徒然なるままに№21・写真残酷物語第五話アナログとデジタルの話④・デジタルからデジタルへ(下書き以前のメモ段階も、脅迫的雰囲気回避上公開保存。後日、修正)
テーマ 写真残酷物語・アイデア剥奪撮影の屈辱
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時間記入のない箇所は2018/08/23 未明
2018/09/01 1:56
2018/09/04 23:11
2018/09/08 19:14
2018/09/13 東京二日目のレタッチを中止させられ、突如催眠誘導で記述 13時頃~17時40分
2018/09/14 4:35記述
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徒然なるままに№21・写真残酷物語第二話アナログとデジタルの話④・デジタルからデジタルへ(下書き以前のメモ段階も、脅迫的雰囲気回避上公開保存。後日、修正)
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私はプライベートでは写真は撮らないと1994年、95年は言っていた。写真・カメラは教材使用と私が出版する書籍に挿入することを目的として開始し、今もそれを目的としている。良い写真自体が目的ではなく、私の書物で使用できる写真だけが意味を持つ。当然、肖像権が絡むものは御法度である。撮っても無駄でしかない。
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だが、何故か、徒然№★で書いた、後ろの小母ちゃんに写真贈呈などをしていた。もっとも、最初にこの家を撮ったのは主として、母との契約(村のアルバム作成と学校で使用する機材購入費のバーター)の件からである。
だが、お年玉事件と村のアルバムが1999年6月に完成したことにより、もう撮らないと決めていた。
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だが、その後、幾つもの挑発、(信じようと信じまいと)催眠でコントロールされ撮らされた。
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2002年には、近隣のお通夜撮影。
1994年カメラを開始し近くの人が亡くなられたため、条件反射型で撮ったのか…かは不明である。
だが、グラデーション問題から、お通夜や葬式もここで打ち止めとした。グラデーション問題とは、村全体のお通夜・葬式撮影は不可能なので、トラブル防止用にお通夜や葬式ですら、もう撮らないと方針をだした。
それのみかプライベートでは撮らないとした。それを徹底するため、我が家(父・母)の法事、お通夜、葬式ですら一枚も撮っていない。自分の家の法要ですら撮らないのだから、他家はもう私が撮らなくても不義理にはならない宣言である。
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ここで、うち切りのはずであった。ところが、その後2005年と2009年がはいった経緯は既に記した。
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ちなみに、後ろの小母ちゃんと2002年撮影まではアナログからアナログである。
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2005年撮影と2009年撮影はアナログからデジタル転換でのプリントである。
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ところが、2012年にもう一回だけ例外撮影が入った。今度はデジタルからデジタルである。
どうして例外が入ったのかは▼▼▼
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三タイプの撮影ではデジタルからデジタルがやはり楽ではあった。
だが、問題がない訳ではなかった。器財の選択問題など…である。器財選びの参考用にそれらを記そう。器財選びと、器財のオーダーメイドなどの裏話も一部しよう。
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なお、2012年撮影も、結婚式披露宴の場は暗かった。
だが、今度はデジタルである。
しかも、高感度対応でISO800まで作品になる。フィルムカメラのときはポジ中心でISO100である。しかも、ポジのためダイナミックレインジが狭いし、撮った後の明るさ修正も原則としてほとんど無理である。それに対して、デジタルは撮った後での明るさ調整は相当できる。よって、よってフィルムで言えばISO1600まで撮れる気になる。
ただし、まだ器財がそろっておらず、一番肝心の標準レンズを事実上なしでの撮影となった。メインレンズはAF-S 16-35 VRである。このレンズは良いレンズである。
マクロに近くてもVRがかなり効くし、ホールドが固ければ1/8でも手持ちで撮れる。さらに、固定するものがあれば1/2秒などでも不可能ではない。
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だが標準レンズ抜き、マクロレンズでは私が指摘した問題がでる…。
同時に、一番大きな問題は、結婚式撮影に当たり、私が撮影のアイデアを練っていった。ところが、そのアイデアを書いたメモが紛失したり、アイデアを忘却させられたり…。特にオリジナル技法を試みようとしたが、全て、様々な理由で不可能となった。
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それらの話を後日しよう。だが、この時を含めて三度の結婚式撮影では、一番楽であった。インプットの方も、ブラックボックス部分の現像・レタッチの方も、プリントの方も全て過去とは比較にならぬくらいに楽であった。他の仕事や母の法要準備をしながらでも、三ヶ月程度でできた。
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この回では器財選びは、企業関係や経済の知識とも結びつく話をしよう。
安物買いの銭失い。
D800の話。
(D700とD600を購入しなかった理由等々)
同時に撮影の中心はアイデアであることも再度しよう。
写真は詐欺の話→迂闊にも、ストロボで赤目をだしてしまい、ソフトでも処理できなかった。そこで何枚かは目を真っ白に塗りつぶし、私が絵同様に、パソコンの絵筆で目を描いたのであるが、まだばれていない。つまり、写真ではない部分がある。今、絵風の写真を掲載しているがあれは写真を加工したものである。
だが、メイの結婚式のときは、絵風に加工ではなく、私が描いたものがいくつかある。その部分は写真では全くなく、私の絵である。未だに誰もどこが該当するのか気づいていない。私も忘れた。
それでも過去のプリント処理に比べれば楽であった。費用も過去の中では相当安い額ではないかと思う。とは言っても、一枚の写真を現像・レタッチを何度もすることや、試し刷りが相当あるため、通常の人のデジタルからデジタルへの費用よりははるかにかかっているであろう。
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逆に言えば、アナログからデジタル化は余りにも大変であった。
アナログからアナログは自分の思い通りになるまでラボ(店)に通い続ける根気問題もあった。アナログからアナログは二人のカメラマンがいる。一人は撮影者、もう一人はラボのプリントする人。だから、自分の思い通りに結論をだそうと思うと、かよう回数が増大し、通い続ける根気を要求された。
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★★★
ともかく、この撮影を持ち、今度こそ、器財は仕事以外は一切使用しないことを実行中である。仕事に就き、収入を得ることをまだ諦めてはいないため、尚更である。完全に仕事を断念したときに、カメラ器財はどうするかを検討しよう。趣味で継続するか、きっぱり全てやめるか…などを。
次年度、村の役職に就かざるを得ず、村の親睦旅行に行かざるを得ないかもしれない。だが、事前に宣言を何度かしておく。カメラ器財は一切持参しない、と。公私の区別ともし収入が入ったときの青色申告対策である。カメラは商売道具であり、書物をつくる上で不可欠なものである。
同時に、領収書、レシート、納品書等を今整理中でもある。青色申告の時効は原則5年のため、今本がうれなくても、5年以内にうれれば、今の本作成用の費用は必要経費として申告できる。特に減価償却に該当するものはそうである。、カメラ器財は商売道具のため、青色申告で減価償却で必要経費落とし予定でいる。そのためにはプレイベート使用が零でなければならない。収入が入ればの話である。
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また、写真残酷物語最終回の今回は写真と絵画の比較や融合についても論じる予定でいる。
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2018/08/24 13:56 この写真撮影はお子様ランチ強要撮影であった。
お子様ランチ写真とは何のことかは後日話す。
特に、当初予定していた撮影アイデアは一切使用できなかった。
まず、多重露出撮影は、実験で甥の子相手では撮れた。
そこで、本番でも、と考えると誤作動の連続で撮影不可能となった。
その後で、当初予定して、メモしていたアイデア全部を忘却した。
結局、当初予定していた撮影、特に浜田隆政オリジナル技法は実際に使用できなかった。
撮影の根本は撮影者のアイデアである。
そのアイデアを完璧に封じられたのがこのときであった。
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余り気分はよくなかったが、怒りまではしなかった。
後日、プリントアウトして、言った一言が「これではお子様ランチ」である。
怒りよりもむなしさが先立った。
そこで、結婚式の4ヶ月後に、当初予定していてアイデアを大阪難波と神戸南京町で実験した。特に後者は見事に決まった。
また、このアイデアを最初に実験したのは2009年下旬の神戸ルミナリエである。
そのときの写真と南京町の写真を少し掲載しよう。
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姪の結婚式での撮影は私のプライドが大きく傷ついたことだけは覚えている。
私の力量を勘違いし、同時に私の商品価値を下げられたという思いがあった。
いわば屈辱的ではあった。
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また、器財面での問題もあった。事実上標準ズーム無しでの撮影であったことなどは後で記そう。
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ただ、それでも、私の撮影やレタッチ努力に対して「ありがとう」と言っただけましであった。(それで今まで誰も言わないの。言わないのです。)後は誰か何か勘違いをしているとしか思えない。
