(💁③と④を今回追加正式公開)駿台事件真相編―🆕6―B段階公開・駿台CM作戦・各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦③④正式追加公開:①②も併行保存公開のため①~④公開
【履歴】
2024/11/20 9:36からメモ貼り付け作業。内容(意味)抜きで貼り付け作業終了後から下書として非掲示とし、意味をなす内容となった段階で順次公開。清書後に正式公開
2024/11/21 15:40 今回の文書はA4用紙で横43文字×縦50行で約24ページになるため、清書は分割して、原則2項目ずつに分けて三回公開を予定している。場合によればHPページの分割もありうる。→第一回公開《◇―1》と《◇―2》、第二回公開《◇―3》と《◇―4》、第三回公開《◇―5》と《◇―6》を検討している。
正式公開を分割してでも急ぐ要因のもう一つの理由は、昨日(2024/11/20)、表三郎氏(英語担当)が死亡(2024年11月9日に死亡)したという記事が飛び込んできた。関係者が全員死ぬ前に、駿台事件の全貌公開を急ぐ必要がでてきたからである。㊟ただし表氏が絡んでいるとは一切書いていない。
昨年(2023年11月)は北山一氏(化学担当)が死亡というSNSを見た。ただし、政経の前田晃精氏(別名・杜晃精他多数使用)が2000年代前半にSNSや各種書き込みなどで「死亡した」という記事を見たが、2017年に前田(杜)氏と上田正昭氏の対談の亀岡市の記事を見たこともあるため、真偽は全て不明である。
2024/11/22 16:18 《◇―3》以降を分割するかどうか検討中:
19:26 (1)と(2)のみで15000文字のため(1)と(2)のみで正式公開。(1)~(6)では6万文字となるため (3)と(4)は後日追加公開。(5)と(6)は文字数の関係で別頁で公開検討。
2024/11/24 (3)の貼り付けと追記。2024/11/25 9:38 から(4)の貼り付け整理作業。
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📢2024/11/26 14:27 (3)と(4)の正式公開。 15:28 追記。
ポリテクカレッジ岡山の写真2枚、進研予備校の写真2枚追加。(3)と(4)は下の方にあります。現在35000文字のため、(5)(6)は別ページで公開とするかどうか迷い中。(6)に回すため写真1枚削除。17:08一部微修正。
2024/11/27 (5)と(6)分割決定で分割へ
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2024/11/28 10:57 (5)と(6)は下記に掲載中
駿台事件真相編―🆕6―(4)・駿台CM作戦・各職場連携Ⅱ:⑤能開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=47584
【駿台事件全体構想】
駿台事件真相編―1・催眠
駿台事件真相編―2・ゼノンの詭弁と駿台事件の手口・女性編
駿台事件真相編―3・企業と私―駿台大CM編
駿台事件真相編―4・駿台CM作戦と映画女性活用編
駿台事件真相編―5・駿台CM作戦―女性刺客四人組活用編(その1・黒幕編、その2具体的展開、その3㊤㊦と4㊤㊥㊦展開解説付き。その5・その6・その7=世界からの情報、その8)
駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(ベネッセ―駿台―能開大と一本線):(1)(2)(3)(4)にわけて掲載。
駿台事件真相編―7・駿台CM作戦―業務妨害から刑事犯罪被害へ
駿台事件真相編―8・駿台CMと🎬協同で☠映画説グループを絡め作戦と能開大・村への移行
【注意箇所】個人情報を掲載理由(毎回掲載)
下記理由(この事件に絡んで何人かが死亡…や私自身も命を落とす危険が何度もあったことなど)で、実名での公開を原則とする。
下記はZ家(浜田稔・正典)家であるが、どうも、我が家(浜田耕治・隆政)との家間違いが駿台事件の原因の一つのようであるため、駿台事件も実名とする。同時に、駿台講師時代も拉致未遂被害や学内外での業務妨害や刑事犯罪被害に遭(あ)ったため尚更である。
※疑惑も含めれば死亡者は10名以上、MEの世界を含めれば20名以上かもしれない。ただし、私は完全に無関係である。
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個人情報公開理由(📢浜田稔・正典家の登記簿上の住所648-5の場所には2024年5月頃から浜田正典氏以外の人がお住まいなので注意ください。)
各種個人情報が出てくるが、
(A)我が家の住所・位田646(戸籍=現住所=登記簿:祖先は1600年代後半から系図あり:本家)を使用され、各種被害(2017年のみでも2万円損失させられたことをはじめとして多数)、その他の膨大な被害(灯油のみでも無断で5回いれられかけ、実際に2度いれられた)があること、
更に、
(B)我が家住所番地(位田646)無断使用者・浜田正典氏(司法書士)に是正を求めても改善されず、
(C)該当者自身の職業が司法書士という法の専門家であること、
(D)上記の行為により、生活に支障を何度もきたしたこと(例:死亡は嘘の疑いが高いが、浜田正典氏が死亡した際には葬儀屋が我が家へ来て私が対応、霊柩車も最初我が家へきたようであるなど)…その他膨大な被害があること、
(E)私が意味不明の40年近い被害を受けている原因が家間違いの疑惑があること、
(F)多くの情報網を持っている世界の我が友=世界の指導者が10人以上、暗に原因は家間違いであることを示唆したこと、
(G)深い事情を知っていると思われた、亡き友人(司法試験にも合格したと言っていた)が「トラブル被害の原因は人間違い」を明言したこと、
(H)岡山県美作市役場などに相談しても適切な対応はとられなかったこと、
等等から、個人情報であっても、私の生命を含む人権を守るための、超法規的措置もかねて公開に踏み切った。(個人情報を含む人権は濫用してはならない。公共の福祉との整合性より公開可能と判断)
超法規的措置と言っても、浜田正典氏は司法書士事務所の関係で使用住所の一つ位田648-5は各種ホームページで公開されていること(ただし郵便受けや各種書類では我が家の住所位田646を使用されることが多い、ごく希に岡山県の土地位田646-2も使用)、…で、彼ら(司法書士)の住所はCM扱いとなっているため、(私への人権蹂躙を阻止するという)正当な理由抜きでも、今回の情報公開は合法とも考えている。
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上記は下記を一部修正して抜粋
私の人権編:⚔⑧―40年の人権侵害全貌解明:8月16日編(8月24掲載)
https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=40006
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駿台事件真相編―🆕6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大と一本の線)
下記、桃色箇所が今回の原稿の範囲。
(序)駿台真相編-06・全体の概要
(1)私が務めた各職場の結合形態と私の父との関係
(2)駿台CM作戦・大阪校編―女性問題から超多忙生活工作へ
―――相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較
(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦―(その1)①職場連携、②駿台決定、③能開大専任詐欺、④岡中高専任煙
(4)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦―(その2)⑤納開大・駿台契約確認、⑥駿台他校利用契約違反
(5)☠(謎のX)の存在疑惑と、人間違い誘導疑惑について
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駿台事件真相編―🆕6-(3)各職場連携工作の意図―犯人・犯罪隠蔽作戦
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《◇―1・概況―各職場の利権と隠蔽の絡み合い構造》
(記述途中のため、内容は大幅変更もあります)
全体的仮説は、🎬(映画説)グループの視聴率稼ぎ、同時に提携した🏢(企業・学校群)の利益の増大(特にCM効果)である。
しかし、いずれ事情が判明するため、そのときに備えての責任逃れ対策がなされていく。
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なお、CM効果は、該当職場に魅力があれば大きなプラス効果となる。その逆ならば大きなマイナス効果となる。
マイナス効果が出そうになった時点で私の放逐がなされていく。若(も)しくは、🎬映画説グループの脚本にしたがって、職場移動・生活移動が行われていく。この繰り返しであった。脚本は恐らく、私が生まれてから死ぬまでのスパンで組み込まれていると想像している。
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現在のターゲットは私に各種催眠類を多数投入して、謎解きにおいているようである。それも、映画『羅生門』型でなされている。
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🎃(オジョウ)が言っていた如く、書いても効果(損害賠償など)はない可能性が高いと思う。効果は裁判所か国会などで正面から取り上げさせぬ限り、理論上は出てこないと分析している。
ところが、挑発、それが無理ならば催眠で強制させられている。しかも、書く内容が首謀者にこのましくないときには、清書前後に膨大な追記をさせられ、書こうとする内容を煙に巻かれることも多い。
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今度は時系列で概況を記す。
1981年3月突如の催眠で岡山県の三つの学校に採用願を手紙で送付する。全ての🏫学校期間から来てくれと返答があった。
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①1981年4月:真備高校、岡山進研予備校、倉敷英数学館の教壇に立つ
進研予備校の経営者は福武書店(ベネッセ)であり、創始者は父と知り合いであった福武哲彦氏である。父(浜田耕治)→福武哲彦(福武書店・現ベネッセ創始者)→(福武書店系列)予備校名誉校長・尾野作次郎→真備高校のラインは既に記した。
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倉敷英数学館では後の相棒・嶋坂逸郎先生(京都外大元教授)と出会う。彼が、③のポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)へ私をたたせた人間である。後に彼は(現・ベネッセ系列)進研予備校でも教壇にたつ。
現時点での仮説は、倉敷の予備校は労基法違犯だらけであったため、倉敷(正確には新倉敷駅界隈)にあったポリテクカレッジ岡山での労基法違犯を暗示していたのであろう。同時に、現在調査中は駿台と嶋坂先生との関係である。関係が十分なかったとしても、🎬映画説グループの一員であることは間違いない。
【※注】
Ⓐ真備高校(女子高校)は、1997年に男女共学となり、明誠学院高等学校と名称を変えた。
Ⓑ岡山進研究予備校は福武書店(現ベネッセ)経営の学校であったが、駿台と相似形で職員女性を絡める直前に福武哲彦社長が死亡し、1986年の女性騒動が終わるや、即、岡山学院と合併をして、岡山進研学院となり、経営の主体はベネッセから移動している。ただし、ベネッセも少なからず今も関係している。
Ⓒ倉敷英数学館は当時は賃金支払い遅延などの労基法違犯だらけであった。その頃、労働基準監督署に私が相談すると門前払いされた謎がある。後に、倒産をしている。
