徒然なるままに№5―今月の歌・日本特集で「もったいない」を思う。

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徒然なるままに№5―今月の歌・日本特集で「もったいない」を思う。

今月の歌・五~六月特集に当たって二つのもったいないを思った。
一つは、「さくらさくら」収録時の由紀さおり・安田祥子氏についてである。
もう一つは「荒城の月」収録検討時の秋川雅史氏についてである。
この二点を記述前に一つのお断りをさせていただく。
私は音楽は素人であり、素人の感想として読んでいただきたい。


(1)由紀さおり・安田祥子氏と「さくらさくら」


由紀さんと安田さんの「さくらさくら」は今月の終わりまで、私の安らぎ文庫HPトップに掲載予定でいる。聴かれれば分かるように、見事である。
http://h-takamasa.com/
しかし、それは見事になるように歌ったから、見事なのである。(体操で言う見事な着地。)
この歌を聴いて平山郁夫画伯を思い出した。平山画伯は晩年、日本の美を残すため、精力的にものすごい枚数を描かれていたようである。しかし、年齢を考慮されてか、「仏教伝来」の如く大作は避けられていたように思える。「仏教伝来」などを描こうと思えば、そのアイデアを生み出すときの苦悩は並大抵ではあるまい。ノイローゼになってもおかしくないような精神的葛藤(かっとう)があろう。

さらに、日本の自然をはじめとして描かねばならぬものも多数あろう。生きている内にしなければならないものが多数あろう。そこで、絵画も素人の私には、そつなくこなす作品を中心にされていたように思われた。ちょうど、黒澤明氏の「まあだだよ」以降の如くに。

同じことが、由紀さんと安田さんにも言えるような気がする。日本の歌で後世に残さねばならないものが山ほどある。そこで、平山さん同様の作業となったように思われた。

また、由岐さん・安田さんは自己の能力を、年齢を理由に過小評価されたのではあるまいか。
簡単に言えば、平山郁夫画伯が「仏教伝来」以上の作品作成にチャレンジするのではなく、日本の風景を多数残されることを重視されたように。

今回、掲載した「さくらさくら」が最近歌われた歌ならば、アイデア・アレンジ・演出次第では、世界を驚かす作品となったであろう。ただし、そのときのアレンジには相当才能がある人がすばらしいものをつくることを前提にしてである。さらに、その種の作品は、努力のみではなく、産みの苦しみを伴うことも多々あろう。

今回の歌は完璧に決められており、類似の画像を使用したコーラスとは質の差が大きくあった。そこで、類似画像のコーラスは一切使用せずに、由紀さおりさんと安田祥子さんのものだけを二か月流すことにした次第である。

だが、伴奏も含めてアレンジがすばらしければ、世界が驚くものが生まれた可能性はあった。単にすばらしいものならば、彼女らの才能ならば、今からでも幾らでもつくれよう。しかも、ほとんど失敗もなしに。だが世界を驚かし、歴史に残るものを作ろうとすれば、生活の相当のものを捨てねばならず、他の作品もほとんど作れぬであろう。第一、失敗すらする可能性がある。どちらを選ばれるかは自由である。

ただ、私はこの歌を歌われた頃ならば、アレンジなど全体の組み立て次第では世界が驚くものができたと思うと残念である(もったいない)。自己の能力を過小評価されていたのではなかろうかと素朴な疑問を抱いた次第である。

失礼な書き方をすれば、由岐さんなどは、人参(にんじん)をぶらさげて、尻をたたけば当時ならば凄(すご)いものができたのではないかと思うのである。

いや、今74才の安田さんも含めて、編集とアイデア、すばらしいアレンジ・演出ができる才能の人がいれば、そして年齢とあの二人の性格に合わせてそれができるならば、今後も不可能ではないかもしれない。ただし、多くのものを捨てることになるため、私が口をだすことではない。

長崎平和祈念像を作製された、北村 西望{せいぼう若しくはにしも)、1884年 ~ 1987年}氏が5年の歳月をかけて、平和祈念像を完成されたのは1955年で、北村氏が71才のときであった。しかし、私が口をだすことではない。

あの歌を歌った頃に大きなチャレンジと、すばらしいアレンジのできる作曲家、演出家に出会われ、3~5年ほど全身全霊をかけられていたならば……と思うと、もったいないと思うのである。もし、されていれば、世界は驚いたであろう。何故ならば、彼女らには、歌唱力・技能のみならず、歌の心とそれに向いた性格があるのだから。





