【🚧メモ段階】駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大との因果)

駿台事件真相編―6・駿台CM作戦―超多忙時代のあえぎ(岡山予備校。能開大との因果)

【更新履歴】

2024/06/19 大量にリンク掲載。2024/06/22 リンク整理作業。

2024/09/20 構想を追記。同時に、真相編5から6~7への流れを別Blogで掲載予定

2024/10/03 23:52 追記

 


個人情報公開理由(上記の648-5の場所には2024年5月頃から浜田正典氏以外の人がお住まいなので注意ください。)

 


①各職場の結合形態と私の父などとの関係

②相似形であった駿台女性事件🆚岡山予備校女性事件の比較

③上記と駿台CM編の関係

――駿台真相編1986年度の話題提供が女性から多忙へとシフト

 

 

 


(駿台真相編06に持って行く)
(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。

ただし、駿台予備学校…はお嬢様・お姫様が多く、犯罪の重要性に気づいていない可能性があるため、明白に、彼女らによりうけた危害を契機にどの程度の犯罪被害(拉致未遂、ひき逃げされる危険性…)に遭ったかも明白にした方がよい。また、関連での死亡者が多数でてもいる(もっとも一部は嘘の死亡であろう。Z3氏などは…)。ともかく、刑事犯罪者への犯罪協力者としての認識を持たせた方が良いと長期考えている。

他方、全く相似形であった岡山の予備校の滝沢、吉田はその後一切無関係を貫いてくれている。この相違はどこからくるのであろうかという謎もある。

 

 


3期=超多忙での苦闘
だが、女性に絡めたドタバタ劇ならば、人はいずれ飽きる。そこで、駿台時代の苦闘編3期はリズムを変えて、陰湿さを徐々に帯びてくる。
まず、契約違反から開始する。
1984年に駿台を辞めようかと迷っていたときに引き留めをうけた。契約は、立会人川端三郎先生の言葉(私立の高校などに行けば、何を担当させられるかわからない。駿台ならば政経だけでいけるぞ。どうだ、一つ駿台にいないか)と大滝部長の言葉(三年間保証)をあわせると「政経のみで三年間は生活保障する」であった。川端先生は大滝部長と私の契約の場で言われている。

ところが、1985年末トイレを利用して、全然話しが違う上京となる。大滝部長から、「来年度から政経と現代社会は最悪の場合には三齣になるかもしれない」と脅かされ、日本史を担当する羽目となる。
本来は政経だけでよかった。なお、政経以外で教えたことがあるのは倫社であったが、政経と同様の運命にあった。日本史と英語で迷ったが、英語はあまり得意ではない。日本史は教えるのは全く初めてであるが、三年頑張れば何とかなろう、であった。突然の、大滝部長の豹変で、半パニック状態で、占い師の言動により、英語ではなく日本史となった。
次年度の担当数を見ると、政経・現社だけでも生きて行けたが、もう、岡山の予備校でも駿台と閉校して日本史打診をしていたため、脅しをうけており「(駿台から授業の連絡があるころ)先生、もう今からは日本史を降りることはできません」と、やむなく日本史を担当した。

まるで岡山の予備校と駿台が示し合わせた如くであった。ちなみに、岡山の予備校は岡山進研予備校と言い、福武書店(現・ベネッセ)の運営していた予備校であった。後に、駿台とベネッセが提携して駿台ベネッセ模試を実施している。もはや何をか況んやである。共謀である。

なお、日本史については、古代~近世と近現代史とに分かれていたが、私は終始前者のみを担当させられた。後者は極めて政経に近く、前者は急石器時代…である。目が回る。また、仲の良かった教え子が、「日本史も担当する」と言えば大層喜んでいた。

こうして、大阪校に異動するや、駿台大阪校で(3泊4日大阪滞在で)政経と日本史、岡山の予備校で(週2日に亘り)政経と日本史、倉敷のポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)で英書講読と英会話、更に年間8本程度の駿台模試作成、福武書店で年8本程度の進研模試の監修と、毎週、実家美作、岡山市、倉敷市、大阪市と飛び回る日々となる。
その上で、面白半分に、駿台と全く相似形で岡山新研学院で女性問題2人を捏造される。こちらも催眠で始まった。そして同じく指一本触れず…そして終わるであった。

不思議なことに、岡山の予備校では駿台と異なり、その後、催眠で思い出し強要などはなかった。それがあたり前で。ちなみに、世間一般の人の感覚では容姿は後者(岡山)が上で…。何かおかしいやろ。

こうして、駿台苦闘編3期は違う形で行われる。同じだと視聴者が飽きるそうである。
なお、駿台とベネッセ運営進研予備校の関係は駿台ベネッセ共済模試でわかろう。私が駿台在籍中はなかったが。ポリテクカレッジ岡山(現・能開大中国)は駿台が裏から斡旋した疑惑を最近感じている。それらの根拠は後に記そう。
要するに、京都校の女性ドタバタ劇では視聴率は長く維持できない、それが全てであった。


次には苦悩…変として、契約違反となっていた、多数の教科持ちを強いてきた。(駿台で政経・現社・日本史)、岡山の予備校でも同様、岡山短大では英語、駿台模試作成、岡山ではベネッセもし監修…と。1984年度の契約では政経一本で三円間保証とするとなっていたが簡単に破られた。こうして、多数の教科持ちでの苦闘が始まる。