Ⓓ福武書店→父の一年後輩であった福武哲彦氏が1955年に創業した会社である。1981年度頃から同社の進研模試のチェックや作製を引き受ける。1986年頃は進研模試の監修委員となる。後に多忙からチェックに戻る。途中で、福武書店は駿台と提携して、駿台進研模試を開始する。
1995年にベネッセと名称を変更する。なお、1993年頃から労基法違犯の兆しが見え始め、進研模試の作製主体がベネッセ子会社ラーンズに移動するや激しい労基法違犯だらけとなり、2002年頃に進研模試とは縁をきらざるを得なくなる。労基法違犯が激しくなるころ、送付された資料に駿台英語講師桜井博之君{駿台で英語担当:後に(関西英語科の主任や大阪南校の校長となったようである}の名があった記憶がある。ただし、桜井君が関係しているとは一切書いていない。
なお、2007年には私と高校の同級生の福島保君がベネッセ社長となったときもある。
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②1982年度から駿台の教壇へ
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駿台の採用試験は1981年度であった。同年に採用試験を受けた福﨑伍郎君(英語担当)の話では競争率は50倍だったそうである。合格する訳がないと思うが合格した。当時、社会科教師の全国公募採用の第一号は私であるという噂を聞いたこともあった。駿台(恐らく山﨑理事長クラス)が福武哲彦氏か誰かから駿台大CM効果の可能性を聞いていたせいかもしれない。
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もっとも、私は高校の教師を目指しており、駿台甲府高校に行くつもりで受けたならば予備校に回された経緯がある。ただし、将来の駿台甲府高校への異動は可能と矢田祐三部長から面接のときに正式に聞いている。なお、矢田部長(関西地区最高責任者)は私が駿台の教壇に立つ直前に東京に戻られている。その後、後に述べる(契約違反を二度行った)大滝部長が関西地区最高責任者となる。
駿台教壇に立つ前年度の1981年度には、岡山県立井原高校での専任2年(2年後も悪いようにはしない:井原高校校長)、ベネッセでも正式職員になれる可能性もあった。それと駿台の三つが正式候補となった。正確には真備高校を優先して、真備高校校長に同高校で専任にしてくれと直談判したならばことわられた経緯がある。
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当時の駿台の労働条件は大変よかったことと{1982年度では50分6000円(1987年度では50分9000円)、待ち時間・休みはその半額、夏期講習と冬期講習はその1.5倍、一日3500円の出張手当、原稿作成料・採点料・打ち合わせ料金は別に支給、新幹線はグリーン車、居住地はどこでも構わない、ホテル代金は駿台持ち、私は原則利用しなかったがホテル内での食事は全て駿台持ち、準ボーナス該当の一時金もあり…担任等や進路指導などの雑務は一切ない、…であった}、採用面接では「専任はなれる可能性の方が高い。将来は希望があれば甲府高校に異動も可能」(矢田祐三部長)、その上、教壇にたつと面白かった。
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そこで、駿台での専任を考えた。
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だが、駿台放逐は既に🎬映画説のシナリオで決まっていた。恐らく、辞める年次も決まっていたと思われる。
駿台では私はマイナーな政経担当のため、駿台CM効果が弱く、そこで82~83年度授業苦闘→84~85年度女性ドタバタ劇→86年度超多忙と始めての日本史での苦闘、87年度業務妨害・刑事犯罪被害で話題を提供し、視聴率をあげることを狙っていたようである。
駿台の狙いは、私の授業以上に、駿台の雰囲気を広めて謂わば予備校文化CM(特に駿台予備校文化のCM)にあったと思われる。
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同時に、駿台以降も話題を提供できるように、人間違いを誘導したと思わされている。該当者は(我が家の住所番地を70年使用し続けた、私より一歳年上の)Z3である。原因はZ家内にあった皆木家までは分かりつつある。
もう一つは部落問題を絡めた疑惑があるが、悪魔で疑惑であり、本当に絡んだのかどうかは不明である。部落問題が青天の霹靂型で一瞬のみ登場する模様は駿台真相編07-(3)で掲載予定でいる。
現時点でも、私には嘘か本当か判別はつかないのが事実である。一言で言えば「なんで」となる。
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こうして駿台放逐は既定路線であった。そのときの責任逃れをする目的で③のポリテクカレッジ岡山が登場してきたのだと、最近思わされている。ともかく、この数年間、我が家で山﨑の叔母の手紙が散乱している謎もある。世界に調査を依頼すると、飛び込んできた西山ファーム事件(西山美千代社長)…の箇所でも山﨑が悪いの書き込みが多数ある。
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③1983年度からポリテクカレッジ岡山(岡山職業訓練短期大学校・略称は当時は岡山短大)の教壇にもたつ。
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このポリテクカレッジ岡山は1981年度倉敷英数学館で共に教壇にたっていた嶋坂先生から執拗に勧められた学校である。労働省系大学校といっても良い。運営権者の雇用促進事業団理事長には労働省事務次官が天下りすることが多い学校であった。(嶋坂敬朗先生とはこの学校、ポリテクカレッジ岡山、岡山進研学園で同僚となる。)
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このポリテクカレッジ岡山からのオファーは1982年秋であったが、この学校は後に述べる用に非常勤講師のため、即座に拒否であった。
だが、嶋坂敬朗先生の「断るとしても話だけでも聞きに行ってくれ」と執拗に言われて、先生の顔をたてて、断りに行くとその話がばれていたのであろうか、いきなり「専任」、それも翌年度春から…ということで半年後ならば嘘ではなかろうで教壇に立つことにした学校である。
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1982年度後半に駿台は居心地は良かったが、正規教師となるならばポリテクカレッジ岡山の方が早いということで、駿台に辞表を書きかけると盗撮していた如く、即、ポリテクカレッジ岡山から電話があり、「専任は間違いないが、行財政改革の関係で延びる。取りあえず非常勤講師できてくれ」であった。もし、この電話がなければ駿台に辞表を提出していた。
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悪魔で想像であるが、駿台関係者が盗撮をしたか、🎬映画説関係者が盗撮して駿台とポリテクカレッジ岡山に伝えて、「(後に判明した専任詐欺…であったようであり、これでは駿台の収入が翌83年度からゼロとなるなど)で大変なことになる」で対策をとったものと考えている。
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駿台からみると、理論的には、この学校があることで、駿台の賠償責任は上手くいけば専任待遇ではなく、非常勤待遇にできる可能性がでてくる。
また、駿台CM用準備として、1982年には駿台京都校講師室係🚺女性4人組を採用試験で合格させていたり、私の受け入れ態勢の各種準備をしていたり、まだ駿台のCM効果が充分でなかったりしたため、ポリテクカレッジ岡山に今いかれると困るということであったと思う。
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ともかく、駿台にすれば、専任候補は駿台ではなく、ポリテクカレッジ岡山とする必要があったと思われる。ポリテクカレッジ岡山の方は拙著『恐るべき労基法違犯』(現在PDF無料公開中。原則登場人物は匿名記載であるが、来年には全て実名とする予定である:管直人総理など膨大な国会議員・政府機関には実名で書留送付済み)に記したように、当時5000人の職員を擁していた雇用促進事業団の経営新路線・能開大グループの大CMのための私の雇用という側面もあったと分析される。
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なお、この職場での話題提供は主として職員の契約違反・労基法違反・杜撰な管理がテーマとされていた。労働省系大学校での労基法違反とは面白いではないか、と。
CM効果を得るためにも、また「逆さまの論理」を使用しての激しい労基法違反と契約違反が行われることになる。
それも、限度を超えたレベルまでやれば、私(浜田隆政)の言っていることはあり得ず、オーバーか嘘を言っているとしか思えないと人は思うであろう。あるいは、人は「私=浜田隆政氏にだけ、映画説で特別であり、他の人にはそこまで出来るわけがなかろうと、人は思う」型で、誰も信じないレベルの契約違反・労基法違反が行われていくことになる。同時に、特殊法人(後の独立行政法人)のため「親方日の丸」の世界であり、倒産・解雇はない。
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大赤字になれば雇用保険料をあげ、教育・職業教育・失業対策の名の下に税投入を増やせばすむだけである。民間企業ではない。更にカメレオン職場のため主要な仕事はコロコロ変えられる。
(炭鉱労働者再教育→ホテル関連を含むレジャーランド→総合大学・能力開発大を軸にポリテク群として職業教育→(今は)高齢者・障害者…も含める)とコロコロと変わっている親方日の丸組織である。
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㊟ポリテクカレッジ岡山は、私が辞職した(事実上は放逐された)直後に、四年生に移行し、現在は中国職業能力大学校(能開大中国)となっている。もし、1997年度に騒動がなく、私がドクターストップで辞職せずに在職していたならば、専任契約・確約問題で大変ややこしくなっていたであろう(その時でも専任になっていなければ詐欺と詐欺被害は確定していたであろう)。そこで放逐するために労基法違犯の強化と部外者を導入した疑惑がある。所管は労働省であり、労働省系大学校と言ってもよい
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④ポリテクカレッジ岡山と相似形で登場した岡山中学・高校の謎
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②のポリテクカレッジ岡山も、最初から専任する気がなくて、専任確約という詐欺をしていたため、ポリテクカレッジ岡山の専任問題を煙にまくため、岡山中学校・岡山高等学校の専任招聘問題が登場したと推定される。
熱心に私を招聘したのは桐山公雄校長であった。彼は、昔、真備高校の講師だったと聞く。更に、私の専任問題(私は全く行く気がなく断る予定だった)を煙にまくため、突然校長を辞めて、福武書店(現・ベネッセ)系列の予備校の校長となった。
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【写真―1】福武(現ベネッセ)系列・進研予備校の飲み会(1984年度の写真と思う)の中に、B=尾野作次郎(同校名誉校長・元真備高校・真備学園理事・岡山県公立高校の最年少校長記録保持者)、その横にC=福武哲彦(福武書店・現ベネッセ創始者。私の父の一年後輩で同一寮で知り合い)、その横がD=桐山公雄校長(岡山中学・高校初代校長、真備高校元講師、後に福武・ベネッセ経営の進研予備校校長)が並んでいる。
