□以下の文章は2014年9月18日にFacebookに投稿したものである。
●Facebook 書込№14-047-1:小さな旅「お~い。あれが宿禰島(すくねじま)だ」
(追悼・新藤兼人監督)
「あれが、宿禰島(すくねじま)だ」。
「はあ~」
「新藤兼人監督が撮った『裸の島』の舞台だよ」(写真1)
甲板にいた船頭さんが叫んだ。
残念ながら、私はこの映画はまだ見ていないが、この映画のことは知っていた。
2014年8月6日のことである。
三原から瀬戸田への船の道中である。だが、何故、私がここに!
前夜、知人に会い、その後三ノ宮で、(各種クーポンを利用して)2500円で宿をとり、青春18切符を利用して、この日は広島原爆平和公園に向かっていた。目的は、原爆投下の日に、韓国・北朝鮮原爆犠牲者慰霊碑再撮影と、各種の慰霊碑に合掌するためであった。
その私が何故ここに!
三原で汽車が動かなくなったからである。大した雨にも思えなかったのに、洪水で山陽本線は運転見合せと言う。呉線は徐行運転のため広島へは3時間半、新幹線切符口は長蛇の列で13時頃の列車には乗れない。だが、本日中に我が家に帰宅しなければならない。そこで、広島は後日日帰り再訪とし、拙著Facebook№14-007(平山画伯)に記した平山郁夫画伯の故郷・瀬戸田に行くことになったのである。
この日の海は濁(にご)り、黄色であった。空は一面に雨雲が立ちこめていた。海好きの私は飽きることなく海を眺めていた。そのときに船頭さんが「宿禰島(すくねじま)」と叫んだのである。
ともかく、宿禰島(すくねじま)を撮影した。
その数分後、海の上で鳥が出迎えてくれた。(写真2)
「ようこそ、瀬戸田へ」、と。
そう、新藤兼人監督にもいろいろと思い出があった。
海を見ながら、その思い出に耽(ふけ)る。
TVなどから人が見ているはずなどあろうかと、映画について好きなことを喋ったことがあった。
「監督も老いる。ならば、その老いに逆らわずに、そのものずばりを作品にしたらどうか」、と。
それから暫(しばら)くして、新藤兼人(1912~2012)監督が「午後の遺言状」を作った。1995年のことである。私の言動が影響したなどとは思わなかったが、実にタイミングが良かった。
やがて、2005年頃、NHKを見ていると新藤監督が出てきて、テレビで御対面の如(ごと)く感じを受けた。
「おい、若いの、今度は、ワシの方が年の取り方を教えてやる」。
「今、93歳だが、まだまだだぞ。まだまだ自宅で一人生活をし、英語も勉強しているぞ」
このころ、新藤さんはNHKのラジオ英語を毎日されているとのことであった。そこで、私が1988年頃の同テキストの内容を言うと、新藤さんが「からかってはいけないよ!」と、私の茶(ちゃ)化(か)したことをさりげなく訂正された。
次に、2011年頃に、99歳頃の新藤さんを再度NHKで見る。
しかし、姪の方との共同生活で、昔と異なり、自活型ではなくなっていた。生活自体は依存型に見受けられた。同時に相当衰えた風に見受けられた。
だが、作品意欲はまだ衰えていなかった。
「まだ、作品はつくるぞ」、と。
衰えた風に見えた爺(じい)さんが、作品作りの話となると、目が生き生きしてきた。活力も見られた。では先の老いた振りは演技かと疑う始末であった。
2012年5月29日に、新藤さんは100歳で亡くなられた。
その後の、特集番組で、88歳頃の新藤さんが、大きく腕を振り堂々と、たくましく歩かれている姿が放映された。88歳から100歳までの新藤さんの生き様・老い方を見せてもらった。
彼は私に年の取り方と死に方を教えたかったのかもしれない。
天国の新藤さん、『午後の遺言状』と『裸の島』、それに最後の遺作は必ずみるからね!
なお、このときは撮影計画抜きの偶然の船旅であり、撮影アイデアなしで撮ったため、作品風の写真は皆無であった。だが、大した写真ではなくても、宿禰島(すくねじま)(新藤兼人の代表作『裸の島』舞台の島)の写真を掲載しておく。同島保存運動への、僅かな協力にでもなればと思う。
(写真-3)三枚目の写真はこの日訪れた平山郁夫美術館である。
宿禰島保存実現を祈願!