なお、同時期に、岡山の予備校でも駿台🚺ドタバタ劇と同じドタバタ劇が起こる。これには二つの目的があったようである。

一つは駿台での授業などへの妨害、二つ目は駿台と相似形により、催眠などの現象に一定の時期に即座に気づくようにするためであった。

そして、駿台の後半は、各種業務妨害、のちには拉致未遂被害などの刑事犯罪被害にも遭遇し、目的の授業を間座右は困難となるも、それでもまだ諦めずに苦闘しちる姿がほしかったようであ

る。


駿台辞職後には、ポリテクカレッジ岡山()では、前半は各種授業妨害(種として授業仲の私語と漫画読み学生…)、が登場し、中盤は意識不明に近い状態となり、後半は体当たり人間の如く部外者の導入である。こうして業務妨害は続き、それにあえぐ姿がクローズアップされたようである。

要するに、上記の如く、🚺問題が本質では一切ない。だから、ポリテクカレッジ岡山()では🚺は登場してこなかった。もっとも、女子学生はいたが、念をおして「質問は歓迎するが、女子学生は一人では質問にこないように」と何度か念押しをしてもいた。

能開第辞職後は政治の世界に巻き込まれていく。

同時に謎の💀グループが暗躍をしだしてくる。

こうして、村・親戚のトラブル(写真トラブル・冠婚葬祭トラブル・🚖関連トラブル、村でのいじめ構造)が引き継ぎ、私の目的(プレゼンエーション屋への道)や開票・起業を阻止されていく。ここでも🚺問題は一切登場しないか、表だっては登場しなかった。

ただし、母死亡の2012年を境に、2013年頃から徐々に🚺問題を再度絡める疑惑、さらには数年前から駿台の様相を示し、🚺によるストーカー被害が続出してくる。「女性問題」ではなく「女性が問題」なのである。本質は駿台時代と同様となる。

現時点でも不明なのは、どのようにして部落問題を絡めたのかということである。逆に言えば、部落問題が関与してくるならば、「人間違い」以外の回答は論理上はえられない。

こうして、(我が家の住所番地を七十年使い続けた家の)三男との人間違い説が浮上してくる。今度は人間違いを軸にして、私への業務妨害が多発となる。


だが、未だに一部被害が続いている。

出てくる回答は

①未だに、人間違いをしている人がいるのか。

②そのグループの人間が、途中で、私を金のなる気と考えて、中間搾取どころか、私の人身売買をしている疑惑である。

③👺などが、そのグループと私との対立を煽り、そのグループを潰したがっているのかという疑惑である。

この三つが主要な回答である。


(2023/09/04 15:55)現時点で、調査中の項目(不明点)
駿台予備学校の西山・横家・後藤という齣と進研予備校女性職員の滝沢、吉田は完璧な相似形であった。全く、瓜二つで展開された。後者は1986年度に催眠を多数使用されて被害に遭った。ところが、大きな違いがある。
岡山の進研予備校女性の件は、彼女らが親会社の福武書店・現ベネッセに移動した瞬間に、彼女らに関する催眠は止み、もはや今日(2023/09/04)まで彼女らに関する催眠問答や、記述強制は一切なくなった。他方、駿台の方は今日まで何度催眠強制で状況を語らされたり、書かされたりしたであろうか。
だが、女性熱の合計量は岡山の方が上だったのではなかろうか。
この謎が残っている。


23-268-4【#駿台 事件】と写真。先日以下の写真を処理
①おじょう🛵🚺の写真
②#駿台 事件🚺横家と後藤 の写真
③🇵🇭Philippinesの友人🚺マリーサとイルマ の写真
④岡山の予備校🚺滝沢と吉田 の写真
①~④は同じ構造で、同じことが1984~86年の間に起こった。
だが後が全部違う。その謎の解明のため、

※著作権は🤡私、肖像件問題で非公開としているが、絵風に加工すれば公開可能か。
何故公開するか。デマ粉砕のため。
①~④は全部同じ構造で同じ現象も、後が全く違う。何故、駿台だけを強制回顧かの解明のため。
また、駿台女性🚺美人神話を砕くため。①~④は最低でも全く同一で。

公開すれば容姿…は②(駿台)より①(🛵)が良いと思う人が多いかもしれない。
最低でも互角で。
性格は②不明。①は何度もデート。
実際に②横家・後藤は催眠熱ですらまだであり、岡田課長(駿台京都校2号館)への見合い斡旋依頼も迷い中でのドタバタ劇であった。すると、①🛵から②に行く必要性は皆無となる。
当然、②横家・後藤は登場不可能。そこで①が自分で1985年2月中盤以降に潰れる演技をした。
🛵よ、そろそろ白状せよ。もう全てばれている。楽になりましょう。

ともかく、①(🛵)がいれば、②(駿台)の話題すら提供できず。駿台は何のために②横家、後藤を雇ったかとなる。
そこで、映画関係者🤝駿台経営陣:
映画関係者が①(🛵)へ指示、駿台関係者が②(西山・横家・後藤・武内)へ指示が写真からも判明可能となる。
後日、駿台事件全貌編で🖊記載予定も📸写真を掲載できれば、言葉よりも早い可能性がある。
謀略で容姿は①<②と人が勘違いしているだけ。写真公開でこの勘違いがとける。公開時は絵風で肖像件に触れぬ配慮はするため、今、コミック型絵風で本気で掲載を検討している。