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更に、そのうしろにE=嶋坂敬朗先生(私をポリテクカレッジ岡山へ行かせた人物:京都外大元教授、彼の父が京都外大元学長)もいる。この写真が全てを物語っている。なお、余談ではあるが、嶋坂先生(別名・伊沢先生)は京都外大以外に、甲南大学や奈良女子大学でも教壇にたっていたことを強調されていた。前者は表三郎氏(駿台英語担当)が卒業した大学であり、後者は表先生の奥さん(駿台日本史担当)が卒業された大学である。
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【写真―1】1984年度の宴会
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なお、1985年度には、ここに駿台の藤村尚美先生(国語担当:映画狂)も加わることになる。駿台真相編06-2の中の藤村先生の写真は1985年度春に、奥さん同伴で岡山にこられたときに金甲山で撮影したものである。
写真だけでも、物語のエッセンスを語っている。これらは駿台とベネッセが模試で提携するよりも遙か前の話である。
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㊟岡山中学・岡山高校専任招聘が1983年末か1984年末か、2024年11月21日時点で記憶が薄れ、判別が難しくなった。そこで古い資料に当たると、1998年末から記載を開始した「恐るべき労基法違犯」(第1版)を見ると、1983年末とあったため、1983年末とする。当時の岡山中学・高校校長や関西高校校長レベルとなると、無名であり、インタネットでも情報は出てこないのである。大半の駿台講師も同様運命にあろう。職員に至っては尚更である。なお、岡山中学・高校は学校法人関西学園が運営しており、関西高等学校とは姉妹校である。岡山の灘高校を目指すと称して、関西高等学校とは別の学校を作ったのである。当時、岡山中学・高校で灘高校の講師も紹介されたが、…今は何も書くまい。
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⑤駿台・ポリテクカレッジ岡山両校の④を利用しての責任逃れ会談設定
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先の④岡山中学・高校からの専任招聘問題を契機に、駿台・ポリテクカレッジ岡山両校の専任賠償責任逃れ工作がなされる。
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駿台との会談→深見係長が「大滝満夫部長は浜田先生を専任前提の助専任にする腹がありますので、浜田先生の方から助専任の件をきりだしてください」。私はポリテクカレッジ岡山の件があるので、きりだせなかったし、それも駿台側は承知であろう。特に、ポリテクカレッジ岡山教壇が駿台の差し金ならば計算通りであろう。
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その結果、私(浜田隆政)は駿台ではなく、ポリテクカレッジ岡山で専任になる予定であったとなる。すると、後の賠償問題では、専任待遇賠償か非常勤講師待遇賠償かで金額が大きく違ってくる。
ただし、政経のみで三年間(1985~86年度→最低でも1987年3月迄)の生活保障の確約がなされた。深見正明係長が一筆とった方が良いと事前にアドバイスしていたが、川端三郎先生(駿台京都校校長)などが在籍していたため、一筆はとらなかった。すると、⑥でみるように、契約違反がなされる。大滝満夫部長(関西地区最高責任者)の違反は後に分かるように二度行っている。両方とも三年という数値がでてくる。
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ポリテクカレッジ岡山の方は当時の副校長(初代開設準備室室長)森本茂樹氏と会談した。ここでも執拗な引き留めがなされた。何故ならば、🎬映画説グループはポリテクカレッジ岡山は駿台に+10を足した形で1994年度以降は推移するシナリオがあったからだと思う
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1: 刑事犯罪被害→駿台1987年秋🆚ポリテクカレッジ岡山1997年秋、
2: 業務妨害問題等での会談申し込み=駿台1988年12月(会談実施は88年1月)🆚ポリテクカレッジ岡山1997年12月頃から98年1月、
3: 辞職願は駿台1988年2月初頭前後🆚ポリテクカレッジ岡山1998年2月初頭前後、
4: 両学校共に辞職時の体重は55㎏であった。
5: 両学校ともに拡張直前であった。後者は短大から4年制に移行する直前、前者は駿台京都校南校や大阪南後、上本町校ができる直前であった。
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6:その他膨大な類似性が強調された。
一例が駿台では1987年晩秋に北山一先生からといって差別文書を手渡される。
ポリテクカレッジ岡山では1987年晩秋頃に、西宮市教育委員会同和対策部勤務中を連想させる事件が藤井光生氏などのポリテクカレッジ岡山職員群により引き起こされる。
(西宮市教育委員会時代の)大社中も、ポリテクカレッジ岡山も生徒・学生ではなく、職員により引き起こされたのが本質である。ちなみに、ポリテクカレッジ岡山では、鉄砲玉学生にみせた部外者(偽者学生)を使用してという念入りの対応をしていた。
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7: 両者(駿台・ポリテクカレッジ岡山)共に、裁判で解決をしようとすると、何故か、弁護士のところで訳の分からないことをされている。両者ともに赤旗日曜版にCM広告や記事を書いていた弁護士である。
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8: 両者ともに私が抗議をして交渉申し込みをしているときに、伯母(母の姉)が来ていた。伯母の夫は元国鉄勤務であった。(Z3の父も国鉄勤務である)
伯母の息子二人は尼崎在住である。Z3も尼崎で所帯を持っていた。伯母の息子の愛称が一人は私と同じタカちゃん、もう一人がZ3と同様のマアチャンである。伯母の長男の方がZ3が所帯を持っていた場所から約300メートルの所にあった。この長男の喪中挨拶が来た半年後にZ3も死亡(まず嘘と思う形の死亡)したとなっている。また伯母の娘の一人が駿台講師室係女性と同一の名前である。更に、伯母の昔の家はZ3内にあった皆木家と類似した形となっていた。
さらに、両学校当局と交渉で大変な時期に、伯母と母が大喜びをしていた謎がある。
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⑥超多忙となる日々工作として、駿台の契約違反とその隠蔽政策
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上記④で述べた、「政経のみで三年間生活保障」をするという確約を、トイレなどの悪用によりご破算にされる。その際に、後で言い逃れができるように、岡山の予備校(岡山進研予備校)とを活用して、契約違反の隠蔽(いんぺい)が図られる。
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駿台とベネッセが正式に提携する以前の話である。しかし、もう連携はなされていたとなる。
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なお、岡山の予備校で女性が絡む直前に福武哲彦氏(1986年4月)が死亡したとなっている。更に、岡山の予備校でも本格的な業務妨害が起こる年には、直前に岡山進研予備校と岡山学院が合併をして、経営の主体はベネッセから異動している。
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こうして責任逃れの流れが一貫して各方面で見られていた。一番参るのは、最高の責任逃れは死亡という手を使ってくることである。
駿台の調査を当時の山﨑春之理事長に依頼しようとすると、ちょうどその頃(2010年1月13日)に肺癌で死亡された。気のせいではないといわんばかりに、息子さんの山﨑喜久氏も 2017年8月12日)肺癌で死亡されている。後者は50才という若さである。
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ちなみに、ポリテクカレッジ岡山での大被害は先の如く裁判所で解決しようとすると不可能な状態に追い込まれたため、同校は労働省系大学校のため、労働省にも救済依頼を五度だしたが、無視された以上、小渕恵三総理(私の早大大学院政治学研究科の先輩に当たる)に救済依頼の手紙を書き留め送付するや、小渕恵三緊急入院の臨時ニュースが流れ、やがて死亡された。
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それではマスメディアに救済依頼を考えて、筑紫哲也氏に救済依頼文書を送付すると、やがて肺癌と言われて、死亡された。
もはや、🤷お手上げである。
理論上、解決は裁判所か国会での調査(国政調査権)しかない。幾ら、記述しても無駄がと分かっていても、挑発と催眠でこれらの文書を書かされているだけである。
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更に、様々な刑事犯罪被害の証拠は、我が家に忍び込まれて、紛失や消されてもいる。例えば、駿台大阪校でのマイク不調攻撃を録音したテープは後にきくと、これはひどい、HP(私のホームページ)でいずれ流そうと考えていると不明となり、でてきたときにはその箇所のみ消去されていた。
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駿台真相編06-(4)では、駿台事件に、Z家を通して、政治が絡んだ疑惑があり、それらは06-4で現時点での仮説などを記載する。
同時に、部落問題が本当に絡んでいるか・どうかの分かっている時点での内容を記載する予定でいるが、正直に言って、未だに本当に絡んでいるのか・いないのか全く分からない状態にある。
(誰かの陰謀、演技かもしれない。特に第二安倍政権ではその種の工作がよく見られた。私とAとを対立させるため、BがAになりすますなどの疑惑である。)
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ただし、2000年以降は政治家(総理大臣レベル…)が絡んだことは相当実証できるであろう。
この辺りから、この原稿は拙著『日本のフィクサーME 』シリーズと融合してくる。
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また、私と(我が家の住所番地を70年使用していた)Z家、特にZ3と私の人間違いが駿台時代には起こっていたことは相当証明できるが、それ以前の可能性もあり、様々な人の証言や各種証拠が必要となっている。
これ以上は06-4で記し、駿台時代の青天の霹靂であった「差別文書」の件は駿台真相編07-3で分かる範囲まで公開予定でいる。詳細には現時点でもまだ動機や意味不明の点が多い。
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《◇―2・駿台を正式職場と決定》
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駿台を正式な職場としようと考えた経緯は《◇―1》に記した通りであるが、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)との関係で気になる点を再度記しておく。ポリテクカレッジ岡山との専任契約実施のため、駿台に辞表を書こうとしていた矢先のことである。
