重要情報公開№6・労基法違反編(1)上―長い付き合いのあったベネッセで何故私が被害を(相互理解の為に記述)

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重要情報公開№6・労基法違反編(1)上―長い付き合いのあったベネッセで何故私が被害を(相互理解の為に記述)

 労基法違反の怖さや危険性については、雇用能力開発機構運営、旧労働省所管の大学校講師時代に受けた大被害をまとめた、拙著『恐るべき労基法違反』を御覧いただきたい。
『恐るべき労基法違反』は安らぎ文庫・長期連載コーナーでPDF無料配布中である

ダウンロードページは下記である。
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【構成】

(1)長い付き合いのあったベネッセで何故私が被害を(相互理解の為に記述)→トラブルブログと公式ブログに掲載

→今回掲載箇所は(1)の前半=(1)・上。

(2)「ベネッセで起こったこと」{拙著『閉じた窓にも日は昇る下巻』KINDLE版、百円}から抜粋。

(3)実際に、ベネッセ子会社に送付した手紙を一つ程度掲載予定

※(2)と(3)はトラブルブログのみに掲載するかもしれない。

(1)は企業史としての意味もあるため、公式ブログにも掲載した。

 尚、公式ブログ収録では(1)は(上)と(下)に分割。

 (下)は明日(2017年4月22日)か明後日に掲載予定。

トラブルブログでは(上)と(下)をあわせて一つにして後日掲載予定。明日か明後日に掲載予定。



【本文】(1)・上:長い付き合いのあったベネッセで何故私が被害を(相互理解の為に記述)


今回は、雇用能力開発機構のような、信じられない規模の労基法違反の大被害ではない、ベネッセで受けた労基法違反を特集する。

特集理由は二つである。
一つは今回紹介する如(ごと)く、ベネッセと私の間には長期にわたる信頼関係があったにも拘(かか)わらず、労基法違反被害を受けた。

しかし、私も人生の残りが見えてきだしたこともあり、ベネッセとの関係を修復したいとも思い、今回掲載することにした。


もう一つは今回も記述するが如く、ベネッセへの貸しの部分も相当あったにも拘(かか)わらず、こうした被害を受けたということは外部から誰かが指示しているとしか思えず、その誰かを暴き出す目的からである。
ちなみに、ベネッセでの実質的労基法違反が本格化したのは、私が小渕総理に2000年4月3日にポリテクカレッジ労基法違反被害救済文を書留で送付した頃からである。

小渕総理はこの書留文書を送付した当日に緊急入院となった。


なお、後に記述するように、ベネッセ関係者の一部の人は私の住所・連絡先などを知っており、もし、反論があれば連絡いただければその文書も掲載する。

ただし、2000~2002年頃の労基法違反への抗議文書送付についてはまともな返答はなかったことを明確に記しておく。(当時の市議に全て相談していたため証人もいる。)
同時に、世界の我が友達(世界の首脳なども含む)が注視している中での文書のため、ゆすりたかりとは無縁である。

その前に、後の文書の如く、ベネッセ関係者との一部で私と人間関係が成立してもいる。


今回記述部分・(1)・上は、労基法違反被害やその抗議を兼ねた文書類の掲載でなく、ベネッセと私との関係を記述する。

そこで、今回の(1)の部分は被害部分の記述ではないため、トラブルブログのみならず公式ブログにも併行で掲載する。




現・ベネッセという企業は、福武 哲彦(ふくたけてつひこ 1915年-1986年4月26日)氏が1955年に創設した福武書店に端を発する。

福武哲彦氏は岡山師範を卒業し、小学校教師を経て、1949年に問題集などを出版する企業を創設するが失敗する。

その後、生徒手帳をつくる事業が当たり、復帰の足がかりとした。

真偽のほどは知らないが、当時、リヤカーなどを自分で引いて商いをしたという噂(うわさ)を聞いたこともある。


ベネッセ創始者・故福武哲彦氏は岡山師範を卒業(昭和一〇年三月卒業)したと書いたが、私の父も同師範に在籍しており、福武氏は私の父(昭和九年三月卒業)の一年後輩であった。

