徒然(つれづれ)なるままに№15・写真残酷物語・第一話裏(ウシロ)のオバチャン(1)
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※これから記す話の一部は中国でも結構知られていた。国際的な話も後に登場するかもしれない。写真トラブルの話は、近所の人よりは中国(政府だけか、中国国民全体かは不明)などの方が実は詳しいのである。
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更新 2018/07/06 17:41
2021/10/22 2:31 アドレスがリンクするように技術的修正
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(一)裏(後ろ)の小母さん
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我が家は、田舎(いなか)。
田舎、故(ゆえ)に、面白(おもしろ)い形で家を呼ぶ。
我が家は本家なり。
我が家の裏は「後(うし)ろ」と呼ぶ。我が家のうしろだからである。
我が家の上は「うえ」。
我が家の親戚で我が家より新しければ新家。
我が家から分離した家は「分かれ家」である。
まずは、うしろの話である。
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私は英語ができると言ったことはない。英語は余りできないと言ったことはある。
しかし、一度だけ、英語ができると面白半分に言ったことがある。
我が家の裏に住む小母さんが、私に聞いたことがある。
「タカちゃんは英語ができるんか」と。
私は言った。
「小母さんよりは英語ができる」と。
勿論、冗談である。
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だが、映画説などならば、私が自惚(うぬぼ)れていると世間に誤解される危険があった。あるいは小母さんに対して失礼な人間と誤解される危険があった。
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それを気にして、小母さんが、我が家へ来た。
裏の戸をどんどん叩きながら、「おばちゃん、おばちゃん」、と。
うしろの小母さんが言う、「おばちゃん」とは私の母のことである。
年は一つほどしか違わないが、何故か、小母さんは私の母をオバチャンと呼ぶことがあった。通常は母の名を呼ぶのであるが、裏の戸を叩くときは「オバチャン」である。
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母が裏の戸を開けた。
すると、うしろの小母さんは下着(シミーズ)一枚で我が家へきていた。裏の家から我が家までは二~三十メートルであろうか。
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しかも、その間は県道沿いである。
そこで、県道を通る車から丸見えである。当時70代後半頃であっただろうか。
1995年頃のことである。
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何故、そうしたのか。
多分、私が自惚(うぬぼ)れているなどと誤解されるのを回避するため、私はこんなオバチャンで英語など分かるはずがなかろう、という印象を世間に与えるためのように感じた。
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そういえば、岡山短大を辞めた頃、村で冷たくあしらわれそうになった時がある。この小母さんがかけつけ「あんたらは…」と怒っていた。
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大変、子ども好きな小母さんであった。
私が小学校の頃、学校の帰路、自転車でであうと、私を呼びとめ、イカの菓子か何かを貰ったことも何度かあった。
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また、この家には盆柿があり、熟れたときには、「タカちゃん、食べにおいで」とほぼ毎年声をかけてもらった。
そのほか、この家は蚕(かいこ)を飼っており、蚕が食べる実をたべさせて貰ったりしていた。
おばさんと私は約35才ほど離れていた。
私の小学校後半頃に、おばさんは40代後半だったであろうか。
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お子さんが二人おられたが、私がもの心がつく頃は両方とも家にはおられなかった。すでに就職されていた。だから、私がおばさんにかわいがってもらっていた姿を見たり、そうした情報を余り知っておられないかもしれない。
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もう亡くなられて十年余りとなる。
懐かしい思い出である。
なお、小母さんの葬儀のときは、私が弔辞を述べさせていただいた。
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(二)村の写真アルバム
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ところで写真の話に入ろう。
私は写真及び芸術には全く関心がなかった。
関心を持ち始めたのは1994年(私が41才)の頃である。
私の作品『旅に心を求めて』シリーズや『生命への畏敬(いけい)』シリーズを開始して、半年目くらいである。というのも、このシリーズでは大変写真を使用する。最初は、市販のものをコピーし、それをプリント印刷して教材としていた。
