(A)『日本のフィクサーME』続編用メモを今回掲載する理由。
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当初、長期連載『求め続けて』が終了した後で、『日本のフィクサーME・パート2』、次に『同・パート3』を連載予定でいた。
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前者は2012年頃から2013年末頃を対象とし、後者は2014年初頭から2017年1月20日頃までを対象とし、それで『日本のフィクサーME』シリーズは完結予定でいた。
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ところが、オバマ大統領が辞めた頃と、ほぼときを同じくして膨大な火の粉が降りかかってきた。
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その中でも、本年春頃、明治天皇替え玉説を私が流布しているとの如(ごと)く挑発があった。
明治天皇替え玉説や「孝明天皇暗殺説」はデリケートな問題のため、通常の文書ではなく、十パーセントほど嘘(うそ)をいれ、全体としてフィクションとしている『日本のフィクサーME』シリーズの一貫として答えることが良いと判断し、五点ほどを緊急公開することにした。
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ただし、この臨時版は正式な『日本のフィクサーME』シリーズの下書きにはなく、本年6月中旬から緊急に記したものである。
正式版の下書き連載ときには多少姿を変えたものとなるであろう。
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ちなみに、私は明治天皇替え玉説についてはまだ調べていない。更に、これに関する動画があったようであるが、政争に巻き込まれることを懸念して、2017年6月17日時点まで一切見ていない。
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先日、与謝野馨さんの動画を探しているときに、蓮舫さんについて「信用できない」などというコンテンツがあった。確か安倍総理と一緒の場面が動画の表紙であった。しかし、私は政争に巻き込まれることを懸念して、この動画も見ていない。
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同様の理由で、明治天皇替え玉説については、現時点では簡単に言えば何も知らない。
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ただし、下記(参考)に掲載した如(ごと)く、「孝明天皇暗殺説」については、真偽のほどはともかく、一応しらべなければならない。何故(なぜ)ならば、伊藤博文を暗殺した安重根が下記(参考)の如く、伊藤博文暗殺理由の一つとして、彼が「孝明天皇を暗殺した」ということをあげている。
この点は調べる必要がある。
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単純に言えば、伊藤博文が孝明天皇を暗殺し、その報復として、安重根が伊藤博文を暗殺したという文脈となる。
真偽のほどは不明であるが、安重根がそれを本当に信じていた可能性が高い。
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ちなみに、安重根記念碑に参った以上、この(資料)箇所は覚えていた。そこで、簡単にそうした項目があるかどうかのチェックはしたが、詳しい内容どころか、大まかな内容すらまだ見ていないのが事実である。
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しかし、二つの理由で明日から調べることにした。
一つは、安重根の研究関連のためである。
もう一つは、私への降りかかった火の粉を払うためである。もっとも、まだ明治天皇替え玉説などはみていないため、それだけでも、私に降りかかった火の粉はデタラメな証拠となる。
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明日・2017年6月18日から、この問題の資料集めを開始予定でいる。
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また、この問題以外にも、公開した方がよいという重要な問題を今回掲載することになる。
ただし、下記(5)一、二は、さほど重要ではない記述から入っていく。
文章のリズムをつくるためと、読者に対して、全体の記述を重くしないためでもある。
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そして(5)の四でこの問題を扱うことになる。
その際に、2010年の愛子さん(正式には敬宮 愛子内親王)関連での私の発言内容の公開を行う。ただし、本年の愛子さん激やせに関しては、私は一切何も言っていない。
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上記の文書は各種妨害や挑発を恐れ、この文書をあげる直前に記したものである。下書きも諸挑発を懸念してせずに、いきなりこの文章を記し、掲載する。
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同時に、この文書掲載した直後から、研究上の視点から「孝明天皇暗殺説」などの資料集めを開始する。ついでに、与謝野さんの箇所で蓮舫さんについて論じていた動画も収集する。理由は、(与謝野さんについては好感を持っているが)、与謝野さん以外の誰かの謀略類などのチェックのためである。
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解説が不十分であり、分かりにくいかもしれないが、先の事情で機密として、この原稿をあげる直前に上記までは一気に書いたという点を御理解いただきたい。
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(参考)安は下記のような伊藤博文を暗殺した15の理由を列挙した。この有名な15条は明治42年当時の新聞で広く日本や世界に公表された
今ヲ去ル四十二年前、現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラル御方ヲ伊藤サンガ失イマシタ。ソノ事ハミナ韓国民ガ知ッテオリマス。
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青色文字は下記の孝明天皇を指す。
(参考)
孝明天皇(こうめいてんのう、天保2年6月14日(1831年7月22日) – 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、第121代天皇。在位は、江戸時代末の弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日)。諱は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子、明治天皇の父。
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※「トラブルブログ」の重要情報公開を、中止若しくは延期した理由は、今回の文書を優先するためであった。
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