徒然なるままに№22・写真残酷物語第六話・「私は頭が良い人はすかん」、では言おう「私は美人はすかん」(完成・公開版)
写真残酷物語付録編・完成版(メモ版ではなく完成版も、誤字・脱字などの修正はする。)
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最終更新 2018/09/15 10:59 11:37 12:11 13:27
2018/09/22 16:18追記
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写真残酷物語付録編
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ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
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ふるさとではないが、亡き伯母・叔母に思いを馳せる。
母は作州の国(美作の国)の東の端で生を受けた。
七人兄弟であった。
長男を除くと後は姉妹である。
母の古里の実家には小川が流れていた。
幼少の頃、泊まりに行ったときには、朝目覚めると、小川のせせらぎが聞こえた。
遠い昔の思い出である。
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母は2012年11月27日に死去したが、私に幾つもの土産を残してくれたようである。
それも、写真に絡めて幾つもの悪戯(いたずら)を母の姉妹にしたように思われる。
母が亡くなった年の夏には母と仲が良かった母の姉が亡くなる。
この伯母は我が家にもよくこられていた。
伯母の葬儀のときも、写真?で少しおかしい。
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やがて、2014年には但馬地方の母の妹(姉かもしれない?)が亡くなられる
葬儀や四十九日に行くと何かおかしい。
何か写真に絡めてか?
詳細は面倒なので書かない。
帰路でも、コーヒーで目を覚(さ)ませ…。
確かに、コーヒーを飲むと、私は寝られない体質である。
だから通常は飲まない。
しかし、この日は眠くないのに目を覚ませとは摩訶(まか)不思議なことを言われると思った。
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帰宅後に、記憶をたどると、1996年6月12日に伯母と母を乗せて但馬に行ったことがあった。
当時、私は大学教壇か大手予備校教壇などでのプレゼンテーションを生業とするが、同時にその教材も兼ねて、人が見たことのない作品(文章・音楽・写真・動画・イラスト…などの融合作品)をつくることに専念していた。
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その作品の一つが『旅に心を求めて』シリーズであった。司馬遼太郎と松本清張を足して二と言いたいが、それに演出家チャップリンと脚本家・山田洋次や黒澤明が加わったようなものである。
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この旅に心を求めてシリーズの 第六章「峰山越え・教材『旅に心求めて』の作成苦悩について-思い出の自転車の旅の教材化を目指し、再度峰山を越える」がある。
それは、1985年3月上旬に、当時すんでいた岡山市庭瀬から、実家・美作を通り、まっすぐ横に進み、丹波篠山の知人のところまで行く旅の計画をした時の話である。
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「少し、時間がかかるのでは」所ではない。
交通手段に自転車を選んだのである。
岡山市庭瀬から美作の我が家で一泊、後は早朝家をでて、まっすぐ横に進めばその日の内に丹波篠山へ行けると考えた。
そして実践した。
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ところが、中学校の頃地理の授業を手抜きで聞いたツケが来た。
何と、山があった。それも中国山地である。
特に千メートルを超える峰山峠では雪が降り出し、しかも夜になり、手が凍りかけた。後の話は、いずれ旅に心を求めて「峰山峠越え」で記そう。(ただ、帰路は山道も含めて、一日で150キロ以上自転車をこいだことだけ記しておこう。だが行きは帰路と比較にならぬアドベンチャーであった。)
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だが、当時、自転車の旅のため、撮影も資料も集めていない。
この旅を教材化(本)にするに当たり、資料集めと写真撮影の後(あと)追い旅をすることになる。今度は自家用車である。
まず1994年9月21日、次に95年8月23日に関連地の写真集めと資料収集にでかけた。生野町役場や、大河内町役場や、更に生野町教育委員会などにも足を運び、職員の人にいろいろと尋ねたり、資料をもらったり、購入したりした。生野銀山にも資料集めに足を運んだ。
だが、こだわり派の私にはまだ不十分であった。
そこで、1996年6月12日(水曜日)に再度、峰山峠界隈に資料収集と撮影に行くことにした。だが、ふと考えると、この辺りには私の従兄弟(叔母)の家がある。
それならば、毎回一人で自家用車ではもったいないので、ついでに母を乗せていこうかとなった。そのついでに、母が言ったか、私が言い出したか忘れたが、昨州の端にいた伯母も乗せていくことにした。