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私が岡山市高柳のアパートで、駿台宛てに辞表を書き、次に出講した日に提出をしようと考ていた。すると、アパートを盗聴か盗撮していたかのように、即座にポリテクカレッジ岡山から電話連絡があり、「1983年度4月からの専任は難しくなったが、必ず専任になれるのでしばらくは非常勤講師できてもらえないか」という内容であった。
もし、1982年秋か冬の実質上契約を信じて駿台に辞表をだしてしまっていたならば、と大変なことになっていた。1983年度のポリテクカレッジ岡山の賃金は時給2200円で交通費(往復千円以上に該当)はなし・ 自腹であった。そして週に4齣である。月にすれば、2~3万円程度である。しかし、夏休み・冬休み・春休み及び祝日が一円もでないため、年収では20万円弱である。更に、教材購入などの元手を引けば年収10万円前後であろうか。
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もしではなく、確実に盗聴か盗撮をしていて慌てたのであろう。勿論、(自家用車に乗っていた頃に見学に行くと)この高柳のアパートは解体をされていた。1990年代か80年代後半のことである。
ちなみに駿台真相編―07か08で記すが、駿台斡旋のホテルで寝ている間に何等かの小細工をされ、病気にさせられた。恐らく、就寝中に病原菌をうえつけられたと想像している。
そのときに処方された薬らしきものを駿台辞職前(198年末)に庭瀬のアパートから落とされている。駿台斡旋のホテルで幾つもの工作を受けていた可能性がある。裁判が可能となったときには徹底的に追及をする予定でいる。
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その関係か、駿台事件をペーバーで出版社(2007~9年頃)に送付する前頃に駿台横にあったニュー京都ホテルが解体される。2024年11月21日調べると2007年解体となっていた。
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駿台大阪校の斡旋で受けたホテルの被害をまとめたり、『閉じた窓には日は昇る』として、別の出版社に送付する頃には、駿台大阪校が斡旋していたホテル「東洋ホテル」の閉業が報道され、後に破壊されている。
なお、東洋ホテルは私が同ホテル内で受けた被害の件を少しふれかけると、ラマダホテルに身売りをし、更に原稿を整理しだすと廃業となり、本格的な告発の時期を前に破壊されている。
2024年11月21日調べると、ラマダホテルへの営業権譲渡が2004年で、名称変更が2006年、閉業が2013年で、解体が2016年となっている。
2004年とは小泉純一郎氏などに、救済依頼文書を書留送付した年である。『閉じた窓にも日は昇る』の出版を目指して幾つかの出版社に原稿を送付したのが2006年、増補版が2010年、電子書籍版が2016年である。
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ちなみに、それを示唆するごとく、私が2015年にアメリカで泊まったラスベガスのホテルは私が日本に戻ってから数ヶ月後(確か3ヶ月後)に破壊されている。
恐らく、庭瀬のアパートも今は破壊されていると思われる。この原稿が世をにぎあわせれば、その頃に、駿台大阪校か京都校のどちらかが破壊されるかもしれない。証拠隠滅であろうか。
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【参考】
ニュー京都ホテル(駿台京都校のすぐ横。私は気に入っていたホテルであった。最高使用年度は毎週4泊5日使用していた。ただし、不可思議なことは幾つかあった)。後日写真を掲載検討中。
①1972年に観光宿泊客を主なターゲットとして295の客室数でホテルニュー京都はオープンした。
②2006年8月に業績悪化を理由に閉鎖決定。
③2007年初頭からホテルニュー京都の解体工事が着手。
④その後、長期間(約6年)にわたり約3800㎡の更地は工事用フェンスに囲まれたままの状態におかれる。
⑤2012年12月、食品スーパー「イズミヤ」が出店計画を発表。2階建て店舗(屋上に駐車場)が建設されることになった。
※駿台辞職後、2000年以降にこのホテルの前で、政経の前田(別名杜)氏と表三郎氏の奥さんを偶然見たことがある。
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東洋ホテル(このホテルで1987年終始真夜中にエアコンと風の攻撃を受けた)
大阪市北区豊崎三丁目に存在したホテル。1969年(昭和44年)に開業。当時は大阪のホテル御三家と言われていた。
①2004年(平成16年)にモルガン・スタンレーのグループ会社に営業権を譲渡、2006年(平成18年)にはラマダホテルブランドになりラマダホテル大阪に名称変更した。
②2013年(平成25年)に閉館。
③2014年頃オリックスが土地を取得
③2016年頃から解体
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ちなみに、私の生きているうちに、人権を取り戻すか、私の件が国内外で大きく表からクローズアップされるときには、我が家は私の意向にかかわらず、破壊されると想像している。何等かの適当な理由をつけて。最低でも、そうした小細工のあった建物は破壊でなくても、大幅リフォームされることになるであろう。
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駿台事件とはそのくらいに大がかりな犯罪であった。
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話を元に戻せば、各職場の連携が行われていた。最近疑っているのは、駿台は賠償責任を減らすために、ポリテクカレッジ岡山をつかった(私を専任確約で同学校の教壇に立たせた)のではないかという疑惑である。
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理論上は次のようになる。
駿台の犯罪で私の生活が破壊されたならば、駿台は、慰謝料のみか、逸失利益を元にした賠償責任を負う。
すると大変な金額となる。
そこで、ポリテクカレッジ岡山の職場に私をいかせて、専任の本命はポリテクカレッジ岡山としておけば、駿台の賠償責任は慰謝料と一部の損害賠償ですむ。
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何故ならば、駿台の教壇にたつときに、当時の責任者・矢田祐三部長は「専任は可能というよりも、その確率の方が高い」と明言していた。勿論、非常勤講師でも30歳から80歳まで教壇にたつと大きな金額となる。専任ならば所得換算で当時の相場で退職金や各種印税も含めれば約10億円以上(表三郎氏クラスならば20億円以上であろうか)、非常勤ならば2~3億円程度ですむかもしれない。所得ではなく、収入となるとさらに増大する。
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☆☆☆☆☆☆
私の逸失利益計算について(駿台講師の事例):同志社法学研究科・早大政治学研究科・関学法学部卒業資料
○https://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=35955
☆☆☆☆☆
▽
その上、慰謝料や医療費も必要である。また厚生年金と国民年金の差額問題もある。
そこで、ポリテクカレッジ岡山を専任の本命とする必要があったのではないかという疑念である。ポリテクカレッジ岡山も専任での賠償となると困るので、賠償は非常勤講師待遇とするために、岡山中学・高校専任の話をもってきたのではなかろうか。あるいは、それらすべてを駿台経営陣が企てた疑惑である。
▽
《◇―3》のポリテクカレッジ岡山と《◇―4》の岡山中学・岡山高校から専任確約で招聘された件と結果をみれば分かるであろう。
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なお、その関係かどうか不明であるが、ポリテクカレッジ岡山に行ったときには、「山﨑」という名が何度も強調されていたのではなかろうか。それも、あらゆる場所である。また、最近(2023年や2024年)には、山﨑の叔母の手紙が我が家に散乱してもいる。当時も叔母が突如来られ出した覚えがある。
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📢★2024/11/26 から下記(3)と(4)を正式公開★
(5)と(6)は現時点で約35000文字のため、別ページにするか・否か検討中である。
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ポリテクカレッジ岡山の風景の一部(これよりも大きい学校。県立の職業訓練学校とは資金が違う。雇用保険・税金が湯水の職員のための権益学校):
🤡が何度も工夫して撮影した。早朝午前4時頃出発しないと片道100㎞の学校で午前8:45の授業前には撮影できぬ。
それも全て専任確約が効いていた。別名詐欺大学校。
1999年当時、国庫助成金類、1年度学生一人当たり、早大19万円、国公立大学150万円、労働省系大学校350万円。\(^o^)/
写真はいずれもクリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大。
《◇―3・ポリテクカレッジ岡山と専任契約の謎》
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ポリテクカレッジ岡山の私への招聘形態をみてみよう。
ポリテクカレッジ岡山から嶋坂敬朗先生経由で「法学」「経済学」担当・非常勤講師という話があったが、私の方はその頃は多忙であり、駿台以外の他の仕事や授業をやめつつあった最中であり、門前払いで断った。しかし、嶋坂先生が「話だけ聞きにいってくれ…」と執拗に言われるので、彼の顔をたてるために話だけ聞いて、すぐに断って帰るつもりでいった。
そのときの模様を少し長いが、一言№121から引用する。{ただし、人名などは記号から今回〈 〉を使い実名として追加した。}
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【関連資料―1:ポリテクカレッジ岡山招聘の経緯】
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【1982年、悪魔のささやき】
1982年は駿台(政経)、岡山の予備校(政経・倫社)、福武模試監修、岡山の予備校関連の寮などで教える…となった。駿台は、まだ私の観察期間のため、週二日(三コマ六時間程度)であり、こうした掛け持ちとなる。
ところが、駿台でやり甲斐(がい)があるのみか、駿台での私の評価もあがっていった。同時に、思っていた以上に駿台での教材研究はものすごい時間をとられた。そこで、授業への責任上、仕事を減らす方向に入った。まず、寮関係〈寮での英語の補講〉を辞める。次に、岡山の予備校の倫社関連をやめようとした。かなり評判が良かったようで、当時の校長〈白須校長〉から相当引き留められたが、次年度から辞めると押し通した。相当気まずくなった。
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ところが、整理しているはずが、相棒のS〈嶋坂敬朗〉先生(京大で博士号取得、湯川秀樹博士の授業も受け、奈良女子大などでも教壇に立っていた、私よりも二十才ほど年上の教師)から、労働省系大学が新設されるので、一つ話だけでも聞きに行ってくれという打診があった。私は当時は喧嘩をしてでも、仕事を減らしていたときである。その上、次年度(1983年度)からは、駿台の授業担当数も大きく増えると部長から聞いてもいた。コマ数は17コマ前後と。1983年度からは、実際に、月曜から木曜が授業、金曜日は質問日で月曜から金曜まで京都のホテル住まいとなった。