私は仕事で写真をやっており、仕事以外では使わない方針であり、それを謀略云々で崩されたが、今度こそ完璧にプライベートでの使用中止を宣言した。
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尚、このときも他人撮影の写真をいれられた疑惑もあり、それらも不愉快な思いとして残っている。それらも後で記そう。
今回の写真残酷物語は、写真アイデアへの攻撃である。
結局、私はラボ(写真を預かり、現像料とプリント料をとるプリントアウトするのを専門としている店)の役割をしただけであった。
ただし、私はいつもプライベート撮影は無料と宣言をしているし、していた。ともかく、今後はプラベート撮影は一切しないことだけを記しておく。念押しで次年度の年賀に印刷をしておく。
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2018/09/01 1:56
※ようやく、数時間は本調子で記述できた。
ただし、前回などは一部レベルの低い記述を催眠強要されており、それらは後日プライベートブログに移行し、公式ブログにふさわしい内容としたい。デジタル、アナログの科学史、世界の政経の動きと結びついた諸事件(安重根撮影妨害用に日本国内で器財故障事件連続)、私の動きと株価、…などである。
なお、私的出来事類の情報公開類は、このコーナーではする予定はない。同時に、ここ数日情報公開などを記述させられているが、それらも、今回との関連ではもう打ち止め予定でいる。
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デジタルからデジタル
(1)撮影の経緯
(2)デジタルからデジタルへ
(3)限界と妨害
(1)撮影の経緯
2009年で、もう、今度こそプライベート撮影は中止するはずであった。
ところが、母が2010年から危篤に近い状態となる。その後、母は姉の家に世話になりだす。
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そうしたときに、「カメラ器財を母か姉がだしているにも拘わらず、母の孫の結婚式を一枚も撮らなくてなんともないか」と寝ているときに思わされた。
確かに、従兄弟の子の結婚式などを撮り、母などがカメラ器財の費用一部を負担しているとすれば、その器財で他人の子の結婚式は撮り、自分の孫の結婚式は一枚も撮らないのでは、母などは屈辱的感じを受けるであろう。
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そこで、母の孫の結婚式をあと一回だけ撮るとした。次姉には子供が三人いるがどうするか。しかし、今度は従兄弟の子など子供への贈り物でもなければ、姉への贈り物でもない。母への贈り物である。
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次姉の子というよりも、母の孫の結婚式を撮り、作成したアルバムは母に贈呈するとした。姉や姪ではなく、母への贈呈である。
贈呈したアルバムは母が所有することになるであろう。
もっとも、その後で母がどう処分するかは母の自由である。
万一、母が孫(私から見れば姪)に渡すときには、私は無関係で、母の所有物を姪に贈呈ということになる。一度あげたものをどう処理するかは母の自由である。(ただし、著作権は私にある。要するに、母の所有物となった写真は母が誰に贈呈しようとも母の自由である。ただし、著作権の関係で、その写真を本やカタログにしたりする場合には、私の許可がいる。これが著作権である。他方、私の方は、撮られた人の許可なしに、その写真はインタネットでも、著作でも使用することができない。これが肖像権である。)
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そこで、本来こうなるはずであった。
万一、母が姪に渡せば、どうなるか。
姪が私に「叔父さんありがとう」と言えば、私は次の用に返答する。
「叔父さんは無関係。そのアルバムはお婆さん(私の母)の所有物であり、私の物ではない。だから御礼を言うのは私ではなく、お婆さんの方でしょう」と。
その場合には、母が姉の家に居候し、姉夫妻に面倒をみてもらっているため、多少なりとも肩身の狭い思いから解放されるであろう。ごくわずかではあるが。
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しかも、次姉には三人の孫がおり、長姉には二人の孫がいる。その五人の整合性もかたずく。即ち、孫(私の甥・姪)に渡しているのではなく、母に渡すもののため、一人でも不平等とはならない。
金のみではなく、写真は撮影とは比較にならぬくらいに後始末に時間がかかる。現在(2018/09/01)ですら、昨年(2017年)東京で撮った写真は東京一日目の現像・レタッチがぎりぎり終わったか程度である。早大以外は、東京二日目以降は手つかず状態である。更にプリントに至っては、2017年初頭から一切まだしていない。若しくは2016年の終わり頃からまだできていない。
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勿論、母に所有権を移行するため、母が孫に渡さず、自分が保管したいと言えばそうなる。母に所有権を譲ったものは、煮るなり焼くなり母の自由である。もう私の口出しの域ではない。
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ところが、母が2012年夏前から意識不明となった。そして、姪の結婚式直後に死亡した。そこでアルバムが2013年春に完成したときに、私は姉に言った。(多分、文章でも書いて送っている。)
そのアルバムは母に贈呈する予定で作成した。そのアルバムをどうするかは姉の判断に委ねる。母が生きていたならば、こうしたと思う形で処理してくれ。
母が世話になっていた姉の家の部屋に常時置くのも自由、我が家に置くのも自由、姉が所有するのも自由、姪に渡すのも自由…。
本来母に贈呈し、母が自分の意のままにさせる予定でいたが、死亡したため、母ならこうすると考えて、処理してほしい、と。
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その後、姉から「隆政ありがとう」、姪から「隆政叔父ちゃん、ありがとう」と電話があった。本来は「叔父さんは無関係。おばあちゃんの物をおばあちゃんからもらったならば、常識的におばあちゃんに礼を言うのが筋では」となるはずであった。
作成を思いついたのは、母死亡前、姪の結婚式が決まるよりも相当前である。甥が先に結婚したときにはどうするかは考えていなかった。姉などの情報から、姪と二番目の甥のどちらかが最初と思っていた。
一番上の甥はまだ当分結婚の予定はないと聞いていた。
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甥・姪にも平等が原則であり、余り好ましくないが、母生存中に母に孫の結婚式アルバムを一度だけ贈呈したいという欲望が先立った。
従兄弟の子の結婚式は先の如く一部撮影し、(写真代ではなく、減価償却に該当する)カメラ器財の費用は母が一部出していた可能性もあったため尚更である。自分が出した器財で他人の子のみで、自分の孫が一冊もないとは少し筋が通らぬと考えた。
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プライベート撮影はしないはずを、一度だけ例外的にする代わりに、母のお通夜、葬式、法要は一枚も撮らぬことにした。同時に、これは村の一軒だけお通夜の写真を撮っていたため、母のお通夜・葬儀・法要写真も撮らぬので、他の家はこれでご勘弁をという意味もあった。
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こうして行う、私の人生で最後のプライベート撮影は完璧に決める予定でいた。同時にその自信も相当あった。
しかも、今回は初めてのデジタル・デジタルである。何故、デジタルカメラ購入が遅れ、事実上2012年になったかは、デジカメの歴史を簡単に紹介しながら後に記そう。2012年購入カメラはニコンD800であるが、このカメラは私が何度もニコンに要望を出していたカメラとも言える。いわばオーダーメイドという感じを受けた。ニコンは勿論言うであろう。その種の要望は膨大にあり、浜田隆政さんの要望と類似だけでも山ほどありました、と。それでよいし、それが事実であろう。
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私だけが要望したものができ、ヒットでもするならば、私と他メーカーとの関係がおかしくなる。ニコンD800発売前にD600がでたが一切見向きもしなかった理由も記そう。
同時に企業戦争のすごさも紹介しよう。
この逸話ではソニーの面白い話もしよう。当時、社長になりたてであった、若い平井一夫氏も今や社長を退き会長となった(私と???の頃ソニーの株価は千円台後半程度で低迷していたが、その後誤解も解け、今や6348円2018/08/31をつけている)。ソニーとは出井伸之氏(元社長)の思い出がある。それは既に紹介済みである。
尚、要望と書いたが、昔はマウントの関係でニコンにだけ要望を出す形をとったが、キャノンの御手洗不二男氏が日経団連会長になった頃からは、カメラ全メーカへの要望的な形でだすことが多くなった。例えば、常用感度をISO200へとし始めたが、ISO100に戻すように。その理由もつけて、いくつかのカメラ専用HPへ投稿した。そして、今は大半そうなっている(ISO200からISO100に戻っている。)
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なお、この撮影に当たっては、後に記すように、やはり幾つもの障害があった。一つはレンズ問題、ストロボ誤作動問題、致命的なのは、事前に練っていた私のアイデアのメモが紛失したり、そのアイデアを催眠型で突如忘却させられたことである。
写真で一番重要なのはオリジナリティとアイデアであることは随所に記している。だが、一番重要部分を忘却させられた。
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その結果も後で記そう。ただやっとられないので、当時のアイデアで撮ったならばどうなったかの実験を、神戸南京町や大阪でそのアイデアを姪の結婚式から約5ヶ月後に行った。見事に決まった。それも十程度の技法が。だが、姪の結婚式では一つも使用できなかった。やはり、やりきれない思いは残った。
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そのアイデアの一部を後で、写真で紹介しよう。(全て、結婚式後の撮影である。)
それらも後に記そう。
