政経の世界№9・「Of the people論争」と学問の精神―社会の問題解決こそが学問である

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政経の世界№9・「Of the people論争」と学問の精神―社会の問題解決こそが学問である


【2016年版追記】一般向け問題提起。
「長期連載・求め続けて第5章付録」(※1)本文の如く、「of the people」論は以下の結論をだした。

「of the people」とは政治・政府の源泉は国民に由来する。すなわち、「by the people」(直接民主主義であろうと間接民主主義であろうとも、ともかく人民による)、「for the people」(人民の幸福・人権などの実現を目的する政治)である。
極論すれば、「of the people, ――by the people, and for the people」である。

(※1)第5章補論「Of the people」論争と学問の精神
http://h-takamasa.com/rensai/policy3.html
→ただし、この付録の掲載は2016年11月中旬頃までに限定している。


一般読者には難解なため、以下、リンカーンの問題を題材にして、学問の精神について論ずる。同時に、こうした不毛な論争から、意義ある学問(高等教育)を訴えるために、以下の文章を記す。


◇―1・イドラへの挑戦。


私はあなた方に問う。
リンカーンが、演説をしたならば、群衆が興奮したと思うであろうか。
考えてほしい。リンカーンが演説をした当時は、マイクはなかった。メガホンをもって演説もしていない。そこで、聴衆の大半には聞こえなかった。
ペルーが浦賀に来たときに、江戸幕府が対応したと教科書や参考書には書いてある。
しかし、鎖国令の最中に英語ができる人がいたのであろうか。しかも、即座に対応するのに。遠方では、新幹線もない当時である。

まず、この二つの話について記す。
都合でペリーが浦賀にきたときの話である。これは昨年、公式Blogで紹介したので、それを引用する。



◇―2・ペリーが裏がに来たときの話―教科書・授業のデタラメさ。

☆☆☆《拙著公式Blogより抜粋》☆☆☆
「ペリーが日本に幾(いく)つかの事項を要求した?「ちょっとまって」、と。日本人で誰か英語が分かる人がいたの?長い鎖国時代が続いていて。オランダなどは例外国であったが、オランダ語で書かれた『解体新書』ですら翻訳するのにどのくらい大変であったか。ましてや英語など誰もまともに理解できるはずはなかろう、となるのです。しかも大急ぎての交渉のときに。英語が多少分かる人がいたとしても、新幹線も飛行機もない時代にどのようにして現地に連れてくるの、と。

実際、日本が鎖国政策を止め、幾つかの外国語が日本に入ってきました。その頃ですら、英語の辞書には「犬」は「Come」と書いてあったものがあったのです。つまり、外国人が犬をよぶときに「Come、Come」と言いますので、犬はComeと勘違いしたのです。Comeとはカム(来い)であり、噛(か)むではありません。」
後日調べますが、ペリーが日本に来たときには日本語の通訳は連れてきていないはずです。では、ペリーとどのように会話したのでしょうか。

一回目は「近藤良次、佐々倉桐太郎、中島三郎助の3名が黒船」に行き交渉したそうですが、「英語は話せないので、身振り手振りで帰れと言ったらしい」と某ホームページに書いてありました。
二回目の交渉では、外国語が一部分かる人が対応したとあります。でも、その後の英日辞書ですら犬が「Come」なのですよ!そうしたときに、条約の交渉など本当にできるのでしょうか。(いつか誤訳が招いた日本の悲劇も紹介します。)

☆☆☆《拙著公式Blogより抜粋終了》☆☆☆
Blog15-077:「私が司(つかさど)る・朝まで生テレビ・戦後70年の総括と明日の日本」―1
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=1797



◇―3・リンカーンのゲチスバーグの演説のさいの真実

次にリンカーンの話に戻る。
本題に戻す。
リンカーンが演説をしたときの模様は「ABRAHAM LINCOLN」(EXLEY:*13)に書かれているように、聴衆の大半には聞こえなかった。聴衆は演説内容どころか、いつ演説が終わったかすら分からなかった。そこで、演説内容は不明であったが、後にリンカーンが奉納した原稿がゲティスバーグの演説の演説と人は解釈をした。
その結果、今回の如く、演説の方ではなく、奉納された演説文書内の一語「of」を巡って論争などの馬鹿なこと(非生産的なこと)が行われる羽目となった。