又②+西山美千代🆚④の比較→何故辞職後は④については後に誰も聞かぬのか。同じ状況で。
④は聞かずに②(駿台)ばかり聞くのか、の謎。催眠で②(駿台)のみ。何故、何故、何故。
④の吉田は本田美奈子似で現代若者には②(駿台)以上で。
滝沢は西山などよりも、男性に好かれやすいタイプで。
🤡は②(駿台)④(岡山)は性格上全部合わぬと思ったが催眠熱で🤷(おてあげ)が事実。
(🤡の父の師範1年後輩で父の知り合い)福武哲彦(創始者)→④に指示で彼女らが演技。

③(Philippines)は何故揉(も)めなかったか。③は本当の美人で。
美人という範疇(カテゴリー)ではアイドル並みで。多分本当にアイドルでは?
だが終始ともに友好であった。一時揉める危険があったが事情解説手紙で完全回避。では駿台は?
とりあえず③だけでも掲載するか。すると②(駿台)の美人神話が一気に崩れる。嘘ばかり。
性格が重要。然り。②(駿台)は全くどんな人か知らぬ。多分相手も🤡のことは知らぬ。

②③④いずれも同一現象であった→①も含め誰か一人が全貌を喋れば①~④全貌解明可能となる

ただし、駿台事件の本質は🚺女性問題では一切ない。
🎬🎦でのCM等の利権と人間違いの融合にある。

(2023/08/31記述)駿台事件:全貌編

新たな事実が判明しだい積み立て方式

駿台はポリテクカレッジ岡山と相似形。

共に先刻展開前に私を採用し、役割がおわりかけた頃共に、自主退職をしいられた。

浜田隆政個人のCM利用があった疑惑。

また、駿台とポリテクカレッジ岡山がどこかで繋がっていた可能性。ポリテクカレッジ岡山の①年目に山崎が強調された謎。

上記は浜田隆政個人への謀略。

他方、意味不明な挑発類は、我が家の住所美作市位田646にあるようである。

だが、浜田稔・千代子・正典家も1954年以降、「美作町位田646」を使用していた謎。同家の登記簿や美作市の地図では「位田648-5」である。

高橋氏が「人間違い」を強調。

即ち、どこかで位田648―5の被害が間違えて位田646に別に加わった疑惑



この後は各論で順次証明をしていくが、ここ数ヶ月は「山崎」が異常に強調されている。もっとも、山崎強調は、駿台に行くや即至る所で強調されている。山崎とは山崎春之氏を指すと考えて間違いなかろう。


総集六:岡山の予備校での類似事件と駿台辞職後の岡山の予備校の異変
2019/10/26
駿台:駿台類似現象:西田ひかる
№157・続々・独り言―女性…駿台、岡山…から西田ひかるまでの不可思議な催眠②③
http://h-takamasa.com/Blog-2/a01/news/1195/


総6:駿台と岡映氏、ポリテクカレッジ岡山と岡映。小泉純一郎。小渕恵三、菅直人
2019/11/2
駿台:事件以降
№158・駿台と能開大の件、更に岡映・小渕恵三・小泉純一郎・菅直人…まで。
http://h-takamasa.com/Blog-2/a01/news/1197/


総6・多数の教科持ち
2019/5/2 求め・駿台 補章-2:授業を求めて(1995年作成・2017等微修正)

http://h-takamasa.com/Blog/?p=11573


主たる賠償対象を駿台ではなく、ポリテクカレッジ岡山にした理由。女性の好きな振りゲーム四回の時期。交通事故…
2021/1/29 気がむけば一言(3)駿台辞職後も30年尾を引いている疑惑
http://h-takamasa.com/Blog-2/a01/news/1451/

駿台(西山・横家・後藤)と岡山の予備校(滝沢・吉田)相似形の謎、酔っ払い意識不明女性3人が別れ際全員意識正常変化事例、
2021/8/21 安らぎブログ
教育・女性をめぐる各種デマへの反論―4⑥・駿台、更に謎の差別文書の謎―⑥(=その6・駿台と相似形が岡山で等)
http://h-takamasa.com/Blog/?p=26538

 

2021/06/27
教育・女性をめぐる各種デマへの反論―4・駿台、更に謎の差別文書の謎①

教育・女性をめぐる各種デマへの反論―4・駿台、更に謎の差別文書の謎①


駿台が私を採用したのは、駿台が全国展開をするに当たってのCM目的であった、と。東京では駿台の知名度はあったが、京都・大阪を始めとして、全国展開(北海道、仙台、名古屋、福岡)するに当たってCMは更に必要との判断であった、とのことである。

実際に、私と関係を持った企業は原則として全て急成長をとげ、関係がなくなるや成長が止(や)んだ企業は多い。

ニコン、ベスト電器(1995~2000年代前半頃)、福武書店・ベネッセ(創業者・福武哲彦氏にスナックなどに連れて行かれたこともある、主として1981年~88年、ただし、ベネッセとのトラブルを含む薄い付き合いもいれれば2002年頃まで)、…とほぼ例外なしであてはまる。
同様の動機で、私を専任確約で招聘(しょうへい)詐欺をやったのが、ポリテクカレッジグループ(労働省所管、雇用促進事業団)であった。当時、総合大学とは別に短期大学校約28校の設置に併せてのことだそうである。当時約五千人いた従業員と予算の命運のための、専任招聘(しょうへい)だったそうである。

