日本のフィクサーME・続編メモ:(二)・党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話―5(謀略・政争から政治へ)・1
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《全箇所共通注意事項》
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(1)著作は、原則として、十二回の見直しをして作成している。
(ブログは、通常、一回程度の見直ししかしていない。)
今回の原稿は、この十二回の見直し以前の単なるメモである。
そこで、作品時点では大きく様変わりするであろう。
それを頭に入れて読んでいただきたい。
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(2)この文書は、故意に嘘(うそ)を10パーセント程度いれている。どこが嘘かは公開できない。善良な第三者に迷惑をかけないための措置である。
総論として、この文書はフィクションとして書いている。
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(3)『日本のフィクサーME』登場人物のキャラクターなどは以下を参照願いたい。
安らぎ文庫>>6-1・『日本のフィクサーME・下』《『日本のフィクサーME』登場人物の紹介》
http://h-takamasa.com/book-01/custom57.html
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◎風景描写→字数の関係で、メモではごく一部を除き風景描写は原則として大きく省略する。
※今回から、以下本文の青字はクリックすれば、ウィキペディア等にリンク。
(If you clicks a blue character,a blue character will link to Wikipedia etc.)
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今回は、相当部分、本日一気に書いており、見直し不十分のため、誤字・脱字、不適切表現があれば後日修正します。
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(二)・党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話(5)(謀略・政争から政治へ)・1
※この所、妨害が多いため、下書き段階で公表する。この続きも既に下書きに近いことを書いている。原則として、誤字・脱字と文の乱れを修正してその通りに掲載予定でいる。ただし補足のみ追加するかもしれない。
(2017/09/16 午前11時にガス屋がガス漏れ探知機をつけにくるため尚更その予定でいる。)
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●最終修正:2017/09/16 8:04:10:24=赤字一行目追記
日本のフィクサーME・続編メモ:(二)・党派中立宣言と伊勢志摩サミット協賛の裏話(5)(謀略・政争から政治へ)・1
八年前の本日・九月十六日(2009年9月16日)、鳩山民主党内閣が誕生した。
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☆☆☆今までの話の舞台と異なり現代(2017年9月15日)からの挿入箇所☆☆☆
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2017年9月14日、安倍総理がインドで大歓迎を受けたと知る。
安倍氏が華々しく海外を飛び回る。
他方、私は各種人権侵害のため貧困生活にあり、更に間もなく極貧生活が来る可能性が高い。
だが、私は貧困のど真ん中に入り、
貧困者と一緒にもがき苦しもう。
そして、日本の政治の貧困を訴え続けよう。
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ただ、その前に書きかけた日本のフィクサーME・続編メモで、一部政争類も書かざるを得ないことが残念である。
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☆☆☆挿入終了☆☆☆
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第二次安倍政権に入り、私への動きは三段階あった。
(ただし犯人は安倍氏とは書いていない。現時点では不明である。)
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第一段階は徹底した、私への攻撃と策動(2013年)
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第二段階は、表では共存共栄、裏では証拠を残さぬ形で催眠利用も含めての各種攻撃。(2014年~15年)
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第三段階は、民主党(現・民進党)との対立謀略と、あからさまな攻撃という印象の植え付け、催眠をつかっての生活破壊と民進党との対立謀略(2016年から現在)
断片的にそれらをメモする。
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まず、第一段階から話を開始する。
中国の旅(2015年5月)前後での謀略の話である。
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2013年5月8日からの中国の旅へは私自身の幾つかの目的があった。だが、この旅は相当前に計画されていたようである。