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しかし、1994年から、本を出版することを意識し始めた。丁度一眼レフカメラを中古で購入した頃からである。他人の写真を使用すると、著作権・版権にひっかかり、許可をとるのが大変であり、面倒なためである。それ以上に許可がとれないことすらある。
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そこで、私の著作に挿入する写真撮影目的で、やむをえずカメラを開始した。
当然、本のテーマに従った場所での撮影に限定されていた。
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だから、1994年末、母や姉一家と家族旅をしたときでも、その方針は貫いた。当然、仕事に無関係なため、母も姉一家も写していないに等しい。甥だけがついてきたのでやむを得ずシャッターを二枚きった。これだけである。後は著作で使用できる風景のみである。
何故、母や姉などを写さないか。当時は、出版などが当たり印税などの収入が入れば、あるいは岡山短大以外でも大手予備校などでも収入が入り始めれば、青色申告で、カメラを減価償却費として落とすつもりでいたからである。
同時に、仕事道具を私的なことに使うことには抵抗もあった。更には、トラブル問題も含めて、すべきではないと考えてもいた。最初に、そうした危険を指摘したのは私である(1994年後半には明確に指摘していた)。
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著作は、主人公が文書であり、それに写真と自作イラストなどを活用する作品群である。主人公は文書などのため、カメラはコンパクトカメラで十分と考えていた。ところが、私のコンパクトカメラが1994年前半に故障し、次に父のコンパクトカメラも故障し、更に父の大昔のペンタックスが故障し、父の古いオリンパスも不調となった。すべて1994年前半から中頃にかけてである。
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そのときに、一眼レフカメラの中古(F401X)が二万円台であり、コンパクトと類似価格のため購入した経緯がある。レンズはシグマのダブルズームで2万8千円程度であった。こうして開始したカメラのため、私用では使っていなかったし、使わないつもりでいた。
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ところがいくつかの謀略に遭(あ)った。それらは今回は省略する。ただ、もう一つの大きな理由を記しておこう。
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1990年~93年の精神の後退期(今考えると躁鬱病の症状)の時期を脱して、私が授業で目指したのは総合的なプレゼンテーションであった。講義、模造紙、プロジェクター、写真、プリント、音楽、映画…のフル活動にあった。
セサミストリートの影響を強く受けていたようである。
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そのときに、撮った写真をアナログビデオに落とし、それを短大のプロジェクターで活用することを思いついた。思いついたのは1994年頃と思う。後に、これらは1995年から97年にかけて岡山短大で活用した。OHPも使用したが、OHPよりもプロジェクターの方が迫力があった。
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ところが、それをするためには写真をビデオ化する器財が不可欠である。その器財の購入費を母にださせた。本来は授業活用が目的のため、岡山短大に出さすべきであったが、1989年に岡山短大による私財没収事件が起こり、もう岡山短大には一円も助成をもとめることは危険すぎた。(※資料1)
そこで、母に援助を求め、その時の条件が「村の写真を撮り、アルバム」にする。そして、その写真も先の器械でビデオ化するとした。(解像度は悪いが、実際に試行版を1996年か98年に作成し、村で見た人もいよう)。その後村のビデオ化をしないのは超多忙と、器財が岡山短大の授業目的で購入のため、筋をはずしたくはないこと、村でのトラブル、…後にはアナログが終了したことなどによる。同時に試行版とはいえ既にビデオテープを作成し、母に預け(1997年後半か1998年頃から2005年頃まで母に預けていたと思う)、関係者の大半は見ていると思われたことなどである。
私自身は、肖像権、プライバシー権問題などから活用することはできないため、私自身の欲望からでた発想では一切ない。
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村の写真のテーマは春夏秋冬、東西南北の山頂から見た村の姿、村の近隣12軒の三枚組写真などからなる。{1995年途中までは11軒であったため、当初は11軒で計画をしていた。また、入退院の繰り返し生活、大吐血の危険性がまだあったこと、精神の疲弊状態、岡山短大での大労基法違反被害、学生問題、(私個人と)村との付き合いが全くなかったことなどから、この家が村の組合(ブロック)メンバーであることを知ったのは更に数年後である。『恐るべき労基法違反』を読めば、誰でも当然と思うであろう。そうした情報を得られる精神状態ではなかった。
相当後に(とは言え、まだデジタルカメラ以前の段階であるが)}新規参入一軒撮影も追加をしたが、諸事情で相当遠方からの望遠撮影に限定している。
三枚組写真とは一枚が家の特徴、一枚が家全体、一枚がその家の花か、花を入れてその家を撮るかである。