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目的はあくまで資料収集と教材関連地の撮影であった。当初は伯母と母をいとこの家に預けて、私は再度教育委員会や各地の役場その他の資料を置いている所を回る予定でいた。
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ところが、時間の関係や従兄弟の寺が居心地が良いので予定を変更して、私も従兄弟の寺で時間を過ごしたという話である。
ついでに従兄弟の寺周辺を撮影したというだけの話である。
本当は、教材の資料集めと旅に心を求めて第六章作成のための撮影旅行のはずであった。要するにフィールドワークのはずであったが、結果は中途半端な形となった時の話である。
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どうもその件で、我が家の狸婆(たぬきばばあ=母)が何か余分な企(たくら)みをしたようである。今考えると。
当時は、大変親しい伯母のため、私の方は何も感じなかった。2014年(従兄弟の家の葬儀や四十九日頃)になり、そう言えば…と思い出した。
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行きがけは、伯母が「私は頭の良い人はすかん」と食堂で言う。余りに親しい伯母のため、私の方は左の耳から右の耳であった。
「あっそう」という程度の反応である。
帰りに車の中で缶コーヒーを買ってきて「隆さん、目を覚(さ)まさねばいけない…」と。
私、そう、居眠り運転は事故のもと。この伯母さん立派と思っただけであった。
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ただ、私に二万円であったか渡されたような記憶があるが、これが気になった。当然、即座に受け取らぬようにすべきであった。駿台講師時代ならば当然そうしたし、伯母の方も何もしなかったであろう。
1996年頃は無収入よりもなお悪い、(専任前提の)岡山短大講師の関係で赤字財政である。それを気遣ってのお金と勘違いをしたのである。
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というのも、母の神戸にいる妹(叔母)が毎年我が家に4月頃泊まりにこられていた。同窓会か何かの関係であろう。その都度、私に二万円程度のお金を渡された。叔母は我が家に泊まられたお礼で、無収入所か(今考えれば)専任詐欺による赤字財政の私を気遣って私に渡されたと思っていた。そして、この神戸の叔母と先の伯母は同じ日に我が家へ泊まられることが何度かあり、そして同時期にお金もあれば…、尚更そのように思わされたのである。
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そのお礼に、毎年、叔母に礼状と写真を送付した。しかし、叔母は「隆政君、写真は送ってこなくてよいので」と言われたときもあるので、写真のお礼ではない。同様に伯母の件も解釈した。しかも、その翌年には精神疲弊が激しくなり、医師のアドバイスで岡山短大辞職の羽目になる頃である。その上、1990年から93年は大吐血と六十日入院を始めとする三度(40日、20日)の入院続き、更に精神が極度の鬱(うつ)病状態で機能していなかった直後頃でもある。
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ところが、その後も、伯母が何かにつけてお金を私に渡そうとしたので、ある日、私が困り切った顔をした。幾ら赤字続きでも老婆に金を貰(もら)うのはうしろめたすぎたからである。すると、伯母が「何を言っとんじゃ」と笑いながら言うと同時に何かに気づいたみたいである。
側(そば)にいた神戸の叔母は「言った通りでしょう」型でケラケラ笑っていた。
それから伯母からの金は姿を消したと思う。多分、2001年頃ではなかろうか。
私は当時は何のことかさっぱり分からなかった。
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さらに、年月を相当おいて、母から「但馬の叔母さん」からと突然言われ、幾ばくか(確か三万円)のお金をわたされた。私は母が但馬の叔母さんに何かをして、但馬の叔母さんが母にお金を渡し、母の金となったものを私に渡したのかと思った。
当時、必要な金がいるときに、母が「私はもう金がない。あ、そういえば、孫Yがくれた金があった、それをやろう」と言ったことがあるが、それと同じと考えていた。
時期は1996年ではなく、それよりも相当後の頃である。
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いつか忘れたが、2009年頃に写真関連で揉(も)めた頃ではなかろうか。ひょとすると、あれは但馬で撮った写真へのお金…をふと疑いだした。そして、もしそうならば返還した方が良いと考え、但馬に電話をかけた。すると、従兄弟が、私が電話をするのを知っていたかの如(ごと)く「隆政ちゃん、うちのおかんに何をきいても無駄やで。認知症で何もわからんで。それに僕に何を聞いても僕は知らんで」と言ったのでそこまでとした。時期はいつか詳細には覚えていないが相当後と思う。
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その件は、但馬の叔母の葬儀や四十九日(2014年)に行ってから、他の従兄弟の反応から相当はっきりしてきた。但馬の従兄弟は私と一つ違いで(私が一つ上で)、先の作州の端にある母の古里・実家で一緒に泊まらせて貰(もら)い、何度も遊んだ。我が家にも来て遊んだ思い出がある。本当に良くできた従兄弟である。
