『閉じだ窓にも日は昇る(真相編)』・謎の病院H(原田医院)と私の長姉と父:政治問題追加
【更新履歴】2023/10/03 16:00 日本のフィクサーME等、本当に書かねばならぬものがあるため、催眠強制で記述させられ即公開:16:42写真添付。17:26=気がむけば一言【党派中立】№213 駿台事件から党派中立第2段階(心情的党派中立)へ、更に第3段階へのリンクを追加。 18:03=下記の1990年1月入院時を1993年1月入院時に訂正。
(A)原田医院について。
(写真はクリックでパソコン画面まで拡大、二度クリックで巨大)
昨日Facebookに下記を掲載した。(Twitter or Xには概略のみ)その続きを本日掲載する。まずはFacebook掲載の文書の紹介を行う。▽
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(October 2)【🎖】
🤡→昔 #世界遺産 請負人は記した。
#ノーベル賞 も最低でも3人目。
#山中伸弥 氏の受賞は世界の為にも早くで異例の早さで受賞。
🎼#BobDylan は周知の如く。
#コロナ 時🤡は早くワクチン開発者にノーベル賞を…🌐のコロナ対策を加速のためにもとSNS等にも🖊
一刻も早く…でないと、世界が(人も経済も人権も)ガタガタに
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【🍷】話変わって日程表溜まり→本日処理予定も久々に🍷一杯。
①すると、9/30の青山🏥💉…から1989年 #湯郷 原田医院入院時を突如思い出す。
同時に、🎬🎦か📺か何かだろうか。
②亡き長姉が随所で登場=9/30の青山🏥前後にも。
同日長姉連想の子=🤡の甥そっくりさんに出会う。
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①と②から結論は下記。
人生もはや僅か、結論から簡潔に書いた方が早い。
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【🤡】1989年大吐血で湯郷原田🏥入院時の話。
①父の教え子が🏥院長の奥さん=婦長
②長姉の母の実家=豆田で同🏥院長と親戚の用。
③原田🏥入院中→🤡めまいでバタンと個室病室で倒れるや数人の駆けつけ音も🤡貧血?が治まり即立ち上がるや人の足音が止みUターンした謎=🤡は緊急ブザー等おしていないで。また古い🏥で🎥などは1989年にはないはず。
だが監視📷?&そして人の足音は看護師と異なり男性が数人の音で=🎬
④また本当は青山🏥紹介状で別🏥入院予定で紹介状を取りに行き別🏥入院予定当日未明に先手を打つ如く大吐血で父が一方的に原田🏥☎で…。
尚、吐血前に仮眠した記憶がある。
※これ以上は記述の必要あるまい。世界遺産、ノーベル賞、…と合わせれば解答はでているはず。
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但し #駿台 事件は一部まだ謎のまま
また人間違い…との関係もまだ解明が完全にはできていない。
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https://www.facebook.com/takamasa.hamada.92/posts/pfbid0pjbdo2HZBFHFNfgJPKp1T6ZaHViKPpsi5T6ntkzWmLn7US3FDzq8qjUorBkeK4QKl
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上記に付け加えて、💉注射問題を語るように催眠誘導された。ちなみに、前回(2023/9/30)の青山医院注射は別に何も思わなかったため無記述でいたならば、本日(2023/10/03)起きるや催眠で書かされる羽目となった。
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岡山県英田郡美作町湯郷 原田医院については次の箇所で情報公開している。ただし、両方とも病院名はH病院としていた。誤解を招くので、来年度から全て実名公開を検討している。個人情報と言っても、それに優先する事項がある。例が悪いが、指名手配の人物の写真を掲載したならば肖像権に触れるは通用しないのと同様である。
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恐るべき労基法違反・第2章4節51頁から。
第5回配本
http://hamatakachan.uh-oh.jp/wp-content/uploads/2016/07/ba60d190a18c1fbbeb2914aae19156ec.pdf
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『恐るべき労基法違反』(配布ページ)
http://www.h-takamasa.com/rensai/custom.html
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ただし、上記の『恐るべき労基法違反』には、目的が違うため、書いていない。