実際に、ポリテクカレッジ岡山(現能力開発大)では、私が勤務開始した頃は、推薦などを多投して学生をかき集めても、入学者は定員の約70パーセントであった。ところが、私が辞める頃には入学者のみで定員の150パーセント程度いたのではなかろうか。辞めた後でしばらくして見ると再度定員割れとなっていた。私が原稿でそれを指摘すると、推薦や幾つかの?は不明なれども、再度強引に定員割れしていない装いをしだした謎もある。

この解説の真偽は不明であるが、少子高齢化と言い訳もあろうが、私が駿台予備学校を辞職した後の駿台を調べてみるがよい。それ以上に、私が駿台を辞職すると予備校文化全体が終焉(しゅうえん)をした。私が格闘技に熱中すると、私が見ていた団体以外でも、格闘技全部で格闘技熱が起こったようにデファクトスタンダード自体を動かしたようである

2023/10/21
2023/10/21:公式blog

🤡ME全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ

🤡全貌編―1・☠(謎のX)と👮(警察官)と政治家(小泉純一郎、菅直人、安部晋三)、そして謎のZ。

《◇―5・労働省所管・能開大での荒れ狂う労基法違反・契約違反、専任詐欺被害》
駿台を辞めるや、☠(謎のX)は今度は能開大で策動を開始した。
バイトなどの偽学生や、学生の一部を買収して授業妨害の策動させるのみか、職員を買収して、労基法違反や契約違反のオンパレードをさせた疑惑である。

他方、能開大事件は別角度もある。
能開大の運営権者・雇用促進事業団は生き残りをかけて、🤡(ME)のCM力を悪用するために🤡(ME)に対して専任詐欺をやった疑惑である。

これには駿台も絡んでいた疑いがある。
駿台も🤡(ME)悪用でCMの限りをした後は🤡放逐を最初から計画していた疑惑がある。そのときに、逃げ道として、駿台ではなく、(労働省系大学校)能開大が本命であり、…と賠償責任を減らす目的で、駿台と能開大が提携した疑念である。そこで、同大学校(ポリテクカレッジ岡山)初年度は、駿台理事長と同姓の学生を目立たせていた謎も解ける。

さらに、雇用促進事業団も責任逃れをするため、同じパターンで、岡山中学・高校に「次年度春から、是非、専任に…」と言わせて、悪用した疑惑(当時の校長は桐山先生)がある。なお、(井上あさひなどがでた学校)岡山中学・高校に行く気はなかった。すると、桐山校長が「お前絶対に来るな」と一人芝居をした。
同時に、同校の専任として教壇に立つ期限の春にも連絡をせずにいたならば、それをごまかすかのように、桐山校長が突如、(ベネッセ運営の)岡山の予備校校長になった経緯がある。私が駿台と掛け持ちをしていた予備校である。

福武書店(現・ベネッセ)創設者・福武哲彦氏は、私の父・浜田耕治の後輩である。岡山師範で一学年下である。当時は寮生活のため、当然知り合いと思われる。そこで、私がベネッセ運営の予備校の教壇に立っていたときには、福武哲彦氏が飲みに行く際には、スナックなどに誘われて一緒したことが数度ある。更に、ベネッセが運営している、進研模試の監修(後にはチェック)を担当してもいた。

後に、ベネッセは駿台と提携して、駿台ベネッセ模試を行いだす。


英語と言っても英書購読である。
こうして、教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。



ME:P2付録:奇妙な人:2019/01/11

【政経・仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

【1983年度】
更に、二十年ほど前頃に不思議なことに気づいた。
第一が福武哲彦氏の話である。
先の予備校は福武書店(現・ベネッセ)系列である。
福武哲彦(ふくたけ てつひこ 1915年 – 1986年4月26日)氏が、予備校の忘年会・新学期開始時の会…に頻繁に顔をだされた。職員の一部も不思議がっていた。この予備校は大変小さな予備校で、駿台の大教室一つ程度の学生数であった。
他方、福武書店は日の出の勢いであった。女子学生の就職人気ランキングの常にベスト10に入っていた。ボーナスも、12か月だしたときもあったそうである。思えば昔の話である。自惚(うぬぼ)れ抜きで言っても、私と蜜月のときには大抵の企業がそうなっていた。十以上簡単に実例を挙げられるが別の機会にしよう。

福武哲彦氏が、二次会でスナックなどに行くときに、遠方から私を指指し、「あれを(あの先生)もつれていけ」とよく言っていた。そして、スナックのような場所で、女性職員を通じてレミーマルタンを飲まして貰(もら)っていた。
ところで、2000年か2010年頃かわすれたが、父の遺品を整理していたときに知ったが、福武哲彦氏は岡山師範時代、私の父の一年後輩であった。当時は全寮制と思うので何度も口をきいていたであろう。

2010年頃までは、こうした経済界の大物と表から知り合いかと驚いた。今は、『日本のフィクサーME』の世界では、こうした経済人の方がME登場のボンと知り合いかと逆に驚くであろう。息子さんの福武総一郎氏との出会いは後で記すが、後五年このまま過ごせば、(現在は同国ではまだ無名に近いかもしれないが)New Zealandでも私の名はかなりでるようになるかもしれない。そのときに分かるであろう。
超巨大企業(北欧などの国家以上の規模を誇る企業)では、既にそうなっているか・なりつつある。通常の巨大企業では、国家情報を入手できぬため、何も気づかない場合が多い。自惚(うぬぼ)れではなく、世界の経済・政治の流れの中で私の存在抜きでは理解できぬ部分がでてきた以上、はっきりと書いた方が良い。

1981年度にはもう一つの動きもあった。
倉敷の予備校である。ここでは賃金支払遅延を含む労基法違反のオンパレードで泣かされた。詳細は今回は省く。この予備校は後に倒産したが、倉敷で大労基法違反に遭(あ)うことをここで予告されていた。実にこの予備校以上の労基法違反に遭遇する。それも労働省の職場とも言える所で。
こうして、1981年度を終え、1982年度に以下入る。
なお、この1981年が岡山県教員採用試験の年齢制限上最後の年であった。どうなるのであろうか。



【真備高校退職時:1982年】
1982(1981年4月~82年3月)年の就職口は以下の状況

①駿台甲府高校採用試験全国公募に応募→合格
将来、専任可能、甲府高校への移動も可能、ただし、しばらくは予備校で授業をしてほしい。交通費はどこから通っても新幹線など全額支給する。グリーン車待遇は後に知る。ホテル代金などは予備校持ちとの話であった。ちなみに、一次から三次試験まであった。最終合格日は面談の1981年11月22日で、担当者は矢田部長といった。尚、早大大学院政治学研究科の最終合格発表も1976年11月22日であった。

②岡山県立井原高校から二年間専任できてほしいと電話連絡が入る。同校の教師が留学か何かで二年間不在となるためだそうである。後に人から聞いた話では、井原高校校長の息子さんを私が予備校で教えていたようであった。そこから私に目をつけたそうである。待遇は正式教師と同一であった。私が岡山県立高校採用試験の年齢制限にかかるので、二年後から大変ではと聞くと、「(もし来られたならば)悪いようにはしない」と言われた記憶があるが、当時は意味がサッパリ分からず、断る。

③岡山の(福武書店の)予備校からも将来専任にならないかなどと、個人的には言われていた。

④小野作次郎校長が関与していた福武書店系の塾→「授業風景を見て、君ができると思えば即合格」=自分で決めろとも言われていた。

⑤自分で採用してくれと手紙をだした学校から返事があった。当時の校長と会談した。一つが岡山中学・高校(岡山の灘を目指すと称して設立した学校)、もう一つが白陵高校(兵庫県)である。後者は、理事長か学校長自身が対応してきた。時期から言えば、このときに会談したのが創始者・三木省吾さんだと思う。大変ユニークな人で、後に、岡山白陵中学に一時籍をおいていた、楽天の三木谷浩史君(楽天株式会社社長)に諸事情からそのときの話を手紙に書いて檄(げき)を飛ばしたことがある。会談に当たっては、交通費も手当も支給してきた。
結論は両方とも、担当教科問題その他で駄目であったが、両方とも、校長自らが長時間一対一で対応してきた。

⑥公の私学センターなどを通して、正規に受けた私立高校は全部駄目であった。 もっとも、ものすごい人数で、ベルトコンベア方式で処理されていた。

※⑦これらの活動をする前に、当時の真備高校校長に、私を真備高校で専任にしてほしいと直訴した。校長は「担当教師の数からいって無理である」。
私「将来も無理か」。
校長「将来も、今後少子高齢化社会、学生数激減を考えると難しいと考えた方がよい」。こうして、動く前に、まず真備高校校長に将来の相談をしていた。
以上 2019/01/11 22:52下書き 以下続く。


【1982年、悪魔のささやき】
1982年は駿台(政経)、岡山の予備校(政経・倫社)、福武模試監修、岡山の予備校関連の寮などで教える…となった。駿台は、まだ私の観察期間のため、週二日(三コマ六時間程度)であり、こうした掛け持ちとなる。
ところが、駿台でやり甲斐(がい)があるのみか、駿台での私の評価もあがっていった。同時に、思っていた以上に駿台での教材研究はものすごい時間をとられた。そこで、授業への責任上、仕事を減らす方向に入った。まず、寮関係を辞める。次に、岡山の予備校の倫社関連をやめようとした。かなり評判が良かったようで、当時の校長から相当引き留められたが、次年度から辞めると押し通した。相当気まずくなった。

ところが、整理しているはずが、相棒のS先生(京大で博士号取得、湯川秀樹博士の授業も受け、奈良女子大などでも教壇に立っていた、私よりも二十才ほど年上の教師)から、労働省系大学が新設されるので、一つ話だけでも聞きに行ってくれという打診があった。私は当時は喧嘩をしてでも、仕事を減らしていたときである。その上、次年度(1983年度)からは、駿台の授業担当数も大きく増えると部長から聞いてもいた。コマ数は17コマ前後と。1983年度からは、実際に、月曜から木曜が授業、金曜日は質問日で月曜から金曜まで京都のホテル住まいとなった。

駿台という舞台で政経を教えるのは、私に大変マッチした。生き甲斐があった。ここで人生の勝負はあった。後は伴侶をえて、毎週三日温水プール、それ以外は授業準備だけ、…そして老後という、私にとって最高の人生となっていた。私にすれば理想であるが、ドラマとすれば大変平凡な物語となったであろう。そこで、悪魔のささやきが始まる。