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駿台という舞台で政経を教えるのは、私に大変マッチした。生き甲斐があった。ここで人生の勝負はあった。後は伴侶をえて、毎週三日温水プール、それ以外は授業準備だけ、…そして老後という、私にとって最高の人生となっていた。私にすれば理想であるが、ドラマとすれば大変平凡な物語となったであろう。そこで、悪魔のささやきが始まる。
▽
岡山の予備校で校長に引き留められても減らしているときに、新しい仕事を持つ訳がない。ちなみに、減らそうとした岡山の予備校の単価は60分で五千円台か六千円台である。(駿台はそれよりも高い。)交通費などは当然支給される。他方、労働省系列大学は当時50分二千円か二千二百〈円〉である。その上、百キロ未満は交通費なしという。担当教科は「前期法学、後期経済学」である。
▽
こうした教科の準備は大変であり、即断ろうかと思ったが、相棒S〈嶋坂敬朗〉先生が「浜田、確かに良い口ではない。しかし、駿台は所詮予備校であり、他の大学の教壇に立つには、労働省系大学の方がよい。ともかく、話を聞くだけ聞きに行ってくれないか」。
私は駿台でやり甲斐をみつけており、行く気はなかったが、ともかく話だけを聞きにいくことにした。
そしてお断りして帰る予定でいた。
ところが、行くと、「非常勤講師ではなく専任できてほしい」。
だが、当てになるだろうか。S〈嶋坂敬朗〉先生は、この学校は労働省系の大学校で、重要な根幹は衆議院・参議院を通して決める学校だ…(だから心配ない)と言われていたが、駿台などで居心地がよく、辞めたくなかった。しかも、S〈嶋坂敬朗〉先生の言動を疑う訳ではないが、もし、御破算になることをも警戒した。駿台に辞表を出した後で、御破算になれば路頭に迷うからである。
▽
そこで、私が聞いた。
「専任と言うのはいつからですか」
当時の前身高等岡山職業訓練学校校長(ポリテクカレッジ設立後の初代副校長)が、「次年度(1983年度)春からです」。ということは、半年後くらいから即専任ということである。半年後ならば間違いはなかろう。
我が家の実家は岡山県、更に、私も安定した道の方が将来楽だろうと、考えていくことにした。
校長が言うには「法学と経済学だけでは無理なので英語も担当してほしい。そうすれば間違いない。一般教科の専任は二人で、一人はM〈宮本公之〉先生が数学と▼▼を担当し、もう一人が浜田先生で英書購読(五クラスで五齣。ところが実際には二コマであった。後に五齣にすると言っていたが)と法学・経済学担当…ということで」で話がついた。
▼
英語と言っても英書購読である。
こうして、〈大学校の英語〉教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
▽
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
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こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。
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2019/01/11正式公開
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」
○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1054/
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下記の方が分かり易いかもしれない。今回、抜粋するにあたり、学生名SYを彼の名誉を守るため〈 〉をつけて実名とした。彼の名前をかたった偽学生・部外者の調査を国内外の首脳・マスコミができるようにするためである。ポリテクカレッジ岡山に調査を依頼したが、全く調査をしなかったか・あるいは隠したからである。これでは、本当の学生及び卒業生の名誉が損なわれることになるからである。
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(安らぎBlog)2023/08/31公開
『求め続けて』第3部補章―3「岡短」での授業破壊活動被害と各種工作事件―(5)私が英語ができるか―…であることが専任詐欺にあった証拠🆕
〇http://h-takamasa.com/Blog/?p=30350
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《◎―2・英語を担当したいきさつ》
それでは英語の授業を何故担当したのか。
先の社会科の教師と同様で貧乏籤(くじ)を引いたと言いたいが、そうではなく騙(だま)されたのである。
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(私の能開大への招聘窓口であった)嶋坂敬朗先生(京大で博士号取得:京都外大・甲南大・奈良女子大等等の講師歴任)から、ポリテクカレッジ岡山の話を聞きにいってほしいと頼まれた。
「話だけでも良いのでききにいってほしい。担当は法律学と経済学である」と言われた。
▽
その頃、私は駿台予備学校で軌道にのりつつあり、余分な仕事を減らしている時期であった。岡山の予備校でも「倫社」の授業を校長と揉(も)めながらでも辞めさせて貰っていた。
岡山の予備校の寮での英語も手をひかせてもらっていた。ここが重要、岡山の予備校(寮)でも英語をやめ、政経一本を目指している1982年に、やめるはずの英語を岡山短大から持ってくれであり、非常勤講師ならば英語は断る。
▽
証拠とすれば岡山の寮の英語担当の方がポリテクカレッジ岡山の賃金よりも高いのだからである。後者は50分2200円引く交通費である。交通費は百キロ未満はゼロとなっていた。英語や倫社の授業をやめているときに英語を持つなどは専任条件以外ではありえない。その上、語学は余り得意ではなかった。本来格闘技を除けば文系型ではなく理系型の人間である。
後の業務妨害の嵐のときとは異なり、当時は引く手あまたになりつつあった時でもあった。
▽
その後は更に多忙となると同時に、翌年度(1983年度)の目処(メド)もたち(駿台で授業数が増えると1982年後半にその確約を受け)、更に政経と無関係な教科の整理に入っていた時期である。その1982年にポリテクカレッジ岡山で、だまされて英語を持つ約束をさせられたのである
▽
日本史などの担当は駿台ではトイレで騙(だま)された1986年以降であり、ポリテクカレッジ岡山の教壇に立った1983年頃は全く逆であった。
因(ちな)みに、この頃の駿台の単価が50分7千円~7500円(休日は半額保証、交通費はグリーン車、ホテルは駿台が手配、駿台辞職年1987年度は50分9000円、夏期・冬期講習はその1.5倍)、岡山の予備校は60分5000円くらいか(交通費は実費)、ポリテクカレッジ岡山は50分2200円(百キロ未満は交通費は支給しない、夏休み・冬休み・休日などは賃金はゼロ円)である。
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次のTwitter参照。
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浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada 1月7日
23-007-13【嘘】
#安倍晋三 様は #学歴コンプレックス が強い、
英語を道具と見ず学力所が人間の優劣と錯覚。
そこで🤡に語学挑発🙄
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🤡今、中学生に数学を教えたいか☹
英語も同様で1982年手を引いていると能開大で是非専任にそのために英語も…と騙され…経緯を近々書く。
86=政現英歴模😭
真逆😡
☟
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611684214294085633?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆
(Twitterがポップしていない場合には上のリンクをclick。他も同様。※(2024/11/24注)㊟政現英歴模とは政経、現代社会、英語、日本史などの歴史、進研模試監修やチェックと駿台模試作成を意味する)
)
▽
☆☆☆☆☆
浜田隆政 (Takamasa)@Takamasa_Hamada1月7日
23-007-14【😡】
解説
1986年担当=政経・現社・英語・日本史・
#駿台模試 作成✒、#進研模試 監修😭
更に法律学・経済学の危険…
大阪・美作・岡山・倉敷と巡回&Trouble。
好き嫌いの前に減らしたいに決まってるだろ。
能開大/是非専任で…次年度から3駒/駿台…と全部騙され…上記の羽目に。
真逆😡
☟
○https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1611687716865052673?s=20&t=bNzqHFk8AGjnXmLKpp0ckg
☆☆☆☆☆
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▽
そこで、嶋坂敬朗先生の顔を立てて話だけ聞いて、断って帰る予定で行った。
今考えると、その情報が学校に伝わっていたのだろう。
〈特殊法人〉雇用促進事業団職員5000人の生活が、極論すれば、世界のMr. Hamadaにかかっているという状況であろうか。
ポリテクカレッジ岡山のみではなく、同学校群28校若しくは30校の命運である。
▽
▽
すると相手(※1)は奇策にでた。
(※1)対応したのは数人いたが中心人物は森本茂樹氏であった。森本茂樹氏は雇用促進事業団運営の岡山職業訓練短期大学校開設準備室室長であった。短期大学校創設時の初代副校長であり、森本茂樹氏がが主として私を専任確約で招聘した人物である。校長は約三年おき交代の天下りの飾りである。
▽
▽
私:「経済学と法律学ですね。待遇は非常勤講師ですね」
担当者(森本茂樹氏等)「いえ、先生には専任でお願いしたと思います。」
私「いつから専任ですか」
担当者「次年度の春からです」
ということは、この会談の後の半年後くらいである。
それならば嘘はなかろう。
ましてや、学校の輪郭は衆議院と参議院を通して決まる、いわば労働省系大学である。
しかも場所は岡山県である。
我が家から通えないこともない。
そこを見越してか担当者が一気に押してきた。
▽
担当者(森本茂樹氏等)「しかし、法律学と経済学のみでは専任になるには時間数不足です。先生は英書購読の授業を担当できないですか」
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私に英語の能力があるかと聞かれれば、不幸は起こらなかった。「余りないです」と言ったからである。英語の授業を担当できるかと聞かれれば、能開大の学生よりは英語はできるし、さらに、私の英語力ではなく、学生に英語に興味を持たせばよいとなれば更にできるであろう。
野球を例にすれば分かる。
星野仙一氏の恩師・明治大学野球部の島岡監督は野球の経験がない。だが、多くの有名選手(秋山登、土井淳、近藤和彦、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩…)を育てた。
……
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教師というものは、自分ができるかどうかではない。学生・生徒ができるようになればよいのである。私が英語が出来ても仕方がない。生徒・学生が英語に興味をもてばよいのである。
アンサリバン女史も当初は英語は余りできないが、ヘレンケラーの教師としては有能であり奇跡の仕事をなす中で英語も身に付けていった。彼女は中学の頃は英語の読み書きはできなかった。