(2)秋川雅史(あきかわ まさふみ、1967年~)

先にお断りをする。私ははっきりと物を言うタイプである。また今月の歌は誰からも報酬をもらっていないため尚更(なおさら)好きなすことを記す。最後に、私は歌の素人である。この三つを前置きする。

秋川君の歌「千の風になって」(2006年)に聴いたとき、「もったいない」と思った。このままでは、日本では通用するが世界で名をなすことはなかろう、と。また、個性も十分発揮できないだろう、と。今回、「荒城の月」でコンテンツを選ぶ際に、秋川氏の「荒城の月」を聴き驚いた。当初は選択以外として、何も言うまい・書くまいと考えていた。

しかし、彼の能力・才能、性格などなどを考えると、誰かが一度彼を目覚めさせた方が良いかとも考えた。私はコズモポリタンであり、日本にこだわらないが、世界でもまともなのがいないため尚更である。そこで、当初の企画を変更して、男性のクラッシック系歌手の「荒城の月」を今回と次回に分けて4人掲載することにした。当初は一人も使用しない予定でいた。だが、日本の歌手が世界で注目されることを願い、また注目される歌手に育つことを願い、あえて掲載することにした。

公式HPトップでは、6月13日から20日までは、無名に近い歌手を二人掲載予定でいる。候補は、澤田正人氏、町英和氏、有馬牧太郎氏である。三人全て掲載したいが、スペースの都合で二人となるかもしれない。
6月20日から27日までは著名な男性歌手による「荒城の月」である。藤山一郎氏、立川澄人氏、秋川雅史である。ただし、立川澄人氏のはかなり良いのだが、YouTubeでリクエスト無効となっているため、残り二人を掲載することになる。

読者にお願いしたいのは知名度は無視して、良い物は良い。良くない物は良くないという観点から鑑賞願いたい。
絵でも、ピカソが描いたとしてすら駄作は駄作として、逆に無名の人が描いた絵でも良い物は良いとして鑑賞していただきたい。たしかに、ゲルニカはすばらしい。だがピカソにも駄作若しくは良くない絵はある。ルオーにいたっては、売った絵でも、後に良くないと思えば買い戻し、それらの大半は燃やしていた。あの著名なルオーでも良くない作品がある。だが、素人の描いた絵でも良いものはある。そこで、知名度・歌手の格・国民的歌手などの肩書抜きで音楽だけを鑑賞いただきたい。

こうして、予定を変更して、今週と次週はクラシック系男性歌手の「荒城の月」を掲載することにした。当初、このショック療法で秋川君は潰れるか、それとも逆に世界を視野にした歌手になるか、などと余計なことを考えていた。

(聴いたことがないため記してはいけないのだが)AKB48類が世界で流行(はや)ることを憂い、才能・努力・日々の積み重ね、それらを備えた上で世界の人の心をつかみ、世界で評価される歌手が生まれるようにするための布告である。同時に、世界の人がマインドコントロールから逃れるようにするための布告でもある。

顔がかわいらしいとか美人ということは本来歌とは無関係なのである。ときには子猫・子犬感覚である。本物の歌手が生まれる世の中を願っていたため、敢(あ)えて無謀なことをすることにした。
なお、この企画をしてしばらくすると、秋川君の「荒城の月」は何故か以前聴いたときよりも良くなっていた。それはそれでよい。
だが、それでもいろいろ考える人もいよう。同時に、今回掲載する歌手で、秋川君以外の人が世界を相手にするようになってもよい。

持ち歌があり、持ち歌以外での比較は問題が多いのではないか。そこで、秋川君の「千の風になって」をこのページに掲載した。
1)通常のパターン

2)秋川君のお父さんが歌う「千の風になって」
千の風になって- 秋川暢宏 (秋川雅史の父)

3)宝塚のスターと共に、秋川君が歌う「千の風になって」
[Vietsub] Sen no Kaze ni Natte 千の風になって (Thành ngàn cơn gió)