当時の演説状況をウィキペディア(日本語版)から抜粋する。

☆☆☆《ウィキペディアより抜粋開始》☆☆☆
「ゲティスバーグ演説は、272語1449字という約2分間の極めて短いスピーチであったにもかかわらず、リンカーンの演説の中では最も有名なものであり、また歴代大統領の演説の中でも常に第一に取り上げられるもので、独立宣言、合衆国憲法と並んで、アメリカ史に特別な位置を占める演説となっている。

この日ゲティスバーグにはカメラマンもいたが、マイクロフォンなどない時代、リンカーンの演説が始まってもカメラマンはそれに気づかず、ようやく気づいて写真を撮ろうとした頃にはもう演説が終わっていたという。そのためこの歴史的演説を行っているリンカーンの鮮明な写真は存在しない。また演説そのものはリンカーンが祈るような小さな声で述べ、だれも注目しなかったが、たまたま書き留めていた記者が記事にして後に有名になった」(*23)。
☆☆☆《ウィキペディアより抜粋終了》☆☆☆

そして、今、出回っているゲティスバーグの演説は奉納された文書の方であり、実際の演説ではない。詳しくは、ゲティスバーグの演説の草稿段階から演説、そして奉納された文書を分析した、GARRY WILLS, 『LINCOLN at Gettysburg』(*8)を参照してもらいたい。


◇―4・現代のイドラ(偏見)から逃れ、裸の王様をみつけよう。

こうした初歩的なことを、学校では教えていない。私はこうした思い込みをべーコンの言葉を借りて「現在のイドラ」と呼んでいる。偏差値のイドラ(偏差値の高い学校が良いなどという嘘)などが典型例であった。私の書いた「偏差値のイドラ」を読んでほしい。私はこうした思い込みからくる偏見・現代のイドラを斬(き)りまくっている。

大学教授、大学院生などは簡単にこのイドラに落ち込む。幼稚園の子供ならば、きづくかもしれない。
「おとうさん、リンカーンが演説した頃はマイクがなかったんじゃない。それも屋外でもの凄(すご)い群衆を前にして。声が聞こえるの」と。
あるいは、「鎖国をして英語を事実上禁止しているのに、どうやってペリーなどと話ができたの」、と。

だが、受験生諸君、あるいは大学生(事実上、就職のために来ている人達)は、ともかく試験に通ることに必死であり、そうした素朴な疑問からは疎遠となる。

しかし、こうした偏見から逸脱すると物がいろいろ見えてくる。この偏見から解き放されると、「ペリーが浦賀へ」とか「ゲティスバーグの演説」でも面白いことを発見するであろう。

ペリーが浦賀へ(黒船来航=1853年)、ゲティスバーグの演説(1863年)、インタナショナル(第一インターナショナル=1864年)である。当然、相互関係がある。それらも学校では教えられていない。マルクスとリンカーンとの間での手紙問題も。何も学校では教えない。

ちなみに、南北戦争(American Civil War, 1861年 – 1865年)はペリーが浦賀にきた8年後である。タウンゼント・ハリス(Townsend Harris, 1804年10月3日 – 1878年2月25日)が来日して、日米修好通商条約を締結したのが1858年である。実に南北戦争の3年前である

当然、南北戦争と、その後のアメリカの日本に対する動きには相関関係がある。また、マルクスとリンカーンの間で手紙のやりとりもあったこうした動きが、日本が列国の植民地とならなかった原因の一つでもある。
単純な疑問から様々なつながりが見えてくるであろう。偏見から逸脱すると、社会において見えないものが見えてくる。

