私が今月の歌・12月の歌でドイツの歌を取り上げるに当たり、早大大学院時代のドイツ語政治学購読の話をしようと、当時の担当であった清水先生の消息を調べますと、昨年お亡くなりになっていたことが分かりました。そこで、おそまきながら、追悼文を書かせていただきます。
関西学院大学から、教育委員会の仕事を一年した後で、大学院浪人を一年して早大大学院に進学しました。外様の上に、東京には親戚は皆無、知人も一名程度しかいませんでした。東京砂漠の状態でした。更に大学院時代は早大のキャンパスでは政治学研究科(1号館)と図書館だけを通う人間でした。大学院修了後の一年も含めて、早大のキャンパスの中では、四年そうした生活をしていました。
こうした東京大砂漠の中で、清水先生の授業は小さなオアシスでした。授業といっても、大学院ではほぼすべての授業が十人前後で学部生のゼミよりも少なかったです。ドイツ語政治学購読の授業などは生きた心地がしなかったのですが、清水先生のお顔を拝見すると何故か心が落ち着きました。先生の授業は政治学読書購読と比較法学の二つを受講させていただきました。授業と言っても、先ほど述べたように、学部のゼミの半分以下であり、ゼミ二つを受けたのに等しい状況でした。
先生を待ち伏せして、「ドイツ語が全くできませんので、半年ほど当てないでいただけないでしょうか」と申し出たときに、先生が優しく承諾していただいたときの笑顔はいまだ忘れていません。
また、授業中に「浜田君、先日、学会で関西学院大学に行ってきました。随分奇麗な大学ですね」と声をかけてくださったことを今でも覚えています。
あるいは、ドイツ語政治学購読の試験に行きますと、受付も試験監督も最初から最後までいなかったことは今でも鮮明に覚えています。試験問題が入り口にあり、それをとって、がら空(あ)きの教室の中の適当な所に座り、答案を書いて机において帰るだけでした。監督者は退出するまで誰も来られませんでした。こうした学生・学問を信頼する先生に対して好感を持ちました。
そして、いつも笑顔を絶やさなかった先生のお顔は今でもよく覚えています。
先生の思い出は拙著「12月の歌・Tannenbaum」の箇所に記させていただきました。更に、後日、徒然なるがままにシリーズで早大大学院時代のことを触れる予定でいます。
謹んで先生の御冥福をお祈りします。
(1977年)当時の不肖学生・浜田隆政
※注1)「清水 望(しみず のぞむ、1924年(大正13年)11月15日 – )は、日本の法学者、早稲田大学名誉教授。
内村鑑三の弟子・清水繁三郎の子として長崎県長崎市に生まれる。1948年早大政経学部政治学科卒、助手、講師、助教授、1960年教授。1970年「西ドイツの政治機構」で早大政治学博士。1995年定年退任、名誉教授。」(ウィキペディアより引用)
※注2)「憲法学者の清水望さんが、《1994年》12月3日(水)主に召された。90歳だった。ご家族を中心にした告別式が12月6日(土)にあった。わたしはご遺族からその司式をたのまれた。……」(shirasagikaraの日記http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20141215 より引用。《 》は浜田が挿入。)
※注3)早大大学院時代の恩師・内田満先生、藤原保信先生が逝去されたときも本来ならば追悼文を書くはずでしたが、その頃はホームページを立ち上げていなかった関係で書けませんでした。内田先生は2007年1月26日逝去、藤原先生は1994年6月5日逝去。内田先生は大学院時代のゼミの担任、藤原先生は大学時代の恩師・後藤峯雄先生のシカゴ大学大学院時代の友人という関係でした。後藤先生から「早大に行き、困ったことがあれば藤原先生を訪ねなさい」とアドバイスをされていました。藤原先生も授業中に「浜田君、関学出身ならば後藤峯雄先生を知っていますか」と聞かれたことがありました。
ただ、逝去の時期から考えて、今更、追悼文を記すことはできません。
そこで、後日、早大大学院時代の思い出として、(多分)「徒然なるがままに」シリーズで紹介させていただきたいと思います。
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