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私は今、「世界の歌」なるものをHP〈私のホームページ〉で行っている。だが、私に音楽など分かるはずがなかろう。音楽には興味もなければ関心も余りない。才能もあるわけもない。だが、今、世界の音楽界をリードしているときもある。
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語学も同様である。
私に語学の能力があるかときかれれば、その後の不幸はなかった。会談決裂でこの学校での後の詐欺や労基法違反の嵐にも遭(あ)わなかったであろう。
「担当できるか」と聞かれれば、正直な私は担当できるので担当できると回答した。
丁度先の社会科の教師が英語を担当するのと同様である。
▽
私に専任招聘の話があった頃は、仕事で余分な物を捨てて、駿台などの政治経済一本を目指していたため、倫社などを断っていた時期である。(他の予備校や高校などの非常勤講師では、担当した日数が、駿台での授業担当時間数拡大の制約になるからである。例外は大学教授の道がある場合のみである。)
だが、準国立、岡山県の学校で専任確定という詐欺(さぎ)にひっかかったのである。
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《◎―3・専任契約維持のため代役捜しを自腹でする羽目に》(2023/08/31追記箇所)
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だから、私が英語が余りできないにも拘(かか)わらず、英語を担当させられたと正直に言った方が物事は早く解決する。私が英語ができて、更に、英語をやりたくて英語をもたせてくれと言ったのではない。余り英語ができない私が英語を持つ羽目となったのは学校側の都合(私のCM利用)のためである証拠となる。
▽
ちなみに、専任確約を再度確かめるため、後に私は正直に聞いたことがある(岡短2年目の1984年秋のことだと思う。対談者は先の森本茂樹氏)。
「専任になるときに試験があるのではないですか。英語の試験もあるのでしょう」
試験があれば通る訳がない。多分。
すると森本茂樹初代副校長(開設準備室長)は明言した。
「それは大丈夫です。先生の場合には経緯から言って、試験を受けるだけで大丈夫です」
私が余り英語ができないので念押しをすると
「大丈夫です。形式的に受けるだけで問題はありません」であった。
▽
こうして英語を担当することになった。しかも当時(1983年度)は英会話などなく、英書購読一本であった。英会話は1989年度から突如入った記憶がある。
…………
▽
学校が、私を獲得するために専任の付録としてでた言葉が英語だったのであり、私も話を聞くまで私が英語を担当するなどは夢にも思っていなかった。青天の霹靂(へきれき)であった。
▽
▽
ところで、駿台などで英語を教えられるか。
二条件を前提にすれば可能である。
テキストは私がつくったもののみとすること。
質問は私が作ったテキスト以外では私にしないこと。
入試問題についての質問をしてこないこと。
この三つが揃えば、今でも遅くとも二年後か三年後にはスーパースターとなるであろう。
▽
……
▽
だから、超多忙な私は授業を減らすのに専念していた時期にポリテクカレッジ岡山に行くことになったのは騙(だま)されたからである。
専任前提できてくれ」という言葉に。
後には「うちは給料は安いかもしれませんが、福利厚生が充実していますし、何よりも年金は国民年金ではありません」という殺し文句に。
▽
暫(しば)くして駿台に辞表を書きかけると(1982年晩秋以降と思う)、盗撮されていた如くに、即ポリテクカレッジ岡山から電話があった。
「来年度(1983年度)の春からの専任の件ですが、(中曽根)行財政改革の関係で少し延びます。来年度の春からは無理となりました。しかし、先生の専任は大丈夫です。またそのための最大限の努力はしますので、暫くは非常勤講師ですが来年春からお願いします」であった。
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その後の経緯は拙著『恐るべき労基法違反』に詳細に書いている。
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『恐るべき労基法違反』PDF配布箇所は下記アドレス
→長いため、幾つかに分散して配布中
http://www.h-takamasa.com/rensai/custom.html
呼びかけ文のPDFは下記。
http://hamatakachan.uh-oh.jp/wp-content/uploads/2016/06/778e505109f7c341df4a77b1ccb6c568.pdf
……。
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▽
ちなみに1999年度からポリテクカレッジ岡山などは短大から4年生への移行の年であった。
通常ならば遅いがここで専任のはずであった。
すると、1997年度にSY〈ササヤマ:私が1995年度に担当した学生の名であるが、彼の名誉のために言えば、出勤簿・成績表で確認したが問題行動などの記載はなく、前期の英書講読で単位認定した学生〉の名を語った偽学生登場と、労基法違反ゲームに没頭した森脇一雄課長登場となる。
▽
森脇氏の一言がきいた。
私が専任確約でこの短大にきていると言ったときに、彼は言った「専任、君、そんなものなれる訳がないだろう。第一、君を首にすることも簡単なんだよ」と。
1997年4~6月の間のことである。
ここから、私は専任詐欺(最初から専任にする気がないのに、嘘を言って、雇用促進事業団・雇用能力開発機構の職場に閉じ込めた)疑惑である。労働省・厚労省所管のため同省の監禁・強制・貢ぎ労働被害に該当する。何故ならば、当時は雇用促進事業団の理事は労働省幹部の天下り先だったからである。この学校グループの理事長は当時は労働省事務次官の天下り指定席であった。
▽
詳細なメモは当時の日々日程表に記載しているはずである。具体的な日付は特定可能である。
なお、その数年前に、私をこの短大に招聘した嶋坂敬朗先生は「浜田、心配せんでもよい。この学校でいずれ専任になれるがな。お前の専任確約はテープにとって金庫に保存してある」と言っていた。これらは1998年頃から随所に書いている。
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もし嘘ならば詐欺罪が成立する。衆議院・参議院を通して決まる学校で、最初から専任にする気がないのに専任で人をスカウトしていれば詐欺罪である。動機は、ポリテクカレッジ群、雇用促進事業団のCM目的と分析される。
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ところが、駿台真相編を書いている途中で別の仮説が登場してくる。この文書を書いている途中で「山﨑」という手紙が我が家に散乱しているのである。そこから、多くのことを思い出した。結論から言えば、ポリテクカレッジ岡山の専任確約問題は駿台が絡んでいたのではないかという疑惑である。
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第一に、駿台での業務妨害・刑事犯罪被害とポリテクカレッジ岡山での類似事件が、駿台事件に十年を出した形(+10年)で起こっていることの奇異さがあった。
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第二に、ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)の初年度に「山﨑」が随所で強調されていた謎である。学生で優秀だった「ヤマザキ」君だけではない。その他でも山﨑が随所で強調された。一例を挙げれば山﨑の叔母などである。また、この叔母との関連で京都女子大に関連した女性に好きな振り詐欺に遭うことが既に示唆されていたことは既に記した。
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第三と関連するが、その示唆されていた女性が、1983年度入社京都校講師室係女性四人組の一人である西山美千代であった。なお、(福岡県出身の)「梓みちよ」にもじって「福岡件のみちよ」を調べてくれと、世界に調査を依頼すると、西山ファーム事件(西山美千代社長)が飛び込んできた。そこには、「山﨑も悪い」という書き込みがあった。
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第四に、これから記す、駿台真相編06-(3)の《◇―4》で登場する岡山中学・高校校長の桐山先生の件である。能開大中国と同じ形で登場する奇異さと、駿台で日本史担当する罠に、桐山先生が後に校長となった(ベネッセ系列)の予備校が絡んでいたことである。
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第五に、下記《◇―4》の専任招聘に絡めてポリテクカレッジ岡山の専任契約や駿台での賠償時の専任待遇保証を回避させよとしていた疑惑もあるからである。
再度記せば、ベネッセ―駿台―ポリテクカレッジ岡山―岡山中学・高校(桐山公雄校長)―ベネッセ―駿台という責任回避ラインである。特に、駿台の政経のみで三年生活保障確約を反故にするのに、《◇―5》で記す(ベネッセ経営の)岡山進研予備校を利用したことからも、一本線企業・学校の責任回避ラインである。
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これらから、ポリテクカレッジ岡山の専任契約には駿台が関与したのではないかという疑惑が登場してきつつある。
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《◇―4・ポリテクカレッジ岡山と相似形で登場した岡山中学・高校の謎》
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(この写真もクリックで拡大します。二度クリック可能)
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今度はポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)と相似形で登場した岡山中学・高校からの招聘の話をを記す。
岡山中学・高校に呼ばれて、同校での専任の話を桐山公雄校長から聞かされた。そのときの話を一言Blogから抜粋する。ただし、一部の箇所で関連年度を1984年(度)の箇所を1983年(度)としていたた部分があったため、今回訂正をしておく。
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【関連資料―2:岡山中学・高校専任招聘の経緯と破談の経緯】
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【1984年度】《訂正:1983年度後半》
1984《訂正1983年》年になると、恰(あたか)も専任詐欺もみ消し事件が起こる。
岡山短大と全く同じパターンで、灘高校を目指していた、岡山中学の校長から電話が入る。
「専任になってほしいので、少し話を聞きにきてくれ」、と。
行くと、桐山公雄校長が「来年春から、専任できてくれ。担当は中学校の国語だ」。
私「免許は社会科のため、教壇にたつとしても社会科で」
校長「それは心配しなくてもよい。(仮免か何かで)対応できるし、一定の時期には社会科に移ってもらう」、と。
突然の話の上に、この頃は引く手あまたであり、この学校の労働条件が余りよく見えなかった。1981年と84年《1983年に訂正》では全く状況は違っていた。
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駿台も大変居心地がよくなっていた。
それよりも、岡山短大との専任契約がある。
同じ専任で、しかも両方とも地元・岡山県ならば、短大・大学校の方が楽である。
