「2013年の真相」№21・第4章ソウルへの旅・第1節・ソウルへ―アニョハセヨ(上):📣💁正式公開

「2013年の真相」№21・第4章ソウルへの旅・第1節・ソウルへ―アニョハセヨ(上)

・📢(日本のフィクサーME・パート2の一部に該当):📣💁(正式公開):23:55


【更新履歴】

2021/05/27 20:48 β部分(2014年初頭公開部分)掲載

2021/05/27 22:50一回目の追記(竹島・独島):二回目の追記23:06追記盧武鉉氏との出会い。23:31三回目の追記。米朝首脳会談に関わるきっかけ。

2021/05/27 23:55 写真追加し、正式公開

 


2013年の真相―№21
α(一番下に2021年追記)
β(上に本体・原則小学館に送付したまま)
γ(📷写真・🎦動画の挿入)

全体目次は下記。今回は3章第3節。

№10以降読みやすくするため、βとαの順番を逆にする


2013年の真相・目次


β(上に本体・原則小学館に送付したまま):γの写真は本日(2021/05/27)少し時間がかかりますが5月27日までには挿入




第4章ソウルへの旅・第1節・ソウルへ―アニョハセヨ(上)

【📷・日本のフィクサーME】(一度クリックでパソコン画面大、二度クリックで巨大)

日本のフィクサーME(ソウルにて、私の影を撮影)2013年12月9日19時17分

 第1節・ソウルへ―アニョハセヨ
『旅に心を求めて―不条理編』で予告していた安重根を訪ねて、ソウルへはいずれ行かねばならない。まして、韓国の歌手・少女時代(韓国のアイドルグループ)がNHKのTVに出演していたとき、彼女らに約束もしていた。「私は、安重根記念碑を拝みに韓国へ行く」、と。すると、TVの中の彼女らから、言葉では表現し難い、笑いが一斉に起こった。顔にも笑みが零れていた。

【📷ソウルの街でみかけたポスタ。彼女らが少女時代ではないかと思い写した(違っていれば🙇)】

右上が少女時代の絵ではないかと当時想像した。
2013年12月10日17時50分撮影


本当は、我が心の友・盧武鉉が大統領のときに、韓国に行かなければならなかったのだが、そのときには行ける条件がなかった。さらに、二〇〇九年頃から母親が脳梗塞・心不全等々の病気続きとなる。特に二〇一三年《2021/05/27訂正→二〇一二年》は意識不明で危篤状態が長く続き、やがて十一月二十七日に死亡する。母が死亡し、母危篤時に備えていた母シフト用の行動に少しゆとりができた。同時に、母からの遺産も少しではあるが入った。ここからフィールドワークの再開となった。


ところで、二〇一二年は世界の大選挙の年であった。三月四日にはロシアでプーチンが大統領に返り咲き、四月一日にはミャンマーでアウンサンスーチーが議会補欠選挙で当選、四月十一日には金正恩が朝鮮労働党第一書記に就任、七月二十二日にはインドでブラナブ・ガンジーが当選、十一月六日にはアメリカ大統領選挙でオバマが再選した。中国では十一月八日に習近平が党総書記と中軍委主席に選出され、十二月十九日には韓国大統領選挙で朴槿恵が勝利し、日本でも十二月二十六日安倍晋三内閣が成立する。

この中で、私に特に関係があったのがアメリカ大統領選挙と韓国大統領選挙である。アメリカについては、選挙の前々年頃からオバマ絶対支持を繰り返し、TVなどに向かい叫んでいた。TV説ならば、多少効果があったかもしれない。何が何でも、世界の平和にとって、オバマの再選は不可欠と考えていたからである。次に、アメリカほどではないが、韓国大統領選挙にも関心を持っていた。