思えば、私が中国首脳部とかなり接近し始めたのが2010年頃である。尖閣列島問題を巡ってであった。まずは、菅直人内閣の下で、温家宝さんと菅直人さんの間で仲介をさせられた。
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ところで、明神君が面白いことを言ったことがある。
中国には権力分立はないとか一党独裁と言うが、党内で、幾つかの政党と同様な状態があるような気がする、と。
さらに、主席と首相の組合せも面白い、と。
毛沢東=剛、周恩来=柔。
これをモデルにここ十年以上、その種の組合せがあるような気がする、と言うのである。
菅内閣時では、胡錦濤国家主席=剛、温家宝首相=柔。
最近では、習近平国家主席=剛、李克強首相=柔というように。
事実か否かは不明である。
単に明神君の見解にすぎない。
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ところで、菅直人内閣では温家宝首相と菅直人総理の会談が多かった気がする。
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そして、尖閣問題を巡って、両国の対立の中で2010年頃調停をかなりさせられた記憶がある。調停の内容などの詳細は『日本のフィクサーME』{Kindle・Kobo各百円}に掲載している。また中国の旅と韓国の旅は『日本のフィクサーME・パート2』で紹介予定でいる。
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☆☆☆過去の回想に入る☆☆☆
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民主党政権・鳩山由起夫内閣が成立したのは、2009年9月16日であった。
同年の民主党支持率、9月42.0%、10月39.7%、11月37.7%、12月35.6%、他方自民党支持率は9月18.9%、10月16.7%、10月14.1%、12月17.1%であった。
鳩山内閣支持率は9月72%、10月70%であった。(いずれもNHK世論調査より。この後も調査会社が無記述の場合にはNHK世論調査である)。
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その鳩山氏が躓(つまず)いたのが、普天間基地移転問題であった。これにより、2010年5月の鳩山内閣支持率は21%となった。しかし、政党支持率では、民主党は20.8%、自民党17.9%であった。
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現在からみれば信じられないくらい民主党支持率は高かった。あのとき、沖縄問題解決への私の持論を鳩山氏に言うべきであった。私の沖縄問題解決の持論を本気でやろうとする政治家は鳩山氏しかいなかったかもしれない。
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さらに、当時はアメリカ大統領はオバマ大統領であり、ドイツはメルケル首相、更に鳩山内閣閣僚には菅直人氏や福島瑞穂氏などがいた。
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私の沖縄問題解決への持論とは、沖縄にある全ての基地のグアム移転である。
ただし、そのためには大きな条件、交渉能力、更に一命を賭ける覚悟が必要であったかもしれない。
条件とは、安保条約を破棄しない限り、沖縄の全基地をグアム移転する上でアメリカの合意を取るには、移転費用の日本側全面負担のみか、グアムに基地建設する上での基地費用やグアム全体のインフラ整備費用の相当額を日本が負担することであった。
人口十万人のグアムに三万人程度の米軍が移動すれば、グアム島全体のインフラ整備が不可欠となる。そうした費用まで日本側が負担しない限り、現状ではアメリカ軍の全面移転は不可能である。
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まだ、その頃はオバマ大統領と余り親しくなかった。オバマ大統領と私の接近は事実上、2012年の大統領選挙、及び後に述べる2013年5月の訪中の頃からであり、更なる親密化は2015年2月の訪米からである。
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アメリカは、当時ならば、費用問題さえクリアされれば、基地は沖縄でも、台湾でも、フィリピンでも、グアムでも良かったはずである。台湾は中国領土のため不可能であり、フィリピンは条約問題で無理となる。残りは沖縄かグアムである。
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しかし、アメリカにすれば移転する場合には移転費用のみならず、グアム全体のインフラ整備(病院・道路・下水道・学校…)抜きでは無理であった。だから、その費用の相当部分を日本が負担するという条件ではどうかということであった。
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故・大田昌秀知事は私に「それを言え言え」という雰囲気であり、福島瑞穂氏も同様であった。当時、今ほど親しくなかったオバマ大統領始めとする高官は、「それが現実味があるならばともかく、日本政府が本当にその気ならばともかく、今は単なる仮定の話であり、現況ではユートピアすぎ…」と、苦笑いをしていた。要するに、日本の首相が切り出してこない限り…であった。しかし、「ノー」とは言わなかった。
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今考えれば、この案を実現する上で、本気で取り組む可能性があった総理は鳩山由起夫氏が一番であった。