しかし、何か勘違いをしているようで、「お前(若しくは)、君、来る(だろう)な(=来るだろう=来なさい)」と一方的であり、私の返答もできない状態にあった。
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しかも、筋問題から、専任確約の岡山短大などと相談しなければならない。
どうも、桐山公雄校長は、私を教員浪人で(1981年頃と同様に1984《1983年に訂正》年頃でも)相当困った状態にあると勘違いしたのであろう。若しくは灘を目指しているため、もの凄(すご)い学校からオファーしているのだから有り難く思えと勘違いをしている節があった。とにかく一方的であった。
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この頃は、労働省系短大に専任確約でおり、駿台には新幹線グリーン車で、ホテル代学校持ちという厚遇、福武書店系列・岡山の予備校でも「いつでも専任」という雰囲気の上に、福武哲彦氏から直(じか)に指名されて、スナックなどに連れて行かれていたときである。模試も、進研模試、駿台模試と日本四大模試の二つまでてがけていた。
おまけに、東京校の駿台文庫の職員から、丁寧な形で接待され、進研模試などについての話を言わされた(企業秘密部分は言っていないし、私は企業秘密は知らない)。後に、これがきっかけでベネッセと駿台の共催模試となる。いわば、この仕掛け人が私に近い。
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この頃は、はっきり言えば、岡山中学・高校などは、単なるOne of themであった。しかし、ここでも効いたのが、数か月後から即専任という口説き文句である。
しかし、同一文句は岡山短大で聞いている。
そして、一方的に返答の有無を与えず、帰された。
一体何なのか、と。
このややこしさ。
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岡山短大は即専任から暫(しばら)く待って貰(もら)えば確実に専任、岡山中学は即専任も当面中学の国語担当である。
私が一番苦手な教科が国語であり、私に断らすために故意に言ったのではないかと疑う始末であった。私が大学受験で関学を受けたのは当時は珍しい国語抜きで私立大学文系を受験できた唯一の大学だったからである。私が受けた、関学の入試教科は数Ⅰ・数Ⅱ、英語、世界史であった。選択次第で国語がないので関学を受けたことを知った上で、国語で勧誘したとしか今は思えない。当時は今以上に大変国語が苦手であった。
そして駿台は面白いのみではなく、採用に当たって専任は可能と言われていた。しかも場合に寄れば駿台甲府高校ですら不可能ではないと言われていた。
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①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。《駿台女性問題は1984年のため、女性問題の箇所は2024/11/25削除》
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今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。
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話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と84年では全く違っていた。
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駿台に相談すると深見正明係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
大滝満夫満夫部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(深見正明係長のみか後の校長川端三郎先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
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ところが、大滝満夫部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや《女性問題は1984年のため、この箇所は2024/11/25削除線を引く、要するに》岡短との契約問題からであった。
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岡山短大副校長との会話は以下の通りである。
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【(3)の内容】1983〈2024年11月に訂正する。1984の誤り〉 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
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(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
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第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
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そこで、岡山短大を選んだ。(また、S〈嶋坂敬朗〉先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
《岡山中学・岡山高校へ》お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長《桐山公雄》が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。
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今度は、(岡山中学・高校の)校長〈1984年度から突如校長となった桐山公雄校長〉は態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。
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こうして、この福武書店系列の予備校用に良質教師をスカウトする作業を無料で私が行うことになる。
このときにはこの予備校はまだ合併前で、福武書店系列・直営の予備校であった。
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国語の教師に駿台でかなり評判の良かったF〈藤村尚美〉先生を、〈当時の同僚であり仲がよかった、倫社の植村君が河合塾の世界史担当となっていたため、植村光雄君経由で〉河合塾から看板に近いA教師を、駿台で評判がよかった物理のN教師〈駿台の物理担当・中田君→駿台物理に中田は二人いるが中田俊司氏の方と思う。岡山で写した写真はある。なお、彼は人間違い問題を本格調査開始した2019年から駿台から姿を消している〉を、名古屋界隈(かいわい)であったか、外国人で英語講師として評判がよかったD先生を相棒のS〈嶋坂敬朗〉先生経由で…と。これら交渉のための交通費、通信費は全て自腹である。〈また、私が真備高校講師出会った頃に、教頭であった小山凡夫先生の授業を見学したときに良かったので、小山先生もスカウトしようとしたが、断られた経緯がある。なお、この頃は小山先生は教頭を降りられていた記憶があり、非常勤ならば問題がないと思い招聘しかけたのだと思う。その他膨大な労力をさいて協力をしていた。〉
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だから、この頃、福武総一郎氏(当時福武書店副社長)に桐山公雄予備校校長か、それとも事務長(福武書店社員、後にベネッセに戻る社長室係室長?〈本田義章氏〉)などを通じて紹介されたときに、福武総一郎氏はいつも「お世話になっています」と、私に会釈をしていた記憶がある。
この頃は、彼はまだ副社長だったと思う。
哲彦氏が生きていた頃と思う。
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福武哲彦氏と私の父の話や、哲彦氏に直(じか)にスナックに誘われた件を除いても、実際に自腹をきり何人もの教師をスカウトさせられていたのである。その代価は一円も請求していないし・もらっていない。
同時に、岡山の予備校は1983年~84年頃は(職員の一部に世話になったため)義理で行っており、経済的には場所問題から必ずしもプラスではなかった。ただし、この頃に関してであり、それ以外の時期ではない。
幾ら社長でも、恩恵なしで、他人に世話になったり、他人の労働力・私財を無料で受け取ったりしていれば「お世話になっています」とかお礼を言うのが当たり前だろうし、そうなっていた。
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2019/01/11正式公開
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」
○http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1054/
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上記の如く、私は岡山中学・高校の方は、行く気はなく、時期を見て断ろうと思っていた。だが、気まずいためお断りの連絡が延び延びとなっていたが、そんなある日に、福武書店(現・ベネッセ)系列の、岡山の予備校に行くと、驚いた。
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岡山中学・高校の桐山公雄校長が(福武・現ベネッセ系列)進研予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店(現・ベネッセ)系列の岡山の予備校校長になったという。
今度は、(岡山中学・高校の)校長となったため態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君には悪いことをした。君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。
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流れから言えば、私が断っていれば、ポリテクカレッジ岡山のために断ったとなり、ポリテクカレッジ岡山の賠償責任は重くなる。ということは、私は岡山中学・高校に専任になるため、ポリテクカレッジ岡山の専任は放棄していたということにする疑惑があった。
そのために、桐山公雄校長は私が詫びる前に、逆に彼の方が私に詫びたのである。いや、私が先に詫びたと思う。すると、逆に桐山校長がそれを隠蔽(いんぺい)すぐるが如く、大慌てをして詫びの明言をなされたのである。
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こうすれば、私が岡山中学・岡山高校をことわったのではなく、桐山公雄校長の方が断ったのであり、私はポリテクカレッジ岡山の専任契約を一端破棄したという状況となる。ところが、後に疑問が生じてくるが、実はこれはポリテクカレッジ岡山のみではなく、《◇―5》や《◇―6》で述べるごとく駿台の免罪符に使われていた疑惑が浮上してくる。更に、ポリテクカレッジ岡山の話も駿台が仕組んだとすれば尚更である。《◇―5》《◇―6》のみか、駿台真相編06-(5)や駿台真相編07を深く読めば、私の疑惑を当然と人は思うであろう。この頃、岡山の予備校で数学担当であった宝田先生が事情を知っているかのように、クスクス笑われていた覚えがある。
