徒然なるままに№2・全解連初代委員長・岡映氏との出会い(1)

  岡映(あきら)氏は分裂前の部落解放同盟副委員長であり、分裂後の全国部落解放運動連合会初代中央執行委員長である。

部落解放運動には幾つものタイプがあるが、岡さんが目指していたのは、アメリカの公民権運動・キング牧師型に限りなく近いタイプであった。
岡さんとの出会いについては今回と次回掲載する。ただし、数度しかお会いしていないため、岡さんのいきつけの食堂のママさんなどから、岡さんの話を聞いた後で、更に続編をだすかもしれない。
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まず、岡さんに関しての印象などを記す。簡単に言えば、ガンジー、キング牧師型非暴力・不服従型タイプの人である。地元では有名人にも拘(かか)わらず、大変腰が低い方であった。また、私が見ていた範囲では、知名度が高いにもかかわらず、生涯余りお金には縁のない人に見受けられた。偶然、食堂で食べている食事や移動時を見たときの印象である。なお、ガラス張りの公平な行政を主張されていたと聞いている。今回は、岡さんの紹介と出会いを「岡映氏との出会い(1)」と「岡映氏との出会い(2)」{徒然なるままに№2と№3}で記す。
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さらなる詳細は、私の書くべき原稿の大半が終了した時点で、「岡映氏との出会い(3)」以降を掲載することにする。これらは、多分、来年以降になると思われる。
私の立場も明確にしておく。生涯に亘(わた)り、非暴力派である。また行政に関しては、公正・公平な行政、ガラス張り行政を主張しつづけている。さらに、三十年以上党派中立・宗派中立の立場である。何度も記した、この点を最初に明白にしておく。
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(一)私の学生時代
私は、既に、何度か書いたように、格闘技に狂い、高校も柔道部に入部した格闘技派の人間であった。もし、徒然(つれづれ)なるままに№1で記したように、柔道部をやめていなかったならば、後には体育系型の人間となっていたであろう。
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ただし、それでも正義感は強かった。それと、私の中学校時代(1965年~68年)は差別が世界で荒れ狂っていた時代であった。
小中学校の頃、友達と「もし、アメリカに行ったならば、日本人はホワイト・オンリーと書かれたトイレに行くのか、それともそのトイレには行ったらいけないのか」などの会話をしていた。
アメリカや南アフリカ共和国どころか、オーストラリアですら人種差別がまかり通っていた。ただし、オーストラリアでは日本人は名誉白人としてもらえたそうである。(オーストラリアでは1975年に「人種差別禁止法」が制定される)。
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どのくらい時代が違うかを分かってもらうために、差別ではないが物価を書いておく。
私が中学校に入った頃(1965年)の私立大学の年間授業料の平均値5万2千(国公立1万2千円)、高校入学時の頃(1968年)が7万4千円(1万2千円)、大学入学時の頃(1972年)が9万円(3万6千円)であった。私は私立・関西学院大学に行ったが、確か授業料は年間8万円台であり、半分にまけてもらい、年間4万円となったことを覚えている。
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ついでに大卒初任給(円表示とドル換算)の数値を書いておこう。1965年2万3千円(63ドル、月給ですよ。ステーキ一人前程度)。1968年が29100円(80ドル)、1972年が49900円(162ドル)、2008年が19万8千円(1865ドル)である。昔、経済成長した理由は書かなくても分かるであろう。
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(二)民主主義教育との出会い
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よって格闘技派の人間ですら、こうした差別の問題に関心を持たざるを得なかった。こうして高校に入る。徒然なるままにシリーズ№1で記したU先生がいた高校である。この高校では民主主義教育の大変盛んな学校であった。そして、私も知らぬ間にその運動に参加していた。
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岡山県各地の高校に出向き、民主主義運動の支援に行ったり、全国集会に泊まりがけで参加したり、と高校時代は多忙な日々となっていた。全国各地で、在日コリアンの高校生、黒人と日本人とのハーフの高校生……多くの仲間と夜を徹して話をした。こうした多くの仲間とともに、民主主義促進活動をしていた。
私がコリアン(Korean)に好意的感情を持つのも、アメリカでアフリカン・アメリカンを含むマイナリティに好意的な感情を持つのも、沖縄県民を支援したいと常に考えているのも、高校時代のこうした友、仲間との語らいの関係である
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この頃はジムクロウズ・ロウによる差別ばかりではなく、キング牧師の例をだすまでもなく、暗殺も頻繁に行われていた。KKKも存在していた。しかしながら、いつの日か、民主主義はより成熟するとは思っていた。なお、ジョンソン大統領が公民権確立関係法案のときに「We shall overcome」と言ったとき、キング牧師の目から涙がこぼれていた。
遠い将来、アメリカでも、アフリカン・アメリカン系の大統領が登場するかもしれないはあり得ても現実問題としては当時は考えられなかった。
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余談ではあるが、今回の原稿(=「岡映氏との出会い」)の構想段階で、私も今、六三才となった。もう、いつ死亡してもおかしくない年代に入った。過去、特に一九六〇年代を振り返ったとき、私が生きている内にアフリカン・アメリカン系の大統領が登場するとは、一九六〇年、七〇年当時は思ってもいなかった。感無量である。もっともまだアメリカには黒人差別が残っている。ボボ・ブラジルというプロレスラーは黒人差別のないブラジルに憧れて、ボボ・ブラジルとしたように」と独り言を言ったすると、不可思議な状態に巻き込まれた可能性が高い。
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それが政経の世界№2~政経の世界№5で丸山和也氏問題を書かされた理由である。この件に関する詳細は次回の政経の世界№5で記す。また、ここで簡単に橋下徹氏の「従軍慰安婦」発言で私が抗議した理由も書けるならば書きたい。
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本題に戻す。
この頃、岡山県部落解放運動でカリスマ的人物なる人として、岡映なる人がいた。こうした集会のときによく講演をされていた。何度も聞いた。大変、腰の低い人であった。体は大きいが、にっこり笑い、誰にでも丁寧(ていねい)にお辞儀をされるような人であった。
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しかし、これは知り合いでも出会いでもない。たとえば、加山雄三氏のコンサートに行き、加山雄三氏を見ても、それは知り合いとなったとは言わない。これと同様の関係にあった。私の高校時代の恩師U先生は岡映氏と知り合いのようであったが、私は紹介してもらったことはない。岡映氏と知り合いになったのは、党派中立の道を歩み始めた頃からである。そのときの出会いと岡映氏との思い出を記す前に岡映氏の紹介をする。
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(三)岡映氏について。
岡映氏について、まず、解説をしておく。岡さんの知名度ほど極端な物はないからである。岡山県の教育関係者ならば、「そんな大物と知り合いなのか」と言う。他方、東京などでは「岡さんって誰」と聞かれる。私の大学時代の恩師も、私が岡さんの名前をだしたときに、「岡さんとは誰ですか」と質問されたくらいである。
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ウィキペデイアなどを参考にしてまとめれば以下となる。
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「岡 映(おか あきら 1912年7月10日 – 2006年4月13日)は岡山県出身の部落解放運動家……一九一二年七月一〇日生誕。主な経歴は、分裂前の部落解放同盟中央本部副委員長、七〇年の分裂後は部落解放同盟正常化全国連絡会議議長、改組後は全国部落解放運動連合会初代中央執行委員長(政党支持の自由が原則、ただし週刊誌などには共産党系と記載されていた組織。二〇〇四年以降全国地域人権運動総連合に改組)、戦後初代共産党岡山県委員長、七二年に共産党候補として岡山一区から総選挙に出馬。〇六年四月一三日逝去(九三歳)。」
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ここでは二つの解釈が可能である。
私がウィキペデイアに掲載される大物と知り合いなのかという解釈と、私が何度か岡さんの名前をだしたのでウィキペデイアに掲載されだしたという解釈とである。実際、2000年頃はウィキペデイアに岡映なる名前は一切なかった。
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次に部落解放運動の歴史に残る著名人の名前を生誕の順番に一部掲載する。
①松本 治一郎(まつもと じいちろう、1887年6月18日 – 1966年11月22日。部落解放の父と呼ばれる)氏
②阪本 清一郎(さかもと せいいちろう、1892年1月1日-1987年2月19日)氏
③上田 音市(うえだ おといち 1897年2月25日 – 1999年1月21日。三重県出身の全国水平社創立の中心メンバーの1人)氏
④朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年5月25日戸籍上は7月4日 – 1983年4月29日。京都府出身の部落解放運動家、経営者)氏。
⑤木村 京太郎(きむら きょうたろう、1902年6月19日-1988年6月11日)氏
⑥北原 泰作(きたはら たいさく、1906年1月1日 – 1981年1月3日。岐阜県出身の部落解放運動家)氏。
⑦岡 映(おか あきら 1912年7月10日 – 2006年4月13日。岡山県出身の部落解放運動家、歴史家)氏。
⑧上杉 佐一郎(うえすぎ さいちろう、1919年4月16日 – 1996年5月10日。福岡県出身の部落解放運動家)氏。
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1920年以降は省略。
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なお、1965年頃までは部落解放同盟は一つであった。①の松本治一郎氏の時代である。その後、部落解放同盟の委員長は④朝田善之助氏の時代となり、その頃の副委員長が⑦岡映氏であった。しかし、内部対立が激化し、1969年には事実上の分裂に至る。そこで、私が民主主義運動に参加した年(1968年)はまだ分裂していなかった頃となる。
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分裂後、部落解放同盟の中心人物は④朝田善之助氏から松井久吉氏を経由して⑧上杉氏へと引き継がれていく。これに対して部落解放同盟正常化連(後の全解放連、今の地域連)の指導者が⑦岡映氏であった。②阪本氏、③上田氏、⑤木村氏、⑥北原氏は中間グループであったが、⑦の岡氏などと共同行動することが多かった。
この対立は政党にも反映し、社会党が解放同盟中央本部を、共産党が全解連を支持していたようである。
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岡さんに関しては、いつか、まとまった原稿を記載する予定でいる。ただし、今回も岡さんと私の出会いと、岡さんの思い出の少しだけを簡単に記述する。
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(四)岡映氏と私との出会い
私は、女子校非常勤講師時代の一九八一年頃、生徒への教育方針などを模索し、様々な人の意見や教育論を聞いて回っていた。林竹二の本を買い漁(あさ)ったのもこの頃である。この頃は高校時代の先輩であるM高校教師、真備高校KH教師(後に改称したOG高校元校長)の家などにもお伺いし、生徒に対してどのように対応したら良いかなどを相談しまくっていた。とにかく、授業をする上で、生徒への対応の仕方のヒントが欲しかった時期である。
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その頃、私の岡山市高柳のアパートの近くに某店があり、私はその店を行きつけの食堂としていた。その店でよく高校での授業で行き詰まったり、生徒に授業を聞かせるにはどうしたらよいかと相談したり、愚痴(ぐち)を言っていた
すると、店のママさんが、「先生、わたしゃ、いい人知っているよ。紹介したげるわ。この先生は、教育問題にも詳しいし、そうした生徒指導のことも随分聞かれているから、話をしたら参考になるわよ。一度会ってみられ」ときた。
そこで、ママさんの言葉に従い、その人物と会うことになった。それが、なんと岡映氏であった
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私が行きつけの食堂に、岡さんがよく来られており、この店のママさんは岡さんと懇意(こんい)だったのである。私は紹介されるまで全く知らなかった。逆にママさんも、私が高校時代に部落研活動や民主主義活動をしていることは全く知らなかった。それどころか、今ですら知らない可能性がある。少なくとも、最後にあった1998年頃までは知らないはずである。
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ようするに、ママさんは店の常連二人を引き合わせただけなのである。
具体的には、ママさんから「岡先生は仕事柄高校や中学の教師とよく話をされており、そうした教師達の悩みや指導方法もよく聞かれているため、岡先生と浜田先生とで教育問題について一度いろいろと話をしてみられたら」と提案され、政治問題とか部落問題の件ではなく、授業中よくやりあっていた生徒への対応のヒントを得るために、藁(わら)にもすがるつもりでお会いした。当然、この店のママさんも御主人も子供さんも誰も、私が高校時代に部落研活動をしていたことなどを、全く知らなかったはずである。多分、今(2016年)でも。

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こうして、岡映氏と有意義な雑談類をしながら和気藹々(わきあいあい)と長時間会食をした。その返礼で民主会館に呼ばれ、著書を贈呈していただいた。こうして、岡山市庭瀬に移動する一九八三年頃までは、この食堂でたまたまお会いしたときには食事を御一緒させて頂いていた。
ママさんが、「岡先生が先日こられて、浜田君は元気にしているか」と言われていたということを何度か聞いたがある。
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以下、次回(徒然なるがままに№3・「岡映氏のとの出会い(2)」に続く。)

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