Facebook書込No.14-013.『ロンドンオリンピック女子柔道での、私の言動の言い訳』(2014/04/14修正)
(一)本題。
ロンドンオリンピックは(ハンマー投げと女子レスリング以外は)見ないこととしていた。こうしたときに、よく挑発をされ、私が激しい言動をさせられ、その結果、責任上最後まで見ざるを得なくなることがよくある。ロンドンオリンピックでは、これは福原愛と柔道女子の福見友子であった。
福原愛に関しては、彼女らが決勝戦に出ることが決まった。その夜、寝ている間に、ある言葉をたたき込まれた。「福原愛の決勝進出が決まったときの喜びの涙は見た。では、今度は決勝戦で悔し涙を見て、うれし涙と悔し涙の違いを見よう」と朝のモーニングバードという番組内で言えという暗示である。(多分催眠であろう。)催眠をかけられた目的は卓球を最後まで見ることと、更にはオリンピックそのものへの国民的・世界的関心を高めることにあったのかもしれない。何故(なぜ)、催眠かは、私がTV・映画類の世界に無理矢理監禁されていたならば、そのときの脚本の台詞(せりふ)に該当するものをたたき込むためである)。
これと同様に女子柔道・福見友子の試合で、日頃思っていたこと(下記三の②④)を、相当な勢いで試合中に言わされた。その結果、卓球以上に、柔道、特に女子柔道は全試合を見る羽目となった。もとより、②と④を持論としている以上、格闘技好きの私は試合中に興奮して檄(げき)を飛ばすことはある。しかし、試合後も言ったならば、それは私のセオリー①に反しており、催眠型で言わされたのだと思う(催眠の事例とすれば、拙著Twitter 14-15-2と14-16-1~5番台参照)。
ともかく、女子柔道・福見の件では、私の言動で私自身が後味の悪い思いをした。しかし、北京オリンピックでは石井の執拗(しつよう)な挑発を受け、その結果、柔道を最後まで見ることになったため、TVを見ての興奮から言ったのか、催眠型かは不明である。福見の銅メダル争いのときに言った内容は、「気合いをいれてやれ。金メダルと無関係といっても、必死で最後までやるのが本道である。気落ちした柔道をしたならば、柔道自体がオリンピックから外されるぞ……」などである。
しかし、試合中ならば兎(と)も角、私が試合直後に言うことはない。理由は、一番落ち込んでいるのが選手本人だからである。次に、この福見選手はこの試合を最後に引退すると聞いていた。ならば、試合後に言っても意味がない。それ以上に、怪我(けが)をしている場合、それを見せることは対戦相手に失礼に当たるので、柔道では試合前も・試合後もばれぬ限り、言い訳は一切しない選手が相当いる。この福見の場合も同様であることを警戒して、試合後は何も言わないのであるが。
私は、オリンピックの順位には大きな価値をおいていない。また、日本選手以外でも、人格が優れ、スポーツマンシップに優れた選手を応援する。福見選手が試合後に、泣きながら「全力を尽くして一生懸命やった」と言った以上、本来の私ならば何も言うはずがない。言うとしても、福見選手と無関係な形で一般論として、下記(三)①~⑤を言ったであろう。
この福見の件が未だに気にかかっている次第である。因(ちな)みに、福見選手は、その後の他の選手の柔道の試合では、全て必死に応援をしており、その後の態度は、大変、立派であったことを付け加えておく。本人が必死に「全力を尽くして一生懸命やった」と言ったならば、順位が何位であれ、部外者の私が口を出してはならない、と思う。
★以上、本題終了★
(二)雑談。福原愛と石井の場合
ちなみに、先の卓球の福原愛の場合には完全催眠であった。いろいろな人からテレビを通じて、私に対して批判がなされたように感じた。だが、一言だけ言わして貰いたい。先の失言をした当日か翌日、福原愛がTVから、私の方を何とも言えぬ顔をして見た。私は即座に言った。「ごめんなさい。私がすべて悪うございました。申し訳ございませんでした」と何度も言った。平身低頭であった。映画・TV説ならばこの部分だけを放映されておらず、他の人が誤解をしたのであろう。おまけに、その後、卓球三人組により、相当、からかわれた。それらの内容は今回は省略する。それでも、他の番組で誰かが(確か水泳の田中元選手)、私に対して訝(いぶか)しがっているときに、私は言った。
「私は福原愛には毅然(きぜん)たる態度で言ってやった」。
「何を」。
「ごめんなさい。私が悪うございました、と毅然と言った」、と。
だが、その後も福原愛の挑発は続いた。そこで、全試合が終了した後で、私も売り言葉に買い言葉で、言ってはならぬことをまた言ってしまった。福原がオリンピック後にどこに行こうかと言っていたので、「金閣寺に行ったら」と言ってしまった。{また、「この間まで(福原愛の三歳頃からテレビで見ていたため)、ブヒー・ブヒーと言っていたのに」等々}。福原愛に関してはまたどこかで書くことがあるかもしれない。私とは本来仲が良いはずである。(多分、今でも仲が良いのです。)もっとも、福原愛は「面白くない人が好き」と言っていた。私はjokeを三日言わないと便秘になる性格である。更に、彼女が一六歳頃は反抗期で多少弱った。(勿論、joke!)。