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私が最近思うには、これらの筋書きはすべて、駿台が絡んでいるのではないかと想像するのである。というのも、この手口は、駿台女性、私が走っている方向に360度回転して走って逃げたNazo(1985年4月頃)、西山の好きな振り第三段(1985年5月頃)、横家の催眠で「待っててくれ」事件工作共犯(1985年6月末か7月初旬頃)で見られた手口、即ち駿台で何度も見られた「自作自演劇」を連想したからである。
※その延長で、1987年駿台大阪校での北山先生からの贈り物といって渡された、意味不明の「差別文書」があったと分析しているが、詳細は駿台真相編07で、この件は記す。駿台で見られた常套手段だったからである。当時は晴天の霹靂(へきれき)であった。
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(追記。2024年11月22日に起こった、奇妙な車同士のゲーム、私に罪の意識をもたらすという自作時演劇ゲームを見て更にそう思う。そういう意味で、面倒でも、2024/11/22の話はどこかで記すかもしれない。この延長が、1997年1月の交通事故に遭遇した事故であるが、これは道交法問題ではなく、刑事犯罪被害→私への殺人未遂罪か業務上過失致死未遂罪、傷害罪、私の車への器物損壊罪、長期に亘る営業妨害と経済的大損失、経済の自由剥奪、場合によれば人身の自由剥奪という大変な刑事犯罪であった。)
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まとめれば、ポリテクカレッジ岡山も岡山中学・岡山高校も、共に、是非専任で、時期は共に次年度4月から(交渉の半年後)、担当教科は両者ともに語学(ポリテクカレッジ岡山は経済・法学以外に英語も、岡山中学・高校は当面は国語)と苦手教科であった。私が苦手なのが語学系統である。
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結果も同様である。
ポリテクカレッジ岡山は「是認専任で」(森本改質準備室長、初代副校長ほかほぼ全員の周知事項)、ところが、放逐が決まっていたと思われる1997年には「専任、そんなものなれる訳ないだろう」(森脇課長)であった。
他方、岡山中学・岡山高校は「専任だ。来い…」も、上記の如く状況で断る予定でいたならば、私が断りの連絡をする直前に、校長が私が出講していた、ベネッセ系列の予備校校長となっていた。
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(追記:これらの学校群専任の件のややこしさで、知人モリモトさんには1983年秋頃に相談三昧で大変迷惑をかけた。同様に、駿台女性の件では1984年秋頃に女性従兄弟に相談三昧で当時大変迷惑をかけた。だが言いたい。詐欺被害のまっただ中と催眠渦中にあると、誰でもこうなるのである。これが詐欺の怖さと催眠の怖さである。催眠抜きでも、こうした詐欺類に遭うと、人は人生を棒に振る危険のある大変悪質な詐欺が実態である。)
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再度、言えば、ベネッセは後に駿台と提携して、駿台ベネッセ模試を実施している。また桐山氏はいっときは真備高校講師をしていたときがあった。
岡山中学・高校=非常勤講師ではなく「専任」{ポリテクカレッジ岡山は非常勤講師ではなく「専任」}、専任の時期は次年度の4月から(交渉の半年後){ポリテクカレッジ岡山も同様}、教科は将来は「社会科」であるが当面は仮免で「国語」担当を{ポリテクカレッジ岡山は主たる教科は「経済学」「法学であるが」、ついでに「英語」も担当を}と。
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もはや、何も書く必要はあるまい。
ただし、もう一つ類似点がある。それは、私への危害により、両校ともに生徒数が激減したことである。
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岡山中学校・高等学校…ここ20年近く生徒数が減少しており、2006年は学年定員の160名をほぼ充足していたが[要出典]、2023年4月入学の高等学校1年生の在籍数は98名と、最盛期の約6割である[2]。
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Wikipedia「岡山中学校・高等学校」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
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ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)も、私が教壇に立った頃は入学者数が定員の60%か70%強であったが、私が辞める頃には、入学者数のみでも150%程度となっていた。ところが、後に『恐るべき労基法違反』で同大学校の労基法違反を社会告発すると、定員割れとなった。(それも一番ひどいときには、受験者数が定員数を割っていたこともあった記憶がある。)それどころか、2010年頃は総合大学校は解体、能開大グループは身売りとなっていた。ただし、その後の政権交代などで未だに存続すると同時に、私が定員割れを指摘したため、推薦か何かの小細工を弄して、再度定員を超えだしてはいる。勿論、定員数は減らしているが。またかつての能開大及び短大群の幾つかは潰れもいるが。
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来年から、再度、能開大で受けた被害を書き出すとどうなるであろうか。何が起こるであろうか。いや、もう母体「雇用能力開発機構」は「独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」に移動し、今度は「高齢者」「障害者」を人質にし、職員数も再度肥大化して約7千人となったので、もう能開大グループは潰(つぶ)れても構わないであろうか。
しかしながら、それらの業務も民営化の方が効率的となればどうなるであろうか。
カメレオン特殊法人・独立行政法人はどう変化するであろうか。主たる業務=「炭鉱労働者の救済機関」→「レジャー産業」→ポリテクカレッジ群中心の「教育産業」→「高齢者・障害者」を加えて肥大化…である。
なお、1999年には国庫補助は学生一人当たり早大は一年で19万円、国公立大学150万円、労働省系大学校350万円であった。}
「高齢者」「障害者」「再教育」…でも徹底調査すれば、民営化の方が良いか・どうかの判定も、私が再度書き出せば、メディアを中心に日本中が注目するであろう。同時に、同機構の不祥事にも注目が集まるであろう。
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※㊟独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構(英語: Japan Organization for Employment of the Elderly, Persons with Disabilities and Job Seekers、略: JEED)
6,976名(2023(令和5)年4月1日現在)
令和5年では専任理事7名中、2名は労働省出身、2名は雇用能力開発機構出身である。
https://www.jeed.go.jp/jeed/disclosure/law/jeed/om5ru80000005o03-att/om5ru80000005om5.pdf
来年度(2025年度)には本格的文書で雇用促進事業団・雇用能力開発機構を含めて四度目、その他の問いあわせ入れれば約7度目の調査依頼を送付予定でいる。内容は事前にHPで全て公開しておく。所管の厚労省にも労働省時代を含めて六度目以上の回数に亘る問いあわせを予定している。
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ベネッセによる模試チェックの事実上の労基法違反問題を本格的に公開する前にベネッセの株価を確認すると4800円であった。ところが、私が受けた被害を公開すると、株価は4000円前半、3000円台、2000円台…となり、株式上場を廃止した。ベネッセ(後には子会社ラーンズ)で受けた労基法違反は進研模試などの模試関係であり、そこに駿台講師の名前(桜井博之君:駿台英語担当)を見た頃から被害が激しくなった経緯がある。ただし、桜井君が関係しているかどうかは不明である。
※ベネッセにも調査依頼を検討中である。オーナーである、ニュージーランド在住の福武総一郎氏にも同様の依頼を検討中である。いつもやられた「死亡」という形で逃げぬことを願っている。
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さて、本題の駿台に話を戻そう。
駿台も、何等かの影響を受けることになると思われる。否、もう受けているかもしれない。
しかしながら、そうした天誅(てんちゅう)を受けなくても、社会正義の道に基づき、過去の問題を調べ直すことが正道である。
なお、私の関係ではなく、「情報漏れ…」などが原因と言うが、それも天誅である。情報漏れなのか、誰かが隠蔽されていた情報漏れや各種不祥事を非合法手段も含めて把握してリークしていないという保証はない。これだけ書けば充分であろう。
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※駿台には調査依頼をだそうとすると、先手を打って山﨑春之氏が肺癌で死亡した。勘違いではないと言わんばかりに長男・山崎善久氏も、50歳の若さで肺癌で死亡したという。「死亡」という禁じ手を使われると手のうちようがない。駿台真相編などを「書いても無駄」と🎃オジョウが言っていた。「小渕恵三総理のときと同じよ。小渕さんどうなった」。書留を出した日に緊急ニュースで「小渕恵三総理入院」が流れやがて死亡された。ちなみに、本当は出すのは前日であったが日曜なので、一日延ばした。すると小渕恵三総理入院は前日と後に報道された。
【主なものを少しのみ掲載しておく】(本の一例である。):クリックで拡大可能
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(2024/11/26 15:09追記)
桐山公雄校長が進研予備校の校長になられたが、学校でほとんど姿を途中から見なくなった謎がある。特に、1986年度は出会った記憶が余りない。だが、同校が合併して別の場所に移動するのは1987年度からである。これらも、国内外のマスメディア諸君などに調査をお願いしたい。
また、2024年11月22日車事件、本日(2024/11/26)の時間外の葉書入れを契機に過去何十回と解説したことの重複言動・記述催眠…などで余分な時間を取られて、予定原稿の掲載にズレが生じている。一部の予定原稿は阻止されてもいる。過去、こうした挑発類は私のためではないと言ったことが何度もあるが、後の結果はその通りとなっていた。足手まといでしかない。同時に、理解力の欠如が随所に見られていた。
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今回、公開は以上まで。
(5)と(6)は現時点で約35000文字のため、別ページにするか・否か検討中である。
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《◇―5・駿台・ポリテクカレッジ岡山での契約確認》
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《◇―6・超多忙となる日々工作として、駿台の契約違反とその隠蔽政策》
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