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同時に、公式ブログにふさわしく、面白い話を書こう。
2013年訪韓前に徹底してカメラ器財を壊された(犯人不明)。韓国での撮影は片肺撮影となった。同時に、併行して諸事件(私のトラブルのみか、私とは無縁と思うが誤解かと思われるようなチャンソンテク事件。これは既に公開済み)が起こる。
▽http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=16824
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その後で、何者かのD800への攻撃、…やがてD600が中国上海で発売禁止命令…。この裏話をしよう。私は無関係であり、誤解だらけと、(Xの)私のカメラ攻撃(韓国での安重根記念碑撮影を嫌がった人の攻撃か、他者か不明)、その後での一部の誤解、そしてD600問題と続く。
中国の上海も2013年行っていた。(ニコンではないが)某超大手メーカーは一連の動きは私との関係?かと探りをいれてきたが、私との関係は多分違うであろうが、誤解が蔓延したことはあった可能性がたかい。
2013年訪中と2013年訪韓での出来事をまとめた、真相2013年(後に「日本のフィクサーME・パート2」に改訂予定)を併行して読めば、何か分かるかもしれない。
ニコン、ソニーレベルよりも遙かに、桁の違う大きな存在がいた可能性も零ではない。
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誤解のないように言えば、私はニコンとWinWinを希望しており、D800はよく出来たカメラである。D600でなくD800とした理由、更に、D600の問題は私とは無関係であるが、安重根撮影妨害工作か何かでD800と主要レンズをこわされたが、その余波で上海D600問題を私の件との絡みかと誰かが誤解したのであろう。
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訪中、訪韓、安重根撮影問題などかを解説せねば全貌は分からぬかもしれない。なお、このときには別のトラブルもあり、それが昨年の北朝鮮ミサイル問題から一転して米朝首脳会談へ…との絡みも一定あった可能性がある。
尚、私の訪中の際には一気にニコンの株価が急上昇(確か一気に2013年5月に3000円台となる)した話なども書けたならば書こう。
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▽撮影の経緯(2018/09/04 22:35)
撮影の経緯(2018/09/04 23:08)
姪結婚式は、姉への贈呈でもなく、姪への贈呈でもなく、母に贈呈する予定でいたことは既に述べた通りである。
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従兄弟の子と母、それも後何日生きられるか不明の高齢かつ病気の母に捧げるものを同一にせねば不平等とは聞いたことがない。
そこで、私の全てを出すのみか、超本格的に撮影する予定でいた。
だが、実際には、どの撮影でも撮影するときは常に必死である。無意識にそうなっている。
しかし、今度はアナログからデジタルへではなく、デジタルからデジタルであり、敷居は低いと思われた。
だが、このときも妨害だらけで、自分のアイデアさえ封じられた(忘却させられた)。アイデアがすべてと言っても過言ではないときが多い。そのアイデアを…。後に記そう。
頭にきて、このときのアイデアで、結婚式の5ヶ月後に撮影した写真が最後に掲載している写真である。本当は、結婚式はこのように撮る予定でいた。十種のアイデアを持ち、一つも使えなかった。今回その内、4~5つ程度紹介している。幾つかは浜田隆政オリジナル技法(特許に該当する撮影技法)である。
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常に、ネクスト(次が一番)で撮り、更に、母生存中の最後になるかもしれないということで必死であったが、後に述べる如く、脚を引っ張られ、他の結婚式撮影と(私の目からみれば)ほとんど同一となった。
否、見直すのも嫌なため見直さないが、お子様ランチオンパレードの気もした。他人がみれば良いできとか素晴らしいというであろう。だが、それはよほどのことがない限り、一定の時期以降は当たり前のことでしかない。
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目指すものはそうした領域ではない。言葉ではなく、私に職業選択の自由と人身の自由が戻れば、半年程度で即座に分かるであろう。人が知らぬ世界のため口では説明できないし、同時に、特許に該当するアイデアを他人に盗まれぬため記せない。
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こんな馬鹿な平等など聞いたことがない。(写真費用ではなく)他の従兄弟結婚式撮影器財の一部は母か姉が出していたのに。
※写真費用は前々回は眼鏡代(事実上の後の遺産繰り上げ該当)、前回は交通費を自転車で置き換え(相当遠方のH町の小父死亡時は母から交通費取り自転車で、津山市に親戚の人が入院時は母代理でタクシーなどの交通費を母が支払い自転車で見舞い…)とか衣服代などを購入せず写真費用に…などからである。
さらに、この時はデジタルデジタルであり、アナログデジタル変換より相当ずば抜けて当たり前であったのに。
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母贈呈に関する関連文書は以下(現在、準備中)
▽
母贈呈に関する関連文書は以下(現在、準備中)
▽http://h-takamasa.com/Blog-2/Archives-3/activity/343/
▽
23:37追記。書いてはいけないかもしれない言葉。
私にとっての違いは、「ありがとう」の言葉の回数のみ。否、その言葉の有無のみ。
それが私にとっての違いでしかない。
23:41
上記三行は削除を検討。削除理由は、公式ブログは政経、紀行文であり、後者も科学技術とかユーモア…を内容とするからである。
トラブルブログはトラブルを、上記三行の箇所ならばプライベートブログに該当し、仕事関係の公式ブログ(政経、紀行文等)と安らぎ文庫ブログ(私の書物紹介、教育、芸術)などの起業目的のブログに記述することは不適切だからである。
▽
23:54記述
まさかと思うが、2009年贈呈写真は、私が約一ヶ月かけてレタッチし、プリントして渡した写真を他人が撮ったりレタッチした写真置き換えて渡した?ということはあるまいが
撮った写真を全部公開すれば一目瞭然となるが、肖像権・プライバシー権から公開できない所をついて、…
▽
▽
2018/09/08 19:14
撮影に限らず、天性の仕事(プレゼンテーションに関する事項)については必死で行う。
同時に、手抜きは浜田隆政ブランドに傷つくため一切できない。
よって、費用を抑えるには手抜きではなく、範囲を狭めることだけである。例えば、五つのシーン撮影ならば一つのシーンに集中し、後四つは一切撮らない。(例えば花束贈呈だけとし後は一切撮らないなどの方式が望ましい。まんべんなくは、全体の質劣化か、逆に途方もないコストがかかるからである)
画家ルオーではないが、プライド問題もある。
▽
前回(2009年)と今回(2012年)に関しては、原本に私が撮ったものでないものが入っている可能性があった。前回などはオートフォーカスロックを知らない人が撮っているのでは、…その他様々な疑問があった。
更に、前回も、今回も赤目があった。
前回(2009年)はF5(当時世界№1に近いニコンのプロ用カメラ。バッテリー含めて本体のみで1.5キロある)とF90Xというカメラで、ストロボが(当時のニコン最高峰)SB-28である。すると、この機種で外付けストロボ使用では赤目にはならないはずである。同じ機種の組み合わせで、2005年結婚式は当然赤目など一枚もない。
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今回(2012年)はD800及びD90とSB-700や(故障気味であったが一部使用したかもしれない)SB28の組合せのため、設定ミスがあれば赤目になるかもしれないが?(不明)、きっちり設定していれば赤目にはならない可能性が高い。
ただし、D800とSB-700の組合せで2017年お初天神の祭り撮影で赤めがでており驚いたことがある。理由は今後解明予定でいる。
(尚、内蔵ストロボはF5やF90Xにはついていない。本来プロ用カメラには内蔵ストロボはつかないのが常識であったが。値段ではなく格で言えば、F90XやF100がD800に該当し、F5はもう一つ格上のD5などのD一桁器に該当する。よって2012年は一部内蔵ストロボ使用したかもしれないが、2005年と2009年はF90XとF5のため内蔵ストロボがついておらず、全てプロ用外付けストロボだけとなる。
過去、この組合せで赤目は一度もでたことはない。
2012年はD90とD800で共に内蔵ストロボがついているが、原則として、一台はSB-700と、一台はストロボ抜きのISO800撮影のはずである)
▽
一般にプロ及びハイアマチャ用カメラとプロ及びハイアマチャ用外付けストロボの組合せでは設定ミスをしない限り、赤目はまずおこらない。1995年から2000年という初期の頃ですら、F90Xと(SB-28より格下、ガイドナンバーが少し落ちる)SB-27ですら赤目をだしたことはない。それ以降も、2009年の結婚式撮影まで赤目をだしたことは一切ない。
勿論、F401Xの内蔵ストロボなどは赤目となって当たり前である。F5、F90XとSB-27やSB-28の組合せの話である。
▽
{2005年と2009年結婚式がF5とF90X、2012年がD800と(中古の)D90。ストロボが前者がSB-28、後者がSB-700。いずれも格では2005年と09年が上。ピント精度などは今でも多分F5がD800よりも上と思う。特に被写体の色が灰色や黄色のときはF5の方が精度が今でも高いはず。再度言えばF5はD一桁器(トップ機種)に該当、F90XやF100がD二桁器に該当。(トップ機種)SB-28は今のSB900番台に該当。ではトップ機種を何故買わないかは金欠のため、同時にデジタル化し、価格が大きく上がったため。トップ機種は数倍となった。}
▽
前回(2009年)も今回(2012年)も赤目の写真がかなりあり首をかしげたことを覚えている。勿論2005年結婚式撮影などは赤目は、ストロボ使用しても、最初から一枚もない。それ以前に母や恩師を撮影したときも赤目は一枚もない。
2009年と2012年の赤目はいずれも、レタッチで修正した。
もし、修正できぬ場合にはプライド上相手に渡さない。
万一、2009年や2012年の写真に赤目が一枚でもあれば、撮影のみか、私がレタッチやプリントアウトすらしていない、全く赤の他人がレタッチやプリントした写真である。
▽
ちなみに、2012年の写真はレタッチのオートでは赤目解消が無理というか不自然であったため、姪の旦那さんの目を真っ白に塗りつぶして、私が絵で目を描いた。おそらく、誰がみてもどの写真が分からないであろう。姪の方も気になるのがあったが、拡大し分析した結果、とうも姪は色のついたコンタクトレンズをしている可能性が高く、万一茶色系統のコンタクトならば補正は逆効果となるため、大半そのままとした。
旦那さんの方は相当赤目となっており、自動補正も幾つか、白で塗りつぶした後で、黒と茶などを使い、私が描いたのも相当ある。
2009年も赤目が何枚か、若しくは何枚もありレタッチで修復した覚えがある。
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2009年と2012年の写真は誰が撮ったかは不明のものが幾つか(もしくは相当)あり、他人が撮ったものを浜田隆政ブランドとされると信用ががた落ちとなるのみか、将来のビジネスに多大な損失を被ることになる。
まず、他人が撮ったものが入っていたとしか分析できない。
同時に、2009年は手渡した後ですら、入替えがあったかもしれない。理由は渡した相手の対応が余りに不自然だからである。
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それ以上に、カメラはプレゼンテーション全体の道具の一つとして開始し、仕事道具である。仕事以外で使用せざるを得ないのみか、終わった後でこうした文書を書いていると、将来は真っ暗である。
実際に、この文書を掲載し始めて、公式ブログの政経関連のコメントは一切できない。部屋の後片付けも8月15日から完全ストップである。
こんな文書を書いている限り、全く仕事にならない。この文書記述頃からHPへのアクセス数も激減となった。これでは仕事にならない。
この文書は後一~二回でうち切り予定でいる。
場合によれば清書せず、下書きのまま放置するかもしれない。
人生後がないときに、時間のロス以上のものである。
▽
なお、再度言えば、撮影費用や印刷費用は一円ももらっていないし、請求もしていない。勿論もらう気もない。同時に、撮るときは、浜田隆政ブランドの関係で必死である。ブランドがかかっている。
もっとも、姉からは母の遺産関連で私の方へ…である。
だが、それでは少し長生きをすれば、平均寿命より相当前に枯渇する。よって、新仕事準備が不可欠である。
▽
こうした公私混同を避けるため、母死亡後に、即座に有限会社組織にして、仕事をしようかと何度も考えた。しかし、諸妨害が予想され、有限会社設立手続を断念した経緯がある。同様に、諸妨害が予想されたため、HPのレンタルサーバーも、一社でよいものを二社とした経緯がある。実際に、2015年にハッカー攻撃らしき被害があった。
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ともかく、公私混同による被害を懸念し、有限会社にすべきであったが、それができなかったことが余りに多くのドタバタ劇に巻き込まれる要因となった。
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ちなみに、ビジネスやお金が絡むときの法律や常識上の事項は以下である。赤子でも知っているが記述しておこう。
①代価は先に明示し、その代価を見て、契約を行う。ケネディ大統領の消費者の四つの権利を参照に日本でも消費者関連立法などで明示されているはずである。勿論、消費者の知る権利の一つである。
(幾らか不明です。あけてびっくり玉手箱は百パーセント顧客の利益となる福袋以外は不可能である。)
不明な場合には見積単価を明示するのも常識である。
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②代価・御礼などは、(親などではなく)直接本人に直(じか)に支払う若しくは渡す。(賃金の場合には労基法条の中間搾取排除の原則参照。労基法6条、ついでに労基法5条と労基法24条、労基法59条等)幼児ならばともかく、それ以外は、親ではなく、直に本人に支払うか渡す。
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③契約は双方、冷静な下で取り交わす。催眠商法、デート商法などは違法である。まして、催眠商法ではなく、催眠類をつかっていればこれは人身売買となり、懲役などの刑事犯罪である。
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以上、常識のみならず、日本の法律に則して三点指摘しておいた。
赤子集団の如(ごと)くドタバタ劇に、人生残りわずかになり、これ以上付き合わされるのは御免である。
プレゼンテーションを生業(なりわい)としており、あるいは再度それで復帰を目指しており、カメラやパソコン、プリンター、HP運営などはそのための重要な手段・器財・武器である。
プロレスラーの言うが如く「親でもリング(仕事場)にあがれば殺す」(人の仕事場や仕事に入ってくるな)を何度も後に独り言で言い続けた。
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なおデジタル入力・デジタル出力は2012年からに等しい。ではそれまで何故、アナログ・デジタル出力に固執した理由を簡単に以下記そう(と言っても、デジタルカメラの簡易版は中古ですら2010年頃までもっていない。D800からであるが、何故それまで…。金の関係と言えばそこまでであるが、科学の発達段階問題もあり…)。
その後で2012年の撮影妨害の件を記そう。
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私自身は、2009年はAなどが撮り、2012年はBさん等が撮り、それをレタッチやプリントアウトで私をこき使ったという疑惑を当時何度も持っていた。だが、2005年の誤解の件を含めて全て私の自腹であり、同時に私が撮ったのも紛れている可能性もあり、浜田隆政ブランドの関係で手抜きはしていない。
もっとも、確実に私が撮ったのではないと断言に近くできるものもあったが…。
完璧に私に分かることは、母贈呈用写真(姪結婚式写真)の数枚は、私が描いた(姪の旦那さんなどの)目、即ち(写真ではなく)私の絵が混じっているということだけである。(万一、目の黒と茶の部分を逆にしたのがあれば、探せば分かるであろう。絵の内、一枚だけ、目を描くときに逆をした覚えがあるが、再度修正したかもしれないため定かではない。かなり大きな目であったが、通常は写真との区別はできないであろう。絵風でなく、写真そっくりに描いたため。)
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(2018/09/14追記 その上、2009年撮影時には念には念を入れストロボキャップを持参していたし、実際に使用してもいる。また2009年使用カメラF90Xには赤目対策用ボタンがせっちされてもおり、D5500とは仕様が異なる。またD800ではモデリング発光をオンとしているが、D5500にはその機能はないかもしれない。F5、F90XとSB-28等では赤目軽減発光があったはずであるし、同時にストロボには通常蓋をしている。その上でストロボキャップを2009年は持参していた。SB-700では通常茶色のキャップをストロボに常時してもいる。その上で必要時にはストロボキャップとなる。バウンド撮影は天井の色がつききたなくなるため1996年以降はしない。1994~95年にはバウンド撮影実験を台所などでした結果、使用しない方針とした。ストロボキャップの方が良いと分析。2009年はストロボ蓋とストロボキャップ持参である。その上で当時の仕様では赤目低減発光機能があったはずである。)
●2018/09/13 東京二日目のレタッチを中止させられ、突如催眠誘導で記述 13時頃~17時40分
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結論から記せば、2009年撮影は(ニコンフィルムカメラ・世界最高峰の)F5とF90Xで撮影、ストロボは(当時のニコン最高峰)SB-28であり、それで赤目が幾つも出た以上、他人撮影のものである。(勿論、その赤目は私がレタッチですべて修復した。万一、贈呈品に赤目が一枚でもあれば、レタッチすら私がしたものではないとなる。)
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さらに、2005年と異なり、AF-50 (f1.4)Dを使用しており、F5との組み合わせでは最高パフォーマンス(オートフォーカススピエードやピント精度等々)、若しくは最高画質を提供できるものであった。このレンズは2005年撮影時は購入しておらず、また2012年撮影のD800との相性は良くない。このレンズは荒馬型名レンズであり、使い手とカメラ機種を選び、誰が使っても良い結果はでることはない。下手な人が使えば、中古で2千円とか新品で一万前後のレンズよりも悪い結果がでるという荒馬である。
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この最高の組み合わせで、当然、オートフォーカスロック前提で撮影が、オートフォーカスロックが全く効いていない。オートフォーカスロックという初歩的技術を知らぬ人か、若しくは撮影中のカメラをリモートコントロール(コンテニュウアスモードなどに遠隔操作で変更、私はコンティニュアスにはしていないがを)したか、それともバッテリー(乾電池)を問題のある乾電池に置き換えら得たか…のいずれかであろう。通常はありえないし、数日前にF90XやD800で実験した。きっちりとオートフォーカスロックは効いていた。
念のためF5で今から実験する。
本日の結果、きっちりとオートフォーカスロックは効いている。ファインダー上完璧に効いた。ファインダーと同様にフィルムカメラは写る。
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バッテリー(乾電池)は撮影前日に消費期限充分な物と入れ替え、更に、残量不足ならば残量がF5やF90ではモニター上にでる。だが、当時でていない。
AF-50(1.4)D(売値約3万円)の荒馬ぶりについての解説はA4用紙一枚以上となるため、今回は略す。私は乗りこなせる。DX O Markではスコア37(D800E時)である。(D800では32、D70では13、D90では19…カメラを選ぶ。それ以上に使い手を選ぶ)。
約30万円するAF-S 24-70(f2.8) VR(メーカー希望価格28万7千5百、平均価格25万、最安値でも軽く20万円以上、高値で30万円以上。当然、金欠の私は未購入)をD800Eで使用すればDX-O Markは29(D800で26、D90で16)である。数値が高いほど良いと言われている。
単焦点のため、50mmだけであるが、50mmに限定すれば、この焦点域のニコン最高峰のズームレンズを上回る。ただし、このレンズは使い手とカメラの両方を選ぶ。下手な人が知らずに使えば、二束三文のレンズに変化する。
2009年はレンズと一番マッチするF5の組み合わせであり、50㎜周辺の画角では、一部の特殊なもの(ニコンならば生産中止のノクトー58 f1.2s等)を除けば世界最高峰の組み合わせと言っても過言ではない。
このレンズについて記すと、相当な字数となるため略す。ニコンの職員の大半も知らぬ次元となる。このレンズの評価でOX Markの数値がでた時、カメラに詳しい人やプロカメラマンの相当数が高い数値に驚いた。私は私の評価とどんぴしゃりとだけ言った。解説の一部はそうしたレベルの域となる。
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☆何度も言うが、仕事に、赤の他人は口を出すなとなる。さらに、どうしても質問したいことは文書で、新免元市議会議員を通じて問い合わせよとなる。
「そんなのいや、文書でかくと、聞きたいこと全部記すと、メモ、下書き、修正の繰り返し、清書…で一週間かかるわ」では、一週間かけて努力しても聞きたくないならば聞くなとなる。思いつくまま聞かれ、こちらは催眠で文書書かされ、もう一ヶ月以上となる。一週間ではない。さらに、その間、起業目当てで開始したHPは事実上ストップとなっている。大被害である。
回答はときにはやぶさかではないが、聞くための努力抜きの安易な質問には辟易となる。聞くためには、問題を精査し、一週間くらいかけて質問を整理して、文書で聞いてほしいとなる。新免氏にも伝えておくので、文書で正式に聞き、記録は双方残すことが誰にとっても良いとなる。回答内容に専門性が高い以上、無料贈呈の場合には、それがエチケットである。
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(以下架空の会話問答)
次に文書となると矛盾が多い。
「どうして撮ったのだろう」「あなたが撮ってと言った」
「どうして一杯撮るのだろう」「あなたが一杯撮ってと言った」
「どうして一杯撮らないのだろう」「あなたはなんで一杯撮ったと結婚式前日頃に怪訝な顔で言ったのと矛盾…。次に、それ以上は撮影妨害を▽▽のみか、あなた自身がしたため、撮るのを妨害された。戦犯の一人があなた自身である」
「ここで、どうしてこう撮ったの」「(時には)オリジナリティ追求で企業秘密。それ以外は、正式に聞かれれば回答しましょう。ただ言えることは、誰とも、同じ被写体を同じ角度で撮ることはハイアマチャや作品型プロカメラマンは嫌います。理由も聞かれたら面倒でも教えましょう。
それらを含めて、町の写真屋さんに相談し、依頼することが望ましいです。町の写真屋さんも、作品となると別人(作品型プロカメラマン)に変身しますが、それ以外はお客さんの要望と予算を天秤に仕事をされます。そこで、自分の思った通りの場合には町の写真屋さんを推奨。
どの世界でも同じである。落語家家に、お客さんが、こう話せばおもしろいですよ、と言われ、有り難いと思うか否か。人が知らない世界を…するものである。」
……
文書で双方記せば、真偽は明白になるであろう。立会人新免氏に伝えておくので、以降は正式文書で問い合わせ願いたい。返答する必要があれば誠意をもって誠実に事実に即して回答をする。
「時間をかけて質問を整理するの、いや」では話にならない。聞く方も真剣に聞けとなる。(なお、私の重要文書はオバマ前大統領、韓国大統領、ドイツ首相、カナダ首相…世界の首脳のみか、世界の君主の一部や、ときにはローマ法王ですら注目するときがある。そうした貴重な文書を書けるときに、質問者が質問の努力をせずに、いくつかの質問の間に矛盾があることを思いのまま聞かれたならば、誰にとってもよくない。まず、質問のための努力をすることを願う。メモ→下書き→修正→吟味→矛盾のチェック→文書の乱れの修正→清書…と。私がソフトで一部マイクロソフトを使っていれば、ゲイツさんと言えば、ビルゲイツは見る確率は相当高い。)
本来は、写真贈呈が無料である以上、質問者の側が質問に矛盾がないように文書を精査し、相手に分かり易いように努力し、時間をかけて質問を文書で書いて、私の側は超多忙かつ無料のため、口頭で適切に回答するのが筋である。逆になっている、
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作品の質問題に関しては、厳密に法解釈すれば、あるいはアメリカならば、浜田隆政ブランド損失被害で損害賠償を、私の側から起こせるケースと言っても過言ではない。親戚かつ、私に自由がないからしないだけの話である。
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作品ブランドを守るためには、一枚も撮らないか、撮るなら必死かしかない。同時に多くのミスがあれば、画家ルオーではないが、一定の時期に消却(ルオーは売った客から買い戻し、風呂で燃やした)することが望ましい。
もっとも、初期の頃は例外である。平山郁夫画伯ですら、彼が小学校の頃描いた絵は彼のブランドをきづ付けることはない。だが、一定の時期からは失敗作をどう考えるかは人次第であるが、私はルオータイプで、一定の時期からは他人には渡さない。分析用に保管し、他人に一切見せないか、消却かが望ましいと思う。
同時に、文書に挿入する上では教科書的写真も掲載する。その場合には作品ではないため、作品ブランドとは異なり、オリジナリティなどはさほど強調されない物もある。しかし、それでも、最低減のレベルは必要となり、赤目などは当然門前払いかつ、こうしたレベルでもブランドを落とす。勿論、教科書型記録には、書籍以外では、静止画よりも、デジタルビデオなどの動画の方が効果はあると思う(声まで入ることもある)。だから、結婚式などは、私の真似をせずに、デジタル動画で撮影することが、本人のためである。
私を意識しすぎたためのミスである。
(同時に、作品指向型カメラマンは、通常は、まんべんなくではなく一枚のみずば抜けたものを追及するし、その習慣が体ににじみこんでもいる。一枚、作品になるものがあれば、成功である。一枚もなく、お子様ランチのオンパレードではお終いである。だから一般の人の要望では動画が望ましい。私を意識しすぎるから本末転倒となるのである。)
動画編集は大変と言っても、静止画でも、私などは同様に大変である。
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万一、遠い将来、私の名が裏と表で一致し、写真がよくなくても、浜田隆政の写真ということでプレミアなどがつくと、それが似せ物(他人撮影物)ならば死んでも死にきれない。万一、他人撮影の中に、私の撮影のも紛れていても、器財故障原因の写真、あるいはフィルムの材質に異変があるものは、この世に存在してはならない。私だけが、反省のための分析用に使用するのみとしたい。分析がすめば、日記代わりでも、消却を検討するであろう。ただ、初期の初期は許される場合があるかもしれない。ピカソならばピカソが幼稚園のときに描いた絵など。
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2005年頃からは、私の裏の知名度のみか、表でもその分野では一定の知名度があり、写真がプレゼンテーションの一部である以上、下手な写真を公開することは(あるいはどう処理するか不明の他人に渡すことは)、起業する上でも、大手予備校・大学などの教壇に立つ上でも、セールスポイントが大きく減少する以上、営業、就職活動に大きな支障を来す。
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2005年は、裏では小泉純一郎氏などに幾つか相談を受けた。あるいは筑紫哲也氏などから世界の著名人を紹介され…と…である。盧武鉉大統領などもいた。ソニーの出井さんなども同様である。詳細は、拙著『日本のフィクサーME』(Kindle、Kobo各百円発売中)参照。
表の世界でも、ニコンなどではすでに私の名前と顔を知っている。年賀状をやりとりしていた職員もいた。
本への挿入写真と言えば、彼ら・彼女らが注目しており、プレゼンテーション全体の浜田隆政ブランドの一つとなっていた。
ただ、2005年はデジタルの限界があり、その限界の下でのアナログ・デジタル転換と市販の顔料プリンターでの自己出力となれば、私のブランドは保たれているはずである。科学の歴史を振り返れば分かるであろう。
再度、後で当時のデジタル状況を振り返ろう。映画『風と共に去りぬ』(1939年)、映画『オズの魔法使い』(1939年)などは当時の科学の限界及び戦争を考えれば凄い映像美となる。今の科学で見ても当時の苦労は分かりません。同様のことが2005年結婚式アナログ入力・デジタル変換・自分の顔料デジタルプリントである。
しかも、暗いレンズオンリー、フィルムカメラでポジISO100中心、三脚使用せず、ストロボも重要場面では使用せず…を考えれば、通常不可能と思われることをした。もっとも、アンダーすぎ、暗すぎ、アナログ・アナログでは救済は無理な写真でも、アナログ・デジタル転換だから、大昔の写真復元型でできた物が相当あった。
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2009年頃は、裏の世界では民主党政権と中国の間に入る前くらいである。この頃は国内のみか世界的な注目が開始されだす。
表の世界では、プレゼンテーションの世界で生きるべく、自分での起業のための作品作製及び、写真などを含むプレゼンテーションを売り物として、大学教授などの公募に連続応募していた時期である。
このときに、私の撮影妨害や、私が撮ったのではない写真を私の写真と言われれば、採用か不採用かがかかっていたとも言える時期である。少なくとも起業の方はお陀仏である。
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なお、この頃の写真作品が注目されていないのは、我が家への監禁下で我が家界隈を催眠型で撮らされたものが多く、それらはプライバシー権などで公開できないからである。同時に、インタネット類をしていなかったからである。
だが、浜田隆政オリジナル技法の相当数がもうこの頃から完成していた。神戸ルミナリエの2010年版などがそうである。
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この頃に、撮影妨害を受け、おかしな写真を撮らされたり、他人が撮った写真を私の写真などと言われたりすることは、私の前途をお陀仏にされることを意味していた。損害賠償に値する事項である。
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表の世界でのニコンなどとの関係は(キャノン創業家の一人)御手洗冨士夫氏が第二代経団連会長(2006年~2010年)になった時点で、ニコンとは距離を置き、カメラ業界全体との付き合いという形とした。裏のフィクサー的な役割をおしつけられたことの被害である。キャノンとニコンなどの競争は、自民党と民主党(若しくは立憲民主党)の争いとは比較にならぬ、ある意味では死闘なのである。だから日本のカメラ業界が世界を席巻したのである。今、少し後退気味なのは、昔ほど両社が戦わなくなったからかもしれない?両者のイメージを悪くしない範囲で、業界の死闘話をいつかしよう。
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経済は政治家の如く甘くはない。政治家のぼっちゃん連中の目も覚めるであろう。こうした形で鍛えられつつあった私も、作品妨害などには大変怒る。仕事・経済の世界では、再度言えば、本来は「リンクに上がれば親でも殺す」が本道である。ましてや、様々な手段でブランドを壊されればアメリカならば訴訟となっていよう。
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この頃は平山画伯(1930年6月15日 – 2009年12月2日)と対談後であり、画伯も生きておられ、更に、北村西望(長崎平和祈念像・世界連邦平和像作者)の子孫などもおられ、(幾ら表に出さなくても、裏で)彼ら・彼女らが注目するかもしれず、撮影妨害は営業妨害、ブランド損失危害のみか、私の名誉を著しく傷つける大犯罪である。
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2012年は裏の世界では、日本のフィクサーから世界のフィクサーになりつつあった可能性が零ではない。そのくらいに影響力があるときもあった。ただし、世界のフィクサーは物騒なため、固くご遠慮としたいし、実際にそうなっていると思う。
同時に、母死亡翌年の2013年から本格的に起業を開始した。公私を分けるため、有限会社組織にすることを本格的に考えだしたのも、この頃である。
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表の世界でも、実は、かなり注目を浴びつつある。企業秘密で記述できないが、美作市や同市長よりは、もはや、表の世界でも、私の知名度の方が世界のみか国内でも高い可能性がある。裏の世界の関係で、敢えて、全員が知らぬ振りをしているだけである。
音楽のみか、写真作品に、私の技法の一部が見られだしたことに反映している。また、表の世界で、私の偽者(Takamasa Hamada)が一日でインタネットに十二万の掲載をしたこともある。更に、漢字で同一同名の浜田隆政が、私の著作と同一日に本を出版したり…である。
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そして、この頃は起業一本、それも写真を含むプレゼンテーションであり、写真でも、私のブランドは更に重要となっている。
2012年撮影にも、かなり、私撮影ではない写真が入っている疑惑があり、ブランド低下を恐れ、同年撮影アルバムも浜田隆政撮影の文字を消去したいと本気で思っている。ブランドをつくるのは大変であるが、壊れるのは早い。
2009年・12年は浜田隆政撮影を共に消去したいと願っている。
2012年は浜田隆政レタッチ・プリントアウトである。2009年は私がプリントアウトやレタッチししたのでもない写真が入っていることを疑っている。
万一、赤目などのプリントがあれば、それは撮影のみか、レッタッチやプリントアウトすら私がしたものではない。裏の線は、当時のプリンターでは一度でると、完全に消えるには数週間かかるため、やむを得ずである。表に線や汚れがあれば、絶対に渡さない。裏は額縁にいれても、アルバムにはっても見えない。
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その他妨害が多数あっった。2012年も妨害が多数あった。
レンズ選び問題のみか、事実上標準レンズ抜きで撮影した問題。超広角と望遠ズーム中心。更にマクロレンズ105㎜が手ぶれ防止付きで、遠方撮影でも1/180でも手ぶれとか、ストロボの誤作動とか、何よりもアイデアを突如忘却させられたという問題があった。
なお、2005年は撮影予定がなかったため、アイデアは事前に考えていないという大問題があった。
▽
2012年11月姪結婚式撮影後には、国際問題にカメラが絡められた問題が生じてくる。それは別原稿で記そう。具体的には、私の安重根記念撮影妨害と、そこからいくつかの誤解が生じて、上海でのニコンD600販売中止命令…という問題疑惑である。これは勘違いと誤解が生み出したものである。ニコン始めカメラ・レンズ業界とは共存共栄の運命にある。それだけにもはや誤解はほとんど溶けたが念押しでいつか知っている範囲で記述をしよう。
訪韓の際には、韓国政府のみか、日本政府の過敏反応、アメリカのこっそりと、北朝鮮の反応、当然中国も注目していた。なお、中国の安重根記念館は、結果として私の訪韓にあわせて、作成が決まり、できたという逸話なども紹介しよう(現在は撤去)。
こうした中で、他人から見ればたかだか写真でも、世界的注目を浴びるときもある。世界の歌・今月の歌シリーズの注目とは比較にならぬ注目をされるときもある。
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そうした中での撮影妨害や、他人撮影との入替は、該当者が思っている以上に大犯罪かつ、様々な問題を生み出す。少なくとも、私の起業や書籍販売の大妨害である。被害者はあらゆる意味で私であった。経済的意味でも、国際的意味でも、彼ら・彼女らが思っている以上の大被害を受けたのは、無料かつ、大労働を提供させられた私自身である。追々(おいおい)と、彼ら・彼女らはその意味が分かるであろう。
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2009年と2012年の相違は、2012年はデジタル・デジタルに対して2009年はアナログ・デジタル転換であり、後者は写される側自体が一部撮影妨害をしていた疑いがある(例えば、私のトイレ中を狙い…)。2012年はそれはなかった。撮るときは必死といっても、これではリズムが狂う。それ以上に、撮らなくて良いならば撮影中止しようかとの迷いが生じる。
一般の結婚式などは、肖像権・プライバシー権の関係で、HPや本での使用はできない。
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本日(2018/09/13)、次のようなニュースが掲載されていた。
☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆
平山郁夫さん未公開作10点確認 千葉・柏、来年2月公開へ
https://mainichi.jp/articles/20180913/k00/00m/040/075000c
【浜田隆政コメント】これは収録漏れであろうか、平山画伯が考えて失敗作で、自分の日記若しくは分析用に保存し、他人に見せたくないので隠していたということはあるまいか。
☆☆☆☆☆☆
☆☆☆☆☆☆
TVでの対話―3・平山画伯の思い出と「お~い、あれが宿禰(すくね)島だ」を作品化決定。
▽http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=964
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デジタルカメラに2012年まで踏み切らなかった理由は後で記そう。金欠のみか、科学の限界の話である。
忘れぬ内に記そう。
私はカメラマンではない。写真も含む代プレゼンテーションを生業として起業を常に考えている。カメラマンではないが、もし、長崎平和祈念像・世界連邦平和像制作者北村西望氏が生きており、私が撮った世界連邦平和像の写真を、北村氏が金を出して購入したいと言ったとき、世界連邦平和像撮影は成功したと思っている。
同時に、世界の写真博物館類が、金を出して、私の写真を購入したいと言ったときに、幾つかの写真は本物の作品になったと考えている。
それ以上に、私の世界連邦平和像などの写真の幾つかを中心に、世界のリーダー達が世界統一軍を持つ世界連邦や強力な常設国連軍設置に踏み切れば、プレゼンテーションは大成功したとなるであろう。
もはや資金は枯渇してきた。もし、…の妨害がなかったり、こうした文書を書かずにすめば、写真を含む大プレゼンテーション作成に没頭できたのであるが。
妨害者たちのみか、関わった人たちとは考えの次元が幾つも違っている。追々(おいおい)それらも分かるであろう。
▽
2018/09/14 4:35記述
(2)デジタルからデジタルへ
デジタルについては、アナログよりも、私は詳しい。
しかし、デジタルは進化途中では、故障しなくても、三年単位で買換えが必要となる。そこで長期金欠下にある私は次の二点を満たすまで購入はできなく、その器財がでるのを待つしかなかった。
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プロ用のフィルムでは35㎜ですら、フィルムスキャナーがしっかりしていれば、五千万画素から一億画素まで行く可能性があった。現実問題として、私が後に所有したCoolScanⅤEDでは、大体2000万画素に匹敵する画像の実現が可能であった。そこで、2000万画素、最低でも1800万画素以上のカメラを待つことにした。
金があればデジカメを連続購入できればそうするが、金がない以上待つこととした。待つこと実に13年であった。義兄がデジカメD70などを購入してもよそ見もしなかった。13年待つのはやはり長かったことは長かった。
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アナログデジタル転換では、パソコン関連でメモリ、CPUなどで高くつくが、画素絶対優先では、F5をメインとして、以下二点が出るまで待つ方針とした。
更にフィルム式カメラF5は大変よくできたカメラで、仕様一覧では分からないオートフォカスのスピードや精度、さらにはピント精度がすばらしかった。その上、耐水性、砂ボコりに対する作りなどが大変しっかりしていた。また重量が乾電池をいれると1.5キロ、抜きでも1.2キロ以上あり、手ぶれがしにくいカメラでもあった。
このカメラをつかっているときには、いろいろな所でカメラマンがやってきて、私に言ったことがある。「ダンベルをやれ」と。
価格ドットコムなどで、F5やズームf2.8シリーズ何本か所有などと気軽に書いているが、腕力の方が大丈夫なのかと不思議に思ったことがある。
本題に戻る。なけなしの金で買うと即決できるデジカメの条件は以下であった。
▽
▽
条件は
①FXフォーマット
②画素数は1800万画素以上
③常用感度はISO 100若しくはそれ以下から
④作品可能なレベルでの高感度対応
⑤多重露出が可能
⑥価格はF5以下
(当初ニコンへの要望は更に)
下記を記していた
⑦カメラ本体に手ぶれ防止を
⑧その他。ピント精度、オートフォーカスのスピード、操作性
▽
それまでは、アナログからデジタル変換の道を選んだ。
最初はプロ用フラットスキャナーでのフィルム入力であったが、やはり、私の目では限界があった。
可能となったのはCoolScanⅤが発売されてからであった。
だがアナログデジタル変換はパソコンのCPUとRamが重要である。必要十分な容量が適切な価格で購入できるには更に年月がかかった。
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2005年撮影時
さて、先のプライベート撮影との関連でデジカメの推移を記そう。
D2X(2005年2月25日発売、DXフォーマット)がでるが、DXフォーマットの上に、画素数は1240万画素であり、更に価格は60万円を超えていた。当然無理である。
下位機種のD100(2002年6月22日発売、DXフォーマット)もあったが、画素数は610万画素、価格は30万円程度である。当然無視である。
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義兄が所有していたD70というカメラが2004年に発売されるが、センサーはCCDで、画素数が600万画素である。フィルムでアナログデジタル転換では、8bit、Tiffで62MBであるが、600万画素ならばtiff現像で15~18MB程度であろう。これでは話にならない。引き延ばしてもA4サイズであろう。フィルムの方はしっかりとればアナログアナログ仕上げでA2サイズまで可能である。アナログデジタル転換でもA3ノビまで完全に可能であった。その上、D70はメーカー希望価格15万円である。当然無視であった。
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2009年撮影時。
D700(2008年7月25日発売、FXフォーマット)が2008年に出るが、画素数が1287万画素(総画素)/1210万画素(有効画素)で、FXフォーマットであり、最後の勝負で購入するかどうか迷った。しかし、研究に研究を重ねると、作品レベルでの高感度対応が気になった。
途中でD90の中古をポイントバックを引けば三万円台で2010年頃購入して実験したが、私の目でみて高感度対応はISO200までであった。ISO400でも一応写るがカラーバランスの乱れが気になった。
要するに、よくできたカメラであるが、作品レベルではISO200から開始し、ISO200までのカメラであった。D700も同様と分析した。
黙って待つ訳はなく、ニコンに要望し続けた。そして、ほとんど私の要望通りのカメラがD800であった。もっとも、D3X(2008年12月19日発売、FXフォーマット)は私の要望(画素数2450万画素、私が分析した範囲でISO400は十分作品になるし、ISO800も条件次第では作品になる)を大半満たしていたが価格が90万円台であった。
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そして、ついに待ちに待ったカメラD800(2012年3月22日発売、FXフォーマット)が登場する。待つこと、13年目であった。しかも、このカメラは私がニコンに要望し続けていた条件を完全に満たしていた。もっとも画素数は、私の条件以上であった。他方、カメラ本体への手ぶれ防止はニコンの路線ではレンズ側となっており、それは無理であった。(カメラ本体の手ぶれ防止は、本年・2018年のZ6とZ7で実現されたが。)
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このカメラ情報は2011年夏には入っていた。更なる情報で、もう間違いないと分析したが、念のため、発売された後で使用者の情報を入手するまで待つことにした。だが、私の目にかなうとは多くのユーザーの目にかない、売れに売れ、在庫不足、生産が追いつかないの表示続き、価格も一年以上下がらなかった。
そして、消費者情報を得ても問題なし、さらに、ニコンサーブスステーションに行き、D800とD800Eの両方を私が持参したSDカードを装着し写し、その画像を家で徹底分析した。結果は完全にOKであった。
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金欠のとき、失敗は許されない。安くても安物買いの銭失いは当然買い直しできないため絶対にしてはならない。高くて、問題があれば更に大問題である。いわば、私の人生を懸ける形での買物であった。
まず、SSの窓口要望、手紙で要望、Mailで要望、それも具体的内容を記入して。そしてできた。次に特許の関係などで海外で先に情報が漏れるため、発売案内の半年前からこのカメラの情報入手しOK。更に、発売予告から発売日までの情報入手でOK。次に発売後の消費者の反応でOK。専門誌の情報でOK。最後の詰めが実際にニコンSSで借りて自分のSDカードに画像を保存して、丁寧なパソコンでのチェックでOK。
こうして絶対に失敗をしない形で購入したのがD800であった。36.3メガピクセル24×35.9mmCMOSセンサーを採用、私の目でみてISO800まで作品可能であった。当時とすればまさに驚異的数値であった。
ただし、ピント精度などではフィルムカメラF5に劣る場合がある。特に、灰色の被写体などではピント外れが、フィルム式カメラF5に比べると相当落ちていた。逆に言えば、F5が相当よくできたカメラということでもある。格から言えば、D一桁機に該当するのだから当然とも言えるが。D800(約1キロ)の重量もF5(約1.5キロ)の2/3の重さであるため、致し方ないかもしれない。
もし、(ニコン・ソニー・キャノン等の)フィルムスキャナーが進化し続け、16bit 300MBTiff入力か8bit 150MBTiff入力とか、あるいはその倍の入力可能ならば、F5は未(いま)だに現役で使用していたであろう。デジタルが上の場合もあるが、一部の夕日などではベルビアISO 50でケンコーのレッドインハンサーなどとの組合せでは、デジタルではまだ無理な色がだせることもある。
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D800を購入直前の2013年9月にはD600というカメラも登場したが、海のものとも山のものとも不明でD800とした。情報量から言って危険すぎた。
このD600(2012年9月27日発売、FXフォーマット)については、ソニー、中国…と逸話がある。それらも後で記そう。逸話とは中国政府か、誰かが勘違いをしたのである。
その話は訪中、訪韓時の政治的問題と重なるため、別の箇所で、政治を中心に、経済界の動きも少し踏まえながら後日記す。
相当生々しい話と同時に驚くような話である。
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ウィキペディアには次の記述がある。
「発売後、黒い粒が吹き出るという不具合が多数報告されたため、改良版のD610が発売される。しかし、D600ユーザーからの苦情は止まらず、ニコンの対応も後手後手に回る。
2014年2月には、アメリカ合衆国では集団訴訟を起こされ、結局この問題に対しては、無償で無期限の保証を行うことになった。事実上、製品の欠陥を認めた形ではあるが、リコールは行っていない。
しかしながら、2014年3月15日の世界消費者権利デーには、中華人民共和国の国営放送である中国中央電視台で暴露され(3・15晩会)、中華人民共和国政府より回収命令が出され、中華人民共和国での販売停止に追い込まれる。
なお、黒い粒が出る現象が起きていない機種でも、サービスセンターに持って行けば、メーカー保証期間外でも、無償で改良を施してもらえる」
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D800にしておいて良かったと、後で再度思った。
この騒動の最中に巻き込まれたり、中国の回収命令…騒動に、私が関係させられたりした可能性が高い。
2013年訪中と訪韓がきいた。訪韓の際の、北朝鮮の勘違い(私と無関係なチャンソンテク事件)か誰かのデマ、韓国のおかしな態度、私の車からの転落事故…これらとも絡め、後に紹介しよう。株価の話も一部いれてもよい。
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さあ、デジカメを買いましょうではない。
待つこと13年、更に、働きかけること13年、購入までの厳しい何重ものチェックで一年以上、こうしてついにデジタル入力・デジタル出力の道にたどりついた。2012年9月25日のことであった。母死亡(2012年11月27日午前5時31分死亡)の実に2か月と2日前であった。
ニコンの株価がニコンSS訪問直後の訪中頃3500円まで急騰の話や、ソニー株価が二千円台前半、後に千円台後半で低迷の話は別の箇所で紹介しよう。2012年4月にソニー社長となった平井一夫氏…、(後にこの件での誤解がとけ…そして)2018年4月に社長退職時には六千円を超過することになった。
訪中と訪韓にはこれらの話もついてくる。
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(3)限界と妨害
2012年撮影の限界と妨害は以下の点であった。
Ⅰ)デジカメにまだ慣れていなかったこと。
Ⅱ)標準ズーム無しの片肺撮影であったこと。
Ⅲ)他のレンズ選びで、幾つもの問題があったこと。
Ⅳ)カメラ器財の誤操作があったこと。
Ⅴ)他人撮影写真混入の疑惑
Ⅵ)撮影アイデアを忘却させられたこと。
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Ⅰ)デジカメにまだ慣れていなかったこと。
姪の結婚式は2012年11月18日であり、カメラ購入からまだ一月余りでしかなかった。その上、その間に本格的撮影実験ができなかった。というのも母の意識不明状態が続いたからである。
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Ⅱ)標準ズーム無しの片肺撮影であったこと。
標準ズームでもニコンに要望をだしていた。
要望内容は、①500グラム台、②価格がAF-S VR70-300と同程度、③画質も②と同程度。
具体的には、ニコンがAF-S 24-85 (f2.8-4)VRか AF-S28-105 (f3.5-4.5)VRを出してくることを願っていた。要望をだした後のニコンの特許はアメリカの情報から判断すると、四種類程度あった。アメリカは特許社会かつ社員の他社への移動があるため日本よりも情報が漏れるため、アメリカの情報を英語で入手していた。
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《ここに記載部分は二重の意味で削除。①現役商品のため、商品の売れ行きへの影響を懸念して、②単焦点600(f4)約130万円・約4キロとズーム200~600や200~500などの十万円前後のレンズの比較はよくないのと同様の理由で削除》
……
…で迷い、標準ズーム購入せずに撮影に臨むことになった。D800にはVR16-35でいくことにした。昔、中古で一万円台で購入していたタムロンSP 28-75 (f2.8)の旧タイプはサブカメラD90専用とした。このレンズはレンズ側にモーターがないため、D5000番台などでは動かないレンズであり、そこで別の標準ズーム購入が不可欠となっていた。新タイプは動くが保有していない。
重宝していたニコンAF28-70 (f3.5-4.5)Dは故障であった。
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Ⅲ)他のレンズ選びで、幾つもの問題があったこと。
だが、姪撮影時に標準域抜きでは困るということで幾つもの誘導があった。それがAF 18-35 (f3.5-4.5)EDがあるにも関わらず、購入したAF-S 16-35 (f4)VRである。
これを購入したのも意味はあった。
相当昔、手ぶれ防止の件で、キャノンがテレ系を行くならば、ニコンは広角系に手ぶれ防止をいれたら面白いと何かで要望したことがある。すると、ニコンがAF-S 24-120 (f3.5-5.6)VRをだしヒットし、次にAF-S DX 18-200 VRでもヒットし…という経緯がある。
標準ズームで要望を出し、購入しなかった罪滅ぼしも兼ねて、確実なAF-S 16-35 VRを購入した。このレンズも情報を幾つもえていた。大変評判の良いレンズである。
固いホールドならば1/8でも手持ちで写せる。太陽に向かっての撮影もOKである。昼間の太陽がもろに写せる。…と。
ただし、人が知らぬことを記せば、このレンズはマクロ撮影時でも手ぶれ防止が結構きく珍しいレンズである。評判ではキャノンの24-70 IS f4もマクロでも手ぶれ防止がきくそうであるが、通常のマクロレンズなどは一般にマクロ撮影では手ぶれ防止はほとんど効かないのである。だが、このレンズは相当よっても結構手ぶれ防止が効いた。同時に、後に述べる2013年訪韓の如くに標準ズームがやられたときの保険にもなった。
だが、一番真ん中抜き(35㎜から70㎜抜き)での撮影となった。
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《2018/09/14 9:57修正ここに記載部分は以下の理由で一部を記号に置き換えた。現役商品のため、商品の売れ行きへの影響を懸念したことによる》
また、明るいレンズ抜きでは駄目だろうと、寝ている間の催眠誘導でS社の?を購入させられた。結婚式の一月後にT社が手ぶれ防止付き??を出すため、そちらにしたかったが、催眠誘導でこちらを買わされた。これが高くついた。
このレンズは画質は良いが、手ぶれ防止が大変ききにくい、更に、D800との相性が良くないのでピントが大変合いにくい。
今ならば、S社のレンズで問題がないが、当時はN社とS社が大変仲が悪いときである。今は訴訟で和解しているのでそうではあるまい。
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仲が悪いとはN社のカメラが先に発売で、その後でS社が先のマクロレンズを出していれば問題ないが、その逆ではN社のカメラがS社のレンズと相性が悪いのを作られたならばお終(しま)いである。道義的にも、N社が他社のレンズにあわせてカメラをつくる必要性はない。これを警戒し、敵の敵は味方でT社を考えていた。T社とS社は天敵関係である。では、T社がN社に寄ると考えた。実際に詳細は省くが、T社からのOEMレンズがN社にあったときがあるという噂もきいている。
そこで、マクロの手ぶれ防止レンズはT社と考えていたが、姪の結婚式の一か月後のため、催眠誘導で?を買わされた。
残念ながら、私の分析は当たっていたようであった。そのツケは今日まで及んでいる。
本来は追加購入したら良いのであるがその金はない。
なお、S社マクロの画質も悪くないと言う人はいよう。その通りである。二つの意味でそうである。腐っても単焦点F2.8である。もう一つはピントが合えば、値段の割には切れはよく、コストパフォーマンスは高い。ピントが合えば、である。だが大変、D800などとの組合せではピントがあいづらい。
VR70-300ならば8枚撮れば5枚はOK場面でも、8枚では全滅か運がよくて一枚というときもある。大変神経を今でもつかう。
姪の結婚式にあわせて催眠誘導でかわされた。
誰かが画質と値段を見て、いけると勘違いをしたのであろう。商品選びには企業関連知識も不可欠であるが、そうした問題を無視して買わされたのである。
今はS社とN社は和解したそうであるし、ましてや先にN社カメラ発売、後でS社レンズ発売ならば問題はなかろうが、2012年はそうではなかった。
だが、私の意思は完全無視された。
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こうしたカメラ、レンズ、フィルム、パソコン、ソフト、プリンター、インク、用紙、色の知識…会社関係の分析…こうした膨大な情報収集と分析、さらに知識の下で写真作品をつくっているのである。だが写真も、私の生業のプレゼンテーションの一分野でしかない。当然、更なる膨大な情報と知識が必要となる。趣味ではなく、起業を考えたのだから当たり前である。だが、そこにプライベート分野がしのびこむと、上記の如く、器財選択から始まり、全てが台無しとなる。
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★追記。ニコンに年賀状で70-300をリニューアルしてほしいと出せば、その年にAF-P 70-300がでた。評判は良いようである。本来、即購入であるが、金が枯渇しかけてきたときに、値段が思ったより高く手がでずに困っているところである。
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Ⅳ)カメラ器財の誤操作があったこと。
その上で当日の撮影では2009年撮影と絡めストロボの誤作動、遠隔操作されている疑惑などのオンパレードであった。
カメラ・写真を含むプレゼンテーションで起業開始を検討しており、それで老後が決まるかもしれないときに、プライベート分野が仕事分野に入られるとたまった物ではない。
浜田隆政ブランドは裏では今でも昔でも人が注目しており、そのブランドを壊すことは老後なしを意味する死活問題である。
表でも早大や関学などは注目している可能性が高く、参ったというようなものではない。恰(あたか)も、2009年撮影は失敗させ、2012年撮影は成功させ…の如くにみせかけられた。だがそれは嘘である。後ですぐに分かる。
同時に、こちらはブランドを守られねばならず、更に、常にネクストワン(次が一番良い)を目指し続けている。
子供の遊びで、私の老後を終わりにされることは恐怖ですらある。
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Ⅴ)他人撮影写真混入の疑惑
「恰(あたか)も、2009年撮影は失敗させ、2012年撮影は成功させ…の如くにみせかけられた」が違っていた。まず、2009年同様に赤目があった。F5やF90Xには内蔵ストロボが一切ついていないのとは異なり、D800やD90には内蔵ストロボがあり、万一内蔵ストロボを使用していれば赤目はありうる。だが、外付けではSB-28より格下とはいえ、SB-700でも赤目はでないはずである。通常、プロ用カメラには内蔵ストロボはコンデンサー劣化対策などからつけないのが常識と考えていたが、D800ですらついている。故障のみか、誤操作の温床となる。距離から言えば、外付けストロボの場目でも赤目があった。
しかし、それ以外でも他人撮影をいれられた疑惑は一定あった。
それ以上に次の問題があった。
〈10:24追記。ただし、D5500とSB-700の組み合わせでは2017年お初天神撮影で赤目が生じており、原因分析中である。尚、2009年撮影では、念には念を入れストロボキャップを持参していた。特に重要場面ではストロボについている蓋状のものの上にストロボキャップの二重使用もしていた。詳細はいずれニコンSSなどで聞いてみる予定でいる。他人撮影を混入された例は別にもあり、相当昔に、恩師を我が家で夜撮影の件でFacebookなどで掲載済みである。〉
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Ⅵ)撮影アイデアを忘却させられたこと。
写真撮影は何度も書いたように一番重要なのはアイデアである。このときの撮影にむけて、アイデアを十ほど書いていった。テスト撮影ではうまくいったが、本番ではリモートコントロール型で誤操作が相次ぎ一番目のアイデアを断念した。更に、その間にアイデアを記入したメモ用紙が紛失した。
そして、その後はアイデアを忘却した上での撮影となる。頭の方も思考停止状態となっていた。
頭をやられたならばお終いである。
だが、これでは浜田隆政ブランドは守られず、この撮影は、浜田隆政撮影ではなく、浜田隆政レタッチ・プリントとして世に残すように伝言をしようと考えている。
尚、このときのアイデアで撮影したのが下記である。
本当はこう撮る予定でいた。
もし、これが実現していれば浜田隆政ブランドは守れたのみか、2009年撮影も他人撮影及び激しい妨害があり、撮影不可能状況であったことは即座に証明されたであろう。
2012年撮影で分かることは、姪の夫の目の幾つかは私の絵であるということだけである。
目を真っ白く塗りつぶし、私が、パソコンの絵筆で本物の目そっくりに描いた。その絵だけは私の作品である。これだけが百パーセント分かっている事実である。
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ともかく、子供の遊戯型で商売道具を振り回されることは、浜田隆政ブランドの崩壊、起業の妨害、そして私の老後の破壊を意味する。大変な人権侵害(営業の自由、職業選択の自由、経済の自由、一部人身の自由)でしかない。
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ともかく、これを持ち、プライベート撮影は公に中止宣言を至る所にだし続けている。仕事とプライベートを混同することは問題が多いと、私が1994年頃に言ったことを、催眠や謀略で実証しただけであった。
私の言動は一言。「私が二十年前に警告した通りであろう」、と。
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ところが、その後、撮影妨害と政治が絡む大事件が発生する。それが2013年訪韓、安重根記念碑撮影にまつわる話である。
この話は、写真残酷物語から切り離し、公式ブログ政経編として取り上げる。後に、「日本のフィクサーME・パート2」に一部修正して挿入予定でいる。
その前に、写真残酷物語⑤として、母の姉関係のことを記す。ただし、ここは面白おかしく記す予定でいる。
トラブルブログや私的ブログではなく、公式ブログに掲載とは政経関連、ユーモアを含む紀行文関係などを記す予定でいたが、催眠誘導で相当道がそれた。⑤は本道に戻す。
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▽光はながすが、人物は止めて写す。(レタッチではなく、浜田隆政オリジナル撮影技法:2013年4月5日と4月8日)
下記撮影は妨害なく、事前の準備とアイデアが不可欠です。上から三番目などはときには撮影時間は合計数分かかります。被写体が逃げたり、隠れたりでは不可能です。いずれも、鬼ごっこ状態はでは撮影は不可能です。
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