岡山の予備校で校長に引き留められても減らしているときに、新しい仕事を持つ訳がない。ちなみに、減らそうとした岡山の予備校の単価は60分で五千円台か六千円台である。(駿台はそれよりも高い。)交通費などは当然支給される。他方、労働省系列大学は当時50分二千円か二千二百である。その上、百キロ未満は交通費なしという。担当教科は「前期法学、後期経済学」である。

こうした教科の準備は大変であり、即断ろうかと思ったが、相棒S先生が「浜田、確かに良い口ではない。しかし、駿台は所詮予備校であり、他の大学の教壇に立つには、労働省系大学の方がよい。ともかく、話を聞くだけ聞きに行ってくれないか」。
私は駿台でやり甲斐をみつけており、行く気はなかったが、ともかく話だけを聞きにいくことにした。
そしてお断りして帰る予定でいた。
ところが、行くと、「非常勤講師ではなく専任できてほしい」。
だが、当てになるだろうか。S先生は、この学校は労働省系の大学校で、重要な根幹は衆議院・参議院を通して決める学校だ…(だから心配ない)と言われていたが、駿台などで居心地がよく、辞めたくなかった。しかも、S先生の言動を疑う訳ではないが、もし、御破算になることをも警戒した。駿台に辞表を出した後で、御破算になれば路頭に迷うからである。

そこで、私が聞いた。
「専任と言うのはいつからですか」
当時の前身高等岡山職業訓練学校校長(ポリテクカレッジ設立後の初代副校長)が、「次年度(1983年度)春からです」。ということは、半年後くらいから即専任ということである。半年後ならば間違いはなかろう。
我が家の実家は岡山県、更に、私も安定した道の方が将来楽だろうと、考えていくことにした。
校長が言うには「法学と経済学だけでは無理なので英語も担当してほしい。そうすれば間違いない。一般教科の専任は二人で、一人はM先生が数学と▼▼を担当し、もう一人が浜田先生で英書購読(五クラスで五齣。ところが実際には二コマであった。後に五齣にすると言っていたが)と法学・経済学担当…ということで」で話がついた。

英語と言っても英書購読である。
こうして、教材集めに入った。ただし、駿台に迷惑をかけないため、いつ辞表を出すか迷っていた。
即出せば良いが、念には念をいれて、両方の準備をしていた。しかし、突如では駿台も困るため、もう辞表を出そうと思い、辞表を書くことを決意した。
すると、それを察知したかの如(ごと)く、岡山短大から電話があった。できすぎたくらいに間一髪であった。
岡山短大がいうには、「来年春からの専任は難しくなった。しかし、必ず専任にするので、しばらくは非常勤講師ということできてくれ」であった。
なお、すべて非常勤講師で、英語・法学・経済学、更に予備校で政経、模試作成や監修では無理なので、取りあえず、法学と経済学の授業を私の友人に担当してもらい、英語だけにできないかと相談した。相手はOKであった。ただし、将来の専任になるためには、見知らぬ人に法学と経済学を任すことはできないので、私の知人で固めた。
簡単に言えば、教師捜しを私がした。
こうして、1983年は専任前提での岡山の短大、駿台、岡山の予備校、模試監修や作成となった。短大は新倉敷駅(岡山県西側)、岡山の予備校は岡山市、駿台は京都市…で忙しい日々が始まる。
短大がなければ、我が家から駿台まで高速バスですぐであるし、あるいは岡山の予備校まで自家用車かバスで行き、そこで授業をし車ならば預けて、新幹線で駿台に行き終わりであった。我が家の建て直しが終われば、我が家へ戻り、我が家を拠点に活動が可能であった。
短大用の宿を準備し、更に交通費は自腹であった。
もし、駿台に辞職をだしていたならば大変な所であった。



【1983年度】
1983年になると、恰(あたか)も専任詐欺もみ消し事件が起こる。
岡山短大と全く同じパターンで、灘高校を目指していた、岡山中学の校長から電話が入る。
「専任になってほしいので、少し話を聞きにきてくれ」、と。
行くと、桐山校長が「来年春から、専任できてくれ。担当は中学校の国語だ」。
私「免許は社会科のため、教壇にたつとしても社会科で」
校長「それは心配しなくてもよい。(仮免か何かで)対応できるし、一定の時期には社会科に移ってもらう」、と。
突然の話の上に、この頃は引く手あまたであり、この学校の労働条件が余りよく見えなかった。1981年と83年では全く状況は違っていた。

駿台も大変居心地がよくなっていた。
それよりも、岡山短大との専任契約がある。
同じ専任で、しかも両方とも地元・岡山県ならば、短大・大学校の方が楽である。
しかし、何か勘違いをしているようで、「お前(若しくは)、君、来る(だろう)な(=来るだろう=来なさい)」と一方的であり、私の返答もできない状態にあった。

しかも、筋問題から、専任確約の岡山短大などと相談しなければならない。
どうも、桐山校長は、私を教員浪人で(1981年頃と同様に1983年頃でも)相当困った状態にあると勘違いしたのであろう。若しくは灘を目指しているため、もの凄(すご)い学校からオファーしているのだから有り難く思えと勘違いをしている節があった。とにかく一方的であった。

この頃は、労働省系短大に専任確約でおり、駿台には新幹線グリーン車で、ホテル代学校持ちという厚遇、福武書店系列・岡山の予備校でも「いつでも専任」という雰囲気の上に、福武哲彦氏から直(じか)に指名されて、スナックなどに連れて行かれていたときである。模試も、進研模試、駿台模試と日本四大模試の二つまでてがけていた。
おまけに、東京校の駿台文庫の職員から、丁寧な形で接待され、進研模試などについての話を言わされた(企業秘密部分は言っていないし、私は企業秘密は知らない)。後に、これがきっかけでベネッセと駿台の共催模試となる。いわば、この仕掛け人が私に近い。


