夢か―2。TVでの対話2・マンデラ。

TVでの対話2・マンデラ。


【更新履歴】

2015年3月12日掲載

2021/04/10 2:09 大幅追記2つ

 



以下の文書はFacebook投稿2014年3月22日のものである。

Facebook書込No.14-006 : 『夢か現実か ― 大統領前のマンデラについて』

私のFacebookに早大の写真も登場したため、早大名誉博士の中から私が過去対談した人物の思い出を記す。該当者、約十名の中から、今回はマンデラ(早大法学名誉博士)と平山郁夫画伯(No.14-007)をとりあげる。

マンデラは1990年2月11日に釈放され、自由の身となった。彼が自由の身になってからの数年間、彼がテレビから私を見る目は厳しかった。「人権の重要性を唱(とな)えている君が何故(なぜ)、私の支援をしなかったのか」というが如(ごと)しであった。

「TVで何度も君と出会ったのに、何故、私を無視するのか」、と。こうした雰囲気は、彼が大統領になった(1994年5月10日)後もしばらく続いた。私の気のせいだったのか、事実だったのかは不明である。


もし事実ならば、それは無理である。90~93年の私は鬱病(うつびょう)を激しくしたような状態で、脳が機能せず、生きる屍(しかばね)状態だったからである。この間に起こった、ソ連崩壊などのニュースですら、政経専門家の私が一切覚えていないのである。93年の大吐血が電気ショックの役割を果たし、脳は94年からやっと機能しだしたからである。また、94年以降も、職場の労基法違反などで、私の方が社会にSOSを出し続けていた。

もう一つの理由がある。それは、TVを通じて、人と対話しているなどとは夢にも思っていなかったからである。TVを通じての対話を、かなりの事実と受け入れだしたのは小泉内閣(2001年4月)の頃からである。だから、私の原稿、『日本のフィクサー〝ME(私)〟』は2001年頃からの内容となっている。

もっとも、TVを通じて人との対話、夢か現実か―The Snowmanの世界―を、薄々感じ始めたのは95年夏頃から徐々にであるが、まだ半信半疑であった。そこで、クリントン大統領の沖縄サミット来訪時(2000年7月)には大変なことがあった(日米危機になるような!)。

私は、このときの晩餐会か何かをTVで見ていた。上半身裸で、パンツ一枚で。私の部屋にはエアコンがなく、しかも窓をあければ虫が入るため窓を閉めており、部屋の温度は35度程度だったからである。湿度も凄(すご)い。

TVを見ていると、クリントンは最初は戸惑い、次に同伴していた娘さんを気遣い始めた。当時、娘さんのチェルシー・クリントンは二十歳前後であった。正面を向けず、下を向いていた。私は、TVを見ながら、これは一体何だろうと不思議に思っていた。二十歳前後の女性が、男性の裸を見るのは、羞恥心で大変である。だが、言わしてもらいたい。自分の裸を見られる私はもっと恥ずかしい。

私の友人の逸話を紹介しよう。高校時代に、友人が修学旅行でトイレに入っていた。1969年であり、トイレの設備が悪く、鍵がかからない男女共用トイレであった。友人がそのトイレで大きい方の用をしていたときに、女子高校生がノックもせずに戸を開けた。そして、女生徒が驚いて言った。「恥ずかしい!」と。

すると、友人がトイレの中から応えた。「ワシの方が恥ずかしい」、と。然(しか)りである。彼の言うことには道理がある。私の場合でも、相手が若い女性となると、徹子の部屋で黒柳徹子の前で裸でいるのとは訳が違う。

マンデラが日本のTVでインタビューに答えていたのが、1990年~94年頃ならば、半信半疑どころか、全く、TVを通じての対話などは夢にも思っていなかったが故に、クリントン大統領(当時)のとき以上の行動を取っていたのであろう。おまけに、その頃は、私は大学の平凡な非常勤講師にすぎなかったのだから。

よって、マンデラの方は何かを私に言ったのであろうが、薄々すらテレビを意識していなかった上に、脳が機能不全の時期のため、全く、何も覚えていないのである。同じことが、金大中氏にもいえる。彼も一時、マンデラと同様の目で私を見ていたことがある。

もし、彼が2000年以前、ましてや95年以前に、私に話し掛けていたならば、そうした誤解が生じていたであろう。ちなみに、私は獄中のマンデラを一貫して支援しており、金大中とマンデラに敬意を表している者である。ただ残念ながら、両者とは、私がTVを特に意識しだした2004年以降は、全くTVですら出会ったことがない。

もちろん、マンデラが昨年病気になってからは、彼が死ぬまで、彼の病状をインタネットなどで随時調べていた。最後に余談ではあるが、マンデラも、クリントンの伴侶・ヒラリーも、私の最初の母校・関学もメソジスト (Methodist)派である。もっとも、私の家は仏教(浄土真宗)であり、私は無神論者である。

もし、マンデラと金大中が生きていて、今、テレビで、否(いな)、実際にface to faceで対面できたならば!しかし、あなたがたの意思はしっかりと私にも伝授されています。いずれ、分かるでしょう。

※【以下2015年3月12日追記】マンデラに関するメモ。

①ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 – 2013年12月5日)。

②南アフリカ共和国第8代大統領:任期[1994年5月10日 – 1999年6月14日]

③アフリカ民族会議議長(第11代)。任期[1991年 – 1997年]

④南アフリカ共産党中央委員を歴任。

⑤その他。ネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。
今、1990年頃にレンタルビデオで見た、イギリス映画・『遠い夜明け』(Cry Freedom)(1987年に製作・公開)と、1960年代のアメリカの公民権運動を思い起こしながら、歴史は後退と進化を繰り返しながら、ゆっくりと動いていると痛感する。

同時に、マンデラ氏も、アウンサンスーチー氏も、金大中氏も解放された。後は、私の番なのであるが、その兆しはなかなか見えてこない。友人が、十年ほど前に、E-mailで「明けない夜はない」といっていた。だからそろそろ、不当な人権侵害から解放されなければならない。ただ、アメリカで多くのマイノリティと出会った後で帰国している飛行機の中で、誰かがオーロラの話をしていた。不吉なことを、である(オーロラの見える所では明けない夜もあるのだから。その逆もあるが)。

(2021/04/10 2:11追記)
第12回世界の歌・ケニア&アフリカ連合:part-4 ― 2021/04/09~2021/04/19
第二会場:解説―安らぎ文庫HP編
六番目のコメント

【浜田隆政コメント】  ここは芸術としての歌謡コンテンツは避けた。
長いアパルトヘイト時代を思い出しながら、このコンテンツとした。
思えば、私の中学・高校時代(1964~1971)はアメリカ公民権運動が…その後にオーストラリアでの人種問題が…、予備校・大学校講師前半時代(1981~88年)はアパルトヘイトが大きな問題となっていた。

ただし、私の頭脳は1990年初頭に病的に機能不全に陥る。もっとも、様々な被害からその前からディスターブ(Disturb: 混乱)状態にあった。多分、フィリピンのアキノ革命の頃で私の脳(特に政経脳)はストップしている。
完全ストップは1990~93年末頃である。
マンデラ氏と📺で対面したように思えるが、多分、この間ではなかろうか。当時、漠然と、彼が「君は何もしてくれないではないか」と訴えたような記憶がある。しかし、この頃ならば病的に脳が機能しておらず、それ以前は今記載中の駿台講師時代の激しい挑発とその後の各種妨害で身動きがとれなかった時期である。
その前にテレビとの対話など思いもしなかった。

後に、マンデラ氏との対話はなかったという暗示も受けたが、対話というよりも、📺からマンデラ氏がそうした目で私を見たような感じを受けただけである。📺との対話など思ってもいなかった頃である。
完全に近く、意識回復した頃は、もう彼は大統領となっていた。私の意識がなくなる状態以前はまだ彼は獄中だったと思う。(ちなみに、ソ連崩壊も、ドイツの壁崩壊も全くに近く何もしらないし覚えていない。脳の病気とはそうしたものである)

これらを思い出しながら、最後のコンテンツは今回のものとした。マキバ(Makeba)もいろいろあったであろうと思いながら…。

この箇所は下記に本日(2021/04/10)正午までには追記掲載する。
また、今月の歌(2016年2月の歌・南アフリカ共和国の歌特集に当たって)の部分も、同様に4月10日正午までには下記に追加収録予定でいる。ともかく、御対面はマザーテレサと御対面よりも前と思う。当時は「まさか…」であった。金大中氏も同様である。
(ここに追記予定)公式ブログ「夢か―2。TVでの対話2・マンデラ」の箇所参照。

(2021/04/10 2:13 追記)
2016年2月の歌・南アフリカ共和国の歌特集にあたって。
(一)マンデラの思い出から

 1987年・映画 『遠い夜明け』(Cry Freedom)が制作・公開された。くしくも、同年末頃、私は刑事犯罪被害の連続で、超大手予備校の職場から放逐され、田舎に事実上監禁された。
この映画は1990~93年の、私の意識が後退しているときに見た覚えがある。この映画が制作された頃、南アフリカ共和国はアパルトヘイト時代であった。アパルトヘイトについて、ウィキペディアは次のように書いている。

「……小アパルトヘイト
 ……隔離施設留保法……レストラン、ホテル、列車、バス、公園に映画館、公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。バスは黒人用のバスと停留所、白人用のバスと停留所に別れ、病院も施設の整った白人用と不十分な施設しかない黒人用に分けられた。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。
 雑婚禁止法……人種の違う男女が結婚することを禁止された。
 背徳法……異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる法。
 パス法……黒人に身分証明書の携帯を義務付けた法。有効なパスを持たないものは不法移民とされ、逮捕されホームランドなどへの強制送還が実施された。
 …… この政策で、南アフリカにとって大きな貿易相手でもある日本人は「名誉白人(Honorary Whites)」として制度上の差別待遇を免ぜられた。……有色人種でも経済力のある者に対しては白人扱いするために、とも捉えられる。」(ウィキペデイアから引用)

 私自身も、1983年~87年の大手予備校の教壇で、アパルトヘイト問題を取り上げた。その私が、1988年から逆に監禁の憂(う)き目に遭(あ)う。事実上の、自宅監禁下で、金大中、マンデラ、アウンサンスーチーに思いを馳(は)せた。彼ら・彼女らが自由になる頃には、私も自由になれるだろう、と。金大中は事実上1987年に自由になり、マンデラは1990年に自由になり、アウンサンスーチー女史も、2010年から自由になった。しかし、私にはまだ自由は来ない。友人が十五年前頃、「明けない夜はない」と、不可思議なメールを送ってきた。しかし、三十年以上、自由は来ない。
私も、六十三才となり、いつ死んでもおかしくない年齢に入った。そこで、差別に対して、人類の一人として闘いを挑むことにした。それもあり、2016年最初の「今月の歌」は、南アフリカ共和国とした。


なお、今月は南アフリカ共和国・マンデラ特集を以下の形で組んでいる。(二)参照。