さらに、大学四年のときにこの近くで大学の仲間と合宿をしたときには、抜け出した私を城崎付近まで車でドライブに連れて行ってくれた思い出もある。
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そう言えば、母が何度も言っていた。
伯母が私に「頭の良い人はすかん」と言ったことを随分気にしている、と。ただし、この狸婆(たぬきばばあ=母)はにったりと笑って言った。それも何度も。
冥土の置き土産に何かをやったのであろう。まして自分の姉妹であり、おまけに伯母とは大変仲がよいときていた。
しかし、この伯母が「隆さんは私の甥や、甥や」と言っていた如く、大変かわいがってくれた伯母でもあった。
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ただ、母が「頭の良い人はすかんを伯母が気にしていた」と何度も言っていたため、もう冥土の伯母には届かないが、それへのお返しをしておこう。
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伯母には娘さんが二人いた。
その二人を順番に呼んで、私もそのいとこ(伯母の子)に言ってやろう。
「Sちゃん、ちょっといいたいことがある」
S「隆(たか)さん何や」
私「Sちゃん、僕は美人はすかん」、と。
それを言っちゃお終(しま)いだ。
何故ならば訂正がきかない。
もし、私が御免、さっきの言葉を訂正するとでも言おうものならば大変なことになる。
Sさんが怒って言うであろう。
「隆さん、私が美人というのは嘘(うそ)というの」と。
これは訂正ができないのです。
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伯母さんが私に訂正すれば、では、私は頭が悪いというのか、となる。
よって、あの言葉は訂正がきかない言葉である。
しかし、私などは、小さい頃は悪戯(いたずら)ばかりしており、中一頃までは学校でも家でも一切勉強などせぬ人間であった。遊びのはしごで忙しかったので。よって、頭が良いなどの言葉には慣れていないので訂正はしなくてよろしい。否(いな)、訂正してもらっては困るのです。
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この二人のイトコも、彼女らが高校時代には我が家に良く来ていた。思えば五十五年ほど昔の話である。やはり、「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」であろうか。
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私は本来高校で柔道をやり、大学は田舎の大学(金がないので国公立か、逆に授業料完全免除してくれる[多分偏差値なるものの低い、辺鄙・ヘンピな地の六流?]私立大学)にゆき番傘をさし、下駄を履き、タオルを首にぶらさげ、卒業後は田舎の教師かあるいは肉体労働に専念し、合間に野良仕事をし、退職後は百姓でもしようか型人間であった。
どこかで道を間違え、学問の世界に入っただけである。
本当にどこかで道を間違えたのである。
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伯母や叔母が生きていて、万一、私の著作でも当たり、金が入れば、きっちりとお返しをするのであるが、どうもそれは夢で終わりそうである。第一、伯母も叔母ももう冥土である。なお、神戸の叔母の家には私と同じ年の同じ月の同じ日に生まれたイトコがいた。その弟もいた。懐かしいが、先に書いた如く「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と同様に、懐かしいとふと思うだけの状態が、今の私には一番良い。
同じく、但馬の従兄弟とも、懐かしいのみか、(久美浜などのついでに)但馬界隈にふといくことがあるかもしれないが、寄らずに帰るであろう。やはり「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。
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母の葬儀や但馬の叔母の四十九日などでは、大学がどうだこうだ…何のことかさっぱり訳が分からぬことがあったし、今もさっぱり訳が分からないが、それらも月日が全てを流し去るであろう。母の実家の小川の流れの如くに。
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狸婆が何かをやったかもしれないが、それらは、来るべきときがくれば、…そのときに考えよう。
ただし、この狸婆(たぬきばばあ)こと、我が母は自分の姉妹以外には上記のようなことはしていないはずである。昔の人間は、自分の息子が得になることを、近所や親戚にはしないはずである。その逆はやっても。それが田舎の昔の人間である。
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写真残酷物語は本来今回のような文書とする予定でいたが、妨害・挑発・とりわけ催眠で文書をガタガタとされた。
今回でうち切るか、後一回書くか不明であるが、後一回書くときには、前回Twitterに記載した、2013年の訪韓を中心に簡単に記載することになろう。もう、写真残酷物語に親戚や近所が登場することはない。同時にそれを願ってもいる。
