徒然なるままに№15:回想―アントニオ猪木さんとの絡みの中で我が道を振り返る。

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徒然なるままに№15:回想―アントニオ猪木さんとの絡みの中で我が道を振り返る。
安倍晋三銃撃事件の謎も一部記載。


【更新履歴】2022/10/03 22:28から下書掲載

2022/10/03 23:53終了。10月4日00:01時から正式公開

 


《序;2022/10/03のTwitterから抜粋》

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22-276-1【🌎】
本日の🌎#時事更新 は #アントニオ猪木 さん特集中心です。
🇧🇷ブラジル、🇺🇬ウガンダ等Africa、🇵🇰パキスタン、🇮🇶イラク、🇰🇵北朝鮮、🇺🇸米国での猪木氏特集予定。本日夜迄に掲載。
特集理由は🤡の公式HP等で回想録・追悼文を兼ねて明日掲載予定。
回想概要はTwitter等SNSにこれから記載

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1576777653696098304?s=20&t=3Y4ZZYQWmHoPA3hNcW8mkw
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《◇―1・道:アントニオ猪木氏を見て格闘技に熱をあげ、我が道を決める》

本日(2022/10/03)の🌎時事更新は #アントニオ猪木 追悼特集をした。
特集理由は、🤡(ME)の生き方に大きな影響を与えてくれたからである。

小学校の頃、テレビを近所で見せて貰い、力動山に出会ったが特に生き方は変わらなかった。
後に国際プロレスを見だしたが、それでも面白いのみであった。
ところが、その後でアントニオ猪木氏を見る。


ここから、私の本来の道は #格闘技 と #田舎教師 と決めた。
田舎教師ではなく、#格闘技 と #塾 経営者でもよい、と。
中学校頃までは#東大 #京大 #早大 #慶応 あっかんべー👅で遊び三昧であった。
中学校3年生頃にアントニオ猪木氏を見て🤼格闘技を志すようになる。
とにかく柔道かレスリングをしたい、と。
中学校には柔道部もレスリング部もなかった。
高校に入学し、柔道部に入部した。
受け身と基礎運動のみの日々が数ヶ月続いた。
大変厳しかったが嫌ではなかった。
腕力は元来強い。
更に体は極端に柔らかい。
正に柔道向きであったからである。
投げ技も少しのみやった。
スポーツ音痴の私が柔道だけは向いているとはっきりと思った。
正確には柔道やレスリング向きのようであった。


その頃、岡山県 津山市でプロレス興行があった。
当然見に行った。
その時の写真を紹介しよう。


【📷写真―1】(写真は全てクリックで拡大、二度クリックで更に拡大)
1968年頃(1967年だったかもしれない。以下同一) 岡山県津山市で撮影(アントニオ猪木氏)

アントニオ猪木氏(1968年頃津山市にて)

アントニオ猪木氏(1968年頃津山市にて)



岡山県 #津山市 の会場では、大きなイベントがないにも拘わらず七~八千人の客がいた。
馬場さんは撮影しやすいように🤡の前をウロウロと。
#大木金太郎 さんは一緒に並んで撮影と。
猪木さんだけが出てこない。
この時の模様を拙著『旅に心を求めて―不条理編』(Kindle、KOBO各百円、$1で発売中)の後書き「我が道」に以下のように書いている。


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雑談ではあるが、私はプロレスファンであり、一九六七年頃日本プロレスの会場に行ったことがある。猪木のファンであったが、私がカメラを向けても猪木はさっさと素通りで写せなかった(その数年後に新日本プロレスを見に行ったときには、私の甥の頭を撫(な)でてくれたが)。
ジャイアント馬場は、何度も何度も私の前を歩いたり、さりげなく止まったりして写真が撮りやすいようにしてくれた。今考えると、シャイな馬場の思いやりであったと思う。
大木金太郎(韓国名・金一=キム・イル)は、当時高校一年生の頃であった私の側(そば)に自らやって来て一緒に写真に収まってくれた。だから、本当は彼が生きている内に韓国に行き、大木金太郎の家にも行きたかったが、もはや彼は二〇〇六年に死んでしまった。

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【写真―2・ジャイアント馬場さん】

ジャイアント馬場氏(1968年頃津山市にて)

ジャイアント馬場氏(1968年頃津山市にて)



猪木さんが亡くなり追悼を書くため調べていて、今、分かった。
猪木さんは1966年 #東京プロレス に所属しており #日本プロレス には1967年復帰であった。
🤡私が津山に行ったのは1967年か1968年である。
更に、猪木さんは1971年日本プロレスを追放される。
1972年 #新日本プロレス 設立である。
そこで、日本プロレスと上手くいっていなかった時期かもしれない。
そのため余りでてこなかったのであろう。
実際に、その後、義兄につれられ大阪で新日本プロレスを見たときには、まだ幼かった甥の頭をなでてくれている。この時はもう日本プロレスではなかったからだろう。