当時、一学年約五十人であり、しかも寮など中心の時代のため、まず父と知り合いであったと思われる。

思われると書いたのは、私が父と哲彦氏との関係を知ったのは、今から十年ほど前だからである。多分、2007年頃と思われる。

父の遺物を整理していて偶然知った。

私の父が死去して十四年目くらい、哲彦氏が死去して二十年目くらいに知ったのである。


それまでは、後に記すように、哲彦氏にスナックなどに連れて行かれ、レミーマルタンなどをご馳走(ちそう)になったことがあるが、父と哲彦氏の関係は知らなかった。
もっとも、哲彦氏は知っていたのかもしれない。

福武書店(現ベネッセ)との幾つもの人間関係の輪がでてきたのは、偶然ではなかったのかもしれない。


その福武哲彦氏が1955年(昭和30年)に創設したのが福武書店である。

創設ときは社員がわずか6人であったと聞く

やがて、通信教育が当たり、更に模試などで福武書店の名前が日本でしられてくるようになる。



私は関西学院大学を卒業した後、早大大学院政治学研究科に進学し、1980年に同大学院を修了した後もう一年東京で研究生活を送り、1981年に岡山に戻ることにした。

『求め続けて』第一部に登場する真備高校という女子校の教壇に立つためである。


しかし、非常勤講師のため、岡山の予備校に職を求めて手紙をだした。

二校に出したが二校共に返事があり、共に出講することになった。

そのうちの一校が、福武書店経営の予備校であった。

確か、1981年と思う。

この(福武書店が関係した)予備校の職員と仲良くなり、何人かとは家に泊まりに行ったり、逆に私のアパートに泊まりに来たりする関係となった。

この予備校の忘年会などには、必ずに近く、福武哲彦社長もこられていた。

私が行ったときにはまず、来られていた。

今から考えると、私が行くので来られていたのかもしれない。(ひょっとすると父との関係で)。


この予備校の忘年会などの後で、何度か、社長が職員にひそひそ型で、私の方を指さし、「あれを連れてこい」というような形で、スナックに飲みに連れて行かれた。

そして、レミーマルタンなどをご馳走になった。

小さな予備校の職員と仲が良かったので誘われたのか、予備校の校長(後の名誉校長)に私が気にいられていたため呼ばれたのか、後に知った私の父との関係で呼ばれたのかは不明である。

まだ、私が20代で駆け出しの頃であった。

その頃、職員の一人が私に紹介したのが、進研模試のチェックの仕事であった。

こうして福武書店から直(じか)に仕事を依頼され出す。岡大模試などの作成などもしていた。


この頃の福武書店は、まだ、岡山どころか東京にも高層ビルを持つ前であった。

それどころか、高柳にある近代的な建物もなく、小学校か何かの跡地で営業していた。

しかし、経営はかなりよく、社員にボーナスを12か月出したなどという噂(うわさ)を聞いたこともある。


その後、私の方も、駿台予備学校の教壇に立ち、急速に私の労働力商品が売れ始めだした。

1983年後半から1984年頃は駿台でもかなり人気がでていた。

質問日を設けねば質問にも対応できないくらいに生徒もついてきだしていた。

駿台で駿台模試にも関与し、福武書店では進研模試にも関与することになった。

こうして、1985年頃に、東京から来た駿台文庫の職員に接待され、進研模試のことを詳細に尋ねられ始める。

後に、駿台、ベネッセ共催模試につながることになる。

いわば、駿台とベネッセの見合いのお膳立てをしたことになる。

私が駿台模試とベネッセ模試の仲人をしたのかもしれない。


更に、岡山の予備校(岡山進研予備校)が合併する、(確か)その前年度に、同予備校の教員探しもかなりすることになる。

福武書店(現・ベネッセ)系列予備校校長に依頼され、同校への(知名度が高いか・実力が高いか・幾つかの予備校生徒に人気がある)教師斡旋活動を無料で行うことになる。

河合塾から有名な国語教師を、駿台からも国語教師を、英語では外国人の英語講師を、物理も駿台から呼ぶなどを無料ですることになる。
私の駿台での伝手(つて)、河合塾講師の知人を通じて、私の相棒的な大学講師を通じて、(単なる教師ではなく)有能な教師をみつける仕事をする。

七名程度に連絡をとり、私の伝手で五名を確保した。

この件に関してはベネッセに貸しをつくったとも言える。

2017年4月21日 | カテゴリー : 情報公開 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA