では対応は無理である」と言われ、救急車を要請された。紹介された病院についたときにはまともに歩けず、連続吐血も20時間を超えていた。最低でも10時間余りは数分おきの連続吐血であった。血圧も上が70となっていた。
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本題に戻そう。川崎医大で処方された薬はここでも見せたと思うが異常は特に言われなかった。この病院には60日入院した。なお、時期は忘れたが、岡山市の林原病院に行ったときにもしらべていただいた記憶があるが、やはり異常なしであった。また岡山市の協立病院でも調べていただいている可能性が高い。ともかく誰も異常を指摘しなかった。
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田舎の病院、(救急車で転送された)田舎のより大きな病院、岡山市の林原病院、多分協立病院でも。だが、私は長期に亘(わた)り、薬を疑っていた。薬で1990年初頭から93年まで脳をやられたと。というのも、1993年10月から新病院でその薬を止めるや、意識が元に戻ったこともある。4年間に亘(わた)る、精神・思考が機能不全から突如元に戻ったのである。
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だが、1998年1月にポリテクカレッジ岡山を辞めてからは、激しいうつ病を疑い、うつ病の関係でそうなったのかと思い出している。後のハイテンションからは躁鬱(そううつ)病になった可能性が高いと判断している。
だが、薬を飲みはじめ…から突如脳が機能不全となり、薬を止めるや(若しくは精神安定剤でも、別病院で処方されたり、今日の如(ごと)く医薬分業で薬局も絡んできたり…で正しい薬のせいか)精神は機能を回復する。その後の精神乱れ…もあるため、やはりうつ病だったのかもしれないが、参考までの記述である。
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何故ならば、1989年には(大阪のホテル滞在中であると思うが)歯を削られた疑惑があったからである。また歯の詰め物も大阪のホテルに寝ているときに不自然な形でとれたこともある。それもあり、林原病院などに後に行った。医師の一人は削られているといったが、後にはどの病院も現在虫歯のため判断不可能と言われた。
そこで、頭が働きだすや薬を疑ったのである。
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現在は完璧に党派中立・宗派中立であるが、駿台講師時代から友人の輪を止められ、いざというときには、知り合いがいた関係で代々木病院・協立病院などを頼ったのであるが上記の結果となり、心情的に日本共産党に疑問を感じたのは事実である。
しかし、いざというときには、田舎ではこうした問題に対応できる人間が、今、立会人をお願いしている新免元議員以外の知人で思いつかないとも事実である。
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1987年の弁護士の件と言い…であった。
そこで、一時は共産党関係が、映画の下手人と長期(多分10年以上)思っていた。そこで、1998年に辞職したポリテクカレッジ岡山との交渉立会人の新免昌和議員に単刀直入に聞いた。
「(映画説で)共産党関係の仕業では…」と。すると新免議員は「それは違います」と明言された(尋ねた日付は特定できるため、後日年月日と尋ねた事項を掲載予定でいる)。新免氏に聞けば、私が真面目にそれを尋ねたことを覚えているであろう。
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2020年11月2日調べると以下であった。
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共産党が映画、TV説の主役、首謀者と思われる節があるが事実か否か:根拠は以下である。
訴訟相談検討するや赤日(赤旗日曜版)に神田君、…。偶然か否か。
1987年合同法律事務所(豊田弁護士?)、1987年共産党救い求め問題、1989年HD病院への代々木病院からの電話問題…
……
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選択肢から選ぶ
1)映画、TV加担した、2)無関係、3)その他
新免氏の回答は2)無関係であった。
2006年4月4日に新免氏に質問。
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(ここは2020/11/02記述)なお、1998年も、弁護士相談検討中に赤旗日曜版に神田弁護士の所属している東京法律事務所かそれとも神田隆君自身が掲載されていた。2006年の記述では神田君と記載があるが今は明確には覚えていない。多分、神田君自身ではないかと思う。神田隆君は東京にある居酒屋「孔雀」で知り合った親友でもある。
正確には居酒屋孔雀に彼のお父さんが常連でこられており、そこでお父さんと知り合い、次に神田隆君を紹介され、その翌年に神田隆君が早大大学院法学研究科に入学をしてきたという経緯がある。それまでは司法試験浪人をしていたようである。
彼も私も、日本のフィクサーME登場の布袋(ほてい)さんモデルの弁護士も、「はかせ」のモデルも、当時面白半分につくっていた(居酒屋)孔雀青年部もしくは孔雀独身の会のメンバーである。
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もし、あのときに代々木病院に手紙を出さなければ…意識後退はなかったかとか、もし合同法律事務所の弁護士に相談に行かなければ「岡映(おかあきら)」氏の「オ」の字も駿台とは無縁であり、不可思議な危害には遭(あ)わなかっただろうと長期思っていた。