《◇―2・ナンバーワンでなくてもよい。好きな道を進むはずが》


【写真―3:#吉村道明 (1926- 2003)】

吉村道明氏(1968年頃津山市にて)

吉村道明氏のことは、#近大 #相撲 部諸君なら詳しいであろう。
特に18代 #錦島親方 (#長岡末弘 #朝潮)なら
吉村氏は常に脇役であった。
だが自分の好きな道である。
🤡(私)も#格闘技 は脇役以下かもしれない。
だが好きな道を歩むが人生のはずである。
所が、🤡は🥴(催眠)誘導で学問の道へ
アチャパー


より丁寧に書けば、いよいよ段取り(試合形式の練習)に入るという直前に突如退部である。試合形式の練習や試合に入ればやみつきになるのは必須であった。
その前に、例の催眠誘導をやられたのである。
就寝中に「大学はどうする。金の関係で授業料の安い国公立しか無理だ。だが、民主主義活動(当時は友の会に所属)と別に柔道部、その上で受験勉強は無理だ」という形の説得を受け続けた。
そこで、やめたくなかったがやむを得ずやめる羽目となった。
所が、やめるや、どんどん民主主義活動に、特に部落問題関連の活動に没頭していく。友の会なる民主主義を目指すサークルをつくっていたが、別に部落問題研究部にも所属する。もう受験勉強どころではない。
柔道部よりも忙しかった。
受験勉強を口実にやめさせられ、柔道部以上に忙しい羽目となる。

話を元に戻そう。
プロレス会場には何度も行った。
#長州力 氏が吉田光雄と名乗っていた頃に、まだ前座か試合に出ていなかった頃の練習風景も見たことがある。徹底して受け身の訓練をさせられていた。指導者は #山本小鉄 氏であった。
受け身の訓練一つでも凄い迫力であった。


ちなみに長州力氏の専修大時代の後輩が🤼#吉田沙保里 の父である。
こうして柔道を含む格闘技への未練はそれを見ることへかわっていいった。とは言っても、上級生が受験などでクラブに来なくなると、柔道道場へ何度も顔を出し、遊んでいた。遊びと言っても、柔道の有段者で80kg以上を相手での格闘技ゴッコである。ゴッコ抜きでも通用する。一人は数年後に柔道三段に、一人は数年後に柔道と空手の両有段者に…である。
痛くないはずはない。
また自主トレも家で行っていた。
腕立て、腹筋、ブリッジ、スクワット、エキスパンダ…と。


《◇―3・点と線:世界のHAMADAへの道が》

【写真―3 #大木金太郎(金一、キム・イル、김일)) 氏と一緒に撮影】

キムイルこと大木金太郎氏(1968年頃津山市にて)

私と大木金太郎氏(1968年頃津山市にて)

大木氏は1968年には私と並んで撮影してくれた。
その頃、彼は #朴正熙 (#朴槿恵 氏の父)にかわいがられていた。
政治の道🙅もこの頃から…仕組まれていたのかもしれない。
と言うのも、相当年月がたち、ハルクホーガンなるレスラーなども登場してくる。
#アントニオ猪木 氏は この #ハルクホーガンと親しい。
ハルクホーガンは #トランプ 前大統領の知人である。

こうして🤡私が2017年夏の終わりに試みを開始した、米朝首脳会談画策へのお膳だてがなされていた。
格闘技…が米朝首脳会談…への遠因だったかもしれない。
#文在寅 氏も含めて世界が本気にしていなかった時期である。
尤も 🤡は米朝会談の実現の兆しがでると同時に即座に蚊帳(かや)の外へでた。
🤡(私:ME)の役割終了、と。
何故ならば🤡は政治家では一切ない。
Mr. Trump と🤡(ME)の関係は見ての通り。
🤡とMr. Obamaの関係は、オバマ氏は我が友であり、私が最も敬愛する友の一人である。


《◇―4・加齢という魔物:#安倍晋三🆚#アントニオ猪木》


#新藤兼人 映画監督や #日野原重明 氏が示した老後への道を歩むのか #アントニオ猪木 さんが70代に陥った加齢・病…の道を歩むのか不明となった。後者の先駆は懐かしき(70才でなくなった)⚾#星野仙一 氏等である。
ちなみに猪木さんが亡くなった時間が10月1日の午前7時40分である。
星野さんが死亡したのは2018年1月4日である。
共に「4」が強調されていた。

私は本年、ある日独り言をした。
安倍晋三氏宛にである。
「君は復活とか、裏で政治を操る…と思っているが、加齢・病という難敵がある。君もいずれ分かろう。目が、耳が、腰が、脚が、…病が。あの #アントニオ猪木 さんですら…難病という魔物に侵されている。君もいずれじわじわ分かる。
同時に、一時を風靡(ふうび)した #中曽根康弘 氏ですら影響力が…である。それも分かろうと。これが人生なのだ」と。
すると、数日後に、おかしな徴候があった。
本日何かある、と。
(我が家と同一住所番地使用の、私より一才上の)Z3氏死亡の時と全く相似形であった。
何かあるようだと、私がTwitterに掲載(記載は7月8日午前11:25~11:33頃)、投稿したのが11:35。その間に安倍氏銃撃事件が起こる