ちなみに、教師が生徒に「勉強しろ」と言ったときに、尋ねてみるがよい。先生は毎日どのくらい教材研究をしているの」、と。
たいてい、受験生よりは少ない。それどころか〇分(零分)に近い教師もいる。すると、「授業が面白くない」理由がみえてくる
生徒は、「先生はえらい、賢い、……勉強をしている……」という偏見におちいっている。だが冷静に考えると、「家で教材研究などできる時間がない」ことがみえてくるであろう。これが偏見・イドラという物である。{詳細は拙著「学校」(『旅に心を求めて・不条理編下巻』などに収録}。



◇―5・もう一つの偏見。

この偏見から逃れると、もう一つの偏見に気づくであろう。
「of the people」論争に意味があるの、と。

私の好きなアイスクリームの話に戻そう。
「偏差値のイドラ」同様に、アイスクリームの話からしよう。アイスクリームをつくった人がどのようにして作ったか、何年につくったのか。もし、誰かがその年号を1815年か1835年かで論争したとしよう。

受験生・大学生は必死でその論争にくらいつく。ましてや博士や大学教授は血なまこで論争を行う。見つけるとノーベル賞をとれるかもしれない、と。

だが、小さい子供は言うであろう。
「そんなことよりも、どこでおいしいアイスクリームを売っているか教えてよ」。
あるいは「どのアイスクリームがおいしいの」。
少し学習意欲が発達している子ならば注文をつけてくるであろう。
「安くておいしいアイスクリームをつくってよ」、と

「of the pepole」論争も同様である。
問題は、現代との対話において、「人民の、人民による、人民の政府(政治)」が意味をもっているかどうかだけなのである。
分かり易くいえば、癌の特効薬を誰かが開発したならば、その開発した年号よりも、本当に効けばその薬が欲しいというだけのことである。

学問は、本来、アクセサリーではなく、実用性がなければならない。そして、社会の様々な問題への解決策を見つけていくものでなければならない
認知症にならないにはどうしたらよいか。なったとしても、それを治すにはどうしたらよいか。それを見つけるのが学問である。

社会科学、自然科学だけではない。「人間が死の苦しみから逃れるにはどうしたらよいか」など哲学も同様である。

学問は、現代との対話において、現代社会が抱えている諸問題への処方箋をつくっていくものである。

だから、ときには研究ミスや誤解から、社会に有効なものを発見しても大変な意義がある。ミスしたと批判されることはない。

ペニシリンの発見を思い出してもらいたい
「世界最初の抗生物質として有名なペニシリンもまた偶然から見つかった。フレミングの実験室はいつも雑然としていて、そのことが彼の発見のきっかけになったようである。それは1928年に、彼が実験室に散乱していた片手間の実験結果を整理していたときのことである。廃棄する前に培地を観察した彼は、黄色ブドウ球菌が一面に生えた培地にコンタミネーションしているカビのコロニーに気付いた。……」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0


ようするに、部屋の掃除を忙しくてできなかったから、ペニシリンが生まれたのである。もし、綺麗(きれい)好きで掃除していたならば、ペニシリンは発見されていなかったであろう。だから、私も部屋の掃除を滅多(めった)にしない。深い意味があるのである。

モンテスキューの「法の精神」という本を思い出してもらいたい。彼は英国の統治機構を研究して三権分立論を記した。当然、彼の誤解、ミス研究である
当時のイギリスは、議会の中の小さな小屋(Cabinet)が内閣であった。だからCabinetを内閣と訳す。最高裁判所裁判官は、ついこの間まで、上院議員がつとめた。よって、三権分立などは当時はありはしなかった。このモンテスキューの誤解から、アメリカの統治機構である三権分立論が生まれた。



◇―6・学問の精神。


リンカーンのゲティスバーグの演説も同様である。
彼の演説が、奴隷解放への道へ繋(つな)がるならば意味はある。
また。「of the people, by the people, for the people」が現代社会の統治機構をつくる上で意味があったり、新たな発見に繋がったりするならば意味がある。

もし、誰かが解釈を間違えても、現代が抱えている課題を解決するのに有効であれば意味をもつ。先のペニシリンの例を思い出せばよい。

学問は、アクセサリーや飾りではなく、現代社会が抱えている問題との対話である。それへの処方箋を見つけなければならない。その解決作が正しければ、研究ミスから生まれた結論であろうとも、文献の読み間違いから生じた結果であろうとも、どうでもよいということである。

逆に、重箱の隅をつつき、その解釈を延々としても、現代社会が抱えている問題との対話抜きでは全く意味はない。少なくとも税投入をする意味はない。私は基礎研究自体は否定していない。そうではなく、アクセサリーとしての学問を否定しているのである

そして、現在の大学において、教授諸君の大半がこのアクセサリーの呪縛(じゅばく)に縛られ、現代社会との対話を放棄している。それが一番の問題である。

アメリカの公民権運動の最中、公民権運動の解釈を延々と行い、ときには重箱の隅つつき型で横文字(英文)を縦文字(日本語)になおしてきたのが、今日の学者である。

他方、キング牧師は、ガンジーの研究をしていたときに、塩の行進(しおのこうしん、the Salt Satyagraha)が頭に残っており、その学問がローザ・パークス(1952年)の事件を契機にバス・ボイコット運動を思いつくことになった。キング牧師は、社会科学的見地からみても、まさに天才であった。
※バスボイコット運動については、正確にはエドガー・ニクソンらの助言があったとしても、それを組織化するには、キング牧師の過去の学問が土台となっていた。

そして、アメリカ社会は大きく変わった。まだまだ不十分な面はあるが、ジムクロウズ・ロウ(Jim Crow Law)などは市民権を失った。

現代社会は様々な問題を抱えている。病気以上に。それらへの解決作を生み出すのが学問である。そして、その解答は誤解からであろうと、ミス・失敗からであろうと、偶然からであろうと、いずれでも構わない。現代社会に有効なときにのみ意味を持つ。

私はデマを奨励しているのではない。意味を持つ研究を推奨しているだけである。そして意味ある研究を追求していれば、偶然やミスですら、ときには価値を持つということである。


リンカーンのゲティスバーグの演説は奴隷解放という意味と、「of the people, by the people, for the people」という統治構造の構築という二つの意味を持った。
しかし、リンカーンの生きていた頃と現代とでは大きな相違がでてきている。その現代において、「of the people, by the people, for the people」をどう解釈し、どう具現化すれば、あるいは先の原理に変更の必要性があればどう変更すれば、多くの人が救われるかという観点からしか、私には興味はない。

専門外の、訳の分からぬ英語を短大で教える羽目となり、やむを得ずに「Of the people論」に当時(1980年代と1994年頃)に参加しただけである。今ならば、現代との対話でしか「of the people, by the people, for the people」を考えることはしないであろう。


多くの人の関心はどこでおいしいアイスクリームを売っているか。どのアイスクリームがおいしいか。今度はこんなアイスクリームがほしい。こうしたことに関心を持つものである。
まじめに言えば癌の研究も同様である。

ペニシリンを考えればよい。ペニシリンの発見は偶然かどうかはどうでもよい。菌を殺すのに効けばよい。

ただし、ミスや偶然を、意味あるものに変えるには、社会との対話を終始なし、目的意識を持ち、その解決策を模索していることが不可欠である。それ抜きにはミスはミスであり、マイナスでしかない。偶然は偶然であり、一過性のものであり、何の効用ももたらさず、この世から消えてなくなる。

だから、常に、現代との対話で、現代が抱えている諸問題への解決策を求め続けていなければならない。
それが学問の精神である。

解釈ではなく(ましてや重箱の隅つつき型解釈ではなく)、現代社会が抱えている問題への解決を見つけることが学問である。
そして、そのためには現代社会が抱えている課題に気づかなければならないことはいうまでもない。それが学問の精神である。


※注。
(*18)(*23)などは、安らぎ文庫・長期連載で掲載中の「求め続けて第5章イェーリング付録」の脚注番号である。(掲載期間は2016年11月中旬頃まで)。
http://h-takamasa.com/rensai/policy2.html