韓国では、与党・セヌリ党の朴槿恵、最大野党・民主統合党の文在寅(ムン・ジェイン)、若年層や無党派層から高い支持を受けている無所属の安哲秀による三つ巴の構図となっていた。しかし、安が立候補辞退を表明し、与党・朴槿恵と野党統一候補・文在寅による事実上の一騎打ちとなった。文氏は盧武鉉の側近とか友人と聞いていたので、文氏が当選することを願っていた。オバマ絶対支持を打ち出し、二年以上に亘る、TV等からの支援とは異なり、特に何もしていないに等しいが、文氏を支持していた。
だが、朴槿恵(セヌリ党)が一五七七万票余り(51・55%)、文在寅(民主統合党)が一四六八万票余り(48・02%)で、百八万票余の差をつけて、朴氏が当選した。韓国憲政史上初めての女性大統領となる。そこで、朴大統領の間は韓国行きは気まずい感じがしていた。しかも、彼女の父は朴正煕(パク・チョンヒ)である。事実かどうかは不明であるが、次のような噂も聞いている。

「福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本統治時代を批判する旨の発言を始めたところ、彼を宥めた上でこう語っている。
『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。
すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。— 金完燮日韓「禁断の歴史」P・二百十二 小学館 2003年10月』(ウィキペディアより引用)。


すると、何となく女・安倍晋三という感じがしたのである。当然、歴史認識とか日本の侵略戦争問題などはどうでもよく、韓国資本と日本資本の競争だけしか、頭にないというイメージである。しかも、彼女の父は安重根が伊藤博文を暗殺したのと同様に暗殺されている。おまけにその日も十月二十六日と同一である。これでは、安重根の記念碑に礼拝しに韓国に行くのはやぶ蛇ではないか、という思いがあった。

しかし、その後の朴大統領の行動を見ていると、これが本当に朴正煕氏の娘なのだろうか、というように歴史認識・従軍慰安婦問題などを巡って、日本政府との対立姿勢を示した。おまけに、私が絶対支援してきたオバマ大統領、かなりの人物かと想像している習近平両氏と和やかに会談していた。彼らが太鼓判を押すならば、私の思い違いかと考え始めた。そして、何よりも、安重根の記念碑をハルピンにつくるという姿勢を見せ出す。これならば、韓国行きを検討しても良いのではないかと考え出した。ここは兎も角、(私が勝手に決めた)我が友・オバマと習近平を信用することにした。

ただ、韓国の方で受け入れる用意があるかどうかが気になっていた。というのも、一九九五年タイに『旅に心を求めて・教材編』の関係で行ったときに酷い目にあっていたからである。初日に無理矢理おかしな店に連れて行かれ、ビールと称して飲物を飲まされ、その後体調が悪化し、途中で帰国を申し出た。ただいろいろと理由をつけられ、最後まで何とか頑張ったが、体調悪化の関係で一切外に出られない羽目になった。同様のことをされると困るため、相手が私を受け入れる姿勢があるかどうかを確認してから行かねばならない。

【タイ・アユタヤ・1995年撮影】(フィールドワーク・教材や文献作成旅は事実上1997年で休止となり、本格的再開が2013年春であった。)

1995年3月アユタヤにて撮影。フィルム式カメラ。
☆なお、この時テレサテンとニアミスとなる。私は何か飲まされ体調不全となり途中帰国を拒否されチェンマイに向かう。そのチェンマイでテレサテンが数日後か約1月後に死亡する。今考えると、もう、この頃から不自然な出来事が。タイのスラム訪問阻止事件(体調悪化事件、更にタクシーに乗っても目的値に行かず一時間グルグル回り元のホテルに戻され、…阻止…)、また、当時交通渋滞で有名なバンコクで、私が移動する際は全て車は一切停滞しなかった。また渋滞撮影に行ったが、全て車はスムーズに流れていた。どこでも私が行く所では。


二〇一三年十一月十六日までは、母の一周忌の準備と、既に記した様々な妨害・挑発のため身動きができなかった。母の一周忌が終わった後で、阪急ツアーがソウル二泊三日で九千八百円(往復の飛行機代とホテル二泊分の宿代、それにホテルと飛行場迄の往復送迎費込み)をつけてきた。これは、誘いかどうかと見ていると、何と、今度は先の条件で七千八百円をつけてきた。
燃料チャージも、ソウルは近いのでガソリン代が高く、円安と言われている今でも五千円(実際には返金され四千四百円)程度である。これで、ソウル行きが決まった。そこで十一月二十三日に申し込んだ。場合によれば催行中止になるかと思っていると、最少催行人員一名とあり、実際催行決定となった。ちなみに、行きも帰りもこのツアーでの申込者は私だけであった。これは後に分かるのであるが。

ただし、七千八百円の場合には、ホテル未定とあったため、安重根記念館近くのホテルに変更した。その場合の最安値は一万三千八百円である。目的は安重根のため仕方がない。さらに、その日は村の組合の総会・忘年会と重なったため、それよりも少し高い一万五千八百円で手を打った。ここで重要なのは、価格を相手が私を受け入れるサイン・シグナルと考えていたことである。どう考えてもソウルまでの往復飛行機代やホテル代等の合計で、こうした金額で収まるはずがない。

ともかく、ソウル行きは決まった。だが、お寺問題を含めて諸トラブルだらけでソウル行きの準備はできなかった。安重根の本も読めなかった。もっとも、安重根に関しては頭を白紙にしていくという当初の方針からこれで良かったのかもしれない。なお、この二泊三日の旅は出発前から広島以上の強行軍が予想されていた。既に、三日目は午前四時前起床となっていた。しかし、実際には、私の想像以上のスケジュールとトラブルが待ち構えていた。

なお、この旅行の当初の予定は以下の物であった。一日目が安重根記念碑と記念館、二日目が板門店、三日目は早朝午前四時前に起き、五時チェックアウトし、そして帰国である。なお、僅かな追加料金を支払えば三泊四日も可能なため竹島(独島)行きも検討していたが、それは中止した。当時の姉宛手紙より抜粋する。


―☆☆姉への置き手紙(十二月四日)より引用☆☆―

(1)安重根記念碑撮影と安重根記念館
 ①日本の植民地支配に苦しんだ韓国の怒りの跡を見るため。
②原稿として「旅に心を求めて不条理編(その二)―安重根と伊藤博文」執筆のため。
③オバマが広島か長崎の原爆記念館に来るように、間接的なメッセージを送るため、ソウルに行く。

※③については既に二〇一三年初頭から動き、本年十月には親友・EM君の墓参りのついでに、広島平和記念館に行き、同封のメッセージを同館に備え付けてあるノートに、多くの外国人が見ている中で英文で記帳してきた。よって、欧米人(ケネディ駐日大使を含む)の目につくであろう。
 次に、私が伊藤博文を暗殺した安重根記念館・記念碑に、日本政府などの反対を押し切り行くことは、オバマに、米国内の反対を押し切り原爆記念館に行くことへの精神的後押しをする可能性もある。これ以外にも、もっと大きなことでオバマに伝言したいこともあり、……、予算と照らしながらアメリカ行きを検討している。アメリカのホテルで外出中に、私の新国際秩序・新国際経済秩序に関する提言(英文)をホテルに置いて帰ると同時に、ホワイトハウスにも直に送付するかもしれない。……

(2)三十八度線及び板門店視察
 三十八度線の現況をドキュメンタリーで出版社に送付するため(就職活動)。

(3)竹島(独島)視察(韓国からのツアーなどは調べていつでも行ける準備は整えつつあった)。しかし、これはものすごい妨害が予想されるため、今回は中止とした。これもあり、ソウルの件は行く直前まで内緒にしていた。ちなみに(1)と(3)は相当妨害が予想されるのみか既に妨害や牽制の嵐を被っている。(1)に関連しては菅官房長官談話、
(3)に関しては外務省通達などである。

 また(2)は……、まずないとは思うが危険性はゼロではない。特に、北朝鮮の事実上のナンバー2である張成沢(チャンソンテク)氏が最近失脚したようであり、それが私にどういう影響を与えるかは不明である。(私とは全く無縁の人物であり、全く性格・政策も知らない)張氏は親中派であったため、中国と北朝鮮の関係がどうなっているかは、多少なりとも私に影響を与える可能性があるかもしれない?
 私は党派中立でどの国・政党とも対等のつきあいを方針としているが、私の知人の関係で中国とのパイプが幾つもある。依って、他の人と異なり、私の場合には中国と北朝鮮問題は身の安全に影響が幾分ある可能性もある。