この頃は、はっきり言えば、岡山中学・高校などは、単なるOne of themであった。しかし、ここでも効いたのが、数か月後から即専任という口説き文句である。
しかし、同一文句は岡山短大で聞いている。
そして、一方的に返答の有無を与えず、帰された。
一体何なのか、と。
このややこしさ。

岡山短大は即専任から暫(しばら)く待って貰(もら)えば確実に専任、岡山中学は即専任も当面中学の国語担当である。
私が一番苦手な教科が国語であり、私に断らすために故意に言ったのではないかと疑う始末であった。私が大学受験で関学を受けたのは当時は珍しい国語抜きで私立大学文系を受験できた唯一の大学だったからである。私が受けた、関学の入試教科は数Ⅰ・数Ⅱ、英語、世界史であった。選択次第で国語がないので関学を受けたことを知った上で、国語で勧誘したとしか今は思えない。当時は今以上に大変国語が苦手であった。
そして駿台は面白いのみではなく、採用に当たって専任は可能と言われていた。しかも場合に寄れば駿台甲府高校ですら不可能ではないと言われていた。

①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。

今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。

話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである。

☆☆☆☆☆☆
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【(3)の内容】1983 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
……
(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
☆☆☆☆☆☆
第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
☆☆☆☆☆☆
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そこで、岡山短大を選んだ。(また、S先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。

今度は、(岡山中学・高校の)校長は態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。

こうして、この福武書店系列の予備校用に良質教師をスカウトする作業を無料で私が行うことになる。
このときにはこの予備校はまだ合併前で、福武書店系列・直営の予備校であった。
国語の教師に駿台でかなり評判の良かったF先生を、河合塾から看板に近いA教師を、駿台で評判がよかった物理のN教師を、名古屋界隈(かいわい)であったか、外国人で英語講師として評判がよかったD先生を相棒のS先生経由で…と。これら交渉のための交通費、通信費は全て自腹である。

だから、この頃、福武総一郎氏(当時福武書店副社長)に桐山予備校校長か、それとも事務長(福武書店社員、後にベネッセに戻る社長室係室長?)などを通じて紹介されたときに、福武総一郎氏はいつも「お世話になっています」と、私に会釈をしていた記憶がある。
この頃は、彼はまだ副社長だったと思う。
哲彦氏が生きていた頃と思う。

福武哲彦氏と私の父の話や、哲彦氏に直(じか)にスナックに誘われた件を除いても、実際に自腹をきり何人もの教師をスカウトさせられていたのである。その代価は一円も請求していないし・もらっていない。
同時に、岡山の予備校は1983年~84年頃は(職員の一部に世話になったため)義理で行っており、経済的には場所問題から必ずしもプラスではなかった。ただし、この頃に関してであり、それ以外の時期ではない。
幾ら社長でも、恩恵なしで、他人に世話になったり、他人の労働力・私財を無料で受け取ったりしていれば「お世話になっています」とかお礼を言うのが当たり前だろうし、そうなっていた。

2021/12/07
気がむけば一言・【回想】No.270:1981年回想・尾野作次郎氏との出会い―ユニークな採用試験

【回想】No.270:1981年回想・尾野作次郎氏との出会い―ユニークな採用試験

そこで、尾野先生に聞いた。
「採用試験はどうなるのか」、と。

尾野先生は言った。
「採用試験はある。
採用試験は次のようにやる。
私がこれはと思っている教師がいる。
その教師の授業を一度みてくれ。
そして、君ができると思えば、即合格である。
君が無理と思えば不合格である。
一度、君がそれを見て判断してくれ。」
自分で決めてくれ、であった。

要するに、予備校講師などで模擬授業をして合否を決めるのは知っているが、その逆でこられた。
尾野先生がもっとも良いと思っている教師の授業を私に見学させ、合否判定を自分でしろ」とこられた。
この尾野流のやり方と、当時の進研予備校のスタッフに世話になったり、気に入ったりで、この予備校に長いをすることになる。

2019/01/11
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」


①岡山中学は即専任(約数か月後~半年後:ただし教科は一番苦手な国語)
②岡山短大は必ず専任。それを前提に教壇に。経営者は旧労働省所管、雇用促進事業団運営で潰れる心配はない。牧歌的で1987年までは大変授業は楽であった。
③駿台=専任可能性が大。楽しい。金が良い。ただし、いつ専任かは不明のみか、前回書いた女性問題が浮上しつつあった。

今、考えれば、迷うように仕向けてきたか、若しくは後に言う岡山短大の専任詐欺を隠蔽(いんぺい)するために岡山中学をいれてきたのだろうか…。
しかもその証拠が間もなく登場する。
結果として、岡短の専任確約を隠蔽する罠(わな)となっていた。このときはややこしい詐欺にあった状態にあり、相談した人には大変迷惑をかけてしまった。しかし、故意に錯乱するように仕掛けられると誰でも何が何か分からなくなる。この時の岡山中学・高校校長が、後に記す、どの職場に移動されたかを読めば即座に理解できるであろう。
岡短の件は、(岡山中学の件ではなく)全体の流れから巧妙な結婚詐欺にあったが如(ごと)くであった。