●書込№14-047-2:新藤兼人監督追悼-2(映画監督への期待を込めて)
次に蛇足を記す。
新藤監督の晩年を思うにつれ、今度は山田洋次監督への注目を再開する予定でいる。彼の映画はほとんど全て見ていた。(特に、『キネマの天地』と『男はつらいよ・第一作』が良かった)。しかし、『学校』という映画から欺瞞(ぎまん)性を感じ、一切見るのを止めた経緯がある。
だが、山田監督(1931~ )も八十歳を超えられた。新藤さんの八十代から百歳までを思い出しながら、では山田監督は今後「どう老いを抱えながら、映画をつくるか」をじっくり観察させていただくことにした。
山田氏が怒る失礼なことを敢(あ)えて記す。山田氏の映画には、まるで学校の教師のような映画が多かった。言うことも同様。ならば、山田氏自身の老いの中で、新藤氏の如く、作品との葛(かっ)藤(とう)の中で老い方を見せてくれとなる。
老いれば、当然、若い人には相当な面で勝てない。だが彼は説教人(せっきょうびと)である。では、実際に実例で教えを請おうではないか。新藤監督を振り返り、つい山田氏を挑発したくなった。小さい喧嘩を売っているのかもしれない。
その代わり、今後の作品は見るであろう。そして、老いてても、良くなければ映画『学校』と同様に辛辣な批評を一部分でするであろう。容赦無しで対応する。
チャップリンも『ライムライト』を堺に作品に限界が出た。チャップリンが苦闘した歳(とし)の壁との対峙(たいじ)を見たい。チャップリンができなかった壁を誰が乗り越えるか。
そういう意味で、米国のスピルバーグ監督(Steven Allan Spielberg, 1946年12月18日 ~ )にも、彼が80歳を超えたら注目をするであろう。
今調べると、彼はまだ67歳であった。私よりたった5つ上でしかなかった。
「では、では、では、……」である。
高齢化社会では現役バリバリではないか。
最後に、懐かしい思い出は、植木等さん、森光子さん、森繁久弥さん…、についても書ける時間が取れればと願っている。
なお、下の写真の一番目と二番目は、この日訪問した瀬戸田にある平山郁夫美術館の後で、帰り道を間違えたどり着いた耕三寺である。時間の関係で中には入らずの撮影である。参考までに記念掲載しておく。
なお、三枚目以降は1996年耕三寺を訪問した際の写真である。
斯(か)く言う私も、知らぬ内に老いのせいか、写真に勢いがなくなっていると昔の写真を見ながら反省しきりである。
【参考】今回のFacebook関連箇所→拙著Twitter番号●14-98-1~。
「8月6日平和公園での黙祷ができず、残念。
8月5日三宮にて友人と会談。翌日は三宮から広島平和公園を目指す。
青春18を使用し、午前6時半宿を出て、広島で4時間滞在し、帰路につき、我が家着20時予定であった。交通費は全額で2360円。……」
三宮より広島を目指す。
【2015年4月25日追記】
本年、可能な限り、「お~い。あれが宿禰島(すくねじま)だ」を、簡易作品化して、浜田隆政写真物語・和の間にある「広島の小さな旅」に収録したいと考えている。 そのときに、本格的な追記文章などを掲載予定でいる。
作成時期は本年5月か、本年8月に広島平和公園日帰り旅(往復全費用2300円を目指す)を行った後になるかは不明である。
なお、最近Twitterなどに記しているように、私は写真展はしていない。写真物語展である。写真抜きでも物語が残る。だが、思いがこもった写真があった方が良いので掲載しているだけである。この〝和の間(ま)〟のテーマは原爆である。
原爆を中心に、コリアンと日本の問題も取り上げた。
平山郁夫画伯は広島で被爆をされている。{平山郁夫『道遥か』、日本経済新聞社、1991年参照。}また、平山画伯は原爆の絵を何枚も描かれている。
新藤兼人氏には「原爆の子」という映画がある。ウィキペディアに以下の紹介文章が記載されていた。
「1952年(昭和27年)8月6日公開の日本映画である。近代映画協会製作、北星配給。監督は新藤兼人、主演は乙羽信子。モノクロ、スタンダード、97分。
長田新が編纂した作文集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(岩波書店刊)を基に、新藤兼人が監督した作品で、戦後初めて原爆を直接取り上げた映画とされている」
写真物語和の間は原爆をテーマにした物語館である。それを文章、写真、動画、資料、イラスト云々で完成させる予定でいる。本年8月6日まで展示予定であったが、私の構想通りに完成させるにはまだ時間がいるため、展示期間を延期する予定でいる。
再度、記す。浜田隆政写真物語。和の間は原爆をこの世からなくすことを念頭に作成するつもりでいる。そのための、写真展