3)を見ると、かなり、変化が期待できそうである。


ど素人の私が、彼が世界の舞台で注目を浴びなかった理由は以下と思う。

①彼がイチロー君、野茂君みたいに、世界を舞台にしようとする願望をもたなかったこと。
②すばらしい歌(歌詞と曲)は多いが、承知の如く、もの凄(すご)くすばらしい歌はほとんどないこと。
③さらに、②の歌が自分の性格や音量と合致しなければならないこと。②③の機会が十分なかったこと。
④人間の心理を知るための機会が十分なかったこと。プロの演奏家は相手の心に届いてナンボかであるため尚更である。そこで、面白い企画として、秋川君の父が歌う「千の風になって」を2)に掲載する。「歌の心」だけではなく、人間の心理を知ることでは父の方がその機会が多いからである。秋川氏のお父さんも本格的なトレーニングを積んだ方である。

⑤なお、優れた音量・音声の持ち主は世界に掃いて捨てるくらいいる。その中でプロとして存在するにはオリジナリティが要求される。そのオリジナリティを開発するためのアイデアとトレーニングがいる。彼は努力家であり、トレーニングをしていることはいうまでもない。だが、オリジナリティを生み出すためのアイデアの方がまだ不十分だった可能性がある。しかし、3)の如く、オリジナリティがでてきつつある可能性がある。


⑥最後に、芸術にも多少関わっている私が思うままに独断的なことを記す。彼のもう一つのアキレス腱(けん)は才能がありすぎたことである。才能がありすぎることは時には障害となることもある。

カメラ・写真をやっている私は次の壁にぶつかることがある。晴天・青空・見事に綺麗(きれい)な景色、これらは一般に芸術性が低い写真となりがちである。何故ならば、何をとっても全部綺麗(きれい)に見えるからである。全部撮れたと錯覚する。だが、写真もオリジナリティが要求される。すると、こうした場面では、私が撮った写真は既にプロレベル大半の人が撮っているのである。さらに、こうした場面では過去、プロレベルが撮り、見たことがある写真が無意識に浮かび、そのように撮ってしまう。オリジナリティがなくなる。すると、結果として、凡作となる確率が高くなる。

第一、これでは、自分の頭が撮っているのではなく、カメラとレンズが撮っているにすぎない。

他方、難しい場面では、必死で自分の頭で構想やアイデアを考える。しかも作品の前例もない状態では。こうした場面ではうまくいけばオリジナリティの高い作品、芸術性の高い作品がうまれることがある。

歌も、素人の私は同様と思うのである。秋川君くらいの才能があれば、何を歌っても人はほめる。すべてよく聞こえる。すると、オリジナリティを考える必要性がなくなる。だが、他方において、世界60億人の人口では、彼と変わらぬ才能の持ち主は膨大にいる。結果として、世界では目立たぬ存在となることもある。
才能が本の少し足りねば、必死でそれをカバーする努力やオリジナリティを追求する。すると世界で無二の歌を歌うことができるかもしれない。才能がありすぎることは、ときには多少、作品を生む上で支障を来すことがあるのはどの世界でも同様と思う。もちろん、オリジナリティを見つけた後は、才能はあればあるほどよいとも思う。

王さんがすべてに、ずば抜けていれば、王貞治はピッチャー王貞治として名を多少残し、世界のホームラン王・王貞治は存在しなかったであろう。また、打者の世界でも、才能が最初からありすぎれば、一本足打法も存在しなかったであろう。だが、オリジナリティをみつけた後は才能があるにこしたことはない。
画家の世界も同様であろう。盲目の、天才邦楽家宮城道雄もオリジナリティを求めたから、各国の楽器の演奏に琴などの手法が一部取り入れられたとも思う。

それが、彼を初めてみたときに「もったいない」と思った理由である。あのままでは世界で名を残すことは難しい、と。


※備考1)写真・カメラは何度も書いたように、頭で撮るのである。即(すなわ)ち、アイデアをもち、そのアイデアを具現化するものである。黒澤明氏ならば、彼の頭に全てのイメージが先にある。だが、誰も彼の脳の中をみることはできない。そこで俳優や映像を通じて、彼のアイデアを具現化するのである。

※備考2)
公式HPの「荒城の月」→上記の理由で、男性歌手特集を二週連続で行う。今週は知名度の低い人2人、次週は知名度の高い人二人。

http://takahama-chan.sakura.ne.jp/
安らぎ文庫HPトップの「さくらさくら」の方はギター二人である。宮城道雄のオリジナリティの琴の演奏の影響が海外の楽器にどの程度影響を与えたかにも注目いただきたい。