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ただし、2012年4月には友人(先の布袋さんのモデルの友人)が「(岡さん絡みではなく)ひと間違い」が原因と明言し、更に新免氏の「(日本共産党が首謀の映画説とは)違います」の一言で、では現代医学上の躁鬱(そううつ)病だったのだろうかと思い出した。後者ならば(ポリテクカレッジ岡山の労基法違反が原因と考え)岡短相手に損害賠償請求と考えた次第である。そこで駿台は病気による逸失利益の賠償対象外とした経緯がある。
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ポリテクカレッジ岡山で何があったかは拙著「恐るべき労基法違反」「親方日の丸」「閉じた窓にも日は昇る」を読めば分かるであろう。
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問題を解く鍵は、何故、私が無理矢理、駿台職員🚺NMに熱をあげさせられたのか、またNMは何故私に対して妙な工作をしたのか、彼女は誰に何を頼まれたのかがはっきりすればより真相に近づこう。
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どうして、私がNMに無理矢理、催眠まで動員して熱をあげさせられたのか。同じ駿台でも他の女性もいようが、NMさんに限定させられたのは何故なのか、である。
実際に容姿や雰囲気ではNMさんよりも私からみれば外見からの判断のみでは良さそうに思える人は何人もいたのに。NMさんが私に関心ならば分かるが、手紙を出すや即断られている。では何故……。外見以外の雰囲気は1983年夏前に、私とは合わないが当時の印象であった。
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なお、現時点では駿台職員🚺YKさんも同様に誰かに何かを依頼された確率が98%である。根拠はいずれ記そう。依頼時期はNMさんには遅くとも1983年夏頃と分析している。私への催眠熱が1984年であり、手紙を出した件が1984年夏頃である。YKさんもほぼ同時期の1983年頃と推定している。
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本題をはずれるため、この件はここまでとする。
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《◇―3・心理的党派中立への道・3―塾紹介と労基法違反疑惑。》
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1993年頃も、金銭問題への焦りは大きかった。うつ病を激しくした状態ではあるが、将来への悲観はうつ病以前よりも激しかった。
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そうした頃、津山市の某塾を紹介された。塾長と面接をすると、次の条件をだしてきた。教壇は来年からであるが、それまで研修に来てほしい。毎週、学習会方式で研修をするのでそれに参加することを条件と言ってきた。事実上の強制に近い。
しかし、研修については賃金、手当、交通費はださないと言われる。
当時、うつ病の激しい状態とはいえ、労基法違反へのアレルギーは強かった。
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これをやられるとまいる。賃金はなしで逆に交通費のみ赤字となる。行けば行くほど赤字が累積する。
更に、ポリテクカレッジ岡山の如(ごと)く、契約違反をやられると、赤字額は回収できない。ポリテクカレッジ岡山では研修ではなかったが、仕事契約を結んでいて、約束通りの時間数で教壇にと思っていると、世取山清課長に契約を一方的に相談もなく破棄されており、年間約50万円弱×約4年の損失を被っている。
その上、往復の時間と学習会という名の研修時間も大損失となる。確か毎週の研修と聞いていた。
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また、ポリテクカレッジ岡山での悪質な一貫した手口とも同一となる。「専任で是非…ポリテクカレッジ岡山へ」…で1982年頃招聘(しょうへい)され、1997年には森脇課長により「専任、そんなものなれるわけがないだろう」と明言された。完全な詐欺である。
私の裏の知名度から、この塾は大宣伝となり、そして、用が終われば契約違反でちょん切られると、私の方は赤字のみが残る。
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ポリテクカレッジ岡山については、最近Xによりそそのかされたか、脅かされて、私に危害を加えるために故意に労基法違反・不法行為等々をしたのではないかという新たな見解をもちつつある。厚労省所管の学校のため、真偽は国会で正々堂々と解明すべきと考えているし、再度要望を出す予定でもいる。この疑惑が当たっていれば、詐欺罪に加えて傷害罪ともなろう。
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労基法上も、義務化された研修には支払が不可欠である。これは労基法違反でもある。
下記(「人事の味方」)を参照されたい。しかし、下記を読まなくても常識である。
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内定者の入社前研修の賃金はどうなりますか?