だが、当時、鳩山氏は私を小泉純一郎氏のブレーンの一人という感じを土台に持っていて、警戒していたようである。私の方は、鳩山氏については?であり、分析ができていなかった。鳩山氏と私と相当似た考えの部分があると分かったのは、民主党が下野してからである。
大変、残念な機会を逃したと思っている。
(もっとも、鳩山由紀夫氏については鳩山氏のHPや各種インタネット及びマスコミなどを見ての範囲でしか、今なお知らないため、現時点での想像であることをお断りしておく。)
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それ以降、この案を言わないのは、安倍政権下では不可能だからである。オバマ大統領以上に、私の方が安倍政権下では砂上の楼閣(ろうかく)と考えている。
鳩山氏が総理のときに双方で接触があれば、沖縄問題は一気に解決可能な道があったかもしれない。勿論、その道は茨(いばら)の道であり、鳩山氏の決死の覚悟抜きでは不可能であった。
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後に、沖縄県知事などが、私に「オバマ大統領と親しいのに沖縄問題で何故発言しないか」という感じでみられたときがあったが、先の案に現在の政府が乗ってくる訳がなく、話しても無駄だからである。
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同時に、私が主張している、国連の大改革か国連にかわる組織樹立に向けての構想は、今考えると鳩山内閣時代にどんどん言うべきであったかもしれない。
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しかし、当時、私は村の組合長であり、病気の老母を抱え身動きがとれず、その上、鳩山由起夫という人物については未知数の段階にあった。鳩山氏の側も小泉純一郎氏と私との関係から、かなり警戒をしていたようである。
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実際、小泉純一郎氏(首相在任期間:2001年4月26日 - 2006年9月2日)には救済依頼の文書を送付した後、テレビでの応答で気のあった所があった。
小泉純一郎氏の日朝ピョンヤン宣言は快挙と今でも思っている。この問題で、小泉さんへの批判が高まれば擁護の論陣を張る予定でいたし、実際に擁護の言動をあらゆる所でしていた。
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ハンセン病国賠償訴訟(らい予防法違憲国家賠償請求訴訟)問題での控訴断念も評価している。
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独立行政法人問題で、雇用促進事業団・雇用能力開発機構理事長への労働省・厚生労働省事務次官天下りをやめた点も評価している。
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更に、ハンナン事件(2004年逮捕)、飛鳥会事件(2006年7月)では…民主主義実現上の観点からも、高い評価をしている。小泉氏は気がついているかどうかは不明であるが、差別なき社会にむけて、小泉氏は一定の貢献をした。
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小泉純一郎氏はそういう意味で戦後史に残る総理と考えている。
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しかしながら、憲法改正問題、総理の靖国参拝問題などでは双方譲らず、後者では家で色々言っていたため聞こえていれば論争をしていたことになる。(私は護憲、総理の靖国参拝には反対の立場である。)
その上で、対応できる部分は対応した。例えば、女系天皇問題は「神武天皇からの」系譜から小和田家に移るということで、善し悪(あ)しは別として大論争になるので、じっくりと時間をかけ、国民的議論をしなければならないことなどを進言させてもらった。
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私の土台は党派中立・宗派中立である。それは一貫している。
だから、鳩山内閣でも双方協力できる点で、当時は接触すべきであったかもしれない。惜しい機会であった。
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鳩山内閣の時が沖縄問題、終戦以来の国連大改革(常設国連軍を実現する…)若しくは国連にかわる国際組織樹立にむけて動く良いチャンスであった。
どうせ、鳩山氏もフェードアウトするならば、沖縄問題を上記路線で、更に、世界首脳に向けて国連大改革や新組織樹立に向けて発言と行動を起こしていれば、彼もすっきりとしていたかもしれない。勿論、鳩山氏は私と考えが違っていたかもしれないが、当時は、接触はテレビを通じてでもできない状態にあった。
今考えれば、当時はオバマ大統領、メルケル首相、…である。
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私は、もう本年(2017年)1月21日から、政経からフェードアウト予定でいた。諸事情で、再度、首を突っ込まされたが、やはり早めにフェードアウトし、私の本業に没頭したいと願っている。
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(※注)小泉内閣の経済政策等と私の考えは違っていた部分もかなりあった。しかし、それらは今回の原稿目的とは無関係なため省略している。経済政策では相談類は受けていないと思う。それ以外の分野で相談か諮問のようなものを受けた可能性があるものは拙著『日本のフィクサー〝ME〟』(KINDLE、KOBO版、百円若しくは$1)に既に記述しているため、興味のある方は購入して読んでいただきたい。ただし、この本は既に何度も記した如く、関係者に迷惑がかからないようにするため、十パーセント程度の嘘(うそ)を入れている。
安倍内閣では諮問類は受けていない。ただし、既に述べたサミットに合わせての「今月の歌」に関しては不可思議な問題が残っている。それらは既述の通りである。
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ちなみに、小泉純一郎総理と一部馬があったせいで、自民党の山崎拓氏、亀井静香氏(現在は無所属)、与謝野馨氏、中川秀直氏、森元総理…にも親しみを覚えることもあった。河野洋平氏はもとより、後藤田正晴氏、野中広務氏などは言うまでもない。それ以外にも鳩山邦夫氏…と記せばきりがない。
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他方、共産党の穀田氏は私を見て、(多分、何か誤解をして)、イライラ・カリカリしていると感じるときもあり、政治学者・山口二郎氏などはTVタックルの中で私をにらみつけ続けることもあった。(今は両者ともそうではないと思うのであるが、最近はテレビをほとんど見ないため詳細は不明である)。ちなみに、山口氏などとは護憲・改憲問題等では一致の立場(多分、彼も護憲)ではないかと想像しているのだが。
勿論、共産党でも、書留送付(主要政党全部の党首と幹事長・書記局長などに平等に書留送付)していた関係で、市田忠義氏(当時の共産党書記局長)などは温和な形で私を見ていた。個々に名前は出すスペースはないが、民主党でも、自民党でも同様であった。
要するに、主要政党全員が私に好感を持つ政党はなく、逆に主要政党全員が私を敵視する政党もない状態であったし、今もそうである。
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しかし、私は一貫して党派中立・宗派中立宣言をしているのみか、私への救済依頼を全政党の代表・党首や幹事長・書記局長などに送付している関係で、更に党派中立に徹しているため、それがあたり前かもしれない。
私の言動は、総理や政権の交代があっても変化はしていない。ただ、それだけのことである。
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私は党派中立・宗派中立であるが、憲法9条擁護及び護憲の立場である、とはっきりと言うと、(私と関学同期入学の)小池百合子氏と仲の良い佐藤ゆかり氏が「そんなこと言って、小泉氏との関係は大丈夫」というような顔をしていた。
しかし、私は小泉政権時代でも、自分の信念は曲げていない。小泉氏も同様であり、幾つかの問題で対立を残した上での共存であった。
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再度記せば、一つの政党でも私を友好的に見る人と、懐疑心・敵対心の目で見る人がいた。それも、ほとんど全部の政党で。党派中立・宗派中立宣言をしているため、それで良いのかもしれない。否、その方が良いかもしれない。
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菅直人氏の場合には、2004年などに救済依頼文書を書留送付していたため、事情が違った。さらに、私も菅直人さんも市川房枝氏という軸があったこともある。そこで、私への民主党の対応が大きく変化するのは菅内閣成立(2010年6月8日)からである。しかし、それでも最初は様子見の模様であった。
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☆☆☆回想終了☆☆☆
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2011年9月頃、中国政府がSMAPを厚遇、コンサート前に「国賓級会談」などのニュースが流れる。恰(あたか)も、私の訪中時の模擬演習という印象を与えられていた。この頃、私が中国に行く話が決まりかけていたのではなかろうか。
私の方は2011年末頃から2012年にかけて、鑑真和上をテーマにした、拙著『旅に心を求めて―懐かしきの心を求めての旅』補完写真との関係で、中国行きを検討しかけていた。
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2012年9月11日に、日本政府、尖閣諸島の魚釣島及び南小島、北小島を所有する地権者と20億5千万円で売買契約締結、俗にいう国有化がなされる。
日中関係は最悪となり、中国では反日暴動も一部で起こる。
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そうした中で、中国政府、日本、私の意思が一致し、訪中が決まったのだと思う。箇条書すれば以下となる。
①(政府の側)中国での反日感情を抑える。
②(私の側)『旅に心を求めて―懐かしきの心の旅』関係で鑑真和上の足跡を追う旅。(現時点で原稿は既に完成しているが出版待ち状態。)
③(私の側)世界連邦若しくは新国政政治秩序・新国際経済秩序構築に向けて、先進国首脳の間を保つ行動。
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ただ、重要なことは、このときの決定は、安倍内閣ではなく、菅直人―温家宝ラインか、遅くとも野田佳彦総理―中国政府(胡錦濤・温家宝)ラインで決まったと想像している。(当初は訪中は2012年11月か12月を予定していたが、同年11月母死亡で、2013年5月となる。)それが幾つものトラブルをうむこととなる。
まず、第一段階・私への攻撃・策動の話から入る前に、再度当時を回想する。
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次回へ続く。