 私の大学院時代の恩師・内田満先生は死の直前に北京大学で講演され、更に内田満先生の知人かつ早大政経学部出身者には福田康夫氏、河野洋平氏がいる。いずれも、親中派であり、中国とのパイプがある。また、大学時代の恩師・後藤峯雄先生は既に承知の如く、中国とのパイプは当然もたれていると思われる。よって、張事件があったため、私の場合には三八度線で北朝鮮がどうでるのか不明のため、当初の計画を再検討中である。
 ―☆☆引用終わり☆☆―


α(2021年追記)


(2021/05/27 19:43~22:50追記)

A:竹島(独島)
竹島(独島)から語ろう。
竹島(独島)は「男島(西島)、女島(東島)と周辺の岩礁群からなる総面積約0.20km」である。資産価値は一応2千万円程度と言われているが、実際には、領土問題がなければ電気もガスも水道もない島である。本来は水もないはずである。
事実上は、日本の無人島以下の資産価値と考えた方がよい。

こうした(資産上は)無価値な島を巡って争うことが如何(いか)にナンセンスかを、日本人に分かってもらうため、竹島(独島)に韓国経由で行く計画を密かにたてていた。
ところが、私が中国にゆき演説をぶったのがバレ、何重にも妨害工作があった。
下記は妨害ではないが、内閣官房長官談話も出されていた。

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菅義偉官房長官は23日の記者会見で、日本人3人が韓国の出入国手続きを経て島根県・竹島に上陸したことについて「韓国の領有権を認めたと誤解を与えかねない」と述べた。そのうえで「中止するよう求めたが、振り切って上陸したことは極めて遺憾」と批判した。

「竹島は歴史的にも国際法上も我が国固有の領土であることに変わりない」と改めて強調した。

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韓国側からの竹島上陸「極めて遺憾」 官房長官
日本経済新聞 2013年5月23日 19:08
https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS23027_T20C13A5PP8000/
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さらに、私が竹島に行けぬように、カメラ器財をやられた。私の主なカメラとレンズは以下である。
カメラ
①(メインカメラFX、3600万画素)D800→事実上故障。帰国後修理必要とNikonから言われた。
②(サブカメラDX、1200万画素)D90→正常も高感度対応なく同時に画素数不足。

レンズ
シグマ(超望遠ズーム)150-500 OS→不調(持参せず)
ニコン (望遠ズーム)AF-S VR 70-300不調→帰国後ニコンに持参すると調整必要と言われ、調整された。
タムロン(標準ズーム)SP 24-70 VC→帰国後タムロンに持参すると故障ということで東京に送られる。
ニコン(超広角ズームレンズ)AF-S 16-35 VR→正常。
シグマ(マクロレンズ)105 OS→2102年下旬から突如ピントが合いにくくなっており、撮影には常に不安がつきまとう。
ニコン (標準・単焦点)AF 50 1.4D

すると、まともに計算通りに撮影できるレンズは16-35㎜と50㎜のみである。後はだましだましの撮影である。
カメラはD90のみであり、暗くなるともう撮影は不可能である。
これでは、もし、現地で宿泊延長しても、苦労して竹島(独島)に行っても、まともに撮影はできない。

なお、レンズやカメラの不調は2013年10月から11月下旬にかけて、ホテルなどに泊まる度にやられていった。
だが、訪韓前はまだ微段階+αのため、事前に修理には行かなかった。もっとも、訪韓前日にニコンに調整に行こうとしたが、様々な問題で行けなかった。また行っていても、修理時間から翌日には間に合わない。

所が、訪韓してからは微段階から更にどんどん悪化していった。後には(私のオリジナルの)手振れ技法か、ピンボケ技法か、更には得意技の多重露出しかできない羽目になっていた。

訪中の際の演説で、相当神経質になった人がいたのであろう。
まさに、浜田隆政包囲網の如しであった。
こうして竹島(独島)訪問は断念に追い込まれた。
姉が村の人に言わずに行って良いのかと言っていたが、上記の中で言えば更に妨害は悪化したであろう。
訪中の演説が聞いたため、訪韓、2015年の訪米では凄い包囲網となる。訪韓では来週述べるがホテルに手を回し、事実上の、終始監視状態に置かれる。
訪米は更に凄(すご)かった。