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看護師💉(注射)問題は下記には書いている。
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『閉じた窓にも日は昇る・下巻』(Kindle、百円)
第三編・強制収容所
第一六章・田舎のアウンシュビッツ・H病院
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看護師についても、別の角度から謎がある。
看護師AとBは💉の腕は互角であった。点滴などは見事にパーフェクトに互角であった。🥶(痛い)も見事に互角であった。医師の同一💉は痛みの「イ」の字もなかった。特に静脈注射がすごかった。他病院の看護師はケースバイケースであるが、記述に値しないレベルでしかない。看護師の名はAもBも覚えていない。
共に😲。
特に看護師Aの静脈💉は過去にも後にも前例なし。
私の隣で、頑健そうな男性(多分、映画かテレビ類の人物)が、それならば私ならば耐えてやるとばかりに、その注射を受けた。だが、顔には引きつった形跡があった。同時に歯を食いしばっていたような覚えがある。
なお、親しみやすい看護師さんのため、直に聞いたことがある。
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私が、「過去、いろいろ注射を受けたが、こんなに痛い思いをしたことはない。あなた方(注射をしている看護婦さん)ならば、こんな痛みに耐えられるのか」、と尋ねた。すると二人看護婦がいたが、両方が即答した。「私ならば絶対に耐えられない」、と注射をする前も後でも言った。数度同じことを聞いたが数度とも即答で「絶対」付きで、「耐えられない」と。注射を打つ本人が言っていた。「絶対に」、と。
『同上書』より抜粋。
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看護師A本人が言うのだから間違いないであろう。
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後に(1990年秋頃と思う)、林野の景山歯科で歯の神経をぬくときに、医師が「麻酔の注射は痛いぞ」と言ったので、当時を思い出し、麻酔注射抜きでと依頼して、麻酔注射抜きで歯の神経を何本か抜いた覚えがある。確かに、麻酔抜きでは結構痛かった。ちなみに、歯の麻酔注射が痛くないのを知ったのは美作中央病院歯科に行ってからのことである。
なお、青山医院で蕁麻疹時に💉(注射)を遠慮したが、後に蕁麻疹がひどくなり、幾つかの病院で注射を打ったが痛みは全くなかった。青山医院でも後に打ってもらったのではなかろうか。同病院でも現在まで(83~89年、95年~2023年)、💉類は記述に値しないため記述していない。中学後半から長期病気知らずに近いため、食わず嫌いに近いだけであった。
さて、疑問の方は次の件である。
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看護師Bは後の🎃(オジョウ)と似ていた印象がある。雰囲気も。
看護師Aは何故か、お子さん(女の子)を病院に連れてきて、私に数度会わせていた。恐らく、故意であろう。そのお子さんが、今の、美作中央病院歯科衛生士とダブって見える。もし、一致ならば、当時から何らかの映画説のシナリオがあったのだろう。
一致でなければ、後に面白いということで、似ている人選を考えたのであろう。
更に、謎はある。
私はAとBで😵💫のときに、ふと昔の👧の子を思いだした。彼女も看護師になっていた。
同時に、嫁さんにするならばこんなのが良かったとその頃思っていた。やさしいし、苦労人であるし、…可愛い顔もしていた女性である。実は同じ村の同級生であった。結婚して名字は変わっているため公開してもよかろう。旧姓は中島さんである。
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すると、その中島さんが、突如、原田病院の看護師となって登場してきた。
こんな、偶然があるだろうか。
勿論、彼女の💉は痛み…は皆無であった。
同時に、彼女は人間違いを強調した。
浜田隆政を「貢ぐ君」と何度も呼び続けた。
当時は、ポリテクカレッジ岡山(能開大)と絡めて、「貢ぎ労働」を強調していったのだろうと思った。彼女とは小学校・中学校・高等学校が同一(もっとも彼女は家庭の都合で転校続きと、カンバック続き)であり、住まいは同一村(当時は岡山県英田郡美作町位田)である。
彼女が私の名前を間違うはずがない。
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※この看護師Aと看護師Bの💉問題は、全貌が分かりかければ、看護師Aさんか、Bさん自身が自分で本質を語ってくれると信じている。あるいは、中島さんが話してもある程度事情はわかろう。更に、その他の被害との連続性があり、該当者の誰か一人が喋れば、芋づる式に全貌が分かろうということで、私はある意味では全貌の解明については楽観視している。私に各種実験をしなくても、いずれ、誰かが全部を喋ってくれる確率が相当高いと分析しているからである。
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2000年代前半には林野高校に二人の道信先生がおられた。後にふとしたことが年取った道信先生を思い出し、独り言を言った。すると、年輩の方ではなく若い方の道信先生がスミレ写真サークルに突如参加され、驚いた。先生は私を見るなり、「お前は浜田正典だったな」と何度も言われた。私が「私は浜田隆政です」と言っても、「嘘を言うな。お前は浜田正典だった」と執拗に言われた。
浜田正典氏とは我が家の住所番地も(番地もとは位田だけで三つの住所を使用されており、郵便受けなどには我が家の住所・番地名を明記して)使用されている私より一切上の人物(家は我が家の前)である。
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後に看護師Bは姿を消し、看護師Aは1990年 1993年入院時1月入院時には💉(注射)は痛くなくなっていた。それもできすぎた芝居に思えたのが当時の印象であった。
ただし、この看護師さんに恨みは一切ない。人生終焉間近で、本当のことを回想録として記録に残しているだけである。
中島さんは、それよりも早く姿を消していた。私が独り言か何かで彼女の名をだしたので、呼応してきていただけであろう。目的が済み、去ったのであろう。
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まだ謎は続くのであるが、この問題は後に、『閉じた窓にも日は昇る(真相編)』で記すことにしよう。ただし、原田病院の医師(院長)の奥さん(この人が婦長)と思うは、私の長姉そっくりの雰囲気の人物であった。私は亡き姉が化けて、違う人物として登場しているのではないかと後に思った。だが、当時も、亡き姉を何度も連想した。そのくらいに雰囲気は似ていた。
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この看護師問題は、拙著『恐るべき労基法違反』には書いていないようである。ポリテクカレッジ岡山との賠償交渉に無関係だからである。
看護師さんには恨みも何もないのであるが、次のことは今でも気になっている。
当時、外来は通常待ち時間が短くて2時間以上、薬がでるのも1時間以上だったか。別に入院患者が10人以上いたように思う。
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(1989年等の)当時スタッフは
医師(数十㎞先に家がある医師)
他の医師はゼロ。
看護師は2人。医師の奥さんと思う婦長をいれても3人である。
医薬分業前であるが、薬剤師は1人。
各種法律で人数の規制がないと思われる事務員は1人(まだパソコンがない頃であり、全て手作業でノートをつける)。
夜間のローテーションは「因(ちな)みに、一九八九年のH病院の当直順番は、看護婦A→看護婦B→薬剤師→医師の奥さん→看護婦Aと医師か……であり、入院時の四〇日間に医師が夜いたのは五~六日程度であった。入院先の病院に、医師が夜は週約一回しかいないということがありうるのだろうか。それどころか、週一回以上は、医師も看護婦さんも病院にいないという入院設備を持った病院が、現実の世でありうるのだろうか。因(ちな)みに、本日は医師も当直と聞いた日に、一度も医師を夕方から朝にかけて見たことはなかった」(『閉じた窓にも日は昇る・上巻』(Kindle、100円、$1)。
なお、医師の奥さんはローテンションというよりも、臨時型のため、正確には夜勤は「看護婦A→看護婦B→薬剤師→(看護婦A→看護婦B→薬剤師)…」である。
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看護師は夜勤で入院患者の世話、早朝から即外来対応、薬剤師が忙しいときには薬剤師の手伝い…別に、病院のゴミ箱などの整理(清掃の人はいるにはいたが看護師さんが掃除…も見たことがある)。
同時に、当直で、医師・看護師共に不在の日があり、1993年の入院時はその日にぶつかり…大変であった。徹夜での大吐血連続の後(この間は医師はこなかった)、a.m.8時過ぎに医師が来て言ったのは「内の病院では手に負えない。救急車を要請して田尻病院か美作中央病院に移送する。どちらにするか」。
私はもう、血圧の上が70の貧血状態(田尻病院で測定時)で、返答すら不可能であった。その上、まだ吐血が完全に治まっていない。(この吐血は、24時間断片的か36時間だったかという長さであった。恐るべき労基法違反に丁寧に時間測定などを記している)。
そして、医師が田尻病院に連絡をとり、救急車で移送された。
なお、1989年に青山医院で入院の紹介状を書いてもらう予定だった病院が、田尻病院か美作中央病院であった記憶がある。
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【青山医院写真】(写真はクリックでパソコン画面まで拡大、二度クリックで巨大)