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こうして、母との約束上、村の写真を撮りだした。ただし、このアルバムは1999年6月に完成しており、一部残っていた8月の村と超広角レンズ抜きには撮れない一軒の家、新規参入の家だけであった。(この三場面のみである。)当初は村に寄贈する予定でいたが諸事情で中止した経緯がある。ただし、アナログビデオ版は1998年頃から、母に長期預けていたため、見た人も多いと思う。
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この村の撮影に当たり、上記のため、花を撮らざるを得なくなっていた。
本来、花には興味がなかった。(だいいち花の名前などほとんど知らない。それが花に興味がない証拠である)。
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しかし、先の村の写真のテーマの関係でやむなく村の花を撮っただけである。
ただ、それでも、裏(後ろ)の小母さんの家の花は多すぎたようである。何故か当時は分からなかった。今も完全には分からない。
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母が意味ありげに何度も私に言った。
「おまえは他人の家の花の写真を撮るのが好きなのだな。同じ花が我が家の庭にあるのに」、と。
実際に、裏(後ろ)の小母さんのところで一番よく撮ったユリの花は我が家の至る所で咲いていた。カンナは叔母の家で先に撮ってもいた。
さらに、花は鳥取花回廊、岡山のバラ園、その他至る所に立派な花がある。しかも、1997年までは自家用車に乗っていたため簡単である。
写真サークルの関係で鳥取花回廊などに行く機会もあったし、後に一度は本当に行っている。ただ、私の器財をみれば分かるが、私は花ではなく風景全体をターゲットに器財を選んでいる。
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では、必要以上の花の写真を何故撮ったのであろうか。(1軒につき花は一つでよい)。この家はユリ、カンナ、ボタン?と撮っている。
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裏の小母さんに小さい頃から世話になったからだろうか。
変わった花があったからだろうか(ユリは我が家に山ほどあり、カンナは私の叔母の畑で撮っており…)、となると違う。
母が言っていた意味ありげな言葉「我が家に花があるのに何故、他人の家の花を撮るのか」から考えると、更に後の状況を考えると、催眠誘導だったのだろうか。
カメラ・レンズチェックだろうか。
同時に全体が終了するまで、個別の家には渡さないことを方針としていたのに、何故、この家だけを例外にしたのであろうか。(もっとも御礼お断りを何度も強調してお通夜の写真を別の家にも渡したことが一度だけある。しかし、お通夜・葬式類も線引き問題などから、それ以上に仕事と無関係ということから撮らない方針としている。)
私にも全く分からなかった。
今は徐々に分かりつつある。
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必要以上の部分は「我、思わぬのに、我あり」の可能性が一番高い。
(尚、1999年6月公約を果たした以降の撮影は、三場面を除き、すべて私の意思ではない。私は怒りながら撮らされただけである。文献作成用にカメラは商売道具として開始したのだから。)
以下、「我、思わぬのに、我あり」の参考箇所。
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日米首脳会談と報道ステーションでの私―『我、思わぬのに、我あり』の実態と被害
○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=20465
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(参考用2016年を含む)2017年夏から2018年4月23日まで、突如、催眠としか思えぬ形での怒りや言動等(政経編)
○http://hamatakachan.uh-oh.jp/?p=19857
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もう撮ってしまった以上、小母(おば)さんが喜んでくれればよかろう、となる。お礼などはもらう予定は当然ない。それどころか、1995年か96年頃には、この小母さんに、小母さんの家の庭で直にその趣旨(御礼類はお断りの趣旨)を伝えてもいた。
{アイスクリーム云々(うんぬん)は冗談である。アイスクリームの話は後でしよう。第一、小母さんの足は自転車であり、アイスクリーム云々を買える場所は事実上ないに等しい。アイスクリームの冗談は随所で書いたり、言ったりしている。ミスター・オバマが大統領になり、日本に来たときに、彼が強調したのは抹茶アイスクリームであった。そこからミスター・オバマとの縁が始まったかもしれない。}
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ところが、ところが…
(次回へ続く)
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(※資料・1)ビデオ没収事件
次にビデオ事件について、拙著『親方日の丸・第一部』第五章第三節より引用する。
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③ビデオ没収事件――権益確保か?
1989年秋頃、授業で使用するテキスト該当ビデオを没収される事件もおきた。1983年頃、私は交通費、宿泊費全て自腹でビデオ・カセット教材を東京・大阪・岡山と探し回り、適切なものがあれば自腹で購入していた。全て授業でのテキスト該当活用であり、補助プリントも作成し、学生に確実に還元していた。購入に当たっては購入代金・旅費・出張手当・賃金・宿泊費・調査費・食事代は1円も支給されていない。当然、所有権は私にある。そのときに、職員が「先生、《どうして自分のお金で買われるのですか、》授業で使う教材は学校で負担しますので言ってください」(若しくは「授業で使う教材は学校がお金を出しますので言ってください」)と申し出があったと思う。{【2015年追記】《 》内は昔を思い出して2015年に追記した。}
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そこで、私は次のように解釈した。岡短で通常の授業すら交通費も出ず赤字労働のため、交通費・宿泊費・食費・調査費などは私持ち、ビデオ・カセットの購入代金のみは学校がうしろめたいため援助もかねて負担し、所有権は私にある、と。要するに、専任延期と、赤字労働のための援助と考えた。実際に、1984年頃に図書職員N氏(正規職員か非正規職員かは不明)から、これらとは別の図書の本を長く借りているため返還請求を厳しく求められたときに、これらのビデオ・カセット類の確認をすると、これらは学校図書の所有物ではないとの明言があった。
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{【2015年追記】ビデオなどもNさんに渡したら、「これは岡短図書の所有物ではありません。先生と事務で話がついているのではないですか。」ともかく、引取りを拒否され、私に返還された。これに関する件は『恐るべき労基法違反』などに記載している。後に、これらも没収され、今も、大学の図書館にある。}《2015年追記終了》
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そこで、以降もそう考えて行動していた。そして、購入の都度、学校に領収書を渡し、商品の代金のみを受け取っていた。(ただし、交通費・宿代・調査費は自腹、同時に購入の際の日当も手当も無支給であった。)こうして、常時、私が所有していても1983年から一度も返還請求されていないどころか職員はただの一度も何も言わなかった。ところが、1988年の単位認定権剥(はく)奪(だつ)事件から急変し、1989年秋頃に急に疑わしきものは全部返還しろと言われ、没収された。
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因(ちな)みに、1983年に学校側が、「授業で必要なビデオ教材類は学校が支払うので言ってほしい」と言ってこなければ、視聴覚教材に対応するプリント類をつくっている関係もあり、所有権は私でなければ困るため学校には1円も請求していなかった。丁(ちょう)度(ど)、「どこでもよいので印鑑を押しておいてほしい」と言われていた頃なので、最近疑っているのは、学校側が、予算が余りそれを何としてでも消化したいので、私に目をつけたのではないかという疑惑である。予算が余れば次年度から予算を削られる。されど、余った額を全部飲み食いに回すだけの度胸はない。そこで、私に目をつけ……となったのではあるまいか。
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明白に学校の費用で購入した視聴覚教材類は、勤務15年合計で約3万5千円(1年平均2千円台、但(ただ)し1989年度は後期から英会話が初めて導入されるため購入が集中した時期であった)でしかない。どちらか不明なものが別に約4万円ある。そこで、「短大側に返還請求リスト作成」を要求したが応じてもらえなかった。要するに短大所有物としての記録が一切なかったと推定される。これらの領収書かレシートのどちらかを短大に全部渡しており、そして自分の所有物と考えていたため、私の方はリストは作成していない。だが、単位認定権問題で首脅しをされていた関係で、疑わしきものは全部学校へ渡さざるを得なくなった。依(よ)って、全て私の自腹で購入した可能性のある商品も学校の図書館に今もある。なお、これらを購入するための交通費・宿泊費・飲食費は商品の数倍以上であるが、全て自腹である。しかし、精算は一切されなかった。一部ダビング版を学校から渡されたが、すぐノイズが入り使用不可能となったものが大半であった。短大費用負担約30%、私費用負担約70%でも、全部没収され短大の私物とされたことだけが事実である。