また、私がホテルに泊まり、独り言で政経関連を言われたら困ると読んだのか、事前に無意味な独り言催眠を2015年5月野麦峠以降は常時かけられ、同時にフィールドワーク潰しに入られる。(というのも、国内でも私が泊まるホテルには国内外からスパイ網が金魚の糞の如くつきまとわれ、盗聴されているからである。幾つも証拠がある。)
もう、2015年以降はまともなフィールドワークは不可能となっていた。ときには24時間近い(全く意味不明の、訳の分からない)連続独り言などが旅先で起こり、連泊ならば行動中止し、ホテルで大半寝ているという状況に追い込まれる。同時に重要なホテル内の演説類はこれで阻止される。

なお、カメラ、レンズ故障については、下記の仮説をたて、下記に記載している。
☆☆☆☆☆☆
①(韓国謀略説)訪中の後で、従軍慰安婦肯定論を私に結びつけられ、その誤解から器財をやられた。韓国国民の反感をかった。
……
②(北朝鮮説)訪中の際に、#張成沢 #金正男に絡められ誤解をされ、北朝鮮政府ににらまれた
……
③(ニコンのライバル社説)カメラメーカーの争いは熾烈(しれつ)であり、まさに企業戦争であった。
……
④訪韓の最大目的は安重根記念碑撮影であった。さらに、当初は韓国から竹島(独島)に行くか、それとも板門店に行くかを検討していた。そこで、日本政府関連の一部か何かが、その妨害工作をした。
……
⑤映画説で話題提供を図り続けている人間による仕業。
……
⑥さらに、その中で、私の周辺で、白土三平の『カムイ伝』型で、私と近隣の親戚をいがみ合わす工作(近隣・親戚間との分断・対立策謀や謀略)が2002年頃、遅くとも、2005年頃から徐々に進行していた。その関係者達による一貫した攻撃の一部かもしれない。
その工作は、該当者のアキレス腱(けん)若しくは琴線(きんせん)を狙い、徹底的に、ときにはこじつけてでも無理矢理、私と該当者と対立をするようしむけてきた。
……
簡単に言えば、①は韓国政府説(朴槿恵政権説)、②北朝鮮説、③ニコンのライバルメーカー説、④日本政府説、⑤映画説、⑥集団グループX説である

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気が向けば一言【政治】№117・日本のフィクサーME・パート2付録編⑦・2013年訪韓の経緯―1
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1025/
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その他については以下参照。
ME:P2付録:訪韓:韓国説
気が向けば一言【政治】№118・日本のフィクサーME・パート2付録編⑧・2013年訪韓の経緯―2
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1028/

2019/1/23 ME:P2付録:訪韓:企業説
気が向けば一言【政治】№122・日本のフィクサーME・パート2付録編⑪・2013年訪韓の経緯―3企業説―1
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1061/

2019/1/28 ME:P2付録:訪韓:企業説
気が向けば一言【政治】№123・日本のフィクサーME・パート2付録編⑫・2013年訪韓の経緯―3・企業説-2
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1063/

2019/2/3 ME:P2付録:訪韓:企業説
気が向けば一言【政治】№124・日本のフィクサーME・パート2付録編⑬・2013年訪韓の経緯―3・企業説-3
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1066/

2019年3月3日 ME:P2付録:訪韓:政治説
気がむけば一言【政治】№130・日本のフィクサーME・パート2付録編⑭・2013年訪韓の経緯―4・政治説
http://h-takamasa.com/Blog-2/a-01/news/1089/


今回は時間の関係で後は盧武鉉氏について語るのみとする。それと米朝会談布告についてもごく一部のみ記す。

B・(追記2021/05/27 23:06)

盧武鉉(ノ・ムヒョン:朝鮮語: 노무현:1946年9月1日〈旧暦8月6日〉- 2009年5月23日)について。

2003年6月6日から9日まで権良淑夫人とともに国賓として日本を訪問された。
「この際、筑紫哲也司会のTBSテレビの特別番組に出演し、在日韓国人を含む日本の一般市民と交流を持っている」
このときに、盧武鉉氏と筑紫哲也氏の番組で御対面となる。