《◇―5:安倍晋三は生きている》


何かあるとか、奇妙な徴候類は、私は安倍晋三氏自身が行ったと思っている。
同時に私が随所に記しているように安倍晋三は生きている。
Z3氏も同様である。
万一、私が所属している岡山県 #美作市 #位田 NT組合の諸君がZ3氏の死亡が嘘と知っているならば、同様の論理のため、彼らは安倍氏死亡が嘘と即座にわかるはずである。
だが、その嘘を誰かが悪用し、誰かを窮地に陥れようとした。
そこで、🤡はやむを得ず、安倍氏は生きているを始め、幾つかの原稿を記載せざるを得なくなった。

なお、両者が亡くなる前に、我が家の台所の🔪包丁二つが謎の紛失をしていた。
それらは拙著『日本のフィクサーME・パート6』かpart7で記そう(part6で完結としたいためPart-7は極力6に編入予定でいる)

☆☆☆☆☆☆
関連Twitter
22-258-1 【🥴催眠】と😴睡魔の中で備忘録✎
#安倍晋三 氏銃撃死
→🤡追悼か回想録✎予定。
👺が「それは困る」
✎阻止目的で「俺は生きている」と👺自身が諸資料を🤡💻へ。
更に🤡が😡状態でなければ困ると👺
👺が🤡よ「😡」れと、⚔挑発と🥴

所が🤡は🎼📷✎で起業・開業努力中で🤷
2:35~2: 43記述
午前2:44 · 2022年9月15日

https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1570106156919693312?s=20&t=TIQzkC_uwxlxXM-BZB-UYg
☆☆☆☆☆☆

時事更新2022/10/03の⑨番から抜粋


正直な私は安倍氏のは生前葬と思っている。同時に、死ぬことを使っても、国内を二分する以上、映画ならば見事なヒール(悪役)とも思うときもある。
https://ameblo.jp/takamasahamada12/entry-12767465615.html
☆☆☆☆☆☆



《◇―6・本来の道》

本来の道は①格闘技をやりながら田舎教師であった。
格闘技好きなな🤡(私)が番傘をさし、下駄をはき、(授業料が安い)地方国公立大学をでて平凡な🚴田舎教師になる。これが道であった。これが本道であった。
所が、学園紛争などで大学の授業を受けられなかったのが原因か、大学一年時に経済学の本が面白かったのが原因か不明であるが、考えもしなかった②学問の道へと舵を変更させられる。
更に カメラや世界の歌などの(Joke過ぎる、私が最も苦手な)③芸術の道へと、オマケに④政治の世界へまきこまれていく。
亡き祖母が言った。
「えらい人にならんでええがな」と。
亡き母が言った。
「いつまでも金にならないことをして」と。
🤡私もそう思う。
それ以上に④は体質に合わない。
打算と駆け引きの道は、嫌悪の道である。
よって④はない。

現在の道は新たな本道「プレゼンテーション屋」である。
だが、そのためには健康面が新藤兼人・日野原重明型か、星野仙一・衣笠祥雄・アントニオ猪木型かが問題となるであろう。

ともかく、2016年春に市役所の電話を契機に催眠ストップのかかった基礎運動再開だけを望んでいる。


再度書けば、🤡の格闘技熱を呼び起こしたのがアントニオ猪木氏であった。
🤡私はミニ・アントニオ猪木を目指していた。


【写真:53才頃の写真】

2004年撮影(52才時)


【2016年春に運動をストップさせられて6年目の私:2022/10月撮影】

70才の一月前(2022/9/29撮影):脚より胸の筋肉が大きくそげ落ち、腹には贅肉が)。髪は兎も角、体が…これでは。上半身に6年基礎運動不足のつけがでている。

今後、加齢が進み更に貧相な体になるか、6年基礎運動を中止させられていたため、それを復活させれば若干巻き返しとなるかの実験予定でいる。
ただ言えることは、私はアントニオ猪木さんと異なり、この世でまだすべきことを表の世界で一切していない。
猪木さんの歩んだ道は、私の回想ではなく、アントニオ猪木氏回想もいつか記すことがあるかもしれない。

今回の文書は、アントニオ猪木氏との絡みで、私の回想録の一部である。
続きは恐らく数年後に記載予定でいる。

最後に、あの世を含めて、いつかアントニオ猪木氏と一対一で会うであろう。その時は、大木さん同様に一緒に写真を撮ろう。
今回の文書は #アントニオ猪木 氏追悼文兼用である。

以上、

2022年10月3日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA