夢か―3。TVでの対話―3・平山画伯の思い出と「お~い、あれが宿禰(すくね)島だ」を作品化決定。

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TVでの対話―3・平山画伯の思い出と「お~い、あれが宿禰(すくね)島だ」を作品化決定。

 

早大名誉博士の一人に平山郁夫画伯がいる。そこで、早大のリンクが私のFacebookについていたことへの返答として、画伯との思い出を記す。

 

 

平山画伯の展覧会に最初に行ったのは1995年5月26日のことである。その後、機会があるごとに、画伯の展覧会に足を運んだ。
問題は、展覧会に行くと、絵の周りではなく、私の周りに人垣ができることである。しかも、入場者が、絵でなく私を興味深げに見るのである。思い当たる節はある。この頃は、私の裏の知名度からそうなったのではないと思う。
それは、私が絵を見るときに、左横から見たり、右横から見たり、離れて見たりするのだけではなく、座って下から覗(のぞ)くように見ることに原因があったのだろう。平山郁夫画伯の大和路「法隆寺の塔」のときも同様であった。下から屈(かが)で見ていると、何人もの人が、マナーも知らぬ田舎者という目で、私を見ていた。ところが事態が一変することが起きた。
物好きな女性がいて、私の真似をしたのである。すると、その女性が「あっ」と叫ぶように、顔つきが変わった。他の人も真似をし、何人かの顔色が変わった。その後、何人かが、私同様に、確か大和路「法隆寺の塔」の絵を、左から、右から、下からと角度を変えて見ていた。

 

 

絵に限らず、優れた彫刻なども、角度により、印象を変える。有名な例とすれば、飛鳥寺(あすかでら)の飛鳥大仏などがそうである。この像は左顔と右顔が違っている。人間だってそうでしょう、となる。角度だけではない。北村西望作「長崎平和祈念像」は昼と夜では印象が違ってくる。昼は〝柔〟であり、夜は〝剛〟である。偶然ではあるまい。北村西望の作品「将軍の孫」「笑う少女」などは前者であり、「日蓮」などは後者だからである。平山画伯の先の作品には金粉が塗ってあったため、尚更(なおさら)、意識されたのではなかろうか。

 

平山画伯がテレビに登場するときは必ず見ていた。そして、今まで、記したようにTVの中の人がこちらを見ていると感じ始めた頃、画伯がテレビに登場してきたときに、テレビに向かって思い切って尋ねてみた。「先生、先生の絵の中の幾つか、特に金粉を使った絵は下から見たり、左から見たり、右から見たりすると、印象が随分違います。それは偶然ではなく、計画的にされたのではないですか」、と。
平山画伯は、大変、暖かい顔で笑われるだけであった。聞こえていないのかと思い、何回か、同様のことを尋ねた。その都度、大変和やかな表情をされた。私の勘違いではあるまい。テレビの司会者が、「今日は、先生は、本当によく笑われますね」とか、「今日は先生は随分楽しそうですね」など、何度も言ったのだから。まず、計画的に作成されたのだと思う。しかし、平山画伯の性格から、それを回答されなかったのであろう。映画でも同様である。深い映画は余韻を残す箇所をつくるが、本当の芸術的監督は、それをどう計算してつくったかは語らないものである。芸術は、数学みたいに解説して鑑賞するものではないからである。いや、今考えると、テレビで返答すると、問題があると思われ、言葉で返答されなかっただけかもしれない。
ともかく、今でも、平山先生の、あのときの微笑(ほほえ)みを思い出すことがある。これも懐かしい思い出である。

 

私は山下清画伯と同様に自分にも正直であった。しかし、老いてくると多少人目を気にして、昔のような行動を取ることができなくなってきた。ちなみに、山下清画伯はルーブル美術館で、大あくびをし、顰蹙(ひんしゅく)をかったことがある。絵の鑑賞に飽きたか、自分好みでない絵が続いたときかは知らない。自分に正直なのであろう。私も同様だっただけである。
私の職業は、プレゼンテーション屋である。文章と写真とイラストなどを組み合わせた、過去例のない分野の作品づくりを目指している(しかも、社会科学的要素も取り入れて)。同時に、その作品を通して、戦争なき世・差別なき世を目指している。だから、平和の商人(あきんど)と自称したのである。

(以上、Facebook 2015年3月24日掲載文。Facebook書込№14-007)

 

 

※【2015年4月20日追記】平山郁夫画伯と新藤兼人映画監督の両者にまつわる話として、拙著「お~い、あれが宿禰(すくね)島だ」を改訂して小作品化を図る予定でいる。その試作版ができたならば、浜田隆政写真物語・話の間にある「広島への小さな旅」に掲載予定でいる。

 

 

 

【解説】
①平山郁夫画伯→瀬戸田で生まれた。(私は同島を1995年と2013年8月に訪問)
②平山画伯との対話は既述の通りである。
③新藤兼人監督の代表作「裸の島」は、三原から瀬戸田への途中にある(同上の2013年8月に島を見る)。
④新藤監督との三度(八十代、九十三歳頃、九十八歳頃)の出会いと、「老い方」を教授された思い出がある。
⑤新藤監督の午後の遺言状作成には、私も絡んでいた可能性があることも、いずれ紹介したい。
⑥文中に登場する飛鳥寺(あすかでら)の大仏写真を公開する必要がある。
⑦なお、本文に登場するNHKのアナウンサーとは、確か森田美由紀であったような記憶がある。
⑧以上①~⑦より、「お~い、あれが宿禰(すくね)島だ」を、写真物語・話の間に小作品として、挿入したいと考えている。本年夏頃になるであろうか。何しろ、今膨大な原稿と作品準備が山積しているため、即座にはできない。既に、作品のアイデアも写真もあるのだが、着手するには時間がかかりそうである。その後で、電子書籍かペーパーかは不明であるが、「ささやかな旅シリーズ」として本格作品にする予定でいる。

 

※次回は、順番を飛ばして、新藤兼人監督との思い出にする予定である。