話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである。

☆☆☆☆☆☆
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【(3)の内容】1983 年度出講後に、岡山中学からの専任招聘要請時に当時副校長へ専任の件の問合せ時の返答。
①専任の件 1984 年頃は中曽根行財政改革の関係で難しく数年間は無理かもしれない。
②但し、数年間を過ぎれば理論的に考えてまず専任は大丈夫
③同時に、事業団と私の専任への交渉は行ってもいく
④この場で、細かい専任の賃金一覧表、また職員住宅の説明及び専任への具体的ななり方。即ち「専任時には採用試験は一応あるが、あると言っても、浜田先生の場合には形式であり、受ければ問題はない(必ず通る)ので 気にする必要はない」など。
……
(解説)私が正規職員の労働条件に不安を感じていると、「機構」職員等の年齢別賃金一覧表を見せられた。そのときに、私が専任・職員等の賃金が安くてびっくりした顔をしてしまった。すると、上記④などで、職員住宅などがあるので……と説得をされた。依って完全に引き留めと解釈した。少なくとも心理的にそう理解し、岡短専任になると決意し、岡中、駿台の専任の口などを棒にふった。確か、私が岡短にいるという結論をだした後で、副校長は「君の一生の問題故に岡中に行くなとは私の口からは言えないが……」となっていたと思う。事実上専任ということで引き留めて、岡短にいるとなった後での言動である。
☆☆☆☆☆☆
第3回配本:『恐るべき労基法違反』第1章:公開日2016年7月7日。PDF=(1.5MB)(7/28微修正)24~25ページから抜粋。
配布箇所→http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
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そこで、岡山短大を選んだ。(また、S先生によれば、この専任確約の件はテープか何かで金庫か何かに保存されているので安心しろ、と何回か聞いてもいた。)
そして岡山中学・高校を断ろうと考えた。
これまた良くできた話が起こる。
お断りの手紙を出そうと考えていた頃、福武書店系列の、岡山の予備校に行く。驚いた。岡山中学・高校の校長が予備校に来ていた。私を呼ぶので、専任契約の話で返答が遅いという苦情かと思うと違っていた。
何と、岡山中学・高校の校長は解任され、福武書店系列の岡山の予備校校長になったという。書いていて思わず笑ってしまった。こんな馬鹿なできすぎた話があろうか。

今度は、(岡山中学・高校の)校長は態度がガラッと変わり、事情も幾分分かったのか極端に低姿勢で私に対応してきた。
「君に専任確約の件で返答するのが遅れて申し訳ない。だが、こうなった以上、この予備校をもり立てるため是非協力をしてもらえないだろうか」、と。

こうして、この福武書店系列の予備校用に良質教師をスカウトする作業を無料で私が行うことになる。
このときにはこの予備校はまだ合併前で、福武書店系列・直営の予備校であった。
国語の教師に駿台でかなり評判の良かったF先生を、河合塾から看板に近いA教師を、駿台で評判がよかった物理のN教師を、名古屋界隈(かいわい)であったか、外国人で英語講師として評判がよかったD先生を相棒のS先生経由で…と。これら交渉のための交通費、通信費は全て自腹である。

だから、この頃、福武総一郎氏(当時福武書店副社長)に桐山予備校校長か、それとも事務長(福武書店社員、後にベネッセに戻る社長室係室長?)などを通じて紹介されたときに、福武総一郎氏はいつも「お世話になっています」と、私に会釈をしていた記憶がある。
この頃は、彼はまだ副社長だったと思う。
哲彦氏が生きていた頃と思う。

 

日本史 2019/01/11
気が向けば一言【仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」

【政経・仕事】№121・日本のフィクサーME・パート2付録編⑩・「奇異な人生と謀略の仕掛け人・仕事編」


話を元に戻そう。結局駿台と岡山短大で迷う。ただし、駿台と岡山短大のケリをつけてから岡山中学は断る予定でいた。もう、この頃は後者を相手にするような状態ではなかった。岡山中学・高校の校長と知人が知り合いとか、その他で門前払いできなかっただけである。1981年と83年では全く違っていた。


駿台に相談すると
H係長「交渉に当たり、部長は浜田先生を助専任にと言う腹はあるので、専任前提の助専任として一筆をとられるように」
●●部長「駿台は浜田先生を必要としています。三年間は政経一本で生活保障、三年後は先生がどうなっているか不明のため三年後に…」(H係長のみか後の校長W先生も在籍の場)
私は、岡山短大との専任確約があったため、ダブルクロスになるのを避けるために、駿台専任確約はとることは道義的にしなかった。同時に、岡短専任問題も三年間は保留で筋を通すことにした。
ところが、●●部長が政経のみでの三年保証を、担当教科全部での三年保証へとすり替え、それをモニターに残らぬように偶然トイレであったという形で、トイレの中で事実上変更された。本当に臭い話である。厳密には契約違反であった。詳細は『閉じた窓にも日は昇る』の中に当時の詳細な経緯を記している。
もし、政経のみで三年保証ならば、日本史担当はしなかった。
強く抗議できなかったのは女性問題(指一本触れず、外でもあったことはないが不可思議な女性問題)が浮上したことや岡短との契約問題からであった。


岡山短大副校長との会話は以下の通りである

 

 

 

 

2024年6月8日 | カテゴリー : 政治経済 | 投稿者 : TAKAMASA HAMADA