なお、柔道の石井慧(北京オリンピック柔道男子100kg超級の金メダリスト)に関しては、彼の挑発の落とし前に、斉藤監督(当時)に「試合前に気合いをいれると選手は引き締まるよ」とそそのかした。すると、石井の試合直前に、もの陰でビシビシとビンタのような音が聞こえた。何の音かは不明である。ただし、この件があった北京オリンピックで、石井は金メダルをとった。なお、石井については、これ以上はノーコメントであり、彼は彼の道を歩み、私は私の道を歩むとだけ記しておく。
ただ、一般論(下記三の①)として、重要な試合前に、選手が意識朦朧(いしきもうろう)とか緊張しすぎているときに、何らかの活を入れると選手が我に返り、実力を発揮できるときがあることも事実である。これは体罰ではない。叱っているのではなく、正気に戻すための、医学的療法の類(たぐい)でしかない。勿論、尻を叩くとか、叩かずに言葉でも可能であろう。逆に試合直前にジョークを言っても効果があるかもしれない。選手の性格により方法は異なるであろう。もし、①をしていれば、北京オリンピックのときの杉本美香は間違いなく金メダルを取っていたであろう。(ただし、私は野球の桑田君同様に体罰には首をかしげることも多いことをつけくわえておく)
(三)付録。私が柔道界に関して、過去言った発言は、以下の通りである。
①オリンピックなどでは、選手を叱咤(しった)・鼓舞・活を入れる(逆にリラックスさせる)などの医学療法は試合後ではなく、試合前にすべきである。試合直後は、手抜き以外で負けたときは、選手本人が一番後悔しており、叱るべきではない。
②「金メダル以外はいらない」は、柔道の本質に非(あら)ず。最後まで全力を尽くすべきと考えている。この言葉は抽選で「くじ運が悪いなどと嘆くな」から来ていると解釈している。即ち、金メダルを狙っている以上、強豪とどこでぶつかっても関係ない、である。だが、これを勘違いし、昔は銅メダル争いなどでの手抜きが横行していた。
《金メダルを狙っている以上、一回戦で優勝候補だろうと苦手選手だろうと、誰と当たってもかまわない。よってくじ運などは無関係である。しかし、万一敗れても、敗者復活戦などでも最後まで全力を尽くす。そうでないと、相手にも失礼になるし、柔道の道にも反する、と私は思うのであるが》
③選手マナーの悪さが一時目立っていた。山下氏にE-mailを送付しようと思ったくらいのときもあった。しかし、ロンドンオリンピック時の選手は、そうした雰囲気がかなりなくなっていた。私などは、金メダルよりも、選手マナーの悪さの方が気分が悪い。コズモポリタンを唱道している以上、日本選手に限定せず、スポーツマンシップに長(た)けた選手を今後は応援する予定でいる。なお、柔道は「礼に始まり礼に終わる」と言われているが、昔の棟田選手の礼(お辞儀)は見事であった。因(ちな)みに、ロンドンオリンピックの女子・杉本選手も礼が良かった。だが、決勝のときだけ礼が良くなかった。すると負けた。これがオリンピックの魔物である。万一、彼女を決勝の前に、①型で、誰かが気合いを入れていたならば間違いなく金メダルであったであろう。勿論、そのときは、試合前の礼もすばらしい物であったであろう。
④柔道で幾ら勝っても、最後まで真剣に争っていないと、柔道そのものがオリンピックからなくなる。また、柔道全体のことを考えて試合しないならば同様のことになるであろう。勝ち負け以前の問題である。キックボクシングやプロボウリングを見るがよい。最近ではプロレスを。あるいは幾分、ボクシングもそうなりつつある。柔道も1968年のメキシコオリンピックでは五輪から外されていた。よって、②の意味を勘違いすると大変なことになるであろう。ソフトボウルの上野の一時の失望を思い出すがよい。
⑤また、オリンピック柔道では金メダル以外の銀メダル・銅メダルの場合には、非国民的扱いをする時期があったことも事実である。現在は徐々にそうでなくなりつつあるが。これはマスコミなどの責任であった。
⑥海外の柔道でセクハラなどが起こっていると聞いていた。そこで、日本柔道連盟は最低でも女性理事を二名以上おくことを昔から言い続けてきた。これは園田監督や内柴正人問題以前から言っていたことである。(内柴君については、私は未だに、信じ難(にく)い思いである。実際には、何もなく、TVか映画の世界での作り話と思うことさえある。事件が事実ならば被害者の方へ、このコメントを訂正し、お詫びを致します。)
※今回は、私の言い訳である。言い訳の文章は大変見苦しい。しかし、映画かTVの主役の如(ごと)き役回りをさせられている以上、面白くさせるため、寝ている間に本当に催眠をかけられた疑惑は何度もあり、その催眠によって喋(しゃべ)った言葉を私の責任にされるのでは堪(たま)ったものではない。