内定者に入社前研修を実施したいと考えています。まだ入社手続きを行っていませんし、雇用契約書も交わしていませんが、この場合の賃金はどうなりますか?
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入社前研修は、入社後の戦力化を早めますし、内定辞退防止にもなり、有効な施策だと思います。
ただこの場合、就業に必要な知識・技能の教育訓練となりますので、受講を指示された内定者は受講せざるを得ないということになります。このように、教育研修が業務・仕事に関連し、受講が義務付けられている場合は、労働に従事したものとして、賃金を支払う必要があります。
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https://partners.en-japan.com/qanda/desc_53/
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せいぜい、下記までが限界である。
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入社前研修に対して賃金を支払うべきなのでしょうか。
先日、内定者本人の希望もあり、社員対象の社内研修を特別に受講していただきました。その後、この方から「研修時間分の賃金の支払いはないのか」という問い合わせがありました。入社前研修に対して賃金を支払うべきなのでしょうか。
なお、今回の研修については強制参加ではなく、本人の希望でもあったため、任意参加というかたちで実施しました。
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もし、任意参加でなく、受講が義務付けられている研修であれば、賃金は必支給です。任意の場合は、研修の内容によります。内容が、業務・仕事に関連するもので、正式入社後に実際に業務・仕事に従事させるにあたって、必要な知識・技能を修得する教育訓練を行おうとした場合や、受講の有無によって入社後配属が優遇されるなどの、不参加者に対する不利益が生ずる場合は、形式的には任意参加であっても、事実上該当者は受講せざるを得なくなりますので、やはり賃金を支給する必要があります。
参加も任意で、研修内容も仕事上必要な知識・技能習得を目的としたものではなく、例えば先輩社員との懇親会程度のようなものであれば、賃金を支払う必要はありません。
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https://partners.en-japan.com/qanda/desc_69/
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なお、後に、交通費のみは支払うと訂正してきたが、過去のポリテクカレッジ岡山での労基法違反がきいており、この話は断った。
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この塾の経営者は、日本共産党の人だいう噂も聞いていた。
この件は大きくはないが、一番最初の弁護士(日本共産党から立候補した人)で同和問題に絡められたと感じ、次に、病院の件で救いを求めた代々木病院から当時入院していた病院に直に電話され閉じ込められ、しかもその関係で意識不明になった可能性もあると感じていたこと、そして最後のダメ押しがこの件である。
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これらは1987年末から1993年終わり頃に起こった三つの事件である。
ここから、今度は心情的に党派中立になった。
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《◇―4・党派中立への全体の流れ―萌芽的党派中立、心情的党派中立、理論的党派中立、契約的党派中立》
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まとめれば以下である。
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【第一段階・萌芽的党派中立】
1982年頃から政経の授業に没頭する中で、拙著『求め続けて―不条理編(下)』(Kindle、KOBO各百円、1ドル)の感情がつよくなり、党派中立へ歩み始める。要するに、組織に属すると、自分の意思が制限され、「生命への畏敬」に相反する危険性を感じたことであった。これが第一段階である。
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(大学時代の学園紛争での衝突事件)……この事件が、私がライフワークとして、「生命への畏敬(いけい)」を思いつく源泉となり、後に、私が党派完全中立宣言をする本質的土台ともなった
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《『旅に心を求めて―不条理編(上)』第2章・広島への旅―「原爆の子の像」と「教師と子どもの碑」を前に命に想う、第2節戦争と平和と人間に想う》参照。
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【第二段階・心情的党派中立】
次に、1987年から93年夏頃にかけて、既に述べた《◇―1》~《◇3》の関係で、今度は心情的に党派中立へと進む。これが第二段階である。
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【第三段階・理論的党派中立】
それ以上に、革新派を含め政治色の強い人との接触がなくなり、さらに関連資料を購入しなくなれば、ましてやそれが何十年もとなると、思考は独自理論となっていく。
要するに、主要政党の政策類を一切遮断され、若しくは遮断したことから、理論的党派中立・宗派中立となる。横井庄一、小野田さん型状況で、我が家へ監禁され、独自理論構築となり、今や理論・政策は浜田隆政オリジナルが大半となっている。
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その結果、理論上も党派中立となり、これが党派中立の第三段階となる。
もはや、安全保障政策(世界連邦・世界統一軍樹立のみが唯一の回答)、教育政策(労働省系大学校は元より、文部科学省系大学も夜間を除き完全民営化の政策…)、国際法でも同様である。
即ち、領土問題でも、日中、日韓、どちらの言い分がという理論ではなく、国際法自体が時代遅れ(島や岩でも発見すれば、発見者が所属する国の領土…が、過去はともかく今後の時代には通用しない…。今後火山噴火で竹島程度の岩はいつでも出現…詳細は後日)となっているという…からの理論構築となっている。
また、ポリテクカレッジ岡山でつぶさにみた親方日の丸状況から、創意工夫する労働者の創設問題などを考えると、現在の自然科学の発達状況では、日本では社会主義型ではなく、アクセル(競争政策)とブレーキ(セーフティネット及び所得再分配政策)双方を操縦する形でのギア論が妥当と考えている。(2020/11/03 12:02追記)舵取りの目標は「(形式ではなく質的意味を伴う)、最大多数の最大幸福」である。ブレーキをかけすぎると、前に進まないのみか、ときには携帯電話その他誘惑に駆られ危険となり、アクセルをかけすぎると交通事故は蔓延する。安全と目標達成のための方策がギア論である。誰でも分かるようであるが、浜田理論では科学(法則)に基づくため、思考のコペルニクス的転換を随所に盛り込んでいる。
重要部分の相当部分が全政党と異なるオリジナル理論・完璧な独自理論となっている。
その理論などを記載すれば、誰でも即座に分かろう。いずれ掲載予定でいる。
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ただし、政党人でも新免氏などの人間的には立派な人がいる。その逆もいる。要するにどの政党も同様である。また、私はジョンス・チュワート・ミルの影響を受けており、特に彼の「自由論」と「功利主義論」の影響を受けている。私のよく使う言葉では「右翼がいるから左翼は襟元(えりもと)を正す。左翼がいるから右翼は襟元を正す」、要するに両方とも必要である。それ以上に、自由の実現の効能が政治のみか経済にもあるという立場である。
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【第四段階・契約的党派中立】(第三と第四は逆にしてもよい)
更に、救済依頼を主要政党全部に送付したため、契約的党派中立と考えている。契約とはどの政党でも、思想・信条とは無関係に私の救済への努力をしてほしい。同時にそれは政党の義務でもある。私の方も、世の役に立つことには、どの政党であろうとも、可能な範囲で協力をするという契約である。
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以上、完全党派中立への道である。
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《◇―5・立会人を新免氏に依頼した理由と双方の契約事項》
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闘争とか交渉は当初は考えていなかった。
最初は、辞職予定のなかった頃(1997年前半頃)に専任問題なども含めて、労基法違反問題を、雇用促進事業団本部に直(じか)にいって聞こうとした。要するに、雇用促進事業団内部での解決を望んだ。ところが、各種手段で潰された。
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更に辞職後ですら、まず、雇用促進事業団内で問題解決を図ろうとした。
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尚、労働省宛への手紙は友人の労働基準監督官のアドバイスで「そんな職場がこの世にあるのか!労働省に手紙を出せ……ただし○○課だと握りつぶされるので○○局にだせ」とアドバイスを受けた。しかし、私は筋を通し、雇用促進事業団担当係に手紙を出した。案の定返事は来ない。
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「恐るべき労基法違反」第4章交渉、「第二節:岡短との交渉に至るいきさつ」の125ページ参照。
○http://hamatakachan.uh-oh.jp/wp-content/uploads/2016/08/990517535218e5c277d6ae968fd73be7.pdf
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次に、所管の労働省にも併行して直訴して、問題解決を図ろうとした。
この頃は新免議員経由ではない。まだ交渉する予定がなく、誠意で解決を望んでいた時期である。
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私は、筋として、まず岡短に要求を出したが無視された。では、もう後(あと)は岡短の所管労働省(現厚生労働省)と運営団体・雇用促進事業団(後(のち)の雇用・能力開発機構)に直(じか)に被害救済を訴える以外に手はなくなった。そこで、両機関宛(あて)に問い合わせ文書という形で手紙を送付した
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『閉じた窓にも日は昇る(下巻)』・第四編闘争、第二二章・闘争の開始
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それでも無視されたのである。
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そこで、今度は主要全政党経由での問題決着を考えた。当時は、躁鬱(そううつ)病の躁(そう)状態がでたのか、新免議員レベルではなく、主要政党のトップ及びトップクラスに直訴を考えていた。
そして、行動に移しかけた。
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自民党は当時は、小渕恵三氏が総裁であり、総理大臣であった。小渕恵三氏は学部は早大文学部であるが、大学院は早大政治学研究科で、私の先輩になる。そこで、いきなり直訴か、それとも早大大学院時代の恩師・内田満先生に紹介状をお願いする等で会える可能性がゼロでなかった。
大学院時代の恩師は当時は自民党の顧問であった。また、大学院時代に、先生が「浜田君、自民党の議員にインタビューにいってきなさい。僕の名前をだせば、誰でも喜んであってくれるから」と有り難い言葉を頂いたことがある。
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ところが、私はその頃に市川房枝氏にインタビューに行き、一対一で長時間会談をしている。その頃、市川さんの選挙参謀が菅直人氏であった。そこで、婦選会館に行き、当時会った紀平悌子氏か誰かに紹介状をもらえば、民主党では菅直人氏に直(じか)に話ができると思っていた。
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自由党は、小池百合子氏がいたと思うので、まだその頃の彼女は今と異なり若手になるため、関学の同期生(学部は違うが同じ1971年関学入学)と言えばあってくれるであろう。小池百合子氏経由で小沢一郎氏に会おうとしていたというメモがあった。
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社民党は土井たか子氏に直に会おうと思っていた。土井たか子氏については、彼女が関学で教壇にたっていたときもあり、更に、彼女の恩師・田畑忍氏を目当てに私も同志社大学大学院を受験した経緯もある。ただし、合格したが、大学時代の恩師の勧めで早大大学院に進学した。
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問題は、共産党と公明党だけ、トップと会うための方法がなかった。両党とも、当時は50万人くらいの党員がおり、地元の町議会議員の紹介では不破哲三氏や浜四津敏子氏に会う手段がなかった。
当時は新免氏は思いついていなかったが、新免氏の紹介レベルでは不破哲三氏(当時の共産党委員長)に直に会うのは難しく思えた。
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だが、労働省相手の交渉と言ってもよいため、政党党首クラスの大物でないと無理と考えていた。
そのときに、岡映(おかあきら)氏を思い出した。岡映氏の紹介状ならば不破哲三氏もあってくれるのではないかと思った。