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追記。もし、1986年に但馬まで自転車で行っていたら、みんなびっくりしたであろう。しかも雪でびしょの姿で。当時、深夜(零時すぎ)でも、大河内と生野銀山の間付近で宿がなく弱ったが(その話は旅に心を求めてシリーズで語ることになる)、あの時に自転車で但馬まで行かなくて良かった。迷惑の域ではないから。
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【今回の文章を振り返り】半日寝かせて文章を振り返る(2018/09/15 10:52記述)
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①今振り返ると、伯母・叔母からの金銭は固くお断りすべきであった。お金は人間関係破壊の原因となりうるからである。それ以上に、老人にとって金は生きる上で貴重な存在である。
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②ましてや、そのお返しを「取りあえず写真では」更なる間違いであった。写真・カメラは仕事道具だからである。
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③ただ、多くの人が突如我が家へ来訪し出したのが父死亡(1993年)直後からである。その頃は駿台辞職後の五年後くらいである。そこで、再度、遠からぬ内に私が自力で金を稼ぐことが可能と考えていた。
そのときに、叔母・伯母にはお返しをすれば良いとも考えていたこともある。これほど私への人権侵害(職業選択の自由・営業の自由・経済の自由・人身の自由…の剝奪)が長く続くとは夢にも当時は思っていなかった。
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④精神に関する病気問題。1990年から93年末頃までは、鬱(うつ)病を激しくした精神状態であった。私は休眠期と呼んでいる。それが回復しかけた直後であり、更に次には躁鬱(そううつ)の躁状態を激しくした状態になりつつあった。それ以上に、後に見る催眠云々(うんぬん)型症状もあった。簡単に言えば、私の精神に関する主権をも完全に奪われていたことがある。
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⑤尚、こうした金ですらほとんど授業などの元手や、学生に対してシュバイツァー型で臨んでいたため、学校への寄贈となっている。学生に配布している教材などは自己プリントで、突如の不足分などは我が家のコピー器でインク用紙自腹で行っていた。あるいは授業百パーセント器財も自腹であった。…岡山短大専任確約がきいていたと思われる。
この頃、確定申告に行くと、「このままでは生活保護しか道がないのでは」と担当者から言われた。実際に投資をせずに、それを待った方が長持ちをしたかもしれない。だが、当時は岡山短大の専任確約の件があり、しかも人権侵害がここまで長引くとは思っていなかった。だから投資もした。
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⑥写真残酷物語は、今回のような軽快な形で記す予定でいた。ところが、本当に催眠としか思えぬ形で、おかしな問答に巻き込まれ、記述した内容(徒然なるままに№18~21)の商品価値はガタガタとなった。そこで、営業妨害の証拠として、該当箇所のメモのまま残し、清書する場合には別の箇所で清書を検討している。
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★但馬のオバさんは叔母か伯母か忘れた。いつか調べてその箇所は必要時には修正する。今回は便宜上叔母としている。若く見られた方が、女性は喜ぶからである。
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2018/09/22 16:18追記
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▽https://twitter.com/Takamasa_Hamada/status/1043395674891411456
18-262-2【#徒然】№22・写真残酷物語第六話・「私は頭が良い人はすかん」では「私は美人はすかん」完成・公開版追記https://t.co/wmc1fnGtWr
この旅は自転車で夜中にずぶ濡れ、零時もこえ😭、その時泊まる家を紹介してくれた交番、風呂までいれて泊めてくれた家に御礼に行くのが主目的であった…が pic.twitter.com/Y0LpPpW49C— 浜田隆政 (Takamasa) (@Takamasa_Hamada) September 22, 2018
(同上とほぼ同じ内容を下記に追記)
【#徒然】徒然なるままに№22・写真残酷物語第六話・「私は頭が良い人はすかん」、では言おう「私は美人はすかん」(完成・公開版)追記
●http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=22028
この旅は自転車で夜中にずぶ濡れ、零時をこえ😭、その時泊まる家を紹介してくれた交番、更に風呂までいれて泊めていただいた家に御礼に行くのが主目的であった…が。
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