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通常の常識は以下のはずである。
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〈a〉交通費・宿代・調査費は私持ち、該当の売値だけ短大持ち教材の所有権はどちらにあるかについての取扱いは、会社・学校ごとにマチマチである。唯一の社会通念は、双方の合意の下で、事前に取扱規則をつくることである。そうした契約がない場合は、購入に際して交通費その他の費用が自腹のため、会社・学校側が事前に取扱・所有権問題の通告をその都度する義務があった。学校の方針が変更された場合には事前にそれを通告しなければならない。
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〈b〉ME課長の設けた方針の適用は通達してきた1989年秋以降とすべきであり、過去の私の費用分の精算が行われていない以上、1983年からと遡(そ)及(きゅう)してはならない。
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〈c〉学校の図書におくならば、今からでも、当時の購入にかかった交通費・宿代・賃金・出張手当を私に支払うか、私から没収したビデオ類を(図書に長くおいているため当然)中古価格で格安で全て私に売り精算をするか、である。但(ただ)し、どちらが支払ったか不明な物などは私に無料で引渡しの義務がある。援助的言動若しくは事実上そう解釈される言動を、1983年頃に職員の誰か一人でもしていたことが明白になった場合も、すべて私に無料で返還する義務がある。
この件は、他の被害に比べて余りに些(さ)細(さい)な問題であるが、裏金や余った予算を無理矢理消化しようとする行為が絡(から)んでいた場合(=権益確保)には、正直者・お人(ひと)好(よ)しが大損をする見本として記しただけである。予算が余ったとき(岡短創設時を含む数年の間)に、余った予算をどぶに捨てる訳にはいかないので、私を利用したと疑っている。
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これ以降は、百%短大専用使用のものですらビデオどころか器財数種、それどころか短大用消耗品まで、私に費用を転(てん)嫁(か)させられる契機となった事件である。例えば、英語のビデオに英文字幕を出す器械(Television2=約5万円前後か。授業使用率百%)を名古屋から岡短に送付してもらい、授業で使用することを明確に認識させた上で、全て私の自腹で購入(1990年代前半)した。次に1994年度頃は富士フイルムのFotovision FV10(短大の後期授業テキスト『旅に心を求めて』の補助教材用に私の写真をビデオに落とし、それを短大のプロジェクターで授業活用する器財で売値5万円前後)も購入し、授業でフルに活用し、短大辞職後は一度も使用していないが、お金は母からの借金である。勿論、この事件以降は、岡短授業用視聴覚教材類は全て私の金で購入となる。
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さらに、器財類ならば兎(と)も角(かく)、学校使用率百%の消耗品(黒板にはるマグネットも、当時高価だった1枚2百円のOHP用紙何十枚)もすべて私の全額負担にさせられた。しかも職員FがOHP用紙は学校が支払おうかと言い、私がその気になりかけると、彼が故意にミスをやり、私と軽い言い争いをすることにより請求不可能とされ、全て自腹とされた。それらは偶然の頻(ひん)度(ど)を超えていた。学生配布用ファイルも彼のミスで自腹を切らされたくらいである。これらを総合して計画的な犯罪にすら思える。岡短宛に来た病気学生及びその父兄への返答用の通信費の一部すら自腹であったと思うが(賃金類は百%1円も出ていない)。
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以上、浜田隆政著『親方日の丸・第一部』、KINDLE版、二〇一五年、第五章第三節より引用終了。(Kindle、Kobo版各百円)。
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また『恐るべき労基法違反』(無料でPDF配布中)
第二章二節《◇-2:岡短によるビデオ没収事件》を参照。
PDFは下記からダウンロードできます。
http://h-takamasa.com/rensai/custom.html
この中から第四回配本が該当します。
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