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要するに、共産党と公明党だけがトップ及び超大物への紹介状を書いてくれる伝手(つて)のある人がいなかったのである。それ以外は東京時代、早大大学院政治学研究科時代の伝手がある程度あったのである。
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ただし、この直訴計画は、母が「今回は、体調問題などもあるので、弁護士相談だけにしろ」、その代わりに東京に行く費用は出すと提案してきた。
そこで、費用問題と体調問題で中止とした。ともかく、動く費用がなく、スポンサーの母の意向は無視できなかった。我が家から東京行きとは韓国や場合によれば上海に行くよりも費用がかかることがある。
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こうして、主要政党トップへの直訴計画から、交渉へと切り替えた。
次に、交渉において、立会人を検討した。上記の流れで、岡映氏をおもいついた。逆に言えば、上記の著名人の中で岡山在住は岡映氏だけであった。
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その後の流れは以下の通りである。
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主要政党本部に行き、代表者に会うためには紹介状が必要と考えた。主要政党が相手をしてくれそうな人物の検討に入る。
……
まず、岡短との交渉立会人の検討を開始する。岡映氏は足が悪いのでは御無理をいえないため、高校二年時担任内田喬(たかし)先生(岡山県前高教祖委員長)に依頼(いらい)打診(だしん)の連絡をする。残念ながら癌(がん)のため今は動けないとのことであった。
一〇月一四日、バレーボールなどを通じて顔見知りであった新免美作町議会議員(現・市議会議員)に、短大との交渉の立会いを依頼して合意を得た。新免氏とは二二年ぶりの再会であった。断っておくが、私は二〇〇七年現在まで二〇年以上どの政党・機関にも所属していない。組織への接触もない。また今後も党派完全中立を貫(つらぬ)くと宣言している
ただ、大学院浪人時代にバレーボールなどで知り合い、人間的に信頼できると考えたので立会人になっていただいただけである。
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内田喬先生は林野高校時代の高校二年時の担任である。同時に、公式ブログ「徒然(つれづれ)なるままに№1」に書いたような縁がある。ここで登場する先生が実は内田喬先生である。岡山県高教組委員長も経験しており、交渉になれているだけではなく、パチンコ屋での腐れ縁があったのである。徒然なるままに№1を読めば、私がこの先生に頼もうとした理由が分かるであろう。
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徒然なるままに・第一回高校2年時の担任U先生の思い出―高校生の私と教師がパチンコ屋で出会ったときに先生が言った言葉
○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=4933
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なお、新免氏と私との契約は以下の通りであった。
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なお、立会人及びその後の窓口的役割への便宜(べんぎ)に対しては、謝礼も便益(べんえき)も一切提供していない。新免議員には「完全にケリがついたならば、新免議員が私のために汗を流した時間だけ、(政治関連ではなく)引っ越しの手伝いとか、そうした類(たぐい)の手伝いをすることにより相殺(そうさい)したい」と明確に伝えている。
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新免議員の側からは「私に対する個人的な礼は不要である。美作町(現美作市)全体若(も)しくは他政党・無党派も含めて全議員にとって町政(市政)の参考になるような形で礼はしてくれれば良い」とのことであった。
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尚(なお)、旧美作町議会議員には知り合いのH議員(公明党)もおられたが、我が家の親戚かつ近隣のため除外した。何故(なぜ)ならば、親戚・近隣(きんりん)の場合には、どうしても少しは私の有利にという感情が働き、平等性が失われる危険性を懸念(けねん)したためである。極論すれば、「機構」などから賠償を取る場合でも、H議員よりは新免議員の方が安い額になる可能性は高い。安い額を望んでいるのではないが、平等・客観的な対応が望ましいため親戚類は除外した。
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以上。