なお、私が多少、意識したため、彼は私にのんびりとできるように配慮したのか、一度、番組から消えた。そして、私はもうその場面は終わったのかと普段着型で意見を述べた。私の意見を述べた後で、彼は再度、番組に登場した。
私の勘違いかもしれないが、その気配りに対して好感を抱いた。それが盧武鉉氏との最初の御対面である。
多分、2003年と思う。
その後も盧武鉉氏との関係もあったが、それらは拙著『日本のフィクサーME(上)』(Kindle、KOBO各百円、海外では$1:日本のフィクサーME・パート1に該当。2015年出版)を購入して読んでいただきたい。
盧武鉉氏がTVでの問答で「…もう誰もボクの話はききたくないでしょう…」とメモをパラパラ事件の謎の一部も解けるであろう。
同時に、彼への提言内容も分かろう。

なお、筑紫哲也氏の番組を見だしたのは、彼が私と反対意見を思い切って言ったときからである。その時の模様を『日本のフィクサーME(下)』(Kindle、KOBO各百円、海外では$1:日本のフィクサーME・パート1に該当。2015年出版)に書いている。

☆☆☆☆
 「筑紫哲也(ちくしてつや)氏との出会いは二〇〇〇年頃だったと思うけど、はっきりとは覚えていないんだ。筑紫氏の名前は知っていたけど、双方向けテレビ(TV)での会話はそれまでしたことはなかったし、この番組は時間帯が遅いので余り見なかったんだ。
 ところが、ある日ふとこの番組を見たら、そのときに筑紫氏は意を決したように、僕の見解とは違う意見を言ったんだ。恰(あたか)も、僕が一切(いっさい)見なくなってもかまわないので、信念をまげずに自分の見解を言うという姿勢で。若(も)しくは、争いが嫌いな筑紫氏が私とTVで遣(や)り合(あ)うのを覚悟の上でという風に。その雰囲気を感じて、このときからこの番組を可能な限り毎回見ることにしたんだ。


 というのも、僕の意見と違う意見を誠実な対応で述べられるときほど貴重な情報はないからね。もっとも一部の芸能人が故意に失礼な・下品な・非常識な挑発というよりも恫喝(どうかつ)をしてくるときがあったけど、これは放送倫理協定に違反しているね。こういうチンピラ芸能人ではなく、筑紫氏的な態度には真摯(しんし)に向き合うことにしているんだ。

 自分と違う意見を誠実な人が真率(しんそつ)な形で言われるとき、それほど貴重なことはないからね。万一、同意できなくてすら、そうなんだ。だから、左翼の連中から何を言われようとも、中曽根康弘氏などが喋(しゃべ)るときはじっくり聞いているよ。中曽根氏もTVでの双方向け対応時には紳士にみえるね。背(せ)筋(すじ)もピンとし品(ひん)もあるよ」
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『同上書』第2章・徒然なるままに――我がニュースキャスター達:第5節・大勢に物申したニュースキャスター・筑紫哲也

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C・米朝首脳会談への道(2021/05/27 23:31追記)
この話は次回するため、今回は、ごく一部のみの掲載に留める。

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私は、中国で、北朝鮮問題は北朝鮮を開放経済へ舵を取るように誘導するしかないと言っていた。そして張氏は開放・改革経済に関心があったようであるが、私とは無関係の人物でしかない。また、「金正恩を排除し、(時には暗殺し)、彼の兄と置き換えようとする動きがある」ことは中国で話している。しかし、それは(米韓は元より)中国も既に知っていたことと考えている。同時に、私は「そうした暗殺などによる政権交代による方法は、現代では時代遅れであり、そうした行為には賛成できない」と明言している。
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「2013年の真相」(2014年初頭に小学館に送付文書:新免氏にも同年渡している文書である。最近書いた内容ではない。)
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【二〇二〇年追記】張成沢の件は日本のテレビ等で聞いた噂であり、私自身は何も知らない。誤解かデマが飛んだのかもしれない。下記などを参照。
公式ブログ「日本のフィクサー〝ME〟続編メモ(六)・国際緊張緩和のための情報公開・中国から韓国へ:2・2・訪中と北朝鮮問題。」
http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=16824

これが後に米朝首脳会談へ関わる契機となる。具体的関わりは2017年9月からである。これ以降は次回へ。後はγの写真を掲載する。